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  • 中世封建社会

    中世西欧社会には「戦う人々(【騎士】)」と「祈る人々(【聖職者】)」と「働く人々(【農奴】)」とがいました。戦う人々を「【騎士】」といいます。騎士は広い領地を持っている「【領主】」でもあります。彼らは自分の領地を守るために、より強い者と主従関係を結びました。自分の領地を守ってもらうために主従関係を結び、その代わりに主人の命令に従って軍役の義務を負う。この関係を「【レーン制】(封建制)」と呼びます。レーン制は日本の封建制と似てはいますが、大きく違う面もあります。レーン制の場合、主従関係は「【双務的契約関係】」で結ばれています。これは主従の関係が「契約」で定められたものであり、その契約が「双務的」だ、ということです。双務的というのは、一方方向ではないことを意味します。つまり、主人は家来が義務を果たさなければ(...中世封建社会

  • 耕す人々と領主との関係

    中世の人間関係は、土地を媒介にしたものである、と説明しました。今回は「中世」の前近代性についてです。土地を媒介とした人間関係とは、自分が「所有」もしくは「保有」している土地を、「守ってもらう人」とその土地を「守ってあげる人」との人間関係をさします。西欧においては、土地の所有者は「地主(世界史では領主)」ですから、自分がその土地を耕すわけではなく、農奴と呼ばれる農民を働かせるわけです。そのころは農業以外に産業はないですから、土地を所有できなかった人々(農奴)は、領主から土地を借りて生活しなければなりません。さて、ここで問題なのは、有効な農地はごく限られていた、という点です。非常に貧しい土木工作器具しかなかったはずです。森や沼といった自然の前に、西欧の人々は大変無力でした。おそらくこの辺が日本の中世と違ってい...耕す人々と領主との関係

  • 中世社会の人間関係

    土地を媒介にした人間関係が成立した時代を「中世」と呼びます。これは日本で言えば鎌倉時代の「一所懸命」の主従関係が該当しますし、イスラム世界では「イクター制」の成立(10世紀ころイラクで)をもって中世といいます。また、多くの地域でこれら土地を媒介にした人間関係を成立させる基礎になる「精神」が存在しているといえます。西洋では「キリスト教倫理観」が社会を支配します。西アジアでは9世紀ころに完成した「イスラム倫理観」です。日本の場合「武士道」と言いたいところですが、「武士道」は江戸時代の中期以降でしょうか。「いざ鎌倉」という倫理観。まさに命がけで土地を守る為に、もしくは土地を新しく手に入れるために戦う。これが坂東武士たちの「一所懸命」の精神です。一方、このような意味における中世は、中国ではあまり顕著ではありません...中世社会の人間関係

  • 中世社会の農奴の義務

    中世社会は領主と農奴に大きく分けられます。領主のうち軍事関係者が諸侯・騎士で、教会関係者が大司教・司教です。また、当然のことですが、領主とは領地を持っている人のことを指します。その領地の中には荘園が点在しているわけです。そしてその荘園には農奴たちが住んでいて、領主から農地を借りる(この農地を「農民保有地」という)代わりに、自分が作った農作物の一部を領主に支払ったり(これを「貢納」という)、荘園内にある教会にも取れた農作物の10%を支払う(これを「10分の1税」という)義務を負っていました。しかし農奴の義務はそれだけではありません。領主が農奴に貸し出さなかった農地(これを「領主直営地」という)を耕すという義務(これを「労働地代」という)までも背負わされていました。  中世社会の農奴の義務

  • 中世社会の特徴 その2

    土地を媒介とした人間関係とは、自分が「所有」もしくは「保有」している土地を、「守ってもらう人」とその土地を「守ってあげる人」との人間関係をさします。西欧においては、土地の所有者は「地主(世界史では領主)」ですから、自分がその土地を耕すわけではなく、農奴と呼ばれる農民を働かせるわけです。そのころは農業以外に産業はないですから、土地を所有できなかった人々(農奴)は、領主から土地を借りて生活しなければなりません。さて、ここで問題なのは、有効な農地はごく限られていた、という点です。非常に貧しい土木工作器具しかなかったはずです。森や沼といった自然の前に、西欧の人々は大変無力でした。おそらくこの辺が日本の中世と違っていた点でしょう。ごく限られた農地を「所有」することに成功した「領主」が人口に占める割合は、5%~8%程...中世社会の特徴その2

  • 中世社会の特徴

    土地を媒介にした人間関係が成立した時代を「中世」と呼びます。これは日本で言えば鎌倉時代の「一所懸命」の主従関係が該当しますし、イスラム世界では「イクター制」の成立(10世紀ころイラクで)をもって中世といいます。また、多くの地域でこれら土地を媒介にした人間関係を成立させる基礎になる「精神」が存在しているといえます。西洋では「キリスト教倫理観」が社会を支配します。西アジアでは9世紀ころに完成した「イスラム倫理観」です。日本の場合「武士道」と言いたいところですが、「武士道」は江戸時代の中期以降でしょうか。「いざ鎌倉」という倫理観。まさに命がけで土地を守る為に、もしくは土地を新しく手に入れるために戦う。これが坂東武士たちの「一所懸命」の精神です。一方、このような意味における中世は、中国ではあまり顕著ではありません...中世社会の特徴

  • 中世の特徴

    土地を媒介にした人間関係が成立した時代を「中世」と呼びます。これは日本で言えば鎌倉時代の「一所懸命」の主従関係が該当しますし、イスラム世界では「イクター制」の成立(10世紀ころイラクで)をもって中世といいます。また、多くの地域でこれら土地を媒介にした人間関係を成立させる基礎になる「精神」が存在しているといえます。西洋では「キリスト教倫理観」が社会を支配します。西アジアでは9世紀ころに完成した「イスラム倫理観」です。日本の場合「武士道」と言いたいところですが、「武士道」は江戸時代の中期以降でしょうか。「いざ鎌倉」という倫理観。まさに命がけで土地を守る為に、もしくは土地を新しく手に入れるために戦う。これが坂東武士たちの「一所懸命」の精神です。一方、このような意味における中世は、中国ではあまり顕著ではありません...中世の特徴

  • ピューリタン革命の原因

    【テューダ】朝【エリザベス1世】は、国内の【毛織物工業】を保護・育成しました。しかし、【1588】年の【アルマダの海戦】で、【スペイン】の無敵艦隊に勝利すると、【香辛料】を扱うアジア貿易に参入するチャンスが生まれたため、【1600】年に【東インド会社】を設立し、アジア貿易への参入を図りました。一方、うまくいかなかったものの、【1584~85】年に【北米】大陸への進出も行っています。この計画は中南米をスペインに支配されている当時、北米に植民地を建設するというものです。【ウォーター=ローリー】がエリザベスが結婚をしていなかったことから、この植民地を【ヴァージニア】植民地をしています。しかし、北米大陸の植民地建設は軌道に乗らず、アジア貿易は端緒についたばかりの状態で、エリザベス1世は結婚をせずに亡くなったため、...ピューリタン革命の原因

  • ロックの思想

    ジョン・ロックは,イギリスの政治思想家【ホッブズ】の社会契約説を批判的に継承し,政治社会の成立を【自然状態】から説きおこした。ロックによれば,自然状態において人間はすべて独立・平等で,生命・自由・財産にかんする一定の権利を賦与され,労働や貨幣を通してさらなる財産の形成をするという。そこでは人々の間の紛争を解決する機関も権力も欠けているから,人々は人権を内外の侵略者から守るために,各人が自然状態で保有していた権利の一部を政治社会に譲渡して共通の政治権力を形成することになる。しかしながらこの政治権力はもっぱら生命・自由・財産にかんする権利を擁護するためのものであるから,政府が信託目的に反してこれを侵害する場合には【抵抗権】が認められ,新たな政府を創ることができるという。この抵抗権はアメリカ独立革命の独立宣言や...ロックの思想

  • 独立派 クロムウェルの軍隊と党派

    ピューリタン革命の争点は、【国王大権】を認めるか(王党派)、認めずに議会主義を政治の基本に据えるか(議会派)という点でした。したがって特権階級が王党派と議会派に分裂し内戦になったといえます。ただし、王党派と戦う人々には、国王【ジェームズ1世】や【チャールズ1世】に弾圧されていた【ピューリタン】も多くいました。彼らを【クロムウェル】が軍隊に組織して、【鉄騎隊】を創設し、王党派の軍隊に勝利していきます。鉄騎隊が強かった理由は、【実力主義】を取ったためで、家柄や身分が低くても、戦いで活躍すれば出世できる仕組みになっていたからでした。議会派の軍隊組織は鉄騎隊をもとに改編され、【ニュー・モデル軍】となりました。そこにはピューリタンだけでなく国教徒の特権階級の人々も加わっています。【1645】年【ネイズビーの戦い】で...独立派クロムウェルの軍隊と党派

  • 長老派について少し詳しく

    独立派のうち立憲君主制を志向した人々を長老派と呼びます。しかし、ピューリタン革命は党派がきれいにわかれていません。つまり特権階級でも大商人は議会派で、貴族は王党派であるといったようにはいかない。どちらかというとロンドン商人は議会派が多かったと考えられています。さて長老派は特権階級に近いもしくは特権階級に属していた人々です。彼らはジェームズ1世が新しい特権を乱発したり、関税を新しく設けたことに反発した人々です。さらに国王が無理な遠征をして財政をさらに悪化させることに腹立たしく思い、国王が勝手に政治をするという状況を改めて、議会が国王の政治を制限することを目指していました。しかし特権階級に近い長老派のおおくは国教会に属していました。政治的に反国王を標榜して国王による特権の濫発や戦争のための課税に反発していたの...長老派について少し詳しく

  • 第2次英仏百年戦争

    【ハンザ同盟】は【ロンドン】に四大商館のひとつを置いたが,当時のイギリスはヨーロッパの辺境でしかなかった。海外進出の面でもポルトガルとスペインに遅れをとったイギリスだが,16世紀初めの【ヘンリ8世】治世下に,ローマ=カトリック教会と絶縁し中央集権化がすすみ絶対主義が生まれた。この国家は国内統治を固めるかたわら,輸出産業の保護育成に力を注ぎ,植民地獲得にむけて積極的な海外進出を企てた。絶対主義国イギリスの海外進出は【エリザベス1世】の治世にひとつの頂点に達した。エリザベス1世は西インド貿易をスペインから奪取するために,【カリブ海域】で頻発した【私掠(海賊)】行為すらも援護したといわれる。またアジアとの貿易のために【1600】年には【東インド会社】を設立した。イギリスの重商主義政策は【ピューリタン革命】後も踏...第2次英仏百年戦争

  • 名誉革命でオランダの資本がイングランド経済を支えていくことになった

    名誉革命には興味深い点が考えられます。コメントにあった卒業生の大学の授業で扱っているように「経済面」について考えたいと思います。名誉革命の本質は、オランダ総督のウェレム(ウィリアム)がイングランドを征服したという点にあります。すなわち、ジェームズ2世を議会勢力が追放したというよりも、オランダから軍隊を率いて上陸したウェレムに対抗できずにジェームズ2世がフランスのルイ14世に助けを求めるためにフランスに亡命した、ということです。その結果は、オランダの商業のノウハウがイングランドに持ち込まれ、イングランドの経済発展に大きく貢献したことと、航海法以来対立を繰り返していたイギリス・オランダ間の関係が改善に向かい、イングランドが発行した国債の購入など、オランダの資本がイギリス(イングランド)の戦争遂行能力を支え続け...名誉革命でオランダの資本がイングランド経済を支えていくことになった

  • コルベール主義

    絶対王政は極端にいえば、農業からは税金を集めずに、大商人に外国と貿易をやらせて、その利益の一部を「特許料」という名目で納めさせることで、財政を運営する方法を取りました。これを、商業に重きをおいた経済政策なので、重商主義政策と言います。重商主義には大きく分けるとふた通りの方法があり、一つは、ポルトガルやスペインがやっていた重金主義、もう一つがイギリスやフランスがやっていた貿易差額主義です。重金主義は国内では毛織物生産を行わずに、中継貿易のみで利益を上げる方法です。一方、貿易差額主義は、国内で毛織物生産を行い、貿易全体を黒字にすれば良いという考え方です。毛織物生産を行うには羊毛の輸入や、穀物の輸入などが必要になるからでコルベール主義

  • 啓蒙専制君主

    【18】世紀にフランスやイギリスで啓蒙思想が盛んになった頃になって、ロシア・プロイセン・オーストリアではようやく絶対王政が成立しました。それは、イギリスでは17世紀のピューリタン革命や名誉革命で絶対王政は崩れ去っていましたし、フランスのブルボン朝では重商主義政策の失敗から国家財政が苦しくなり、絶対王政に先行きに不安が大きくなっていた頃です。【ロシア】・【プロイセン】・【オーストリア】では、そのような英仏の政治情勢を無視して絶対王政を築くことはできませんでした。新しい政治思想である【啓蒙思想】がすでにこの3国の人々にも知られていたからです。そこで、この3国の王たちは、啓蒙思想家が説くような世の中にするには、強力な指導力が必要なのだ!といいました。とくに【プロイセン】の【フリードリヒ2世】は自らを「【国家第1...啓蒙専制君主

  • アメリカ独立革命の前提として知っておきたいこと

    アメリカ独立革命は北米大陸に建設されたイギリスの13の植民地が本国議会に反旗を翻して独立を果たしたという事件です。まず前提として知っておきたいことは、13の植民地は全く別々の目的で別々の時期に建設されたということ。そして2点目は、そこに住んでいる人々は、自分たちのことを「イギリス人」だと思っていることです。したがって、彼らは本国と同じように自分たちの議会(植民地議会)をそれぞれの植民地ごとに持ちました。しかし、植民地ごとに全体をまとめるような議会は作りませんでした。この辺が中南米にできたスペインの植民地や北米にできたフランスの植民地との大きな違いです。例えばばスペイン植民地では、ペニンスラールという本国生まれの破棄人が役人などといった支配者として派遣され、現地で生まれた白人derるクリオーリョや混血のムラ...アメリカ独立革命の前提として知っておきたいこと

  • アメリカ独立宣言の重要事項とその限界

    アメリカ独立宣言の特徴は「幸福の追求」を権利として認めている点にあります。しかし、重要事項としては、以後の様々な宣言に大きな影響を与えている点をあげる必要があります。1、基本的人権を主張している点。この権利を神から与えられた自明(当然)の権利としています。基本的人権の中に「幸福の追求」をする権利も含めている点が特徴的です。この考え方は以後の様々な憲法に影響を与えました。2、統治する権力は統治される人々の同意に基づいて行使される必要がある、として点。この考え方は「人民主権」の考え方を示しています。「人民主権」の思想は民主主義の大原則ですが、合衆国憲法にも採用されています。まさに近代民主政治の基本理念を宣言したと言えます。3、抵抗権(革命権)を認めている点。もし政府(統治する権力)が人々の同意を無視して政治を...アメリカ独立宣言の重要事項とその限界

  • ジョン=ロックの「所有権」

    ジョン=ロックは17世紀後半に活躍した哲学者です。世界史では「抵抗権」を提唱してアメリカ独立革命に大きく影響した人物として扱います。その一方で、ロックは啓蒙思想の政治哲学者として18世紀に先駆けて「所有権」を擁護し、フランス革命が解く「所有権の不可侵」という理念にも大きく影響を与えました。ロックは政府ができる以前の状態を想定し「自然状態」としました。彼は「私有財産」と「自己所有」を問題にしています。ロックは人々が選んだ政府であっても政府が介入できない権利が存在すると考えていました。この権利を政府が承認する権利よりも前から存在する権利として「自然権」といいます。その中に「財産権」も含まれるとしています。すなわち「財産を所有する権利」は政治が行われる前から「自然権」として認められているものだとしていこの権利は...ジョン=ロックの「所有権」

  • ブルボン朝 絶対王政の完成

    ブルボン朝成立(1589年):ナントの勅令(1598年)アンリ4世三部会停止(1615):ルイ13世フロンドの乱(1648-52年):ルイ14世コルベール主義(1664年):ルイ14世ナントの勅令廃止(1685年)ルイ14世※1ナントの勅令は国内にユグノーの存在を認める。一方、個人に信仰の選択権を認め、諸侯が自領を独自の権力で統治することを防止した。ガリカニスムの伝統の下これを廃止することで「宗教の一元化」が達成され、国王主権が確立した。※2身分制議会である三部会を停止し、国内で王権を制限する力が無くなり国王主権が確立した。※31664年から貿易差額主義(コルベール主義)により絶対王政の財政を支えた。フランドル地方の毛織物業者カルヴァン派のゴイセンは、ネーデルラント独立戦争中にENGや「ナントの勅令」のフ...ブルボン朝絶対王政の完成

  • 社団国家としての絶対王政

    「社団国家」とは「社団」という言葉は聞きなれないが、「団体」とか「かたまり」といったニュアンスと理解してよい。日本国語大辞典によれば、「社団とは、一定の目的のために組織された団体で、その団体自身が社会上一個の単一体として存在し活動するもの。」とある。特権階級はそれぞれ「社団」を形成しておりその「社団」の頂点に君臨している人々である。たとえばキリスト教会は教会組織という「社団」を形成しており大司教・司教がその頂点に位置している。教会という「社団」は信仰という目的のために形成されており、それに参加する末端の人々は村々にいる農民たちである。村々の農民は下部組織を経営する司祭や牧師の教会の礼拝に参加することを通じて「社団」に参加している。また、都市では都市貴族が形成した「社団」があり、その末端には都市下層民がいる...社団国家としての絶対王政

  • アメリカ独立革命はなぜ、どこが革命なのか?

    アメリカ独立革命はなぜ、どこが革命なのか?アメリカ独立革命(1)「ボストン茶会事件」1773年が重要。「茶法」1773年の制定は本国議会による議会重商主義の支配下に置くことを意味している。重商主義政策は東インド会社など一部の特権的商人が貿易による利益を享受しその特許料によって国家財政を賄っていく政策。ぞの支配下に入ることは本国議会を構成する特権階級の利益を認めることを意味する。独立戦争によってこの状況を排除し独立した政府が徴税権と通商権を確立した。特権階級の経済的支配から脱したことを示している点で「革命」といえる。(2)「代表なくして課税なし」という言葉の意味が重要。植民地から「代表」を本国議会に送っていない。当時の本国議会が特権階級によって構成されている「身分制議会」。すると、13の植民地人は特権階級に...アメリカ独立革命はなぜ、どこが革命なのか?

  • 年代暗記法 周~漢

    (1)前770年春秋時代始まる。・・・先生多770い、春秋時代(2)前403年戦国時代始まる。・・・世をみ403だす、戦国時代(3)前221年始皇帝の統一。・・・ににんが4の、始皇帝(4)前202年漢成立。・・・2列202に、つづれ220、前漢・後漢(5)前154年呉楚七国の乱・・・引越し154ごそごそ7国の乱(6)前141年前漢武帝即位・・・いよい141よ登場、漢の華87(7)25年後漢成立・・・復興25させる後漢の光武帝(8)166年大秦王安敦の使者訪中・・・一路ロ166-マの大秦王(9)280年西晋の中国統一・・・ふんばれ280西晋、中国統一  年代暗記法周~漢

  • 唐の年代暗記

    (1)618~907年唐・・・娘が一番(618)、暮れな(907)いの唐(2)668年高句麗滅亡・・・娘がロバ(668)乗り、高句麗征服(3)690年武韋の禍で周建国・・・リングを(690)はめた則天武后(4)751年タラス河畔の戦い・・・垂らす涙が濃い(751)川辺(5)755~763年安史の乱・・・おんなごこ(755)ろ、み(63)だれる長恨歌(6)780年両税法施行・・・楊炎が、縄を(780)張って両税法(7)875年黄巣の乱発生・・・黄巣の乱で花子(875)さん(8)907年唐滅亡・・・くれな(907)いに沈む唐王朝  唐の年代暗記

  • 魏晋南北朝時代

    (1)184年黄巾の乱・・・イワシ(184)の目がまっ黄色(2)220年魏建国・・・つづれ(220)、三国志(3)280年西晋が中国再統一・・・踏ん張れ(280)精神(西晋)、中国統一(4)386年拓跋珪が北魏建国・・・見張ろう(286)鮮卑の拓跋珪(5)439年太武帝が華北支配・・・豊作(439)の華北もらった太武帝(6)494年孝文帝の漢化政策・・・鮮卑族、しくし(494)く泣いて故郷捨て(7)552年突厥建国・・・ここに(552)突然突厥帝国(8)581年隋建国、589年中国再統一・・・こわい(581)、公約(589)、隋の文帝魏晋南北朝時代

  • イスラム史(成立からアッバース朝)

    (1)610年イスラム教成立・・・納豆より100年(610)古いイスラム教(2)622年ヒジュラ・・・浪人2(622)年、マホメット(3)642年ネハーヴァントの戦い・・・虫に刺(642)されて、ネハーヴァント(4)661年ウマイヤ朝成立・・・室井(661)さんとムアウイア(5)711年西ゴート王国滅亡・・・ナイイ(711)ブ過ぎる、ワリード1世(6)732年トゥール・ポワティエ間の戦い・・・波に(732)乗ってる、カール=マルテル(7)750年アッバース朝成立・・・名ごれ(750)、アッバース、日に壊(1258)れ(8)751年タラス河畔の戦い・・・しつこい(751)汚れ、たらす河畔(9)756年後ウマイヤ朝成立・・・和む(756)イベリア、スゴうま朝。(10)909年ファーティマ朝成立・・・クオーク(...イスラム史(成立からアッバース朝)

  • イスラム史年代暗記

    (1)622年ヒジュラ・・・浪人2年マホメット(2)632年正統カリフ時代開始・・・無残に死んだマホメット(3)642年ネハーバントの戦い・・・虫にさされてネハーバント(4)661年ウマイヤ朝成立・・・料理人室井さん、超ウマいや(5)750年アッバース朝成立・・・(6)751年タラス河畔の戦い・・・垂らす涙が濃い(751)川辺(7)786年ハールン=アッラシード即位・・・悩むことないシンドバッド(8)909年ファーティマ朝成立・・・(9)929年後ウマイヤ朝カリフ成立・・・苦肉の策でカリフ位使用(10)946年ブワイフ朝バグダッド入場・・・くすむ色の不細工なバグダッド(11)999年サーマーン朝滅亡・・・スリーナインのサーマーン朝(12)1055年セルジューク朝バグダッド入城・・・いいワここ、セレブが入場...イスラム史年代暗記

  • 重要年代暗記(1)ギリシア・共和制ローマ史

    重要年代暗記(1)ギリシア・共和制ローマ史�前594年国宝、ソロンの改革�前508年号令発して、陶片追放�前480年素っ裸(480)で、サラミスの海戦�前431年~前404年四散と(431)、知れよ(404)、ペロポネソス�前334年さーさし(334)っかり、サレキサンダー�前509年功多く(509)あり、共和制ローマ�前451年横の(451)字で書く、12表法�前367年みんな(367)力んで、リキニウス法�前287年庭な(287)ど、掘ルテンシウス法�前264~146年ふろし(264)き、海にひとしろ(146)げ�前202年痛烈(202)なザマ、ハンイバル�前133年勇み(133)足の、グラックス兄弟�前73年波(73)にのまれたスパルタクスの乱�前60年群れ(60)るカエサル・ポンペイウス�前43年...重要年代暗記(1)ギリシア・共和制ローマ史

  • 帝政ローマ時代とキリスト教

    帝政ローマ時代とキリスト教(1)9年=トイトブルクの森の戦い・・・グー9の音も出ぬ、トイトブルク(2)64年=ネロ帝のキリスト教迫害・・・ペテロとパウロは蒸し64焼き(3)96~180年=五賢帝時代・・・苦労96言わない180、五賢帝(4)166年=大秦王安敦の使者が日南に来航・・・一路、ローマ166に大秦王(5)193年= 軍人皇帝時代開始・・・戦193始まる、軍人皇帝(6)212年=アントニウス勅令・・・ついに212ローマの、市民権(7)284年=ディオクレティアヌス帝即位・・・庭よ284くまとめたディオクレティアヌス(8)313年=ミラノ勅令・・・再三313の迫害、やっと公認(9)325年=ニケーア公会議・・・3つ込325みで、三位一体(10)375年=ゲルマン民族大移動開始・・・みんなゴ375ソゴ...帝政ローマ時代とキリスト教

  • 古代オリエント史

    (1)前1286年カディシュの戦い・・・いつ止む、カディシュの戦い(2)前922年ヘブライ王国分裂・・・苦痛に分かれるヘブライ王国(3)前722年イエルサレム王国滅亡・・・夏になってもイエルサレム(4)前586年バビロン捕囚開始・・・拒む、ユダヤを連れ去って(5)前550年アケメネス朝ペルシア成立・・・ここは、ペルシア帝国(6)前538年バビロン捕囚解放・・・きょろきょろと、ゴミ屋さんを解き放つ古代オリエント史

  • ノルマン・シチリア王国

    【1130】年シチリア島【パレルモ】の都として【ノルマン・シチリア】王国が成立しました。もともとのルマン人は北フランスの【】ノルマンディー公国にいた人々で、シチリアには巡礼に訪れることが多く、その関係もあって移住したようです。北フランスの世界遺産モンサンミシェルと同じ大天使ミカエルを祀った南イタリアのモンテサンタンジェロへの巡礼がノルマン人も間で流行していました。ノルマン・シチリア王国建国以前、シチリア島を支配していたのはイスラム教徒でした。建国者【ルッジェーロ2世】は、イスラム教徒への迫害は行わなかったばかりでなく、【アラビア】語文献やビザンツ時代から残る【ギリシア】語文献を【ラテン】語に翻訳するなど、イスラム・ビザンツ文化を積極的に取り入れました。そのため、首都パレルモにはアラブ人学者やギリシア人学者...ノルマン・シチリア王国

  • 中世西欧史(1)

    (1)375年ゲルマン民族大移動開始・・・みなここに集合ゲルマン人(2)395年ローマ抵抗東西分裂・・・割くことになるローマ帝国(3)451年カタラウヌムの戦い・・・仕事休んでカタラウヌム(4)476年西ローマ帝国滅亡・・・死なんとする西ローマ(5)486年メロヴィング朝成立・・・座ろうパリのクローヴィス(6)496年クローヴィスがカトリック改宗・・・仕組むクローヴィス、カトリック(7)726年レオン3世聖像禁止令・・・何が無理だと聖像禁止(8)732年トゥール=ポワティエ間の戦い・・・波に乗ってるカール=マルテル(9)751年小ピピンがカロリング朝建設・・・しつこいピピンのカロリング朝(10)756年ラヴェンナ寄進・・・和むピピンの教皇領(11)800年カール戴冠・・・晴れれ?カール大帝(12)829年...中世西欧史(1)

  • 中世西欧世界 前半

    (1)375年ゲルマン民族大移動開始・・・みなここに集合ゲルマン人(2)395年ローマ抵抗東西分裂・・・割くことになるローマ帝国(3)451年カタラウヌムの戦い・・・仕事休んでカタラウヌム(4)476年西ローマ帝国滅亡・・・死なんとする西ローマ(5)486年メロヴィング朝成立・・・座ろうパリのクローヴィス(6)496年クローヴィスがカトリック改宗・・・仕組むクローヴィス、カトリック(7)726年レオン3世聖像禁止令・・・何が無理だと聖像禁止(8)732年トゥール=ポワティエ間の戦い・・・波に乗ってるカール=マルテル(9)751年小ピピンがカロリング朝建設・・・しつこいピピンのカロリング朝(10)756年ラヴェンナ寄進・・・和むピピンの教皇領(11)800年カール戴冠・・・晴れれ?カール大帝(12)829年...中世西欧世界前半

  • 都市の空気は自由にする

    このドイツの諺には2つの意味が含まれています。キーワードは「自由」。すなわち教科書に説明されているように、農奴が荘園から都市に逃れて1年と1日都市で生活すれば、自由な身分になれるということをこの諺は示している。ここでいう自由とは、領主権からの「自由」であり、自治都市が領主権から自由を獲得しているため、都市の市民として認められれば、領主による人格的支配から自立することができる。しかし、いっぽうで、ここで言う「自由」には限界があることも説明する必要がある。その自治都市内では、都市貴族が参議会を構成して市政を独占し、都市民を支配しているため、現在の我々が思い描くような自由な雰囲気は中世都市には存在しないという点。さらに商業活動もギルドが支配していて、自由な商業活動は認められていない。つまり、領主に対して自由であ...都市の空気は自由にする

  • 西欧政治思想史

    前6世紀初、小アジアのイオニアのミレトスを中心に、自然の本質を合理的に探ろうとする自然哲学が成立した。前585の日食を予言したとされるタレスや、「万物は流転する」の言葉を残したヘラクレイトスらがイオニア自然哲学を代表する。一方、アテネにおいて民主政治が確立すると、ポリス市民たちは政治や軍事に活動の中心を求め、財産や生命以上に名声や名誉を尊重した。ポリスでは政治参加の権利や政治的発言力をめぐる競争が公然と展開され、市民として協力し合う一方で、激しい名誉獲得を追及する行動様式が支配的であった。このような「協力」と「競争」とのバランスが崩れていった時代がペロポネソス戦争の時期である。名誉獲得のための弁論・修辞を教える職業教師が出現し、その代表者であるプロタゴラスは絶対的な真理の実在を否定した。このような潮流に対...西欧政治思想史

  • 皇帝教皇主義

    東ローマ帝国で【皇帝】が東方教会を支配する「政教一致」の体制を【皇帝教皇主義】と言います。東ローマ皇帝が【東方教会】の指導者であるコンスタンティノープル教会の大司教(大主教)を任命したり、自分の言うことを聞かせたりできたので、政教一致なわけです。ここでいう教皇とは、実際の教皇ではなく、大主教のことです。皇帝が西欧の教皇を兼務しているようだ?!という意味の言葉といえます。【帝国教会制】という言葉と似ていますが、まったく違う内容の言葉です。皇帝教皇主義

  • 帝国教会制

    自分の領地内にある教会は、その領主の所有物である、という考え方を前提にしている制度です。この考え方を拡大すると、神聖ローマ帝国はその皇帝のものだから、その帝国内にある教会は皇帝の支配下にあるのだと、歴代の皇帝たちは主張したわけです。これを「帝国教会制」といいます。さらにこのことを、より具体的に話をすすます。帝国内にある教会を支配するとはどのようなことでしょうか。そもそも教会は、教皇を頂点として、各国にいる大司教が自分の大司教区内にある教会を管理しています。その大司教区は司教区に分かれ、司教がその司教区にある教会を管理しています。大司教や司教ももちもん、それぞれ教会に住んでいます。その教会は村にある教会に比べれば立派なわけです。神聖ローマ帝国の皇帝は教会を支配するといいましたが、つまり大司教や司教レベルの上...帝国教会制

  • 東京大学の入学者選抜に関する考え方について 東大HP

    東京大学の入学者選抜に関する考え方について-平成32年度(平成33年度入学者選抜)以降における入学者選抜方法の検討について-社会のグローバル化が進展する中で、高校から大学を通じて学生の英語力の4技能を鍛えることが重要です。その意味で、大学入学者選抜に英語認定試験を取り入れ、4技能を評価することは意義があるものと考えます。一方で、入学者選抜における公平公正の担保について、社会からの要請は非常に高くなっています。英語認定試験を入学者選抜に利用するにあたっては、公平公正の観点から十分な検証が必要と考えており、この点については、かねて国立大学協会の場でも表明してきました。昨年11月に国立大学協会から「平成32年度以降の国立大学の入学者選抜制度-国立大学協会の基本方針―」が公表され、この中で「平成36年度以降に向け...東京大学の入学者選抜に関する考え方について東大HP

  • 10世紀前半に訪れた西欧の危機

    【800】年に【カール戴冠】によって西欧世界が成立しました。その西欧世界は9世紀になっても安定していたわけではありませんでした。9世紀、【スカンディナヴィア】半島や【ユトランド】半島からノルマン人が西欧世界に侵入を開始します。東からはアジア系【マジャール】人が【パンノニア】(ハンガリー)方面から侵入します。このように、西欧の混迷は続きました。この混迷によって西欧世界は封建社会という閉鎖的な状況に追い込まれたわけです。東フランク王国はノルマン人の被害は少なかったのですが、西フランク王国は【ノルマン】人の侵入に苦しみました。そこで国王【シャルル3世】は【911】年、ノルマン人首長【ロロ】に北フランスの海岸線にあるノルマンディ地方を与え、【ノルマンディ公国】を設置させました。東フランク王国は【マジャール】人の侵...10世紀前半に訪れた西欧の危機

  • フランク王国の分裂

    カール大帝の死後、後継者はルートヴィッヒ1世になりました。しかし、その死後彼の子供たちが継承権を争い、内線状態になりました。843年ロタール、ルートヴィッヒ、カールの3人は3分割して相続することに決定。この条約をヴェルダン条約といいます。とくに中部フランクおよび北イタリアを相続したロタールは西ローマ帝国皇帝の暗いも獲得し、ロタール1世と名乗りました。彼の名前が現在のフランス領ロレーヌ地方の名前になっています。ドイツ読みだとロートリンゲンです。この地方はアルザス地方とともにドイツ・フランスの争奪の歴史を歩むことになります。中部フランク領は東西フランク王国の間に位置するプロヴァンスとロートリンゲンに加えイタリアです。ロタール1世の死後、さらに870年のメルせん条約ではロートリンゲン(ロレーヌ)は東フランク王国...フランク王国の分裂

  • 皇帝と教皇の関係

    313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認しましたが、当時のキリスト教会は「イエスとは何者か?」という重要な問題に対して意見を統一することができずにいました。そこで325年にコンスタンティヌス帝はニケーアにキリスト教会の論客たちを集め、議長として「イエスとは神の子である」というアタナシウスの意見を正統だと決定しました。このような会議を「公会議」といい、325年の公会議をニケーア公会議といいます。しかし、本来、キリスト教会の問題であるはずの「イエスとは何者か?」という問に対してローマ皇帝が決定に大きく関与したことは、後の「皇帝」とキリスト教会の指導者である「教皇」との関係に多大な影響を残すことになりました。すなわち、皇帝がキリスト教会の様々な決定に口出しをするということです。395年にローマ帝国は東西...皇帝と教皇の関係

  • 古代世界の終わり

    【コンスタンティヌス】帝は【コロナートゥス】制を法制化した皇帝です。彼が【コロヌス】に対して【移住を禁止】する法令を定めたことから、このように言うことができます。またひとたびコロヌスになると、他の職業に就くことも禁じられました。以上のことは、非常に大きな問題をはらんでいます。ギリシアからローマに続いた古代世界では、自由人にたいして、個人の自由が大きく保障されていたからです。移動の自由や転職の自由があったからこそ、人々は地中海を舞台に商業・貿易活動を活発に行なえたはずです。その古代世界の活気を裏付けていた「自由」が制限されたことで、古代世界はそれまであった輝きを失っていきました。さらに不幸なことに、【ディオクレティアヌス】帝ころから金貨に含まれる金の量を減らし、貨幣価値を下げ続けました。戦争を行なったり、官...古代世界の終わり

  • カール戴冠の意義

    800年カール1世に対して教皇レオ3世がローマ皇帝の冠を授けました。フランク族のカール1世がローマ皇帝になったわけです。このことは「西欧世界の成立」を象徴する出来事だといえます。「西欧世界の成立」とは、476年西ローマ帝国滅亡以来、それまで唯一のローマ帝国だった東ローマ帝国から独立した世界が誕生したことを意味します。東ローマ皇帝はさまざまな機会でローマ教皇を救ってきました。しかしイスラム教の影響を受けた東ローマ皇帝レオン3世が「聖像禁止令」を出すと、教皇と皇帝との関係は悪化しました。教皇は自分の保護者としてカロリング家を見出し、カロリング家の王をローマ皇帝にしたわけです。こうして西欧世界にも教皇と皇帝が誕生し、東ローマ帝国とは切りはなされた西欧世界が誕生しました。「西欧世界の成立」とはもう一つの意味で重要...カール戴冠の意義

  • 初期フランク王国の性格

    北ガリアに侵入したフランク族は、軍事拠点に集中して住んでいて、地方に広がることはありませんでした。その理由は、ローマ人に対して圧倒的に人数が少なかったからと考えられます。ゲルマン民族の大移動期は、古代ローマ社会が混乱した時代でした。ローマ時代に作られていたさまざまな法律は全く守られなくなり、フランク王国の人々は自分のみは自分で守る必要がありました。しかし、キリスト教会はローマ帝国時代の行政組織を受け継ぎ、ローマ時代の行政単位をそのまま「大司教管区」、さらにそれを細かくした「司教管区」、さらにそれを細かくした「教区」にわけ、それぞれに大司教・司教・司祭をおきました。そしてローマ人系の有力者(すなわち元老院議員の子孫など)が高位聖職者になっていたようです。ローマ人はフランク族に北ガリアの支配権を奪われましたが...初期フランク王国の性格

  • 神聖ローマ帝国の歴史

    中世より13世紀初頭まで存続したドイツの国家である神聖ローマ帝国は,ドイツ王【オットー1世】が【962】年にローマ教皇【ヨハネス12世】により帝冠をうけたのに始まる。以後ドイツ王は即位後イタリアに赴いて教皇から戴冠され神聖ローマ皇帝をかねた。ドイツでは部族の分権的傾向が強く,オットーは初め一族を部族大公に任命して集権化をはかったが挫折した。代わって王権の支配下にある教会に諸特権を与えて強化し,司教・修道院長の任命権を握って教会を国内統治の支柱にしようとした。この教会政策のためオットーはローマおよび【イタリア】を支配しようとイタリアに遠征し,教皇の窮状を救って帝冠を受け,その後もイタリアに遠征して教皇権に対する影響力を強めた。これを【イタリア政策】と言う。この帝権と教権の結合は皇帝に教会支配権を握らせ,それ...神聖ローマ帝国の歴史

  • アラブ帝国

    ウマイヤ家カリフであった【アルマリク】はウマイヤ朝の基礎を作りました。ウマイヤ朝は「【アラブ帝国】」と称されますが、【アラビア】語が公用語であり、アラブ人が経済を握り、アラブ人に税制上の優遇政策がとられたためです。とくにアラブ人だけ免税特権を持ち、同じイスラム教徒でも、異民族で改宗したイラン人などは【ジズヤ】に加え【ハラージュ】の支払いを求められました。彼ら異民族でイスラム教徒に改宗した人々のことを【マワーリー】といいます。この点もウマイヤ朝を「アラブ帝国」とよぶ理由です。つまり、イスラム教徒の間でも歴然とした不平等があったということです。アラブ帝国

  • アッバース革命

    「【アラブ帝国】」とも言われ、【アラブ人至上主義】をとったウマイヤ朝は、8世紀になると【マワーリー】となっていた【イラン】人などの反発を受けるようになりました。その一方で、ウマイヤ家カリフを認めない【シーア】派勢力も反ウマイヤ家に動き出し、ついに【】イラン人と【シーア】派の支持を受けた【アブー=アッバース】がウマイヤ朝を打倒し、【750】年に【アッバース】朝を建てました。このときウマイヤ家の一部が【イベリア半島】まで逃れ、【756】年、【】後ウマイヤ朝を建国しています。建国者は長い名前ですが、【アブド=アッラフマーン1世】。都はイベリア半島中央部の【コルドバ】です。ただし、彼らはカリフ位を持たず【アミール】(地方太守として一つの地方を支配するポスト)の称号を用いています。750年のアッバース朝成立を「【ア...アッバース革命

  • ワリード1世の大征服時代

    8世紀に入るとすぐにウマイヤ家カリフとして【ワリード1世】が即位しました。彼は東は【ソグディアナ】から西北インドの【シンド】地方まで征服し、西へは【ジブラルタル】海峡を越えて【】イベリア半島に達しました。当時イベリア半島にはゲルマン民族の【西ゴート】族が建てた西ゴート王国が都を【トレド】においていました。彼らは【アリウス】派というカトリックから【325】年の【ニケーア】公会議で異端とされたキリスト教の一派を振興していた人々です。【711】年【ワリード1世】の軍隊はこれを滅ぼし、以後【1492】年までスラム勢力がイベリア半島を支配する端緒となりました。このようにして、ワリード1世の時代のウマイヤ朝はイスラム教の【単独王朝として最大版図】を現出しました。ただし、注意したいのは、イベリア半島を支配下に置いたウマ...ワリード1世の大征服時代

  • イスラム教成立の背景

    東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスは555年に東ゴーと王国を征服し、イタリアを回復しました。彼はこのほかにも北アフリカ一帯を征服し、地中海世界の再統一に成功しました。6世紀中ごろは西アジアのササン朝ペルシアにホスロー1世が登場して、ササン朝の全盛期を築いた時期でもありました。ユスティニアヌスとホスロー1世はライバルで、東西交易の重要地であるシリアをめぐって抗争しています。さらに、この2人の後になっても、シリアを両国の抗争は続きました。東ローマ皇帝ヘラクレイオスとササン朝ペルシアのホスロー2世とは長く戦争を続けましたが、7世紀にはいると東ローマ帝国がシリアを確保する状態でした。東ローマ帝国とササン朝ペルシアとが長い間シリアをめぐって戦争を続けた結果、シリアを通って交易することができなくなりました。そこで、アラ...イスラム教成立の背景

  • イスラム教の成立

    【東ローマ帝国】皇帝【ユスティニアヌス】は【555】年に【東ゴート】王国を征服し、イタリアを回復しました。彼はこのほかにも北アフリカ一帯を征服し、【地中海世界の再統一】に成功しました。6世紀中ごろは西アジアの【ササン朝ペルシア】に【ホスロー1世】が登場して、ササン朝の全盛期を築いた時期でもありました。ユスティニアヌスとホスロー1世はライバルで、東西交易の重要地である【シリア】をめぐって抗争しています。さらに、この2人の後、東ローマ皇帝【ヘラクレイオス1世】とササン朝ペルシアの【ホスロー2世】の時代になっても、シリアを両国の抗争は続きました。長く続いた戦争でしたが、7世紀にはいると【東ローマ帝国】がシリアを確保する状態でした。東ローマ帝国とササン朝ペルシアとが長い間シリアをめぐって戦争を続けた結果、シリアを...イスラム教の成立

  • ムハンマド(マホメット)

    【ムハンマド】(【マホメット】ともいいます)は【メッカ】の名門一族【クライシュ】族の【ハーシム】家の出身です。彼は25歳のときに、年上(40歳)の未亡人【ハディージャ】と結婚しました。商売名順調だったようですが、ムハンマド40歳のとき、【610】年ヒラー山で大天使【ガブリエル】から啓示を受け、イスラム教を創始しました。啓示を受けるというのは、神アラーの教えを大天使ガブリエルによって伝えられたということです。したがって、マホメットはこのときから神アラーの言葉を預かった【預言者】担ったわけです。マホメットの言葉は神の言葉ですが、マホメット自身は預言者ではあるが人間です。イスラム教は、唯一神【アラー】への絶対的服従を求め、【偶像崇拝】を極度に否定する宗教です。妻の【ハディージャ】が最初の信徒になりました。イスラ...ムハンマド(マホメット)

  • ヒジュラ(聖遷)

    イスラム教徒のことを【ムスリム】といいます。彼らの教団を【ウンマ】といい、イスラム教寺院を【モスク】といいます。メッカで迫害を受けたムハンマド達は、【622】年【メッカ】を逃れ、北方のオアシス都市【メディナ】に引越しました。メディナは【ヤスリブ】とも言いますので、注意してください。この引越しを【ヒジュラ】(聖遷)といいます。また、引越しについていったイスラム教徒たちの集団を【ウンマ】といいますが、このウンマはのちに【イスラム教徒の共同体】という意味で使われます。この【622】年をイスラムの暦(【ヒジュラ暦】)で紀元としています。メディナで起きていたメディナ市民間のトラブルを解決することを委ねられたとされています。メディナで問題を解決し、人々の人望を確立したムハンマドは、【630】年メディナの人々を率いて、...ヒジュラ(聖遷)

  • イスラム教の特有の用語(1)

    (1)ムスリム・・・イスラム教徒のことを「ムスリム」といいます。江戸時代の日本でキリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んでいたのと似ています。ムスリムは世界に9億人以上いて、アフリカなどでは今での増え続けています。(2)ウンマ・・・「ムスリム共同体」と訳します。つまり、仲間意識を持っているムスリム達の世界のことです。例えば、関東学院にも三春台と六浦がありますが、なんとなく関東学院生としての一体感や仲間意識がありますよね。他校の生徒よりも親近感を持っていると思います。そのような「仲間意識」をもったムスリム社会を「ウンマ」と呼びます。少し前に、「オウム真理教」が富士山の麓に「サティアン」を作って生活していました。初期のムスリム達のウンマはそんな感じだった?のかもしれません。(3)ヒジュラ・・・メッカで成立した...イスラム教の特有の用語(1)

  • 正統カリフ時代

    【632】年にムハンマドが亡くなった後、【ウンマ】の経営を任せる【預言者ムハンマドの後継者】が選出されました。【預言者の代理人】という意味であるカリフに初めて選出されたのは【アブー=バクル】です。彼から【4人】のカリフは世襲ではなくウンマの中で選ばれたカリフで、この時代を【正統カリフ】時代(【632~661】年)をよびます。第2代カリフは【ウマル】です。ウマルは大規模な征服活動を行なったカリフで、【642】年【ネハーヴァントの戦い】で【ササン朝ペルシア】に勝利。その結果、【651】年にはササン朝ペルシアは滅亡しました。また【東ローマ帝国】から【シリア】と穀倉地帯の【エジプト】を奪い支配下におさめました。このようなイスラム教徒の征服活動を【ジハード】(聖戦)といいます。各地にムスリムが住む軍営都市【ミスル】...正統カリフ時代

  • ウマイヤ朝の成立

    ムハンマド時代から正統カリフ時代にかけて、西アジア世界は安定期に入ります。ササン朝ペルシアと東ローマ帝国とのシリアをめぐる抗争もすでに終結し、【シリア】を経由する貿易路が復活しました。シリアが利用できるならわざわざ砂漠を横断する貿易を行う意味はなくなります。そのシリア総督に就任したのはウマイヤ家の【ムアーウィア】でした。ウマイヤ家はクライシュ族の名門です。彼は正統カリフ第4代【アリー】の即位に反対し、アリーと戦争になりました。結局、両者の和睦が成立しましたが、アリーは和睦に反対する過激派によって殺されました。ムアーウィアがカリフに即位すると、彼に反対する人々は「【アリーの一派】」と呼ばれる【シーア】派を形成しました。シーア派は、ウマイヤ家カリフを認めず、アリーの子孫のみがカリフ位を継承できると考えた人々で...ウマイヤ朝の成立

  • アッバース朝の最盛期

     アッバース朝は「イスラム帝国」と呼ばれるように、アラブ人の特権は廃止され、ムスリム間の平等が実現した時代です。そのため、カリフは多民族帝国にふさわしく、民族を超越する存在であることが求められました。これをカリフの神格化ととらえることができます。アッバース家第2代カリフのマンスールのとき、カリフの神格化が進み、さらに彼の手によって「平和の都(マディーナ=マッサラーム)」と言う名の都市バグダッドが建設されました。アラブ人至上主義の世界が終わり、イスラム教世界としてひとつにくくることができるイスラム文化圏が成立したわけです。同じ8世紀には中国の唐が「東アジア文化圏」を確立していたので、同時期にユーラシア大陸の東と西で、強大な文化圏が成立していたことになります。西のバグダッドと東の長安はともに100万人の人口を...アッバース朝の最盛期

  • イスラム世界の称号

    カリフは「【預言者マホメット(ムハンマド)の代理人】」の意味。イスラム世界(【ウンマ】)の指導者です。正統カリフ時代は有力者がウンマから【選出】されましたが、【661】年から【】ウマイヤ家が独占して世襲化し、さらに【750】年から【1517】年まで、【アッバース】家の一族がカリフの地位に就きました。アッバース朝成立によって成立したウマイヤ家の亡命政権であるイベリア半島の【後ウマイヤ】朝などでは【アミール】(太守)の称号を用いています。アミールは【地方の支配者】のことで、カリフの政治的権威を認め、その下で地方を統治したわけです。しかし、【10】世紀にイスラム教世界が分裂・混乱期になると、西アジアに出現した【シーア】派の【ブワイフ】朝は都【】バグダッドに入城し、【大アミール】という称号を用い、自己を顕示しまし...イスラム世界の称号

  • イスラム教世界の年代暗記

    (1)610年イスラム教成立・・・納豆より100年(610)古いイスラム教(2)622年ヒジュラ・・・浪人2(622)年、マホメット(3)642年ネハーヴァントの戦い・・・虫に刺(642)されて、ネハーヴァント(4)661年ウマイヤ朝成立・・・室井(661)さんとムアウイア(5)711年西ゴート王国滅亡・・・ナイイ(711)ブ過ぎる、ワリード1世(6)732年トゥール・ポワティエ間の戦い・・・波に(732)乗ってる、カール=マルテル(7)750年アッバース朝成立・・・名ごれ(750)、アッバース、日に壊(1258)れ(8)751年タラス河畔の戦い・・・しつこい(751)汚れ、たらす河畔(9)756年後ウマイヤ朝成立・・・和む(756)イベリア、スゴうま朝。(10)909年ファーティマ朝成立・・・クオーク(...イスラム教世界の年代暗記

  • アター制とイクター制

    【ブワイフ】朝で始まった【イクター】制は、【セルジューク】朝で完成しました。イクター制を完成させたときのセルジューク朝の宰相【ニザーム=アルムルクです】。彼は自分の名前をつけたスンナ派の学校である【ニザーミア】学院を各地に建てたことでも知られます。もともとアラブ人は遊牧民でしたから、土地を所有する考えはあまりなかったようです。そのため正統カリフ時代やウマイヤ朝のころは、ジハードに参加した報酬に【戦利品】をもらっていました。戦利品とは女や財宝などです。このような制度?を【俸給】制(【アター】制)といいました。しかし、アッバース朝の後半の時期になり帝国が分裂すると、ジハードもうまくいきませんし、そうなると戦利品も分配できなくなりました。そこで、【946】年に【バグダッド】に入城した【ブワイフ】朝は、兵士たちに...アター制とイクター制

  • 人間はポリス的動物である

    人間はポリス的動物であるというのはアリストテレスの言葉です。ポリスとの関係なしに、言い方を変えれば、ポリスから自立して市民が生きることは、全く考えられないことでした。ポリス市民として仲間の市民と一体感を、強烈な仲間意識を持って一生をおくったのです。人間はポリス的動物である

  • アテネではプロの政治家はを廃止した

    ペリクレス時代には役人はくじ引き(抽選)で選ばれ、任期は1年間でした。彼らは、そのようにして役人になり政治を動かしたので、アテネの役人はアマチュアといえます。現在に日本のようにプロの役人はいなかったのです。そのため市民はなるべく教養を身につけることが求められ、弁論術の先生について勉強をしました。その先生をソフィストといいます。たしかにプロの役人や政治家がいると、彼らに決定権が集中してしまい、役人とそうでない人との権力格差を生む可能性が高い。アテネの人々は、プロの役人(公務員)をおくことで発生する問題こそを重視したわけです。市民の平等を守ることが「市民の一体感」を生むと考えたわけです。しかし、問題もありました。政治家が毎年コロコロ変わり、そのたびに政治の方向性や裁判の方向性が変わってしまう。そこで任期に制限...アテネではプロの政治家はを廃止した

  • 古代ギリシアのデモクラシーと現在の官僚制

    古代ギリシア世界は、オリエントで誕生した官僚制を受け入れませんでした。彼らはまったく別の方法で統治を行ったのです。それは統治する権限をみんなで分担する、という方法です。彼らはこれをデモクラシー(ここでは古代ギリシアの民主制を現在の民主主義と区別するために、デモクラシーとします)と呼んでいました。官僚制とは、一部の官僚たちが物事を決定して実行していく制度ともいえます。たとえば税を集める場合、どれだけ集めるのか?何に使うのか?道路建設か?ダム工事か?社会福祉に使うのか?といったことを官僚たちが決定するということです。デモクラシーは違います。その決定をみんなで相談して決めましょう、というものです。一握りの人間に委ねない。みんなで、というのが特徴です。官僚制とデモクラシーとはまったく別の政治のやり方といえます。古...古代ギリシアのデモクラシーと現在の官僚制

  • 五賢帝時代

    98年から180年までに古代ローマ帝国は全盛期を迎えた。この時代を5賢帝時代という。五賢帝時代のチェック・ポイント①5人の皇帝を順にあげると?②トラヤヌス帝の業績はローマの最大版図を現出したこと。そのときにローマが獲得した属州は?現在、その属州はどこに当たるか?③ハドリアヌス帝の業績である「ハドリアヌスの長城」はどこにあるか?④ピウス帝のときは、著名な歴史学者が2人活躍した。それは?⑤マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝を中国では何と表記したか?また、彼が派遣した使者がたどり着いた地はどこか?そこは現在のどこにあたるか?その当時の中国の王朝名は?五賢帝時代

  • ラテン文芸の時代

    アウグストゥスの側近ヴェルギリウスはローマ建国伝説『アエネイス』や『農耕詩』を著した。他にオヴィディウスの『転身論』『愛の詩』など。ちなみにアウグストゥスの側近には『ローマ建国史』を書いたリヴィウスがいる。アウグストゥスがいかにローマの権威を重視し、共和制時代のローマを尊重したかがわかる。ローマの歴史書には他にポリビオスの『ローマ史』があるが、彼は前2Cにローマに敗れたギリシア人で「政体循環史観」を展開されている。またアウグストゥスの時代に小アジア出身のストラボンが『地理誌』を書いている。禁欲主義で知られるストア哲学は、ローマ皇帝ネロの師セネカが『幸福論』。ギリシア人奴隷出身のエピクテトスや5賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自反録』などが有名。人間がそれぞれ理性を持ち、自然の法則を洞察...ラテン文芸の時代

  • 属州支配

    ローマが最初に【イタリア半島外】の領土を得たのは、第1回【】ポエニ戦争の勝利によってでした。【シチリア島】が最初の【属州】です。半島の外の征服地にはローマから【総督】を派遣し、属州民には【徴税の義務】を負わせました。総督は【元老院】から示された納税額を属州から集めますが、属州民からはその額以上を要求するわけです。その差額が総督の懐に入る仕組みです。総督の指示に従って税を集めるのが【徴税請負人】です。じつは彼らも総督に命じられた額以上を集め、その差額を懐に入れる。そのような不正が盛んに行われていました。その結果、徴税請負人は裕福になり、新貴族(【ノビレス】と呼ばれた)として【平民会】をリードする存在になっていきました。属州支配

  • 軍人皇帝時代のローマ帝国のさまざまな変化

    広義では最初の軍人皇帝を【193】年に即位した【セヴェルス】帝とするが、狭義では【235~284】年までの【】50年間(マクシミリアン帝からディオクレティアヌス帝まで)を指す。この間26人の皇帝が地方の属州軍隊によって廃立され、24人が謀殺された。しかし、この時代から考えられることは多い。まず、「地方の時代」すなわち属州がローマ経済の中心となっていたといえる点。ローマのある半島が経済の中心的存在ではなくなり属州の経済力がこれを凌駕している状態、すなわち、経済の空洞化現象である。次に何人もの皇帝が乱立したため皇帝の権威が著しく低下した点。皇帝は「第1の市民」などと呑気なことをいってられなくなった。また、ローマの政治的混乱は軍事的弱体化を引き起こし、さらに外敵の侵略に備えるために軍事力が一層拡散したことも、こ...軍人皇帝時代のローマ帝国のさまざまな変化

  • 五賢帝時代に見られた帝国の空洞化

    【五賢帝】時代に登場した【トラヤヌス】帝と【ハドリアヌス】帝は、属州【ヒスパニア】(現スペイン)出身の皇帝でした。このことは属州の地位が向上していたことを意味するでしょう。当時のローマ経済の中心は「【ラティフンディウム】」という大量の奴隷たちが大規模な農場を働くというものです。ラティフンディウムは属州で展開されていたので、見方を変えると、ローマ経済の中心が【属州】にあったともいえます。また、帝国が拡大すると防衛のために有能な将軍が辺境の属州に配属される必要があります。このことはローマの軍事力が属州に移ったことを意味します。ローマの経済と軍事の中心が属州に移り、ローマ市のあるイタリア半島がその役割を低下させていった、このような現象を「帝国の空洞化」と呼ぶことができます。帝国の空洞化は、【193】年から始まる...五賢帝時代に見られた帝国の空洞化

  • 軍人皇帝時代 皇帝とローマの神々への不信

    軍人皇帝時代はローマ帝国の転換期になりました。豊かな貴族も貧しい人々も、内戦の恐怖に怯えて日々の生活を送っていました。ローマ帝国が拡大すると、属州の総督や将軍たちが強大な軍事力を持って互いに争うようになりました。ローマにいる皇帝も彼らに言うことを聞かせることはできません。彼らは互いに争い、日本の戦国時代の大名たちが京都を目指したように、将軍たちもローマを目指し、皇帝を殺して、自らが皇帝に即位する者が出現するようになりました。彼らを「軍人皇帝」と呼びます。軍人皇帝たちは50年間に26人が登場しましたが、そのうちクーデタや暗殺で殺されたのは25人に上ります。皇帝の名声や権威は地に落ちたわけです。このため、この乱世を終わらせたディオクレティアヌスは、皇帝を神として崇めることを人々に強要しました。軍人皇帝が登場し...軍人皇帝時代皇帝とローマの神々への不信

  • 4分統治

    【ディオクレティアヌス】は【284】年に即位しましたが、やっと統一したローマを4つに分けて、自らと3人の優秀な将軍と、4人で分けて支配することにしました。これを「【4分統治】」体制といいます。4人は東の正帝・東の副帝と、西の正帝・西の副帝として君臨しました。ディオクレティアヌスは【東の正帝】です。しかし、ディオクレティアヌスが亡くなると、残った3人の皇帝たちが争い、再び内戦に陥りました。この内戦を終わらせて、もう一度ローマに統一をもたらしたのが西の副帝だった【コンスタンティヌス】でした。4分統治

  • 古代ローマ史特有の単語

    古代ローマ史特有の単語を答えなさい。1.貴族のこと。職業は農業経営。ローマ軍団を指揮。2.平民階級のこと。職業は中小自作農。ファランクスを構成。3.徴税請負人のこと。属州の商業権や徴税権で富裕化した平民。4.新貴族のこと。富裕化した平民と貴族たちを指す。5.閥族派のこと。元老院貴族の多数派。スラが領袖。6.平民派のこと。ノビレスやエクイテスの発言力を背景とした。マリウスが領袖。7.執政官のこと。任期1年で2名。リキニウス法で1名は平民から。8.独裁官のこと。任期半年で1名。非常時のみコンスルから任命。9.「ローマ第1の市民」の意味。オクタヴィアヌスが自称した。10.元首制の意味。前27年から始まった実質的な帝政。11.尊厳者の意味。前27年に元老院がオクタヴィアヌスに送った尊称。12.オリエント的専制君主...古代ローマ史特有の単語

  • ローマ帝国の450年間

    前133年からの『混乱の1世紀』を終わらせたのは前31年のアクティウムの海戦であった。この海戦でオクタヴィアヌスはアントニウスに勝利し、元老院と表面上は共存する道を選んだ。だが、全ての権力はアウグストゥスに集中し、以後、事実上の帝政が始まった。これをプリンキパトゥス(元首制)と呼ぶ。彼に続く約200年間にローマは領域を最大に(最大版図)拡げた。このローマ帝国の豊かさを支えた経済力の基盤が奴隷制に立脚したラティフンディウムであったラティフンディウムは征服地を有力者が貸与されて経営するものであるから、当然、その多くは属州で経営されるものであった。したがって、ローマが「パクス・ロマーナ」と呼ばれるような安定期に入ると、しだいにラティフンディウムが多く存在する属州に、ローマ帝国の経済活動の中心が移るようになった。...ローマ帝国の450年間

  • 元首制の下における元老院

    【アウグストゥス】はイタリアと一部属州の統治や国庫の管理を元老院から皇帝の手に移っていった。元老院議員の就任にも皇帝の意思が貫徹した。しかし元老院議員はしだいに世襲となり、帝国の高級官僚はほとんど元老院議員の占めるべきものとされ、皇帝と結び付いて帝国統治の要となった。元老院と皇帝との関係では、皇帝は元老院議決を自己の思うままに決定させて、元老院の独立性はほとんどなかった。しかし、その一方で、皇帝の死去あるいは殺害に際しての後継皇帝の決定は元老院の手に握られていた。皇帝は、【属州総督の任命権】・【軍団指揮官の任命権】を担当した。それらは元老院議員から任命され、その他の公職は、軍務を果たしたのちに昇進した騎士身分の者が任命された。そのため彼らが皇帝を補佐して帝国を統治するようになり、その役割がしだいに大きくな...元首制の下における元老院

  • 古代ローマ史 ラティフンディウム

    ローマはイタリア半島統一戦争を【マグナ=グレキア】を征服して達成していく間、半島内に広大な【征服地】を獲得しました。この征服地の分配は【元老院】で決定しましたから、多くの征服地は【パトリキ】(貴族)達の手に渡りました。また、征服活動ではもうひとつローマが得たものがあります。それは【奴隷】です。戦争に勝って【捕虜】を捕らえると、彼らを奴隷商人に売り渡すわけです。そして、パトリキたちはこの大量に獲得した奴隷を使って広大な農地を耕させる。そんな農業経営が始まりました。この「【奴隷制大土地農業経営】」を【ラティフンディウム】です。【前2世紀】ころから広まりました。ラティフンディウムでは、穀物のほかに【ブドウ】や【オリーブ】が生産されました。特徴的なのはこれらの農作物は「商品作物」として売られるものであると点です。...古代ローマ史ラティフンディウム

  • ローマの共和制

    古代地中海世界を統一した大帝国が,紀元前1世紀後半すなわち【前27年】,皇帝【アウグストゥス】のもとに誕生しました。その中心となったローマは,イタリア中部にラテン系の人々が建てた都市国家で,伝承によれば,その建設は【前8世紀】の中頃、【ロムスル】と【レムス】という双子の兄弟によるものとされています。当初ローマは,【】イタリア北部に勢力を張っていた先住民である【エトルリア】人の強い影響を受け,7代にわたってエトルリア人の王に支配されていたものと考えられています。ローマの歴史が明らかになってくるのは,前6世紀末(【前509】年)と伝えられる共和政の開始後のことです。共和政となったローマでは,【パトリキ】と呼ばれる貴族と【プレブス】と呼ばれる平民の身分差がおおきく,当初は,王の代わりに設置された役職の【コンスル...ローマの共和制

  • 前12世紀「海の民」の侵入でAll Clear

    【「海の民」】には必ずといってよいほど「なぞの」という言葉がつきます。彼らは【前12】世紀に地中海から【エジプト】・【小アジア】・【メソポタミア】に侵入し、その地にあったヒッタイト帝国やミタンニ王国を滅ぼしています。ただし、新王国はこのときは滅びませんでしたが、以前のようにオリエント世界に影響力を持つような国ではなくなってしまいました。このように、海の民はそれまでインド=ヨーロッパ語族の世界であったメソポタミアに混乱をもたらし、全てを無にしたのです。前12世紀からオリエント世界はまったく新しい世界が始まりました。前12世紀「海の民」の侵入でAllClear

  • アッシリアがオリエントを統一しました

    アッシリアによるオリエントの統一前12世紀、なぞの「海の民」の進入で大混乱におちいっていたメソポタミア地方でしたが、【メソポタミア北部】から新しい民族が勢力を付けてきました。それが【アッシリア】です。アッシリアは前7世紀になるとメソポタミアを統一すると、地中海東岸の民族を攻撃しました。ヘブライ人の【イスラエル】王国を【サルゴン2世】が征服したのは【前722】年のことです。ついで、アッサルハドンはフェニキア人の都市国家【シドン】と【ティルス】の港を破壊します。石積みの防波堤や船着場を破壊したのです。この戦いに敗れたフェニキア人は、北アフリカの【カルタゴ】などに逃れるほかありませんでした。海上貿易を独占していたフェニキア人の港が破壊されたというチャンスを逃さず、フェニキア人にとって代わって地中海の海上貿易に乗り出し...アッシリアがオリエントを統一しました

  • 古代オリエント世界 1万年前の世界

    (2)古代オリエント世界1万年前の世界<o:p></o:p>今から1万年前に地球環境は激変しました。気温が上昇し、海水面が数10メートル上昇しました。これにより日本列島と大陸を結んでいた陸地は水没してしまいました。日本列島が誕生したわけです。日本列島に取り残された人々は、もともと、南から島々を伝わって、黒潮の魚を追って日本まで来た人々でした。島々が水没したため、彼らのカヌーでは南に戻れません。ナウマン像を追って大陸から入ってきた人々も、帰ることができませんでした。彼らが日本人のルーツと考えられています。一方、現在のイラクやイスラエルでは、温暖化によって【農耕】が始まりました。イラク北東部の【ジャルモ】やイスラエルの死海北岸の【イェリコ】にその遺跡を見ることができます。ジャルモ遺跡の住居跡から約200人程度の人口...古代オリエント世界1万年前の世界

  • オリエント世界(1)農耕の開始

    古代オリエント世界1万年前の世界今から1万年前に地球環境は激変しました。気温が上昇し、海水面が数10メートル上昇しました。これにより日本列島と大陸を結んでいた陸地は水没してしまいました。日本列島が誕生したわけです。日本列島に取り残された人々は、もともと、南から島々を伝わって、黒潮の魚を追って日本まで来た人々でした。島々が水没したため、彼らのカヌーでは南に戻れません。ナウマン像を追って大陸から入ってきた人々も、帰ることができませんでした。彼らが日本人のルーツと考えられています。一方、現在のイラクやイスラエルでは、温暖化によって【農耕】が始まりました。イラク北東部の【ジャルモ】やイスラエルの死海北岸の【イェリコ】にその遺跡を見ることができます。ジャルモ遺跡の住居跡から約200人程度の人口があったと考えられ、小麦、ヒ...オリエント世界(1)農耕の開始

  • 楔形文字

    【ペルセポリス】はアケメネス朝ペルシアの都。この町は当時パルーサと呼ばれていた。この町を破壊したのは【アレクサンドロス大王】です。彼がこの町を破壊したとき、保管されていた【粘土板】が焼かれ(粘土が焼かれると植木鉢のようになるでしょ)、その焼き固められた粘土板は2000年以上の歳月にも風化することなく保存されたわけです。まさに偶然。この【ペルセポリス碑文】から【楔形文字】の解読研究が始まったわけです。この【ドイツ】人【グロテフェント】の努力を受け継いだのが、【イギリス】人の【ローリンソン】でした。彼はグロテフェントの研究に加え、【ダレイオス1世】の業績を讃えた【ベヒストゥーン碑文】の解読を行い、約5000年前に使用されていた楔形文字の解読に成功したのです。楔形文字の解読により古代オリエント史研究は飛躍的に進歩しま...楔形文字

  • シュメール文明のチェックポイント

    シュメール文明で古代メソポタミア文明の幕が開きました。1週間かけて勉強した古代メソポタミアの歴史のチェックをしていきます。では、シュメール文明のチェック・ポイントから・・・⑴シュメール文明が始まった時期は?=前2700⑵使われていた文字は?=楔形文字(粘土板を使用)⑶シュメール人の民族系統は?=不明⑷代表的な都市国家は?=ラガシュ,ウル,ウルク,ウンマなど(このうちウルが最大でユーフラテス河付近にあった)⑸シュメール文明の特徴は?=�神殿が政治・経済の中心だった�神権政治が行われていた�ジグラット(聖塔)が都市のシンボル�60進法を使用した�太陰暦の使用した�彩文土器の使用した�古代インドのインダス文明との交流があった�犂スキ、舟、車、などを発明した�ギルガメシュ神話(ウルク)の洪水伝説�1週7日制(占星術)シ...シュメール文明のチェックポイント

  • ツタンカーメン

    【ツタンカーメン】は【新王国】第【18】王朝の少年王で、【黄金のマスク】の発見で有名な王です。イクナートンの腹違いの弟であろうと考えられています。イクナートンがなくなった後、【アモン】を祭る【テーベ】の神官たちに押されてテーベに都を戻し、ツタンク・アモンと名乗りました。在位9年18歳で死去したため、王墓の建設がまにあわず、【テーベ】近くの【王家の谷】にある大臣の墓に葬られました。それから3300年後、イギリス人【ハワード=カーター】が1922年に発掘し、王のミイラには黄金のマスクが被せられていたわけです。ツタンカーメンの黄金のメスク考古学者ハワード=カーターがルクソールでツタンカーメンの墓を発掘ツタンカーメン

  • ファラオ

    ギリシアの歴史家【ヘロドトス】は「【エジプトはナイルのたまもの】」という言葉を残しました。彼は【前5】世紀の歴史家ですが、ピラミッドについても多数の奴隷に労働によって作られたと、書き残しました。【カイロ】の対岸にある【ギザ】という場所に【3大ピラミッド】があります。【クフ】王のピラミッドが最大ですが、カフラー王やメンカフラー王のピラミッドも巨大なものです。彼らのようなエジプトの王を【ファラオ】とよびました。現在ではピラミッドはファラオの墓ではないのでは??と考えられています。このような大ピラミッドは【古王国】時代の【第4】王朝にさかんに作られました。それより以前、上エジプト(ナイル川【上流】地域のことをそうよびます)から登場して、下エジプト(ナイルの【デルタ】地帯)を征服し、最初のファラオになったのは【メネス】...ファラオ

  • アケメネス朝ペルシア(1)建国期

    4王国分立時代の【メディア】を倒して【ペルシス】地方から拡大していったのが【アケメネス朝ペルシア】です。【前550】年に建国し【前330】年に【アレクサンドロス】大王によって滅ぼされました。約220年間の歴史ですが、世界史で扱う時期は限られていて、王も建国期から全盛期までの4人と、最後の国王だけです。建国者は【キュロス2世】といいます。ペルシスから【メディア】王国を滅ぼし、さらにメソポタミアの【バビロン】も征服した業績を残しています。しかし、彼の名を世界の歴史にとどめさせたのは、彼が戦争で勝利したことではなく、【前538】年に約50年間バビロンで奴隷としてとどめられていた【ユダ】の人々を解放し、故郷のイェルサレムに戻したことでしょう。その結果、ユダの人々(ユダヤ人)は【前6】世紀に【イェルサレム】に戻ると【神殿...アケメネス朝ペルシア(1)建国期

  • 文化と文明

    文化とは、その民族がしている習慣のことで、他の民族からは「何でそんなことする??」といった感じの習慣です。たとえば、箸の使い方なんか、どうでもいいじゃん!?と言われたら、だけど、なんとなくうまく説明できないけど、やっぱ、箸の使い方にはルールというか、マナーがあるんだ!!としか、言えないようなものが、文化です。一方、文明は、どの民族にも広く受け入れられている習慣です。キリスト教はさまざまな民族が信仰している宗教ですから、文明といえます。でも、神道は日本人しか信仰していませんから、これは日本の文化です。文明を世界に発信して民族は、世界史でも限られた民族しかいません。文化と文明

  • 古代オリエント史を説明すると・・・

    ※概観古代オリエント史はティグリス・ユーフラテス河流域のメソポタミア地方と、ナイル河流域のエジプトの2地域が中心となっている。これに地中海東岸地域とアナトリア(小アジア)を加えて考えていけばよい。これら地域毎に分けて古代オリエント史を考えることが多いのだが、じつはオリエント世界全体を掌握しながら、時代区分を行って見ていくほうが理解し易いのである。すなわち、シュメールから始まった古代文明が、農耕文明としてチグリス・ユーフラテス河流域で成熟していき前18世紀のバビロニアで集大成される時期が『第1期』。この時期ではエジプトも同等レベルの文明を完成させたといえる。次いで前20世紀頃の中央アジアから始まった遊牧民族の大移動が古代オリエント世界にも波及してきた時期が『第2期』である。『第2期』を理解するためには古代世界の中...古代オリエント史を説明すると・・・

  • 都市国家の成立

    古代【メソポタミア】の都市国家は、大河が洪水であふれても水没しない、少し小高い丘の上に作られました。小高い丘の周囲は城壁で囲われ、数少ない有効な土地を守ります。水没した都市国家の周囲の水が引くと、そこには上流から豊かな土砂が運ばれ、労少なくして肥沃な土地を手にすることができたのです。こうして【前2700年】ころに、【ティグリス河】と【ユーフラテス河】に挟まれた地域の下流近くに、いくつかの【シュメール人】の【都市国家】が誕生したわけです。都市国家の成立

  • ウル=ナンム法典

    現存する最古の法典は、【ウル第3王朝】時代の「【ウル=ナンム法典】」です。1952年にこの「ウル=ナンム法典」が発見されました。それまで、紀元前1750年のものとされる「【ハンムラビ法典】」が最古の法典とされていましたが、「ウル=ナンム法典」はそれよりも古いものであり、現存する最古の法典です。残念ながら、全ての条文が残されているわけではなく、残存する35条の本文には、殺人、盗み、傷害、離婚、農地の荒廃などについての刑罰が規定されています。ハンムラビ法典の特徴である「【目には目を、歯に歯を】」の原則はうたわれていません。ウル=ナンム法典

  • ハンムラビ法典

    【ハンムラビ法典】の特徴は「【身分法】」と「【復讐法】」であるということです。なぜこの2点が特徴といえるのか?それは現在の我々が使っている法律からみて、この2点が大きな違いだからです。「身分法」というのは、「【同じ罪を犯したのにもかかわらず、その人物の身分によって刑罰に差がある】」、ということです。また、「復讐法」とは、「【犯した罪と同様の内容の刑罰を与える】」、というもの。確かに、現在ではかなもちだから刑罰が軽くなるということはないですし、交通事故で他人の肩を骨折させてしまったからといって、過失があった人の肩を骨折させるという刑罰はしていません。ハンムラビ法典のレリーフと楔形文字 ハンムラビ法典

  • アッカド王国サルゴン1世とウル第3王朝のウルナンム王

    【シュメール】文明が衰退すると、代わって【アッカド】人(セム語族)の【サルゴン1世】がメソポタミアの南にある都市国家を征服しました。しかし、彼らもまもなく滅亡し、【シュメール】人の一部が【ウル】の町を復活させました。これが【ウル第3王朝】です。このウルの町で成立したウル第3王朝の王【ウルナンムは】、法律を残しています。われわれは彼が作った【ウルナンム法典】のうちのわずかしか目にすることはできませんが、今、発見された現存する人類【最古の法典】といえます。アッカド王国サルゴン1世とウル第3王朝のウルナンム王

  • 2022年東大本試験 トルキスタン通史(2) 解答

    2022年東大本試験トルキスタン通史解説(2)「段落1」75字8世紀タラス河畔の戦いにアッバース朝が勝利し西トルキスタンでイスラム化の契機となった。東トルキスタンでは唐が都護府を置き間接統治した。この間、トルキスタンは東西交渉の舞台となりネストリウス派キリスト教や仏典が中国に持ち込まれた。114字「段落2」150字840年ウイグルが西走し東トルキスタンで西ウイグル国を建国。中央アジアがトルコ化する契機となった。11世紀には西トルキスタンで建国したカラハン朝は中央アジアを統一。この間、トルコ系イスラム王朝として中央アジアのトルキスタン化とイスラム化が進んだ。しかし、宋と結んだ金によりモンゴル高原を追われた契丹族はこれを滅ぼしてカラ=キタイを建国した。167字「段落3」150字13世紀にチンギス=ハンがホラズム王国...2022年東大本試験トルキスタン通史(2)解答

  • 2022年東大本試験 トルキスタン通史 答案の書き方(1)

    2022年東大本試験トルキスタン通史東大にはエジプト通史、イベリア通史、シチリア史といった過去問があります。これらに共通するのは、長い歴史スパンで地域を考えるときは、大きな時代の変化に注目するべきだという点です。とくにエジプト4000年の歴史を510字で書かせた問題でそれが顕著でした。さて、今年の問題はトルキスタンについて8〜19世紀に渡って600字で論述せよというものでした。まず問題の読み取り①解答すべきは、トルキスタンの歴史的展開(8〜19世紀)です。展開とは「次の段階に進めること。また、次の段階に進むこと。」ですから、「段階」そのものを考える必要があります。世界史的に言えば「段落」でしょう。この「段落」を発見することが解答のポイントです。②次にトルキスタンの何を書くのか?を探っていきます。1、トルキスタン...2022年東大本試験トルキスタン通史答案の書き方(1)

  • 2022年東大本試験 トルキスタン通史

    第1問内陸アジアに位置するパミール高原の東西に広がる乾燥地帯と,そこに点在するオアシス都市は、ユーラシア大陸の交易ネットワークの中心として,様々な文化が交錯する場であった。この地は,トルコ化が進むなかで,ペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンの名で呼ばれるようになった。トルキスタンの支配をめぐり、その周辺の地域に興った勢力がたびたび進出してきたが、その一方で,トルキスタンに勃興した勢力が、周辺の地域に影響を及ぼすこともあった。以上のことを踏まえて,8世紀から19世紀までの時期におけるトルキスタンの歴史的展開について記述せよ。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し,次の8つの語句をそれぞれ必ず一度は用い,その語句に下線を引くこと。アンカラの戦いカラハン朝乾隆帝宋トルコ=イスラーム文化バーブルブハラ·ヒ...2022年東大本試験トルキスタン通史

  • 2001年東京大学第1問エジプト史概観

    2001年東京大学第1問エジプト通史概観輝かしい古代文明を建設したエジプトは、その後も、連綿として5000年の歴史を営んできた。その歴史は、豊かな国土を舞台とするものであるが、とりわけ近隣や遠方から到来して深い刻印を残した政治勢力と、これに対するエジプト側の主体的な対応との関わりを抜きにしては、語ることができない。こうした事情に注意を向け、1)エジプトに到来した側の関心や、進出にいたった背景2)進出をうけたエジプト側がとった政策や行動の両方の側面を考えながら、エジプトが文明の発祥以来、いかなる歴史的展開をとげてきたかを概観せよ。解答は、解答欄の(イ)を使用して18行以内とし、下記の8つの語句を必ず1回は用いたうえで、その語句の部分に下線を付せ。アクティウムの海戦イスラム教オスマン帝国サラディンナイル川ナセルナポ...2001年東京大学第1問エジプト史概観

  • 2021年度東京大学第1問 問題

    第1問ローマ帝国の覇権下におかれていた古代地中海世界は,諸民族の大移動を契機として、大きな社会的変動を経験した。その際,新しく軍事的覇権を手にした征服者と被征服者との間,あるいは生き延びたローマ帝国と周辺勢力との間には,宗教をめぐるさまざまな葛藤が生じ,それが政権の交替や特定地域の帰属関係の変動につながることもあった。それらの摩擦を経ながら,かつてローマの覇権のもとに統合されていた地中海世界には,現在にもその刻印を色濃く残す,3つの文化圏が並存するようになっていった。以上のことを踏まえ,5世紀から9世紀にかけての地中海世界において3つの文化圏が成立していった過程を,宗教の問題に着目しながら,記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記し、次の7つの語句をそれぞれ必ず一度は用い,その語句に下線を付しなさい。...2021年度東京大学第1問問題

  • 2021年東京大学本試 第1問解説(速報)

    2021東大本試第1問文化圏内の宗教対立や文化圏間の宗教的対立を経て地中海世界に3つの文化圏が成立していく過程を記述する問題。リード文を読み解くことで「対立」を具体化していく。ただし、リード文に指示語が多いので確認しながら考える必要がありそうです。この問題の最大のポイントは文化圏成立の過程をそれぞれ時代順に記述することが求められてはいないということ。受験の現場で多くの受験生は各世紀ごとにカール戴冠による西欧世界の成立、イスラム教世界の拡大の過程、ビザンツ帝国についてはユスティニアヌスの時代とレオ3世のイコン禁止について記述するのではないか。それでもそれなりの得点にはなるはず。書くべきポイント1.5~9世紀地中海世界における3つの文化圏(イスラム世界・ギリシア正教世界・ローマカトリック世界)が成立した過程。それぞ...2021年東京大学本試第1問解説(速報)

  • 2014年一橋大学本試 第4問 清末の改革 朝鮮と日本・ロシア関係

    2014年一橋大学本試【3】次の文章は、16世紀から17世紀末にかけて大きく変動した東アジア情勢の一端を伝えるものである。これを読んで、問1、問2に答えなさい。万暦47年(1619年)のサルフ山の戦いで大敗して以降、明朝では、女真族の軍事的脅威が高まりを見せる。こうした中で、新式火器の導入をもってかかる危機的状況を打開しようとしたのが、官僚にしてキリスト教徒として著名な徐光啓である。爾後、明朝では、徐光啓やその弟子の李之藻、孫元化などが、火器に精通し、(A.)のポルトガル人と深い関係を持つキリスト教官僚らを中心に、新式火器の導入や火器の整備が建議・実施される。万暦32年(1604年)、進士となり官界に進出した徐光啓は、しばしば兵事、特に新式火器の導入による軍備充実の必要性を陳述して注目を浴びた。それは主として、...2014年一橋大学本試第4問清末の改革朝鮮と日本・ロシア関係

  • 2017年筑波大学第4問 冷戦構造の成立

    2017年筑波大学第4問各問について,それぞれ400字以内で解答しなさい。なお,解答文中では指定された語句に下線を施すこと。第二次世界大戦後,世界はアメリカとソ連という二つの超大国を軸に,西側の資本主義陣営と東側の社会主義陣営に分断され,相互に激しく対立した。このいわゆる冷戦構造の成立期におけるヨーロッパの動向について,以下の語句を用いて説明しなさい。北大西洋条約機構(NATO)経済相互援助会議(COMECON)ドイツ民主共和国トルーマン=ドクトリンマーシャル=プラン解答例ヤルタ会談にしたがって戦後ドイツとベルリンは東西に分断された。ソ連に解放された東南欧諸国と東独はソ連の衛星国となり社会主義政権が成立した。このような中、アメリカは47年トルーマン=ドクトリンで封じ込め政策を展開し、トルコ・ギリシアの共産化を防...2017年筑波大学第4問冷戦構造の成立

  • 2002年一橋大学第1問 解答例

    2002年一橋大学本試【3】日中戦争と朝鮮支配解答例A:1900年山東半島を中心に仇教運動を展開した義和挙が蜂起した。この宗教団体は扶清滅洋を掲げ、反帝国主義的要素を持っていた。そのため保守的な政権である清朝西太后政権は義和団を支援して列強に宣戦した。これに対し列強8か国は共同出兵して清に勝利を収めた。その結果、清朝と列強は1901年北京議定書を締結し、列強は清朝から北京における駐兵権を獲得した。また北京議定書では多額の賠償金を獲得している。B:1910年初代朝鮮総督寺内正毅は武断政治をとり、日本語を強制し土地を没収するなど強権的に統治した。しかし第1次世界大戦後の民族自決の潮流の中、1919年三・一独立運動が発生。これを契機に日本は文化政治に転換した。その中で創氏改名や神道の強制といった皇民化政策すなわち同化...2002年一橋大学第1問解答例

  • 2014年 一橋大学 第1問 解答例

    2014年一橋大学第1問解答例百年戦争は長期化し領主階級に負担が広がり、イングランドでも戦費を調達するために農奴に税がかけられた。13世紀に十字軍遠征により広域商業圏が成立すると、イングランドでは貨幣経済が発展した。それに伴って14世紀には生産物地代や定額の貨幣地代を求める純粋荘園が広がった。しかし14世紀にイングランドは寒冷化し、また14世紀後半からペストが大流行したため、農奴が激減し、耕作地が放棄された。そのため農奴の中から、農民保有地を買い取りヨーマンと呼ばれる独立自営農民になる者が出現するなど、農民の地位は向上していった。その一方で領主階級は没落していった。国王側近などの領主階級は定額の貨幣地代による減収、さらに農奴の激減といった危機の中、領内の農奴に対する抑圧を強化しつつ暴力的にヨーマンの土地を奪うな...2014年一橋大学第1問解答例

  • 2012年一橋大学 第1問 解答例

    2012年一橋大学本試【1】解答例ユグノー戦争の原因は、周辺国で王権が強化される中、フランス王権による集権化を目指す勢力とそれに抵抗する勢力の対立という政治状況である。この構図は14世紀初以来フランス王権が国内教会に対して指導的地位を持つのに対し、カルヴァン派であるユグノー勢力が拡大していた宗教対立でもあった。1572年新旧対立の融和を口実にパリに集められた新教側貴族を虐殺したセント=バーソロミュー事件が転機となった。これにより国王支持勢力と反国王勢力すなわちカトリック側諸侯とユグノー側諸侯の対立は激化し、30年以上の戦乱の中、有力な諸侯の多くが途絶え、王家ヴァロア家も断絶した。やがてユグノー側の指導者アンリ=ド=ブルボンは対抗する勢力を抑えフランス国王に即位した。その際、政治的統一を優先することを目的に法に従...2012年一橋大学第1問解答例

  • 2018年東大 第1問 解答例

    2018年東大本試験第1問解答例農業社会では男女は平等な労働力とされていた。19世紀に産業革命が進むと、既婚女性は労働から疎外されジェンダーが社会的に固定化した。さらにフランス人権宣言は女性の権利を認めておらず19世紀以降、男女同権を主張するフェミニズム運動が拡大した。看護学の基礎を確立したナイティンゲール、化学分野で貢献しノーベル賞を受賞したキューリ、奴隷解放運動に大きな影響を与えた『アンクル=トムの小屋』を著したストウ夫人などが活躍した。彼女等の活躍はフェミニズム拡大に寄与した。第1次世界大戦が長期化し総力戦を強いられると、男性に代わり女性の社会進出が進んだ。その結果、イギリスで第4次選挙法改正が行われ、初めて30歳以上の女性が参政権を獲得した。さらに第5次選挙法改正で男性と同等の選挙権を獲得した。またドイ...2018年東大第1問解答例

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