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  • しあわせなサプライズ

    面白い動画を見つけました。①日本フィルハーモニー交響楽団山田和樹氏②大阪フィルハーモニー井上道義氏はお茶目にタ〜〜〜ン。③バイエルン放送交響楽団マリス・ヤンソンス氏すっごくおしゃれ!観客も一緒に満喫④サイトウキネンオーケストラ打ち合わせと違う出だしにあわてるコンマス氏小澤征爾氏が足をバタバタさせて可愛いこと。④ジャスミン・アラカワピアノ協奏曲のカデンツの中に。⑤ベルリン・フィルホルン奏者の方がお誕生日だったのですね。指揮はドュダメル氏⑥トロント交響楽団観客総出でお祝い!⑦ロサンゼルス・フィルハーモニックジョン・ウィリアムズ指揮・編曲かな?指揮者のドュダメル氏のお祝いでした。✨✨✨✨✨ツィメルマン氏のお誕生日。べートーヴェンのピアノ協奏曲第3番が始まっと思ったら…。(笑)しあわせなサプライズ

  • 子守歌

    1868年ブラームス35歳の時にウィーン音楽院の教授に就任。友人べルタ・ファーバーに次男が生まれたことを記念して「子守歌」を作曲しました。ファーバーはハンブルクでブラームスが指導していた女声合唱団の一員で親しかったようです。初演はウィーンでルイース・ドゥスレマンとクララ・シューマンによって行われました。こちらは懐かしいディズニーの「わんわん物語」1955年の制作ですが小学生の時に映画館で観ましたがこの作品の中に素敵な子守歌がありました。「ラ・ラ・ルー」子守歌

  • 誰が書いたの?

    「おもちゃの交響曲」小学校の教科書に載っていてハイドン作曲と習った楽しい交響曲です。1951年この作品はモーツァルトの父レオポルドの作曲とされるカッサシオン(全7曲)がバイエルン州立図書館から発見されそのうちの3つが「おもちゃの交響曲」と同じであったためにレオポルドの作曲との説が定着します。しかし1992年に驚くべきことが起こります。オーストリアのチロル地方のヴェネディクト会のシュタムス修道院の音楽蔵書の中から1785年に神父であったシュテファン・パルセッリが写譜した「おもちゃの交響曲」の全ての楽譜が発見されました。そこにはチロル出身のエトムント・アンゲラーが1770年頃に作曲したと記されていたのです。(゚∀゚)誰が書いたの?

  • 雨の休日

    菜種梅雨が続く中ポリーニ氏の訃報が報じられました。現代最高のピアニストのお一人。はじめてショパンのエチュードの全曲演奏を聴いた時はあまりの完璧さと精緻な美しさに唖然!打ちのめされるほどの衝撃でした。✨✨✨✨✨昨夜のクラシック音楽館は「バレエの饗宴」①東京シティ・バレエ団「ルール・ブルー」バッハモーツァルトボッケリーニバッハのパルティータのメヌエットや前奏曲、ジーグなどのピアノ演奏に合わせて絵画の中から飛びだして踊る演出。②眠りの森の美女から「グラン・パ・ド・ドウ」マリンスキーバレエより永久メイ&スチョーピン③くるみ割り人形「グラン・パ・ド・ドウ」英国ロイヤルバレエ団より金子扶生&ムンタギロフ④創作バレエ「幻灯」中村祥子&小尻健太暗い中、白い衣装が印象的。床に影が映って幻想的な美しさです。⑤新国立劇場バレエ...雨の休日

  • イタリア

    昨日は冷たい雨の一日でした。今朝も曇天ですので明るい曲を選びました。メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」です。彼は21歳の時にイタリアを旅します。ベネチア・フィレンツェ・ローマなどイタリアの自然や芸術などにメンデルスゾーンは衝撃を受けます。この上もなく温かい太陽の光・青い空・澄んだ空気。創作意欲をかき立てられた彼はローマで「イタリア」を書き始め初演は大成功でした。幸福感と躍動感にあふれた曲です。指揮リッカルド・シャイーベルリン・フィルメンデルスゾーンの父は銀行家祖父は現代のプラトンと謳われた大哲学者モーゼスという教養と資産の豊かなユダヤ人のブルジョア家庭に生まれました。受けた教育は当時としては第一級のものでした。彼は旅先で多くの風景画を残していますが少年時代から絵画の専門教育を受けていました。↑アマ...イタリア

  • 春の声

    昨日から水に漬けておいた夏ミカンの皮でピールを作りました。お紅茶と共に楽しみます!ワルツの帝王ヨハン・シュトラウス2世「美しく青きドナウ」など普墺戦争に敗れた国民を勇気づけるワルツを170曲も作曲しました。1882年親友だったピアニストのフランツ・リストとパーティで同席しますがリストの前で即興で作曲した曲が「春の声」でした。この頃のシュトラウスは新しい恋が3回目の結婚に向けて発展しつつあった時期で若々しく溢れるばかりの幸福感に満ちています。お相手のアデーレは26歳シュトラウスは62歳。のちにソプラノ歌手のビアンカ・ビアンキのためにオーケストラ伴奏付きの歌曲として発表され大成功を収めました。歌詞は劇作家ジュネの詩をもとに春の訪れを喜ぶ気持ちが表現されています。歌詞の要約は「春が来てひばりが舞い夜はナイチンゲ...春の声

  • 不倫が生んだ傑作

    ↑エリンジウム花言葉は「不倫」「トリスタンとイゾルデ」はリヒャルト・ワーグナーが作曲した楽劇です。この作品に取り掛かっていた時期ワーグナーは妻ミンナとの関係が破綻寸前でした。そんな時にワーグナーは若くて美貌の人妻マティルデと出会います。↑不倫の相手マティルデ・ヴェーゼンドンク「トリスタンとイゾルデ」は不倫が生んだ音楽史上まれにみる傑作になりましたがそれはこの作品の特徴が「調性の破壊」だったからです。転調による転調終始することなく限りなく続く転調によって展開していく無限旋律は不倫という結末の見えない愛現世では成就しない愛を表現しているかのようです。ワーグナーは純粋に自分の気持ちを音楽で表現したに過ぎなかったのですがこれは20世紀の音楽を無調という音楽に導くきっかけとなりワーグナの偉業のひとつになりました。「...不倫が生んだ傑作

  • ミルテの花

    今日は遅れに遅れての樹木の剪定です。朝8時から夕方まで一日がかり。お天気になり良かった!21歳の誕生日を翌日に控えた1840年9月12日クララ・ヴィークは裁判の末にクララ・シューマンとなりました。結婚の年シューマンの創作力はこんこんと湧きあがり「ミルテの花」「詩人の恋」などの歌曲が生まれその翌年から彼の創作意欲は交響曲に向かいます。結婚に続く数年は作曲家シューマンにとってもっとも充実した時期でした。ミルテの花花言葉「愛」「愛のささやき」↓歌曲「ミルテの花」よりくるみの木フィッシャー・ディスカウイェルク・デームスおうちの前に青々と葉を茂らせたくるみの木さわやかに軽やかに葉を広げている。枝には可愛いお花がいっぱいやさしい風が吹いてきてお花を温かく包みこむ。花たちは風に吹かれそのたびに口づけを交わす風と共に愛の...ミルテの花

  • 春へのあこがれ

    昨夜も冷たい雨夜半には風の音で目が覚めてしまいましたのでモーツァルトの「春へのあこがれ」を聴いてみました。子供の頃に歌った懐かしい歌です。歌シュワルツコップピアノギーゼキング(2‘04‘‘)ピアノ協奏曲27番の3楽章の主題を使って1791年モーツァルトが亡くなる年に作曲されました。ピアノマレイ・ペライヤ(8‘34‘‘)ドイツの詩人クリスチャン・オーヴァーベックの童詩集「フリッツヒェン」の詩が歌われています。ヨーロッパの春は5月にやってくるのです。『来てね、5月さんそして木々をまた緑にしてねそして小川の岸に小さなすみれを咲かせてね本当にお願いね私はまた、すみれを見たいのねぇ、5月さん私は本当にまた散歩に出かけたいのよ』春へのあこがれ

  • 三寒四温

    土曜日・日曜日は春の陽気でしたのに昨日は一転して冬の寒さに戻りました。アメリカの作曲家アーロン・コープランド(1900−1990)彼はリトアニア系ユダヤ人の移民の子供としてニューヨークに生まれました。8歳から作曲を始め15歳でポーランドのピアニスト、パデレフスキーの演奏を聴いて感動し音楽家になることを決心します。21歳でパリに留学。ブーランジェに師事して帰国するとアメリカ的な音楽を模索し古謡を取り入れた親しみやすい曲を作曲しました。「アパラチアの春」は1944年に書いたバレエ音楽です。オーケストラ用組曲に編曲されたのは1945年でした。「アパラチアの春」指揮バーンスタインニューヨーク・フィルアメリカ開拓時代の質素な暮らしを描いたこの曲からはアメリカの民謡が沢山聴こえてきます。コープランドはこの作品でピュー...三寒四温

  • 千人の交響曲

    ≪N響2000回定期公演≫交響曲第8番「1000人の交響曲」指揮ファビオ・ルイージ記念の演奏会らしく滅多に聴くことの出来ない演目です。一人住まいをよいことにクラシックの演奏を聴く時にはボリュームを上げます。以前はテレビをスピーカ―に繋いでいましたが一人になってからは取り外してそれなりの音量に上げて聴くことにしています。独唱者は8人。コンマスは篠崎史紀氏OBも総出で懐かしいお顔を拝見することができました。第1部「来たれ、創造主なる聖霊よ」客席から演奏するステレオ効果の金管群。第2楽章「ゲ―テ「ファウスト第2部」から最後の場」合唱とオ―ケストラの天国的な演奏が続きましたが「栄光の聖母」はオルガン席より三宅理絵さんが歌われました。素晴らしい合唱。児童合唱は全員暗譜です。マーラーが作曲を終えた時に『宇宙がふるえ、...千人の交響曲

  • 180cmを越す長身

    フランコ・コレッリ(1921−2003)1921年イタリアのイタリア生まれのテノ―ル歌手テノ―ルの貴公子(PrinceofTenore)と呼ばれ映画スターのような端正で彫りの深いマスク180cmを越える長身とスラリとした長い足で女性に圧倒的な人気がありました。輝かしい声の魅力と優れた歌唱力で主にオペラの世界で活躍しました。マリア・カラスともたびたび共演しています。オペラ「トスカ」より「星は光りぬ」(2‘25‘‘)ロ―マのサンタンジェロ城の牢獄に捕われている画家カヴァラドッシ。夜が明けると教会の鐘が鳴り刑の執行を受けるために城の屋上へと連れていかれます。カヴァラドッシはトスカと過ごした日を回想して辞世の歌を歌います。180cmを越す長身

  • 一番乗り

    今夜は久しぶりの音楽仲間との会食です。一足早く桜づくしで和食と日本酒を堪能させて頂きました。残念ながら天麩羅は写真を取り忘れました。✨✨✨✨✨小学生の生徒がこの時期に弾く平井康三郎氏の幻想曲「さくら」です。一番乗り

  • 8億人を魅了

    1990年サッカー・ワールドカップイタリア大会決勝戦の前夜祭としてローマの世界遺産カラカラ浴場で開催されたコンサートがパヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラスの3人のテノ―ルが同じステージに立つ初舞台でした。その模様は世界54ヶ国に中継されて8億人が視聴しました。ルチア―ノ・パヴァロッティ声だけで人の心をわしづかみするテノ―ルで「キング・オブ・ハイC」「イタリアの国宝」と呼ばれる美声。オペラ界に君臨しソロでもド―厶球場を満員にするほどの人気ものでした。イタリアモデナ生まれプラシド・ドミンゴ研究熱心でピアノの腕前も確かでロマンチックなオペラのヒ―ロ―に相応しい端正な顔立ちと高身長に恵まれていました。スペインのマドリ―ド生まれホセ・カレーラス熱唱型のテノ―ル白血病に罹ったが奇跡的に復活し「ホセ・カレーラス国際白血...8億人を魅了

  • 乙女の祈り

    ピアノを習い始めてからバッハやハイドンモーツァルトなどの作品を教えて頂きましたが作曲家は男性ばかり。作曲は男性の仕事だと思い込んでいました。女性作曲家で音楽史に名前を残す人はきわめて少ないのですが史上初の作曲家はヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098−1179)という預言者で女子修道院長だった人物とされています。女性として初めてオペラを書き残したフランチェスカ・カッチーニその後ナンネル・モーツァルトやファニー・メンデルスゾーンクララ・シューマンアルマ・マーラーなどが作曲していました。彼女達の才能は弟や夫との影に隠されながらも伝えられてきましたが残念ながら出会うチャンスなく過ごしていました。「乙女の祈り」の作曲家が女性だと知ったのはずっとあとのこと。ポーランド生まれのテクラ・バダジェフスカ。18歳の時に書...乙女の祈り

  • シノーポリ

    冷たい雨の午後「徹子の部屋」のゲストは堺正章さんでした。お父さまはコメディアンの堺駿二氏。新宿コマ劇場で公演中に急逝されたお話を伺いました。音楽の世界では指揮台上で亡くなったマエストロがいらっしゃいます。ヴェルディの「アイーダ」を演奏中に心筋梗塞に襲われ亡くなられたのはイタリア出身のジュゼッペ・シノーポリ氏。パドヴァ大学で心理学と脳外科を学び学位を取得。指揮者・作曲家として活躍されていました。死の直前に考古学の学位も取得。明るくて料理もお得意なマエストロ。54歳でした。「アイーダ」の前奏曲リカルド・厶ーティ(3‘34‘‘)シノーポリ

  • 万博の赤字

    小雨の朝裸木に沢山の鳥たちが集まってきてペチャ・クチャ賑やかなおしゃべり。何か良いニュースでもあったのかな。✨✨✨✨✨1873年にシュトラウス2世は「ウィーン気質」を作曲フランツ・ヨ―ゼフ1世の長女ギ―ゼラとバイエルンの王子レオポルドのために作られた曲で4月に楽友協会で開かれたた宮廷オペラ舞踏会で初演されました。又、この年には5月1日―10月31日までウィーン万国博覧会が開催されましたがプラ―タ―公園に設けられた会場は4年前に開かれたパリ万博の5倍の広さでした。↑メインパビリオンの大ド―厶シュトラウス2世も万博成功のためにワルツ「わが家で」を作曲して初演しています。しかし万博初日の5月1日、ウィーンは季節はずれの寒波と風雨に見舞われます。悪天候は5月いっぱい続きその間に株価が暴落して景気は一変しコレラの流...万博の赤字

  • パンとワイン

    休日の午後はピアノを弾きながらお肉をグツグツ煮込みました。ビゴのバケットと赤ワイン。クラシック音楽館はファビオ・ルイ―ジ指揮①交響曲100番「軍隊」ハイドン作曲②ピアノ協奏曲第1番リスト作曲ピアノ独奏はアリス・紗良・オット真っ赤なドレスにやはり素足です。ペダルが冷たくないかと心配になりますが優雅にオケとアイ・コンタクトを取りながらの演奏。とても面白い!14歳で弾いた大好きな協奏曲だそうですが、私の先生も同じ頃に弾かせて下さいました。トライアングルで始まる3楽章がお洒落で好きです。4年前に多発性硬化症を発症されました。チェリストのジャクリーヌ・デュプレがかかった病気ですが今のところ無症状が続いているそうです。病を乗り越えて演奏される姿に涙ぐみましたがステ―ジの出入りはなんと軽やかな駆け足!アンコ―ルはグノシ...パンとワイン

  • サラサ―テ

    今日はヴァイオリンの名手サラサ―テがスペインのパンプロナで生まれた日です。8歳で演奏会を開き10歳の時にはマドリ―ドの宮廷でイザベラ女王の前で演奏してストラディバリウスを下賜された上に女王陛下の援助でパリ音楽院に留学させてもらいました。サン・サ―ンスから「序奏とロンドカプリチオ―ゾ」「ヴァイオリン協奏曲第3番」から献呈されています。ドヴォルザークからは「マズルカ」など多くの作曲家からヴァイオリン曲を捧げられました。サラサ―テ自身の作曲は「ツィゴィネルワイゼン」で管弦楽伴奏付きのヴァイオリン曲です。「スペイン舞曲」や「バスク奇想曲」などスペイン風の情緒溢れるメロディーが特徴です。1883年に作曲されたヴァイオリン独奏と管弦楽のための作品「カルメン幻想曲」はビゼ―のオペラ「カルメン」のモチ―フによる演奏会用の...サラサ―テ

  • 白内障

    眼科検診に伺いました。20年ほど前から遠近両用のコンタクトを使用しています。白内障が進んできましたが手術すると明るく見えるようになりコンタクト使用時と同じくらいの視力がでると説明を受けました。現在、使用中のコンタクト4.75は細かい譜面はとても良く見えますが少し離れたTVの画面の字が読みづらいと申し上げると3.5の度数のものを試してご覧なさいと勧めて下さいました。3.5にするとTVの画面がはっきり見えるではありませんか。以前の視力に戻っている?いよいよコンタクトの度数が限界にきていたので手術が必要かもと考えていましたが先伸ばしになりそうです。✨✨✨✨✨1685年の同年生まれのバッハとヘンデル晩年の同じ頃にイギリスのジョン.テイラ―という眼科医に白内障手術を受けて失敗失明しました。↑ジョン・テイラ―白内障

  • ミモザの日

    今日はミモザの日。イタリアでは男性から普段お世話になっている女性にミモザをプレゼントする習慣があり「ミモザの日」とも呼ばれています。そして3月8日は国連によって定められた「国際女性デ―」こんな1曲はいかがでしょうか。プッチ―の初期の出世作「マノン・レスコー」そのオペラの中に修道院に入ろうとする純情な娘マノンを目にして瞬時に恋に落ちた若い騎士デ・グリューが歌う美しいアリアがあります。「なんと素晴らしい美人」パヴァロッティ(3‘02‘‘)そのデ・グリューとの貧しい生活に耐えきれずマノンは兄から紹介された裕福な老人の庇護を受けることになりますがそんな豪華な暮らしに飽きてしまうのです…。ミモザの日

  • 『フィラデルフィア』

    2月に戻ったかのような寒さでしたが晴れ間が戻ってきてあたたかくなりました。寒い時には買物にも出かけずビ―フシチューを煮込んだり粕汁を作ったりとキッチンで過ごしていましたがそろそろ冷蔵庫のお野菜も終わりですので今日は買物ディです。昨日は久々の休日になりましたのでBSの映画を観ました。『フィラデルフィア』エリ―ト弁護士アンドリュ―はエイズに罹患し解雇されます。エイズ患者への不当な差別として訴訟を決意します。トム・ハンクスの痩せ衰えた姿での演技の凄さ。この映画ではデンゼル・ワシントンが普通に見えてしまいました。圧巻はアンドリューがマリア・カラスの歌うアリアにのせて死に直面している心情を語る場面。マリア・カラス「Lamammamorta」ジョルダーノ作曲オペラ「アンドレア・シェニエ」フランス革命が舞台です。主人公...『フィラデルフィア』

  • 『パイプのけむり』

    昔の愛読書のひとつにパイプのけむりがありました。作曲家の團伊玖磨氏が36年間書き続けられた随筆1842本です。今でも覚えているのがシラミの歌。戦争中、陸軍音楽隊の上等兵だった團氏と芥川也寸志氏。ある日の午後、虱が一匹、机の上を這い回っているのを見つけました。シラミは音階になっているところから2人で作曲?「ソラソラシラミ」「ドラドラシラミ」「ミレドミレドシラミ」「シ・ラ・ミっ!」大笑いした楽しい思い出です。團伊玖磨氏は上皇さまと上皇后さまのご成婚のときに『祝典行進曲』を作曲されました。『コンサート用の優雅な曲想の行進曲を作曲してこれからの希望あふれる日本を祝福したかった』と語られていました。初演はご成婚の日の夕方国立競技場での「皇太子さまご結婚お祝いの夕」で陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊、警視庁、東京消...『パイプのけむり』

  • 超スロー!

    昨日は歯科健診にお伺いしました。虫歯は無いとのことでクリーニングが始まりました。顔は柔らかなタオルで覆われていて真っ暗ですが耳には優しい音。聴き覚えはあるけれど何の曲?しばらくしてシュ―べルトだと気づきました。(笑)シュ―べルト「楽興の時第3番」シュ―べルトが亡くなる年に書いたシンプルで可愛らしい曲が別物に変身です。ポップな音でしかも原曲がわからないほどの超スローテンポ。(笑)確かにリラックスできますね。❣️超スロー!

  • 躍動感溢れて

    ひな祭りの夜はチラシ寿司。少し物足りないので小海老のフライとお吸い物。あとはチーズとシャンパンでクラシック音楽館でした。前半は「ヘンゼルとグルーテル」前奏曲指揮はファビオ・ルイージ。うすもやのかかる森の朝を思わせるホルンのやわらかな音色で始まりました。🥀🥀🥀🥀🥀後半のプログラムはベルリオーズの「幻想交響曲」①1楽章「夢、情熱」②2楽章「舞踏会」③3楽章「野の夢」④4楽章「断頭台への行進」⑤5楽章「魔女の夜宴の夢」ファビオ・ルイージの端正な指揮で美しい。4楽章からラストに向かっての演奏は管楽器の「ディエス・イレ」の旋律の凄さ。迫力満点の演奏で「ブラヴォー」が響き渡りました。躍動感溢れて

  • 3月3日

    今日はおひなさま。昨日は雪が舞っていましたが今朝は少しあたたかくなりました。✨✨✨✨✨カロリーネ・ヴィトゲンシュタイン夫人1847年36歳のリストのコンサートを聴きにきた8歳年下の大地主カロリーネ・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人がリストの才能に深く感動します。リストは彼女の深い教養ともの静かで控えめな態度に魅せられます。ワイマールの宮廷指揮者に招かれていたので先に移住し間もなくカロリーネを呼びよせました。2人の住む館にはヨーロッパ中から芸術家が訪れるようになりました。聡明なカロリーネはリストに演奏活動よりも作曲に身を入れるように助言します。彼は2曲のピアノ協奏曲や「ピアノソナタ」を書きあげ更に「交響詩」というジャンルを創り上げ「前奏曲」を作曲しました。ベルリン・フィル「前奏曲」(3‘06‘‘)リストはカロリ...3月3日

  • くじ運

    昨日の午前中は芸術文化センターの抽選会でした。ラッキーなことに3番を引きあてて春休みの土曜日に演奏会ができることになりました。✨✨✨✨✨ゲオルク・フィリップ・テレマン独学で音楽を学び4000曲以上を作曲しました。1702年ライプツィヒに演奏団体「コレギウム・ムジクム」を創設してオーケストラをつくってコンサートを行いオペラ座の音楽監督に就任しました。20代前半ですでにマルチプレーヤーでした。中でもよく知られているのがターフェル・ムジーク(食卓の音楽)で楽しさに溢れた組曲、四重奏曲、協奏曲などで構成される祝宴や饗宴のための音楽です。饗宴は富と権力の見せ場で豪華に飾りつけた食卓で洗練された給仕は大切なパフォーマンスでした。ロースト肉を切り分けるのは見目麗しい身分の高い貴族の若者で彼らは優雅な肉の切り分け方を練習...くじ運

  • ファツィオリ

    昨日は滋賀県までファツィオリのフルコンサート弾きにお伺いしました。ショパン・コンクールでブルース・リュウが弾いた楽器です。べーゼンドルファやスタインウェイとは全く違う弾き心地とホールの響きは格別でした。チッコリーニ氏のサイン↓✨✨✨✨✨✨今日はショパンの誕生日。ワルシャワ音楽院在学中に『諸君、脱帽したまえ天才だ』とシューマンに言わしめた飛びぬけた天才であったショパン。しかし1829年にウィーンでコンサートを開いた時には才能は評価されたものの注目されるにはいたりませんでした。「シュトラウスのワルツという太陽が全てを翳らせてしまう」となげいたようです。その後、パリへと渡って行きますが「ピアノの詩人」と呼ばれ世界中のピアニストから愛され続けています。薔薇ショパンファツィオリ

  • ローン・レンジャー

    今日で2月も終わり。早かったですね。そして2月29日はロッシーニの誕生日です。イタリアのオペラ作曲家で軽妙洒脱で喜劇性の高い作品(オペラ・ブッファ)を次々と発表しましたが40作目のオペラ「ウィリアム・テル」を発表後、引退しました。絶頂期真っ只中でしたが引退の理由は美食と料理で大好きなトリュフを探す豚を飼育するためでした。(゚∀゚)彼はすでに築いた巨万の富でパリにサロンを開きましたが彼の名の付いた数々のレシピが残っています。トゥルヌドロッシーニロッシーニカクテル彼の最後の作品である「ウィリアム・テル」序曲日本では運動会の定番曲として親しまれてきましたが1958年からTVで放映されていた「ローン・レンジャー」のテーマ音楽でしたのでとても懐かしいです。ローン・レンジャー

  • お菓子の家

    ヨーロッパではクリスマスの時期に「ヘンゼルとグレーテル」のオペラが上演されます作曲はフンパーディンクでライン川の支流ジークブルクに生まれケルン音楽院で学んだのちイタリアに留学しました。イタリアではワーグナーに出会いバイロイトで「パルジファル」の上演の助手をつとめてワーグナーの仕事から多くのものを学びます。「ヘンゼルとグレーテル」の作曲のきっかけは妹から夫の誕生日に子供達が演じるための音楽を依頼されたからです。グリム童話の残酷な部分をのぞいて明るい台本を書いたのは依頼した妹でした。森の朝を思わせるホルンの音色で始まる序曲子供から大人までハッピーになれるオペラです。初演はリヒャルト・シュトラウスの指揮で行われました。唯一のメルヘン・オペラでドイツ圏では現在でも上演回数上位の人気作品です。「ヘンゼルとグレーテル...お菓子の家

  • エリザベートと美しく青きドナウ

    革命後の不安定なオ―ストリア帝国の皇帝に18歳で即位したフランツ・ヨ―ゼフ。一目惚れを実らせて妃に迎えたのが16歳の美貌の皇妃エリザベートでした。身長は172cm、ウエスト51cm体重45kgの体型を保つために激しいトレーニングとダイエットにのめり込みますがお菓子も大好きでした。エリザベートはハプスブルク家の家風や厳格な宮廷が肌に合わずさまざまな口実を見つけてはウィーンを離れて旅を続けていました。彼女はハンガリ―で人気があり彼女自身もハンガリ―贔屓でした。エリザベートが愛したハンガリ―の陶器ヘレンド↓1867年オーストリアがプロイセンとの戦争に負けて落ち込んでいる国民を励ますためにシュトラウス2世が「美しく青きドナウ」を作曲しました。同年の4月―10月にかけて開かれた第2回パリ万国博覧会でシュトラウス2世...エリザベートと美しく青きドナウ

  • 莫大な財産を後ろ楯に。

    ヨ―ロッパのルネサンス時代にドイツで大きな出来事がふたつ起こりました。ひとつはグ―テンベルクの活版印刷、もうひとつはルターによる宗教改革でした。この頃に活躍した作曲家がジョバンニ・ダ・パレストリーナでした。サン・ピエトロの聖歌隊の楽長として11人の教皇に仕えます。最初の妻が世を去り宮廷出入りの裕福な毛皮商の未亡人と再婚し莫大な財産と土地と家を手に入れます。100以上のミサ曲と250曲を超えるモテットを書いて「教会音楽の父」と呼ばれカトリック教会ではグレゴリオ聖歌に次いで重要視されています。ルターによる宗教改革でカトリック教会に対する批判の動きはヨ―ロッパ各地にひろがりカトリック教会の普遍的な権威はゆらぎますがカトリックもこれを機に教義の明確化と内部改革をおこないます。パレストリーナの≪教皇マルチェルスのミ...莫大な財産を後ろ楯に。

  • 紳士の国の紳士

    近代イギリスの音楽の父サ―・エドワ―ド・エルガ―ほぼ独学で作曲を学びました。大作曲家にはワイルドで奔放な人生を生きた人が多い中、エルガ―は愛妻家で紳士でした。1899年「エニグマ変奏曲」の初演の大成功で世界的に有名になります。当時の国王エドワ―ド7世は母ヴィクトリア女王が長寿であったため58歳まで皇太子でした。彼はヨ―ロッパ中で浮き名を流し放蕩息子で過ごしたことで有名でした。ヴィクトリア女王の崩御に伴い王位に就くことになったエドワ―ド7世の戴冠式のガラ・コンサ―トへの楽曲の依頼を受けたエルガ―は「威風堂々」第1番を作曲します。初演を聴いたエドワ―ド7世はたいそう気に入り「中間部分のメロディーに合唱を入れては?」と提案しました。翌年の国王の戴冠式。「戴冠式頌歌」の終曲の「希望と栄光の国」に威風堂々のメロディ...紳士の国の紳士

  • シャム猫達

    中学生のお嬢さんがラヴェルの「水の戯れ」の練習をしています。「無理しないで。」と言っていますが少しずつ譜読みするのが楽しいようです。✨✨✨✨✨ドビュッシーとラヴェルは近代フランス音楽の代表的作曲家です。1901年に完成したラヴェルの「水の戯れ」は音楽史上初の印象主義の手法による作品でした。ラヴェルより13歳年上のドビュッシーが完全な印象主義の手法による初の作品「版画」を書いたのはその2年後でした。ドビュッシーは幼い頃から感受性が強く異常なほど神経質でした。上等な版画や書物に囲まれていなければ我慢できずプライバシーを頑なに守り知らない人と同席すると落ち着かなくなりました。人間よりも猫が好きでシャム猫を飼っていました。✨✨✨✨✨そしてラヴェルはもっとも凝り性で洗練された作曲家でした。ダンディで一分の隙もない身...シャム猫達

  • レモン アイスクリーム

    4月並みのあたたかさと思ったら一転して冬の寒さに逆戻り。着るものに迷いますね。昨日は厚めのジャケットにロング・ブ―ツで出かけました。手袋を片方落としたので買いに出かけましたが靴売り場にも寄り道です。✨✨✨✨✨ウィーン郊外リヒテンタールに生まれたシュ―べルト。子供の頃から抜群の才能を発揮して8歳で難関の国立神学校コンヴィクトの試験を受けます。この学校はアントニオ・サリエリの指導下にありウィーン楽友協会音楽院の前身校でした。試験官の一人であるサリエリはシュ―べルトに一番をつけています。サリエリは異例の要請を行い寮の外出禁止の規則を特例で免除して週に2度サリエリの自宅でレッスンを受けられるようにはからいます。15歳のシュ―べルトはサリエリの熱心なレッスンを受けたあと甘いものの好きなサリエリと共にグラ―ベン通りの...レモンアイスクリーム

  • ピ―チ・メルバ

    ワ―グナ―のオペラ「ロ―エングリン」結婚式でお馴染みの「結婚行進曲」が演奏されるオペラです。初演はリストが指揮しましたがパトロンであるル―ドヴィヒ2世のお気に入りの作品でした。✨✨✨✨✨アントワ―プを治めていたブラバンド公の息子ゴットフリートは魔法使いに白鳥の姿に変えられてしまいますがゴットフリートを殺害したと妹のエルザがぬれぎぬを着せられます。エルザが自分のために戦ってくれる勇者を探していたところ謎の騎士(ロ―エングリン)が現れエルザとの結婚と自分の素性を聞かないことを条件に助けてもらいます。約束通り二人は結婚することになりますが結婚式を終えたエルザは謎の騎士に素性を聞いてしまうのです。謎の騎士は「ロ―エングリン」と名前を明かしますが約束を破られたためエルザの元を去ります。去り際、ロ―エングリンは白鳥に...ピ―チ・メルバ

  • マーマレード

    夏ミカン3個でマーマレードを作りました。今朝はトーストとマーマレードの朝食です。↑朝食といえば懐かしい山の上ホテルが閉館です。カザルスホールや文京シビックホールの時に宿泊しました。夕食はカウンターの天麩羅がとても楽しみでしたが若かったのですね。(笑)✨✨✨✨✨ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル↑(薔薇ヘンデル)25歳の時にハノーファーで宮廷楽長として仕えていましたがその職を捨ててイギリスに渡ります。2週間で書き上げたオペラ「リナルド」が大成功をおさめ、アン王女から厚遇を受けてロンドンに居着いたのです。アン王女が急逝し、ハノーファー選帝侯ゲオルグがジョージ1世として即位します。ヘンデルは船上で「水上の音楽」を演奏しましたが巧みな演出で王に気に入られ宮廷付きの音楽家となりオペラのプロデュース業でも名声を得ました...マーマレード

  • パリのサロン

    ↑バロン・ド・ロスチャイルドドイツのフランクフルトに生まれたユダヤ人マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが開いた銀行はヨーロッパの主要都市に拠点を構えて19世紀には世界最大規模となり桁外れの巨大財閥に成長します。ビジネスで得た莫大な資産で芸術を庇護しサロン文化の中心的な存在となりました。サロンでは女主人が取り仕切る場合が多く食事や飲み物が出され音楽演奏、政治や芸術談議などが行われましたがロスチャイルド家のサロンは当時パリに多数存在したサロンの中でも最上級でした。屋敷を改装して40人編成のオーケストラが演奏できる舞台を持ち3000人収容可能な舞踏会場を作ります。当時、人気絶頂だったリストの演奏会を開き料理やお菓子でもてなしました。リストがニコロ・パガニーニの演奏を聴いて自らも超絶技巧を目指しますがその演奏を...パリのサロン

  • ウィーン楽友協会ホール

    ドイツのお土産に頂いたシュトレン。一口サイズで柔らかくてとても美味しいです。3月末までの日持ちということはイースターまでを意識してなのかしら…✨✨✨✨✨✨クラシック音楽館は追悼マエストロ小澤征爾2002年ニューイヤーコンサートのダイジェスト版です。指揮棒を持たないで指を自由自在に操り目からも顔からもビー厶が出ている❗全曲、頭に入れていて譜面台には曲順を書いた小さなメモが置いてあるだけ。ウィーン・フィル相手に「ウィーンかたぎ」も小澤ワールド全開。凄い❗中央の座席に美樹夫人、征良さん、征悦氏楽しそうな様子が何度も映し出されました。✨✨✨✨✨この楽友協会の大ホールは27年前から毎年多くの合唱団と共に弾かせて頂いた懐かしいホールです。客席はこんなに満席ではなくお花はありませんが名演奏が染み込んでいるホールの響きに...ウィーン楽友協会ホール

  • 初恋の味

    ルードヴィヒ・ヴァン・べートーヴェン1770年ドイツ西部の町、ボンで生まれました。父ヨハンは宮廷歌手として働いていましたかお酒が好きで毎日浴びるほど飲んでいました。母のマリア・マグダレーナは料理上手でしっかりものでしたが肺病で世を去ります。その時に往診に来てくれた医学生ヴェーゲラー。ルードヴィヒより5歳年上でしたが生涯切り離せない友情で結ばれます。母親の死後はヴェーゲラーからブロイニング家の子供達にピアノを教えてほしいと頼まれ多くの時間をブロイニング家で過ごしました。当主は若くして未亡人となったヘレーネでルードヴィヒを我が子のように扱い遊びに連れていったり礼儀作法、ドイツ文学、ラテン語の初歩も教えました。哲学書や文学書が揃うブロイニング家でルードヴィヒはゲーテやシラーの詩に出会います。ブロイニング家は彼に...初恋の味

  • 愛犬家

    リヒャルト・ワーグナー利己的で尊大しかし革新的で魅力的な天才作曲家です。彼は詩、音楽、絵などあらゆる芸術の一体化を目指しました。しかし初めは苦難の連続で借金まみれのワーグナーは妻ミンナを連れて逃亡を企て一旗揚げようと花の都パリへ行くことを決めます。しかし60kg近い巨大な愛犬のせいで馬車に乗ることができないのです。それでも犬を絶対に手放そうとせずにロンドンまで船に乗りそこから又、船でパリに向かうことにしました。ようやく乗り込んだ船が大嵐に見舞われ難破寸前になり地獄のような船旅を体験しますが何とかパリに到着します。この経験により出世作になる「さまよえるオランダ人」が作られたのです。≪さまよえるオランダ人≫ベルリン・フィル指揮クラウディオ・アバド(3‘08)このように亡命生活で各地を移動するときもコジマと再婚...愛犬家

  • ミドルネームはヴォルフガング

    昨夜のクラシックTVは若い演奏家達。ピアノにヴァイオリンチェロの演奏でしたが特に印象に残った曲はコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲の第1楽章でした。エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト20世紀のモーツァルトと讃えられ子供の頃から才能を存分に発揮してウィーンの音楽界に確固たる地位を築きます。10歳で書いたカンタータ≪金≫はマーラーに絶賛されR・シュトラウスは14歳で書いた管弦楽曲≪演劇序曲≫と≪シンフォニエッタ≫を手放しで褒めました。18歳で書いたオペラ≪ヴィオランタ≫プッチーニを感動させます。23歳で作曲したオペラ≪死の都≫はヨーロッパ中の話題になり30歳でウィーン国立アカデミーの作曲科教授に就任しました。そんな輝かしい人生に影が射します。ナチス・ドイツのオーストリア併合に伴いアメリカに亡命。疎開先に選...ミドルネームはヴォルフガング

  • ボンボン・ワルツ

    昨日はバレンタイン・ディ。可愛いチョコレート❣️を頂きました。(*^^*)✨✨✨✨✨ヨハンシュトラウス2世「ボンボンワルツ」op.307ウィーンの祝祭舞踏会でパウリーネ・フォン・メッテルニヒ侯爵夫人に献呈されました。彼女の夫はパリのオーストリア大使でありヨハン・シュトラウスとヨーゼフ・シュトラウス兄弟がパリで開催される万国博覧会に出席することを望んでいました。そしてヨハンはパリのオーストリア大使館でガラ・コンサートを指揮することになりましたがその時のオーケストラがのちのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が誕生するきっかけとなるのです。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が1900年のパリ万国博覧会に参加するときにはパウリーネ・フォン・メッテルニヒ夫人から支援を受けて初めての海外ツァーを行いました。世を去る少...ボンボン・ワルツ

  • 親の七光り届かず

    ↑モーツァルテウムフランツ・クサ―ヴァ・モ―ツァルト1791年、ウィーンに生まれました。モ―ツァルトの息子ですが彼が生まれて4ヶ月後に父親は世を去ります。母のコンスタンツェは息子を一流の音楽家に習わせてウィーンで勉強させました。父モ―ツァルトのピアノを作った職人でもあるシュトライヒャ―、父の弟子の一人であるフンメルウィーン音楽界の重鎮のサリエリなどウィーンの音楽界が総出でサポートしましたので青年時代までは良かったのですがその後は教授陣から教わった流行遅れのスタイルが影響したのか名声を得ることは出来ませんでした。1841年ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの没後50年の年にモーツァルテウム(現在の音楽大学)が設立され母のコンスタンツェは初代楽長は息子にと思っていましたが願いはかなわず53歳で世を去りま...親の七光り届かず

  • 連休

    1月はお正月以降毎週、東京泊りでハイ・テンションで過ごしましたが年ですね。疲れは1週間後にやってきました。右肘と左肩・首の痛みでブログも連休?です。腰痛にもドキッとしましたがこれは思いがけない方法で治りました。2度目の東京行き新幹線。京都を過ぎたあたりですでに腰が痛い。スマホで検索した結果椅子に角度をつけるとよくないことがわかり背もたれを倒さず太い大きなベルトをウエストに巻いた事で腰痛解消しました。肩や腕は日薬でしょうか。🥀🥀🥀🥀🥀昨夜、レッスンにやってきたお嬢さん。学校コンサートを終えたばかりですが又、新たな伴奏を引き受けてきました。今日の音楽の時間に弾くそう。「美女と野獣」1時間たっぷり楽しんで帰りました。ピアノ清塚信也連休

  • 訃報

    先日、ピアニストの江戸京子さんの訃報を知ったばかりでしたのに昨日は小澤征爾氏。中学生の頃から憧れていた指揮者が世を去られ寂しい限りです。目覚ましがいつ鳴るのかと思われるくらい長い夜になりました。訃報

  • 年に一度

    ドイツから帰国している方がレッスンにおいでになりました。レッスン後はご主人も加わりランチ・タイムです。焼き立てのビゴのパンのガーリック・フランス、明太子フランスにアン・プー・ドゥのふわふわのエッグ・コッペを召し上がって頂きました。デザートはダニエルのケーキ。混雑のまえに買うことが出来てラッキー。✨✨✨✨✨バッハ家の始まりはファイト・バッハという人物でボヘミアのドイツ系移民で白焼きパンの職人でした。プロテスタントでしたのでカトリックの迫害から逃れてルターの地である中部ドイツに落ち着きます。無類の音楽好きで仕事の傍らチターを手放しませんでした。その子供たちもパン職人をしながら音楽の修行に励んで町の楽士になります。さらにその子供達の中には教会のオルガン奏者を務めるものも出てきます。ヨハン・セバスティアン・バッハ...年に一度

  • 水仙 サー・ウィンストン・チャーチル

    今頃、五十肩?左腕が全く上がりません。右肘と首の痛みで今日はダウン。BSで「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」を観ました。✨✨✨✨✨✨若き日のチャーチル。この写真は良く覚えています。チャーチルは絵が上手くパブロ・ピカソは「チャーチルは画家としても充分食べていけるだろう」と言っていたそうです。約830万ポンド(12億4000万円)で落札されたチャーチル作の絵画「クトゥビーヤ・モスクの塔」チャーチルが第2次世界大戦中に米国のルーズベルト大統領に贈った絵ですが複数の人の手に渡ったあと米女優アンジェリーナ・ジョリーのコレクションになっていました。水仙サー・ウィンストン・チャーチル

  • ぶっつけ本番

    1789年のフランス革命で多くの教会が破壊されました。19世紀のフランスでは国が資金を提供して各地で新しい教会が作られていましたがそれに合わせてパイプ・オルガンも制作されることになりました。この時代に活躍したのがオルガン制作家のアリスティド・カヴァイエ・コルでした。コルは音の強弱が操れるようにあるいはオルガン1台でオーケストラの音色が出せるように改良したのです。先日、東京の教会で弾かせて頂いたオルガンは真新しいフランス製のオルガンでしたがこの機能が無くてデリケートな音は出せないのです。急遽、本番にはリードオルガンを使う事にしました。しかしお客様はパイプオルガンの音色を楽しみにしておられるとのこと。開演2分前に突然、ソロのリクエスト❗無茶振りでしたがオルガンへの階段を上がりながら曲目を考え💦...ぶっつけ本番

  • 弦が切れて!

    ↑チェコの国花菩提樹交響曲「新世界より」を作曲したチェコのボヘミアに生まれたアントニン・ドヴォルザーク音楽家でもあったドイツ語の先生が彼の音楽の才能に気づきます。息子を家業の肉屋にしようとする父親を説得しプラハのオルガン学校に進学できるように取り計らってくれました。プラハの管弦楽団にヴィオラ奏者として入り沢山の音楽を演奏する機会に恵まれます。音楽の手ほどきを受けると同時に常に音楽の現場に身を置いていました。オーストリア政府の奨学金を得るため交響曲第3番を提出しますがこれが審査員の1人であったブラームスの目に留まり強力な推薦を得て奨学金を獲得したほかブラームスの紹介で≪スラブ舞曲集≫を出版しますがヨーロッパ中で大ヒットしたのです。ブラームスとドヴォルザークの兄弟のような付き合いはこの時から始まりました。すべ...弦が切れて!

  • 余韻の中で…

    休日の朝は少しゆっくり起きて演奏会の余韻に浸りながらゆったりとした時間を過ごしました。ベルギー・ワッフルトースターであたためました。2枚も頂いてしまったあとの写真です。素敵な薔薇の花のチョコレート。✨✨✨✨✨夜のクラシック音楽館は後半のシベリウスの交響曲第1番から楽しみました。指揮はユッカ・ペッカ・サラステ最後はサラステの過去の演奏から①「トゥネラの白鳥」シベリウス作曲②「カンツォネッタ」シベリウス作曲③「悲しいワルツ」フィンランド出身の指揮者ですので母国語を話すように自然に音楽が流れてしかもクール。お若い頃よりも現在の方が断然、素敵でした。今日はお休みしたレッスンの補講で夕方から夜までびっしり。💦💦余韻の中で…

  • あっと言う間に。

    楽屋に荷物をおいてすぐにリハーサル開始。リハーサルが始まると終演まではあっと言う間。あたたかい沢山の拍手頂いて無事に終了しました。以前はステーキを頂いたりしっかり栄養補給して本番にのぞんでいましたが最近は年のせいでしょうか。お腹一杯だと集中できないので水分を取るくらいにしています。打ち上げで乾杯したあと帰りの新幹線でビールとともにゆっくり一人宴会(笑)となりました。あっと言う間に。

  • 今日は本番

    昨日、東京入りしました。今朝、カーテンを明けると青空ですがガラスが雲っていてとても寒そう。9時にホール入り。どうか良い演奏会になりますように。今日は本番

  • その後…

    学校のコンサートが無事に終わったと断崖君のお母さまから連絡が入りました。✨✨✨✨✨一日早く「月光」のソナタを演奏したお嬢さんは今までの弾いた中で一番気持ち良く弾けたそうです。終わってしまうのが残念だと思うくらい楽しかったと息をはずませながら報告してくれました。そして「こんなダサい曲弾きたくない」とむくれていた断崖君。本番前日のレッスンは今までにないくらい綺麗な仕上がりでしたが本人は気になるようで何回も弾いては前奏の音色やペダリング遠くに消えていくようなパッセージなどを確認していました。(゚∀゚)日頃、運動部で活躍していますがピアノが弾けることを音楽の先生も友達にも内緒にしていたようで皆は吃驚❗「完璧だったと自画自讃です」とのお母さまからのメッセージに大笑いしてしまいました。鼻高々でやってくるであろう断崖君...その後…

  • 冬の旅

    能登半島の地震で大変な幕開けとなった1月も終わり今日から2月。✨✨✨✨✨シューベルト作曲の「冬の旅」は最晩年に書かれた傑作歌曲集です。シューベルト自身が死を意識しながら作ったといわれる曲集で恋に破れた青年が生きる望みを失いあてどもない旅に出るのですが全曲は24曲からなっています。この歌曲集を半分まで書いたときに友人達を自宅に招き出来上がったばかりの作品を聴かせたところ内容があまりに暗すぎるので仲間達は当惑したと言われています。しかしシューベルトは「いや、今に君たちもきっとこの歌の良さがわかるようになる」と言っていたそうです。シューベルトの万感の思いが込められた「冬の旅」は彼が世を去ったあとにようやく出版されました。🥀🥀🥀🥀🥀ち...冬の旅

  • 世界を二分した人気者

    レナ―ド・バ―ンスタイン20世紀後半のアメリカを代表する作曲家です。交響曲や合唱曲、声楽、器楽、クラシックやポピュラーを問わず沢山の作品を書き世界中で活躍した指揮者でありピアニストでした。ウクライナ系ユダヤ人の移民の子供として生まれ文化的ではない家庭環境でしたが10歳からピアノ習い始めハ―バ―ド大学に進学。卒業後はカ―ティス音楽院でピアノ・指揮・作曲を学びますがこの頃の興味は指揮だったようです。↑タングルウッドマサチューセッツ州のタングルウッドで指揮者ク―セヴィッキ―に認められニューヨ―ク・フィルハ―モニ―の副指揮者として招かれますがブルーノ・ワルタ―という大指揮者の代役で大成功を収めカラヤンと並ぶスター指揮者となりカラヤンと共に世界を二分する人気指揮者となりました。レナード・バーンスタインヘルベルト・フ...世界を二分した人気者

  • 料理上手

    ↑薔薇の花(エクセレンツ・フォンシュ―ベルト)昨日は久しぶりにビ―フ・シチューを頂いて思い出したのがグラッシュでした。フランツ・シュ―ベルト音楽好きの父は学校を経営し校内のホ―ルで演奏会を開いていました。母は元料理人で家庭でも美味しい料理を時間をかけて作っていました。そんな母の姿を見ていたからでしょうか。友達や仲間を呼ぶ時には必ず自分で料理したようです。グラッシュを手間をかけて作っていましたが仲間達には大評判だったようです。美味しい食べ物が大好きでワインを飲みすぎるので肥満気味。ついたあだ名は「マッシュル―ムちゃん」31年の短い生涯でしたが神々しい美しさを表現した作曲家でした。クリムトが描いたシュ―ベルト料理上手

  • ホ―ル練習

    朝9時からオルガンのレジストレーションでした。今夜はオ―ケストラの演奏会でしょうか。ステージ上に準備しています。✨✨✨✨✨✨遅目のランチは東京駅で牛頬肉のビ―フシチューとカニクリームコロッケに赤ワインとパンをプラスして頂きました。あとは新幹線で爆睡です。💦💦富士山が雲の中に隠れているのを確認して安心して眠りました。(笑)ホ―ル練習

  • 放浪の旅

    今朝は早起きしてミサのオルガンを弾かせて頂きました。午後はレッスンを終えたあと東京に向かいます。雨の予報ですが電車、新幹線を乗り継ぎホテルまで雨でも雪でも濡れずに到着予定ですが万が一を考え前日入りします。✨✨✨✨✨旅好きの作曲家はサン・サ―ンス。39歳の時に19歳のマリ・ロ―ル・エミリと突然、結婚して周囲を驚かせました。その年の暮には長男が2年後に次男が誕生しました。長男が自宅の窓から転落死。そして6週間後に生後7ヶ月の次男が病死してしまいます。父親が早くに世を去り母子家庭で育ったサン・サ―ンスはフォーブル・サントノ―レ大きなアパートに住んでいましたが母がこの結婚を認めませんでした。休暇中に妻と旅に出ますが突然、ホテルから失踪してしまい彼は2度と妻のもとに戻りませんでした。6年の結婚生活でしたがその間にオ...放浪の旅

  • 2刀流

    寒さは少し緩みましたが寒い日にはホット・チョコレ―ト。板チョコを削って溶かしミルクたっぷりで頂きます。✨✨✨✨✨ハンガリーを代表する音楽家のバルト―ク。父は校長で熱心なアマチュア音楽家でした。母はピアノ教師で幼い頃から音楽に慣れ親しんでいましたが早くに父が世を去り女手一つで子供を育てることになります。しっかりものの母は学校教師として赴任先を転々として現在のウクライナ西部に移ります。この街でピアノを教えて子供を養いました。9歳のバルト―クにピアノの手ほどきをした母はバルト―クを本格的に音楽家に育てようと決心します。演奏会にデビューさせ成功を見届けたあとはスロヴァキアの首都プラチスラヴァに移り住みます。良い教師に恵まれ演奏活動で舞台度胸を磨き音楽修行を積みました。17歳の冬にブタペスト王立音楽院入学母の元を離...2刀流

  • \(^o^)/)

    断崖君、本番5日前に暗譜できました❗はじめての快挙。(笑)✨✨✨✨✨高校の「音楽会」断崖君ソロを弾けば良いものを突然、友達5人とアンサンブルをすることになり曲目変更。「こんなダサい曲」とむくれていましたが友人達のために一念発起したかな?先週まで片手でハラハラでしたが昨夜は暗譜できれいに弾きご満悦でした。(*^^*)もう一人のお嬢さんは月光ソナタの3楽章を弾くことになりましたが本番が近づくにつれとても緊張しています。AWholeNewWorld「アラジン」べ―ト―ヴェン「月光ソナタ」3楽章楽しい良い時間になりますように願っています。\(^o^)/)

  • 名教師

    ドイツ北部のハンブルクで生まれたブラ―ムス。父はオ―ケストラのコントラバス奏者でした。7歳のブラ―ムスをピアノ教師のオット―・コッセルのところに連れて行きます。メキメキと腕を上げたブラ―ムスは10歳で公開演奏会にデビューします。その客席にいたアメリカ人の興行師の目にとまりアメリカ演奏旅行を持ちかけられますが実のところは神童の見世物興行だったのです。師のコッセルはこの計画にストップをかけ父の野望を思いとどまらせます。優れた教師のおかげで音楽とじっくり取り組む大器晩成の大作曲家となりました。ブラ―ムスの母がよく作っていたザルツブルガ―ノッケル(ザルツブルク風スフレ)名教師

  • 自己流

    ↑甘いものが好きなワグナー。バイエルンのババロアです。ほとんど独学で音楽の勉強をはじめたワグナー。正式な技術を身につけることはありませんでした。人から言われたり決められたことをやることが大嫌いでピアノは幼い頃に自己流でマスターしピアノ教師が正確な指使いを教えようとしても絶対に従わない頑固ものだったようです。職人的な技術を持たなかった故に無謀ともいえる常識外れの作品を次々と書きあげます。才能があったのは確かですがバイエルン国王からお金を引き出すことも天才的で詐欺師のようでした❗国王は約9億近いお金をワグナー一人のために使いました(゚∀゚)ワグナーが設計したバイロイト祝祭劇場自己流

  • 出発は人形劇

    「Sound・of・music」の人形劇のシ―ン。楽しそうでしたね。ワグナーは1811年にドレスデンに引っ越してここでアイドルに出会います。カルル・マリア・フォン・ウェ―バ―。9歳のワグナーはウェ―バ―の歌劇≪魔弾の射手≫に憧れ自己流の指使いでピアノを弾き人形芝居のセットを見つけて10歳の時には人形劇を書き上げます。12歳になると学校の友人達と舞台を手作りして見よう見まねで≪魔弾の射手≫を上演しました。その後、芝居への情熱が高まって行きオペラを総合プロデュースし楽劇を創始するのです❗タンホイザー序曲ベルリン・フィル指揮アンドリス・ネルソンス出発は人形劇

  • まったり。

    忙しい週末でしたのでクラシック音楽館を楽しみに待っていました。リストの「ハンガリー幻想曲」は大学卒業後の若かりし頃初めて大フィルと共演した懐かしい曲です。又、ハ―リ・ヤ―ノッシュもツィンバロンとピアノの両方をフェスティバル・ホ―ルの大フィル定期演奏会で弾かせて頂きましたがステージで弾いたものには特別な思い入れがあります。指揮ゲルゲイ・マダラシュ①バルト―ク「ハンガリーの風景」②リスト作曲「ハンガリー幻想曲」ピアノ阪田知樹③コダ―イ作曲「ハ―リ・ヤ―ノシュ」✨✨✨✨✨オペラ・シティタケミツホ―ルでの①フォーレ作曲バイオリン・ソナタ第1番を聴きました。②モ―ツァルト「ロンド」打って変った音色に思わず聴き入りました。③フォ―レ「子守歌」フォ―レらしいやさしい音色の美しい曲。ヴァイオリンギル・シャハムピアノ江口玲...まったり。

  • 雨の東京

    昨夜は練習を終えてホテルに戻り日にちが変わって就寝したにもかかわらずなんと5時半に雨の音で目が覚めました。雪は免れましたが今朝は大雨です。ホテルは新宿ですが全く濡れずにどこにでも行くことができるのでも便利です。自宅まで傘無しで帰れるかな?富士山は雨で見えないので心静かです。(笑)名古屋を過ぎると晴れ間が見えました。雨の東京

  • 演奏会。

    昨日は教会のパイプオルガンを弾かせて頂きました。フランス製の新しいオルガンでとてもコンパクトでさまざまな工夫がこらされています。上鍵盤は引っ張り出せるようになっていて(゚∀゚)フル・オルガンになりますが、、。思いがけない操作に本番までに間に合うかな?今日はハ―ドな一日になります。午後本番を終えたあと移動して夜にもう一つの本番のリハ―サルです。昨日の暑さ?とは違い気温はぐっと下がりました。もしかして雪かも。演奏会。

  • 東京へ。

    今朝は早くに東京に向かいます。晴れや雪の予報に着るものに悩んでいます。車内販売は無いので飲みものを購入。お弁当は吉野のお寿司にしました。✨✨✨✨✨昨日のクラシックTVはフランスの作曲家フォ―レでした。子供の頃からレクィエムが一番好きです。何度聴いても弾いても心が落ち着く曲です。ラシ―ヌ讃歌はオルガンの出番はありませんがレクィエムと一緒に演奏することが多いです。東京へ。

  • まるで天使

    沢山の作曲家を拝見していますが肖像画や写真を載せたくないかな。(笑)西洋の方々は若い頃は天使のように可愛らしいのですが年を重ねるにつれ容貌は大変化。リストも中年以降の肖像画は威厳はあるけれど、、、。💦そんな作曲家の中でイケメンだったのはベンジャミン・ブリテン(1913−1976)でしょうか。イギリスを代表する作曲家で子供達のためには健康で明るい音楽を残しました。「青少年のための管弦楽入門」や「クリスマス・キャロルの祭典」この曲はクリスマスの伝統的な歌でイギリスの子供達はこの歌を歌ってお小遣いをもらうのです。ベンジャミン・ブリテンという名の薔薇の花がありました。また、1984年にはアメリカのアリゾナ州にあるロ―ウェル天文台のエドワード・ボ―エルが自ら発見した小惑星に「ブリテン」の名を付けましまるで天使

  • 小麦粉?

    寒い毎日は朝起きると温かいシチューやス―プなどをせっせと作るのが楽しみで副菜の用意もしておきます。✨✨✨✨✨ザルツブルク生まれのモ―ツァルト。父レオポルドはザルツブルクの宮廷作曲家でヴァイオリストでした。姉のナンネルによるとモ―ツァルトは4歳の時に父から鍵盤楽器を習い始めたようです。父は現役の演奏家で売れっ子の作曲家大ヒット教則本を書く教育家でした。ナンネルやモ―ツァルトのために≪ナンネルの音楽帳≫という楽譜集を作っていました。幼いモ―ツァルトにとって楽しみだったのは父の稽古が「遊びがてら」で始まったことでした。父の音楽帳への書き込みやナンネルの回想によると5歳のモ―ツァルトはくつろいだ雰囲気の中で30分くらいで新曲をたやすく弾けるようになったようです。6歳の時にはハプスブルク家の宮廷でピアノを演奏しまし...小麦粉?

  • 現代音楽の始祖?

    こちらは始祖鳥↓こちらは現代音楽の始祖↓ア―ノルド・シェ―ンベルク(1874−1951)ヨ―ロッパの音楽は1つの音(主音)が支配して音階を作りだしていましたが1911年にシェ―ンベルクは新しい方法を考え前衛と言われる時代に入ります。それまでの中心になる音(主音)を決めて作曲するのではなくオクタ―ブ内にある12音の音をすべて平等に扱うのです。もしピアノがありましたらドからシまでの音を数えて下さい。白鍵7と黒鍵5の12の鍵盤があります。作られた音列は順序を保ったまま逆行したり展開したりしますがこれによって作られた音楽を「12音音楽」といいます。調性が感じられないので「無調音楽」とも呼ばれます。シェ―ンベルクの12音技法は世界中に広まり近代音楽の手法として定着しました。新しもの好きのシェ―ンベルクは卓球が好きで...現代音楽の始祖?

  • 抜けるような青空に。

    雪と強風から打って変った休日は雲一つない晴天に恵まれ車窓からの富士山を堪能しました。そのあとはビ―ルを飲んで爆睡(笑)✨✨✨✨✨✨クラシック音楽館はキリル・ペトレンコとベルリンフィルハ―モニ―管弦楽団来日公演①モ―ツァルト交響曲第29番ウトウトしていましたが歯切れの良い演奏で目が覚めました。ペトレンコのメリハリのきいた見事な指揮。楽しそうな表情で微笑みながらの演奏です。②アルバン・ベルク管弦楽のための3つの小品大編成に変わり迫力のある大作をラクラクと演奏し本領発揮。最後は大音響。③ブラ―ムス交響曲第4番繊細な出だしから始まり重厚なブラ―ムスに圧巻の演奏に眠気はすっかり吹っ飛んでいました。このプログラムのコンサ―トマスタ―は樫本大進氏ではなくベルリン・フィル初の女性コンマスでしたがさすが演奏、堪能しました。...抜けるような青空に。

  • 雪と強風

    昨日のお天気東京は雪。夕方、練習場に出かけようと思いましたらなんと風も強い。新宿のホテルから駅までは地下道でしたがとりあえずコンビニで大きなビニール傘を買いましたが開いた途端に裏返しに…。(笑)なんとか無事に練習場に到着。1回だけの合わせですから緊張の時間です。あとはホテルでバタンキュー。(笑)✨✨✨✨✨今朝は良いお天気です。雪と強風

  • ドジ❗

    昨日、早く目覚め用事を済ませ新幹線に乗ろうとスーツケースを閉めたところで電話。「今日の9時のお約束でしたが…」とホールからの着信でした。「えぇっ❗」新しい手帳に変えた時に間違ったようです💦💦💦ホテルをキャンセルし新幹線を変更しました。私のオルガン・レジストであったのがせめてもの慰め。今日は心して東京に向かいます。ドジ❗

  • もう一人の巨匠

    バロックの2人の巨匠バッハ、ヘンデルが生まれた1685年にもう一人偉大な作曲家スカルラッティが生まれています。スカルラッティは若い頃はローマで活躍していましたがやがてポルトガル王室礼拝堂の音楽監督としてリスボンに移ります。そして10歳になったマリア・バルバラ王女の音楽教師になりました。その後、彼女がスペイン王室に嫁ぐとスカルラッティも王女と共にマドリードに移ります。↓マドリード王宮そこで王女のための練習曲としてチェンバロのための「ソナタ」を500曲以上作曲しました。どの曲もバルバラのために書かれ高度なテクニックを駆使する演奏困難な曲があるのはバルバラの腕前か相当なものであったと窺い知ることができます。マリア・バルバラスペイン王妃↓「ソナタK141」マルタ・アルゲリッチスカルラッティは博打が好きでしばしば借...もう一人の巨匠

  • 先駆者

    瀧廉太郎(1879−1903)明治12年瀧廉太郎は東京で生まれ生家は新橋と虎ノ門の間でした。官僚だった父の転勤にともなって横浜に移り暫く暮らします。横浜は外国人が住み教会が多くありました。隣に住む松川家はカトリック信者の一家で家庭音楽会に招かれます。その後、父の転勤で富山、東京と移り1891年には大分の竹田市で高等小学校に転入します。彼はこの学校にあったリードオルガンに触れることを許さるた唯一の生徒でした。1894年14歳の時に一人で東京に戻り現在の東京芸術大学音楽学部に合格します。4年後には本科を首席で卒業して研究科に進みピアニストとしてデビューこの頃には作曲も初めました。留学を決めたのは1901年その前年に日本聖公会の教会で洗礼を受けます。留学先はドイツ・ライプツィヒ。メンデルスゾーンが設立したライプ...先駆者

  • 敬愛された国王

    昨日は美容室に伺いさっぱりしました。気温が下がってきて寒くなりましたね。✨✨✨✨✨✨フランツ・ヨーゼフ1世(1830ー1916)オーストリア帝国の最後の皇帝で国民から敬愛されました。68年に及んだ在位中に帝国は衰退が進み家族に次々と先立たれ苦難の人生でした。弟はメキシコで銃殺され長男ルドルフは恋人と心中し、美しい妻のエリザべートは暗殺され皇位継承として指名した甥のフランツ・フェルディナンド夫妻も第1次世界大戦のきっかけとなるサラエボ事件で暗殺されました。フランツ・ヨーゼフ1世は外交面では手腕は発揮できませんでしたが文化芸術の面ではウィーンの音楽文化を絢爛たるものに発展させました。在位中に現国立歌劇場やニューイヤーコンサートの会場である楽友協会やコンツェルト・ハウスなどの劇場を完成させました。その他にウィー...敬愛された国王

  • ニューイヤーコンサート

    今年のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの「美しく青きドナウ」です。指揮はクリスティアン・ティレーマン。1929年、ウィーン生まれのクレメンス・クラウスという指揮者がザルツブルク音楽祭でヨハン2世の作品だけで演奏会を開き評判になりました。それから10年後ウィーン・フィルが大晦日にシュトラウス・ファミリーの作品を演奏するコンサートを始めました。これが1941年からこのコンサートを始めるきっかけになりました。毎年NHKがウィーンから生中継してくれますが世界的なスター指揮者が登壇してウィンナ・ワルツやポルカなどの軽快な曲を演奏しバレエも加わる優雅な演奏会です。アンコールには必ず「美しく青きドナウ」最後に「ラデッキー行進曲」が演奏されます。「ラデッキー行進曲」2025年の指揮者はリッカルド・ムーティに決ま...ニューイヤーコンサート

  • 若気のいたりから。

    ジャン・シベリウス(1865−1957)フィンランド南部に生まれたシベリウスはヘルシンキ大学法学部に入学しますが中退してヘルシンキ音楽院に入学。1889年にベルリンへ翌年にはウィーンに留学して勉強を重ねますがそれ以上にお酒と浪費で問題を起しています。ベルリンでもウィーンでもサロンの常連となり財力に釣り合わない貴族趣味を身につけます。1890年代のシベリウスは有名な「トゥネラの白鳥」を含む「カレワラによる四つの伝説」などを作曲しました。32歳の若さでフィンランド政府から終身年金の受給も決まり生活の心配もなく作曲に打ち込み91歳と9ヶ月の長寿を全うしました。フィンランドのラジオ放送は代表作の「トゥネラの白鳥」で追悼しました。「トゥネラの白鳥」ベルリン・フィルサイモン・ラトル(2‘36‘‘)若気のいたりから。

  • 3人の博士

    今日は「主の公現」ベトレヘムに生まれた幼子を東方の三博士が礼拝にきたことを記念する日です。我が家も今日までクリスマスの飾りを置いていました。(片付けるのが面倒ということもありますが…💦)✨✨✨✨✨ピヨートル・イリイチ・チャイコフスキ―(1840-1893)父はロシア人で鉱山の首席査察官。母はフランス系ロシア人で本人はフランス人のクォーターです。父はフランス人女性を家庭教師として招き初歩教育を受けさせました。音楽好きな母の影響でピアノに親しんで成長します。10歳の時にペテルブルク法律学校予科に入学します。19歳で法務省に入省しますが音楽を諦めきれずに22歳でペテルブルク音楽院に入学して1期生になります。チャイコフスキ―は西欧風の教育法によってロシア国内で育てられた最初の音楽家の一人でした。2...3人の博士

  • 院長辞任

    今どきの若い生徒の憧れの作曲家はラヴェルのようで3人がそれぞれ練習を初めています。✨✨✨✨✨モ―リス・ラヴェル(1875−1937)スペイン国境に近い漁村シブ―ルに生まれました。父はスイス生まれの著名なエンジニアで深い教養の持ち主。母のマリ―は鋭い美的感覚を持つバスク人でした。父が幼いラヴェルの才能を見抜いて早くから高度な音楽教育を受けさせました。7歳でパリでも有数のピアノ教師に習い9歳で作曲の勉強をはじめます。14歳でパリ音楽院に入学フォーレに作曲を学びました。在学中に「古風なメヌエット」や「亡き王女のためのパヴァーヌ」などを発表して注目を集めます。1901年にロ―マ賞に応募しましたが2位でした。翌年とその翌年は最終選考に残ることなく3回続けて落選し1905年年齢制限ギリギリの最後のチャンスも審査員側は...院長辞任

  • 1台のピアノから。

    あらっ❗シュト―レン発見。💦息子達と頂こうと12月はじめに購入していましたがケ―キを食べる事になり忘却のかなたへ賞味期限は17日私のおやつになります。💦✨✨✨✨✨✨ジョ―ジ・ガ―シュイン(1898-1937)アメリカの音楽史上で最も重要な作曲家のひとりポピュラー・ソングとミュ―ジカルで成功した後ジャズとクラシック音楽を融合させます。両親はユダヤ系ロシア人でニューヨークの下町ブルックリンに移住しました。ガ―シュインの音楽との出会いは遅かったのですが12歳の時に家にアップライト・ピアノが届き彼はたちまち弾けるようになったのです。15歳で学校を中退しティン・パン・アリ―(マンハッタンにあるポピュラ―音楽の楽譜屋街)で客のために新作を弾いて聴かせるデモンストレーション・ピアニストと...1台のピアノから。

  • 変なタイトル

    3日の夕方レッスンにやってきた断崖君頑張れ・がんばれ!✨✨✨✨✨エリック・サティ(1866-1925)西洋音楽史上で異彩を放つ作曲家サティ。1866年にフランスのオンフル―ルで生まれて4歳の時にパリに移住しました。6歳の時に母が亡くなり祖父母のもとに預けられます。あるとき祖父がサティが神秘的なものとりわけグレゴリオ聖歌に強く興味を示す事に気づきます。早速ピアノを習わせ教会の聖歌隊長について勉強をはじめました。12歳の時にパリ音楽院に入学しますが伝統的な音楽院の教育が肌に合わず授業をさぼりアンデルセン童話を読みふけり学校をサボって教会や図書館に通い古典文学や中世音楽を調べることに熱中していましたがやがて退学処分に。軍隊に志願しても居心地が悪く寒風に胸をはだけ気管支炎を患い除隊に成功しました。モンマルトルの文...変なタイトル

  • 困難な時代に

    静けさの戻った家で少しピアノを弾きました。少し弾いたあとTVをつけましたら暗い空港で真っ赤な炎を上げて燃える飛行機の映像に吃驚。元旦早々、波乱の幕開けです。✨✨✨✨✨クララ・ヴィ―ク(1819―1896)ドイツのライプツィヒ生まれ。父親は高名なピアノ教師フリードリヒ・ヴィ―ク。父は娘を≪光≫を意味するクララと名付けました。5歳になったクララは父親にピアノを習い始めます。サロンでの演奏を経験したのち9歳でゲヴァントハウス管弦楽団とモ―ツァルトの協奏曲を演奏して華々しくデビューしました。又、作曲の勉強をはじめ13歳でピアノ協奏曲イ短調を書きますがオ―ケストラ・パ―トは将来、夫になるロベルト・シュ―マンが手伝いました。彼はのちにピアノ協奏曲を作曲するにあたりクララのイ短調協奏曲を参考にしています。この頃にクララ...困難な時代に

  • 新年早々

    元旦の夕方に大きな地震。さいわいなことにこちらは無事でしたが北陸のみなさまはどんなに怖い思いをされたことでしょう。心よりお見舞い申し上げます。どうか被害がこれ以上広がりませんように。✨✨✨✨✨息子達は早朝5時半に出発し我が家には静けさが戻ってきました。新年早々

  • あたらしい年の幕開け

    明けましておめでとうございます。良いお年をお迎えになりましたことと存じます。元旦の朝は家族でゆっくりお祝いすることができました。穏やかな1年になりますように。あたらしい年の幕開け

  • 残りわずか

    いよいよ今年もあと5時間となりました。あっという間の1年でしたが無事に過ごすことができたことに心から感謝です。みなさまもどうか良いお年をお迎え下さいますように。残りわずか

  • クラシックの名曲

    孫と遊んでいます。お料理上手なお嫁ちゃんに任せて71歳差の遊び友達(笑)✨✨✨✨✨ヨハン・パッヘルベル。(1653-1706)パッヘルベルはドイツのニュルンベルクに生まれました。幼い頃から音楽と学問の分野で着々と力をつけていきます。大学の教授たちはパッヘルベルの学問の才能に感動していました。パッヘルベルにチャンスが訪れたのは1673年。青年時代にウィーンのシュテファン大聖堂の副オルガニストに応募して採用されました。パッヘルベルはプロテスタントの街ニュルンベルクでキャリアをスタートさせました。その後南ドイツやイタリアなどでカトリックの宗教曲に触れる機会があり厳格なルター派とは対照的なカトリックの音楽を学びましたが更にカトリックの大都市ウィーンで修行を重ねることになったのです。又、パッヘルベルはバッハ一族の音...クラシックの名曲

  • 次男は大活躍

    夜になり息子達が帰省しました。孫の声で家が賑やかです。✨✨✨✨✨カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788)大バッハの次男として生まれたカール。翌々日には洗礼を受けますがゴッド・ファーザーはテレマンでした。テレマンは当時、ドイツで最も有名な音楽家でした。エマヌエルのミドルネームはゲオルグ・フィリップ・テレマンの名前から名付けられました。はじめての音楽教育は大バッハで長男と同じように英才教育でした。その後、長男と同じくライプツィヒ大学法学部に進学しますがその後、フランクフルト・アン・デア・オーデルの大学に転学します。学生として学びながら鍵盤楽器を教えていました。その評判はプロイセンの王子フリードリヒに届きフルートが得意の王子のチェンバロ伴奏者となりました。王子はプロイセン国王に即位しエマヌエ...次男は大活躍

  • 2023/12/28

    夜になり息子達が帰省しました。孫の声で家が賑やかです。✨✨✨✨✨カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788)大バッハの次男として生まれたカール。翌々日には洗礼を受けますがゴッド・ファーザーはテレマンでした。テレマンは当時、ドイツで最も有名な音楽家でした。エマヌエルのミドルネームはゲオルグ・フィリップ・テレマンの名前から名付けられました。はじめての音楽教育は大バッハで長男と同じように英才教育でした。その後、長男と同じくライプツィヒ大学法学部に進学しますがその後、フランクフルト・アン・デア・オーデルの大学に転学します。学生として学びながら鍵盤楽器を教えていました。その評判はプロイセンの王子フリードリヒに届きフルートが得意の王子の伴奏者になりました。王子はプロイセン国王に即位しエマヌエルは正式に...2023/12/28

  • 過保護の果て。

    夜には息子達が帰省します。日頃、私物を部屋中に広げていますので片付けに追われています。間に合うかな。💦💦🥀🥀🥀🥀🥀ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710-1784)大バッハの長男として生まれ20人の子供のうちで最も溺愛されます。はじめての音楽教育は父がおこないましたが教科書として≪ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのための小曲集≫で楽典の基礎を学んだあとに≪インベンションとシンフォニア≫で鍵盤の技術を学び≪平均律クラヴィーア曲集≫でフ―ガを習います。大バッハによる完璧な英才教育を受けます。10歳になると作曲のレッスンも始まりました。当時のドイツは大変な学歴社会でそのことを思い知っていたバッ...過保護の果て。

  • ショパン・コンク―ル入賞

    ディミトリ―・ショスタコーヴィチ(1906―1975)鉱山技師で音楽愛好家の父とアマチュア・ピアニストの母の間にペテルブルクで生まれました。1919年、13歳でペトログラード音楽院に入学。作曲の勉強を始めました。音楽院時代にはグラズノフから目をかけられ18歳の卒業時には「交響曲1番」を発表。早くも国際的な注目を浴びました。1927年第1回ショパン・コンク―ルに出場するためにワルシャワ入りしましたが盲腸炎を患い手術する時間かないまま投薬で痛みを堪えてコンク―ルに臨みましたが結果はレフ・オボ―リンが1位となりショスタコ―ヴィッチは上位入賞に留まります。当時のソヴィエトはスターリンの独裁時代。言論、思想はもちろん芸術活動に対しても吊るし上げられシベリア送りや処刑などの厳しい懲罰が待っていました。窮地に立たされて...ショパン・コンク―ル入賞

  • タミフル

    玄関がクリスマス・モ―ドになりました。✨✨✨✨✨パウル・ザッハ―(1906―1999)スイスの指揮者で作曲家1906年にバ―ゼルに生まれましたが普通の子供でした。学生の頃はお金がなく小さな子供達にヴァイオリンを教えてなんとか学費を賄っていました。1926年にバ―ゼル室内楽団を設立しましたが彼は世界的な製薬会社エフ・ホフマン・ラ・ロシュの相続人マヤと結婚します。これにより巨万の富を得ることになりました。パウル・ザッハ―↓巨額の資金を手にしたザッハ―はバ―ゼル室内楽団のために著名な作曲家達に次々と新作を依頼するようになります。リヒャルト・シュトラウスストラヴィンスキ―オネゲル、ヒンデミット、ブリテン、バルト―クなど20世紀を代表する作曲家が作品を書いています。武満徹も依頼を受けて書きました。ロシュ社は現在でも...タミフル

  • メリ―クリスマス❗

    「Silentnight」✨✨✨✨✨孫のところにはサンタさんがやってきたようで寝起きの顔でプレゼントを開ける嬉しそうな動画が届きました。私のところにも素敵なプレゼントを届けて頂きました。深紅のゴ―ジャスなアレンジメントに気分はクリスマス全開です。そして更に……。息子達が帰省しますので楽しみに頂きます。普段は家中に私物を広げて自由に生活していますので息子達が生活できるように片付けを頑張ります。(笑)「アデステ・フィデレス」(7‘17")ヴァチカンのミサは今朝、配信されましたが長いので昨年の入祭です。メリ―クリスマス❗

  • 仲違いしても…

    今夜はクリスマス・イブ孫はサンタさんを待ちかねています。(*^^*)🥀🥀🥀🥀🥀1842年に作曲された「英雄ポロネ―ズ」はショパンの作品の中でも人気を誇る名曲です。「英雄」というタイトルはショパンがつけたものではないのですが人知れず「英雄」の名で知れわたるようになりました。この曲は友人であるアウグステ・レオに献呈されます。ムッシュ―・アウグステ・レオに捧げると書かれた自筆譜↓アウグステ・レオはメンデルスゾーン家が経営するメンデルスゾーン銀行パリ支店の代表を務めたあと自身の銀行をパリで開きました。音楽好きのレオのサロンには沢山の音楽家達が集まりました。ショパンとレオはショパンがパリに到着した翌年から晩年までずっと続きましたがレオは...仲違いしても…

  • 年末恒例

    ハレルヤコ―ラスで知られるオラトリオ「メサイア」は年末になると多くの合唱団がとりあげるヘンデル作曲の人気曲。彼はオペラのために王室音楽アカデミーを立上げてヨ―ロッパ中を飛び回っていましたがロンドンに出現した乞食オペラという滑稽な内容のものに人気をさらわれ莫大な負債を抱えて倒産します。更に脳卒中で倒れ右半身麻痺となります。54歳の彼がこの悲嘆の中で書き上げた作品が「メサイア」でした。メサイアの成功を機にお金のかかりすぎるオペラから簡素な舞台装置で上演できるオラトリオに切り替え舞台の合間には得意のオルガンを左手で演奏してロンドンっ子を魅了します。74歳の時コベント・ガ―デン王立歌劇場で指揮した直後ステージで倒れて8日後に安らかに旅立ちました。✨✨✨✨✨メサイアはその後、モ―ツァルトがウィーンで演奏しましたがこ...年末恒例

  • 「蜜蜂と遠雷」に憧れて

    今朝は0度。今年一番の冷えこみで昨日は寒暖差アレルギーでグズグズでした。✨✨✨✨✨夏のある日レッスンに来た中1のお嬢さん。普段は無口ですが突然に「コンク―ルを受けたい」と偶然にもすぐに予選会が見つかり受けたところ本選、全国大会へと進む事になりました。彼女は本が大好きで小学生の時に「蜜蜂と遠雷」を読んでいてコンク―ルに憧れを持っていたようです。学校も部活もレッスンも普段通りのチャレンジでした。落ち着いた演奏でスタインウェイのフルコンサ―トを楽しんだようですが入賞はできませんでした。又、チャレンジしたいと意欲満々ですが中1・中2の部曲のレベルが高くプロコフィエフ・ソナタやラヴェル「水の戯れ」など難曲がズラリ……✨✨✨✨✨遅目のランチはカウンタ―での一人ランチ。今日はコンク―ルの本選会。朝が早いので名神高速に乗...「蜜蜂と遠雷」に憧れて

  • 客席まばら…

    「ピ―タ―と狼」や「3つのオレンジの恋」など多数の作品を書いたセルゲイ・プロコフィエフ(1891−1953)著名なピアニスト、作曲家として活躍しました。1917年ロシア革命の嵐の中シベリア横断鉄道に乗りウラジオストックに到着。汽船に乗り換え5月31日に敦賀港に上陸し6月1日には東京に着いて南米行きの船を探しますがすでに出港したあとなので8月まで日本に滞在することにしました。その間に東京、京都、奈良軽井沢、箱根などを訪れます。音楽評論社の大田黒元雄氏らが彼を訪ねて急遽、帝劇でリサイタル開催となりましたが大正7年の日本ではプロコフィエフの名前を知る人はなく客席に人はまばらだったようです。8月2日横浜港からアメリカに向けて出発しました。ニューヨーク、シカゴ、ロンドン、パリと18年にわたる亡命生活で世界を駆け巡り...客席まばら…

  • うっかり…

    「カルメン」はフランスの作曲家ジョルジュ・ビゼ―が書いたオペラです。兵士ホセがジプシ―のカルメンに恋し結ばれたものの気まぐれな彼女に捨てられ嫉妬に狂ったホセがカルメンを殺す物語。初演後カルメンの歌う「ハバネラ」がビゼ―のオリジナルではないと訴えを起こされたのです。ビゼ―は無断借用の意識はなかったのですがかつてお付き合いした「元カノ」が歌っていた歌とリズムがいつまでも彼の脳裏に残っていたようです。ビゼ―が27歳の時14歳年上の女優兼歌手と逢瀬を重ねていましたが彼女の持ち歌が「アイ・チキ―タ」でした。作者不詳の中南米民謡と思い込んでいたビゼ―は「ハバネラ」として使用したのです。初演直後に気付いたビゼ―は楽譜に借用であることを明記していましたのでお咎め無しにはなりましたがビゼ―自身は事の顛末を見届けることはあり...うっかり…

  • 葉付きのミカン

    きれいな葉付きのミカンを頂きました。✨✨✨✨✨リムスキー・コルサコフ(1844−1908)ペテルブルクの南東ノヴゴロドの貴族の家系に生まれました。幼い頃からピアノを習いましたが12歳の時に海軍兵学校に入学。1862年の秋には士官候補生として世界一周の遠洋航海に出発します。後年、彼はオペラ「サトコ」や交響詩「シェへラザ―ド」などに航海で体験した海の描写などを反映させました。1865年、コンサートで歌手のナデ―ジタ・プルクゴルドと知り合います。彼女はペテルブルク中の画家が競ってモデルにしたがるほどの美人で音楽の才能にも恵まれていました。1871年、27歳の彼はペテルブルク音楽院の作曲家の教授に招聘されましたが教授就任の折に相思相愛のナデ―ジタと結婚し古今の音楽家の中でも屈指の愛情ゆたかな家庭生活を送りました。...葉付きのミカン

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