searchカテゴリー選択
chevron_left

カテゴリーを選択しなおす

カテゴリーのご意見・ご要望はこちら
cancel
プロフィール
PROFILE

比佐安田さんのプロフィール

住所
未設定
出身
未設定

以前やっていたブログ「天香山命あれやこれや」をバージョンアップさせたものになります。

ブログタイトル
天香山命と久比岐のあれやこれや
ブログURL
https://koshi-areyakoreya.hatenablog.com/
ブログ紹介文
素人がネットを検索しまくり天香山命と久比岐について探ってみる。
更新頻度(1年)

40回 / 225日(平均1.2回/週)

ブログ村参加:2020/03/15

本日のランキング(PV)
読者になる

新機能の「ブログリーダー」を活用して、比佐安田さんの読者になりませんか?

ハンドル名
比佐安田さん
ブログタイトル
天香山命と久比岐のあれやこれや
更新頻度
40回 / 225日(平均1.2回/週)
読者になる
天香山命と久比岐のあれやこれや

比佐安田さんの新着記事

1件〜30件

  • 素戔嗚は任那の一部を指す

    対馬周辺を地図で眺めると、対馬は朝鮮半島との中継点として天照勢(北九州)も利用したはずと思う。よって対馬=素戔嗚勢とは云えないのだろう。対馬には天照と素戔嗚の二勢力が存在していた、あるいは中立勢力だったと見るべきかもしれない。 とすると、天照勢は北九州が主体だからいいだろうが、問題は素戔嗚だ。素戔嗚勢も他に主体となる地域があるのではと考えてみると。 安直ではあるが、任那・狗邪韓国が思い浮かぶ。 狗邪韓国は魏志倭人伝に記されている朝鮮半島南部に存在した倭国の領土だ。 任那も朝鮮半島南部に存在した倭国の領土であり、日本の資料に見られる呼称だ。 朝鮮半島南部には前方後円墳が、下記のPDFによれば20…

  • [与太話]お耳を拝借

    Happy Holiday! 今回、考察はお休み。 近頃、ガルマルナを好んでよく聞いている。 なかでも、このプロモーションビデオは古代史好きをトキメかせると思う。 スウェーデン語はさっぱりわからないけどな! よいお年を!

  • 素戔嗚のルーツは対馬

    天岩戸と神逐の段(※)の本伝と一書第三は、天岩戸から天照を引き出したのちに『諸神』が素戔嗚を追い払う。一書第二は天岩戸から天照を引き出したときには既に『諸神』が素戔嗚を追い払っていた。 古事記は、天岩戸から天照を引き出したのち『八百万の神』が須佐之男を追い払う。 神逐を行ったのは天照ではなく、諸神だ。天照が指す北九州は神逐に関与しなかったと解釈できる。神逐を行った諸神とは、158年の日食で0.98以上の食分だったと想定される瀬戸内の勢力と、高志に存在した椎根津彦の勢力のことだろう。 とすると、素戔嗚は小羽山古墳群の人々ということになる。 だが小羽山と宗像三女神は容易に結びつかないと思う。小羽山…

  • 天岩戸日食の舞台のモデルは阿波の天磐戸神社か?

    天岩戸日食は158年だろうと、当ブログは考えている(過去記事:天岩戸日食と卑弥呼は無関係)。 国立天文台NAOJ 国立天文台報 第13巻 第3・4号(2010年10月) 『天の磐戸』日食候補について [PDF] 恥ずかしながらΔT値については全く理解が及ばないので鵜呑みにさせていただく。 6/16(90)ページの図4:158年7月13日の日食の食帯図.によると、瀬戸内は食分0.98にすっぽり収まり、安芸埃宮は皆既になる。 6/16(90)ページの図4に地名を書き加えた また、徳島県の天磐戸神社(天の岩戸神社)も皆既になるようだ。 ただし、158年日食は日入帯食だった。天磐戸神社は山の東斜面にあ…

  • 倭国大乱後、出雲は九州に平伏した

    2020年12月現在、出雲瑪瑙をWeb検索すると多数の販売店がヒットする。そのほとんどが、朝廷へ献上していたことを出雲ブランドの裏付けとしてポジティブに受け止めておられるようだ。なので、少々言いにくいのだが。 小松市 フォーラム、シンポジウム等の資料ダウンロード フォーラム「日本海を行き交う弥生の宝石in小松」[PDF] :23/51 :4 玉つくりから見た地域間交流 さらに山陰では後期中葉から花仙山産碧玉が本格的に使用され始めるが、山陰以東に流通することはなかった。逆に弥生時代後期末から古墳時代初頭にかけては山陰から北部九州へ花仙山産碧玉を携えて工人が赴き、同碧玉を用いた管玉及び平所技法によ…

  • 5世紀、畿内の九州勢は大和勢に屈した

    越前から出雲勢を追いやった神逐により、中部日本海の青海氏、琵琶湖・淀川・茅渟海の息長氏、瀬戸内・玄界灘の吉備氏が繋ぐ交易路が完成した。 国譲り後ではないかと思うが、青海氏は高志深江に進出して青海郷(現在の加茂市)を開拓したと伝わる。ちなみに加茂の名は、青海神社の御由緒によれば、794年(平安遷都)に京都上賀茂・下賀茂神社の神領になった際に御分霊を祭りはじめたことに由来するそうだ。 越後加茂青海神社 由緒 年表 京都上賀茂・下賀茂神社との縁は、大彦の妻になった久比岐の女性(倭迹々姫)が媛蹈韛五十鈴媛のモデルであることに因んでいるのだろう。(過去記事:綏靖[2]のモデルは武渟川別かもしれない) 加…

  • 椎根津彦は久比岐の海人族

    九州勢(大彦の氏族や尾張氏)の近畿入植はあったが神武東征はなかったと当ブログは考えている。皇統とされる橿原勢及び饒速日勢は、弥生後期の2世紀以前には大阪平野に根差していた在地勢力とみる。 そこへ九州勢が瀬戸内航路を開き、淡路島に住みついた。 だからといって神武東征の記述に意味がないとは考えない。 おそらく日本書紀は、虚偽の説話を創作する場合には、真実につながる暗示を織り交ぜている。 例えば、当ブログが奴奈川姫をモデルに倭迹迹日百襲姫が創作されたと考えるのは、崇神[10]紀(※)にある「天皇の姑」という、欠史八代[2-9]紀の系譜とは食い違う記述を根拠にしている。また、亡くなった姫を葬るための箸…

  • 天火明は瀬戸内航路の開通まもなく入植した九州人を指す

    天火明は、誓約で誕生した五男神の長男である天忍穂耳の孫、または子だ。弥彦神社祭神である天香山の父で、日本書紀は尾張氏の遠祖と記す。 しかし尾張氏が伝える海神豊玉彦を始祖とする系図に天火明、天香山の名は無い。 Wikipedia「尾張氏」より転写 系図に見える海神豊玉彦の孫の天前玉を天火明と同一とみなし、その子の高倉下を天香山と同一とする説もある。 先代旧事本紀は饒速日と天火明を同一、天香山と高倉下を同一とする。 国立国会図書館デジタルコレクション 国史大系. 第7巻 先代旧事本紀 天孫本紀 :コマ番号139-140/484 天照國照彥天火明櫛玉饒速日尊。亦名天火明命。亦名天照國照彥天火明尊。亦…

  • 瀬戸内航路をふさぐ淡路島

    瀬戸内の潮流について考えてみると、厄介なポイントは鳴門海峡、明石海峡、来島海峡、大畠瀬戸の四つの海峡だろう。明石海峡は、鳴門海峡よりマシということで必ず通らねばなるまい。しかし鳴門、来島、大畠は通らずとも良さそうだ。 せとうち情報局『潮流推算』から取得した画像に地名を書き加えた 屋代島の南、倉橋島の東を通って安芸沿岸を行く航路なら、九州から淡路島までなら潮流4ノット以下で到達できる。ただし、あくまで現代のデータだが。 瀬戸内は埋立てや掘削箇所が多く、現代のデータはそのまま古代に当てはまらないかもしれない。例えば備讃瀬戸は、吉備の穴海(吉備児島の北)を埋め立てて水路を一本潰したのだから、潮流は速…

  • 出雲は天穂日が四隅突出墳丘墓を伝えたと誤認していた?

    誓約で誕生した五男神が瀬戸内航路の寄港地であるとする。 瀬戸内も広いので範囲を狭めたい。 考えるに、どんなに広めに解釈しても祝島より東だろう。祝島と姫島を結ぶ玄界灘横断航路が古くからあり、この航路を鎮める神が宇佐八幡ではないかと思う。 前回、リンクを貼らせてもらった海上保安本部の『潮流推算』によれば、祝島と姫島の間は大潮(満月と新月)でも1ノット以下だ。 対馬海流が1~1.5ノット以下で、宗像の沖ノ島(沖津島)と大島(中津宮)は50km弱の距離がある。祝島と姫島の間は30km弱なので、たぶん渡れた。 大潮時の上げ潮流(関門海峡は1時間後にピンクの矢印になる) 瀬戸内の東側を考えてみる。 まず淡…

  • 誓約の五男神は瀬戸内の寄港地

    以前の記事『神代の誓約から国譲りまでは欠史八代と時期が重なる』にて、誓約で天照の子になった五男神は播磨、吉備、安芸、周防および丹波ではないかと推測したのだが。今になって、宗像に合わせて考えるなら、瀬戸内の主要な寄港地ではないかと思い至った。 調べてみたら、瀬戸内海はたいそう癖の強い海らしい。 広島と愛媛にまたがる芸予諸島では「船に乗るより潮に乗れ」と云うほどだとか。 Wikipedia「芸予諸島」の項より抜粋 なかでも、四国と大島とに挟まれた来島海峡はちょうど瀬戸内海の中心に位置し海峡幅も広いため現在では国際航路として様々な船が航行しているが、古くは「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」と…

  • 天岩戸日食と卑弥呼は無関係

    神逐が指す歴史上の事件は天照と素戔嗚の戦争であるという見解を、2010年に述べられた先達がいらっしゃると最近知った。 国立天文台NAOJ 国立天文台報第13巻 第3・4号(2010年10月) 『天の磐戸』日食候補について [PDF] 天文学者がいない時代の,あるいは天文学者がいない地域での日食が比較的詳しい挿話とともに,伝承や歴史として残るときの条件があるように思われる.次の3つの条件が満たされるとき,「日食が記録として残ることがある」というのが正確かもしれない.「必ず残る」とは言えない. ( i )日食が皆既または金環であること(あるいはそれに近い深食であること). ( ii )重要な歴史的…

  • ちょっとヒートアップ

    倭大國魂は久比岐・能登の神だと一般に広く認知されて欲しいと思っているので、直近の3記事(前々々回、前々回、前回)は極力、客観的に書いた。 今回は、直近3記事では削った意見を述べる。 当ブログを読まれた方は、なんでもかんでも久比岐に当て嵌めすぎじゃないかと思われたのではないだろうか? 実のところ私にもそういう気持ちが少しだけある。 だがしかし。 崇神[10]の御代に大和の勢力下にあった地域は、近畿と紀伊北部、越前・若狭、久比岐・能登だけと思われる。東海は近隣の友好的な独立勢力だ。瀬戸内沿岸は九州勢が押さえており、九州は対出雲における盟主だ。そして紀伊南部と越中・加賀は反大和の気風が強い。 お膝元…

  • 大倭神社註進状:大地官と地主神を同一視する暴論

    『大倭神社註進状』を読むと気になる点が二つある。 ひとつは、日本書紀には存在しない孝昭[5]の夢のエピソード。 ひとつは、大地官を地主神に読み替える強引さ。 まず、孝昭[5]の夢について記す段落を、ここに書きだす。 日本書紀家牒曰 腋上池心宮御宇天皇孝昭元年秋七月甲寅朔 遷都於倭國葛城 丁卯 天皇夢有一貴人 對立殿戸 自称大己貴命曰 我和魂 自神代鎮御諸山 而 助神器之昌運也 荒魂服王身 在大殿内 而 爲宝基之衛護 即得神教 而 天照大神 倭大國魂神 並祭於天皇大殿之内 日本書紀家牒に曰く 腋上池心宮御宇天皇[孝昭]元年秋七月甲寅朔 倭國葛城に遷都する 丁卯 天皇の夢に一貴人有り 殿戸に立ち対…

  • 『大倭神社註進状並率川神社記』写し

    前回の記事にて、倭大國魂は久比岐・能登の神であるとする客観的根拠を示した。 公平を期して、倭大國魂を大国主と同一とする説の根拠になっている『大倭神社註進状並率川神社記』を写したので挙げておく。 参考資料は以下の三冊。 国文学研究資料館の資料をベースとし、相違箇所は多数決に依る。 国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース 大倭神社註進状並率川神社記 ※ 返り点有り 裏書き無し 国立国会図書館デジタルコレクション 三輪叢書 大倭神社註進狀並率川神社記 :コマ番号162-170/470 ※ 返り点無し 裏書き有り 国立国会図書館デジタルコレクション 群書類従. 第21-22冊 大倭神社註進状 …

  • 倭大國魂は翡翠を象徴する久比岐の神

    とても残念なことに倭大國魂を祀る大和神社(奈良県)は、『大倭神社註進状』なる一書を拠り所として、倭大國魂は大国主であると主張している。 しかし倭大國魂の創祀に関わる重要人物は久比岐・能登に関わっている。 大和神社 大和神社由緒 倭大國魂は崇神[10]紀と垂仁[11]紀に登場する。 崇神紀(日本書紀)の倭大國魂が登場する箇所を以下に要約する。 崇神5年に致死率の高い疫病が流行、翌6年にも流行は続いた。民は離反して国は治まらず、崇神は朝に興(おこ)り夕に惕(おそ)れて神祇に請罪した。 先是 天照大神 倭大國魂 二神並祭於天皇大殿之内 然畏其神勢 共住不安 故 以天照大神 託豐鍬入姬命 祭於倭笠縫邑…

  • 国譲り後も出雲は存続した

    出雲国譲り神話とは実際のところ、出雲が天照勢へ高志国を譲ったのであり、その後も出雲国は山陰の雄として存続した。 上の文は、ブログの書き初めの頃に書いたものとほぼ同じだが一か所、「大和へ」を「天照勢へ」に修正した。 久比岐に入って出雲軍を追い払ったのは建御雷こと九州の軍だろうとの推測による。 ※ブログ移転時に該当記事は削除しました。 そして出雲へ攻め入った経津主は大和の軍だろうと推測する。 このとき出雲は久比岐・能登へちょっかいを出しており、兵力を分割していたから、初動が遅れるなどあって敗戦したのではないかと思う。 一書第二では高皇産霊が、国を譲り受ける見返りに以下の条件を提示する。 汝則可以治…

  • 事代主には広義と狭義がある

    国譲りの段の事代主は、 本伝では大国主の子と定義されて海へ避け去るが、 一書第二では大国主が避け去ったのちに大物主と共に登場して去らない。 また事代主は、神功紀にも登場して「祠吾于御心長田國」と宣い、神戸の長田神社に祀られる。このとき稚日女も登場して「吾欲居活田長峽國」と宣い、神戸の生田神社に祀られる。 稚日女は逐降の段の一書第一で、素戔嗚が斎服殿に投げ入れた逆剥ぎの斑駒に驚いて神退ったことになっている。 長田神社 [framタグ使用] 生田神社 神代に死亡した記述がある二神が再登場する神功紀の主人公・神功皇后は、諡号を気長足姫(おきながたらしひめ)と云い、息長氏を出自とする。 息長氏の本拠は…

  • ちょっとクールダウン

    メインカテゴリーの『天香山命あれやこれや』がだいぶ進んだので、ここらで私感を書いておく。 まず最初に、敬称をことごとく削っている点を言い訳したい。 記紀の神々には神・尊・命といった敬称を末尾につけることが望ましいと、実は私も思っている。しかし神であるという概念が、神の振舞いを史実と見做せるか考察する際に邪魔になる。人によっては平気なのかもしれないが私には無理だった。 また、神・尊・命のあいだには序列がある。これも邪魔だ。いずれの神も地域や氏族を表す象徴として平等に考えたい。 このように思い、あえて末尾の敬称は省略した。 次に、出雲への当たりがきつい点について。 率直に言って、出雲はこれまで持て…

  • 大田田根子は大国主の曾孫かもしれない

    媛蹈韛五十鈴媛と似た伝承を持つ大田田根子の系譜について考える。 日本書紀の崇神紀[10]にある大田田根子の自己紹介は「父曰大物主大神 母曰活玉依媛 陶津耳之女 亦云 奇日方天日方武茅渟祇之女也」だ。 陶津耳(奇日方天日方武茅渟祇)の娘である活玉依媛と大物主のあいだの子という。 古事記は「僕者 大物主大神娶 陶津耳命之女活玉依毘賣 生子名櫛御方命之子 飯肩巢見命之子 建甕槌命之子」となっている。 陶津耳の娘である活玉依毘賣と大物主のあいだの子が櫛御方、その子が飯肩巣見、その子が建甕槌で、その子であるという。 奇日方(くしひかた)と櫛御方(くしみかた)、武茅渟祇(たけちぬつみ)と建甕槌(たけみかづ…

  • 綏靖[2]のモデルは武渟川別かもしれない

    事代主を高志に関連づけるならば、事代主の後裔とされる媛蹈韛五十鈴媛の系譜について上手い解釈を考案せねばなるまい。 媛蹈韛五十鈴媛は事代主の娘であり、神武[1]の皇后であり、綏靖[2]の母だ。 綏靖[2]の和風諡号は神渟名川耳といい、名前に「ヌナカワ」を含む。 同じく「ヌナカワ」を名前に含む人物に、武渟川別が思い当る。 武渟川別の父は大彦であり、母は崇神紀[10]の記述から推測して倭迹々姫であり、これは奴奈川姫の縁者にあたる久比岐の女性であろうと推理した。 綏靖[2]も武渟川別も、母が高志に所縁ある女性と考えられ、この共通性から、綏靖[2]は武渟川別がモデルではないかと推測する。 綏靖[2]は、…

  • 国譲りの段の一書第二は高志寄りの視点で書かれた

    天照は九州、素戔嗚は出雲、高皇産霊は大和、建御雷は九州軍、経津主は大和軍の動向を指す。事代主は高志を指すのだが、この神だけは「動向」より「関係性」を指すと云うほうが適切かもしれない。 一般には大国主の子と思われている事代主だが、一書第二では様子が違う。 一書第二の事代主は、大国主が「避け去った」あとに帰順して、大物主とともに八十萬神を率いて天に昇り、高皇産霊に誠款(誠と真心)を陳上する。大国主の子とは書かれてない。 つまり、大国主の子と定義される本伝の事代主が海に「避け去る」のに対し、大国主の子とは定義されない一書第二の事代主は国譲りのあとも存在する。 この差には、おそらく理由がある。 父子は…

  • 御穂須須美は能登半島の先端の神奈備

    出雲国風土記は、奴奈川姫と八千矛のあいだに御穂須須美が生まれたと記すが、久比岐の伝承には無い。おそらく実在せず、ふたりに子は生まれなかった。 出雲の美保関では美保神社の末社である地主社に御穂須須美を祀っているが、元々は国引き神話に因んで祀り始めたのかもしれない。 島根県 『出雲国風土記』の「国引き神話」 なにしろ出雲国風土記は奴奈川姫と八千矛の時代から四・五百年後の編纂だ。 年寄りにはつい最近に思える二千年ミレニアムイヤーの四百年前が関ヶ原合戦であるからして、多少の不確かさは致し方ないと思う。 御穂須須美は、能登半島の先端の神奈備と思われる。 石川県神社庁 須須神社 石川県神社庁 須須神社奥宮…

  • 古代、出雲は高志を見下していた

    前回の記事において、倭迹迹日百襲姫のモデルが奴奈川姫である可能性を述べた。 背景には、久比岐が産する翡翠が価値の高い威信財だったこともあるだろうが、出雲を牽制する意図もあったのではないかと思う。 奴奈川姫と八千矛が生きた時代から四・五百年くらいのちに成立した出雲国風土記。 日本書紀(720)よりあとに成立した出雲国風土記(733)には、高志に対する出雲の姿勢がちゃんと表れているようだ。 早稲田大学リポジトリ 『出雲国風土記』の出雲と越 -「天下」の創出- 一方、美保郷条では、「所造天下大神命、娶…略…奴奈宜波比売命而、令産神、御穂湏々美命」となっている。 ~ 略 ~ 『出雲国風土記』は、補助動…

  • 倭迹迹日百襲姫は卑弥呼ではない

    先代旧事本紀・天孫本紀は、宇摩志麻遅の子である彦湯支が出雲色多利姫を妾にして一男を儲けたと記す。そして子には出雲醜大臣がいる。 宇摩志麻遅が実在する個人かどうかは、判断しかねる。 天香山が久比岐・能登へ侵入した九州軍を表す象徴であるように、宇摩志麻遅も出雲へ侵攻した大和軍の象徴かもしれない。 この系図で実在感があるのは彦湯支以降だろう。 出雲の女性を妻にして子を儲けた彦湯支は、天稚彦のモデルかもしれない。 この時代には、婚姻を戦後処理に活用したという。 ならば、大彦の子である武渟川別は名前にヌナカワを含むのだから、大彦は奴奈川姫の縁者にあたる久比岐の女性を妻にしたのかもしれない。 武渟川別の母…

  • 大彦と吉備津彦は九州人

    日本書紀は、大彦を孝元[8]の第一子、吉備津彦を孝霊[7]の庶子と記す。 また崇神紀[10]には四道将軍として、大彦を北陸道へ、吉備津彦を山陽道へ派遣したと記す。 大彦の北陸道派遣は、国譲り神話の建御雷こと天香山に相当するだろう。 吉備津彦の山陽平定は、天照と素戔嗚の誓約において天照が五人の息子を得たこと、及び神逐に相当するだろう。 天照と建御雷は九州勢として書かれている。 よって系譜とは異なるが、大彦と吉備津彦は九州人である可能性がある。 吉備津彦の山陽平定は、神武東征の一部も担っているかもしれない。 安芸の埃宮と吉備の高嶋宮は、九州勢が瀬戸内海を安全な航路として利用するために設置した拠点と…

  • 建御雷∩天香山、経津主∩宇摩志麻遅

    日本書紀の国譲り神話に登場する高皇産霊の行動は大和の動向を指す。経津主は大和の軍の動向を指し、建御雷は九州勢の軍の動向を指す。 石見国一宮 物部神社 御由緒 その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。 記紀では、大国主は戦わず国を譲ったとしているが、戦ったらしい。 現代でも堂々と主張してしまうくらい物部氏にとって重大な勝利なのだろう。 この物部氏の…

  • 8月15日の記事を削除して書き直した

    暑さで頭が茹っていたのか。 一昨日の朝に更新したブログを夕方読み返したら筋が通ってなくて、自分でも驚いた。このとき削除した記事を書き直したのでアップする。

  • 欠史八代は五代孝昭以降うっすら実在感がある

    神武から数世代を、宮を多く橿原周辺に造営したので橿原勢と呼び、のちに物部氏になる勢力を、祖先神をとって饒速日勢と呼ぶことにする。 この二つが融合した勢力を大和と呼ぶ。 記紀神話は神武[1]一代で東征と近畿平定を成したとするが、戦後処理に掛かる手間を考えると現実的には難しいだろう。よって神武東征は史実を基にしたフィクションであり、実際には数世代に渡る業績と考える。 橿原勢と饒速日勢が融合した時期は、饒速日勢を出自にする欝色謎命を皇后にした孝元[8]または孝霊[7]の頃と考える。幅を持たせたのは、孝霊が高齢の場合に子を政略結婚させた可能性を考慮した。 孝霊[7]は吉備津彦の父とされ、遠征した説話が…

  • 古代、久比岐は出雲を嫌った

    反論として、高志に大国主を祀る古い神社があること、妙高市に小出雲の地名が残ることを挙げられると思う。しかしこれらは後の時代の痕跡だろう。延喜式が編纂された平安時代中期は、箸墓古墳の築造から600年も経過している。 古代、弥生時代末期から古墳時代にかけてのことだ。 久比岐の伝承が、奴奈川姫は八千矛と不仲だとしている。 糸魚川市 奴奈川姫の伝説 幾つかの説話は、奴奈川姫が入水して自死したと伝える。大国主から逃れるための自死であると伝える説話があり、大国主に前夫を殺されたと伝える説話もある。 奴奈川姫は八千矛を好いてなかった。 しかし古事記の妻問いの解釈は、奴奈川姫が八千矛に好意を持っていたとする見…

カテゴリー一覧
商用
読者になる