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  • 48

    「……まさか、あんた、光男さんか? いや、まさかな」 男は細い目を一段と細めてニヤニヤ笑った。奇妙な男だ。素性が判らない。 今日は休日だろうか。それとも毎日が休日だろうか。 昨日の新聞を読んでいる男。 太陽の下にいるが、太陽を遮るように小さく丸まり、新聞にだけ目を向けている。話しかけてきたのが不思議なくらいだ。相手を選んで話しかけているのだろうか。 世捨て人のようなそうでないような男。 幾分かの割合で、懺悔を望んでいたが、実際は望んでいない自分がいる。今は、この隣の男が非番の刑事でないことを望んでいる。「僕が読んでたこの新聞、これ今日の新聞なんですけど、よかったらどうぞ。ああ、殺人未遂事件の犯…

  • 47

    「ええ? この事件、そんな経緯やったんか? 漫才師のほれ、何とかいう……、あの人が救急車呼んだけど、アカンかった。このOL、野村か? オペレータの?」 男は記事にまた目を落とした。読み入っている。 心拍数が速まって行った。額から汗が滲み出る思いがして、野球帽を取り、袖で拭った。また髪が数本抜けた。「鋏くらいで死ぬか? まぁな、倒れたとき、打ちどころ悪かったり、本人の持病とかなぁ、色々あると思うけどな。でもな、鋏が原因と違うんちゃうか。刺されたままずっと生きてて、後からきた人にとどめ刺すってあるやんか。絶対他の人にも恨まれているで。案外実刑少ないんちゃうかな、そのハゲの人」 男は顔を上げると、視…

  • 47

    「ええ? この事件、そんな経緯やったんか? 漫才師のほれ、何とかいう……、あの人が救急車呼んだけど、アカンかった。このOL、野村か? オペレータの?」 男は記事にまた目を落とした。読み入っている。 心拍数が速まって行った。額から汗が滲み出る思いがして、野球帽を取り、袖で拭った。また髪が数本抜けた。「鋏くらいで死ぬか? まぁな、倒れたとき、打ちどころ悪かったり、本人の持病とかなぁ、色々あると思うけどな。でもな、鋏が原因と違うんちゃうか。刺されたままずっと生きてて、後からきた人にとどめ刺すってあるやんか。絶対他の人にも恨まれているで。案外実刑少ないんちゃうかな、そのハゲの人」 男は顔を上げると、視…

  • 46

    「殺したん? 殺してもうたん? 死んだんか? 野村、死んでしもたん?」 隣の男が目を輝かせた。細い目から正気が伺えた。本当に事件が好きなのだろう。「ほんで、どうなったん?」 男は持っていた新聞を膝から落とした。新聞よりも、この話に興味を持ったようだ。新聞を拾い上げようとすると、放っておけとばかりに、身を乗り出した。「この中に続きがあるので……」 そう言うと、男は言葉を失い、せがむのを止めた。 大阪若手芸人も懇願! ミナミOL殺人事件、明日時効 その片隅の記事を指差し、男に手渡した。黙って記事に目を移すと、見出しを小さく読み上げた。

  • 45

    開いたドアからは中年男が三人次々に降りてきた。ため息をついて、受話器を戻した瞬間、最後に女がひとり笑いながら降りてきた。「だからダメなんとちゃいますか」 棘のある声だ。男のひとりが女を振り返りながら歩を進めている。「じゃ、野村くん、明日頼んどくわ」「はい、お疲れ様でした」「お疲れさん」 女が外に出たのを見届け後を追った。――あの女だ。 身なりに釣り合うほど、実年齢は若くはない顔つきだった。 玄関口で上司と別れ、歩き始めた。人通りはない。繁華街へ出てしまえば、機会を失ってしまう。 焦りから足早に駆け寄った。女は少し気配を感じたように振り返った。がそのとき、すでに後方から突進と同時に理髪鋏を突き立…

  • 44

    そのふたりは野村ではない。野村はまだ事務所にいる。 大きく息を吐き、受話器を一旦本体に戻した。壁の向こう側は一階のテナントが入っているはずだが、出入り口が見当たらない。 深閑としている。遠くに道路を過ぎる車の音が聞こえる程度だった。 エレベータの開閉の音がその位置を告げる。しばらく一階に留まっていたが、またすぐに上に呼ばれた。七階まで上がり続けた。人を載せる程度の間があり、六階に下り、やがて五階で一時停止した。心拍が大きく打った。五階から誰かを連れてくる。アメリカ屋の誰かに違いない。 耳から受話器がずり落ちるほどに、気持ちが表示に向かった。 動き始めると一定間隔で階下に下りてきた。もう誰も載せ…

  • 43

    ドアが開いた。スーツの男がひとり乗っていた。視線が合うことが、気まずく思えた。スーツの男はそのまま、玄関を出て行った。 再びエレベータは上階へ向かった。五階に止まった。しばらく表示が止まっていた。 オペレータたちが留めているように思えた。そわそわし始め、手持ち無沙汰にまた公衆電話の受話器を上げた。 エレベータが下りてきた。受話器を耳に当て、話す振りをしながら、目線は表示を追っていた。 開いたドアから若い女がふたり降りてきた。どちらかが野村であろうか。 気を取られて受話器が少し耳から離れたとき、女たちの会話が聞こえた。「野村さんは一緒じゃないの? 珍しく残業?」「いつも率先してオンタイムに帰るの…

  • 42

    正面玄関を入ると、大手警備会社のセキュリティシステムがあり、突き当たりに公衆電話が設置されていた。現金で掛けられる。時計は丁度六時を指していた。アメリカ屋のフリーダイヤルは、午後六時までのはずだった。手が勝手に受話器を取り上げていた。『大阪屋でございます。本日の営業は終了いたしました……』 やはり営業は終わっていた。ふと、留守電の内容に引っ掛かりを覚えた。もう一度、電話を掛けた。『大阪屋でございます……』 大阪屋と名乗った。昨日はアメリカ屋だったが、今日は大阪屋と名乗った。 薬事法は、アメリカ屋にも少なからず影響を与えていた。 エレベータが下りてきた。 オペレータたちの退社は六時過ぎであろう。…

  • 41

    アメリカ屋の代行をしている大阪屋は、中央区にある七階建ての建物の五階に事務所を置いていた。 電話では、アメリカ屋であると名乗るが、そのオペレータたちがいるのは大阪にある代行会社、大阪屋だ。アメリカの法人であるアメリカ屋を日本国内で名乗っていないのには、何らかの理由があるのだろう。 フロア案内には、有限会社大阪屋の名前があった。他の階は二、三のテナントがその階を共有していたが、五階に入っているのは大阪屋だけであった。 敷地は百坪程度だろうか、それほど広くはない。大通りに面しているわけでもなく、人通りも少ない。しかし、土地柄、一本通りを隔てれば繁華街に直面する。 建物は古くはないが、内装が施された…

  • 40

    その時、小さな犬の甲高い鳴き声がした。すぐに男の足元に駆け寄ってきた。飼い主がリードを放してしまったのだろう、長く曳きづっている。洋服を着たおしゃれな仔犬だ。 男が片手で相手をしようとしたそのとき、飼い主の女が走り寄ってきて、リードを素早く手にし、引っ張り戻した。そして、犬を抱き上げて、怪訝そうに走り去っていった。 不快な顔をした。犬に触れて欲しくないような慌てぶりだった。 その見てくれが世間からそう見られている。実際のところ、この男は世捨て人なのだろうか。「気の毒やな。野村、殺されるわ。絶対、殺される。せやけど、そんなんで、殺されてたらエライことやで。世の中にはごろごろしとる。そうやろ? ど…

  • 39

    「アホやな、カワシマ……。余計なこと言いよって。アメリカにおることにとしいたらよかったのに」 隣の男は舌打ちをした。完全に物語に入り込んだ観客だった。オペレータに同情している。「鎌かけられたんやな。かなわん客に捕まったな」 この男は、罵られても衝動で人を殺めることのない、分別のある普通の人間だ。加害者に感情移入することはない。 しかし、分別のある普通人であったとしても、必ずしも正義感があるとは限らない。現場に居合わせても、傍観者に紛れるだけの人間かもしれない。見て見ぬ振りをする。望んで世の中と関わらずに生きているのだ。目前で起こっていることも、現実とは受け入れない。警察にも通報しない。

  • 38

    「アメリカじゃなくていいんですね?」 鼓動が高鳴っていた。『はい、宅配便の着払いでお送りください。申し訳ございません。それから宛名ですが、有限会社大阪屋までお願いします』「大阪屋?」『はい、アメリカ屋の国内代行をしております』 宛名はアメリカ屋ではなかった。日本にはアメリカ屋は存在しない。「着払いで大阪の住所に、大阪屋さん宛に……」『はい、こちらにお願い致します』 こちら、と女は言った。「失礼やけど、名前聞いておいていい?」 女はカワシマと名乗った。「野村さんも大阪にいてはるん? 野村さんの名前も送り状に書いとくわ」『ええ、担当させていただいたのは、野村でございますね。今、席を外しておりますの…

  • 37

    『アメリカ屋でございます』 受話器からオペレータの声が返ってきた。野村ではない。声が柔らかい。「あの……、返品の住所を教えてください」 唐突にそう言った。『ご返品ですね。お電話番号をお願いします』 顧客を特定しようとした。怯んだが、「いや、さっき聞いたんやけど、聞き逃したから、もう一回……」『かしこまりました』 オペレータは機械的に了承し、アメリカの住所を言い始めた。「いや、そちらが間違えて……送られてきて、国内の住所に……」 恐る恐る伺ってみた。月日が過ぎて対応が変わっている可能性もある。『申し訳ございません。弊社が間違えた商品をお客様にお届けしてしまったのですね。では、申し上げます。大阪市…

  • 36

    アメリカの育毛剤に対して、後に持つ興味をまだ持ち合わせていない頃のこと、アメリカ屋がどんな会社であるのか、ましてその返送先が何処であるのかなど、大して関心がなかった。アメリカに送り返す手間を考えると苦痛に思いつつ、カスタマーサービスに電話をすると、国内で尚且つ全額アメリカ屋が負担するということにほっとした程度のことだった。記憶はそこまでだった。――カスタマーサービスに直接聞くしかない。 掛けたばかりであったから、気づかれないようにしなければ、と反射的に思った。野村でなければいい。オペレータは何人かいる。あの女と話さなければいい。野村という女、あの女の声ならまだ記憶にある。第一声で聞き分けられる…

  • 35

    確かな根拠はなかったが、ページの中に国内の住所を懸命に探していた。しかし、サイト内に記されている住所はアメリカのものだけであった。育毛剤の差出住所と一致している。 それでも、あのオペレータが国内にいるという考えは揺るぐことはなかった。産毛が生える前、一度、注文した育毛剤とは全く違うものが届いたことがあった。そのとき、確か国内の住所に返送した。着払いで送るように言われた。――宅急便の控えは? 受領を確認した後、捨ててしまった。 大阪市内の住所だった。就職の面接の帰りに持参しようと思ったのだから大阪に間違いない。どこの面接を受けたときだったのだろう。最寄の駅は……。

  • 34

    女は、野村と名乗った。 何処にいるのだろうか。アメリカ屋はアメリカの法人なのだから、当然アメリカに会社があるはずだ。 ホームページに手かがりになりそうな情報があるに違いない。 パソコンの前に戻った。マウスをヒステリックに振ったが、開いていたはずの画面が開かなかった。電源が落ちていた。苛苛しながら立ち上げると、メールソフトが自動的に開き、受信し始めた。自動受信設定をしていたことに、苛立ちが増してきた。掴んだマウスを無造作に動かした。 育毛剤関係のメールマガジンが終わりを知らず入ってくる。構わずインターネットに接続し、アメリカ屋のホームページを開いた。調べるべきはただひとつ、アメリカ屋の住所だ。大…

  • 33

    男はしししと笑った。新聞を読んでるだけあって、情報通である上に、予想外の言葉を放つ。 タイミングよくサルのキキキという笑い声が聞こえた。「て、いうか、光男さんが違法やねんな? 裁判所はプロやねんから、違法って言うわな。いや、でも何があっても、欲しい人は欲しいやろ? 強壮剤とかと同じで。違法でも欲しい。て、いうか、個人輸入が合法なら、お客さんの家に直接送ってもらったらいいねん。光男さんは代行料もらって。まぁ、そんなんどうでもええわ。ほんで、どうなったんや? 続き話して」 直接、客の家に送る……。そうだ。今聞いたばかりのこの男でさえ、個人輸入と代行の違いについて理解している。今更だが、馬鹿さ加減に…

  • 32

    「訴えられたん? アメリカ屋、訴えられたん? そう言うたら、ちょっと前の新聞で、育毛ケアの会社が訴えられた記事、見たで。全然生えへんからって訴えはってん。売った方も必ず効果あるって言うてないって言い張ったらしいけど、根負けして金払って和解したみたいや」 話し続けている隣の男に耳を傾けていた。次は慰めの言葉を言いそうだ。「確か、その人、四年で七百万近く使ったって書いてたで。光男さんに言うといて。いっぺん訴えてみたらどうかって」 真剣な面持ちを見ると悪気はなさそうだが、提案の意図が判らなかった。「育毛の効果はあったんですよ。その訴訟した人みたいに訴える利益ってありますか? アメリカ屋は合法で営業し…

  • 31

    「ね、殺意を抱きませんか?」 そう言うと、ベンチの男はきょとんとした顔をした。「余計なこと言うからや。せめて電話切ってからにせなアカンわ。アホやな。ほんで、……どないなったん?」 返答は質問に取って代わっていた。もともとこの男は、罵倒が殺人未遂を生んだ事件のことをあり得ないと言った。可能性について話していたはずだが、焦点がすり替わってしまった。まるでドラマの話を聞いているようだ。 続きを知りたがった。暇は十分あるのだろう。細い目を倍に見開いている。 三面記事が好きなのだ。それが現実であってもそうでなくても、この男には物語でしかない。

  • 30

    『申し訳ございません。それは仰ってくだされば……』「ほんだら、送ってくれたらええやん」『今すぐには……』「だから、もう一回だけって言うてるやろ」『お客様、だから、違法なんです』 オペレータは強い口調になった。「もうええわ」 吐き捨てたものの、受話器を置くことができなかった。 すると、『……うるさい客や。だから禿げるねん』 電話が切れる寸前に小さくそう聞こえた。耳を疑いながら、こめかみの血管が切れる音がした気がした。すべての不満がこのオペレータに向かった。口火を切ったのは、この女のこの言葉だ。

  • 29

    少しの光が見えたと思った途端、『同じご住所には……』 好転はしなかった。「もう一回だけ、送って貰えませんか? 二十四本だけ、お願いします」『あいにく……』「どうしても?」『申し訳ありませんが』「そこを何とか」『お客様……申し訳ございません』「これまで結構利用させてもらってるで」『ありがとうございます。でも……』「漏れてたり、不良とかもあったけど、言わなかったことも何回もあったで」

  • 28

    「それって、どういうことですか?」『個人輸入の範囲で承っておりますので、あまりたくさんご注文をお受けできないんです』 一ヶ月に一本使用するとして十二本で一年分。一年先まで注文できないということだ。頭が真っ白になった。「で、でも、これは、ボクが使うじゃなくて、友達に、プ、プレゼントしようと……」「お客様、プレゼントはちょっと……。譲渡は違法ですから」 違法。 鼓動が早くなっていくのが分かった。厳しくなった。何かが変わった。アメリカ屋は、以前とは明らかに対応が違っていた。つい数日前まで、何セットでも買うことができた。『薬事法の関係で……、税関が厳しくなりまして……、それからお客様、お届け先なんです…

  • 27

    『ミノキシジル1%のものですね? 弊社が取り扱っておりますのは、2%と5%になります』 いつものことながら、淡々としている。何があっても動じない。話を切り替え、未着の注文について尋ねた。 客からの催促に恐怖を覚え、自分のものを分け与えてしまった。この分なら、他の客からも問い合わせがあるだろう。『到着が遅れているのですね。申し訳ございません。二、三日お待ちいただいて、まだお届けできないようでしたら、もう一度お電話いただけますか? 再送させていただきます』 オペレータがそう言った。先ほどの女だ。野村と言った。淡々とした感情のない口調だ。「急ぎやねんけど……。あっ、後、二十四本のセット、注文お願いし…

  • 26

    「は、はい」『あ、あの、育毛剤のことでお伺いしたいんですけど……』 抑揚は雑だったが、口調は礼儀正しかった。『日本で、同じ成分の育毛剤が販売されるって聞いたんですけど』 そう言われて愕然とした。予想外のことに答えようがなかった。調べると言って、電話を切った。アメリカ屋に電話をするか、インターネットで調べてからアメリカ屋に電話をするかを迷ったが、結局、ちょっとした知識を身につけるため、先に調べることにした。 その育毛剤は存在した。大手製薬会社から数日後に「リグロウ」という名称で販売される予定だ。成分のミノキシジルは1%だった。今使用しているのは5%、五分の一の量だった。少しホッとしたが、国内で市…

  • 25

    「おっちゃん、今、在庫切れてるねん。到着が遅れてるみたいで。今から確認するとこやねんけど、後、どのくらいある?」 少し焦っていた。通常は十日くらいで届くが、遅れたらもう届かないこともある。アメリカ屋にその旨を伝えると、再送してくれるが、また日数が掛かってしまう。「まだ、大丈夫やで、二、三日はあると思うし」 主は暢気だった。抜け毛が減って有頂天になっているのだ。新聞記事のことや、二、三日でなくなってしまうことなど、何の不安もない。これは、本人にしか解らない喜びだ。この素朴な表情を見ると、十日間待ってくれとは言えなかった。「おっちゃん、僕の一本使っといて。到着したら、返してくれたらいいから。効果出…

  • 24

    「光男、お客さん」 母親は眉を顰めながら、受話器を差し出した。『育毛剤、まだかな? もうすぐなくなりそうやねんけど。早くしてくれへんかったら禿げてしまう』「あ、すいません。確認してみます」 電話を切って、在庫を確認した。一箱も残っていなかった。「光男」 また母親の声がした。今度は店からだ。「八百屋のおじさん、来てはるよ」 慌てて店に向かうと、八百屋の主が笑顔で立っていた。「光っちゃん、おっちゃんな、抜け毛減ってる気がするねん。あの育毛剤、継続しようと思って」 月日の過ぎるのは早い。「もう残り少ないねんけど、また三本貰える?」 主にも効果が現れたようだ。

  • 23

    ホームページが日本語で、オペレータも日本人であったから、国内の店と勘違いしていただけだ。ホームページはすべて熟読していたが、本当のところを理解していなかったようだ。アメリカ屋とは立場が全く違っていた。アメリカ屋は合法で、自分は違法。 薬事法の制限が厳しくなったのだ。注文は激減はしたが、それでもなくなりはしなかった。薬は必要なのだ。止めればせっかくの産毛が抜けてしまう。これがこの育毛剤の魔術だ。生えてきたら止められない。止めたくない。 強く自分に言い聞かせた。リピーターの客にもそう観念を植え付けた。自分自身の産毛も順調であったし、同じ悩みを持つ者に対しての幸福のお裾分けとも思っていた。 代行だ。…

  • 22

    『ありがとうございます、アメリカ屋、野村でございます』 オペレータもいつも通りだった。「あ、あの……、新聞記事を見たんですけど」 おずおずと切り出すと、『ああ、再販のですか?』 返事が返ってきた。やはり煽りはあったようだ。『育毛剤は個人輸入の範囲でお取り寄せいただける商品で、日本国内での販売は禁止されていますから……』「アメリカ屋さんは、大丈夫なんですか?」 思い切って聞いてみた。『弊社は、アメリカの法人会社ですので、日本のお客様が私どもからお買い上げいただいている……個人輸入されているという形なので、特に問題はありません』 そう言われて絶句した。アメリカ屋は日本の会社ではなかったのだ。商品は…

  • 21

    日増しに野心が高まる息子に、忠告したのは母親だった。「すぐにダメになるから、就職して地道に働きなさい」 そしてその母親の言葉は、一ヶ月後、見事に的中した。 輸入代行を名目に育毛剤を再販していた会社社長が、大阪府警に連行された。雑誌に広告を出したことが、逮捕の理由だった。新聞沙汰にまでなった。「光男、これって……」 母親が顔を歪めた。店頭に貼った広告をすぐさま外し始めた。「アメリカ屋は……」 パソコンを開き、アメリカ屋にアクセスした。アメリカ屋こそは、大元の販売店なのだ。しかし、ホームページには何の案内もなかった。いつも通り営業していた。 自然と電話に手が伸びていた。

  • 20

    同級生と別れた後、急にまた否定的な考えが頭を過ぎった。少し自転車を走らせたが、すぐに立ち止まった。顔を上げていると、今まで見えていなかったものが自然と目に飛び込んできた。 電柱やガードレールに貼られているチラシだ。明らかに育毛剤の名称だ。一文字二文字を伏せているが、すぐに理解できた。後は携帯電話の番号が書かれているだけだ。目をつけるところは皆同じである。営業している個人、会社が存在する。 青信号でペダルをこぎ始めると、左折していきた車の存在に、急ブレーキをかけた。接触真際、頭に突きつけられた言葉は、この二文字だった。違法。 薬事法に違反する。アメリカ屋の注意事項が頭に電光掲示板のように流れた。…

  • 19

    自転車を止め、声の方に振り返った。スーツ姿の男と女が立っていた。男は中学時代の同級生だった。話しかけられると、いつも適当に挨拶だけして、その場を立ち去っていたが、自然と足はその場に残っていた。「久しぶり。元気?」 同級生は明るい笑顔を向けた。少し頭を伺ったようだが、むしろ隣の女の視線の方が気になった。「彼女は、会社の後輩。営業に回ってて」 女はぺこりと頭を下げた。可愛い顔をしている。普通に就職していれば、こんな出会いもあるのだろう。「お前も営業?」「えっ、まぁ」「そうや、お前のとこ、理容店やったよな。資産の運用とか、相談あったら、頼むわ」 同級生は名刺を差し出した。「あ、名刺、……切らしてて、…

  • 18

    変わっていく自分に不安は何一つなかった。得意なことで現金が自然に入ってくるのだ。当然調子に乗った。 アメリカ屋の注意事項を肝に銘じ、営業出ることにした。効果の証明は自分自身。多少の忍耐力も身につけた。要領も得た。知らないことへの不安よりも知っていることへの自信を持てるようになって行った。 理髪店、美容院を中心に回った。すでにインターネットで購入している店もあったが、興味を示す店も何軒かあった。 通りを自転車で走っていると、不思議な気分になった。頭を露出させ、視線を上げて道を歩くことがなかったせいか、自分の街の様子が違って見えた。天然の光は、部屋の中の電気と違って、明るく眩しかった。「光男?」

  • 17

    「おばちゃんも、髪の毛、薄くなってきてな……」 嫁は母親と顔を見合わせ笑った。 はっとする思いだった。女性用の育毛剤が存在していたことを思い出した。知っていながら、女性が髪の毛の心配をすることを想定していなかったのだ。女性は禿げないという根拠のない考えがあったせいだろう。 八百屋の嫁の頭を見ると、若干薄い気はしたが、男が気にしているレベルではない。しかし、女性は少しでも気になるのだろう。「おっちゃんが使ってるヤツ、5%で強いねん。男の人でも被れることあるから、やめといた方がええで。女性用あるから取り寄せよか? 2%やから、優しいと思うねん」 嫁も主と同じように目を輝かせた。 人と会話することが…

  • 16

    頭が白くなったという者もいる。頭皮の汚れが落ちていないせいもあるだろう。アメリカ屋からは、油分を落とす、その育毛剤用のシャンプーを紹介された。それを勧めてみたら、今度はそのシャンプーには育毛効果はあるのかと聞かれた。単に洗浄効果しかなかったが、そのシャンプーを併用することで、育毛剤の効果が増すと考える者もいた。育毛への限りない執念が感じられる。これも共有できる思いだった。 煩わしいと思うこともあったが、自身が継続していることだ、立場は同じ側なのだ。 当然、クレームもあれば、喜びの声もある。この代行業を辞めようとは思わなかった。「光男、ちょっと来て」 夕方、母親に呼ばれて店に出て行くと、八百屋の…

  • 15

    ミノキシジルという成分が脱毛防止の役割を果たしている。臨床結果では、継続が必要とされていた。止めると元に戻る。 頭皮のかぶれにクレームをつける者は、説明書を読んでいない。痒みやアレルギー反応は、最も一般的な副作用であるされている。多量のミノキシジルは低血圧の原因となる可能性もあるし、一般的でないものでいえば、手、足、顔の痺れや痛み、浮腫み、性的減退の症状まで報告されている。それを承知で、使用を続けるかどうかは、本人の自由だ。産毛の背景には、たくさんのリスクを負っているのだ。 逆に説明書を読んでいる者は、効果について指摘する。頭頂部の脱毛症のみに効果が見られ、前頭部、額の生え際における効果が確認…

  • 14

    説明を省くため、八百屋の主に渡した説明書の内容に、宣伝文句と注文書を加え、多めに印刷し、それも店頭に置いた。 価格は倍額を提示したが、注文は絶えなかった。同じ悩みを抱える者として、当然理解できた。 アメリカ屋は送料込みの価格を表記していたから、小分け注文にも躊躇しなかった。受け取っている間に、起こりうるトラブルも想像できるようなり、アメリカ屋の「よくある質問」のページのやり取りも理解できるようになってきた。 アメリカ屋も代理店を歓迎していた。普通郵便でアメリカから送られてくるため、到着が遅れてしまったり、液体の漏れはあったが、連絡すれば二つ返事で再送されるため、これといってアメリカ屋とのトラブ…

  • 13

    育毛剤には2%と5%以外にも女性用があった。5%は三本セットを基本に、三本が二箱入っている六本セット、六ヶ月分や三本が三箱入っている九本セット、九か月分など、最多、三本が八箱入っている二十四本セット、二年分まであった。多くなってくるほど、価格は安価だった。継続して使う商品であったから、先のものまで購入を促すセールスだった。 代理店としては三本ずつ箱に入っているなら、最多のセットを購入し、分けて売ればいい、当然そう考えた。 もう面接に行く必要はない。 店に育毛剤の宣伝広告を作って貼った。幸い理髪店であったから、違和感もなく周囲の反対もなかった。天職のようにも思えた。コンプレックスがプラスに変わっ…

  • 12

    産毛と共に運が廻ってきた、そう思った。注文を代行するだけで、手数料を得ることができる。後はすべてアメリカ屋任せで事が運ぶ。 再び、アメリカ屋のホームページを隈なく見た。今度はアメリカ屋を利用するに当たってのガイドページを細かく読んだ。 アメリカ屋は良心的だった。不良品のすべてを受け入れて負担する。問い合わせ等の通信には、Eメールだけでなく、電話とFAXのフリーダイヤルを設けていた。日本人スタッフによる日本語の対応が受けられる。 仕事を与えてくれるという歓喜から、その通販会社が信用できる会社であると自分に言い聞かせていた。そうあって欲しいと望んでいたからだ。 会社案内のページだけでなく、取り扱い…

  • 11

    「日本語の説明書、コピーしとくわな」 使用に当たって説明が必要であると思った。言いにくいことは、書面で理解して貰うべきた。 商品に付属されている説明書は、すべて英語であるのは、アメリカの商品なのだから、当然のことだった。アメリカ屋は、そんな英語に疎い日本人のために、語訳をホームページに掲載していた。それを適当に用紙に納まるようにコピーして印刷した。 八百屋の主に感謝されるたことが心地よかった。その上、手間賃として、いくらか上乗せした代金が支払われた。「おっちゃんな、勝手に近所に広めてしもたけど、金額、大雑把に上乗せしといたから、光っちゃん、損せんように代金先払いしてもらいや。電気代とか、パソコ…

  • 10

    「一本で一ヶ月使うねん。三本で三ヶ月分。一日二回、朝晩。スポイトで掬った分が一回の分量やねんけど、スプレーやったら、五、六回のプッシュかな。髪の毛じゃなくて、頭皮によく擦り付ける」 主は真剣な面持ちで頷き、「頭皮にな……。まぁ、おっちゃんは頭皮しかないけどな」 歯を見せて笑った。明るい性格だ。「あと……」 副作用のことを告げなければならない。躊躇したが、黙っているわけにはいかない。「痒くなったり、赤くなったりするかもしれんけど。もし、肌に合えへんかったら、止めた方がいいかもしれへん」 呟くように言うと、「光っちゃんは、使い続けてるんやろ? ほんだらいけるんちゃうか」 髪の毛のためなら前向きにな…

  • 9

    その翌日から、このちょっとした視覚的変化が、八百屋の主の口コミで商店街に広がった。そして、八百屋の主の如く、この育毛剤を欲しがった。顔見知った隣組たちを想像しただけでも、頭皮が寂しい男たちの顔がすぐに浮かんだ。それが、やがて話したこともないような店にまで広がり、近所に同じ悩みを抱える人間の意外な多さに驚きを覚えた。 ノートに名前と電話番号を書き込んだ。商品は自分が使用している5%の三本セットを取り寄せた。一ヶ月で一本を使用し、三ヶ月。初めての者が経過を確認できる程良い量なのだろう。効果があれば継続する、そうでなければ中止する。それ以前に中止しなければならない症状が現れるかもしれない。 十日ほど…

  • 8

    早速、アメリカ屋のホームページを開けた。アメリカ屋は、アメリカで市販されている商品を扱う通販会社だ。現地から直接自宅に届けられることから、中間マージンが発生しないため、価格が安価であるとセールスされていた。たくさんの商品を扱っていたが、専ら見るのは、育毛剤のページだった。他の商品には全く興味がなかった。 効果が出始めると、その薬品のことが知りたくなるものだ。リンクされているすべてのページを開いては、隅から隅まで読破した。特に効果について説明されている部分は繰り返し開いた。 「個人差がある」というのが、妥当な臨床だと理解していた。だから客の声を反映させたページの「半年で元通りになった」という書き…

  • 7

    その育毛剤は、当時、2%と5%の二種類販売されていた。成分であるミノキシジルの量のパーセンテージだ。出回っているのは5%。量が多いほうが効果があると考えるのが道理だ。しかし、当然、副作用もつきまとう。多少頭皮が痒くても赤く被れても我慢した。刺激の強さに、健在している髪が抜けてしまう恐怖にも耐えた。使い始めて三ヶ月。ミノキシジル……。 奇妙な響きだったが、一筋の光にも思えた。血管拡張剤のひとつで、高血圧の経口薬としてのみに用いられていた。しかしその副作用として、全身の多毛症を引き起こすことから、頭皮に対しての外用薬として臨床実験が実施され、脱毛症に有効であると発表された。アメリカは何という成分を…

  • 6

    何をやってもついていない。無性に何かを蹴り付けたい衝動に駆られた。ミレニアムに浮かれる気が知れない。「光男、お父さんが横の毛、切ってくれるって。今お客さんおれへんから、来なさい」 母親が店と住まいの間から顔を出した。ふさふさの父親は、髪の毛が少ないくらいでいじけるなと言うが、その髪の毛がないことにこんなにも人生をどん底に陥れる。「おい、生えてきたんちゃうか」 父親が頭頂部を見て言った。「そう言えば、抜け毛が減ってる気が……」 育毛剤が効いてきたのか、鏡を通して父親の表情を伺った。 アメリカ産の強力な育毛剤があると聞き、インターネットで隈なく調べた。そして半信半疑のまま、どの通販会社よりも安価な…

  • 5

    偏見について考えると限がない。頭髪が薄いのは遺伝だろう。カツラを被っても被らなくても、就職の面接中に視線が集中するのは、一回や二回ではない。話していても言葉が途切れ、観察するように見つめているのだ。奇妙な間が流れて、結局、後日電話で不採用を下される。不採用の理由を、「頭髪が薄いせいだ」と言った会社は当然にない。「光男、光男、電話。アメリカ屋さんから」 母親の甲高い声がした。ノタノタと台所に歩いていくと、もう一言付け加えられた。「さっさと出なさい。そんなボサッとしてるから、面接落ちるねん」 母親は不機嫌そうに店に出て行った。面接で落ちるのは、三十という年齢でも、三流大学出のせいでもない。すべては…

  • 4

    「その程度のことで殺されてたら、この世に生存者がおれへんようになる」 見てくれの割にしっかりした物言いだった。しかし、どちらかと言えばただの野次だ。ギャンブルの帰りに飲み屋で一杯、世間話といった感じだ。 こんな事件に至っては、被害者側に立って物事を論じる方がいい。加害者に感情移入させると、話が過激になりがちだ。本心はどうであれ、心の中にある限り、思想の自由は絶対的に護られる。「ありえへん、絶対、ありえへん」 男は何度も繰り返した。加害者の犯行理由に納得がいかないのだ。 踵を持ち上げたとき、磨り減ってなくなりかけている靴の裏底が見えた。無精ひげは、もはや無精の域を超えている。皮膚が汚れに染まって…

  • 3

    「刺したらアカン、刺したら。なぁ」 男の口調から、その小さな殺人事件のことではなく、やはり殺人未遂事件の話をしているというのがすぐに理解できた。昨日の三面欄でも、その殺人未遂事件が見開き一面だった。 「方言が汚い」と罵られたことに腹を立て、殺人未遂を犯した男の事件である。「だから、あの地域のヤツは柄が悪い」という地域差別に発展したが、加害者は「だから」という言葉が許せなかったと証言した。 ベンチで隣り合わせた男は、そんなことで殺そうとする奴はいないと啜り笑った。「いるかも知れませんよ」 適当に答えた。昼休みはまだ半分残っていたが、この話に費やさなければならないことはない。 男は一瞬表情を止めた…

  • 2

    他人を妬んで、自分を呪う過去の習慣が後を引いている。この余裕に満ち溢れている男の様を羨ましく思う反面、この男が真っ当な人間であって欲しくないと願う。自分を慰めるために、他人を憐れみたい。そして、今の自分がこの男より幾分かましであると思いたい。「それにしても、この事件、ありえへんわ」 突然、男が話しかけてきた。不意を衝かれて、男が指差す方に目を向けた。 大阪若手芸人も懇願! ミナミOL殺人事件、明日時効 小さな見出しが真っ先に目に飛び込んできた。 昨日の新聞だ……。

  • 1

    公園のベンチで偶然隣り合わせた男も、新聞を読んでいた。食い入るように、見開きに顔を埋めている。 それほど夢中になる記事があるのだろうか。番組表の配置を見ると同じ社の新聞であった。三面記事欄の中央辺りならば、ここ数日、世間を騒然とさせている殺人未遂事件の記事だ。 横目に様子を伺っていると、男は新聞を遠ざけは近づけ、何やらぶつぶつ呟いている。 開いているのかそうでないのか、細い目を瞬きもさせず、その記事に向けている。大きな汚れが斑点になっているジャンパー、黒いTシャツに黒いGパン。豊かな髪の毛はぼさぼさで、無精ひげ。もう太陽は一番高いところまで来ているというのに、この男だけは日曜日の朝のようだった…

  • 53

    「遠海! 何処行くんや」 達也の声が聞こえたのだ。病院を抜け出してきたのだろう。後ろから海里の祖母も心配そうに追いかけてきている。 根岸は狂ったようにカメラを遠海に向け、シャッター切り続けた。「遠海!」 遠海は振りかえると大きな声で言った。「私……人間だわ。ひとりの人間。生きてる」 根岸はレンズを通して見た遠海の姿に息を飲んだ。そしてゆっくりとカメラを下ろした。人間だと言った彼女は誰の目にも妖精に映った。 根岸は鼻で笑うと、カメラからフィルムを取り出し、達也に向かって投げると、その場から去っていった。 いつの間にかいなくなっていた老女は、何かを抱えて遠海の目の前に現れた。「これ、持って行きなさ…

  • 52

    「根岸……」「久しぶりだな。やっぱり、お前が彼女の父親だったんだな」 カメラを提げた根岸吾朗が立っていた。「懐かしいな。この海でまた会えるなんて」 根岸は遠い目で、青碧の海を見つめた。「あの日、オレが意識を失っている間に、何があった? そこにいるお嬢さんは、誰から産まれた? 十八年間、探し続けたスクープなんだ。教えてくれ。オレたちを助けてくれた……三島さんのところに下宿してた彼女が」 父親はまた海に視線を動かし、堅く口を噤んだ。「懸命に研究を続けたオレは、こんな様だ。なのに、研究もせずに絵ばっかり描いていたお前は、見事、大学教授。オレだって、お前と同じだけ海水を飲んだのに……」 根岸は呪うよう…

  • 51

    夕暮れの海は、穏やかに揺れていた。夕日の赤が水面を這っている。嵐はまるで嘘のようだった。 遠海は浜辺に座り、遥か向こうの水平線を見つめていた。「お父さん、お母さんは、……海に帰ったのよね?」 遠海が静かに唇を動かしたとき、父親は娘の若い頬を見つめた。「お前は、あのときの母さんにそっくりだ」 遠海は、隣りにしゃがんだ父の動きを肌で感じていた。「海里くんも帰ってしまうかも知れない」 そう呟いた少女の瞳は悲しみよりむしろ未来を見つめているようだった。 父と娘は、数年ぶりに同じ時間を過ごしていた。 そのとき、砂利を踏みしめる音が近づいてきたのに、徹が先に振りかえり、立ちあがった。

  • 50

    十八年近く育ててきた愛しい孫を目にした老女はすでに暗示していたように、皺が深い顔に努めて笑みを浮かべた。 老女が小さな彼の頬に手をやると、彼の口元が笑った。「おばあちゃん、ありがと……」 海里は瞳を閉じ、必死に呼吸をしていた。そして徐々に徐々に安らかな息遣いに変わっていった。「眠ってるわ」 女医が告げると、今度は老女が遠海の手を引いて処置室を出た。「あとは、お父さんから聞きなさい。全部、全部聞いて、それで、自分で決めなさい。自分の人生は自分でな」 遠海が老女の手を握り締めると、老女の目が遠海を振り返らせた。そこには父親が立っていた。「達也くんは、今眠ってる。心配はない」 遠海はコクリコクリと頷…

  • 49

    海里は呼吸を取り戻した。向井田が彼の名を呼び、何度も何度も「大丈夫」だと繰り返している。 遠海は理解し始めていた。「あなたもそばにきて、彼を励まして。彼はあなたの分身よ」 向井田の言葉に、大きく見開いた遠海の瞳から、溜まりきった涙が零れ落ちた。「あなたたちは誰よりも互いを理解してるはずよ。あなたたちは、しっかり手を繋ぎ合ってこの世に誕生したの」 遠海は駆け寄ると海里の手を両手でしっかりと握りしめた。 呼吸は荒かったが、海里は遠海の手のぬくもりをしっかり感じていた。うっすらと開いた目が遠海を見つめた。そして、ゆっくりと唇を動かした。「おばあちゃんね」 遠海はすぐに唇を読み取り、処置室を出ると、海…

  • 48

    「お父さ……ん」 海里の載せられた担架が遠海の前を通り過ぎていくと、もう一台続いていた。しかし、それは海里とは同じ方向には行かなかった。「事故だ。海里が達也くんを助けた」 父の言葉に、その二台目の担架で運ばれているのが達也であることを知った。「海里についていきなさい」 父はそう言うと、達也の担架について行った。 処置室の前で海里の祖母とともに立ち止まった遠海だったが、向井田は、中へ入るように指示した。 海里は呼吸をしていないように見えた。遠海はベッドの足元の少し離れた場所に立ち、小刻みに震えていた。錯乱して声も出ない。 しかし、目前の医師は彼を見つめるだけで、何一つ応急しようとしない。 そこへ…

  • 47

    「もう、そんなに経つのね。入って」 向井田が穏やかに目の前の成長した少女を見た。 おずおずと進み入る遠海は、やや向井田を睨みつけるような視線を向けている。「座って」 ソファに遠海が座ったのを見届け、向井田も自分の机を廻って向かい側に座った。緊張はしてはいたが、この医者が自分を知っているということに安堵感も覚えていた。父親とそう違わない年齢だろうか、遠海は話すタイミングを伺った。「あの」 口を開いたと同時に机の上の電話が鳴った。 遠海は、電話に応対する向井田の表情を伺い立ちあがった。「急患なの、ごめんなさい」 向井田は白衣を羽織りながらドアに歩いた。「一緒にいらっしゃい」 遠海は不可解に思いなが…

  • 46

    レスキューの男たちが数人現れたが、もはや救助できる状況ではない。 そのとき、ひとりが双眼鏡を覗きながら叫んだ。「こっちに向かって泳いでる」 松下徹は、ただ一人呆然とその波の前に立ち尽くしていた。十八年前の記憶が嵐のように襲いかかった。あの日と全く同じ空気がそこにあった。「仁海……」 --大丈夫、力を抜いて。 あのとき、確かにそう聞こえたような気がした。まるでイルカの背に乗ったように大波を潜り抜けていった。そのうち彼は海に抱かれているような気持ちになった。恐くはなかった。もう彼の耳には何も聞こえなくなった。

  • 45

    遠海の父親、松下徹だった。「約束が違うやんか」 老女は有りっ丈の声で男を怒鳴りつけた。「海里がどうかしたんですか?」「あの子はまだ十八になってないで、せやのに何で」 男は、老女の向けた視線の先を見た。もう小さな点になっている。 そのとき、海水に水滴が落ちて広がった。そして人々の顔にも雫が落ちてきた。ほんの数十秒の間に雨が激しく変化し、波が大きく揺れた。 若い女がレスキューのグループを呼びに行った瞬間、老女が海に飛び込もうとした。押し寄せた波に下半身を掬われ、引きとめた男の方に凭れかかった。「父親のくせに、まだ水が恐いんか。海里を助けて」 老女は両手を握り合わせて浜に伏した。

  • 44

    「探し物か?」「あっいや、あの沖に向かって誰かが泳いでるような気がして……」「女の子やで。泳ぎの上手い子や。堺からきたらしいねん」 海里は冗談半分に達也に言った。 すると、達也はTシャツと靴を脱ぎ、いきなり海に駆け込み泳ぎ始めた。「ちょっと、冗談や……」 海里がそう叫んだときにはすでに達也は聞こえない距離にいた。海里も松葉杖を捨て、慌てて彼を追い、海に入った。 そのすぐ後に悲鳴を上げたのは海里の祖母だった。「海里」 松葉杖が海水に浮かんでいる。「誰か、誰か、海里が、海に帰ってしまう。誰か、あの子を止めて」 うろたえる老女に近所の店の若い女がやってきた。「三島さん」 その後から低い男の声がした。…

  • 43

    青碧駅に着いたその列車から降りた客は二人いた。一人は達也だった。八月下旬になると海水浴も引き潮だった。達也にしてみれば遠海が望んだ場所はここしかないと思ってのことだ。 静かな道を一心に海へ向かって小走りに歩いた。達也はずっと遠海だけを見てきたが、その日ほど遠くに感じたことはなかった。彼の足はまた自然と速まっていた。 防波堤から海を見下ろした瞬間、達也は自分が別人になるような気がした。そして遠海の存在を肌で感じることができた。 ふと視線を止めた先に何かか浮かんでいた。沖へ沖へと進んでいるように見えた。達也は、慌てて浜へと降りた。その海に慣れていない動作の達也を見つめていたのは海里だった。海里には…

  • 42

    「お連れしましたよ」 看護師はドアを開けて声を掛けると、すぐに受付に戻っていった。中には遠海がひとりで入った。 机の向こうで女性がひとり遠海を見つめていた。「あっあの向井田先生にお会いできますか?」「私が向井田よ」「あ……」 遠海が言葉を失っているとまた向井田が口を開いた。「あなたも驚いたみたいね。ミユキって読むのよ。美行と書いてね」 遠海は慌てて頭を下げた。「私も驚いた。まさかお嬢さんの方だったなんて……」 向井田の表情は、複雑であり、穏やかでもあり、そして少し曇ってもいた。遠海もまた、それが複雑でもあり、安堵感も覚えていた。

  • 41

    「あっ、向井田先生、あの、今」 看護師がもたもたしているうちに、事務員の男が、遠海を追いかけて駆け出していった。 向井田は何のことだか解らず、不思議そうな顔で立っていた。「今、あのマツシタトオミさんという……」「松下……徹?」「ええ、休憩に出られてすぐに来られて、で、今また……」 向井田はドアを振り返った。事務員は何処まで追いかけたのか、すぐに戻ってくる気配がなかった。「部屋に来てもらってください」 向井田は、そう看護師に言って廊下を歩いていった。 少しして事務員が遠海を連れて戻ってきた。ドアを入るなり奇声を上げた。「何や、この雨。急に降ってきよった」 事務員が雨を手で払っていると、受付の看護…

  • 40

    向井田は、まだ病院に戻っていなかった。受付には、先ほどの看護師がいて気の毒そうに遠海を見た。少し早かったようだ。 その時間、待合室には誰もいなかった。看護師だけが何人かうろうろしているだけで、深閑としていた。「向井田先生? 今日は人気やなぁ」 また奥の方から声がした。朝の男の声だった。同じ人物が尋ねてきたことを彼は判っていないようだった。「携帯に電話したらええで」 声の主が現れた。事務員のような中年男だった。人のよさそうな顔をしている。 看護師は、すぐに遠海にそう伝えたとき、すでに受話器を上げ、向井田の短縮番号を押していた。「いいです、すみません。あの出なおしますから」 と遠慮して、そそくさと…

  • 39

    それでも老女は遠海の後頭部に手を添えたまま、どける気配はない。少女はもう全く動かない。死んでいるようだ。老女は大きく息を吐き出すと、呼吸を整え、黙って遠海の様子を伺っていた。 水面は老女が呼吸するたびに動く腕のせいで若干揺れていたが、それ以外に抵抗を受けることはなくほぼ静止に近い状態だった。 老女はゆっくりとその手を離した。すると小さな泡が遠海の耳の端から浮かび上がってきた。やがて頭が微妙に左右に揺れると、両手がたらいを掴み、ゆっくりと顔を水中から外へ出した。 遠海は、濡れた顔を拭おうともせず、呆然と水面を見つめた。そしてすぐに老女が立ちあがったのを感じて視線を動かし、両手をそれぞれの耳の下に…

  • 38

    遠海は少し鼻をくずらせながら、慌てて彼女の後をついていった。家に向かっている。しかし、家には入らず通りすぎた。家の丁度裏に、洗濯でもするのだろうか、蛇口とその下に大きなたらいが置かれてあった。老女は、その大きなたらいに水を溜め始めた。蛇口から手を放して、勢いよく流れ落ちる水をただじっと見つめている。止める気配がない。 遠海もまた深刻な面持ちでその様子を目で追っている。 そして水は満タンになり、たらいから溢れたとき、ようやく水は止められた。「ここにひざまづいて、この水を見て」 老女はそう言うと、自分もたらいの横に膝をついた。 遠海が言われるままにおずおずと膝をつくと、老女は一寸の間も置かず遠海の…

  • 37

    「……休憩に出られてて……また後から行きます」 老女は、口を噤んでまた歩き始めた。「あの……二十年近く前のこと、何でもいいんです。教えてください。おばあさんだったら、何かご存知じゃないですか? ずっとここに住んでらっしゃるんだったら……」 遠海はまた海里の祖母について歩いた。「この海のことが知りたいんやったら、市役所に行ったらええ。地図でも観光案内でもくれるやろ」 老女は立ち止まり、そのとき初めて遠海を真っ直ぐ見つめた。「違います。知りたいのはそんなことじゃなくて……。ホントは……自分が誰かを知りたいんです。こんなこと言ったら変に思われるかも知れないけど、私は自分が解りません。みんなと同じって…

  • 36

    「息がな、苦しくなるねん。心臓病かな」 海里は、砂利を踏む音で祖母の足音が判るのか、松葉杖を支えに立ちあがった。「ばあちゃんが来た。店番せなアカンから、また後でな。働き過ぎで死ぬわ。足悪いのに、ホンマ、きついオバァやで。ああ、今日も帰れへんねんやったら、ボクのとこ、泊まったらええで」 海里は話さなければ子どものようだったが、本当は自分よりもずっと大人なんだと遠海は自分の幼さを恥じた。 すれ違い様に、サボっていた言い訳をした海里に、言語道断とばかりに跳ね返す祖母がいる。しかし、孫息子が勢いよく駆けて行く姿を見守る老女の顔には、眉間の皺はなくこの上なく優しかった。「海里くんの足、私、すぐに良くなる…

  • 35

    しかし、まもなく嵐が海を襲い、青年は二度と妖精と会うことはなかった。その若い画家は、彼女は海に帰ったのだと思った。 そして月日が流れて、いつか誰かがこの海を見つけ、人が訪れるようになると、青碧の美は過去のものとなり、記憶の底に沈んでしまった。妖精の伝説も海の泡と化した。結局、絵を描き上げた者はいず、その青碧の絵は残ってはいない。「一度触れてしまうと、もう触れる前には戻られへん。でもみんな、触れずには居られへんかった。あんまり汚い手で触ったら、海かって怒るんちゃうか。時には荒れることもあるで」 隣りに座っている海里の笑顔が眩しい。遠海はこのまま時間が止まればいいと思っていた。会ったばかりの彼をこ…

  • 34

    青碧の海は青かった。光が反射してきらきら輝いている。遠海の耳には海里の優しい声だけが響いている。 その昔、誰もこの場所を知らなかった頃、この海の水は自然の色をしていた。青く深く誰も予測できない美しさだった。おとぎ話に出てくるような穏やかで静かな処女の水。誰も触ったことのない濁りひとつないブルーグリーン。それは、どんな優れた画家も表現できない色。何度色を重ねても無駄に等しかった。何度挑戦しても、誰一人絵に収めることはできず、決して完成することはなかった。その度、画家たちは一から描き直したものだった。 ある日、一人の若い画家が、それはそれは美しい乙女と出会った。彼は海の妖精だと自分の目を疑った。妖…

  • 33

    ---台風で大荒れ。波に飲まれた学生、三人のうち二人無事保護、一人重症…… 根岸はしばらくその記事を見つめていた。 駅へ向かう人々が、立ち尽くす彼を横目に過ぎていったが、全く気に留める素振りはなかった。そんな男を現実に戻したのは、「お前それでええんか? オレやったら納得行けへんわ」「オレかって、諦められへんけどな」 二人の男子学生の会話だった。 根岸は決意したかのように、タバコを握り締め、階段を上り始めた。

  • 32

    「根岸さん、オレです」 彼は、何故か声を潜めていた。「部長がカンカンです。あの悪く思わないで……」 そう言った瞬間、別の声がした。「根岸、お前、何処におんねん。勝手なことばかりしてたら、いい加減、クビやぞ。何十年も前の古臭い事件に拘ってもな、部数は伸びれへん」 上司の藤田がアルバイトに電話を掛けさせたようだった。「うちはスポーツ誌ちゃうねんからな。水泳選手なんかどうでもええねん。事件じゃ、スクープ、最新のスクープじゃ」「部長、あの……、これはスクープです。だから」「今すぐ、帰ってけぇへんから、クビや。分かったな」 電話を一方的に掛けてきた上司は、一方的にそう言って電話を切った。 根岸は大きくた…

  • 31

    達也はすぐに自転車に跨り、根岸とは逆の方向に走り出した。無性に腹を立てていた。根岸の態度もそうだったが、遠海が自分に何も言わず消えてしまったことに納得がいかなったのだ。自転車を漕ぎながら、「何処へ行ったのかな?」という根岸の言葉頭の中で繰り返される。信号をどう横切ったのかも判っていなかったが、走り慣れた道、誤った方向へ迷うこともなかった。丁度、駅前を通りすぎようとしたとき、彼は突然ブレーキに手を掛けた。 四つの角の一つが剥がれてお辞儀していたが、彼の目に止まったポスターは、観光業者の淡路島の宣伝をしていた。達也が遠海に渡したチラシと同じだった。 達也は思い立ったように、その場に自転車を放置し、…

  • 30

    校門のそばにカメラの男が立っていたが、達也は視界に入れることなく門を一気に潜り抜けた。室内プールと更衣室には鍵が掛けられていて、中に人がいるいる気配はなかった。 校庭では野球部と陸上部が練習しているだけだった。 自転車を押して門を出ようとすると、まだ男が立っていた。「やあ」 遠海に付きまとったカメラマン、根岸吾朗だった。「またか……」 達也は彼を疎ましく思ったが、ふと顔を上げ、振りかえった。「もしかして、朝早くからここにおった?」「ああ、七時から。君らは朝練とかもするんだろうと思ってね」「遠海は現れた?」「いや、今日はまだ」「そやろな。今日は練習ないで」 達也はわざと言葉を誘導した。「君は彼女…

  • 29

    インターホンの向こうに女の声がする。遠海の継母だ。特に遠海が彼女の悪口を言っているわけではなかったし、彼女が遠海に辛く当たっている風でもないだろう。が、何故か、達也は彼女に構えてしまう傾向があった。威圧感があるというのでもない。むしろ、親切そうだ。「遠海ちゃんなら、朝早く出かけたみたい。練習じゃない?」 インターホン越しではなく、わざわざ外まで出向いて、応対するところも彼女らしい。「あっ、そうです。今日、オレ、遅刻してしまって」 達也は作り笑いを浮かべて嘘をついた。その日は練習はない。彼自身、嘘をついた理由も判らなかった。 いったん家に戻り、自転車を取って達也は学校に向かった。何かがあったとき…

  • 28

    「あの……向井田先生にお会いしたいんですが……」 受付にいた看護師が、遠海の声に顔を上げた。「向井田先生? 内科の方に行ってもらえる? すぐ隣やけど……」 彼女がそう言ったあと、すぐに何処かから声がした。「向井田センセ、さっき出かけたで」 遠海が声の主を探して視線を泳がせていると、また目前の看護師が口を開いた。「ごめんなさい。お出かけみたい」 そう言うと、また何処から声がした。また別人の声だ。「昼休憩」「二時間くらいで帰ってくるみたいだけど」 恥ずかしげもなくその看護師も声の指示通り遠海に伝えた。それが遠海には何ともいえず滑稽に思えた。気取らないというか、少し親しみがありすぎるというか。「ああ…

  • 27

    「ありがとうございました……」 遠海はすぐに言われた方向に歩き出した。「遠海ちゃん、何処行くん?」 松葉杖で追いかけてきた海里が遠海の様子を心配顔で見つめている。「海里くん、行かないといけないとこがあるの。後で、後でね」 遠海は足を止めることなく先を急いだ。「後で……な」 海里はそんな彼女を見送った。 通りを渡って、食堂とタバコ屋の間の道……、遠海は呟きながら海里の祖母の言った道をたどった。すぐに病院が見えてきた。外科・内科・循環器消化器科と看板にある。診療所を想像していた遠海には予想以上に大きな病院だった。入ってすぐのところに受付があった。何人かが会計の順番を待っていたが、静かで、病院の人間…

  • 26

    「まったく、愛想のないおばぁやで、ちょっと待っててな」 海里が呆れて呟き、また奥へ入っていくと、遠海は彼女を追うように駆け出した。「あの、すみません」 遠海は老女を引きとめた。「ひとつ、お伺いしてもいいですか? あの……」 老女は遠海に背を向けたまま足を止めた。「二十年近く前に、この付近で研究をしていた大学生をご存知じゃないですか?」 老女は何も言わずまた足を踏み出した。もちろん遠海もついて歩いた。「あの、海水の研究をしてたらしいんです。背が高くて……あの……」 老女は必死で食いついてくる少女に根負けしたのか、立ち止まると右手に持っていたビニールを地面に置くと、通りの向こうを指差した。「通りを…

  • 25

    「何しにきたん? こんなとこに」 老女は無愛想に口を開いた。「ちょっと……知りたいことがあって……」 威圧のある老人に、遠海はたじろいだ。「親御さんは、知ってんのか?」 その低い声に、遠海は口篭もった。「おっ、ばあちゃん、帰ってたんか、この人は、遠海ちゃん。家出中やからしばらく泊めたってな」 勝手に話す海里に口を挟むように、遠海は撤回した。「あの、私は大丈夫なので、あの、すみません。泊めてもらおうなんて思ってませんから」「何言うてんねん。また浜で寝るんか?」 海里はお節介だったが親切だった。それに引き替え、その祖母はまるで愛想がなかった。「早く帰った方がええ」 老女は、スーパーのビニール袋に詰…

  • 24

    「ばあちゃん、出かけてるわ。その辺座って待ってて、着替えてくるから」 松葉杖を器用に動かして、少年は奥の部屋へと入っていった。遠海は入り口に腰を掛けて辺りに視線を動かしていた。 海辺を少し上がったところには、何軒か家が並んでいたが、間の何軒かはすでに立ち退いてしまったようだ。海里の家は少し外れにあって、付近の者はみな自宅の前に店を出していたが、海水浴に向いている砂浜からは離れている海里たちは、シーズン中はそちらの場所に出向いて店を出さなければならなかった。 少しして、外で砂利を踏みしめる音が聞こえた。遠海が顔を入り口に向けると、険しい顔つきの老女が立っていた。 遠海は立ちあがって挨拶をした。 …

  • 23

    「ボクのこと、生意気やって思ってるやろ? これでも十七年生き延びてんねんけどな」海里は自分の成長を明るく悲観して言った。「えっ、じゃあ、私と同じ……。ごめんなさい」「謝ったな?」 遠海は謝ることで、考えが図星だったことを認めてしまった。それを素早く察知した海里が笑っている。そして何か話そうとしたとき、喉に何かが絡んだようにごろごろさせた。「ねぇ、やっぱり着替えた方がいいよ。風邪引くから」 生意気な少年は、遠海の忠告にこくりと頷いた。「なぁ、ボクの家にけぇへんか? 家出の間、預かったるわ。ばあちゃん居るから心配せんでええで」 少年は半ば強制的に遠海を自分の家に誘導したようだったが、遠海の方も彼の…

  • 22

    「暑は夏いからすぐ乾くねん。ああ、あのビニール袋におにぎり入ってるで。ばあちゃんが作った。腹減ってんねんやろ?」 少年が指差す方向にスーパーのビニールが置かれていた。「缶のお茶も入ってるやろ、売りもん盗んできたった」 遠海は言われるまま、ビニール袋を取りに行った。彼の言うとおりおにぎりらしきアルミホイルで包まれたものと缶のお茶が入っていた。「腐ってへんで。腐ったもん出したら、店、営業停止やから」 海里の家は夏の間、海辺で店を出しているようだった。遠海は少しずつ開店し始めている海の店を遠めに見た。「もしかして、毛布も海里くんのおばあちゃんが……」 そう呟くと海里の隣に座ってお茶を取り出した。「何…

  • 21

    「ありがとう。毛布……濡れてしまうな、ばあちゃんに叱られるやろな」 少年は身長は小さく痩せていたが、口調は大人っぽく、不相応に落ちついていた。「ボクは海里、三島海里」「松下遠海」 遠海は、名乗りながらもう片方の杖を彼の脇の下に構えてやった。「遠海ちゃんか、こんなところで野宿したん? 女のくせにやるな。見所あるで」 海里の小気味のいい口調は、少し生意気にも聞こえた。しかし、不思議と嫌味ではなかった。「着替えないと、風邪ひくよ」「ボクのこと小学生やって思ってるやろ?」 少年は笑って、毛布に包まったまま海辺に座った。

  • 20

    松葉杖の生活は小学校に上がるまで続いた。いつかスイミングスクールのプールに浮かんでいる方が楽だと気づいた。 遠海の予想通り、海に入っていった彼はずんずん泳ぎ続けた。 そして、遠海は確信していた。彼もまた自分のように松葉杖を手放し、ひとりで歩ける日が遠くないと。 少年は、十メートルほどで円を描くように一周し引き返してきた。遠海は思わず毛布を手に近づいた。そして、彼の松葉杖を、一本、また一本、拾い上げた。彼が上がってくるのを迎えるように。彼は遠海を見つけて笑っている。「自殺すると思った?」 彼の第一声に遠海は首を横に振り、片方の杖を頼りに立ち上がる彼に毛布を掛けてやった。Tシャツとデニムの膝丈のパ…

  • 19

    波が穏やかに輝いていた。 遠海は海辺で眠ってしまっていたのだ。毛布を遠海に被せた人間がいたことも気づかずに。 午前三時前まではまだ海を見つめていた。あくびをしたき、あるいは目を擦ったとき、すでに横たわってしまっていたのかもしれないと思った。 毛布は真新しかった。海の家の誰かが掛けてくれたのだろうか。遠海は丁寧にそれを畳むと、砂を掃い自分のリュックサックの上に載せた。そして、海の水でさっと顔を濡らした。 バシャという音がして、反射的にそちらを見ると、松葉杖の小さな男の子が倒れて水に半分浸かっていた。遠海は慌てて立ち上がったが、二、三歩踏み出したところで、足を止めた。彼はそのまま松葉杖放ったまま、…

  • 18

    「行ったらええと思うで。お前の人生や。ラッキーやんか。進路、決めよう思て、大学行っても卒業までに見つかれへんヤツも多いみたいや。お前は、こんな年で自分でやりたいこと解ってる。アカンかっても、自分でどうにかしたらええ。せやろ?」 伸哉は、二つしか違わない兄の説教を黙って聞いていた。「お兄、ありがとう。……なぁ、一万円貸してくれへんか?」「一万円?」「新幹線の切符買うねん」「お前、アホやな。新幹線代もないのに東京行ける思てんのか?」「せやから貸してって言うるんやろ」 達也は呆れて、大きく息を吐き出した。「ほんだら、頼むで。オカンに言うてな。一万円も頼んでや。お兄、ホンマ頼むで」 伸哉は、いつまでも…

  • 17

    公園のベンチで十時、確かに昨日そう約束した。達也はレンガ色のゲートの陰に隠れて通りを見た。すぐに遠海の家が見える。そわそわして家から出てくるのを見張っていたと思われたくはない。いつも約束の時間より十分前に到着する達也だったが、遠海がいつも十分後に来るわけではない。遠海はオンタイム派なのだ。もう一度腕時計に目をやると、約束の時間より三十分が過ぎていた。達也は納得がいかなかった。 公園内の体育館のスポーツクラブにやってくる主婦たちが次々にゲートをくぐって行く。「お兄、何やってんねん?」 嫌な声がした。弟の伸哉だった。ギターを肩に掛けて両手をズボンのポケットに入れている。「何や、お前こそ、何やってん…

  • 16

    遠海の家のすぐ前も海がある。昔、貿易の栄えた港だ。夕方になると、風に乗って汐の香りが感じられる。青碧にも同じ空気があった。 海が近い。 遠海は足を早めた。人気もなく普通なら十七の少女がひとりで歩く場所ではなかったが恐くはなかった。そしてその海を目にした瞬間、後悔することは何もなくなってしまった。 月に導かれる一筋の光、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえてくるようだった。遠海は、迷うことなく海岸へと降りていった。 涙が止めどなく溢れてきた。

  • 15

    それに海洋学の研究者である父親も、遠海を海へ連れていくことはなかった。大学生の頃、この青碧の海付近で研究をしていたというのを知ったのも父本人の口からではない。学生時代のことをも封印してしまっている。だから遠海は、ここを訪れることで何かが見えると信じていた。 青碧駅から海岸までは少し距離があったが、歩けないほどではない。何人か一緒に降りた乗客も途中で見えなくなり、遠海はその暗い道をひたすら西へ向かってひとりで歩いた。判っていることは、突き当たれば海だということ。しかし先へ行くほどに通りが淋しくなっていった。道に立つ電灯がぽつりぽつりと照らしてはいるが、頼りは星の明かりだけだ。 こんな時間に海に行…

  • 14

    自分が本当は誰なのか。自分が他とは違うということを、遠海はとうに気付いていた。 彼女が知りたがればがるほど、父親は隠そうとした。この十七年半、考えなかったことはなかった。母親が誰なのかも。父親を憎んだことは一度もない。ただ隠し続ける彼が不審に思えてならなかった。「お前の母親は故郷の海に帰った」 そんな言葉で、いつも父親が口を噤むのは、最愛の人を海で失ったためだ。遠海は、父が今も母親だけを思っていると信じたかった。二年前再婚してからすっかり変わってしまったが、それは再婚相手とその娘を気遣ってのこと、真実は別の場所にあると疑わうことはなかった。 どのくらいの時間が過ぎた頃だろうか、気が付くと車掌が…

  • 13

    「探しに行きます。本当の自分を」 遠海は、「松下徹」と書かれた表札に向かってそう呟き、歩いて駅へと向かった。 駅は、歩いて十分と掛からない位置にある。迷うことなく南行きの電車に乗り込んだ。まだ、通勤帰りの人でいっぱいだ。彼らを見ていると、自分が怯んでしまうような気がして、途中の駅で急行待ちしている各駅停車に乗り換え、わざと人の少ない車両に歩いた。 外はもう暗い。これからどうしようと言うのだ。明日の朝一番に出ればよかった、遠海の頭に後悔の念が過ぎった。幼くも意思的な目元を顰めた。もう挫けている。子どもの頃はもっと勇気があった。松葉杖なしに歩けなかった足の不自由さも訓練で克服した。いつからこんなに…

  • 12

    遠海は決して父親に逆らうことは言わない。必ず「はい」と言って、二階の自分の部屋に入る。しかし、以前はこうではなかった。何でも相談し、笑い声も絶えなかった。それがたった二人の家族でも。人数が増えると笑い声も倍増するとは必ずしも決まっていないのだ。子連れ同志の再婚は、誰かが感情を殺さなければ、上手くいかないと遠海は思っていた。だからといって、誰が犠牲になっているかなど考えたことはなかった。 部屋に入ると、ジーンズとTシャツに着替え、リュックサックにウィンドブレーカーとバスタオルを詰めた。財布には千円札が五枚。それからアルバムの間に挟んであったお年玉の残りの二万五千円。 ゆっくりとドアを開けると、誰…

  • 11

    切なげに唇をキュッと噤んで遠海が玄関を入ると、すぐに父親の声がした。「遠海」 食事中だった。部屋に押し掛けられて説教される前に、遠海は台所に顔を出すことにした。「ただいま」 テーブルで、家族三人が仲良く夕食を取っている。これもまた理想の家族だ。美人の継母は今時珍しく夫を立てる女。無口な義妹は伸哉と同じ年だが、突拍子もない夢など持たず、公務員になるためにだけ勉強している。無表情な所が現在の父親によく似ていて、彼女の方が本当の娘のようだった。「ご飯は?」「たっちゃんとラーメン食べてきたから」 この輪に入るのが嫌で嘘をついた。「受験勉強してるのか? 水泳で声を掛けてもらったからって、故障した時のこと…

  • 10

    「あのバカが、高校退学寸前やねん」「ノブちゃん、どうしたの?」「仲間と東京に行くって言うてる。オカンは、卒業してからにせぇって言うてるけど、アイツは決めたら、聞けへんヤツから」 弟の伸哉は、学校の教師に嫌われているが、本当は優しい少年だ。自分の信念をしっかり持っていて、澄んだ瞳をキラキラさせている。「遠海ちゃん、オレらが成功したら、サインしたるからな」 遠海は、男の子は達也や伸哉のように、いつも前向きなものだと信じていた。そして、女の子はいつも後ろばかり振り返るものなのだと思えて仕方がなかった。「明日、相談しよ。公園で、十時な」 達也はそう言って、遠海の家の前からほんの十数メートルだけ自転車に…

  • 9

    遠海は小学三年生の時、大学教授の父親とこの堺という町に越してきた。以来、達也とは細い道を隔てて三軒向こうの隣人となった。「いつ見ても、お前の家、ええよな。今風で。オレも洋間の自分の部屋欲しいわ」 達也は、いつも二階の窓を見上げて言う。達也も二階建ての一軒家に住んではいたが、祖父の代に建て直した家で、もうそろそろ建て替えの頃なのだ。「あたしは、たっちゃんの家の方がいいな。人が住んでる感じがする」「何、言うてんねん。やかましいだけや。上品さの欠片もないヤツらやで」 達也は家族のことをそんな風に言うが、遠海には羨ましい家族らしい家族だった。おおらかで話好きの母親は、この息子のことを泳ぐしかの能がない…

  • 8

    「あたし、青碧の海に行きたいんだ」「青碧? あんなの日帰りビーチじゃん。オレが取ってきたチラシの……」「淡路島もいいんだけど、でも……。近くに泊まるところ、あるよね。青碧でも」 立ち上がって返事した遠海は、達也の肩ほどしかない小柄な少女だ。「まさか、まだ泳ぐつもりか? クラゲ出るぞ」 達也は、そう言って遠海を笑ったが、一泊二日の二人だけの旅行に、彼女が同意したことに、踊り出す気分だった。達也としては、一泊というところが何より大切なのだ。場所ではない。下心を隠して、スポーツマンとしての爽やかな笑顔を作ろうと努力したが、別の方向を見ている遠海の瞳には映らない。

  • 7

    家の前の公園で、ベンチに座って考え込んでいる遠海に達也が言った。「オリンピック、行きたいな。次ってオーストラリア? なぁ、アメリカとかでトレーニングしたり。オレ、アメリカ人なろかな。け、結婚とかして……」 チラリと遠海を意識して視線を向ける達也。遠海はどこかぼんやりしている。達也は彼女を勇気付けようとまた話し出す。「ほんでな、子どももアメリカで生むねん。ほんだら、二十歳になったとき、日本かアメリカか、国籍選べるなねんて。テレビで言うてたで」 遠海は、達也を見てにっこり笑う。「気にすんな、あんなヤツ。それより、あの……旅行のことだけど」 一八〇センチに達した長身と水泳選手らしい肩幅を持つ達也は、…

  • 6

    「松下遠海さんだね。君をずっと捜してた。私は、東京グラフのカメラマンで……」 男は、ジャンパーのポケットを探って、名刺を取り出し、遠海に差し出した。「根岸、根岸吾朗っていうんだ。取材させて欲しいんだ」 達也は、俯いている遠海の腕を引っ張って歩き始めた。「学校の水泳部の顧問に通してからにしてください」 男は、名刺を差し出したままついてきた。「おっさんも、しつこいなぁ」 達也は、遠海を自転車の後ろに積んで、一気にこぎ出した。しばらく男は走って追いかけてきたが信号で立ち止まった。「何や、あのおっさん……」 本当なら、遠見に取材が殺到してもおかしくないのだ。無言でいる遠見を背に感じながら、達也は考えず…

  • 5

    遠海と達也はジャージに着替えて、学校の校門を出た。達也の押している自転車の籠に無造作に積み上げている二つの大きなスポーツバッグが、体育会系の学生らしい。「ああ、高校最後の夏休みも、もうすぐ終わりやな」 達也が空を見上げて言った。もう日がすっかり暮れていた。返事のない遠海を振り返ると、ついてきてはいたが、足取りが重く俯き加減だった。「遠海、どうしたんや? さっきから変やぞ」 学校の塀が途切れたすぐ前に立っていたひとりの男が、待ち構えていたかのように、遠海に近づいてきた。達也は自転車を止めて慌てて駆け寄った。「おい、おっさん、何の用や?」 プールサイドにいたあのカメラマンだった。

  • 4

    それでも男は同じ体勢のまま、瞬きもせずにただ一心にレンズの向こうを見つめていた。 やがて水面の揺れがほぼなくなった瞬間、少女の身体が水面にぼわっと浮き上がった。動かない。「しまった!」 男は顔を顰め、ようやくカメラを下ろした。当てが外れて、慌ててプールに駆け寄ると、うつ伏した少女の両頬の辺りに、再び小さな泡がボコボコ上がってきた。カメラを持つ手が震えた。足も動かない。 扉に何かが当たったような音がして、男は我に返り、後ずさりながら、再びロッカーの陰へと隠れた。しかし、視線は少女から離すことができずにいた。 少女は、両腕を広げ水底に足を付けた。そして、ザバッと顔を上げるとゴボゴボと水を吐き出し、…

  • 3

    その美しい泳ぎからは想像も付かないような動きをして、水面をバシャバシャと手のひらで叩き始めた。 彼女に身に何かが起こった。足が攣ったのか、それとも肉離れか。 ロッカーの陰に隠れた男は、反射的に足を踏み出したが、すぐに思いとどまった。何故ならそのために、何度も何度もここを訪れているのだから。 彼は冷酷にも、溺れている少女をカメラのレンズを通して覗いたのだ。「大丈夫だ、絶対、大丈夫」 男は心の中で何度も呟いた。彼女が力尽きて水面下に沈んでいっても、彼は決してカメラを放しはしなかった。 ボコッボコッと水面に泡が浮かんできたとき、水はすでに穏やかに揺れているだけだった。少女は沈んでしまった。

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