chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
アトピー生活 https://atopic-life.hatenablog.com/

アトピー性皮膚炎と付き合い続けて30年以上。一般に知られざる、アトピー人ならではの生活を綴っています。

atopic-life
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2020/03/08

arrow_drop_down
  • 荒くれ先生

    中1の時のクラスの担任は、父親くらいの年の体育教師だったのだけど、馬乗りになって生徒をぶん殴るような荒くれ先生だった。 「くらわすっぞ」(げんこつを食らわせるぞ的な意味)が口癖で、実際に体育の時間に "態度が悪い"という理由で男子生徒をグラウンドに押し倒し、馬乗りになってグーで顔や腹を何度も殴りつけるということがあった。 その時女子は保健体育か何かで教室で授業を受けていて、クラスメイトの男子が「なめとっとか、あぁ!?オラァ!!」と怒鳴られながらボコボコにされる様を窓から目撃。私含めみんなドン引きしていた。飛んできた数学教師 ( 副担任 ) に諌められてもしばらく馬乗りのまま怒声を発していて、殴…

  • 教室の窓から覗く巨大な顔

    小学校6年生の時、担任のH先生の授業中に突然外が真っ暗になった。 午後の授業で、14時〜15時くらいだったと思う。授業を受けていたら急に蛍光灯の明かりを強く感じて、辺りを見回すと窓の外が夜みたいに真っ暗だった。先生と40人ばかりのクラスメイトがみんな、なんだなんだと騒ぎ出した。 4階にある教室の南側に面した窓の外にはついさっきまで、空とグラウンドと坂下の家々が見えた。そういうものが全く、夜の闇に呑まれたように何も見えず、明かり一つない。「何これー!?」とみんな大騒ぎになり、窓際の生徒は貼りつくようにして外を見ていた。他の生徒も立ち上がって外を見て、廊下寄りの席だった私も背伸びして外を眺めた。こ…

  • 退院 土佐清水⑩

    アトピー治療のために土佐清水病院に入院して一週間後、付き添いの母親が仕事に戻るため先に帰って行った。今まで母と二人だった民宿の部屋に、高校生と中学生の女子2人が来た。人見知りな方だったから初めは戸惑ったけれど、いざそうなればすぐに慣れた。夜の治療時間以外部屋でゴロゴロする生活に変わりはなく、変化といえば、民宿の食堂にレディコミがやたらあって、母の前では読めなかったどぎつい漫画を読む時間が増えたこと。そして私が来て一週間経つ間に、初め民宿にいた人たちは次々退院して顔ぶれはだいぶ変わっていた。 私の皮膚の状態はかなり良くなっていた。ジュクジュクした炎症は入院早期になくなり、硬く厚かった皮膚もこの頃…

  • 講演 土佐清水⑨

    土佐清水病院にかかるアトピー患者は全員、院長の講演会を聞かなければいけない。入院患者だけじゃなく、全国の診療所で診察を受けて薬をもらう人は漏れなく。講演会は土佐清水はもちろん、全国各地で開かれていた。 私が入院した当時、入院患者は入院期間中に必ず講演を聞くようスケジューリングされていたから、土佐清水病院本部では月に数回は行われていたんだと思う。 入院して数日後、病院にある広い講議室みたいなところで講演会が開かれた。部屋いっぱいの患者さんが、絨毯張りの床に座って話を聞いた。 丹羽医院長を見たのはその時が初めて。当時いくつくらいだったんだろうか、子供の時はとにかく大人の年齢の判別ができない。お爺さ…

  • 日々 土佐清水⑧

    アトピー性皮膚炎治療の為の、土佐清水病院での入院 ( 民宿からの通院 ) 生活にはすぐに慣れた。 治療は基本毎晩病院に通い、サンドバスという特殊な石粒に埋まって肌を柔らかくする風呂 (?) に入ったあと、軟膏を全身に塗って包帯でぐるぐる巻きにされるのの繰り返し。たまに昼間(だったと思う)に病院に行って、茶色い液体の入ったぶっとい注射を肩に打たれることも。これがどんな薬品でなんの効果があったのかは全く覚えていない。打たれるとすぐ強烈な鈍痛がして、看護師さんに言われた通りに良く揉むと痛みがやわらいだ。 私と同じ中学生くらいの男の子がお母さんと一緒に来ていて、注射を打たれたあと泣きそうな顔をしていた…

  • 患者さんたち 土佐清水⑦

    病院・民宿ともにアトピー性皮膚炎の患者ばかりだったから、気持ち的に非常に楽だった。いつもは人目を気にして、どこかで回りからの攻撃に怯えていたところがあったけど、ここは症状に差こそあれ皆アトピーだから、のびやかな気持ちで過ごせた。 同じ民宿の患者さんと話をする機会がしばしばあった。 ある20代の女性は、高校生くらいの時に症状が悪化して母親からも疎まれるようになったらしい。卒業後家を出て彼氏さんと暮らしていたが、アトピーがますます悪化して引きこもるように。「どうせ治らない」と部屋の隅で布団に隠れて過ごす彼女を、彼氏さんは絶えず励まし、彼女から落ちる皮を箒で掃き集めて掃除し、そしてこの土佐清水病院を…

  • 二日目 土佐清水⑥

    土佐清水病院で初めてアトピーの処置を受けた翌朝。 夜は包帯キチキチで初め寝苦しかったが、結局ぐっすり寝た。ムズムズ痒みが出たとき包帯のせいで掻けないのは困ったけれど。薬を浸透させるための包帯は、掻かない (掻けない)という意味でも良いのかも。 それでも夜中になんとか掻こうとしたらしく、ところどころ包帯が緩んで内側のガーゼが飛び出していた。顔は乾燥しておらず、「ちょっと良い感じかな?」と思った。 朝ごはんを食堂で食べて、病院から処方された薬を飲んだ。SOD様作用食品(エスオーディーようさようしょくひん)といって、" アトピーに悪い影響を与える活性酸素 " を分解する酵素 (SOD) と同じ働きを…

  • 薬つけ 土佐清水⑤

    サンドバスから出て男女別になった処置室に入った。部屋に入ると、ちょうど私の前にサンドバスを出た人の薬つけが終わったところ。そうやって上手いこと回しているようだ。 パンツ一枚になって新聞紙 (だったかな?) の上に立ち、看護師さんが二人がかりで全身に薬を塗ってくれる。待ち合いにいた母も初めての薬つけは見学した。 顔、首、腕、体、足と上から順に全身、大豆やハトムギなどの植物を原料としているらしい半透明のVa軟膏を塗って、その上に鼻にツンとくるグリテールパスターなる軟膏を重ね塗りする。そしてガーゼを被せ、包帯でグルグル巻きに。顔にはグリテールは塗られず、包帯も巻かれなかった。手先は包帯ではなく白い綿…

  • サンドバス 土佐清水④

    民宿で夕食を食べたあと、着替えとタオルを持って母と病院へ向かった。治療はたしか19時頃からだったと思う。 民宿ごとにローテーションで時間が決まっていたから、自然ほかの宿泊者と連れだって行くことになる。入院の "先輩" たちが、これからどんな処置を受けるか話してくれた。 まず "サンドバス" というのに入って、それから薬をつけ、薬の浸透を増す為に包帯を巻くらしいのだが、そのサンドバスとやらに10分かそこら入るだけで、自分では風呂に入れないという。しかもそのサンドバスは、お湯に浸かるのでは無く" 石に埋まる " という。どういう状況かよく分からない。細かい説明を求めると、「行けば分かるよ」と言われ…

  • 民宿 土佐清水③

    アトピー治療の為に泊まり込むことになった民宿は、いかにも民宿らしい建物だった。病院から歩いて10~15分くらいだったか。近くにスーパーなんかもあって、便利な立地だった。 気さくそうな女将さんが出迎えて、建物の案内をしてくれた。 広めの玄関のすぐ右側が8畳くらいの食堂。その奥に調理場と従業員さんの部屋があって、さらにその奥と廊下を挟んだ左側が患者さんの宿泊部屋。だったような気がする。そして左側の奥にはシャワー付きの風呂場もあった。 2階は玄関を入ってすぐ階段があって、登った右側に広いベランダの物干し場、左に学校にあるような石造りの大きな手洗い場があった。細かい間取りは忘れてしまったが、あとは右奥…

  • 土佐清水病院 土佐清水②

    産まれて初めて飛行機に乗った。高知行きの飛行機はガラガラで、それでも通路側の席だったから乗り出して窓の外を眺めた。 ぐんぐん小さくなっていく街が、技術のはんだごてで作った回路基板に見える。母にその発見を伝えると、「そお?」と言われたが、後々空撮の街と回路板をダブらすようなCMを見た。 客室乗務員さんが来て「好きなところに座って良いですよ」と声をかけてくれた。空いている窓に張りついて外を眺める。巡航高度に達した飛行機からは、地球の丸い形が分かるような気がした。 高知空港から高知駅に行って、四国の最南端にある土佐清水市まで電車とバスを乗り継いだ。らしいのだが、私の記憶にあるのは高知駅前の坂本龍馬像…

  • 頼みの綱 土佐清水①

    母が言った「高知に行ってみんね」。この頃アトピーがかつてなく酷くなり、日々頭髪が大量に抜けるようになっていた。「このままではハゲる」と危機感を持った母が、高知県にある土佐清水病院に行ってみないかと声をかけてきた。 アトピー患者たちの最後の拠り所的な病院らしく、治療に評判がある。だが良くならなかった人がいるという噂もある。 入院期間は診察次第で、およそ一週間から10日くらい。病院に泊まるのではなく病院の近くにある患者専用の民宿に泊りこむ。 入院したら肉、揚げ物、チョコレート、スナック菓子など食べてはいけない。 保険がきかない。 以上が私が母から与えられた情報だった。この病院については母が古い知り…

  • いざ、思春期

    中学1年の初夏、ついにやってきた。母に言ったら「おめでとう」なんて言ってたが、私としては何か暗雲立ち込めるような想いがした。 しかし、「思春期が来ればアトピーは治る」と医者が言っていたのは忘れない。漢方内科の医院長だけじゃなく、総合病院でも言われたと記憶する。ホルモンバランスが変わるから云々。もしかして、もしかして良くなったりするのかしら……。が、やはり良くなったりなんてしなかった。どころかパッドの蒸れでかゆくて堪らず、やっかいな悪化要因がひとつ増えただけ。「結局私は一生このままなんだな」と諦念を抱いた。 小3くらいから自分のアトピーによる見てくれは重々承知していて、「一生異性に愛されることは…

  • 経過

    小学校中学年頃の写真を見ると、顔も含めて全身真っ赤で見るからにゴワゴワしていて、眉毛も無いし(かゆさのあまり自分で抜いてしまった)、かゆくなるからと刈り上げで前髪デコ上の短髪だったのが余計痛々しさを増している。 この頃の写真は恐ろしくてなかなか見れずにいて、こないだ実家に帰った時に意を決して十数年ぶりに見た。母と兄と三人での夏の旅行や、家でTシャツめくって腹を掻いてる写真、顔がジュクジュクだから撮られたくないと言ったのに先生に強制的に撮られた図工で作ったワニの被り物を頭に載せた写真など。写真を見たら当時のことをいろいろ思い出して感慨深かった。覗き込んだ母が「あんたよう見れるね。私は胸が痛む」と…

  • お父さんと

    朝はお湯を浴びて、夜はお風呂の後に、全身に保湿剤のワセリンと酷いところにはステロイド剤を塗っていた。 夜は父が薬つけの担当だった。几帳面なところがあって、人体図に塗る薬の名前を書き込んで柱に張りつけていた。その人体図に「ちんちん」なんて部位の名称まで書いてるもんだから、恥ずかしくて剥がすようにお願いしても、「お前の為たいろ」と聞く耳持たなかった。大人には、大概こういう子供の微妙な羞恥心は理解してもらえない。しょうがないから、友達が来る時は事前にそっと剥がして隠しておいた。 小学校高学年になって、薬つけの為に父親に全身をくまなく触られるのが嫌になってきた。明確な理由やきっかけはない。ある時突然嫌…

  • 皮膚科への通院

    小学校から中学一年にかけて、各種民間療法も加えて試していたが、基本的にはずっと総合病院の皮膚科に通い、そこで処方される薬を塗っていた。たしか粉薬も飲んでいて、かゆみを抑えるという抗ヒスタミン剤だったか。これは甘めで苦じゃなかった(はず)。月に一度くらいの頻度だったろうか、病院で肌の状態を見せ、血液検査をして薬を処方してもらった。はて、血液検査は何の為だったのか。と思って検索したところ、IgE値ってのを測っていたのかなあ。『アレルギー原特定とアレルギー炎症の数値化』というような情報が出てきた。肌の炎症の度合いが数値として出てくるから、治療の目安になるらしい。 そこは母の勤め先(母は内科の看護士)…

  • 強迫神経症的な

    全身の肌が赤くむくんで、カサカサじゅくじゅく、特有の嫌な匂いを放つ。そんなんだから、何か "漠然とした不安" みたいなものに憑かれたりするのかもしれない。 『アトピーの悪いものを集めて宇宙に飛ばす』というイメージに取り憑かれていた時期があった。なんのこっちゃ、という感じだけども。小4くらいだったか。全身を撫でるように空中で掌を動かし(大丈夫大丈夫、悪いことない)と心の中で呟きながら、全身の悪いものを集める。そして手をピストルの形にして空に撃つ。人に見られたら完全におかしな子だと思われるのは分かっていたから、家や学校、道すがら人が見ていない隙にやる。フッと急に不安が湧いて来るとどうしようもなくて…

  • 漢方

    小4くらいから通いだしたのが、漢方を扱っている内科の診療所だった。そこは消化器内科だけれどアレルギー診療も掲げていた。 母が知り合いからここの漢方がアトピーに効くと聞いたらしい。「この頃はとにかく良いと聞けば何でも試した」と母の談。 診察室の壁には、いろんな種類の茶色いカラカラの葉っぱが入った瓶がたくさん並んでいた。診察台に横になって、院長がお腹をあちこち押して痛いかどうか聞いてきた。内蔵の状態を診ていたのだろうか。後は肌の状態を一通りみて、漢方の配合を決めていたようだった。 その漢方薬、パックだったか葉っぱだったか、煮出すのは親に任せっきりだったからまるで覚えていないのだけど、出来上がりは泥…

  • 婆ちゃんと祈り

    両親と兄と、父方の祖母と一緒に暮らしていた。祖父は私が産まれるだいぶ前に亡くなっている。 共働きの両親に代わって、祖母が私と兄の面倒を見てくれた。看護師の母親が準夜勤の時は晩御飯も作っていたし、年二回、彼岸のこし餡おはぎは本当に美味しかった。「人を傷つけるようなことは決してしちゃいけない」というような、道徳的なことをよく言っていた。どちらかというと、思ったことを溜め込みがちな性格であったと思う。 祖母は朝夕まんまんさま (仏壇) にご飯やお茶をお供えして、日蓮宗のお経をあげていた。台所には神棚もあって、こちらにも朝夕手を合わせていた。信心深いというより、大正生まれとしては当たり前のことなんだろ…

  • あるある? 〜小学校時代〜

    <いろんなものをベタベタにする> 自然に保湿ができないため手先にもワセリンをつける。できるだけ肌に擦り込むようにするが、どうしても油分が残る。故に基本的に触った物がベタベタになる。簡単に拭けるものならいいが、 リモコンのボタンはやっかいで、拭きにくいし、拭いたティッシュがくっついたりする。 黒い本の表紙やCDのブックレットにしっかり指紋が残る。これは丹念に拭いても綺麗に取りきれない。友達に借りたものなど、細心の注意が必要。 消しゴムがテカテカになって消せなくなる。こうなるともう患部を削り落とすしかない。気をつけてプラスチックケース以外は触らないようにせねばならない。 同級生に「はさみ貸して」と…

  • 小学校3年生くらいだったか、うちにバブルスターが来た。 バブルスターとは、浴槽に備え付けた器械のノズルからぶくぶく泡が出るという家庭用温浴器で、神経痛や疲労回復に効くと謳われていた(ようだ)。それがアトピーにも良いとかで、看護師だった母が病院の同僚から譲ってもらってきた。 ヴーというモーターの唸りとともに泡がとめどなく出てきて、設置当初はだいぶはしゃいだ。泡はきめ細かいものではなくて、湯船がボコボコなるのもノズル回りの狭い範囲だったけれど。 ノズルを持って、顔、首から上半身、手足…と流れ出す泡をあてていく。当時は可愛らしいもので「よくなるかな?よくなるかな?」と期待を持って、目新しさが無くなっ…

  • 地獄のプール

    母親がここしばらく、自分の子育てのやり方を振り返って「良かったのかどうか…」と想いを巡らせているらしい。そのなかで、「あんなに厳しくしなくてもねぇ…」というのが、小学校の体育のプールだ。 アトピーが全身酷くなった小3の頃から、プールが嫌で仕方なかった。 醜い肌を白昼のもとに露出するのはもちろん、まずあのプールの入口にある塩素シャワー。しみる。「しっかり浴びなさいよ~」という先生の目が反れた隙にシャワーをかいくぐりながら突破。先生に喋りかけたクラスメイトに心から感謝。だがその先にはあの腰洗い槽が控えている。塩素の匂いをツンと立ち昇らせながら。 プールへの通路を塞ぐように設置されていて、腰までの高…

  • アトピー性皮膚炎とは何か

    医学的なことは専門ではないし、症状も人によって差異があるので私の実体験として。 <症状> 肌が自然に保湿できない 朝晩2回、シャワーや風呂で肌を柔らかくしてから、ワセリンなどの保湿剤を全身に塗る必要がある。 水に濡れたあとは恐ろしい速度で乾燥する。手先なんかは手を洗うたびに保湿剤を塗らないといけないので面倒くさい。足湯に入るのも気が引け、遊園地のウォーターアトラクションに怯える。 外気(特に秋冬)や空調でもすぐに肌がパリパリになって、公共交通機関は2〜3時間乗っているとてきめんに乾く。長距離バスは特に乾燥度が高くて、目的地に着く頃には全身ボソボソで即風呂に入らないと活動できないくらい。 衣服と…

  • 毛抜き

    同居の祖母によく頼まれていたのが、逆まつ毛抜き。 普通まつ毛が生えている位置よりずっと内側(眼球側)にまつ毛が生えて、目を突いて痛いらしい。1〜2ヶ月ぐらいの間隔だったか、べろっと瞼をめくった裏側の毎回違う場所に、多い時は同時に3本くらい生えていた。祖母の目では見えないらしく、頼まれては毛抜きでつまんで抜いていた。 毛を抜く時、ポリッと良い手応えで半透明の塊が取れる(抜いた毛の毛根についてくる)のが楽しくて、はて、自分の手足の毛でも取れないかしらと思い至った。そしたら、取れる取れる。 いま書くに当たって、この半透明の物体は結局何なんだと調べたら、どうも毛根鞘(もうこんしょう)というもののようだ…

  • 食について

    両親は、とにかくアトピーの原因と考えられるものを排除しようと頑張ってくれた。 その最たるものが食事。野菜は無農薬、魚は天然物、肉は国産で出所が確かなもの、卵は有精卵、加工食品や調味料は添加物・化学調味料なしのもの。 当然値が張っていたわけで、いまから考えると贅沢な食生活だったわけだが、当時は特に市販のお菓子ジュースやインスタントラーメンもダメ!な生活が不満だった。 友達の誕生日パーティーなんかに行くと、宅配ピザからポテトチップス、真っ赤なウィンナーやらコカコーラにファンタと、見目も煌びやかでカツーンとくる化学調味料や大量の砂糖の味がタマらなかった。そして家に帰って「買って買って!」を連呼するの…

  • 進行

    じわじわと症状が悪化していき、小学3年生頃には常時痛々しい外見になってしまった。 全身カサカサでブワブワに厚くなった皮膚が赤みを持ち、皮は落ちるし時に黄色い汁も出る。顔も爛れたように赤くなり、道すがら近所の人から「かわいそうかわいそう」を浴びるように。 肌のケバ立ち(カサカサ)が酷かった為、どういう経緯で始めたのか忘れたが、朝起きたらまずは新しめのパリッとした軍手で全身のカサカサをこさぎ落としていた。 いま思うと絶対肌に良くない。もしかしてそのせいで酷くなったんじゃなかろうか…。親もそう言ってやめるよう促したが、この表面に浮いたカサカサがどうにも気持ち悪くてムズムズして、やらずにおれなかった。…

  • 化け物の気分

    小学2年生の時だったと思う。全身のカサカサと関節部の発疹はあったが、いま写真で見てもそう分からないくらい。 待ちに待った夏休みが来て、母親に兄と二人プールへ連れて行ってもらった。 ピカピカに晴れた日だった。兄とはしゃぎにはしゃいで三時間。付き合いきれずに休憩所で読書していた母親が、さすがにアトピーへの日焼けダメージを心配してやってきて、ブーブー言う我々を一喝して帰途についた。 夏休みは最高の滑り出しだった。帰りの車も兄と大ハシャギだったのを覚えている。ペーパードライバー講習を終えたばかりの母がかっ飛ばす赤いミニカの中で、何がそんなに楽しかったのか、飽きもせずにキャッキャと笑いあっていた。 翌朝…

  • 始まり

    時は1988年。 バブル景気の中、青函トンネルや東京ドームが竣工した年らしい。ドラクエIIIが発売され、フラワー ロック(サングラスかけた踊る花)がヒットし、オバタリアンが流行語というネットの情報を見ていると、よっぽど昔に思われる(よっぽど昔だ)。 私は当時4歳だったから記憶が断片的にしかないが、そういえばブラウン管の中でしょっちゅう光GENJIが走り回っていたような。ウルトラマンに夢中になっていたと思ったが、放送時期を調べたらそれは1990年のことのよう(それも再放送だった)。 我が家のテレビはダイヤル式のブラウン管で、羽みたいなアンテナがついていた。電話は黒のジ ーコロ、トイレはボットン便…

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、atopic-lifeさんをフォローしませんか?

ハンドル名
atopic-lifeさん
ブログタイトル
アトピー生活
フォロー
アトピー生活

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用