chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
あなたの神、主を愛しなさい https://kurisuchan.hatenablog.com/

クリスチャンになって7年目のわたしが、聖書の解説やつぶやきをしております。聖書を手にされたことのない方々、ぜひお越しになってください。

s.ujike
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2020/02/22

  • わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である(ヨハネ7:14~17)

    (今回は、神からのおしえをありのまま語られているキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・7章の14~17節より 『祭も半ばになってから、イエスは宮に(=エルサレム神殿の境内(けいだい)に)上って教え始められた。すると、ユダヤ人たちは(=ユダヤ人の聴衆や指導者たちは)驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに(=イエスは田舎のガリラヤ育ちで、旧約聖書に関する専門的な学び(=律法学者からの学び)をうけていないのに)、どうして律法の(=旧約聖書にある神からのおしえ、指針の)知識をもっているのだろう」。そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教(おしえ)はわたし自身の…

  • しかし、兄弟たちが祭に行ったあとで、イエスも人目にたたぬように、ひそかに行かれた(ヨハネ7:10~13)

    (今回は、殺意さえいだいている者たちがいるまつりへと、ひそかに行かれるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・7章の10~13節より 『しかし、兄弟たちが祭に(=エルサレムでの仮庵(かりいお)のまつりに)行ったあとで、イエスも人目にたたぬように、ひそかに行かれた。ユダヤ人らは(=とくにユダヤ人指導者たちは)祭の時に、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜(さが)していた(=警戒して気にしていました)。群衆の中に、イエスについていろいろとうわさが立った。ある人々は、「あれはよい人だ(=神からの使者、預言者だ)」と言い、他の人々は、「いや、あれは群衆を惑わしている(=…

  • わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている(ヨハネ7:6~9)

    (今回は、十字架のときはまだきていない、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・7章の6~9節より 『そこでイエスは彼らに(=弟たちに)言われた、「わたしの時はまだきていない(=神のみこころ(=ご計画)にそっての、十字架のときはまだきていない)。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている(=あなたがたが悔いあらためて信仰にいたる機会は、いつでも用意されている)。世はあなたがたを憎み得ないが(=悪魔の支配下にある世は、悪魔の支配におかれたままのあなたがたをにくむことはないが)、わたしを(=神の御子(みこ)キリストを)憎んでいる。わたしが世のおこないの悪いことを(=この世でい…

  • こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである(ヨハネ7:3~5)

    (今回は、イエスを信じていないのに、イエスの宣教をもっとひろめるべきだと指摘する弟たち、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・7章の3~5節より 『そこで、イエスの兄弟たちが(=ヨセフとマリアの息子たちが)イエスに言った、「あなたがしておられるわざを(=病のいやしなどをとおしての宣教を)弟子たちにも(=おそらく12人の弟子ではなく、あらたにつきしたがうようになった弟子たちにも)見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです(=キリストに意見をしています)。自分を公(おおや)けにあらわそうと思っている人で(=神を証(あか)しし、それをひろめようとしている人で)、隠れて仕事をする…

  • ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった(ヨハネ7:1~2)

    (今回は、機をみさだめておられるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・7章の1~2節より 『そののち(=多くの者がイエスから離れていったのち)、イエスはガリラヤ(=イエスの故郷がある地方)を巡回(じゅんかい)しておられた。ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので(=ユダヤ人は、イエスが神と等しいご存在であるのをみとめず、イエスの発言を神への冒涜(ぼうとく)とみなしていました)、ユダヤを(=エルサレムがあって、ユダヤ人指導者がいる地方を)巡回しようとはされなかった。時に、ユダヤ人の仮庵の祭が(かりいおのまつり=神のみちびきによる出エジプトの際、その旅路(たびじ)において、…

  • あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である(ヨハネ6:70~71)

    (今回は、ユダのうらぎりに対するキリストの預言、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の70~71節より 『イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を(=12人の弟子を)選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である(=神に属しておらず、悪魔に属している。なおキリストがこう語られたのは、ペテロが “わたしたち12人の皆が、キリストから離れることはない” とのべたからです。この発言をうけて、預言というかたちで否定しておられます)」。これは、イスカリオテのシモンの子ユダ(=イスカリオテという村の出身であるユダ)をさして言われたのである。この…

  • 主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです(ヨハネ6:66~69)

    (今回は、ペテロにみる信仰告白、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の66~69節より 『それ以来(=キリストが霊についての話をし、それらが理解できなかったのを機に)、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった(=信仰にはいたらなかった。またイエスを王にしようとする運動もここでおわった)。そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。シモン・ペテロが答えた、「主よ(=キリスト(救い主)よ)、わたしたちは、だれのところに行きましょう(=だれのところにもいきはしません)。永遠の命の言(ことば)をもっているのは(=永遠のいのちへとみちび…

  • それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである(ヨハネ6:63~65)

    (今回は、キリストのことばは、神のえらびにあずかっている者にしか理解できない、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の63~65節より(以下はキリストのおことばです) 『わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である(=キリストが語ることばには、神の霊的な力がともなっており、またいのちをもたらす力がそなわっています)。しかし、あなたがたの中には(=ひとまずのところイエスについてきていた者たちのなかには)信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか(=ついてきていた大勢のなかからも、だれが信じないか)、また、だれが彼を裏切るか(=これは12人の弟子…

  • 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない(ヨハネ6:60~63)

    (今回は、人を生かすのは、キリストからあたえられる霊によってである、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の60~63節より 『弟子たちのうちの多くの者は(=イエスについてきてはいたが、ほんとうの信仰にいたってなかった者たちは)、これを聞いて(=キリストの肉をたべ、血をのむ者には、永遠のいのちがあたえられ、しかもキリストと一つになるという話を聞いて)言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか(=彼らは肉や血の話をふくめ、すべて物質的なものとしてとらえているので、理解がともなってきていません)」。しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいて…

  • わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる(ヨハネ6:56~59)

    (今回は、霊においてキリストと一つになる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の56~59節より 『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は(=キリストの十字架による罪のあがないを信じて、その霊においてキリストの肉をたべ、血をのんだ者は)わたしにおり(=キリストのうちにとどまっており)、わたしもまたその人におる(=キリストもその人のうちにとどまっている。いわば霊において一つとなった関係のなかにおかれています)。生ける父が(=いのちそのものである神が)わたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように(=神の霊とのむすびつきによって生きているように。反対に霊…

  • わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう(ヨハネ6:52~55)

    (今回は、霊においてキリストの肉をたべ、血をのむ、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の52~55節より 『そこで、ユダヤ人らが互(たがい)に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか(=彼らは物質的な肉と思っているので理解がともなってきていません)」。イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず(=キリストが世の人々の罪の身代わりに、十字架でからだ(肉)を裂かれ、死なれたと信じていれば、贖罪(しょくざい)としてのキリストの肉を、霊においてうけとり、たべたことになります)、また、その血を飲まなければ…

  • わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である(ヨハネ6:47~51)

    (今回は、永遠のいのちをもたらす霊的なパンは、罪をあがなう子羊としての霊的な肉のことでもある、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の47~51節より(=以下はキリストのおことばです) 『よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には(=イエスがメシア(救い主)だと信じる者には)永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は(=出エジプトの際のイスラエルの民は)荒野でマナ(=神がモーセを介して天からあたえたパン)を食べたが、死んでしまった(=腹をみたすだけの物質的なパンだった)。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は(=永遠のいのちをもたらすキリストを信…

  • 預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである(ヨハネ6:44~46)

    (今回は、神のえらびにあずかっている者は、神のはたらきかけによってキリストのもとにくる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の44~46節より(=以下はキリストのおことばです) 『わたしは、その人々を(=神がひきよせて、キリストのもとにあたえてくださった人々を)終りの日に(=世のおわりに)よみがえらせるであろう。預言者の書に(=神の預言がしるされている旧約聖書のイザヤ書に)、『彼らはみな神に教えられるであろう(=神のえらびにあずかっている者は、神からじかにおしえられるであろう(イザヤ54:13)』と書いてある。父から聞いて学んだ者は(=神からのおしえを直接まなんだ…

  • わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない(ヨハネ6:41~44)

    (今回は、人々を信仰にいたらせる神のえらび、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の41~44節より 『ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。そして言った、「これはヨセフ(=キリストの父のことで大工(だいく)です)の子イエスではないか。わたしたちはその父母を(=ヨセフとマリアを)知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか(=普通の家庭のヨセフとマリアから生まれ、こうして育てられてきたのに、なぜいまになって神のおられる天からきたなどというのか)」。イエスは彼らに答えて言われた、「互につ…

  • そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう(ヨハネ6:38~40)

    (今回は、キリストが神のみこころどおりに、信仰者をよみがえらせる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の38~40節より 『わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかた(=神)のみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を(=神のえらびによってキリストのもとにあつめられた者たちを。すなわちすべての信仰者を)、わたしがひとりも失わずに、終りの日に(=世のおわりに)よみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子(=御子(みこ)であるキリスト)を見て信じる者が、ことごとく…

  • わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない(ヨハネ6:34~37)

    (今回は、キリストこそが、神がこの世にあたえたいのちのパンである、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の34~37節より 『彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンを(=この世にいのちをあたえる天からのまことのパンを)いつもわたしたちに下さい」。イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである(=わたしこそが、神が人々に永遠のいのちをもたらすために世におあたえになった、いのちのパンである)。わたしに来る者は(=つきしたがう者は)決して飢えることがなく(=くちない霊的な食物によってうえることがなく)、わたしを信じる者は決してかわくことがない(=霊的な生ける水によってか…

  • 天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである(ヨハネ6:32~33)

    (今回は、永遠のいのちをもたらすパンとしてのキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の32~33節より 『そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンを(=マナとよばれる物質的な腹をみたすパンを)あなたがたに与えたのは、モーセではない(=そもそも出エジプトの際のこのパンとて、天からおあたえになったのはモーセではなく神である)。天からのまことのパンを(=永遠のいのちをもたらすまことのパン(=これはキリストのことです)を)あなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは(=キリストは)、天から下ってきて、この世に命を与えるものである(=このよう…

  • 神がつかわされた者を信じることが、神のわざである(ヨハネ6:28~31)

    (今回は、おこないではなく信仰によって救われる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の28~31節より 『そこで、彼らは(=永遠のいのちにいたる食物のためにはたらくがよい、と言われた彼らは)イエスに言った、「神のわざを行うために(=神に義とされるおこないをするために)、わたしたちは何をしたらよいでしょうか(=“はたらくがよい”と言われた彼らは、おこないによって神にみとめられようとしています)」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである(=キリストを信じるという信仰こそが、神へのはたらきそのものである)」。彼らはイエスに言った…

  • 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい(ヨハネ6:25~27)

    (今回は、キリストが信仰者にあたえる霊的な食物、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の25~27節より 『そして、海の向こう岸で(=ガリラヤ湖の北のカペナウムの岸で)イエスに出会ったので言った、「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」。イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく(=キリストはたしかに彼らのまえで、病のいやしや食べ物をうみだすしるし(=奇跡)をとおして、ご自身がメシア(救い主)であるのをしめされました。しかし彼らのほうでは、その永遠の救いに気がむかないまま追いかけてきていました…

  • 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知って、それらの小舟に乗り、イエスをたずねてカペナウムに行った(ヨハネ6:22~24)

    (今回は、キリストからの利益にもっとあずかろうとする人々、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の22~24節より 『その翌日(=キリストと弟子たちがガリラヤ湖の北のカペナウムについた翌日)、海の向こう岸に(=ガリラヤ湖の東に)立っていた群衆は、そこに小舟が一そうしかなく、またイエスは弟子たちと一緒に小舟にお乗りにならず、ただ弟子たちだけが船出したのを見た。しかし、数そうの小舟がテベリヤ(=ガリラヤ湖の西)からきて、主が感謝されたのち(=キリストが神に感謝をささげたのち)パンを人々に食べさせた場所に(=東の山に)近づいた。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知って、それら…

  • イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた(ヨハネ6:16~21)

    (今回は、湖のうえを歩かれるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の16~21節より 『夕方になったとき、弟子たちは海べに(=ガリラヤ湖に)下り、舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウム(=ガリラヤ湖の北の町)に行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。四、五十丁(=5キロ前後)こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ(=ギリシャ語で “エゴー エイミ”。これは永遠なる神が、モーセに “わたしはあ…

  • イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた(ヨハネ6:11~15)

    (今回は、すくない食糧から大勢の食をみたす奇跡、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の11~15節より 『そこで、イエスはパンを取り、感謝(=神に感謝)してから、すわっている人々(=ユダヤ人の群衆)に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた(=5つのパンと2ひきのさかなを元手に、わけあたえるぶんの食糧をうみだされています)。人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように(=神からのめぐみをむだにしてしまうことがないように)、パンくずのあまりを集めなさい」。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残った…

  • 大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう(ヨハネ6:7~10)

    (今回は、キリストの神性さを理解しきれていない弟子たち、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の7~10節より 『すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリ(=200日分の賃金)のパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい(=それだけの大人数があつまってきています)」。弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであっ…

  • どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか(ヨハネ6:1~6)

    (今回は、弟子の成長をためされるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・6章の1~6節より 『そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖(=ガリラヤ湖の別名です)の向こう岸へ(=東側へ)渡られた。すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるし(=病のいやし)を見たからである。イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。時に、ユダヤ人の祭である過越(すぎこしのまつり=かつてエジプトの奴隷だったイスラエルの民を、神がエジプトに災いをもたらして脱出させたことにちなんだまつり)が間近になっていた。イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の…

  • もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう(ヨハネ5:45~47)

    (今回は、ユダヤ人指導者たちは、実際のところモーセも信じていない、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の45~47節より 『わたしがあなたがたのことを(=わたしをキリストだと信じないあなたがたを)父に(=神に)訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である(モーセ=出エジプトの際に、神によってイスラエルの民のリーダーとされた人物。神はこのモーセに、神の民としての指針(=律法)をおあたえになりました。この当時のユダヤ人のあいだでも、モーセと律法は語りつがれていました。ただし律法は口伝律法として歪曲(わいきょく)されて…

  • わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない(ヨハネ5:41~44)

    (今回は、キリストが神によって立てられているがゆえにうけいれられない、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の41~44節より 『わたしは(=キリストは)人からの誉(ほまれ=人からほめられ、よい評判をえること)を受けることはしない。しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている(=ほまれをうけはしないが、そもそもあなたがたは神を愛していないので、キリストをたたえようとするなにものもでてきはしない)。わたしは父の名によってきたのに(=神の権威によって立てられてきたのに)、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば(=…

  • あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである(ヨハネ5:37~40)

    (今回は、聖書そのものがキリストをあかししている、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の37~40節より 『また、わたしを(=キリストを)つかわされた父も(=神も)、ご自分でわたしについてあかしをされた(=神は、聖霊がはとのようにキリストにくだったときに、“あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である” と天からあかしをされました(ルカ3:22))。あなたがたは、まだそのみ声(=神の声)を聞いたこともなく、そのみ姿(=神のすがた)を見たこともない(=キリストはこの神と永遠のむかしからともにおられるお方です)。また、神がつかわされた者(=キリスト)を信じない…

  • しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある(ヨハネ5:35~36)

    (今回は、キリストはほかならぬ神によってあかしされている、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の35~36節より 『ヨハネは燃えて輝くあかり(=ともしび。ひとときのあかり)であった(=これは比喩表現です。ヨハネはひとときのあいだ、キリストについて証言し、人々のこころをキリストにむけるはたらきをしました)。あなたがたは(=ユダヤ人。ここではとくに宗教指導者は)、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした(=楽しもうとしたが、自分たちの期待していたものではなく楽しめなかった)。しかし、わたしには(=キリストには)、ヨハネのあかしよりも、もっと力ある(=神からの)あかしがあ…

  • その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている(ヨハネ5:31~34)

    (今回は、イエスがキリスト(メシア)であるのを証(あか)ししているのは神である、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の31~34節より 『もし、わたしが自分自身について(=自分自身の名誉や利益のために)あかし(=証言)をするならば、わたしのあかしはほんとうではない。わたしについてあかしをするかたはほかにあり(=父なる神がおり)、そして、その人がするあかし(=神がイエスにお与えになり、それを数々のみ業として(みわざ=病のいやしなどを)実現させることで、イエスがキリストであるとする神からのあかし)がほんとうであることを、わたしは知っている(=実際にみわざをおこなってい…

  • その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている(ヨハネ5:31~34)

    (今回は、イエスがキリスト(メシア)であるのを証(あか)ししているのは神である、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の31~34節より 『もし、わたしが自分自身について(=自分自身の名誉や利益のために)あかし(=証言)をするならば、わたしのあかしはほんとうではない。わたしについてあかしをするかたはほかにあり(=父なる神がおり)、そして、その人がするあかし(=神がイエスにお与えになり、それを数々のみ業として(みわざ=病のいやしなどを)実現させることで、イエスがキリストであるとする神からのあかし)がほんとうであることを、わたしは知っている(=実際にみわざをおこなってい…

  • わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである(ヨハネ5:30)

    (今回は、キリストは完全に神にしたがっている、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の30節より 『わたしは(=キリストは)、自分からは何事もすることができない(=神のみこころにしたがっているので、キリストが独断でなにかをすることはありません)。ただ聞くままに(=人間のすべてを把握(はあく)しておられる神の声をきくままに)さばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい(=誤(あやま)りようがない)。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨(みむね)を求めているからである(=神の思われていることをもとめて、それにしたがってさばくか…

  • そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった(ヨハネ5:27~29)

    (今回は、神の権威をあたえられたキリストが、すべてのさばきをおこなう、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の27~29節より 『そして子は(=神のひとり子、御子(みこ)は)人の子であるから(=神でありながら人でもあり、その人としての生涯もあゆまれた子であるから)、子にさばきを(=最後の審判でのさばきを)行う権威をお与えになった。このことを驚くには及ばない(=事実にほかならないのだから、おどろく必要はない)。墓の中にいる者たち(=すでに肉体的に死んで墓にいる者たち)がみな神の子の声(=天から再臨なさったのちのキリストの声)を聞き、善をおこなった人々は(=神への信仰が…

  • 死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう(ヨハネ5:25~26)

    (今回は、キリストの声をきき、そして信じる者は永遠に生きる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の25~26節より 『よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが(=霊において死んでいて、神とのつながりが断たれている人たちが)、神の子(=キリスト)の声を聞く時が来る。今すでにきている(=こうしてキリストが地上につかわされ、いまがそのときである)。そして聞く人は(=神をあかしすることばをきき、キリストを救い主と信じる人は)生きるであろう(=聖霊によって神とのまじわりが回復し、永遠に生きるであろう)。それは、父が(=神が)ご自分のうちに生命を(=他者に永遠のいのちを…

  • 父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである(ヨハネ5:22~24)

    (今回は、神はすべてのさばきをおこなう権限を、キリストにお与えになっている、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の22~24節より 『父は(=父なる神は)だれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである(=神はキリストに、すべてのさばきをおこなう権威をあたえておられます)。それは、すべての人が父を敬(うやま)うと同様に、子を敬うためである(=人間にとって、神の権威をもって永遠のいのちをあたえたり、さばきをおこなったりするお方は、うやまわずにはいられない存在です。ですからその権威をお与えになった神も、お受けとりになったキリストも、わたしたちはうや…

  • 父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう(ヨハネ5:20~21)

    (今回は、キリストも神とおなじ権威をもちいて、永遠のいのちをおさずけになる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の20~21節より 『そして、それよりも(=神のみこころにしたがってなされる肉体的ないやしよりも)なお大きなわざを(=神のみこころにしたがってなされる霊の救いを)、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである(=彼らは目でみえる、肉体のいやしに対してさえ、神のみこころをよみとれませんでした。これが目でみえない霊のこととなれば、いっそう理解できず、不思議がる(=あやしむ)ほかありません)。すなわち、父が(=神が)死人を起して命をお…

  • 父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである(ヨハネ5:19~20)

    (今回は、子なる神(=キリスト)が父なる神を映しだしている(投影している)、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の19~20節より 『さて、イエスは彼らに(=殺意までいだきだしたユダヤ人指導者たちに)答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は(=キリストは)父の(=神の)なさることを見てする以外に(=父と同じはたらきをする以外に)、自分からは何事もすることができない(=神に完全に服従しているお方です。キリストが独断でなにかをすることはなく、すべて神のみこころにそっておこなわれます)。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。なぜなら、…

  • わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである(ヨハネ5:17~18)

    (今回は、キリストが神性(=神のご性質)をともなっていることの宣言、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の17~18節より 『そこで、イエスは彼らに(=自分たちの規則で罰しようとしてくるユダヤ人指導者たちに)答えられた、「わたしの父(=神)は今に至るまで働いておられる(=天地創造のときからあらゆるものをささえ、なおかつ罪があがなわれて、救われる者がおこされることのためにはたらいておられる)。わたしも働くのである(=わたしも神のひとり子(=御子(みこ))として、そのことのためにはたらくのである)」。このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イ…

  • もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから(ヨハネ5:14~16)

    (今回は、信仰にいたっていない人にもう一度近寄られるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の14~16節より 『そののち、イエスは宮で(みや=エルサレム神殿のなかで)その人に(=神のめぐみによって病がいやされた人に)出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない(=悔いあらためずに罪をおかしつづけてはならない)。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから(=信仰がなければ、ゆくゆくは火の池(=地獄)にいれられることにもなります)」。彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた(=密告した)。…

  • わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました(ヨハネ5:9~13)

    (今回は、病をいやされた人に対するユダヤ人指導者の態度、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の9~13節より 『その日は安息日(=労働をしてはならない日)であった。そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った、「きょうは安息日だ。床(とこ=病のために廊下にしいていたもの)を取りあげるのは(=持ちはこぶのは)、よろしくない(=ユダヤ人指導者は、こんなことまで労働とみなし、やめさせようとしています)」。彼は答えた、「わたしをなおして下さったかたが(=キリストのことです)、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました」。彼らは尋ねた、「取りあげて歩けと言った人は、だれか」。しかし…

  • イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた(ヨハネ5:5~9)

    (今回は、キリストによる病のいやし、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の5~9節より 『さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ(=ご主人さま(回復訳参考))、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです(=人々は、この池の水がうごいた際に、いちばんにはいった者だけがいやされると信じていました)」。イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床(とこ=…

  • その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた(ヨハネ5:1~4)

    (今回は、病人があつまってきている池の存在、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・5章の1~4節より 『こののち、ユダヤ人の祭(まつり)があったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムにある羊の門(=エルサレム神殿の北側にある門)のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊(ろう=廊下)があった。その廊の中には、病人、盲人(もうじん)、足なえ(=足が不自由な人)、やせ衰(おとろ)えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使(しゅのみつかい=神に仕える天使)がこの池に降りてきて水を動かすことがあ…

  • これは、イエスがユダヤからガリラヤにきてなされた第二のしるしである(ヨハネ4:51~54)

    (今回は、息子の病気の回復についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の51~54節より 『その下って行く途中(=キリストの「むすこは助かる」とのことばを信じて、カペナウムにもどっていく途中)、僕(しもべ)たちが彼に出会い、その子が助かったことを告げた。そこで、彼は僕たちに、そのなおりはじめた時刻を尋ねてみたら、「きのうの午後一時に熱が引きました」と答えた。それは、イエスが「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻であったことを、この父は知って、彼自身もその家族一同も信じた(=イエスがメシア(救い主)であるのを信じた)。これは、イエスがユダヤからガリラヤにきてなされた第二…

  • あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう(ヨハネ4:46~50)

    (今回は、信仰をひきだそうとされているキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の46~50節より 『イエスは、またガリラヤのカナ(=西寄りの町)に行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にかえられた所である。ところが、病気をしているむすこを持つある役人がカペナウム(=東寄りの町)にいた。この人が、ユダヤからガリラヤに(=イスラエルの地の南から北に)イエスのきておられることを聞き、みもとにきて(=直接会いにきて)、カペナウムに下って、彼の子をなおしていただきたいと、願った。その子が死にかかっていたからである。そこで、イエスは彼に言われた、「あなたがたは、しるしと奇跡とを見な…

  • 預言者は自分の故郷では敬われないものだ(ヨハネ4:43~45)

    (今回は、キリストの宣教は故郷でははかどりづらい、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の43~45節より 『ふつかの後に、イエスはここ(=サマリヤ)を去ってガリラヤ(=キリストの故郷がある地方)へ行かれた。イエスはみずからはっきり、「預言者は(=神からの使者。キリストご自身は)自分の故郷では敬(うやま)われないものだ」と言われたのである(=これは子供のころからのイエスの生い立ち(=たとえば大工(だいく)の息子であることなど)を知っているので、かえってメシア(救い主)だという現実がうけいれづらくなっているのを指摘しておられます)。ガリラヤに着かれると、ガリラヤの人た…

  • 自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである(ヨハネ4:39~42)

    (今回は、多くのサマリヤ人が信仰にいったことについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の39~42節より 『さて、この町(=サマリヤのスカル)からきた多くのサマリヤ人は、「この人は、わたしのしたことを(=過去の経験を)何もかも言いあてた」とあかしした女の言葉によって、イエスを信じた(=イエスをメシア(救い主)だと信じた)。そこで、サマリヤ人たちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたいと願ったので、イエスはそこにふつか滞在された。そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない(…

  • そこで、「ひとりがまき、ひとりが刈る」ということわざが、ほんとうのこととなる(ヨハネ4:37~38)

    (今回は、共同作業によって神の群れが大きくなる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の37~38節より(=以下はキリストが弟子に語られているおことばです) 『そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる(=これはだれかがタネをまき、ちがうだれかが収穫をするという、当時の畑仕事に関することわざです。これをキリストは伝道にあてはめ、だれかが伝道のタネをまき、ちがうだれかが信仰をもった人を神のもとにあつめる、という意味でもちいておられます)。わたしは、あなたがたをつかわして(=いまだけでなくこの先の未来にもつかわして)、あなたがたがそのた…

  • 目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている(ヨハネ4:35~36)

    (今回は、霊における収穫のときはもうきている、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の35~36節より 『あなたがたは(=キリストの宣教によって、永遠のいのちのもとにおかれている人がどんどんおこされているのに、あなたがたは)、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか(=これは当時の格言のようです。タネをまいて日があさいから、まだまだ収穫は先だといった意味ですが、これをキリストは、まだ神からの救いのときは先であると考えている弟子たちにむけておられます)。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている(=す…

  • わたしには、あなたがたの知らない食物がある(ヨハネ4:31~34)

    (今回は、メシア(救い主)ならではの食べ物、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の31~34節より 『その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」と(=物質的な食べ物を)すすめた。ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある(=ここでの食べ物とは、伝道をおこない、永遠のいのちをえさせることで達成感のえられる霊的な食べ物のことです。キリストはサマリヤの女に伝道をし、彼女はいままさに信仰にいたって永遠のいのちをさずかろうとしていました。このようにキリストが生ける水(=聖霊)をあたえる機会をえて、救われる人がおこされることこそが、メシアに…

  • わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい(ヨハネ4:27~30)

    (今回は、サマリヤの女がキリストのことを人々につたえる場面、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の27~30節より 『そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが(=当時のラビ(=ユダヤ教の指導者)が、公(おおやけ)の場で女と話すことはまれでした。ましてやこの女はサマリヤ人なのです)、しかし、「何を求めておられますか(=なにかさがしもとめているものでもおありでしょうか)」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった(=キリストへのわきまえのあらわれだと思います)。この女は水がめをそのままそこに置いて…

  • しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る(ヨハネ4:23~26)

    (今回は、肉(肉体)ではなく霊をとおしての礼拝、というものについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の23~26節より 『しかし(=たしかにサマリヤ人とユダヤ人の礼拝にちがいはあるが、しかしその双方において)、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこと(=霊がもたらしてくれるまことさ。すなわち聖霊のはたらきによって神のもとめからはずれることのない偽(いつわ)りのなさ。聖霊の支配下にあることで神の真理にもとづいている状態)とをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている(=こうしてキリストが神を証(あか)ししている、まさにいま実現している)。父は、このような礼拝をする者たちを(=キリ…

  • あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る(ヨハネ4:19~22)

    (今回は、サマリヤ人とユダヤ人の礼拝に対する現状、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の19~22節より 『女は(=胸のうちのふれられたくない過去をさらけだされた女は)イエスに言った、「主よ(=ご主人さま)、わたしはあなたを預言者と見ます(=神からの使者とみとめます)。わたしたちの先祖(=サマリヤ人)は、この山で(=このサマリヤの地のゲリジム山で)礼拝をしたのですが、あなたがた(=ユダヤ人)は礼拝すべき場所は、エルサレム(=ユダヤの地のエルサレム神殿)にあると言っています(=こうして女は日ごろからいだいていた疑問をぶつけています)」。イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言…

  • あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい(ヨハネ4:16~18)

    (今回は、女の霊的なかわきがまねいてしまっていること、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の16~18節より 『イエスは女に(=聖霊をさずかっておらずに霊において飢(う)えかわいている女に)言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ(=たしかにそのとおりだ)。あなたには五人の夫があったが(=あなたは夫からの愛にみちたりたものを感じられずに、つぎこそはみたされるはずだと5回も離婚をくりかえしているが)、今のはあなたの夫ではない(=いま同棲(どうせい)して…

  • わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう(ヨハネ4:13~15)

    (今回は、霊のかわきをみたし、永遠のいのちをもたらしてくださる聖霊、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の13~15節より 『イエスは女に答えて言われた、「この水を(=女が指している井戸の水、物質的な水を)飲む者はだれでも、またかわくであろう(=またからだが(肉体が)かわきをおぼえるだろう)。しかし、わたしが与える水(=キリストが語っている霊的な意味での生ける水)を飲む者は(=すなわち神の霊(聖霊)をさずかった者は)、いつまでも、かわくことがない(=霊において飢(う)えかわくことがない)ばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり(=霊においてかわくどころか、みずみ…

  • あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう(ヨハネ4:10~12)

    (今回は、霊的な意味での “水” について語られているキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の10~12節より 『イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物(たまもの=神が霊によりあたえてくださるもの)のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか(=神でありメシア(救い主)であることを)知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水を(=霊にゆたかないのちをもたらす水(=聖霊のことです)を)もらったことであろう」。女はイエスに言った、「主よ(=ご主人さま)、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける…

  • ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた(ヨハネ4:5~9)

    (今回は、サマリヤの女に話しかけるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の5~9節より 『そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブ(=イスラエルの民の祖先)がその子ヨセフに与えた土地(=ヤコブが購入して息子にあたえた土地)の近くにあったが、そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。すると、サマリヤの女はイエスに言…

  • しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった(ヨハネ4:1~4)

    (今回は、サマリヤの地をとおられるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・4章の1~4節より 『イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き(=キリストを敵視しているユダヤ教の一派です。彼らはキリストのもとに人々があつまっているのを知り、反感をつよめていました)、それを主が知られたとき(=そうした状況を把握(はあく)されたうえで)、(しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった(=これは神がキリストにおあたえになった権威のなかで、弟子たちがそれにあやかってバプテスマをさずけ…

  • 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る(ヨハネ3:34~36)

    (今回は、キリストがお語りになるのは神のことばである、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・3章の34~36節より 『神がおつかわしになったかた(=キリスト)は、神の言葉を語る(=神のことばとは、神の霊のことであり、またその霊がもたらす命のことです(ヨハネ6:63)。説明をくわえるなら、キリストがお語りになることばは、目には見えない神の霊や、その霊がもたらす命を、ことばという手段をもちいて具体化させたもの、ということになるかと思います)。神は聖霊(=神の霊)を限りなく賜う(たまう=おあたえになる)からである。父は(=神は)御子(みこ=キリスト)を愛して、万物を(=あらゆ…

  • 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない(ヨハネ3:31~33)

    (今回は、キリストは神でありながらも人となられ、天で見聞きしたことをお語りになる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・3章の31~33節より(=なお口語訳では、以下は洗礼者ヨハネのことばになっています) 『上から来る者は(=キリストは)、すべてのものの上にある(=キリストはすべてのものの上におられる神です。このキリストが万物を創造し、いまも支配しておられます。またこの地上だけでなく天における支配権も、キリストがもっておられます)。地から出る者は(=人間のことです。地上から生まれた者は)、地に属する者(=天ではなく地に属する者)であって、地のことを語る(=地上で知りえた…

  • 彼は必ず栄え、わたしは衰える(ヨハネ3:27~30)

    (今回は、自分の役割をわきまえているヨハネ、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・3章の27~30節より 『ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない(=あなたたちは、イエスとわたしとで、どちらからバプテスマをうけるべきかを問題にしているが、そもそも大事なのは、それをさずけている人が、ほんとうに神からつかわされた者なのかどうか、である。もし神からの許可がないなら、その人はなにものも実行する権限をもちあわせていないのだ。ヨハネはこの真理にもとづいて、イエスが天からのものと確信しているので、彼らにこうつづけます)。『わたしはキリストではなく、その…

  • あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています(ヨハネ3:25~26)

    (今回は、洗礼者ヨハネの弟子たちの妬(ねた)み、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・3章の25~26節より 『ところが、ヨハネの弟子たちとひとりのユダヤ人との間に、きよめ(=罪からのきよめ)のことで争論が起った(=これはキリストとヨハネとで、いったいどちらからバプテスマをうけるのがただしいのか、といった論争です。そしてヨハネの弟子たちには、ヨハネこそがふさわしいとの思いがありました)。そこで彼らはヨハネのところにきて言った、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり(=このときにキリストは、ヨハネからバプテスマをおうけになりました)、そして、あなたがあ…

  • イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた(ヨハネ3:22~24)

    (今回は、キリストによる水をもちいたバプテスマ、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・3章の22~24節より 『こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地(=死海の北西の地域)に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマ(=川などにからだをひたらせての罪からの清め)を授けておられた。ヨハネ(=洗礼者ヨハネ)もサリム(=ユダヤの地の北にあるサマリア地域の町)に近いアイノン(=水が豊富な場所)で、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。そのとき、ヨハネはまだ獄(ごく=ろうや)に入れられてはいなかった(=ヨハネはこの…

  • 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている(ヨハネ3:18~21)

    (今回は、信じないからさばかれるという真理、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・3章の18~21節より 『彼を信じる者は(=キリストがもたらす救いを信じる者は)、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている(=これは、すでにさばかれてしまっている、という神だけに可能な完了時制のいいまわしです。全知全能の神ご自身のなかでは、すでに信じる者と信じない者の選別がついているので、彼らのさばきがすでに完了していることを宣言されています)。神のひとり子の名を(=救いをもたらす神のみことしての権威を)信じることをしないからである(=これも完了時制のいいまわしです。彼らの信じない態度が、す…

  • 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった(ヨハネ3:16~17)

    (今回は、わたしたちにキリストをあたえてくださった神の愛、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・3章の16~17節より 『神はそのひとり子を賜(たま)わったほどに(=ひとり子をこの地につかわし、その命を犠牲にしてくださったほどに)、この世を(=この世の罪深いわたしたちを)愛して下さった。それは御子(みこ=神のひとり子)を信じる者がひとりも滅(ほろ)びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくため(=わたしたちの罪を有罪と確定させて、さばくため)ではなく、御子によって、この世が救われるため(=わたしたちの罪をあがなって、永遠のいのちにあずからせるた…

  • それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである(ヨハネ3:13~15)

    (今回は、キリストがニコデモに語られた、十字架による救いへの預言、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・3章の13~15節より 『天から(=父なる神のおられる天から)下ってきた者、すなわち人の子(=キリスト)のほかには、だれも天に上った者はない(=この地上において、キリストだけが天をじかにみたことがあるお方です)。そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように(=かつてイスラエルの民が、出エジプトの際に神にさからいました。このときに神は火のへびをもちいて、彼らをかませることでさばかれました。多くの者が死んだなかで、悔いあらためた者がたすかる道として、神はモーセにそのへびをつくっ…

  • わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない(ヨハネ3:9~12)

    (今回は、ニコデモにみるかたいこころ、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・3章の9~12節より 『ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことが(=“水” と “霊” とから(=罪からの清めと神の霊とから)新しく生まれるなどが)あり得ましょうか」。イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師(=指導者)でありながら、これぐらいのことがわからないのか。よくよく言っておく。わたしたちは(=キリストとバプテスマのヨハネは)自分の知っていることを(=この地上で経験して知ったことを)語り、また自分の見たことを(=この地上で経験して見たことを。すなわちキリストご自身が、…

  • だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない(ヨハネ3:4~8)

    (今回は、罪からの清めと神の霊によって新しく生まれる、ということについてふれたいと思います) まず先に “水” についてふれておきます。 『わたしは(=神は)清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れ(けがれ=罪)から清め、またあなたがたを、すべての偶像(=つくりものの神々を礼拝した罪)から清める』(エゼキエル36:25) このように “水” は、罪から清める際にもちいられます。聖書にでてくるバプテスマ(洗礼)も、罪からの清めをえるために、からだを水にひたすことをさしています。 ・ヨハネによる福音書・3章の4~8節より 『ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。も…

  • だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない(ヨハネ3:1~3)

    (今回は、神の霊をさずかることで新しく生まれる、ということについてふれたいと思います) まず先に “神の国” ということばについてふれておきます。 『しかし、わたしが(=キリストが)神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに(=神のご支配がおよんでいる神の国が、この地上にいるあなたたちのところに)来ているのだ』(マタイ12:28) このように “神の国” は、もちろん死後における永遠の天国をさす場合もありますが、この地上におよんでいる神のご支配をさす場合もあります。 ・ヨハネによる福音書・3章の1~3節より 『パリサイ人(=キリストを敵視しているユダヤ教の一派)のひと…

  • しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった(ヨハネ2:23~25)

    (今回は、神は人のこころまでご存じである、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・2章の23~25節より 『過越の祭の間(=8日間)、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるし(=具体的には書かれていませんが、おそらくこの8日間におこなった病をいやすなどの奇跡)を見て、イエスの名を(=イエスが神によってたてられているのを)信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった(=彼らを信用しきって、身をゆだねたりはなさらなかった)。それは、すべての人を知っておられ、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである(=すべて…

  • この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう(ヨハネ2:18~22)

    (今回は、キリストがお語りになった、ご自分の死と復活に関する預言、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・2章の18~22節より 『そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことを(=神殿内での商売道具をひっくりかえすなどを)するからには、どんなしるしを(=あなたが神からの使者だというどんな証拠を)わたしたちに見せてくれますか」。イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿を(=神が住まわれているキリストご自身のからだを)こわしたら(=その命がうばわれたら)」、わたしは三日のうちに、それを起すであろう(=死んで三日目に復活するであろう)」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建て…

  • これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな(ヨハネ2:12~17)

    (今回は、宮きよめといわれている箇所、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・2章の12~17節より 『そののち、イエスは、その母、兄弟たち、弟子たちと一緒に、カペナウム(=ガリラヤ湖沿いの北の町)に下って、幾日かそこにとどまられた。さて、ユダヤ人の過越の祭(すぎこしのまつり=かつてエジプトの奴隷だったイスラエルの民(=ユダヤ人)を救うために、神がエジプトに災いをもたらし脱出させたことにちなんだまつり)が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭(=エルサレム神殿の敷地内)にすわり込んでいる(=商売している)のをごらんになって、な…

  • イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された(ヨハネ2:8~11)

    (今回は、キリストが最初におこなった奇跡、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・2章の8~11節より 『そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか(=キリストがこの場でぶどう酒を創造なさったのを)知らなかったので、(水をくんだ僕(しもべ)たちは知っていた)花婿(はなむこ)を呼んで言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。イエスは、この最…

  • 婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません(ヨハネ2:1~7)

    (今回は、神のみこでありキリストであるご立場からのイエスのおことば、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・2章の1~7節より 『三日目にガリラヤのカナ(=町の名)に婚礼があって、イエスの母(=マリア)がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったので、母は(=この婚礼を主催する側にいた母は)イエス(=息子)に言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました(=ぶどう酒をなんとか準備するようにとの思いでのべたものと思います)」。イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか(=ここでのイエスは息子ではなく、神のみこキリストとしての…

  • 天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう(ヨハネ1:48~51)

    (今回は、キリストこそが神の家であり、天への門である、ということについてふれたいと思います) まず先にイスラエルの民の先祖、ヤコブが発したことばにふれておきます。 『ヤコブは眠り(=夢)からさめて言った、「まことに主が(=神が)この所におられるのに、わたしは知らなかった」。そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」』(創世記28:16~17) ・ヨハネによる福音書・1章の48~51節より 『ナタナエルは言った、「どうしてわたしを(=わたしが神を信じているのを)ご存じなのですか」。イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあ…

  • わたしに従ってきなさい(ヨハネ1:43~47)

    (今回は、キリストが人々を弟子にするシーン、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・1章の43~47節より 『その翌日、イエスはガリラヤ(=キリストの故郷がある地方)に行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい(=キリストはピリポを弟子にえらばれました)」。ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダ(=ガリラヤ湖沿いの北東の町)の人であった。このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており(=モーセが旧約聖書の律法でしるしているのは、総じて神のことです)、預言者たちがしるしていた人(=預言者たちが旧約聖書でしるしている…

  • わたしたちはメシヤにいま出会った(ヨハネ1:40~42)

    (今回は、イエス・キリストこそがメシヤ(=救い主)である、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・1章の40~42節より 『ヨハネ(=洗礼者ヨハネ)から聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロ(=ペテロは、のちのキリストの12人弟子のひとりです)の兄弟アンデレ(=アンデレも、のちの12人の弟子のひとり)であった。彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った(=“メシヤ” とは “救い主” のことです。これはヘブル語(=現在のイスラエルの公用語)で、神からの油をそそがれた者(=神によって王にさだめ…

  • 見よ、神の小羊(ヨハネ1:35~39)

    (今回は、ヨハネのふたりの弟子が、キリストのところに泊まるシーン、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・1章の35~39節より 『その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊(=人々の罪をあがなうための、神にささげるいけにえとしてのこひつじ)」。そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか(=彼らの願いは、その場かぎりのものではなく、キリス…

  • ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである(ヨハネ1:32~34)

    (今回は、神の霊によってバプテスマ(=罪からの清め)をさずけるキリスト、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・1章の32~34節より 『ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊(みたま=神の霊)がはと(鳩)のように天から下って、彼(=キリスト)の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマ(=罪を清めるために身を水にひたす儀式のこと)を授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが(=父なる神が)、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見…

  • 見よ、世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29~31)

    (今回は、人々の罪をあがなってくださる、いけにえとしてのキリスト、についてふれたいと思います) まず先に “贖罪(しょくざい)” という聖書のおしえにふれておきます。これは人間がおかした罪を、やぎやひつじなどの動物に転嫁させて(てんか=身代わりにひきうけさせて)、その命を犠牲にする(=いけにえとして神にささげる)ことで、神のゆるしを得るというものです。動物には罪をおかすという概念がないので、罪によって汚(けが)れていることがなく(=神に対して清さをたもっており)、そのために人間がおかした罪をひきうける役割をはたしえるのです。 ・ヨハネによる福音書・1章の29~31節より 『その翌日、ヨハネはイ…

  • それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない(ヨハネ1:24~28)

    (今回は、洗礼者ヨハネがどのようにキリストをみているのか、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・1章の24~28節より 『つかわされた人たちは、パリサイ人(=ユダヤ教の一派に属する人)であった。彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマ(=洗礼)を授けるのですか」。ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが(=あなたがたが霊のまじわりにおいて、知り得ていない神のキリストが)、あなたがたの中に立っておられる(=霊的な意味で、すでに立って存在しておられます)。それがわた…

  • わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である(ヨハネ1:14~23)

    (今回は、旧約聖書で預言されていた洗礼者ヨハネのあらわれ、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・1章の19~23節より 『さて、ユダヤ人(=神の民であるイスラエルの民)たちが、エルサレムから祭司(さいし)たちやレビ人たち(=イスラエルの十二部族の一つで、このレビ族が祭司などをつとめています)をヨハネ(=洗礼者ヨハネ)のもとにつかわして、「あなたはどなたですか(=あなたは悔いあらためのバプテスマを人々にさずけていますが、いったいどなたなのですか)」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。すなわち、彼は告白して否(いな)まず(=彼は証言するのをこばまずに)、「わたし…

  • それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた(ヨハネ1:14~18)

    (今回は、世にこられたキリストが、わたしたちにしめしてくださったこと、についてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・1章の14~18節より 『そして言(ことば=キリスト)は肉体となり(=神でありながらも人となって地にこられ)、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た(=ヨハネはキリストの弟子として、その栄光を目の当たりにしました)。それは父のひとり子(=父なる神の御子(みこ))としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた(=神としての愛やいつくしみ、真理とでみちておられた)。ヨハネは(=洗礼者ヨハネは)彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わ…

  • しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである(ヨハネ1:9~13)

    (今回は、イエス・キリストを信じた人は神の子とされる、ということについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・1章の9~13節より 『すべての人を照すまことの光(=神ご自身)があって、世にきた(=その神が、神でありながらも人となって世にこられた)。彼は世にいた(=もとより世のはじめからおられた)。そして、世は彼によってできた(=創造された)のであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところに(=イスラエルの地に)きたのに、自分の民は(=神の民であるイスラエルの民は)彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々(=世の人々)には、彼は神の子となる力を与えたの…

  • ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った(ヨハネ1:6~8)

    (今回は、バプテスマのヨハネについてふれたいと思います) ・ヨハネによる福音書・1章の6~8節より 『ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った(=このヨハネは、この書の著者(=キリストの弟子)であるヨハネとは別人です)。この人はあかしのためにきた。光(=神ご自身)についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである』 ―――――――――――――――――――― (上記のように、キリストが宣教をはじめるよりも先に、神はイスラエルの地にヨハネをつかわしました。そして彼は神についてあかしをし、水による…

  • 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった(ヨハネ1:1~5)

    (今回からヨハネによる福音書とむきあって、記事を書いていくことにします) ・ヨハネによる福音書・1章の1~5節より 『初めに言(ことば=キリスト)があった。言は(=キリストは)神と共にあった。言は(=キリストは)神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた(=万物はキリストによって創造されました)。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に(=キリストに)命(=神のご性質であるところの永遠性のともなったいのち。肉ではない霊的ないのち)があった。そしてこの命は人の光であった(=人が神のもとに、その聖なるご性質にふれられる良い関係性にあるとき…

  • キリストが語られた宣教命令について

    『 キリストが語られた宣教命令について 』 (このブログをはじめるにあたって、まずキリストからの宣教命令についてふれておくことにします) ・マルコによる福音書・16章の15~16節より(=以下はキリストのおことばです) 『そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに(=すべての人たちに)福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマ(=洗礼)を受ける者は救われる(=キリストを信じたときから、わたしたちには神の霊(=聖霊)による洗礼がさずけられます)。しかし、不信仰の者は罪に定められる」』 ―――――――――――――――――――― (上記のようにキリストは、わたしたちに伝道するように命…

ブログリーダー」を活用して、s.ujikeさんをフォローしませんか?

ハンドル名
s.ujikeさん
ブログタイトル
あなたの神、主を愛しなさい
フォロー
あなたの神、主を愛しなさい

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用