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  • タイムカプセル⑥

    手紙の続き これからの私ってどんなだろう。 未来でこれを読んでいる私は、もうすべて知っているんだね。 未来の私がこれを読んでがっかりしないように、1日1日を楽しく大切に過ごすからね。 やや情緒不安定気味の手紙は、なんとか上向きな気持ちで締めくくられていた。 その後の私はどうなったかというと……。 ダンス教室をサトミとカズミが辞めた後はしばらく寂しい気持ちでいたが、辞めずに残ったアヤノと精力的にレッスンをするようになった。また、アヤノや若い勢力になんとかして抗おうと、内緒で別の教室にも通ったりした。 仕事面では、翌年、希望していた快適な環境の事務所への異動が叶い、心機一転仕事への意欲が出た。 彼…

  • タイムカプセル⑤

    手紙の続き。 近頃の私には抱負がない。「前向きに生きる」が私の座右の銘だったのに……。 考えが変わったわけではない。周りに合わせて、無理して余計なことまで抱負にすべきでない、ということだ。 だって「今年は文をたくさん書く」が抱負なら、そんなの私個人の問題だからあっさり達成できるだろう。 でも、周りの人のように「今年は彼氏をつくる」を抱負にしても、こればかりは巡り合わせもあるからどうしようもない。 だから敢えて、何も考えずに周りに踊らされることなく自然体でいたいんだ。 おーっと、なにやらゴチャゴチャと言い訳がましい表現が増えてきた。 どうした、27歳の私。 アヤノ、サトミ、カズミがとても羨ましい…

  • タイムカプセル④

    手紙の続き そろそろ私の過去(いま)の心境について書いておくことにする。 過去(いま)の私の生活は会社の仕事・ダンスレッスンの2つがメインで、その繰り返しだ。 仕事面は、地下街勤務で日が当たらないのが不満。仕事にも何の喜びも感じない。仕事に夢中になれた昔を懐かしく思う。 こんな毎日にヨロコビを与えてくれるのが、ダンスレッスンと読書とビールを飲むこと。それから、ときどき文を書くことだ。 ダンスは、昔のようにただ楽しいだけではなくなってきた。誰でもこういう気分を味わう日がやってくるのだろう。 19歳でやっとダンスに復帰して、運良くメインメンバーとして、ただ、ただ、楽しく踊ることができた。あれから8…

  • タイムカプセル③

    ついに「1998.5 → 2021まで封印」と書かれたグレーの社用封筒を開封する日がやってきた。この封筒の中には、27歳の私が50歳の私に宛てた手紙が入っている。 封筒から便せんを取り出す。 うわー!質素な便せん。 縦書き、且つ鉛筆書き。 思った通りだ。ダサすぎる。 気を取り直して、3つ折りの便せんを開いた。 50歳を過ぎた私がこれを読むとき、どんな気持ちなのだろう。23年間この手紙の存在を忘れることなくいられるだろうか?読み返すことなく、内容をスラスラと言うことができるのだろうか?それとも意外と引越しや何かで、あっさりと無くしてしまっているかな? できることなら、これを読むシチュエーションと…

  • タイムカプセル②

    「1998.5 → 2021まで封印」と書かれた「27歳の私が50歳の私に宛てた手紙」の封筒は、当時私が勤めていた会社の社用封筒だった。 グレーの長3封筒に鉛筆書き。 ありえない……。貴重な手紙を書くときは、おしゃれなレターセットに高級万年筆(持ってないけど)で書くものでしょう、普通は…… なに?どういうこと?思いつき? そもそも、なんで書こうと思った? 書いた記憶が全くない。 何を書いたんだろう。 結構分厚い。長文のようだ。 両手で封筒を持ちながらひとしきり考えを巡らせた後、笑いが止まらなくなった。 なんだかすべてが私らしい。 23年後の自分に手紙を書こうという発想や、友だちと一緒にノリで書…

  • タイムカプセル①

    2021年2月、私は50歳の誕生日を迎えた。 年を重ねるにつれ、誕生日を手放しで喜べなくなるのが人の常だ。60歳以上になると還暦、喜寿、傘寿など長生きのお祝いムードになるが、50歳は「初老」とか「戦国時代の寿命」などと皮肉を言われがちだし、自虐する人も多い。 しかし、私は50歳の誕生日を2年前から待ちわびていた。 2年前、ミツキが高校に入学し、リオは小6、実父は亡くなり、私は暇を持て余していた。 そこで、家中の物の棚卸しを始めた。 今の家に住み始めたのは、ミツキが生まれる3か月前。身重の体での引っ越し作業は、お腹の張りとのタタカイだったことを懐かしく思い出す。 使用頻度の高い物は棚の一等地に。…

  • 父の車で通学

    高校の3年間、私は父の運転する高級社用車で途中まで送ってもらおうと常に狙っていた。 1,2年生のころは部活の朝練があり、父とは時間が合わなかった。狙いは定期試験1週間前。部活が休みになる期間のみだった。 学校は8時40分までに登校なので、本来なら7時半に家を出れば十分間に合う。起床時刻は6時半で十分だ。しかし、私は6時には起床し、父の様子を窺っていた。 某自動車メーカーで役員付のドライバーをしている父が家を出る時間は、基本は2パターンだった。ゴルフ場などの遠方送迎で早朝に家を出るか、近場送迎で7時に家を出るか。私は、父が家を7時に出る日を狙っていた。 父が7時に家を出ると分かると、私も身支度を…

  • 【家族の話】散歩中の会話③

    高1の冬のある日曜日、朝から母と私は揉めた。原因は覚えていないが、私はそのとき初めて母に暴言を吐いた。母の仕返しが怖かったり、中学受験の失敗を引け目に感じたりしていた私の初の暴動だった。 私がいきなり激しく言い返し、反抗期(遅 ! )丸出しで怒鳴り散らしたので、母は少したじろいだ。母は急ぎの用で外出せねばならず、言い返す間もなく慌てて出かけていった。 (ついに言ってやった……) 私は気分が高揚した。 「海でも行くか?」突然父が言った。 「え? あ、うん……」 大抵前夜に声を掛けてくるが、その日は急に言うので少し驚いた。 いつも通り車の中は、AMラジオの音だけが鳴っている。車はコンビニの前で止ま…

  • 【家族の話】散歩中の会話②

    高3の夏は、父との海岸堤防散歩に頻繁に行った。部活も引退し、付属短大志望予定の私は、のんびり日々を過ごしていた。その後、急に気が変わって他短大を受験することになり、慌てることになるのだけれど…… 5時過ぎに出発し、6時前には到着。1時間半ほど散歩し、8時半前には帰宅。毎回だいたい同じ時刻だったが、週を追うごとに季節の移り変わりを感じた。気温だけでなく、海と空の色や様子、風の匂い、季節の花。小さな移り変わりを見逃すまいと、全身で感じながら、ただ黙って歩く。父とは、この黙って歩くという贅沢な時間を心地よく過ごせるところがいい。 水平線の少し手前に貨物船が見えた。 「双眼鏡で見てみたいな」 「こうす…

  • 【家族の話】散歩中の会話①

    父との海岸堤防散歩は、私が中学生から25歳で独り暮らしを始めるまで続いた。続いたといっても、そう都合が合うものでもなく、回数でいったら20回程度だろう。 私は普段はおしゃべり好きだけれど、父とはほとんど会話をしない。何もしゃべらないのが心地いいのだ。 父に起こされて、車に乗って、海を見ながら散歩して、また車に乗って家に帰るまで、基本的には必要最低限の会話のみだ。 だからこそ、父との数少ない貴重な会話は、よく覚えている。 春、海を見ながら歩いていると、テトラポッドのすぐ先を魚の大群がグイグイ泳いでいるのが見えた。父に聞くと、それがボラになる一歩手前の魚だと教えてくれた。 「ボラは、稚魚をオボコっ…

  • 【家族の話】海岸堤防

    父とは夜釣り以外にも、早朝の海へ散歩に行った。 30代から糖尿病を患っていた父の日課は、早朝散歩だった。平日は5時に起床し、1時間程近所を散歩してから出社していた。 また、休日の天気のいい朝は、社用車(本当はダメだけど……)で海へ行き、散歩をしていた。 高級社用車のカーステレオの音の虜になった私は、これにも目を付けた。 「お父さん、これからは海に散歩に行くときは私も連れて行って」 「ん? まあいいけど、朝早いぞ。起きられるのか?」 「起きる! でも、もし、一度で起きてこなかったら、待たずに出かけていいから。取りあえず声だけは掛けて欲しいんだ」 「分かった」 白黒ハッキリさせたい母にこんな頼み方…

  • 【家族の話】夜釣り

    父は、夜釣りに社用車で行っていた。本当はダメだけど…… 私は高級社用車のカーステレオの魅力にはまって以来、なんとか同乗しようと父が出かけるチャンスを狙っていた。 父が釣り用具の手入れを始めると、すかさず頼み込んだ。 釣り場は、家から20分程の海にある堤防で、ハゼ、ボラ、セイゴ、サッパなどが釣れた。 堤防付近に路上駐車する。父のお気に入りの駐車スペースは、堤防の出入口付近で、トイレにも近めの街灯の下だった。 夜釣りの時間は、21時から23時までの約2時間だ。 私は兄のレコードからダビングしたカセットテープを3本持って行った。父が釣り道具一式を抱えて堤防方面に歩き出すと、即、カーステレオのプレイボ…

  • 【家族の話】父とドライブ

    父の会社に一度だけ行ったことがある。確か小6の秋だったと記憶している。 夕食後、父が忘れ物を取りに会社に行くことになり、なぜか私も同行した。 父は大手車メーカーにドライバーとして勤務していた。家近くの駐車場に止めてある社用車で、担当役員宅に毎日直接迎えに行く。 会社上層部の役員を担当しているだけに、車は自社最高級車だった。その最高級車に内緒で初めて乗らせてもらった。 当時の私は、3つ年上の兄の影響で佐野元春の曲を好んで聴いていた。思いがけずドライブできることになり、兄のステレオラックから佐野元春のカセットテープをこっそり拝借した。 助手席に座り、早速カーステレオにカセットを差し込み、プレイボタ…

  • 【家族の話】中学受験後日談②

    中高生時代の私は、敢えてダンスのことは思い出さないようにしていた。レッスンに通えないのならば忘れるしかない。自分でレッスン代を稼いで、ダンスを習う日を夢見ていた。 少しでもダンスに近いことがしたいため、中学では体操部に入部。完全に新体操と勘違いしていた。 跳び箱と平均台は怖いが、床は好きだった。怖がりながらも得意分野なので上達が早く、毎日が楽しかった。 「中2からは塾に通うから部活は退部ね」 中2に進級する直前、母が突然言った。 「また?」小5の夏の悪夢再来だ。 体操に夢中とまではいかないが、部活の友だちや先輩との関係が良好なので辞めたくない。しかし、それは許されなかった。 私は「技が怖いから…

  • 【家族の話】中学受験後日談①

    3月の上旬、箱根へ一泊の家族旅行をした。私の中学受験と3つ年上の兄の高校受験とで夏も年末年始も旅行はおあずけだった。 表向きは兄の第一志望合格祝いだが、実際は母をなだめるために計画されたお疲れさま旅行だった。母の無視は続いていて気まずかったが、家にいるよりは気分転換になる。 箱根湯本に着くと宿に直行。この旅では積極的に観光することはなかった。箱根は何度も訪れているので、たまには宿でのんびりする旅もありではある。チェックイン後、父と兄と私の3人で近所の散策に出かけた。 宿の近くに滝のある庭園があった。滝の近くは特別な空気が流れ、とても心地よかった。私が庭園のあちこちを1人で散策して滝に戻ってくる…

  • 【家族の話】中学受験⑥

    3校とも全滅と分かった時点で交換日記を書いた。 受験とは関係のない普段通りのたわいのない話でページを埋め、ページの一番下に『中学校でもよろしくね』とだけ。 ミナコは一切何も聞いてこなかった。私も一切何も話さなかった。 1週間ほど経ったある日。恐れていた出来事が起きた。 「おい、おまえさあ、中学受験したんだろ?」 振り向くと、クラスでもっとも苦手なキヨシが、チンピラのようなガラの悪い目つきで私を見ていた。 「してないけど……」 思わずウソをついてしまった。 「はあ? んな分けねえだろ。校長室におまえもいたってWから聞いてんだぞ」 W。あのときの男子のどちらかだ。 「……」 「おまえ、何シカトして…

  • 【家族の話】中学受験記⑤

    交換日記の返事は書かなかった。何度も読み返したかったのだ。 1月下旬、千葉県の女子中学校を受験した。予想通りあっさり不合格。 「5倍は厳しかったか。良い練習にはなっただろうから、まあいいじゃない。次は本番だからがんばりなさい」 意外にも母は落ち着きを払っていた。 2月上旬。受験2校目は、校則お下げ髪校。 この学校は、保護者同伴の面接だった。私は、母の圧に緊張していた。 名前を呼ばれ、母と共に面接室へ入った。椅子の前に立ち、受験番号と名前を言ってから座る手筈になっている。 「86番……あっ!」 痛恨のミス。受験番号を間違えてしまった。 「大丈夫ですか? 65番ですよ」 パニックに陥り、もうどうで…

  • 【家族の話】中学受験記④

    中学受験本番が迫ってきた。母に言われるがまま、受験校は女子校3校に決定した。 1校目は、千葉県の女子中学校。母曰く、千葉県の中学は受験日が東京より早いので、本番前の練習のための受験とのことだった。しかし、練習とは言えない気にかかる点があった。倍率が5倍なのだ。5人に1人だなんて。私は受かる気が全くしなかった。 気にかかる点がもう1つ。遠い。家から1時間半はかかる。通う気になれなかった。 受験日の順番から言うと、2校目が第一志望の『校則お下げ髪中学校』だった。 3校目のことは覚えていない。3つも受けるのかとウンザリして、学校に対する感想さえなかった。 正月休みが明けて数日登校したころ、予想だにし…

  • 【家族の話】中学受験記③

    夏を制するものは受験を制す。 ということで、深夜0時過ぎまで机に向かうことになった。ついウトウトすると「顔を洗ってこい!」と母の怒号が飛んだ。顔を洗ったところで眠気は消えない。苦手な問題になればなるほど眠気が襲ってくる。解き方を質問したところで、母は答えられない。 中学受験は決定事項で取りやめにはならない。だからやるしかない。そう頭で分かっていてもどうしてもやる気にならなかった。 新しい塾は古いマンションの一室だった。中はリフォームしていくつかの教室に仕切られており、玄関入ってすぐの広間に塾長席があった。 塾長は熊のように大きな男性で、手の甲まで毛むくじゃら。趣味はピアノ演奏。作曲もするそうで…

  • 【家族の話】中学受験記②

    ミナコはつくづく優しい子で、その後も遊べない理由を一切聞いてこなかった。休み時間は遊び、しゃべりながら下校して、塾のない日は遊んだ。ミナコと過ごす時間だけが、唯一リラックスできる時間だった。 1つ困ったのは私が塾の日のテレビの話で、当時は欽ちゃんの全盛期。『欽ドン』『欽どこ』『週間欽曜日』を観ていないと学校で話には入れなかった。当時はビデオデッキはなかったので観られないのだ。 みんなが盛り上がる中、観ている雰囲気を醸しだすことに徹していた。今思うと、つまらないことに神経を使っていたと思う。 新しい塾は、とても楽しかった。前の塾は私の他に男子が1人だけだったが、今度は女子3人(私含め)と男子5人…

  • 【家族の話】中学受験記①

    私が中学受験をしたときの話。 幼稚園年少で下町の団地に越してきた私は、すぐに団地内のダンス教室に興味を持ち、通うこととなった。レッスンはとても楽しく、友だちもたくさんできた。 毎年夏休みの始めに発表会があり、舞台に立つことが楽しくて、ライトに照らされることがうれしくて仕方がなかった。 小5の私は今まで以上に張り切っていた。それまでは同級生とだけ踊っていたが、この年は上級生の中に入れてもらえたのだ。憧れのお姉さんと踊れる喜びと、そのメンバーに選ばれた喜び。 発表会は無事終了し、上達したとあちこちで誉められた。 「来年からは大人のグループだからがんばってね。休み明けのレッスンでビデオ上映会をやるか…

  • 【家族の話】ひと休み

    大好きな父とのエピソードを忘れないようにと書き始めた『家族の話』。 私と父とのエピソードを中心に書いていきたかったのだが、話の方向性がおかしくなってしまった。父より、母の出番の方が多くなるのだ。 母のエピソードを書くとなると、悪口ばかりの暴露話みたいになってしまう。私としては、吐き出すことでスッキリする部分もあるのだが、読む側からしたら気分を害されることもあるかもしれない。 ただ、私と父のエピソードを書くには、母の存在があまりにも大きく、書かずには話が進まないのだ。 私と父は親子であり、同士だった。 母から互いを守り合う同士。 1つ大事なのは、私は母を恨んではいないということ。母を好きとは言え…

  • 【家族の話】禁断の窓拭き

    父の人となりをもう少し詳しく説明しておこうと思う。 まずは見た目。158㎝と小柄だが細マッチョ。 顔は20代の写真では藤井フミヤ風だったが、30代からあれよあれよという間に髪が薄くなり、若いころの面影はなくなった。でも、元藤井フミヤ風なのだから、髪が薄かろうと私的にはイケメン寄りと思っている。 母はお得意の冗談というやつで「おハゲちゃん」と言って父の頭をなでた。 父はと言うと「髪が乱れるだろ」と言って、笑いながら母の手を払う。 それに対して母が「乱れる髪なんてないじゃない!ガハハハ」となる。 父の神対応ぶりに感服だ。ちなみに、母には冗談は通じないので、誰も母をイジることはない。 性格はおとなし…

  • 【家族の話】父が怒った日②

    まるで歌を歌うように語尾を伸ばし、おどけたしゃべり方をする父。そんな穏やかで優しい父が怒るのを見たのはたったの3回。 そのうち1回は、母に対してだ。 父が外資系の会社から日本の大手企業のドライバーへ転職するのを機に、西麻布のアパートから下町の巨大な団地へと引っ越しをした。私が幼稚園年少のときのことだ。 私はやっと物心が付いてきたころで、この時期から連続性のある記憶が増え始める。 団地には、家族4人だけで暮らした。西麻布での記憶はほとんどないので、祖母や叔父といつまで暮らしていたのか、私には分からない。 まったく記憶のない私は、祖母や叔父はどんな人なのか知りたかった。しかし、日常の会話から、父の…

  • 【家族の話】父が怒った日②

    まるで歌を歌うように語尾を伸ばし、おどけたしゃべり方をする父。そんな穏やかで優しい父が怒るのを見たのはたったの3回。 今回は兄に対してだ。 どこの家でも起こる、兄妹間でのテレビのチャンネル争い。私と兄も頻繁に観たい番組をめぐって喧嘩になった。 兄が小3、私が幼稚園年長くらいだったと思う。チャンネル争いが絶えないので、兄と私で1日毎にチャンネル権を交代する取り決めとなった。 何日か平穏に過ぎていったある日、私が取り決めを破った。リモコンなどない時代、兄がテレビ画面右横に付いているチャンネルの取っ手をガチャガチャと回しているとき、画面に私の興味を引く映像が映った。 取っ手を回し続ける兄。私はテレビ…

  • 【家族の話】父が怒った日①

    父は、まるで歌を歌うように語尾を伸ばし、おどけたしゃべり方をした。 そんないつも穏やかで優しい父が怒ったところを、私は3回だけ見たことがある。 そのうちの1回は、私に対してだ。 幼少時代に千葉県の佐原に疎開していた父は、きのこや山菜について詳しかった。おばあさんに連れられて、山へ食料調達をしに行っていたらしい。 その名残で父は大人になっても散歩がてら山菜採りをした。おかげで我が家の食卓にはスーパーで売っていない食材が豊富に並んだ。 春には私と母も父と一緒に土手に行き、ヨモギやタンポポなどを摘んだ。タンポポの天ぷらは、苦っぽろいがおいしかった。ヨモギは、餅にしても天ぷらにしても最高の食材だ。 父…

  • 【家族の話】上野の案件に対する父の対応

    上野にいる傷痍軍人が本当の父親だと、母が執拗に迫ってきた話の続き。 避けていた上野に、社会人になってから再び訪れるようになった。同期との飲み会は、上野が多かったのだ。久しぶりの上野はひどく緊張したが、昔のような光景はもうなかった。 10年あまりで、あの傷痍軍人たちはどこへ行ったのだろうか。幸せに暮らしているだろうか。思いを巡らせていたとき、ふと心に引っかかった。 当時を思い出して目に浮かぶのは、傷痍軍人と母の姿だけ。父の腕にぐっとしがみつく感触は思い出せるのに、父の言葉や表情はどうしても思い出すことが出来ない。 私が辛い思いをしているのに、なぜ父はもっと助けてくれなかったのだろうか。 父は、決…

  • 【家族の話】本当の父親は誰?

    かつて上野が苦手だった。子どものころの私にとって、上野は危険な場所だったからだ。 年に何度か上野恩賜公園に行った。そして、毎度悲劇は起きた。 上野での我が家の行動ルートは決まっていた。上野駅公園改札口を出て、上野恩賜公園に入る。公園で遊ぶだけの日もあれば、動物園や国立科学博物館に入る日もあった。あちこち散策した後、西郷隆盛像を経由し、不忍池を1周してから中央通りに出る。そして、中央通りを駅方面に進み、広小路口から駅構内へ。 その間に何が私を危険に晒していたか。 私が子どものころの上野は今のようにきれいな街ではなく、東京の繁華街の中では最も戦争の傷跡が残っていたように思う。西郷隆盛像の真下辺りの…

  • 【家族の話】幼いころの私と父

    幼い頃の記憶は曖昧で、ポツポツと覚えている程度だが、どれも大切な思い出だ。 【両肩変色ジャケット】 父のMA-1風のセージグリーン色のジャケットは、両肩が変色していた。 その両肩変色ジャケットを着ている父に抱っこされて、遠ざかる散歩道をぼんやり眺めている。そんな風景が私の中で一番古い父との記憶だ。 私が幼稚園くらいのときに、何年も着ずにしまい込んでいた両肩変色ジャケットを捨てた。父と母が、思い出深そうに変色のことを話していて、そのとき初めてその変色の原因が、私のヨダレだったと知った。 【浜辺のプール】 夏、海水浴に行くと、幼い私のために、父はスコップで浜辺に直径3メートル、深さ50センチほどの…

  • 【家族の話】父の生い立ち

    2018年10月3日、父がデイサービス先で倒れたと連絡があった。 3か月後の2019年1月10日午前3時、父はこの世を去った。 父が亡くなったと介護施設から連絡が来たとき、私は悲しみよりも「お疲れ様でした」という気持ちが強く、気が動転することはなかった。葬式も四十九日法要も淡々と行い、落ち着いた日常を送った。 ところがまた秋になり、前年のこの時期に父が倒れたと思い出した瞬間に涙がこぼれ落ちた。父の一生の中で一番苦しかったであろう最期の3か月間の記憶が、私の中に戻ってきたのだ。父が倒れてから3か月間、病院の帰り道は堪えようにも涙が止まらなかった。 そして今年も、また秋がやってきた。昨年ほどではな…

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