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  • 桃花台新交通 桃花台線2

    小牧駅から桃花台ニュータウン並びに沿線の人々の交通手段として愛知県と一体となり建設された新交通システムです。愛称はピーチライナーで、新交通本来の機能を追求すると共に様々の最新技術を駆使して運転性能、安全性の向上を図りました。一方向運転の特徴を生かして乗降扉を片側だけに設けるなど、独特の非対称デザインを採り入れた車両を製作しました。僅か12年間の営業で、平成19年に廃止となりました。廃止直後に一部軌道の撤去があったようですが令和になってから残りの軌道の撤去が再び行われ始めました。桃花台新交通桃花台線2

  • 桃花台新交通 桃花台線1

    小牧駅から桃花台ニュータウン並びに沿線の人々の交通手段として愛知県と一体となり建設された新交通システムです。愛称はピーチライナーで、新交通本来の機能を追求すると共に様々の最新技術を駆使して運転性能、安全性の向上を図りました。一方向運転の特徴を生かして乗降扉を片側だけに設けるなど、独特の非対称デザインを採り入れた車両を製作しました。僅か12年間の営業で、平成19年に廃止となりました。廃止直後に一部軌道の撤去があったようですが令和になってから残りの軌道の撤去が再び行われ始めました。終点の折り返し軌道。桃花台新交通桃花台線1

  • 東京湾要塞 富津元洲堡塁砲台B1

    東京湾要塞富津元洲堡塁砲台A6はここ1884年完成。堡塁砲台とは陸・海両方に対して防御する任務のをもつ。外濠を掘り海水を引き入れ、上部には28サンチ(当時はフランス読みをしていた)榴弾砲と12サンチ加農砲が据え付けられた。しかし兵器や航空機の発達により、大砲は旧式となり実践にて弾が発射される事はなかった。射場内では、旧陸軍最大口径を誇る試製41サンチ榴弾砲や90式24サンチ列車加農砲の試射なども行われた。東京湾要塞富津元洲堡塁砲台B1

  • 東京第二陸軍造兵廠岩鼻火薬製造所B

    東京第二陸軍造兵廠シリーズ岩鼻火薬製造所Bここ2022年UL深谷製造所櫛挽工場Bここ2022年UL板橋火薬製造所その他の遺構ここ2020年UL弾道検査管Bここ2020年UL電気軌道C板橋火薬製造所ここ2020年UL板橋製造所モニュメントBここ2015年UL板橋火薬製造所招魂之碑ここ2015年UL深谷製造所給水塔ここ2015年UL板橋製造所モニュメントAここ2015年UL忠海製造所毒ガス貯蔵庫2ここ2015年UL忠海製造所毒ガス貯蔵庫1ここ2015年UL忠海製造所長浦毒ガス貯蔵庫ここ2015年UL忠海製造所トイレここ2015年UL忠海製造所発電所2ここ2015年UL忠海製造所発電所1ここ2015年UL忠海製造所1ここ2015年UL岩鼻火薬製造所Aここ2015年UL電気軌道B板橋火薬製造所ここ2014年UL電...東京第二陸軍造兵廠岩鼻火薬製造所B

  • 中央高速道路 廃道部分

    高速道路では少しでも走りやすく、事故を減らすためなのか当初作られた道路を廃道とし、新道をつくっている所が多いです。これは一般道路にもいえる事ですが。中央高速道路廃道部分

  • 大谷資料館 B1

    大谷資料館A4はここ一般の人々の目に触れることなく「未知なる空間」と呼ばれた地下採掘場跡。その広さは2万平方メートル、深さ30メートルあり深い所は60メートルにも及びます。戦時中は地下倉庫や軍需工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として利用されました。前回は2016年1月に訪問しましたが、あまり変化はありませんでした。この壁面に付着している白い結晶は、大谷石に含まれる塩分が冬場の乾燥した時季に噴き出るもんで、夏の湿った壁面では消滅する不思議な現象です。大谷資料館B1

  • 20211211 鹿島鉄道線 車両

    葉タバコなどの農作物、航空自衛隊百里基地のジェット燃料輸送や通学客の利用があったが営業収入の基幹であるジェット燃料輸送が2002年3月で廃止となり営業収支が更に悪化した。親会社の関東鉄道、沿線の自治体が財政支援してきたが、2005年開通のつくばエクスプレス線の開業により、関東鉄道は常総線や高速バスの利用者が大幅に減少し、減収となった事を理由に2007年年以降の経営支援を行わない方針を示した。これを受け、親会社の支援なしでの鉄道経営は無理であるとして、2007年3月末限りで、鹿島鉄道全線の営業を廃止、83年の歴史に幕を閉じた。この路線で活躍していたキハ601とKRー505がほっとパーク鉾田にて静態保存されている。KR-505ターボチャージャー付近20211211鹿島鉄道線車両

  • 熊谷陸軍飛行学校 桶川分教場2

    熊谷陸軍飛行学校桶川分教場1はここ熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は昭和10年に開校熊谷陸軍飛行学校の分教場として、昭和12年6月ここに開校しました。守衛所(衛兵所)、車庫、本部宿舎、便所、弾薬庫などが現存し滑走路は荒川の対岸にあります。教官、学生以外は熊谷本校に雇用された地元の人たち(軍属)で学校事務のほか、飛行機の整備や通信、気象などの業務にあたりました。昭和18年3月までは、ほかの兵科から飛行兵を希望してきた召集下士官学生を教育し、以後陸軍少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習い士官など、昭和20年2月閉校までに20期余りの飛行兵を教育しました。昭和20年2月以降は特攻隊の訓練基地として使用され、同年4月5日陸軍初の練習機による特攻となる特別攻撃隊第79振武隊が出撃基地である鹿児島県知覧飛行場に向け出発してい...熊谷陸軍飛行学校桶川分教場2

  • 土倉鉱山

    土倉鉱山は1910年から1965年まで採掘されていた銅鉱山です。この写真は3代目の選鉱場で1942年から閉山の1965年まで稼働していました。土倉鉱山は最盛期には月産2~5千トンを生産し従業員366人、約1,000人の人が暮らしていました。土倉鉱山

  • やってしまいました・・・・

    写真の赤〇部分は何かが刺さったあとです。勿論、足にも刺さっています。草むらに隠れた尖ったものを踏んでしまったようです。激痛のあまり足も捻挫したようで、真っ赤に腫れあがっております。ただ(病院には行っていませんが)そんなに危険な怪我ではないように思います。場所が場所だけに、破傷風なども考えましたがワクチンも接種しているし、自分の周りに破傷風で亡くなった人はいませんので。少し自分の考えが甘かったって、この趣味を10年ちょっとやっていて初めて思ったのは、いけなかったと思います。もっと対策をしないとなりませんね。やってしまいました・・・・

  • 母島に残るエンジン?

    母島に残っている、エンジン部品だろうか?初見です。母島に残るエンジン?

  • わたらせ渓谷鉄道 静態保存車両

    わたらせ鉄道の足尾駅に静態保存されている昭和30年代に製造された国鉄気動車。乗車扉が車体外側に開くタイプですが、これは最近の新交通システムに採用されているものだが昭和30年代とては、最先端過ぎた装備だったのかもしれない。が、しかし便所に関しては、その往時としては標準的な線路脇に垂れ流しするものであった・・・・・わたらせ渓谷鉄道静態保存車両

  • 洲ノ埼海軍航空隊射撃場

    太平洋戦争は飛行機中心の戦争となり、そこで必要になったのが飛行機を整備する兵隊でした。館山海軍航空隊は戦争をする航空隊でしたが、1943年に作られた洲ノ埼海軍航空隊は飛行機を整備する兵隊を教育するための航空隊。この射撃場は、この前約100メートルの位置に戦闘機をおいて機銃の調整をおこなうための的として使われていた施設の跡です。洲ノ埼海軍航空隊射撃場

  • 鉾田陸軍飛行学校監的所

    太平洋戦争当時、爆撃機の射撃や砲撃などの訓練を監視した監的所だ。この戦争遺跡は鉾田市汲上の県道脇に残る。1939年の鉾田陸軍飛行学校の設置に伴い造られた。監的所の出入り口鉾田陸軍飛行学校監的所

  • 〇樫石灰工業 〇叶鉱山3

    1854年に創業し当社現本社にて石灰の製造を開始。1967年に戸叶鉱山を開発した。石灰岩は地質構造帯別にいろいろな形態で日本中に存在しています。なかでも栃木県葛生には、古生代二畳紀2億年前の海中のサンゴ等が堆積してできた、国内でも有数の良質な石灰石の鉱床があるそうです。〇樫石灰工業〇叶鉱山3

  • 〇樫石灰工業 〇叶鉱山2

    1854年に創業し当社現本社にて石灰の製造を開始。1967年に戸叶鉱山を開発した。石灰岩は地質構造帯別にいろいろな形態で日本中に存在しています。なかでも栃木県葛生には、古生代二畳紀2億年前の海中のサンゴ等が堆積してできた、国内でも有数の良質な石灰石の鉱床があるそうです。〇樫石灰工業〇叶鉱山2

  • 〇樫石灰工業 〇叶鉱山1

    1854年に創業し当社現本社にて石灰の製造を開始。1967年に戸叶鉱山を開発した。石灰岩は地質構造帯別にいろいろな形態で日本中に存在しています。なかでも栃木県葛生には、古生代二畳紀2億年前の海中のサンゴ等が堆積してできた、国内でも有数の良質な石灰石の鉱床があるそうです。〇樫石灰工業〇叶鉱山1

  • 東急デハ5000系(初代)+α

    1954年に製造された航空機の技術であるモノコック構造を応用した超軽量構造と、付随車を組み込んだ編成を採用し高性能化と製造コストの両立を図ったことが大きな特徴だそうで、当時の人はパンタグラフがついているのにモーターの音がしないと、ビックリしたそうです。当時は釣り掛け方式で、モーターの重々しい音が鳴り響いていたから当然だったかもしれない。当時はコンプレッサーもけたたましい音を奏でていた。2枚目後方に移るデハ3450系は1931年より1936年にかけて50両が製造されたそうです。*個人の敷地内にあるので、外側から撮影しています。東急デハ5000系(初代)+α

  • 東京湾要塞 大房岬砲台A5

    東京湾要塞大房岬砲台シリーズA5ここ2012年撮影(2022年記事A4ここ2012年撮影(2022年記事A3ここ2012年撮影(2022年記事A2ここ2012年撮影(2022年記事A1ここ2012年撮影(2022年記事C7ここ2016年撮影C6ここ2016年撮影C5ここ2016年撮影C4ここ2016年撮影C3ここ2016年撮影C2ここ2016年撮影C1ここ2016年撮影B6ここ2014年撮影B5ここ2014年撮影B4ここ2014年撮影B3ここ2014年撮影B2ここ2014年撮影B1ここ2014年撮影*補足*現地へ訪問(撮影)した順はA→B→Cです。帝国陸軍が昭和3年から4ヶ年を費やして構築したものである。巡洋艦鞍馬の副砲二門入り砲台二基を40メートル間隔で設置し、関連施設の観測所発電所・照明所・掩灯所・弾薬庫等...東京湾要塞大房岬砲台A5

  • 東京湾要塞 大房岬砲台A4

    東京湾要塞大房岬砲台シリーズA5ここ2012年撮影(2022年記事A4ここ2012年撮影(2022年記事A3ここ2012年撮影(2022年記事A2ここ2012年撮影(2022年記事A1ここ2012年撮影(2022年記事C7ここ2016年撮影C6ここ2016年撮影C5ここ2016年撮影C4ここ2016年撮影C3ここ2016年撮影C2ここ2016年撮影C1ここ2016年撮影B6ここ2014年撮影B5ここ2014年撮影B4ここ2014年撮影B3ここ2014年撮影B2ここ2014年撮影B1ここ2014年撮影*補足*現地へ訪問(撮影)した順はA→B→Cです。帝国陸軍が昭和3年から4ヶ年を費やして構築したものである。巡洋艦鞍馬の副砲二門入り砲台二基を40メートル間隔で設置し、関連施設の観測所発電所・照明所・掩灯所・弾薬庫等...東京湾要塞大房岬砲台A4

  • 峰B

    峰Aはここ峰Aの写真を撮影したのは、2003年頃。それから20年近く経過した集落には、ほとんど何も残ってはいなかった。古い焼き物を探す?収集する?ような趣味もあるようで今回の撮影(2021年)の時にも数人いた。また周囲の木々は伐採、新道も作られていた。峰B

  • 東京湾要塞 大房岬砲台A3

    東京湾要塞大房岬砲台シリーズA52012年撮影(2022年記事A42012年撮影(2022年記事A3ここ2012年撮影(2022年記事A2ここ2012年撮影(2022年記事A1ここ2012年撮影(2022年記事C7ここ2016年撮影C6ここ2016年撮影C5ここ2016年撮影C4ここ2016年撮影C3ここ2016年撮影C2ここ2016年撮影C1ここ2016年撮影B6ここ2014年撮影B5ここ2014年撮影B4ここ2014年撮影B3ここ2014年撮影B2ここ2014年撮影B1ここ2014年撮影*補足*現地へ訪問(撮影)した順はA→B→Cです。帝国陸軍が昭和3年から4ヶ年を費やして構築したものである。巡洋艦鞍馬の副砲二門入り砲台二基を40メートル間隔で設置し、関連施設の観測所発電所・照明所・掩灯所・弾薬庫等を地下に...東京湾要塞大房岬砲台A3

  • 原爆ドーム再訪シリーズ

    なぜか似たようなアングルで撮影した原爆ドームの写真が多い。2010年2月・2012年5月・2015年5月・2018年1月2010年2月2012年5月2015年5月2018年1月ーーーーーーー2010年2月2012年5月2015年5月2018年1月爆心地。この上空600メートル付近で炸裂した接着剤の技術は革新的に進歩しているようなので無色で素材を劣化させず、崩壊しなくなる接着剤でも、できないものだろうか?そうすれば、中にまで入れるだろうに・・・原爆ドーム再訪シリーズ

  • 東京湾要塞 大房岬砲台A2

    東京湾要塞大房岬砲台シリーズA52012年撮影(2022年記事A42012年撮影(2022年記事A32012年撮影(2022年記事A2ここ2012年撮影(2022年記事A1ここ2012年撮影(2022年記事C7ここ2016年撮影C6ここ2016年撮影C5ここ2016年撮影C4ここ2016年撮影C3ここ2016年撮影C2ここ2016年撮影C1ここ2016年撮影B6ここ2014年撮影B5ここ2014年撮影B4ここ2014年撮影B3ここ2014年撮影B2ここ2014年撮影B1ここ2014年撮影*補足*現地へ訪問(撮影)した順はA→B→Cです。帝国陸軍が昭和3年から4ヶ年を費やして構築したものである。巡洋艦鞍馬の副砲二門入り砲台二基を40メートル間隔で設置し、関連施設の観測所発電所・照明所・掩灯所・弾薬庫等を地下に鉄筋...東京湾要塞大房岬砲台A2

  • 東京湾要塞 大房岬砲台A1

    東京湾要塞大房岬砲台シリーズA52012年撮影(2022年記事A42012年撮影(2022年記事A32012年撮影(2022年記事A22012年撮影(2022年記事A1ここ2012年撮影(2022年記事C7ここ2016年撮影C6ここ2016年撮影C5ここ2016年撮影C4ここ2016年撮影C3ここ2016年撮影C2ここ2016年撮影C1ここ2016年撮影B6ここ2014年撮影B5ここ2014年撮影B4ここ2014年撮影B3ここ2014年撮影B2ここ2014年撮影B1ここ2014年撮影帝国陸軍が昭和3年から4ヶ年を費やして構築したものである。巡洋艦鞍馬の副砲二門入り砲台二基を40メートル間隔で設置し、関連施設の観測所発電所・照明所・掩灯所・弾薬庫等を地下に鉄筋コンクリート造りで完成させ、昭和20年の終戦まで横須賀...東京湾要塞大房岬砲台A1

  • 廃校 粟野中学校B

    廃校粟野中学校A(2015年撮影)はここ1949年に建築された桁行53メートルの木造二階建ての中学校校舎で、桟瓦葺きの切妻屋根を載せ、外壁は下見板張り、木製桟のガラス窓がはめられ、建築に際しては粟野財産区の良材をよく吟味し合せ柱とした事から、現在でも狂いの少ない姿で残されています。2003年、56年間の歴史を閉じて閉校となりました。林業が豊かな時代、その産地として栄えた旧粟野町の歴史を物語る建物である。校舎前面校舎後方廃校粟野中学校B

  • わたらせ渓谷鉄道 廃線部2(足尾本山駅)

    わたらせ渓谷鉄道廃線部1はここ明治時代の初めまで、産出した銅や鉱山で使用する材料の運搬は馬や牛に頼っていましたが、生産量の増加によって運びきれなくなり馬車鉄道による運搬を始めましたが、さらに多くの荷物を運べるよう桐生から足尾まで鉄道を建設することになりました。1912年12月桐生から延伸してきた足尾鉄道が、足尾駅まで開通しました。足尾鉄道は国の重要路線であることから1918年、国が買い上げて鉄道院の足尾線となりました。戦後、ディーゼル機関車に変わって近代化されましたが、1973年に足尾銅山が閉山されると旅客・貨物ともに輸送量が大きく減少し1998年6月間藤~足尾本山駅間の鉄道事業免許が失効し、間藤駅から足尾本山駅まで伸びていた貨物線を廃線とした。わたらせ渓谷鉄道廃線部2(足尾本山駅)

  • わたらせ渓谷鉄道 廃線部1

    明治時代の初めまで、産出した銅や鉱山で使用する材料の運搬は馬や牛に頼っていましたが、生産量の増加によって運びきれなくなり馬車鉄道による運搬を始めましたが、さらに多くの荷物を運べるよう桐生から足尾まで鉄道を建設することになりました。1912年12月桐生から延伸してきた足尾鉄道が、足尾駅まで開通しました。足尾鉄道は国の重要路線であることから1918年、国が買い上げて鉄道院の足尾線となりました。戦後、ディーゼル機関車に変わって近代化されましたが、1973年に足尾銅山が閉山されると旅客・貨物ともに輸送量が大きく減少し1998年6月間藤~足尾本山駅間の鉄道事業免許が失効し、間藤駅から足尾本山駅まで伸びていた貨物線を廃線とした。わたらせ渓谷鉄道廃線部1

  • 鹿島鉄道線C 石岡南台駅

    鹿島鉄道線シリーズ石岡南台駅ここ2021年撮影鉾田駅ここ2021年撮影小川高校下駅ここ2021年撮影桃浦駅ここ2019年撮影鉾田駅ここ2019年撮影1面1線駅ここ2007年撮影榎本・桃浦駅ここ2007年撮影玉里駅ここ2007年撮影石岡南台駅2ここ2007年撮影石岡南台駅1ここ2007年撮影鹿島鉄道はJR石岡駅から鉾田駅を結んだ全長27キロの鉄道でした。1921年10月行方鉄道株式会社設立1922年9月称号を鹿島参宮鉄道に変更1924年6月石岡-常陸小川間営業開始1926年8月常陸小川-浜間を延伸1928年2月浜-玉造町間を延伸1929年5月鉾田までの全線開通1965年常総筑波鉄道を合併、関東鉄道鉾田線となる1979年4月自動車輸送の発展による経営悪化の為関東鉄道から分離、鹿島鉄道となる葉タバコなどの農作物、航空...鹿島鉄道線C石岡南台駅

  • 鹿島鉄道線 鉾田駅B

    鹿島鉄道線シリーズ小川高校下駅ここ2021年撮影桃浦駅Bここ2019年撮影鉾田駅Aここ2019年撮影石岡南台駅1ここ2007年撮影石岡南台駅2ここ2007年撮影玉里駅ここ2007年撮影榎本・桃浦駅ここ2007年撮影1面1線駅ここ2007年撮影鹿島鉄道はJR石岡駅から鉾田駅を結んだ全長27キロの鉄道でした。1921年10月行方鉄道株式会社設立1922年9月称号を鹿島参宮鉄道に変更1924年6月石岡-常陸小川間営業開始1926年8月常陸小川-浜間を延伸1928年2月浜-玉造町間を延伸1929年5月鉾田までの全線開通1965年常総筑波鉄道を合併、関東鉄道鉾田線となる1979年4月自動車輸送の発展による経営悪化の為関東鉄道から分離、鹿島鉄道となる葉タバコなどの農作物、航空自衛隊百里基地のジェット燃料輸送や通学客の利用が...鹿島鉄道線鉾田駅B

  • 片島魚雷発射試験場 発射場

    片島魚雷発射試験場発射場

  • 片島魚雷発射試験場D 発射場橋

    片島魚雷発射試験場シリーズ新観測所ここ2018撮影Cここ2017年記事発射場関係ここ2016年記事建屋ここ2016年記事本部室内2ここ2016年記事本部室内1ここ2016年記事本部及び隣接する遺構ここ2016年記事観測所ここ2016年記事新観測所ここ2016年記事Bここ2016年記事A2ここ2015年記事A1ここ2015年記事佐世保鎮守府が開庁されて間もなく、海軍工廠が佐世保湾の北岸に開設された。この工場で製造される魚雷を実地に発射試験するために魚形水雷発射試験場が設置された。太平洋戦争勃発後の1942年川棚に分工廠が設置された事に伴い魚雷発射場の施設がさらに拡張され、その際に片島は海峡が埋め立てられて陸続きとなった。この動画は2018年9月に撮影したものです。片島魚雷発射試験場D発射場橋

  • 片島魚雷発射試験場D 新観測所

    片島魚雷発射試験場シリーズCここ2017年記事発射場関係ここ2016年記事建屋ここ2016年記事本部室内2ここ2016年記事本部室内1ここ2016年記事本部及び隣接する遺構ここ2016年記事観測所ここ2016年記事新観測所ここ2016年記事Bここ2016年記事A2ここ2015年記事A1ここ2015年記事長崎県大村湾に面した川棚町。ここは1918年に開設された魚雷発射試験場をはじめ海軍工廠、魚雷艇訓練所など太平洋戦争当時、旧海軍の重要な軍事施設がありました。魚雷発射試験場では佐世保海軍工廠や三菱長崎兵器製作所で製造された魚雷の発射試験が行われた。すぐそばにある大きな建物(本部)の中で、魚雷の最終検査や調整などをしていたのではないかと言われています。また当時魚雷発射の状況を記録・確認するための観測所跡も残っており、...片島魚雷発射試験場D新観測所

  • 鹿島鉄道線 小川高校下駅B

    鹿島鉄道線シリーズ桃浦駅Bここ2019年撮影鉾田駅ここ2019年撮影石岡南台駅1ここ2007年撮影石岡南台駅2ここ2007年撮影玉里駅ここ2007年撮影榎本・桃浦駅ここ2007年撮影1面1線駅ここ2007年撮影前回小川高校下駅へ訪問した時の写真は「1面1線駅」に掲載しています。鹿島鉄道はJR石岡駅から鉾田駅を結んだ全長27キロの鉄道でした。1921年10月行方鉄道株式会社設立1922年9月称号を鹿島参宮鉄道に変更1924年6月石岡-常陸小川間営業開始1926年8月常陸小川-浜間を延伸1928年2月浜-玉造町間を延伸1929年5月鉾田までの全線開通1965年常総筑波鉄道を合併、関東鉄道鉾田線となる1979年4月自動車輸送の発展による経営悪化の為関東鉄道から分離、鹿島鉄道となる葉タバコなどの農作物、航空自衛隊百里基...鹿島鉄道線小川高校下駅B

  • 鹿島鉄道線 桃浦駅

    鉾田駅ここ2019年撮影石岡南台駅1ここ2007年撮影石岡南台駅2ここ2007年撮影玉里駅ここ2007年撮影榎本・桃浦駅ここ2007年撮影1面1線駅ここ2007年撮影鹿島鉄道はJR石岡駅から鉾田駅を結んだ全長27キロの鉄道でした。1921年10月行方鉄道株式会社設立1922年9月称号を鹿島参宮鉄道に変更1924年6月石岡-常陸小川間営業開始1926年8月常陸小川-浜間を延伸1928年2月浜-玉造町間を延伸1929年5月鉾田までの全線開通1965年常総筑波鉄道を合併、関東鉄道鉾田線となる1979年4月自動車輸送の発展による経営悪化の為関東鉄道から分離、鹿島鉄道となる葉タバコなどの農作物、航空自衛隊百里基地のジェット燃料輸送や通学客の利用があったが営業収入の基幹であるジェット燃料輸送が2002年3月で廃止となり営業...鹿島鉄道線桃浦駅

  • 奥多摩湖ロープウェイB

    奥多摩湖ロープウェイA(かわの駅側)はここ1962年1月29日に湖上を渡るロープウェイとして日本で2番目に開業したが僅か4年で運行休止となった。今回はみとうさんぐち駅側ここまでの写真撮影日2021年3月20日。この2枚の撮影日は2022年2月5日。どうやら2021年12月中旬から2022年1月初旬の間にこのような下品な塗装が施されたようで残念に思います。奥多摩湖ロープウェイB

  • 東京都水道局 小河内線B4

    東京都水道局小河内線B3はここ小河内貯水池建設の為に昭和27年10月に開通した専用鉄道。青梅線氷川駅を起点とし多摩川の本流に沿って西に延び水根積卸場までの約7キロメートルの線路。この専用鉄道は蒸気運転をしていたが電気運転に対応して施工されている。これ以上は先がなく進めない・・・戻る事にする。東京都水道局小河内線B4

  • 東京都水道局 小河内線B3

    東京都水道局小河内線B2はここ小河内貯水池建設の為に昭和27年10月に開通した専用鉄道。青梅線氷川駅を起点とし多摩川の本流に沿って西に延び水根積卸場までの約7キロメートルの線路。この専用鉄道は蒸気運転をしていたが電気運転に対応して施工されている。東京都水道局小河内線B3

  • 東京都水道局 小河内線B2

    東京都水道局小河内線B1はここ小河内貯水池建設の為に昭和27年10月に開通した専用鉄道。青梅線氷川駅を起点とし多摩川の本流に沿って西に延び水根積卸場までの約7キロメートルの線路。この専用鉄道は蒸気運転をしていたが電気運転に対応して施工されている。東京都水道局小河内線B2

  • 東京都水道局 小河内線B1

    東京都水道局小河内線Aはここ小河内貯水池建設の為に昭和27年10月に開通した専用鉄道。青梅線氷川駅を起点とし多摩川の本流に沿って西に延び水根積卸場までの約7キロメートルの線路。この専用鉄道は蒸気運転をしていたが電気運転に対応して施工されている。東京都水道局小河内線B1

  • 東京都港湾局専用線B

    東京都港湾局専用線Aはここ東京港の貨物専用鉄道は、東京市が1930年に汐留駅から芝浦駅を結んだのが始まりで、その後深川線・晴海線・芝浦線・日の出線と増設されていき東京港の貨物専用線の総延長は24キロメートル余になりました。高度経済成長期には化石燃料・塩・新聞巻取紙・穀物・果物野菜などの生鮮食品を取り扱い、その取扱貨物量は、170万トンに達しました。貨物は鉄道輸送から自動車輸送に転換し鉄道貨物取扱量も年々減少し1985~1989年までに順次芝浦・日の出線・深川線・深川・晴海線が廃止となりました。こうして鉄道貨物輸送に貢献してきた東京港の貨物専用線は約半世紀にわたる使命を終えて姿を消しました。東京都港湾局専用線B

  • 東京第二陸軍造兵廠 深谷製造所 櫛挽工場B

    東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場Aはここ第二次大戦中に櫛挽ヶ原500ヘクタールに及ぶ藤澤、本郷、岡部、榛澤、用土の五ヶ村に跨がる全地域の林間に、東京第二陸軍造兵廠櫛挽製造所として大小350棟に及ぶ建造物が構築され1944年10月に開所し10ヶ月後に終戦を迎えた。東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場B

  • 陸軍技術本部 富津試験場 監的所

    陸軍技術本部富津試験場前回記事はここ火砲の命中試験の際に中央にある観測窓から着弾の様子を確認した。3ヶ所ある監的所の中で監的塀や射入窖付近の南側にあるもの。陸軍技術本部富津試験場監的所

  • 湯の花トンネル列車銃撃空襲

    太平洋戦争末期の1945年8月5日この場所で米戦闘機群による日本で最大規模の旅客列車襲撃空襲がおきました。8月2日の八王子空襲で中央本線が普通になった後三日ぶりに新宿発長野行き列車が浅川駅(現高尾)を出発し湯の花トンネルにさしかかったとき、硫黄島から飛来してきたP51スタングの銃撃を受けました。湯の花トンネル列車銃撃空襲

  • 陸軍 射撃場(宇都宮

    鶴田町に射撃場の跡地があります。明治時代に造られた独特の高い土塁で三方を囲み最大距離600メートルの射撃で、主として小銃の基本射撃訓練に使用されたそうです。陸軍射撃場(宇都宮

  • 陸軍 射撃場(宇都宮

    鶴田町に射撃場の跡地があります。明治時代に造られた独特の高い土塁で三方を囲み最大距離600メートルの射撃で、主として小銃の基本射撃訓練に使用されたそうです。陸軍射撃場(宇都宮

  • 東京湾要塞 千代ヶ崎砲台2

    千代ケ崎砲台は東京湾要塞を構成した砲台のひとつで江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に1892年から1895年にかけて陸軍により建設されました。東京湾要塞の中での任務は観音崎の砲台群の側防と浦賀湾前面海域の防御で、対岸の富津元洲砲台とともに援助砲台に位置づけられました。千代ヶ崎砲台は、28センチ榴弾砲と呼ばれる大口径の大砲が備えられた榴弾砲砲台と小口径の加農砲などが備えられた近接防御砲台で構成されていました。謎の部屋があるようだ(学芸さん談)高塁道へ行く通路近接防御砲台への通路民有地に残る換気孔(現駐車場は掘り下げられたようだ)東京湾要塞千代ヶ崎砲台2

  • 東京湾要塞 千代ヶ崎砲台1

    千代ケ崎砲台は東京湾要塞を構成した砲台のひとつで江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に1892年から1895年にかけて陸軍により建設されました。東京湾要塞の中での任務は観音崎の砲台群の側防と浦賀湾前面海域の防御で、対岸の富津元洲砲台とともに援助砲台に位置づけられました。千代ヶ崎砲台は、28センチ榴弾砲と呼ばれる大口径の大砲が備えられた榴弾砲砲台と小口径の加農砲などが備えられた近接防御砲台で構成されていました。柵門土塁塁道貯水所棲息掩蔽部砲側弾薬庫高塁道(奥の通路)砲座東京湾要塞千代ヶ崎砲台1

  • 小串鉱山 索道B

    小串鉱山索道Aはここ大正5年に大日本硫黄㈱が設立され、翌年には東洋硫黄㈱に経営委譲され昭和4年に三井物産㈱が東洋硫黄㈱から小串鉱山を買収し事業は北海道硫黄㈱に委譲された。繁栄を極めた山深い町は、昭和12年、地滑りによる災害に見舞われ245人の尊い命が奪われました。戦後硫黄の需要が激減。高度経済成長期に、燃料が石油へと移行し硫黄は精製の課程で得られるようになり硫黄鉱山の役目は終わり1971年に閉山、42年間の歴史に幕を閉じました。昭和48年に北海道硫黄㈱は解散しました。小串鉱山索道B

  • アメリカ軍相模総合補給廠の廃線2

    1938年に陸軍造兵廠東京工廠相模兵器製造所(後の相模陸軍造兵廠)が建設され1942年まで8つの陸軍施設が建設され、相模原は軍都と呼ばれました。終戦により、陸軍施設の多くが米軍に接収され相模陸軍造兵廠は「相模総合補給廠」になりました。今回は前回の続きで直線部分の線路で日本に返還された部分に残る廃線。未返還部分の線路は撤去済みです。昭和32年の空中写真黄色のー(線)の先に線路があります。昭和32年の空中写真の黄色のー(線)上の方から順に撮影。横から。アメリカ軍相模総合補給廠の廃線2

  • アメリカ軍相模総合補給廠の廃線

    1938年に陸軍造兵廠東京工廠相模兵器製造所(後の相模陸軍造兵廠)が建設され1942年まで8つの陸軍施設が建設され、相模原は軍都と呼ばれました。終戦により、陸軍施設の多くが米軍に接収され相模陸軍造兵廠は「相模総合補給廠」になりました。写真の線路は相模陸軍造兵廠用の引込線のように思われますが昭和17年陸軍撮影の空中写真には線路が写っておらず昭和36年米国撮影の空中写真には線路が写っているので接収後に、用地拡張等々で新たに敷設したものかと思われます。アメリカ軍相模総合補給廠の廃線

  • 東京砲兵工廠 基礎用レンガ

    明治4年に建設された東京砲兵工廠の基礎レンガ。昭和12年後楽園球場建設の際、基礎のあまるの強固さにグランド部分は取り除くのを見合わせた。平成12年竣工の東京ドームホテル建設を進めるにあたり地下5メートルの深さから出てきた。東京砲兵工廠基礎用レンガ

  • 東京砲兵工廠試射場2

    東京砲兵工廠試射場1はこここのトンネルは初の国産軍用小銃の増産体制のために建設されたと考えられ主に軍用小銃や機関銃の試射用(訓練・弾道実験等)の場所として使用されていた。再訪東京砲兵工廠試射場2

  • 陸軍兵器行政本部第一陸軍技術研究所富津試験場 イテ塔

    陸軍兵器行政本部第一陸軍技術研究所富津試験場前回記事はここ陸軍兵器行政本部第一陸軍技術研究所富津試験場イテ塔

  • 東京第二陸軍造兵廠(火薬製造所 その他の遺構

    当地は、明治4年に兵部省が板橋金沢県邸(旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸)の一部を火薬製造の用地に求め、同9年に発足した官営工場としては日本最古の部類に属する板橋火薬製造所内にあたる。同36年には同所に陸軍火薬研究所も設置された。終戦後、跡地には学校や工場、研究所等が入所した。当地には、板橋火薬製造所時代の煉瓦造建築物の物理試験室やRC造建築物の燃焼実験室弾薬の性能を実射し検査した弾道管、露天式発射場を形成した土塁や的となった射垜(しゃだ)などの建築物や遺構が現存しています。防爆壁?燃焼実験室(奥2階建)試験室(手前平屋)東京第二陸軍造兵廠(火薬製造所その他の遺構

  • 東京第二陸軍造兵廠 弾道検査官B

    東京第二陸軍造兵廠弾道検査官Aはここ板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠)内におかれた火薬研究所があり弾薬の性能実験などが行われていました。長さ十数メートル、内径686mmのコンクリート製で、これは技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定観測する装置であり、戦前の同廠構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向かって撃ち込まれていた事が分かります。弾道検査管(爆速測定管)の標的東京第二陸軍造兵廠弾道検査官B

  • 東京陸軍第二造兵廠 電気軌道C(板橋火薬製造所

    東京陸軍第二造兵廠電気軌道B(板橋火薬製造所はここ写真に見える、道路のように見えているのが板橋火薬製造所を通る電気軌道跡です。軌道は北区十条の銃砲製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割をはたしていました。明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園、野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付)を結ぶために軌道が延伸していきます。以降も軌道網の整備は進められ大正12年の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。東京陸軍第二造兵廠電気軌道C(板橋火薬製造所

  • 2020年 元旦

    2020年元旦

  • 桜島海軍基地(第五特攻戦隊 司令部)

    昭和20年4月から7月にかけて、佐世保鎮守府部隊の第4海上護衛隊を改編して第5特攻戦隊を編成しました。この基地は、第5特攻戦隊の司令部です。第5特攻戦隊には、蚊龍・海瘤24隻、回天46隻、震洋725隻在籍していました。魚雷などの武器・弾薬なども貯蔵してあったようで山全体が施設ではないかと思われるくらい奥が深いそうで、壕の高さ・幅は共に2~3メートル程で、手掘りによって作られたトンネンが網の目状に張り巡らされています。壕の中を隙間から④魚雷調整室の辺りを撮影。同様に壕内を隙間から②動力室の辺りを撮影。③、④の間の壕口ですがブロックで塞がれている。桜島海軍基地(第五特攻戦隊司令部)

  • 碓氷線 第五橋梁

    碓氷線第六橋梁はここ横川と軽井沢を結ぶアプト式鉄道が開通したのは1893年でした。すでに上野~高崎間は1884年に開通し、1886年から1888年には直江津~軽井沢間が開通していたので、これにより東京と信越を結ぶ鉄道が完成しました。碓氷峠越えの鉄道は、群馬や長野の蚕糸業に大きな影響を与えただけでなく近代日本の工業化の推進にも重要な役割を果たしました。この碓氷線に残された橋梁の1つがこの第5橋梁です。アーチ径間11メートル、高さ8.8メートル、頂部長さ15.8メートル補強のため橋台をコンクリートで固めアーチをひとまわり小さくしています。碓氷線第五橋梁

  • 碓氷線 第六橋梁

    碓氷線熊ノ平駅2はここ横川と軽井沢を結ぶアプト式鉄道が開通したのは1893年でした。すでに上野~高崎間は1884年に開通し、1886年から1888年には直江津~軽井沢間が開通していたので、これにより東京と信越を結ぶ鉄道が完成しました。碓氷峠越えの鉄道は、群馬や長野の蚕糸業に大きな影響を与えただけでなく近代日本の工業化の推進にも重要な役割を果たしました。この碓氷線に残された橋梁の1つがこの第6橋梁です。アーチ径間11メートル、高さ17.4メートル、頂部長さ51.9メートル、隅角部を切石で補強し高い橋台と片蓋柱と長い側壁を持っています。長さやレンガの使用量では第3橋梁に次ぐ規模のものです。碓氷線第六橋梁

  • 海底電線陸揚室3

    海底電線陸揚室2はこここの建物は明治30年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた所である。明治28年の日清戦争終結後、日本は領有するところとなった台湾との間に軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、明治29年、まず鹿児島と沖縄本島との間に、次いで明治30年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷いた。これによって、本土-沖縄本島-石垣島-台湾の通信施設が完成したのである。開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のちに逓信省に移管され、一般公衆用通信にも共用された。太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となったので、無数の弾痕が残る。今回は向かって右側の室内の写真です。海底電線陸揚室3

  • 海底電線陸揚室2

    海底電線陸揚室1はこここの建物は明治30年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた所である。明治28年の日清戦争終結後、日本は領有するところとなった台湾との間に軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、明治29年、まず鹿児島と沖縄本島との間に、次いで明治30年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷いた。これによって、本土-沖縄本島-石垣島-台湾の通信施設が完成したのである。開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のちに逓信省に移管され、一般公衆用通信にも共用された。太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となったので、無数の弾痕が残る。今回は向かって左側の室内の写真です。入口から室内を見る同、室内上面室内中央より左方を見る...海底電線陸揚室2

  • 鹿島海軍航空隊F

    鹿島海軍航空隊Eはここ基地施設図との位置関係が微妙ですが、地上演習場に関する建物の基礎かと思われます・・・鹿島海軍航空隊F

  • 鹿島鉄道線 鉾田駅

    石岡南台駅1ここ2007年撮影石岡南台駅2ここ2007年撮影玉里駅ここ2007年撮影榎本・桃浦駅ここ2007年撮影1面1線駅ここ2007年撮影鹿島鉄道はJR石岡駅から鉾田駅を結んだ全長27キロの鉄道でした。1921年10月行方鉄道株式会社設立1922年9月称号を鹿島参宮鉄道に変更1924年6月石岡-常陸小川間営業開始1926年8月常陸小川-浜間を延伸1928年2月浜-玉造町間を延伸1929年5月鉾田までの全線開通1965年常総筑波鉄道を合併、関東鉄道鉾田線となる1979年4月自動車輸送の発展による経営悪化の為関東鉄道から分離、鹿島鉄道となる葉タバコなどの農作物、航空自衛隊百里基地のジェット燃料輸送や通学客の利用があったが営業収入の基幹であるジェット燃料輸送が2002年3月で廃止となり営業収支が更に悪化した。親会...鹿島鉄道線鉾田駅

  • くりはら田園鉄道

    くりはら田園鉄道は2010年の廃業までの約90年間、細倉鉱山からの鉱石や金成耕土で収穫されたお米を運び、栗原の東西の移動手段として、多くの人々に利用されていました。くりはら田園鉄道

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