おれは、恥ずかしさで穴があったら入りたい心境だった。早苗の初めての相手として、早漏で終わってしまい、早苗に恥をかかせることになったからだ。早漏も早漏、体を重ねただけで、ほとばしらせてしまったのだから…あの時の早苗の、おれを憐れむような顔が脳裏に焼き付いて
ゴールデンウィークの初日「憲法記念日」に、おれはとうとう、インキンタムシの痒みが最高潮に達していた。風呂で石鹸で洗ったのが良くなかったらしい。「牛乳石鹸」の「赤箱」で洗ったのだ。ものの本によれば「石鹸」はアルカリ性であり白癬菌を元気づけてしまうというのだ
造幣局の通り抜けにはまだ早いが、大阪城公園の桜は盛りを過ぎようとしていた。それでも満開には違いなく、人出もそうとうなものだった。「滋賀は今が盛りかな」「海津大崎はそろそろ見ごろやと思うわ」海津大崎とはびわ湖の北端の桜の名所だそうだ。「そこの桜をバックに写
日曜の朝、目覚めてすぐ、寝床でしばらくじっとしていた。珍しく「朝立ち」していたのだ。いささか尿意もあり、それが手伝って「勃起」しているのかもしれない。こういうときは、さっさと小便に行くことだ。四月とはいえ、まだ肌寒かった。首を曲げて見た目覚まし時計は、7時
おれが小学校を卒業するまではこの家にもオトンの会社の社員が二人、下宿していた。今でいえば「社宅」というものだ。オカンがまかないをして、朝と晩をおれら家族と一緒に食べていた。その人たちも、家庭を持って独立してしまい、がらんとした空き部屋ばかりになった。中学
桜も散り始め、代わって若葉がグイグイと目立ち始めたころ、第五十回センバツ高校野球は浜松商業の初優勝で幕を閉じた。そしてキャンディーズが解散した。「行きたかったなぁ、後楽園」おれにとって、今は甲子園よりも後楽園だった。おれは、少年野球を二年ほど経験したので
おれの家は、オトンが材木商をやっている。代々の家業なのだ。新建材も時代の流れから取り扱うようになり、この家の倉庫以外に、平野区のほうにも支店と称して倉庫を持っている。おれが一人っ子なので、家業を継がなければ絶えてしまうのだ。しかし、その気になれないおれが
春一番が 掃除したてのサッシの窓にほこりのうずをおどらせてます机 本箱 運び出された荷物のあとは畳の色がそこだけ若いわ(キャンディーズ『微笑がえし』阿木耀子 作詞)キャンディーズのラストシングルを買った友人に頼んでカセットテープにダビングしてもらったもの
部屋を片付けておかないとな…従妹の早苗(さなえ)が大阪の大学に受かったとかで滋賀県のド田舎から、うちに下宿するってんで出てくるのだった。ここは旧家だから広いのだけれど、二階の部屋の日当たりのいい部屋をおれが占領していたので、オカンが「早苗ちゃんに明け渡せ
三式戦闘機「飛燕」は私の知る限り、失敗作だと思っている。それは川崎航空機の主任技師土井武夫さんや副主任の大和田信さんのせいではない。ひとえに、日本の航空機生産能力の低さにあった。陸軍の試作機番号でキー60とキ-61がのちの「飛燕」となるわけだが、正確には「キ-
これは「かっちゃん」の英訳です。長くなったので、二回に分けました。When I was promoted to a 6th grader from a 5th grader, both my teacher in charge and my classmate were just promoted togather.Japanese called it "mochiagari".In short, we were enjoying scho
バー「アングラ・ベース」は、たばこの煙でかすんでいた。長官(マスター)はグラスを磨いている手を止めて、後ろのキャビネットにおさまった銀色のCDプレーヤーを操作する。ほどなく「X-JAPAN」の『Tears』の静かな前奏が店の底から湧いてきた。「やあ、ノベンバー、表の
勃起力がペニスの「廃用萎縮」を防ぐのだと、吾妻厚生病院泌尿器科の石橋銑十郎医師がおっしゃる。「陰茎ちゅうもんは、さながら風船みたいなもんでな、中から圧力をくわえたらなんぼでも膨らむんや」「はあ」還暦は超えておられるだろうが、年齢不詳のお医者だ。私は冷めた
MMK(モテてモテてこまる)の則子(のりこ)さんとお酒を飲む機会があった。そしてやっぱり、アノことに話題がいってしまう。「やっぱり、迫られるのよね」「サークルでも?」彼女は市の生涯教育プランのひとつ「川柳教室」に通っているそうだ。そこでは四十七歳の則子さんは
おれが石本師の仕事場に帰ってきたのは夕刻の六時前だった。師は常照寺の阿弥陀如来坐像に没頭している様子で、声をかけるのも憚られた。「ただいま帰りました」「おう。遅かったな」「すみません」しゅっしゅっと鑿の走る音だけが、やけに大きく響いた。「飯の支度をします
是枝秀子は四十三歳になったばかりだそうだ。三十二で入り婿を迎えたが、その八年後に夫は情婦の褥(しとね)で腹上死を遂げる。秀子が二度も流産したのは、子宮筋腫のせいだったのだが、是枝家の当主が婿の「種無し」が原因だと陰口をたたいていたのが、夫を祇園の情婦に走
石本師の下で働くようになって一月以上が経った。親には落ち着き先が決まったことも知らせ、「こちらは順調だ」と書いて安心させた。電話は里心がつくと師がいい、ここの電話番号を親に教えてはならないことになっている。師に寝床を襲われるということはなかった。あの日か
おれは言われるまま、師の前にしゃがみ、そのそそり立った肉をほおばった。太い…こめかみがきしむ。大人はみんなこんなものを持っているのだろうか?「もっと舌をつかって、そうそう。ええね、ずぼずぼってやってくれや」「ぐ…」正直、苦しかった。鉄骨のように固いちんぽ
石本師の部屋に入って、目を引いたのは鴨居(かもい)にずらりと掛けならべられた天狗の面だった。木地のまま漆を施したものや、朱の漆を施したものなど十数面がこちらを睨んでいる。じっと鑑賞していると、その伸びた鼻がリアルな男根の形に作ってあった。「なんじゃ?こり
京仏師というのは仏師の中でも格別の扱いであるらしい。おれは留萌(るもい)で一刀彫の熊を彫っていた父親に倣って、木彫りのまねごとをしていたが、昭和四十四年に高校の修学旅行で京都に来て、京仏師の仕事を見て「これだ」と思った。おれは卒業を待って、無謀にも単身、
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