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  • 私に関わるな

     目次いつの事だったろうか、寒い日だった。担任に入江氏からはちょくちょく電話がかかってきていたのだがこの日は一度学校に来て話をしようという内容の会話をした。皆が帰った後で良い、制服も着なくて良いから、という事だった。私はそれから何日か後に言われた通り、私

  • 開かない部屋

    目次私は不登校、父は無職で競馬、母はパートという不幸のフルコンボ状態。絵に描いたような不幸せ一家であった。私はキチガイ事件、会社の倒産以降、父を避けるようになっていた。(いわゆる反抗期とは違う性質のものだったと思っている)ただ、私が母の留守中、両親の部屋

  • 似たようなおじさん

    目次 父は会社倒産後、家にいる時間が増えた。まあ当然だ。土日は必ず競馬に勤しんでいたので、私は腹を立て何故父は仕事を探さないのか、と母に聞いたところ、父は今この先何をすべきか考えているのよ、だそうだ(ふーん)。私はコンビニでバイトでも、駅の清掃でもなんで

  • 不幸中の幸い

    目次相変わらず取り立ての電話は続いていたが(ヴィ)ある日を境にぱったりと電話が鳴らなくなった。(さよならヴィヴァルディ)料金滞納で電話が止められたのだ(静かーーーー)酒癖クソ野郎のクソジジイが重度の喘息持ちでネブライザーを使用するため、電機は料金未納でも

  • 再確認

    目次フリースクールにも行かなくなった頃だったろうか。父の会社の経営状態が悪化し、疎遠になっていた葛飾の親戚、明子ちゃんから電話があった。母が何やら長電話していたが、しばらくすると「明子ちゃんが蕾に代わってってだって」と母が受話器を渡してきた。正直出たくな

  • 大人の階段

    目次もやもやしながら帰宅し、何故だろう、この日あった事、所長に言われた事を母に話した。もう行きたくないと。すると母はフリースクールに怒って電話してくれた。「不登校児を受け入れるという施設でそれはないんじゃないんですか?」私は母に対して思う所はたくさんある

  • たどり着いたら

    目次ある日の事だ、私はその日フリースクールでなみちゃんと一緒に音楽を聴き(ポータブルCDプレーヤー!)お手製の歌詞カードを作っていたのだ(夢中ですな)なみちゃんはモーニング娘。(流行ってたね!)私は氷室さん(そうね)熱を上げている対象が違うだけで2人とも同

  • 社会の隅っこの私

     目次いつの日からか、私はフリースクールと言うのに通いはじめた。きっかけは何だったろうか、全然思い出せない。フリースクールとは主として、不登校の子供の受け皿としての学習の場、とでも言えばいいのだろうか。理由はよくわからないけど、やはり中学校に行っていなか

  • 特殊清掃

    目次父がアルバイトを頼みたいと言ってきた。日給5千円で父の工場の掃除を頼みたいと。(嫌な予感しかしねーぞ)いよいよ終わりかな。まあでも断るのもあれなんでバイトする事にした(金もらえるし)内容はよく思い出せない。魂が抜けたような、一時の活気が嘘のような父の工

  • ロックンロール

    目次そんなこんなで夜うまく眠ることができなくなっていた時、テレビから流れてきた音楽がある。氷室京介氏のSLEEPLESS NIGHT 眠れない夜のために眠れない夜が続いているそんなあなたに1曲どうぞ、と言わんばかりに天から降り注いできたような音楽。これをきっかけに30歳を

  • 四季

    目次私は今はもういい年だし、仕事もしている、幸いにして心身の健康を維持できているし、寄る年波にも勝てないし、あまり夜更かしばかりしていられないのだけど、若い頃は夜が大好きだった。朝が嫌いだった。1日の始まりが嫌いだった。そして電話が嫌いだった。1日中取り立

  • 眠れない夜のために

    目次眠れない日が続いていた。学校も行かない。町をブラブラするか、家に閉じこもるか。そりゃあ気分よく眠れるはずもない。家に借金の取り立てが来るようになった。ドラマみたいにストライプのスーツ着てたりしないよ。元々我が家は土建屋で、その筋の人たちとはどこかしら

  • 言葉

    目次 学校に行かなくなってどれくらい経った頃だろう。母とどういう関係を築いていたのか忘れてしまったが、その日は普段あまり話す事のない父に呼ばれた。「お前なんで学校行かないんだ?」かなりブチ切れているテンションだ。私は何も答えなかった。自分でもなんで学校に

  • スタンドバイミー症候群

    目次 色々と思うようにならない事が続いていたが、その頃の私に追い打ちをかけるような出来事があった。泣きっ面に蜂。母がパートに出るという。今の時代、働いている母親なんて珍しくもないし、私の頃にも母親が働いている子もいるにはいたが、私にとって、私が生まれた時

  • 父の限界

    目次体育の授業を拒否し始めた頃、私はもう1つの問題を抱えていた。父の工場の事だ。ユリ工業の社長の自殺、ザイム社長一家の夜逃げから数年、父の会社もいよいよヤバくなってきたみたいだった。そもそもバブル期、能力もない連中すら稼げてしまう時代だったから、勘違い経

  • 孤独のイエローマジック

    目次いつだったろう井手氏の事が人としてもう本当にきつくなってきていた頃、保健体育の時間、今日は息抜き、たまには教室で映画でも観ましょう、となって皆喜んでいたのもつかの間、井手氏が「弓谷さんの態度が悪いからやっぱり映画はやめ、校庭5周」となった事があった(は

  • ようこそ私のネットライフ

    目次中一のクリスマスだったと思う。私は両親に頼み込んで人生初、そして我が家初のパソコンを買ってもらった。まだパソコンを所有していない家庭がほとんどだったが、持っている人もいる。くらいの時代だ。私は中学校でPCの授業が開始された、ちょうどその頃、中学生だった

  • あたり前田の不公平

    目次 私は中2の時に、呼吸が苦しくなる事が度々あって、病院に行くと喘息と診断された。14歳になる年だったので小児喘息ではないらしい。ひどい時には病院で点滴をしてから遅れて学校に行った事もあったし、ゼーゼーが出てない日も体育で持久走なんぞやらされた日にゃあ本当

  • 死ぬまで泳ぎ続ける

    目次 中一。夏になった。嫌な事は山ほどあったが、なんとか学校へは行っていた。天敵、井手氏の体育では水泳の授業が始まった。実は私は運動は全く苦手だけれども泳ぎだけは例外、得意だった。一時、泳ぎを仕事にしていた事もある。30歳を越えた今でも、たまーに、フラっと

  • 死んでもボールで遊ばない

    目次中一の私。部活動に色々と違和感を覚えていた事に加え、この頃さらに強敵と出会う事となってしまった。体育教師の井出秋江。人生で何番目とかはわからないけど、私の中の悪い人、敵、こういう大人になっちゃいけないと思う人。クソ(結局)井手氏は現代では減ってきたの

  • 奇天烈

     目次人生の七不思議について思い返していたら、もう一つ思い出した事がある。小学生の頃の事。高学年になってからの事だと思うのだけど、私はその日クラスで誰だったか女の子とお喋りしていた。するとやはり同クラスの波田という男子がわざと何かを投げてきたんだかぶつか

  • 人生の七不思議

    目次 私は中一の時、英語の塾に通っていた。その塾と学校のクラスでも同じクラスだった、山下、という男子がいた。いたのだが私はほぼ、と言うかおそらく全く接する機会がなく、たぶん一度も会話をした事はなかった。だが、何故か、それなのに山下氏は私の事が嫌いなようだ

  • 戦いたくない病気2

    目次いよいよ戦ってばかりの集団に所属している事がきつくなり、私は部活を辞めた(生まれてきてゴメンナサイ)どうせ辞めるなら夏休み前に辞めておくんだった。夏休みほとんどつぶされたから。クラリネットを持っていた私は他のクラリネットパートの1年生より少しだけクラリ

  • 目次2

    目次1へ51 戦いたくない病気 

  • 戦いたくない病気

     目次音楽部は音楽と歌、どちらもやらなくてはならなかったけど、歌う事は好きだったので合唱は比較的楽しんでやっていた。知らない国の何言ってるか解らん合唱曲なんかも今でも覚えている(歌詞の意味知らんけど)初めて濃海中学音楽部としてコンクールに出た時の事。出演

  • 私の中の部活の話

    目次私は姉が中学生の時、音楽部でクラリネットを吹いていたため、自宅にクラリネットがあったし、吹いたこともあった。ただそれだけの理由で音楽部に入ってしまった。なんであの時もっと自分の気持ちに素直に帰宅部を選ばなかったんだろう。部活に入るのが普通だったとして

  • カタストロフィーの序曲

    目次まあ、そんなこんなで私は小学校を卒業した。中学校に入学した日の事は何故だか全く覚えていない。全く。黒田市立濃海中学校。ただ、ここが地獄の始まりであった事は間違いない(確信)一般に、3年間って何日?と尋ねられて答えを即答できるだろうか?私はできる。暗算が

  • 小学校を卒業した日の事

    目次「あの日の事を!」「決して!!」「忘れません!(1人)」「忘れません!!!(全員)」とか、一人や皆で絶叫する謎の儀式を乗り越え。出席した保護者に「ありがとうございました」と言いながら手製の造花を手渡す、というサブストーリーもクリアした。ちなみに私の担当絶叫

  • 流転

    目次 問題は、小学校を卒業する事そのものにあった。信じてもらえないかもしれないけど、私は小学生の頃、自分は小学校は卒業しないと思っていた。ただ何となくじゃなくて、きちんと考えたうえで6年なんていう永遠にも匹敵するような月日が自分に流れるわけがない、と確信し

  • ウイルス

     目次私は小学校の6年間で何度か高熱を出して長く学校を休む事があった。そのうちの1回はまだ低学年の頃、扁桃炎をコジラセタ時なのだが、強く記憶に残っているのは6年生の修学旅行後の事だ。大嫌いな修学旅行、しかも3泊。小学校生活最後の修学旅行、私達は当時出来たての

  • 血潮

    目次ある日小学校から帰宅すると、酒乱の祖父が自慢げにカラスを見せてきた。カラスは怪我をしているのか飛べないようで、どういう風の吹き回しか、祖父が道で発見したものを連れ帰ってきたようだった。祖父はパンを牛乳に浸したものをカラスに与えていた。私は動物が好きな

  • 懺悔

    目次 小学校高学年の頃の事だった。父親がゴルフ場で仔犬を拾ってきた。すぐにおしっこを漏らすのでチッチという名前を付け、わが家で育てる事になった。しかし我が家にはすでに桜がおり、チッチは大きくなるタイプの犬、という事で外で育てる事になったのだが、今でもそれ

  • こんにちは。さようなら。の続き

    目次へ その後いつだったか放課後の教室にかなピーとゆかいなうんこ達がいた。私は廊下に居て、教室に忘れ物を取りに行きたかったのだが、教室に入るのが少し怖くて(ボコられそっ)理由は告げずに当時担任だった丹波氏に忘れ物を取ってきてくれないか、と頼んだ事があった

  • こんにちは。さようなら。

    目次 私は無視がとても嫌いだ。誰かに対して、死ぬほど腹を立てていても無視だけは絶対にしないしできない。それだけはやっちゃいけないと思ってる。小学生の頃、かなピーに意地悪をされていたのに従っていたのは、従わないと無視をされるというのがあったから(ありがちや

  • ロゼッタ

    目次いつからだったろう。幼稚園児の時、私がお遊戯会で代役を務める事となった土井晴美ちゃん。その晴美ちゃんがクラスでいじめられるようになった。私もかなピーとその取り巻きにはかなり嫌な思いをさせられたが、さらに辛い思いをしていたであろう晴美ちゃんを、私は助け

  • 子供心と女心と男心

    目次 そんなように、しょっちゅう旅行している家族だったが、父が飛行機に乗れないために、常に移動は父が運転する車。たまーに新幹線。なので回数はあれど距離的には一番遠くて岩手県程度しか行ったことがない。どこへ行った時だったろうか、山にロープウェイを使って登っ

  • 子供心と親心

    目次 我が家は本当によく旅行に行く家庭だった。長期休暇でなくとも、父が競馬で勝った等の理由でただの土日に突然旅に出たりもした。私は親にどこかに連れて行って、とお願いした事は一度もない。いつも連れて行かされていたし、私は旅が嫌いだ。家が良いんだ。それでも姉

  • R指定

    目次とても仲良くしていた親戚一家に明子ちゃん一家があった。お盆や正月だけでなく、なんでもない日にも両親と姉、そして私で明子ちゃん家に遊びに行った。明子ちゃんは私の母方の祖母の妹だ。言葉にするとずいぶんと遠い親戚に感じるが、私達にはとても良くしてくれた。泊

  • 世の中が理不尽だという事に気が付くのは早い方が良いの続き2

    目次 人間は、といったら全人類に失礼だけど、少なくとも私は、頑張っているのは同じなのに結果に優劣ができたり、誰のせいでもないのに住んでいる場所によって、やりたくもない競技に参加しなければならなかったりする事に対して、もしも逆の立場、いろいろな事に恵まれて

  • 世の中が理不尽だという事に気が付くのは早い方が良いの続き

    目次 私の通っていた富士見台北小学校の運動会では、地区対抗リレーなるものがあって、競技や演技の中でも二番目に大きなもり上がりを見せるものだった。クラスは関係なく自分が暮らしている地区で分けられ各学年ごと、男女合わせて2人がリレーに参加するといううんこシステ

  • 世の中が理不尽だという事に気が付くのは早い方が良い

    目次 私は世の中が理不尽だという事を知っている。大人になったからではない。私はこの世の中が不平等で理不尽であるという事に気が付いたのは小学校1年生。当然さらに以前から理不尽には見舞われてきたのだとは思うが、私が記憶している思い出の中では小学校1年生時のイン

  • この世に私は1人

    目次それ以降、私は外泊自体が大嫌いになった。自分の家の、自分の布団以上の場所なんてあるわけない。小学校5年生の年は、修学旅行で福島に行った。日数も2泊3日に増えて最悪な気分だ。また朝まで眠れずにぶっ飛ばされるかも。1泊目にキャンプファイヤーをした事。夜空の

  • 来た時よりも美しく

    目次 小学4年生の事。3年生まで毎年校外学習と銘打って日帰りでどこかへ遊びに行く学校行事があったと思うのだが、4年生からはそれが修学旅行、という名前になり、泊りがけで飯盒炊飯やらなんやらのサブストーリーをクリアさせられ、たった1泊ではあるが私としては親がいな

  • 私に先生はいない

    目次私に先生はいない。当然恩師なんて私にとっては想像上の生物のようなものだ。理由はわからない、どうもいわゆる『先生』とはそりが合った試しがない。幼稚園の時こそそこまで先生に対して何か大きな不満を抱えていた覚えはないが、小、中とどうしてこうも先生という生き

  • 超後日談

    目次 それから20年くらい経って、私が30歳を超えた頃、やはり母の誕生日の頃だったろうか、12月に実家に遊びに行った。父が買ってきたというシュトレンを母が出してくれた。そいつをバクバク食べながら、かのシュトレンセルフ神隠し事件の話を母にしてみた。すると母は全く

  • 12月の雨の日

    目次毎年クリスマスが近づくと思い出す事がある。小学校5,6年の時だった。母の誕生日に近所のケーキ屋で買ったシュトレンをプレゼントしたことがあった。母は12月生まれだ。今でこそクリスマス前になるとシュトレン、シュトレン、うるせーよ!ってくらいどこにでも売ってい

  • カニ

    目次何年生の事だったか。夕飯にカニを出そうと、生きたカニを殺そうとした母が、カニ爪ではさまれた事があった。何か別のはさむ物があればカニは母の指を放すのではないかと思い、私は台ふきんを手に持ちカニの方に差し出そうとするも、怖くて怖くて中々カニ爪に接近できな

  • みんなの自己愛

    目次父は子供の頃の私から見ても、本当にまあ自分の事をよく可愛がる人だな、と感じられる人間だったが、それに比べると母は私が年を重ねるにつれ、ああ、あの時のアレは母の自己愛だったのだなと、じわじわと理解できてくるような、そんな自己愛の持ち主だと思う。その根底

  • 葬式の詩

    目次これが最後のお別れです。どうぞお近くでお別れのございさつを。どうぞ、皆様前の方へ。道連れに棺桶に敷き詰められる花。出棺のクラクション。火葬炉の閉まる音。お経。泣き声。焼き上がりを待ちながら食事をする苦行。骨を拾う時の温度。うるせー、死体のそばなんかよ

  • 諸行無常

    目次その後結局父と母はいつの間にか口をきくようになっていた。だが、ああ良かった。これで大丈夫。お父さんとお母さんは離婚しないし、母ももう辛くないんだね!と思った記憶はない。その頃だったと思う、父の会社と取引のあったユリ工業の社長が首を吊って死んだ。父が母

  • 目次母は大人のいざこざについて、どこの家もこんなもんでしょ。というタイプの人間だったから、学校で「お父さんとお母さんが喧嘩しているところ見たことな-い」などという友達の話を聞くのが辛かった。無論、その子の発言が真実であったかどうかは知る由もないが、それで

  • 犬も食わない思い出をどうぞ

    目次一度あれはいつだったか。小学生の高学年になっていたかなかったか。詳しい事はわからないが、自宅の玄関に営業マンのような男の人がやって来て、契約書のようなものに記入する、しない、で父と母がもめた事があった。その時私と母は居間にいて、そこへ書類を持った父が

  • 男と女

    目次私の父と母は特に仲が悪い方でもなかったと思うが、揉める時は私や姉の前でも平気で夫婦喧嘩を開始する本能的な人物である。子供の頃の私には結構堪えるものがあった。父は腹を立てると口を利かなくなるタイプの人間なのでそれがとても辛かった。母はどんな気持ちだった

  • 人の気持ち

    目次私は小学校そのものを楽しめるタイプの人間ではなかったし、特定の人物に嫌がらせをされていたが(かなピー!)友達がいないわけではなかった。やはり付き合いの長いつくし兄弟の連中とは学校外でもよく遊んでいたように思う。私は千葉県で暮らしていたので、有名なテー

  • 変なおばさん

    目次私には叔母が2人いた。母には兄弟がいないのでどちらも父方だ。父の兄はとんでもない人間で、私も数回しか会ったことがないのだが酒を飲んでも飲んでなくても暴れるタイプの人間で、祖父の血をわかりやすく受け継いでいる、やたらと声のデカい男だった。その嫁が私にとっ

  • 風船が弾ける音

    私が4年生くらいの頃だったろうか、ザイムの松平さんが夜逃げをした。松平さん一家は、事務所の前でダンという白くて多きな犬を飼っていたのだが、ダンがどうなったのかとても気になった。松平さんはダンを残して逃げるような人間ではないが、極度の貧困は人を変える場合があ

  • 風船が膨らむ音

    父の会社では基本的に電話は母が自宅で受け、父はとてもうるさい工場で作業しているので、母が内線で「〇〇工業の△△さんからお電話です」と発すると、その声が工場内のスピーカーから爆音で再生されるシステムが搭載されていた。自宅にいても聞こえてくるので面白かった。

  • 普通じゃない

    父の工場は自宅から徒歩3分と言った感じで、父は毎日朝ご飯を食べては歩いて出勤し、昼には昼ご飯を食べに帰ってくるのだから、母は大変だったろうなと実家を出た今思う。父が自営業である事で、日本人の大好物『普通』からはすでにずいぶんとかけ離れた生活をしていたように

  • 父の仕事

    私が物心ついた頃には父は自宅の敷地内で鉄工場を営んでいた。広さはどれくらいだったろう、子供の私にはとても広く感じたが確かにそれなりの広さがあったと思う。工場の天井から鉄材を吊るして移動させるための巨大なクレーンが垂れ下がっており、そのクレーンを操作するた

  • 姉との事

    私は今でも少し、姉に対して嫌悪感を抱いている。子供の頃、姉との思い出で一番最初に浮かんでくるのがウーロン茶窒息事件だ。やはり、小学校3,4年の頃だったと思う。夜、テレビの着いた居間でくつろいでいると姉が私に命令口調で言った。「ウーロン茶取って」いや待てよ。

  • 総ちゃん盛りやがったな

    つくし兄弟の一員総ちゃんの事で一つ、人生の七不思議に該当する出来事がある。3,4年の頃だと思う。体育だったのか、外での授業が終わり皆水を飲んだり、自由に過ごしていた時だった。総ちゃんがこちらにやって来て言った。「つーちゃん、私今日お菓子持ってきたの!見つか

  • 祖父と動物の事の続き

    小学生の頃、私は同じ小学校に通ういとことよく遊んだ。今では誰かが死なないと会うことはないが、当時はしょっちゅういとこが遊びにやってきた。その日も我が家の庭で1歳年上のいとこ、ようちゃんとおままごとをしていた。庭に遊びに来ていた三毛猫にまるで犬にするように紐

  • 祖父と動物の事

    私は物心ついた頃からずっと、母、父、姉、祖父、祖母、私の6人で暮らしていた。ちびまる子ちゃんの家と同じ家族構成なのだが、テレビで見るそれとは天と地程の差があった。祖父は酒を飲んで暴れるタイプの人間だった。数年前に漸く死んだ。幼い頃、大次郎という犬を庭で飼っ

  • つくし兄弟

    そういうふうにして私の小学校生活は始まった。自分の中でどのようにして折り合いをつけ、6年間を過ごしたのかはわからない。行きたくない場所にあれだけ毎日通ったのは後にも先にもあの6年間だけだ。きっと強くなったり弱くなったりを繰り返して何とかやり過ごしてきたのだ

  • 笹の花

    来る日も来る日も我慢大会に参加しに行くような気持ちで小学校へ通っていた頃、入学して初めての家庭訪問の日がやってきた。私はその日、同じクラスで家も近かった掛川まさと君の家に遊びに行っていた。掛川君の家のチャイムが鳴り、担任の半沢氏が掛川君のお母さんに迎え入

  • 悲しみのかなピー

    小学校に入学した。黒田市立牟北小学校(くろだしりつむほくしょうがっこう)。入学式の日、私はとてもワクワクしていた。何故だろう、全く謎の希望に満ち溢れていた。担任の教師は半沢紀子という女性。可もなく不可もなくといった感じの人だった気がする。半沢氏は、入学式

  • さよならバス

    卒園したらバスともお別れ。藤井さんともお別れだ。藤井さんは幼稚園バスの運転手さん。優しいおじさん。私は小学生になってから一度だけ藤井さんの運転するバスとすれ違ったことがあった。なんだかやっぱり学校が辛かったので、帰り道トボトボ一人で下を向いて歩いていた。

  • 基本このポジション

    幼稚園の運動会。年長だったかしら。2チームがそれぞれ色違いの風船を足に括り付ける。2チームが混ざって走り回り、相手チームの風船を割りまくる、という珍ゲームをやらされた事があった。(妙な事させんな)当然風船をたくさん割ったチームの勝ちなのだが。私は人の風船

  • この小さい脳みそで

    その日は早帰りだか休みの日だった。我が家は父が自宅敷地内で工場を営んでいたため、平日も昼には昼食を食べに父が帰ってくるし、別室には祖父と祖母もいるし、とにかく母と子供だけで昼ご飯を食べる事はそんなによくある事ではなかったのだが、その日は姉まで友達の家にで

  • アラレリベンジ事件

     私が4歳?5歳?定かではないが、いつかのお遊戯会の思い出がよみがえる。その日の休み時間、私は誰と遊ぶでもなく教室の入り口に腰掛け、外を眺めていた。先生が右から2人、こちらへ向かって歩いてくるのが解った。先生のうち、どちらか一人が私の顔を見るなりもう一人

  • 三股たかし

    私が登園を拒否していた事とは恐らく関係のない事だと思うのだけど、私は 三股たかし という男児にちょくちょく意地悪されていた。三股は所謂クソガキだった。汗を私の制服で拭いてきたり、体育館で劇を見るとき私のせいでよく見えないと、劇の間ずっと背中を蹴られたりし

  • 空っぽの手紙

    確か年中の時だったと思う、私は登園を拒否していた時期がある。うちの親はそういうのを受け入れてくれるタイプの人間ではなかったので、最終的には再び園に通い始めるわけだが、園を休んでいる間、同じ組のみんなが先生に無理矢理書かされ、わが家へと届けられた「待ってる

  • リアルサプライズプレゼント

    幼稚園での生活をやんややんやと思い起こしていると、絶対に避けては通れない思い出にぶち当たる。それがリアルサプライズプレゼント事件だ。その日は突然やってきた、いつもと変わらない朝のはずだった。朝ご飯を食べ、制服に着替え、母に見送られ、幼稚園バスに乗り込んだ

  • 素質は充分にあった

     私が持ってる一番古い記憶の頃だと思う、幼稚園に通い始めたのは。 市内の濃海(こかい)という駅のそばにある小さな幼稚園。つくし幼稚園だ。 記憶の前後はあると思うが、幼稚園の思い出はたくさん残っている。人間の性質なのだろうか、それとも実際にそうだったのだろう

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