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らーめん歴史館 https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma

いつか消えてしまうのではないか。いや実際、今日もあなたの行きつけの 中華店・ラーメン店が消えていっています。ノスタルジックラーメンや 辨麺など、希少な品を守りたいと思っています。

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2019/12/29

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  • ノスタルジックラーメンⅠ 東京都23区内 戦前の創業店

    東京23区内老舗ラーメン【戦前創業店】2017.12初稿UP。その時点での現存店。2019年12月加筆・修正。2020年1月大幅加筆・修正。以後、随時修正中です。 ※=管理人実食済、リンク先はラーメンデータベース 店舗名後ろの★印=辨麺(汁あり)提供店。「辨麺」についてはコチラをご覧ください。 ※店舗創業年は、末尾記載の書籍・雑誌等から情報を得、店舗公式サイトやWEBマガジン等インターネットでの情報等で裏付けなどをして記載したものです。間違いがある場合もありますので、情報等を最下段コメントにてお寄せいただければ幸いです。(以上、「Ⅱ」以降同じです)(春日・ゑちごやの外観、チャーシューメン)1876明治10※ゑちごや春日・菊坂下*中華類提供は昭和25年ごろから。1887明治20※とらや柴又帝釈天*ラーメンの...ノスタルジックラーメンⅠ東京都23区内戦前の創業店

  • 辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅳ

    ■親子三代萬来軒水元店この小さな、密かな人気店の萬メン・・・2022年、神無月。汗疹と格闘した夏はすっかり記憶の中に仕舞われた。もはや厚手のブルゾンが愛おしい季節が近づいているのか。そのブルゾンを車の後部座席から取り出し、羽織る。そして、思う。「この店、こんな住宅街での営業は厳しかろう」と。おそらくは100人が100人、そう感じるに違いない立地だ。最寄り駅、はというとJR常磐線、京成金町線の金町駅、か。2kmほどの距離だから歩くと、そう、20分では少々足りないだろうな。ビールを飲みたいから車で来たくはなかったが、この立地では仕方なし。体調に支障がなければ2kmなぞ散歩の距離にも全く足りない。しかしまあ、「がん」になって4年近く、還暦も過ぎた。相応の自分に背を向けて、反転攻勢するのも嫌じゃない。しかし、今の...辨麺~謎の愛すべき拉麺遺産Ⅳ

  • 拉麺歴史発掘館 INDEX

    明治期に大陸から伝わった「ラーメン」。支那そば、中華そばとも呼ばれ、いまでは日本食を代表する「食」となり、海外あちこちに日本ブランドのラーメン店が進出するまでになった。この拉麺歴史発掘館では、創業50年超のラーメン店リストを紹介しつつ、ラーメンの埋もれた歴史や、ご当地ラーメン誕生の別解釈等々、史実と資料・史料を基にしながら、筆者(ボク)の独自視点などを取り入れた物語などをお伝えしている。暇つぶしにご利用を!【INDEX】2022年12月NEW!!辨麺~謎の愛すべき拉麺遺産横濱、東京、千葉、そして長野へ。謎に満ちたラーメン界のシーラカンス「辨麺」の真実に迫る!!【2022年12月5日全7ページ一挙公開Ⅰへ】【2020年12月8日大正初期の「辦麺」は「冷やしそば」であった!衝撃の事実・・・取り合えずⅡへ。詳し...拉麺歴史発掘館INDEX

  • 辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅴ

    (実にウマそうである。横浜市内伊勢佐木町近くにあったコトブキ亭のバンメン。此処も廃業してしまった。2016年12月)■バンメン、長野に渡るこれから長野に伝わったバンメンを、便宜上「長野系」と呼ぶが、長野の松本や上田へ「バンメン」は、どういう経路をたどって伝わったのだろうか?なによりそれは果たしてそれは分かるのだろうか?多分、こういうルートとではないか、いうのは案外、簡単に分かった。ただそれは、偶然が偶然を呼んだ、という以外にない。ちょっと脇道にそれるが、面白い話なのでお付き合いいただきたい。その前に。後で詳述するのだが、長野の松本と上田に伝わった経緯は、おそらく横浜が起点であり、その時期はまったく同じか、ほぼ同じころと考えている。ただ、それは確証があるわけではないし、有力な手掛かりというのがあるわけでもな...辨麺~謎の愛すべき拉麺遺産Ⅴ

  • 辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅶ (Last)

    ■長く、どうでもいいような、あとがきこの原稿も随分と長くなってしまった。ボクが編集で使用しているのは当然ながらMicrosoft社のWord。このアプリは、編集中の文書の文字数を欄外下部に表示してくれる。およそ53,000字になっているので400字詰め原稿用紙なら130枚超、である。ただ、原稿用紙換算なら、純粋な文字数ではなく、余白も入れて数えるし、脚注や資料等、本文の文字数にはカウントされていないものも結構あるので、まあ倍近くの200~220枚程度にはなりそうである。一般的な小説なら中編小説にはちょっと足りない、という程度だろうか。本文の中で引用した、池波正太郎の『むかしの味』について、もう少し詳しく触れておく。この書では、ボクも何度か出かけて一度は辨麺もいただいている店、横浜中華街所在の清風楼について...辨麺~謎の愛すべき拉麺遺産Ⅶ(Last)

  • 辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅵ

    ■nakoさん、のこと佳境に入る前に、傍証になることを書いておく。話を引っ張りすぎているのは承知だが、もう少しお付き合い願いたい。nakoさん、のブログのことだ。「いたのーじ」さんからの情報提供があったのがきっかけで、自分で調べたことも含めて書くと、要はこういうことである。2018年4月にUPされたこんなブログ(記事)がある。すでに連絡が取れ、転載の許可も頂戴しているから一部抜粋する。ブログの管理者はnakoさんと仰る女性である。紹介するブログは横浜・野毛の辨麺提供店である「萬福」でnakoさんが食べたときのことで、同店主人から聞き取った話、である。『先代は會星楼(注21)から独立。中華丼・五目焼きそばとあたまは一緒!五目焼きそばには錦糸卵をのせている。會星楼で修業されていた方が長野に行かれた。長野にバン...辨麺~謎の愛すべき拉麺遺産Ⅵ

  • 辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅲ

    □萬来軒人形町大勝軒系とは別に、都内と千葉に存在する「萬来軒(ばんらいけん)」という店舗群の一部に“バンメン“を提供している、あるいは提供していたという事実がある。結論を書いてしまうと、この萬来軒系の「バンメン」は、横浜系すなわち辨麺の大元となる系統とはまったく異なる成立過程を持っている可能性があることが確かめられた。横浜の老舗店でなどで提供されている「辨麺」とはまったく別物の可能性があるということである。此処ではとりあえず便宜的に「萬来軒系」と呼ぶ。しかし、である。まったく別物の可能性はあるのだけれど、辨麺という料理はまったく謎が多く、辨麺≒五目うま煮そば・五目餡かけそば、という関係は、やっぱり萬来軒系のバンメンにも当てはまるのだ。結果として「成り立ちは異なるかも知れないが、内容はほぼ同じ」ということに...辨麺~謎の愛すべき拉麺遺産Ⅲ

  • 辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅱ

    ■辨麺の発祥は中国で間違いないか この辨麺、日本で生まれたのでは、という説もあるのだが、そうではなく、やはり中国で誕生し、横浜に伝わったことは間違いないところであろう。定着する前に、あるいは時間の経過とともに、例えばスープ(汁)の量を多少増やすなど、日本人の好みに変えられたということであれば、そういうことはあったであろうが。 中国所在の店で“辨麺(「辧・辦・辨・办・弁」を同一文字とみなす)”の存在が確認できたもののみ紹介しておく。 香港所在の『陸羽茶室』という店。ネット上の大手某グルメサイトのメニュー写真を確認すると、次のような品があることが分かる。◇鮮菇生魚辦麵◇鮮菇蝦仁辦麵(筆注・鮮菇=フレッシュなキノコ、マッシュルーム) この品、Webサイト「80C(ハオチー)」(注6)によれば、『料理の写真を見る...辨麺~謎の愛すべき拉麺遺産Ⅱ

  • 辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅰ

    *本稿は、事実を踏まえて筆者の想像を膨らまして執筆したものです。可能性の一つとしてこんなことがあったのかも、という程度にお考えいただき、お読みいただければ幸いです、特に-----★-----(↓)(↑)に囲まれた文章は、事実を基にしてはおりますが、筆者が推測・想像して創作した箇所であることをお断りしておきます。また、本稿をお読みいただく前に私のラーメンデータベース(RDB)のレヴューを先にお読みいただきますと、少しだけ面白みが増すかと存じます。*本稿中、「現在」とあるのは2022年11月下旬現在です。*本稿中の写真は筆者が原則撮影したものです。*本稿中、「バンメン」の表記については、該当する店の表記などにできるだけ合わせてありますが、一般的な表記は「汁あり=辨麺」「汁なし=拌麺」にしてあります。*本稿中、...辨麺~謎の愛すべき拉麺遺産Ⅰ

  • ノスタルジックラーメンⅡ 東京都23区内 昭和20年(1945)~昭和34年(1959)の創業店

    東京23区内老舗ラーメン昭和20年(1945)~昭和34年(1959)の創業店 2017.12初稿UP。その時点での現存店。2019年12月加筆・修正。2020年1月大幅加筆・修正。以後、随時修正中です。※=管理人実食済、リンク先はラーメンデータベース店舗名後ろの★印=辨麺(汁あり)提供店。「辨麺」についてはコチラをご覧ください。※店舗創業年は、末尾記載の書籍・雑誌等から情報を得、店舗公式サイトやWEBマガジン等インターネットでの情報等で裏付けなどをして記載したものです。間違いがある場合もありますので、情報等を最下段コメントにてお寄せいただければ幸いです。【1945昭和20】※花家日暮里*創業は戦前で生花店との記載がある。※あづま家日暮里※栄屋ミルクホール淡路町*2021年10月8日、一旦閉店。移転予定あ...ノスタルジックラーメンⅡ東京都23区内昭和20年(1945)~昭和34年(1959)の創業店

  • ノスタルジックラーメンⅣ 東京都市町村・横浜市内・千葉 1975(昭和49)年以前創業店

    ノスタルジックラーメンⅣ東京都市町村・横浜(一部千葉) 老舗ラーメン1975年以前創業2017.12初稿UP。その時点での現存店。2019年12月加筆・修正。2020年1月大幅加筆・修正。以後、随時修正中です。2020年10月、千葉県内店を調査開始、随時掲載中。※=管理人実食済、リンク先はラーメンデータベース店舗名後ろの★印=辨麺(汁あり)提供店。「辨麺」についてはコチラをご覧ください。※店舗創業年は、末尾記載の書籍・雑誌等から情報を得、店舗公式サイトやWEBマガジン等インターネットでの情報等で裏付けなどをして記載したものです。間違いがある場合もありますので、情報等を最下段コメントにてお寄せいただければ幸いです。1868明治元田中家京成中山(法華経寺参道)*ラーメンの提供開始時期は相当後からと思われる。(...ノスタルジックラーメンⅣ東京都市町村・横浜市内・千葉1975(昭和49)年以前創業店

  • 【検証篇】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い ~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

    本編で触れたように、きしもと食堂をはじめとする沖縄そばのスープに欠かせない素材は「豚」と「かつお節」である。この二つの素材は、琉球料理の「味わい」を演出するのに欠かせない出汁素材であることも書いたとおりである。それではなぜ、この二つの素材が沖縄そばと、その基礎となっている琉球料理に欠かせないのか?本編でも少し紹介した近代食文化研究会(以下「研究会」)から寄せられた情報も含め、本編内容を敢えて『検証』してみたい。□豚□本編でも引用した沖縄県の公式サイトの中、『沖縄の伝統的な食文化の保存・普及・継承について』で、琉球料理は「本土のように食肉禁忌の影響が少なく、肉食文化が発達しており、特に豚肉食習が根強い」と指摘している。確かに沖縄(琉球)料理には豚肉が登場することが多い。なぜ、沖縄では本土よりも早くから豚肉を...【検証篇】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

  • 【後編】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い ~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

    ※文中、「現在」とあるのは2022(令和4)年8月時点。※写真は原則、著者による撮影。(きしもと食堂の「そば(小)」。2022年7月)□その作り方も、やはり独特な沖縄そば□あくまでボクの個人的な思いであると断って書く。沖縄そばという麺料理は、一風変わっているように思える。理由は単純で、食べ慣れていないというのが最も大きいのではあるが、沖縄そばは日本蕎麦や饂飩とも違うし、もちろんボクたちが一般的にラーメンと呼んでいる食べ物の範疇には入らないと、食べるたびに(もっとも殆ど食べないのだが)感じるからだ。その理由は、太い麺の食感は、ラーメン専門店のつけ麺などの太麺とは明らかに違う。饂飩のよう、と感じる人も多い。スープは脂分はほとんど感じることなく、まるで関西系の饂飩つゆのようである。近年の沖縄そばの麺は、中華麺同...【後編】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

  • 【前篇】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い ~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

    ※文中、「現在」とあるのは2022(令和4)年8月時点。※写真は原則、著者による撮影で、撮影年月を表示した。(沖縄・本部にある「きしもと食堂」。2022年7月)□元首相が撃たれたその日。沖縄・本部。□強烈な日差しは、狂暴、という表現こそが相応しい。視線を泳がせば、ゆらゆらと陽炎があちらこちらで揺れている。頭上から降り注ぐような蝉の鳴き声は、そうさね、こういうことを蝉時雨と言う。・・・そう、此処は沖縄、本部。創業は明治38年という「きしもと食堂」の真ん前。10数人の待ち客だ。まあ、これは想定内である。けれど、この陽射しの強烈さはどうよ。耐え難い。並び始めて30分ほど、店の脇の細い路を通ってください、と、ようやっと若いスタッフに言われ、奥の座敷にボク一人だけ招き入れられた。3帖ほどの空間には変色しかかった畳、...【前篇】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

  • 支那そばは この国からいつ消え、いつ戻って来たのかな? 甲府の拉麺屋にて

    のっけから失礼する。以下、答えよ。冷やし中華発祥の店はどこか?生碼麺(サンマーメン)を最初に出した店はどこか?ラーメンに「半熟玉子(味玉)」を最初に乗せた店はどこか?「冷麺」を最初に提供した店はどこの都道府県にあるか?戦後、最初に「餃子」を売り出したのはどこの店か?さあ、この5問を正確に答えられる人はいるだろうか?「私は全問正解に自信がある」などと宣う方は申し訳ない、ボクは貴方のことをまったく信用しない。と書けば少し過激か。まあ少なくとも、ボクは上記5問の答えを知らない。いや、知ってはいるが、それが正解かどうかは確信がない。なぜならボクは、その答えと思しきものが複数あると知っていて、そのどれかが正解だという根拠を持ち合わせていないから。なぜこんなことを書き出したのか?それは2021年暮れ、山梨の増冨温泉郷...支那そばはこの国からいつ消え、いつ戻って来たのかな?甲府の拉麺屋にて

  • 生駒軒発祥の店は生駒軒「梶原店」だった?

    【結論】「生駒軒(生駒菜館・とんかつ生駒等)」の中華料理店としての創業店は、1958(昭和33)年に開業した北区堀船にある「生駒軒梶原(店)」の可能性が高い。(生駒軒梶原店と味噌ラーメン)主に東京東部に存在する一大町中華のれん会「生駒軒」。最盛期に120店を数えたというこの“のれん会”の、中華料理店としての発祥店は、ネット上では長い間「人形町店」とされていた(ことが多い)。しかし、ボクの調査によればそれは誤りの可能性が高いのだ。推測の域は出ないものの、創業店とされるその店は北区堀船にある「生駒軒」(都電荒川線「梶原電停」近く。以下、梶原店という)である。しかし、1917(大正6)年に台東区松が谷で「児玉製麺」を興した初代児玉氏は、出身が長野県山ノ内町であり、町に隣接する長野県中野市にあった「生駒菜館」(以下、中...生駒軒発祥の店は生駒軒「梶原店」だった?

  • 【上】 旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

    -----改めて、近代食文化研究会様の調査力と深い洞察力に敬意を表します。また、同会と連絡を取り合うきっかけとなったブログを書いた、株式会社ラーメンデータバンク取締役会長で、ラーメン評論家の大崎裕史氏に深く御礼申し上げます-----☆と☆に囲まれた箇所は、事実を基にしたボクの創作である。『・・・ススキノの夜はふけるほどに、賑やかである。南五条西三丁目、ラーメン横丁の狭い通りには、ラーメン通たちでひしめいている。(中略)「どこで食べても同じようなものだから、オレはススキノじゃラーメンをたべないよ」。地元の食通はそんな風にもいう。地元の人にはちょっと飽きられたのだろうか。「ラーメンを食べたくなったら、旭川まで行っちゃうよ」と教えてくれる人がいた。「結構おいしいし、高速にのったらすぐだしさ」』(安藤百福・編「日本めん...【上】旭川<百年>ラーメン物語~それは小樽から始まった

  • 【追記】旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

    【上】旭川<百年>ラーメン物語~それは小樽から始まったの『日本蕎麦屋はいつからラーメンを出したのか』の項から続く※2021年9月2日追記本稿をWEB上にUPしたのち、本稿内容の確認をお願いした近代食文化研究会様より、日本蕎麦屋がラーメンを出した時期などについて、同会の著書「お好み焼きの物語」(*1)に記述があるとの指摘がございました。同書はボクも所持して拝読させていただいたおりましたが、当該部分の記憶が欠落していたようです。引用させていただきます。『中華料理の中でもこと支那そばに限っていえば、その普及にもっとも貢献した外食店は、蕎麦屋であったろう』『作家の平山蘆江(*2)の「東京おぼえ帳」(*3)において、大正時代に蕎麦屋に支那料理が広がっていったさまを次のように描写している』『>東村山の貯水池のほとりに一軒、...【追記】旭川<百年>ラーメン物語~それは小樽から始まった

  • 【下】 旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

    旭川芳蘭と「は満長本店」の位置図☆と☆に囲まれた箇所は、事実に基にしたボクの創作である。竹家食堂から百年の歳月が過ぎて・・・☆・・・今日は中国からの船が小樽の港に入った。だから客はそれなりに来た。しかし、中国から船が来る日以外は、文字通り店は閑古鳥が啼く日々。「もう限界ダロウカ?」。王文彩は先---八月のことだ---札幌から竹家の主人である大久昌治が来て、話したことをふと思い出していた。「竹家に戻る気になったらいつでも来たらいい。また一緒に暮らそうや」。昌治はそう言った。王は、相変わらず日本語はあまり話せないが、聞いて理解することは随分と上達したのだ。昌治ははっきりそう言ってくれた。不覚にも涙が目に浮かび、思わずかつての主人の手を握り返していた王文彩であった。・・・時は1920(大正9)年。ロシア革命後に起きた...【下】旭川<百年>ラーメン物語~それは小樽から始まった

  • 【中】 旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

    「八條は満長」発祥説は?なのだが「八條は満長」に話を戻す。まず、ラーメン博物館の公式サイト「旭川ラーメン」の項からを引用する。『戦前に、もうひとつの情報として、八条にある「はま長」という蕎麦店で昭和10年からラーメンをメニューに入れていたという「はま長」創業者千葉力衛氏(故人)の話も残っている。もり・かけそばが10銭の時代にラーメンは20~25銭で売っていた。千葉氏は小樽から来た職人にその作り方を教わったという。「はま長」は今も立派な蕎麦店として八条で営業しており・・・』(原文ママ)。この記述、例によってこのサイトの記述はメンテナンスがされていない、検証されていない、出典などが記載されていない等、引用するにはまったく相応しくないが、これを読んだ方が出かけてしまないように書いておく。冒頭脚注でも書いたのだが、この...【中】旭川<百年>ラーメン物語~それは小樽から始まった

  • 【3】明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~

    ※「來々軒」の表記文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。3.淺草來々軒のスープは「ブタ臭くて脂っこい?」さて、ここからが本題である。創業当時の淺草來々軒のスープとは、一体どんな味だったのだろう?少なくともボクが新横浜の...【3】明治の味を紡ぐ店~謎めく淺草來々軒の物語最終章~

  • 【6】 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~

    ※「來々軒」の表記文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。5.明治の味を紡ぐ店今まで書いてきたように、淺草來々軒のスープは、大正7・8年ごろ一度大幅な“改良”をされていたのではなかろうか。そうでも考えない限り、今まで書い...【6】明治の味を紡ぐ店~謎めく淺草來々軒の物語最終章~

  • 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 5

    【Ⅳ-2東京大空襲における東京東部の被害】ここで人形町大勝軒四代目の話を補強しておこう。それには、1945(昭和20)年3月10日と、その前後の、いわゆる東京大空襲に触れなければならない。そして以下の事実があったから、終戦直後の大混乱期には今なら想像もできないことが起きたとしてもまったく不思議ではないと思えるのだ。それどころか、トクちゃんらーめんの公式サイトでいう“不法占拠”とか、日本橋人形町四代目が話す“乗っ取り”とかいう言葉はむしろ適当ではないほどに、それらが常態化して起きていたであろうことを、容易に想像させるのである。その前に尾崎一郎氏の一家について。先に紹介した『トーキョーノスタルジックラーメン』の中で、千葉の進来軒の宮葉店主にインタビューで、宮葉氏はこう話しておいでだ。「三代目の尾崎一郎さんの家が戦争...明治の味を紡ぐ店~謎めく淺草來々軒の物語最終章~5

  • 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 4

    6.淺草來々軒を巡る六つの現役店正統な後継店はあるのか?いよいよ最終章である。2021年6月現在、ボクが調べた限りであるが、淺草來々軒と直接・間接にかかわりがあって、今なお‘現役’(営業中)の店は六つある。個別に見ていく前に、どうしてもこの店に触れておきたい。それは岐阜県高山市にある「まさごそば」である。この店は先に触れた伝承料理研究家の奥村彪生氏から、スープは『そばだしそのもの』である、『このそばだし系のスープは東京の支那そばがルーツなのです』と書かれた店である。【0  まさごそば】☆・・・ほう、便利になったもんだ。高山本線が全線開通してから僅か二か月後に快速列車が走るんだものな。岐阜まで行って、そこからは東海道線で東京でも岡山でも、いやいや山陽本線の下関までも行けるんだから。俺は今日、これから、ここ富山から...明治の味を紡ぐ店~謎めく淺草來々軒の物語最終章~4

  • 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 2

    2.日本初のラーメン専門店=淺草來々軒とは誰が言い出したのか?100%の自信があるわけではないが、もうこれは書かなくてもお分かりではないか。新横浜のラーメン博物館(以下「ラー博」)が、淺草來々軒の創業当時の‘味’を再現して提供を開始し、それを食べに行ったことは先のブログ[14]で書いた。ラーメン評論家の大崎裕史氏はこれに関連して、先に記したツイッター及びRDB(WEBサイト『ラーメンデータベース』)[ii]でこう記している。“『日本初のラーメン店」説が覆った日。これまで1910年にオープンした浅草の「來々軒」が「日本初のラーメン店」とされてきた。しかし、先日の新横浜ラーメン博物館の発表ではそうではなく、「日本初のラーメンブームを作ったお店」という紹介だった。いろいろな資料や文献を調べ直した結果、そうなったと』。...明治の味を紡ぐ店~謎めく淺草來々軒の物語最終章~2

  • でぶまる

    でぶまる?飛騨高山での写真です。でぶまる

  • 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~

    ※「來々軒」の表記文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。・・・『太平洋戦争で、大阪の街は焦土と化した。食べるものがなく、スイトンや雑炊が食べられればいい方だった。芋のツルまで口にして飢えをしのいだ。阪急電鉄梅田駅の裏手、当時の鉄道省大阪鉄道局の東側は焼け野原で、そこに闇市が立った。冬の夜、偶然そこを通りかかると、二、三十メート...明治の味を紡ぐ店~謎めく淺草來々軒の物語最終章~

  • 其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの ~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン

    【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの】~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン~第一部其の壱誰も知らない。誰も分からない。作った人は無論いる。食べたことのある人も大勢いる。しかし、もうだれも、この世にはいない。だから。自由には作れる。けれど縛りがキツイ。だからプレッシャーは半端ない。そんなチャレンジにはただ敬服するのみ、である。けれど。このスープは、おそらく、まったくベツモノ。大正初期の淺草來々軒の支那そばとは。-----‐2020年霜月11月のある日のこと、ボクは新横浜のラーメン博物館に向かった。この10月、戦前まで淺草新畑町にあった「來々軒」の復刻プロジェクトで開店した「新横浜ラーメン博物館・淺草來々軒」での支那そばを食べるためである。久しぶりに見上げた新横浜の空はとても高く、清々しい。勤務先の事業所があっ...其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン

  • 淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【3】

    【昭和初期までの來々軒】明治43年に誕生したとされる來々軒だが、大正昭和初期の時代には、どんな店だったのだろうか。それまでの中華料理店と違い、大衆向けの、ラーメン専門あるいはラーメンに重きを置いたラーメン店だったのだろうか。 來々軒二代目・尾崎新一氏の人物像に触れている本がある。「淺草経済学」である。ここで引用するには別の意図もあるのだが。『殊に(注・尾崎貫一氏の子)尾崎新一君が太つ腹で宣傳と言ふことには。金銭を度外視して、徹底的に断行したものである。だから震災直後と雖(いえど)も、昔賣りこんだ看板を益々光輝あらしめ、人氣の焦點となつてゐたものだつた。新一君は早稲田の商科出身で、頭腦もよし、商賣にひどく熱心でもあつかたから、将來愈々(いよいよ)發展の可能性を持つていたものだが、しかし、昭和の御代に這入ると間もな...淺草來々軒偉大なる『町中華』【3】

  • 淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【2】

    【昭和初期までの支那料理事情東京以外】この項は來々軒とは直接関係がない。しかし、「日本で初めてラーメンを出したのは來々軒」「全国のラーメンに影響をもたらした來々軒」なのか否かを明らかにするために記述する。開港場、もしくは条約港という言葉がある。1858(安政5)年『日米修好通商条約を初めとする安政五カ国条約により、貿易を前提とした』もので、『開港場として、箱館・神奈川(横浜)・新潟・兵庫(神戸)・長崎の5港が決められ、「開港五港」と呼ばれた(Wikipedia)。また、外国人居留地が設定された地域でもある。こうした地区では中国や欧米の様々な文化がいち早く伝わる。横浜・神戸(南京町)・長崎新地のそれぞれの「中華街」を見れば中華料理もまた、これらの地域から伝わっていくことになったことが分かる。日本で最初に中華料理店...淺草來々軒偉大なる『町中華』【2】

  • 淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【4】

    【中国の麺料理と日本の食文化の融合とは】ラー博の公式サイト「ラーメンの歴史(年表)」で來々軒のことを『中国の麺料理と日本の食文化の融合してできた』という表現がある。具体的に何を指しているのか、正直、私にはよく分からないのだ。「融合」とは一体、どういう行為を指すのか?それまでのラーメンは塩味であり、來々軒は醤油味、ということなのだろうか?ことはそう単純ではあるまい。「ラーメンの歴史学」では、『近代日本の食と味は明治末期から大正初期にかけて中国料理を取り込むことによって作り出されていった。その頂点にあるのが、今日ラーメンとして知られている食べ物である』、とした。『そこで重要な役割を果たしたのは、こってりとした食品を好む都市部の新たな労働者階級だった。一九二〇年代に起きた中国料理のブームの一因は、都市で暮らす賃金労働...淺草來々軒偉大なる『町中華』【4】

  • 淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【1】

    ※「來々軒「の表記文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐「わが国最初のラーメン(専門)店は、浅草六区、すし屋横丁にあった來々軒(以下「來々軒」という)で、創業は1910(明治43)年のことである」。そんな話を聞いたことがあろう。來々軒=日本初のラーメン(専門)店という話は最早定説となっているが、これは例えば、NHKの大河ドラマで放映中の「麒麟が来る」の主人公・明智光秀が「織田信長を本能寺で討っ...淺草來々軒偉大なる『町中華』【1】

  • ノスタルジックラーメン 東京都23区内 1960(昭和35)~1975(昭和39)創業店

    東京23区内老舗ラーメン(提供)店1960(昭和35)~1975(昭和39)創業店2017.12初稿UP。その時点での現存店。2019年12月加筆・修正。2020年1月大幅加筆・修正。以後、随時修正中です。※=管理人実食済、リンク先はラーメンデータベース店舗名後ろの★印=辨麺(汁あり)提供店。「辨麺」についてはコチラをご覧ください。※店舗創業年は、末尾記載の書籍・雑誌等から情報を得、店舗公式サイトやWEBマガジン等インターネットでの情報等で裏付けなどをして記載したものです。間違いがある場合もありますので、情報等を最下段コメントにてお寄せいただければ幸いです。1960昭和35※味芳斎大門    三ちゃん荻窪1961昭和36※おはる門前仲町 ※共楽銀座 東天紅上野本店上野不忍池 ※東池袋大勝軒東池袋 丸長豪徳寺店豪...ノスタルジックラーメン東京都23区内1960(昭和35)~1975(昭和39)創業店

  • メビウスの帯 ~一大町中華暖簾店「生駒軒」発祥の店とは?

    生駒軒。都内に住む、あるいは勤務する人の多くは、この屋号を知っているのではないか。2018年8月時点で、「生駒菜館」も含めのれん分け店は約30店舗存在するが、最盛期には百を超える店があったという。創業は大正6年のこと。長野出身の児玉彦治氏が台東区松が谷に「児玉製麺所」を開いたことが始まりという(「散歩の達人」2018年1月号特集『みんなの町中華』。交通新聞社/刊。以下「散」と記述)。その後、「生駒軒」という屋号で中華店を開いたとあるが、「何処で」ということが分からない。かつて「生駒軒発生のメカニズム」なるブログが存在し、そこには人形町の店(生駒軒。以下「人形町店」。リンクはラーメンデータベース、以下同じ)が「発祥店」とあったようで、WEB上の多くの記載が人形町の店が発祥とされている。そのブログは既に見ることがで...メビウスの帯~一大町中華暖簾店「生駒軒」発祥の店とは?

  • 辨麺(バンメン)とはこれだ!?

    横浜を中心とした老舗中華料理店に存在する謎メニュー「辨麺(バンメン)」。一挙紹介‼※リンク先は原則ラーメンデータベース。写真はすべて管理人撮影※2017年12月29日UP。2020年1月閉店情報などを追記辨麺ってなんだ?ベンメンではない。「バンメン」と読む。一言で言えば「うま煮そば」あるいは「野菜餡かけ麺」、「広東麺」。断っておくが、汁なし系(まぜそば)の「坢麺」とは全く別物である。広東麺などと呼べばいいのだが、なぜか「辨麺」というメニューで提供する店が横浜を中心とした老舗の店にある。というより、老舗の店にしかないのだ。以下、記述時点で提供している店(2017年12月29日。価格も)を紹介していこう。実は、辨麺提供店、横浜の山手・本牧地区に結構集中している。まずは奇珍楼。大正7年創業。実に平成29年現在で100...辨麺(バンメン)とはこれだ!?

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