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2019/11/23

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  • 12/16 なんで「何かがある」ということを不思議に思う人がこんな少ないねん

    人生虚しくない?私はただそれの共感が欲しいだけだ。「そうね、本当虚しいわ」と誰かが言ってくれれば途端にその虚しさは和らぐのに。 しかし現実には「どうしたの?何かあった?」と心配される一方である。その心配が私を一層虚しくさせる。何かがなければ、何か悲観的な出来事が起きなければ人生を虚しく思ってはいけないと言われているようである。 人生元から虚しい派の人に私は今まで出会ったことがない。正確に言えば本の向こう側以外では出会ったことがない。学校でも職場でも皆が将来を未来を見据えて、その計画を眩しいくらいの笑顔で語る。 「望んで生まれてきた訳じゃない、だから別に生きたくもない、人生どうでもいい」と言って…

  • 12/2 ロウガイ

    「老害」という言葉がこの世にはある。辞書様によると意味は 組織や社会で幅を利かせすぎて言動が疎まれる高齢者、あるいは、傍若無人な振る舞いによって若者に必要以上の負担や迷惑をかけている高齢者などを指す表現。ひらたく言えば迷惑な老人を侮蔑交じりに指す表現。 「老害(ろうがい)」の意味や使い方 Weblio辞書 だそうだ。 私は一般に「老害」と言われるような人が好きである。なぜなら彼らのあり方こそが人間の本質をそのまま体現しているように思うからだ。 見知らぬ若者に意味もなく説教したり、行列に割り込んだり、理不尽なクレームを企業に入れたり。こういう「他人なんか知るか、私は私の気持ちよさの為だけに生きて…

  • 11/29 ありのままとは何だろうか?

    相手のありのままを見られるというのは嬉しい事だ。それだけ相手が自分を信頼してさらけ出しているという証拠にほかならないからだ。 しかし、この「ありのまま」という概念はとても厄介であるということに最近気がついた。何が厄介かというと、ズバリそれは概念の無内容さである。つまり何を相手のありのままとするのか、どれが「本当の」その人なのか、そこには正解がないのである。 そこを決めるのは、ありのままの「内容」でもなければ、相手自身でもない。自分の偏見がそれを決めるのである。「相手がこの一面を見せてくれたら」という答えが多分自分の中に既にある。そして、それを相手が見事してくれたら、相手は自分に「ありのまま」を…

  • 11/26 凡人には逆向きの哲学(仮)しかできない

    哲学。ずっとこれに拘ってきたけれど、私の人生にはそれほど切実なものでは無い。最近そんな気がしてやまない。 これは私が現実を見据えられるようになったのか、単に自信をなくしているのか、或いはその両方であるのかはよく分からない、けれども哲学とわざわざ名前をつけて、それを「するんだ!」と思わないと考えることを始められないのだから、やはり哲学は私とは縁遠いものなのだろうと思う。 考えることと人生を完全に切り放せる私は、多分考える事で考えていない人々の優位に立ちたかっただけだ。くだらない虚栄心が哲学に行き着いてしまっただけの事なのだろう。 人生において本当に考えている人の関心事は多分「ただ知りたい」以外に…

  • 11/20 道徳は精神的通貨なのでは?

    道徳的行為はそれが道徳的に為されたと本人が意識する限りにおいて、その行為で自身が満足することはありえない。満足するならそれは道徳的ではありえず、満足しないというその事がそれが道徳的であるということを示す。 お年寄りに電車で席を譲るという行為は本人がその通りに意識しているのならば、自身は必ずその事によって不満足を被る。なぜならそこには得てして「譲るー譲られる」の構図があり、更に意識によって、それは「譲ってあげてる」に必然的に変化するからである。 だから「あげてる」ということの不満足はどこかで帳尻を合わせなければならない。例えばそのお年寄りに「ありがとう」と言われることによって、或いは連れなどに「…

  • 11/18 明日には死ねるかもしれないと期待しながら今日を生きる

    ぬわぁぁあ全くもって死にたい。別に何かあった訳ではないが死にたい。とにもかくにも死にたい。 なんでこう、死にたいと思うことに理由がなくちゃいけないのだろう。自殺した人がいれば「何がそんなに辛かったのだろう」。別に辛くないけど死にたくなったらダメなのか?そう言いたくなる。(誰に?) 生まれたことは自分の意志によらない、それなのにどうして誰も彼もが「生きていたい」のだ!?死はいつだって生からの逃走でしか有り得ないんか!? と、まぁぶちまけてみたがやはりそうなのだろうと思う。死を経験した事のない個体が死を望む理由は死の側から語ることは出来ない。 行ったことの無いレストランに行きたい理由は「美味しそう…

  • 11/17 本当に他者を思うにはどうするのがいいのだろう?

    「他者」それが最近の私の関心事であるようだ。なぜだかは分からないが、何かと気になっている。 他者が気になる時は往々にして二パターンに分かれると思っている。自分に自信が持てないために他者を気にしてしまうか、自信の持て余しで余計なお世話を焼きたいかである。 今の私がどちらなのかは、もっと慎重に考えたいので一旦置いとくとして、まずは二つのパターンについてもっと詳しく見ていきたい。 自信のなさからくるタイプが本当に気にしているのはたぶん他者ではなく、他者に「自分は」どう思われているのだろう?の方である。他者に嫌な思いをさせてはいないか、が彼らの主な関心事であり、つまりそれは「自分は他者に嫌な思いをさせ…

  • 11/11 哲学は暇がないとできないものだろうか?

    実生活が忙しいと、哲学をしている暇がなくなる。哲学をするにはまさに暇が必要なのだ、ということに以前の私は否定的だった。そんなことはない、考えることはいつだって出来る、できないというのは単に甘えているのだと思っていた。 でも最近、少しだけ考えが変わった。哲学に暇なんか必要ない、というのは以前と変わらないのだが、アウトプット、要するにきちんと言語化されている理解に昇華させるには、暇が必要なのだと思うようになったのである。 理解には二種類あると思っている。例えて言うなら、泳ぎ方は知っているが、泳げない理解の仕方と、泳げるが泳ぎ方は知らない理解の仕方である。 前者はメソッドはあるが結果が伴わない。後者…

  • 11/8 精神における底辺とは何か

    自分を底辺に置くことの安心感に私はどっぷり浸かっている。これ以上、さがることのない生活というのはそれだけで心を穏やかにする。 底辺という言葉が誤解を招きそうだが、私は決してフリーターや独身や低収入や六畳ユニットバスのワンルーム賃貸が底辺と言っているのではない。 底辺というのは精神的な話である。精神的な底辺というのは、絶対に論理的に叶わないようなことを思いたい精神のことである。だが、あくまで「思いたい」に停滞しているものに限る。 思いたいけど思えない、自分でそう線引きしておきながら、しかしそれを思えないなら自分の存在意義を見いだせない。そういう「無いもの」ねだりのような精神状態にあることを私は底…

  • 10/31 順当な病み期が来ました〜「いけなさ」の根源はどこか?という疑問を添えて〜

    私の中で今病み期が来ている。なぜか急に涙が溢れたり、一日中淀んだ気持ちであったり、とにかくスッキリしない。モヤモヤが永遠胸のあたりにつっかえている。 精神の成熟(怠惰?)につれて、私はもうそこに「なぜ」も「なんの為に」も求めることをやめている。ただそういうものとして、時間が経つのをひたすら待っているだけである。 病んでいる時はただ病んでいれば良いのだ。この思考ができ上がるまでに私は24年もの時間を要してしまった。今まではそれがずっと「許されない、いけないこと」のように思えていたのである。 思うに「許可」という概念の面白さがここにある。「してはいけない」の「いけなさ」はどこから出てくるのか?それ…

  • 10/28(2)「オシャレ〜」のゲシュタルト崩壊にご注意下さい

    今日は代官山に行く用事があったので周辺を色々散策した。辺りをしばらく歩いて私が抱いた感想は「オシャレ〜」、どのお店にも入る勇気を持てなかった。 今回は「オシャレ〜」という、私からは縁遠いものについて考察していきたい。 まず私が最初に疑問に思うのは「「オシャレ〜」とは誰がいつどのような基準で決めているのか?」ということであるが、この発想自体がとてもダサいということはなんとなくもう察している。 「オシャレ〜」とはそのようなものでは無いのだろう。誰が決めるのでもない。流れのようなものが既に出来上がっている。その流れに自然にのれることがつまりオシャレということなのだろう。 次に私が疑問に思うのは「「オ…

  • 10/28 「〜ねばならない」から解き放たれた時、私はまだ存在できるだろうか

    一つのスタンスを保つ苦しさを最近なんとなく感じている。一貫性がなきゃいけない、過去の自分の発言と今の行動が一致してないといけない。なんとなくそんな雰囲気を感じないだろうか。 それが責任という言葉を生んだのではないか、そんな適当な憶測を述べてみる。責任とはいついかなる場合もその人がする言動は全てその人の意志によるものだ、という前提があるからこそ成り立つ概念であるように思う。 だからこそ、その人には常にその人「である」ことの責任がまず求められる。常に「〇〇として」存在することを要求される。それが、社会的動物である人間になる為の最低条件であるのだろう。 しかし、やはり苦しい。この苦しさは偏に私が人間…

  • 10/22 私が私であるのは私が私であるからだ

    最近自分のことばかり書いているので、久しぶりに昔に戻って哲学的なことも書いてみたい。 今回は私が最近考えている仮説「その概念をその概念自体に適用することは出来ない」について考察していきたいと思う。 例えば「意志」 人はあらゆる行動を意志できるが、意志を意志するというのはキリがない話になってしまうだろう。そこには意志を意志する為の「最初の意志」が必要であるにも関わらず、その「最初の意志」を意志する存在もまた必要になってしまうのである。ことは、無限に遡れてしまうが、永遠に「最初」には辿り着けない事態に陥てってしまうのである。 もっと身近なもので言えば「健康」などもそうなのだと思う。たまに「健康すぎ…

  • 10/21 人生で一度は言ってみたいセリフ第13位「全責任は私が負う」

    私の文章を何回か読んでくれている方ならなんとなく思っていることであろう「とにかく読みにくい」。 何が言いたいのかうーん、実は私もよくわかっていない。これは一種の責任放棄であろう。私は自身が書いた文章の意味を引き受ける事ができていない。 言いたいことがはっきりしていないのに、それを世界中の誰もが見られるところに書くのは甘えている感じが否めない。もし、コメントなんかついた日には私は酷く怯えるかもしれない。 ブログを書く人にとって、反応を貰えることは多分普通にはすごく喜ばしいことなのだろうと想像する。自分の書く文章が、名前も知らない誰かの元に届いただけではない、その人から更にリアクションを貰えたり、…

  • 10/18 私は幸運なだけではない、幸運に値する人間なのだ(と思いたい)

    AirPodsproは部屋のベッドの上に寝っ転がってました!よかった!おめでとう私!!! 無事3万円の損失を免れた私はとても上機嫌である。トータルで見ると何もいいことは起きてはいないはずなのに、不思議である。 いや、不思議でもなんでもない。探し物が見つかるというのは普通に喜ばしいことである。だってそれは完全に運のおかげ、つまり私は幸運だったのだ、喜ぶべきことじゃないか。 喜ぶべきことにただ喜んでいればいいものを、何かと考えてしまうのがこの人間の悪いくせである。なぜ喜ばしいのか?という疑問が頭から消えてくれないので、今回はそれを考察していくことにしたい。 幸運なことは喜ばしく、不運なことは嘆くべ…

  • 10/15 あらゆる出来事への対処法は対処しないことである

    突然だが、私は今とても心がモヤモヤしている。なぜなら、3万円もしたAirPodsproがカバンにもポケットにも見当たらないからだ。 えーーーー無理ーーーーっていう心の声を沈めながら、今とても冷静なフリをしてブログを書いています。どうも。 なぜ今すぐ探しに行かないのかというと、私は先程カフェに入り、とても美味しそうなクレープを注文して、腰を下ろしたばかりだからである。 クレープは食べたい、でもAirPodsproも気になる。クレープだって500円はした。それを無駄にして、もしAirPodsproをただ家に忘れただけとかだったらそれこそ損ではないか。しかしこれでもし家になっかったら3万円の損失… …

  • 10/14 「分かる」は時に人をも殺す

    「分かる」という言葉を口にする時、そこにはどれほどの理解が含まれているのだろう。私的にはゼロだと思う。 一般に何かを理解した時、人は「分かった」という。なぜならそれは過去の話だからである。分かったと言う瞬間にはもう分かっているのである。 しかし、人の気持ちに理解を示そうとする時人は「分かった」とは言わずに「分かる」という。 なぜこの時は過去形ではなく現在形なのだろうか?私はこの時制の変化をどうしてもひねくれて考えてしまう。つまり何も分かってないのではないか、と。 「分かる」とは文字通り、分けることができる、つまりは分類することが出来るという意味である。新しく摂取した知識や情報や考え方を自分の頭…

  • 10/12 後悔できるということへの憧れ

    後悔とは常に選択肢があった者にしか許されない贅沢な人生のスパイスである。 選べたと思うからこそ人は後悔をする。後悔できるというその事がその人の自信や能力やはたまた人生の幅をものがたる。 「あれすれば良かった」と言えるのは、あれが実際に自分にできたのだと無根拠に思える人間だけである。 なぜそう思えるのか?とは問うてはならない。まさにこの問を所有しないからこそ、そう思えるのである。 しかし、そうは言っても人生で後悔しない人など恐らくいないだろう。贅沢なスパイスなどと言ったが、それが贅沢足り得るのはやはり、庶民の味と比べた時だけである。 庶民の味での後悔と贅沢としての後悔は端的に区別されるべきである…

  • 10/9 何かを探す旅に出る時、探し物は既に見つかっているということに人は気づかないふりをする

    アイデンティティは誰しもがあるものだ。何も無いという人もその何もなさをアイデンティティにしているという意味では、やはりあるのである。 人にあるものは必ずアイデンティティを所持している。だがこのアイデンティティは決して自覚できるものでは無い。自覚できないというその事がそれを自身のアイデンティティにさせているからである。 自分が何を自分と同一視しているのか知れるなら、それは同一視出来ていないということを示してしまうのである。 我々にできることはせいぜいその自覚できなさを自覚して、確証が絶対に得られない推論をただひたすらに立てるだけである。 このアイデンティティとは即ち自分の生きる意味である。現代の…

  • 10/8 何をしたいのか?より何をしているのか?

    思考を言葉にする運動を私はサボりすぎたように思う。5ヶ月もの間、もちろん普通の意味でのコミュニケーションはしてきたが、自分の頭の中でまさに考えていることを言語化する努力を少しもしてこなかった。 なぜなら伝える必要性がやはりないのだと気づいてしまったからである。誰かに自分の価値観を伝えるということの意味はようするに「分かって欲しい」であろう。つまりは「分かってもらわなければいけない」という強迫観念である。 一度なぜそんな必要がある?と真剣に問うてしまえば、その必要性はあっけなく雲散霧消する。じゃあ今、私はなぜ再び書出したのか?ということを前回からずっと考えているが、ついさっき、おおよその答えが出…

  • 10/7 文章が下手すぎるし自分が何を書きたいのかもすっかり見失ってしまってタイトルまでくそ長い記事

    おかしい。5ヶ月間溜め込んだ言葉を抱えて戻ってきたはずなのに、ブログに向かおうとするとちっとも書けない。なぜだろう。 アウトプットをサボりすぎたせいなのか?長年使われなかったが為にすっかり錆びてしまった排水溝のように、私のアウトプット器官もくたびれてしまったというのだろうか? 排出したい言葉は沢山あるのに、どう排出したらわからない、という状況なのだろうか?それとも私はこの5ヶ月ですっかり排出する気力すら失ってしまったのだろうか? 水浸しでいいじゃないか。排出されない事での不都合なんて自分がちょっとしんどいというそれだけの事ではないか。そう考えている自分の存在もあるような気がする。 しかし、では…

  • 10/4 焦りが消えたらいよいよ焦る(?)

    とにかく私は今も焦っている。何に焦っているかは分からない。分からないのに焦っている。焦っていることだけははっきり分かっている。 未来への焦りだろうか。仮説をたててみる。しかしそんなはずは無い。焦るほど私は将来に期待など抱いてはないのだから。では過去への焦りだろうか。いやそれも無いはずだ。焦る程に本気で生きたことなどやはりないのだから。 じゃあ今への焦りなのだろうか。今に対する焦りとは何を意味するのだろう。今に焦るとは即ち自分に焦る、ということなのであろう?そして、自分に焦るとは、自分をその人生から切り離すことなのではないか?つまり焦っている方こそ自分なのだ、という主張ではないだろうか? ひょっ…

  • 10/3 人生の焦りとともにただいま

    あー帰ってきた。ただいま。 長い間休んで溜まりに溜まった言葉たちを出すところが、やはり私にはここしかないのだった。 5ヶ月くらい休んで、端的に私の人生にやってきたのは焦りだった。何に焦っているのかさっぱり分からないが兎にも角にも焦る焦る焦る。 毎日が不安の膜に覆われている。これ以上どこかにこの焦りを吐き出さなければ、私という存在がゆらいでしまう。そういう思いでここに戻ってきた。 思えば書いていた時の私は信念があった。まっすぐ人生を信じられていた。生き方に疑いを持つことなどなかった。不安や怖さは、その時もあったけれど、それを手の上で転がせる程には余裕があった。 なぜだろう書かなくなってから、どん…

  • 5/2 ブログ休止します

    一週間くらい書くことから離れてみようと思い立って、もう一週間がたった。なぜそんなこと思い立ったのかは全然わからない。 でも離れてみて分かったことがある。それは私はもう書くということを少しも必要としていないことである。最初は思考の為に始めたものであった。思考の整理のため、思考で出たゴミを処理する為に書いていた。 そこから少しずつ変わっていった。誰かに読んでもらうために書くこともあった。そして自身の気持ちを吐露する場所としても利用した。 途中から完全に書くということに支配されていた。最初は文章が溢れてしまうから始めたのに、だんだんと文章を捻り出す為に考えるようになった。書かずにはいられないから、書…

  • 4/26 知らないと知る為には知らないと知るしかない

    普段からずっと、人生やら生死やらを考えているから、大抵の人よりは分からないと分かっていることが多いと自負している(錯覚である可能性も否めないが)。 分からないと分かるということは往々にしてその構造が分かるということだ。例えば死が何かは生きている間には絶対にわからないということ。だから、死に感情を抱くのはおかしいということ。 分からないものに何らかの意思表示をするのは、明らかに変である。食べたことが無いものを「美味しかった」と言っているようなものだ。せいぜい許されているのは「美味しそう」までである。それ以上は明らかな無根拠での決めつけだ。 もっと言えば自分にとって自分の死は「ない」のである。自分…

  • 4/25 世界に一つだけの花×77億

    「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」という歌詞はほぼ誰の耳にも聞き覚えるのあるものだろう。そう、あの有名な「世界に一つだけの花」のワンフレーズである。 「比べなくたって、競争しなくたって、あなたは元から特別なたった一人なんだよ」という暖かなメッセージなのだろう。 しかし、よくよく考えてみて欲しいのだ。この曲が大衆に向けられて書かれている時点でその主語は「皆」ということである。つまり「皆特別で皆オンリーワンだよ」なのだ。 さぁ、皆が「特別」で「オンリーワン」なら、もはや「特別」と「オンリーワン」にはどんな意味があるというのだろうか。 「特別」というのも、「オンリーワン」…

  • 4/24 洗脳状態が意味を生み出す

    あらゆる存在はそれに相対して存在するものに補填されて存在している。 私は他人によって、生は死によって、健康は病気によって、幸福は不幸によって、優は劣によって、善は悪によって存在する。 物事は相対して初めて認識され、言葉という記号を与えられ、そしてそこに意味が生じる。 だが何度も書いて来たが、「存在」に相対するはずの「無」は存在するとは言えないので、存在は実は存在するとは言えない、ということになる。 だから事態は振り出しに戻って、全ては「無意味」ということになる。いや無意味というのは意味が存在する前提の否定なので、正しくそれを表現するなら「意味ではない」ということになるだろうか。 そう、本当は全…

  • 4/23 分かり合えないと分かり合おうよ

    人間同士分かり合えるのなら、そも言葉など持たないのが道理である。言葉が生まれたという、そのことが即ち、人間は互いには分かり合えないことを示しているのである。 人には「主観」を共有をすることが不可能なのだ。これは科学や技術が発展すればいずれは成し得る、といったような話ではない。 主観の枕詞は必ず「自分の」であるのだから、他人が見られた時点でそれは主観では無くなるし、逆に他人のを覗いたとしても、覗けた時点でそれは自分の主観ということになる。 だからこれは定義的に絶対にありえない話なのである。 よって「自分」は絶対に他人には分かって貰えないのである。むしろ他人によって分かってしまったのなら、自分など…

  • 4/21 意味が欠落する日々

    他人と会話している時、ふと疑問に思うことがある。 「私は何と話しているのだ?」 いやもっと意味が欠落された問い方をするなら、 「何が何と何をしているのか?」 だろうか。 懐疑的な性格を持っていると、本当に分からなくなることがしばしばある。 まず、「個人」という単位が分からない。つまり「その人」とは一体どこからどこまでを指すのかが分からないのである。 顔がその人なのか、身体も含めてその人なのか、身体さえあればその人なのか。その人を私が見る、見てとることが出来た部分だけがその人なのか。 そして「話す」という行為だ。先と繋がることだが「その人が話す」とはどういうことなんだ。私の言葉を、その人の頭(?…

  • 4/18 馬の鼻先にぶら下げられた「生きる意味」

    欲望を持たない人間などいないであろう。三大欲求をはじめ、所有欲、出世欲、承認欲求、顕示欲、支配欲などなど、およそ挙げればキリがない。 人は常に何かを欲している。生きるとは欲することであると言っても過言ではない。 欲することが人間の生きる動機であり、動力なのである。そして人が様々なものを欲する目的はただ一つ、即ち幸福の為だ。 幸福とは何なのか。おそらく万人に共通する様式はない。幸福とは個人の尺度である。お金があれば、家族がいれば、何かを達成すれば幸福になれるというのなら、誰もがそれを目指すだろう。 しかし、現状皆はバラバラの方向でそれぞれの人生を生きている。まさにその事が幸福に決まった形式はない…

  • 4/15 人は一人で幸福になることは出来ない

    自分は洗脳されているだろうか。この問を一度抱えてしまったら、もう抜け出すことは出来ない。なぜならいかなることも洗脳されていないことの証拠にはなり得ないからである。 多くの人が「自分は(精神的に)正常(だろう)」と思う根拠は恐らく、周りの人と意思疎通する上であまり齟齬が生じていないこと、或いは皆も自分と同じように暮らしている(ようにみえる)ということからきている。 この場合の「正常」とは「多数派」の事だ。だが「多数派」というのは、当たり前だが、ただ多数であるということだ。そこには如何なる正当性もありはしない。 ただ人数が多いというだけで、正しいと感じてしまうのは、世の全てが無根拠だからに他ならな…

  • 4/14 訳もなく下り坂を全力で駆け抜けていたあの頃の自分へと

    大人になると、純粋に行為することが難しくなる。それは様々なしがらみに縛られているからだ。何をするにも目的や原因がいるし、他人の行為にもそういった意味を読み取ろうと考えるようになる。 今の行動は常に、過去に囚われた結果か、或いは未来への準備の段階であり、「純粋に〇〇する」ということはほぼ見られない。 トラウマ、過去の栄光、未来予想、将来への不安。そういったものから人間は逃げられなくなる。子供の頃のように、純粋にブランコに乗る、純粋に鬼ごっこをすることは、もはや一つの価値であると錯覚する程に、大人にはそれが出来なくなるのだ。 今を生きられなくなることは、人間にとっては当たり前の成長なのかもしれない…

  • 4/13 空虚な人生をただ見つめよ

    人生とは本当に不思議である。「何」が存在したのかも分からぬまま、「死ぬ」とは何かを知らぬまま、やがて誰もかも肉体が朽ち果て、意識もろとも消えうせる(おそらく)。 「ある」に閉じ込められた我々はただ存在するのみで、存在理由も存在形式も存在目的も何もかもが不明である。 なんと虚しいことであろう。毎日忙しなく生きている人も、毎日が楽しくてキラキラしている人でも、ふとした瞬間にこの根源的な虚無に触れているはずだ。 この虚しさを人々はずっと避けている。正面から向き合わずに家族や仕事、お金、娯楽、地位その他諸々で埋めようとしている。 だが空っぽに何を入れようが、それが空っぽであるという事実は変わらない。コ…

  • 4/9 考えること以外とは無縁の人生

    いつも普遍的で不変的な話ばかりをしているから、今回は移ろいゆく私(ブログ主)の個人的な話も書いてみたい。 最も私はあまりこちら側には関心がないので、難しいところであるが、何事もチャレンジということで。 感情を心や精神の面で多く書いてきたらけれど、私個人日々何を思っているのかということについてはあまり触れてこなかった。何故かというとどうでもいいからである。心にどんな思いを抱こうが私のやりたいこととやるべき事は絶対に変わらない。 それは赤ちゃんに戻ることであり、自身の無知を限りなく知ることであり、つまりは善く生きることである。 それ以外に人生でやるべきことなど私にはとても思いつかない。だからそれ以…

  • 4/8 人間に意志はあるか

    人間に果たして「意志」と呼べるものはあるのだろうか、と最近ずっと考えている。 意志とは何か。例えば手を上げる。我々は手を上げる前に、手を上げることを意志したのだろうか?しかし、それだと意志することにも意志する必要性が生まれる。従って我々に行為を始めることは不可能となる。 意志は行為を始める直前にはないことが分かる。それなら後付けの辻褄合わせか。つまりは解釈或いは物語の類いだろうか。手が上がった。その現象を飲み込む為に、手を挙げると意志した、と解釈した。 科学という物語と同様に、意志があるというのは人類が「納得」する為のストーリーに過ぎないのだろうか。 はて、それで「納得」する人はどれくらいだろ…

  • 4/6 コロナと恐怖

    世の中がコロナ一色である。恐ろしいウイルスなんだとか。私はあまり危機感というものを持てる方ではないが、人の迷惑にはなりたくないのでここ最近はバイト以外は家で大人しくする日々である。 人々は一体何を恐れているのだろうか。自身の死か親しい人の死か、或いはもっと他の何かか。 私には「分からない」ということを恐れているように見える。新型で対処が出来ない、世界中に前例かない、どの程度広まるのか、どれくらいの人が死ぬのか、自身の体にどのような影響を与えるのか、何もかもが不確定で分かりようがない。 皆分からないから恐れているのであろう。「不可知なものは恐ろしい」という価値観があるから、人類は未だに「自分」の…

  • 4/5 人は忘れることができない生き物である

    思い出す、忘れるまたは閃く、といった動詞を「あるはある、ないはない」という世界の超基本的法則に則って考える時、実に面白い事実に気がつくことが出来る。 例えば、「昨日は何してたっけ?」ということを思い出そうとして頭をひねる。そして、例え全然覚えていない時でさえ人は「あれ?思い出せない」と言うのである。 ここで人が言う「思い出せない」とは「何かはしていたけど、何をしていたかは思い出せない」という意味である。果てこの場合の「何かはしていた」ということの根拠は一体どこにあるのだろうか。 ことの内容は覚えていないけれど、ことが「あった」のは思い出せる。というのはどんな状態なのか。ことの内容を覚えていない…

  • 4/1 言葉が底抜けする恐怖〜深く考えたそこに待ち受ける狂気〜

    言葉によって言葉を定義する。これにはおよそ無理がある。その言葉が指している「意味」はその言葉によってのみ表し得る。 別の言葉で表せるのなら、そもその言葉は生まれないのが道理である。 しかし、人が何か言葉の意味を会得する時、それはいくつもの意味の相似によっている。或いは意味の空白、パズルの最後のワンピースの場所が決められているように、文章からその単語の意味の外枠を想像し、当てはめていく。 皆は不思議に思わないのだろうか。ただの文字の羅列だったものがだんだんと「意味」を帯びてくること、そして一度知ってしまった意味からはもう二度と抜け出せないこと、私にはこれはとんでもないことのように思うのである。 …

  • 3/31 生きることのルールを知ろうぜ

    生きているのに、生きることのルールを知らない人が多すぎる、と私は思う。 この場合のルールというのは世間的な一般常識でもなければ、国家の憲法の話でもない。 それは、どのアイテムをゲットしたら自分のレベルがアップするかとか、自分はそもそも何タイプなのか、どのダンジョンを攻略すべきなのか、どんな仲間を集めたら良いか、という話である。 ゲームをする上では、ルール確認は必須なのに、現実(というゲーム)ではそれをしない人がほとんどである。それをしないから人は苦しむことになる。 サッカーをしなきゃいけないゲームで、剣を振り回してたら、そりゃあいつまで経っても点数は入らないし成長もしないから、苦しいのは当たり…

  • 3/30 汝自身を知れ~宇宙が存在するのは誰のせい?~

    何かのせいにするのは本当に楽なことだ。人のせい、社会のせい、国のせい、そして自分のせい。何かのせいにできれば、責任が生まれる。あとはその責任を取るか、取ってもらうかだけで事が済むし、何より、取れないとなればそれを責める「正当な」理由が持てる。 時間列の話でもこれは同じである。現状は過去のあの出来事のせいだ。この不安は未来を憂いてのことだ。現状をすぐに過去や未来と結び付け、責任を作り出しては、何かに負ってもらう。 人はどうも原因というものがないと気が済まないらしい。それもその筈だ。人生とは即ち価値探しの旅に他ならないのだろう。つまり自分が生まれた原因を人はどうしても知りたいのだ。 「なぜ当社に志…

  • 3/25 常識とは何か

    「死はない、故に恐れられない」 「幸せは生活条件ではなく、自覚次第である」 「好きなことをしたらいい、人間は元々自分の好きなようにしか生きられないのだから」 上記の事は今の現実では「綺麗事」に分類される。私にとってこれらは、理論上構造上の「ただの事実」であるのだが、それを認めてくれる人は滅多にはいない。 これは人が星空や自然を見て「綺麗」と感じる、と言うことと同じ状況である。ただの存在を何がしかの価値であるかのように思うのは、普段の人々の生活が汚れているからに他ならない。 1+1がもし2にならないのなら、それは自身の計算の仕方に問題があるのであって、決して数学の方の問題ではないはずだ。 それと…

  • 3/24 評価なんてクソくらえ

    評価というのは、比較によって生まれる。 人が「〇〇がかっこいい」という時、そこには「と比べて」という括弧書きが省略されている。 比較によって生まれる評価、ということは比較対象が失われれば、必然的にその評価の価値も失われるということである。 だから評価というのはくだらないものである。評価は所詮人間が生きていくために、分かったつもりになれる、ラベル貼りの作業でしかない。 しかし、人間はこのラベルを貼られるのが大好きなのである。かっこいいや可愛いと言われて喜ばない人間は少数であろう。 人は他人からどう見られているか、という事を酷く気にする。特にそれが親しい人ともなれば尚更である。 なぜ気にするか、そ…

  • 3/23 存在は価値ではない

    存在はただ存在する。そこにはいかなる目的も意味もない。故にそこに価値はない。いや価値は問えない、というべきであるか。 人間が何かものごとに抱く感情が好き、嫌い、無関心の三種類であるように、世界にも「価値がある」「価値がない」「価値でない」ものの三種類がある。存在者はどれも「価値でない」ものに分類される。 価値でないもの、というのは即ちただの事実に過ぎない、ということである。 1+1=2 であることには如何なる価値もない。それはただの事実として、存在している。1+1=2が良いか悪いかなんてことは人は問わないであろう。 世界には三種類のものがある、と言ったけれど、実はこれも厳密には違っている。なぜ…

  • 3/22 世界を存在させた者との戦い

    我々の体は明らかに与えられたものである。いや体だけでは無い。「自意識」とてそうである。 存在は必ず、過去形受動態である。この世の何もかもは明らかに「存在させられた」ものであろう。 何にもよらずに存在するという事態は人間には想像不可能である。全てのものは相対して存在する。「A」と「A以外」があるからこそ、我々はAにAという名前をつけるのである。 そのため、人間は必ず「宇宙をつくった者」や「世界を存在させた者」を想定してしまうのだ。ビッグバンしかり、神しかり、そこは些細な違いである。 ところが「世界を存在させた者」が「ある」と言い切ってしまえば、その「世界を存在させたもの」も存在として世界の中に存…

  • 3/18 「我思う、故に我はあるのか?」

    「彼が立っている」と人は言う。この主語述語の並び、もうあまりに馴染みすぎて、ここに違和感を覚える人は多分あまりいない。 だが、私にはこれがすごく変に感じるのである。この言い方だとまるで「彼」と「立っていること」が分離可能な様ではないか。 あらゆる述語を封じ込められても、主語が存在可能であるような言い方である。 果たして人には、寝てもいない、座ってもいない、立ってもいない、話してもいない、聞いてもいない、食べてもいない…その他全ての動詞を除いて「ただ存在している」ことができるだろうか。 答えは明らかにNOであろう。「人そのもの」なんてものはどこにもないのである。人は生きている間必ず「何かをしてい…

  • 3/14 幸福からは逃げられない

    何かによって幸福であることは、不幸である。なぜならその何かを失えば簡単に事態は覆るからだ。 しかし、この世の全てのものは何かによって存在しているのも、また事実である。何にもよらずに存在するということは不可能である。 問題は幸福の存在根拠をどこに置くかだ。世の大抵の人はそれを円満な家庭、裕福な暮らし、健康な身体に依拠させる。 だからそれらを得られないと自分は不幸であると思う。人はそも幸福とは何かということを考えたことがないのだ。 幸福は境遇に比例する、とほとんどの人は思っている。だからこそガムシャラに働き、より良い生活条件を得たいと考えるのだろう。 しかし、今を幸福と思わない人間が果たして幸福に…

  • 3/13 内容である我々が成すべきこと

    形式、つまりは内容を取り囲む枠は存在するのだろうか。前回は心についての話をした。心という枠は幻想で本当にあるのは感情の動きだけであると。 今回は、その「枠」というものに焦点を当てて考えていきたい。 まず枠は存在すると言えるかである。例えば椅子であるもの、椅子でないもの、それらをはっきり二分することができるだろうか。 椅子を座れるものと置き換えて考えてみると、ちょっとした段差なども椅子に含まれてしまう。また足が一本折れたりなどして、座れなくなった椅子はもう椅子に含むことはできないのだろうか。 今度は椅子を焼却する場面を想像してみる。椅子から煤や灰に変わる時、それは一体どの時点で椅子とは呼べなくな…

  • 3/11 心とは何か

    心というものはどこにあるのだろう。いや、心というものは本当にあるのか、そこから問を始める必要性があるのかもしれない。 何かを見て感動する。いわれの無い言葉を浴びせられて傷つく。そういう「反応」によって我々は心というものの存在を確信する。 心とは反応そのものであるのかもしれない。心というものが傷ついたから、我々は悲しくなるのでは実はない。悲しくなった自身の状態から「心がそう感じたから」という理由を後付けしているのであろう。 心という入れものがあって、そこに様々な感情が入り浸っているのでは無い。様々な感情そのものが心なのである。 我々が感情を感じるのではない。感情が我々を包んでいるのである。いや我…

  • 3/8 問のない人生を送りたい

    「私は何者か」「人生とはなにか?」「死とは何か?」 これらの問を口に出すと、人は決まって「どうしたの?なんか病んでる?」「嫌なことでもあった?」と訪ねてくる。 私は甚だ疑問なのだ。突如として存在させられた「私」とは何か。存在するとはどういうことか。それらが不明なまま、なぜ人々は何事もないかのように生活することが出来るのか。そっちのほうが病んでいるのでは無いだろうか。 「あなただって生活しているでしょう?」否、生活しているのは断じて「私」などでは無い。認識されるものは全ては対象であり、私ではない。私は認識の主体としてのみ存在する。よって自身の存在は絶対に認識不可である。 「知りえない」だからこそ…

  • 3/4 (2) 永遠に一線を画す間柄

    「賢者は愚者に学び、愚者は賢者に学ばず。」という言葉がある。ビスマルクという人の言葉であると言われているそうな。 愚者と賢者の違いというのは、実は「学ぶ姿勢」だけではないだろうか。 愚者は「信じる」。賢者は「考える」。 その為愚者は自身がより信じられるものを正しいとする。それは大抵が自分とアイデンティティの近いものである。 自分と同じ国、同じ地元、同じ性別、同じ世代、同じ職場、同じ金銭感覚、同じ趣味、一緒に過ごした年月の長さ。 愚者の間では、親近感=正しさ なのである。愚者は考えたことがないので、そもそも考えることに切実とした必要性を感じていない。 考えることの必要性は無知を知ることによって生…

  • 3/4 死ぬ事さえもかすり傷

    生きてりゃどうにでもなる。死ぬこと以外かすり傷。生きててなんぼ。命あっての物種。 人はどうしてこう生に価値を置くのだろうか。生の何を、死の何を人間は知っているというのか。 死にたい、死にたくない。人はまるで死んだことがあるみたいな言い方を平気でする。死を望めると思う、その傲慢さにもの申す人を私は見た事がない。 「生きていれば良いことは沢山あるよ」と人は慰める。なぜ死ぬことが良い事では無い、と人は決めつけるのか。 生きているのはなんだ!?一体誰が死ぬというのだ。死とはなんだ。 葬式の時、人は一体何に悲しんでいる。その人の身体が冷たくなって、動かなくなっただけなのに、人は死んだと決めつける。そして…

  • 3/3 ネガティブモード解除ルーティン

    最近すごーく嫌なことがあった。ネガティブモードがオンになり、考え事が手につかなくなってため息ばかり。 そんな自分にはっと気づき、私は「ネガティブモード解除ルーティン」を実行した。 おかげで今はまた「いつも通り」の私に復活である。頭のキレも回復してきた。好調である。 人間生きてりゃ良いここも悪いこともある、とは使い古された常套句であるが、本当にその通りである。だがここで大事なのは、悪いことを良いことの対極におかずに、良い事の一部と解釈することだ。 「悪いこと」とは「今の自分にとって」という酷く限定されものである、ということを知り、物事の方が悪いのでは無く、悪いと捉えるから悪いのだと認識することが…

  • 3/1 読書を始めたいと思っているそこのあなたへ

    ブログを書いていると、次の言葉が出てこない!という時がある。 私のブログは全部が下書きなしに、その場の勢いにまかせて指をはしらせているので、急に失速することは多々ある。 結局何が言いたいの?となることも。だから私はそういう時は素直に言葉の摂取に徹する。つまりは読書である。 読書は本当にいい。新たに視点が増えるのはもちろん、今まで自分が考えていたことが一層深く定着してくる。 読書はその文章をなぞる、と言うよりは、私は文を読んでいる時の自身の思考をなぞっている。 私の読書のスピードは驚くほど遅い。3行読んでは止まって、1ページ読んでは止まって、1冊読み終わるのに優に1、2ヶ月はかかる。下手したら半…

  • 2/27 生きているのは誰なのか

    消化や心臓の動き、筋肉の動き、どれ一つとってもそこに「自分」は介入していない。 なのに人は身体は自分の思い通りであるかのように振る舞う。少なくとも手足は自分で動かしている(ように見える)からだろうか? 怪我を負って、治癒するのも自分でないし、病気を治すのも意思するだけでは無理である。 加えて、四肢を動かしているのも本当に自分か怪しいところである。だって赤ちゃんの時、その身体を動かしているのは明らかに「自分」では無かった。 そもそも身体を「動かす」という表現自体が変だ。身体は別にほっといたって、呼吸してるし、脈だってうってる。 身体はいつも「ひとりでに」動いているでは無いか。なぜ四肢となると話は…

  • 2/26 人は結論を予め決めている

    前回は評価についての話をした。評価とは恐れの蓋なのだと。今回はその評価についてもう一歩踏み込んでみたい。 人はよく言う「〇〇だから好き」なのだと。かっこいいから好き、可愛いから好き、面白いから好き。 だが、実はそうでは無いのである。これは恋愛の衝動的なあの感じを思い浮かべたらすぐに分かるであろう。 本当に「かっこいいから好き、可愛いから好き、優しいから好き」なのだとしたら、その人よりもっとかっこいい人がいたら、もっと可愛い人がいたら、もっと優しい人がいたら、自分はもうその人を好きでいる理由は無くなってしまう。 しかし実際にはそうでは無い。誰かに恋い焦がれている時、人はもうほぼその人しか見えてい…

  • 2/25 評価するということ

    可愛い!綺麗!かっこいい!素敵!面白い!凄い!上手!美味しい!良い! ダサい…汚い……キモイ…つまらない…馬鹿…怖い…危ない…まずい… 世の中〇〇を評価する言葉で溢れている。今回は評価するとはどういう事なのか?を見ていきたい。 例えば〇〇をかっこいいと思う。「かっこいいと思える」ということは、即ちその人が「かっこいいとは何か」をまず理解しているということである。 当たり前である。かっこいいという語がどういう意味か分からない日本語母語話者はいないだろう。そして誰もがその意味で話していると人々は確信しているはずだ。 つまり「かっこいい」という語は誰にとっても同じ意味である、と我々は知っている。 と…

  • 2/24 「人」は死ぬが…

    人生どう考えても、どう歩んでも、 結局死ぬまで生きている。 どの時代に生まれようが、どの性別に生まれようが、どの人種に生まれようが、絶対に逃れることの出来ないこの「枠」。 これが「人間」の枠である。ところで、この枠を捉えている「私」は果たして人間なのか。 明らかに違う。「今のところ」認識という精神の動きが(一部の)人間の脳にしか宿っていない、と言うだけである。 人間とはホモ・サピエンス以上の言葉ではない。そこに哀愁を漂わせたり、何か動物を指す意味以上で使用するのなら、それは誤りである。 精神と人間とは明らかに別物である。人間が精神を所有しているのではない。精神が人間というものを認識しているので…

  • 2/23 人生という名の実験

    路地裏で毛繕いしている猫、住宅街にひっそり佇むこじんまりとしたスナック、潮がかおる海辺での朝日、クラシックが流れている地元の喫茶店。繁華街で路上ライブしている夢みるバンドの音。 そういうものを思い浮かべると、私は「あぁいいな〜」と思う。心の底から、その思いを堪能する。 ところが、実際にそれらを経験した時、私は「うーん、なんか違う」という気持ちになる。それはそれらが理想的(形式)なものとは違った、という失望からくるものと、そこに実際に「私」がいるということという二点が問題である。 妄想のそれらの場面にも実際に「私」は現れる。だがそれはこの1996年に生まれ、2020年まで生きていて、フリーターを…

  • 2/20 「私」とはドーナッツの穴である

    「私」とはドーナッツの穴である。 最近ミスドでポン・デ・リングをリピートしているせいか、そのような考えがふと頭におりてきた。 ドーナッツがなければ存在しない。ドーナッツが存在することによって初めて「私」は存在する。 はて、そしたらこの場合のドーナッツとは何を指しているのだろうか。意識?認識?言葉?宇宙?様々な単語を当てはめてみたが、一番しっくり来たのは肉体であった。 肉体が個体をつくる。われわれは肉体がなければそも、「全」であった。肉体というものが「全」を「一」にした(ように見える)。 「私」というドーナッツの穴は、ドーナッツによって生まれた幻想である。ドーナッツなしに、ドーナッツの穴は認識で…

  • 2/19 アイデンティティを消してゆけ

    最近とても活用していたアプリをアンインストールした。私は自身の居場所を削除した。 そのアプリはTwitterみたいな自身の思ったことをつぶやけるというものだったが、匿名性が非常に高く、投稿ごとに別人になれるものであった。 私はそのアプリで、主婦になってみたり、彼女もちになってみたり、50代のおじさんになってみたり、同性愛者になってみたり、JKになってみたりした。 なぜ、そんなことをしたかは自分でもよくわからない。というか多分理由なんてなかった。 そこは実に居心地がよかった。2分前の投稿と真逆な言論を唱えても、まず異議を申し立てられることは無い。 そのアプリには、自己の連続性から来る言葉への責任…

  • 2/17(2) 満員電車に思うこと

    このバイトを始めてから、満員電車に乗るようになった。知らない人と知らない人があれだけ密集して、同じ空間に閉じ込められる。 この異様性をもはや大東京で唱えることは出来ない。肌が触れ合い、時には相手の呼吸や心拍ですら感じる距離感にいながら、その人達は私にとっては全くの赤の他人であり、電車を降りたらもう一ミリとて思い出すことは無い存在である。 他人同士がこれだけ平気で物理的距離をつめられるのは、何かおぞましいことではあるまいか。 人が一般に人と近しい距離になる時、それは必然的に相手への安心と親密さを表す。物理的距離感と心的距離感は一致しており、見ていても大変微笑ましいものである。 しかし、満員電車の…

  • 2/17 信頼と裏切り

    信頼、その字の通り、信じて頼る。信じるとは何か。 「あの人は信頼できる」というセリフ、それはつまり、あの人は私の期待を裏切らない、という意味でしかないだろう。相手に何かを期待する、そして自身の期待通りに相手が動いてくれたら、その人は信頼できる。 逆の立場で考えると、少しばかり図々しくは思わないだろうか。勝手に期待されて、勝手に失望されて、そして信頼できないというレッテルを勝手に貼られる。信頼とは本当にこのようなものだろうか。 例えば、何か約束事を交わして、相手がそれを果たさなかったとして、それで失われるような信頼なら、そも人は相手の何を信じていたといえるだろうか。 もし、本当に相手を信じていた…

  • 2/12 文章とはうんこなり

    はぁぁスッキリしたここ何日かすごく嫌みったらしい文章が続いていたの気づいてくれた人はいますかね。まぁいつも嫌みったらしいんですけどね… 私の文章が嫌みったらしいのは普段溜まってる鬱憤を文章にのせているからです。で、普段何に鬱憤を感じているかといえば、もちろん思考です。楽しさと鬱陶しさはいつも背中合わせ、仕方なし。 考えれば考えるほどに、周りの考えていない人が目につく。そして、あぁ考えていないから行き詰るんだよ、と思ってしまう。だがそれを本人に伝えても何の意味もないということを知っている。 だからこそ、私はこんなところで誰に向けてでもなくねちねち文章を書いているのである。 結局わかる人にしかわか…

  • 2/11 答えが既に自明である問

    〇〇するのっていけない事ですか? 最近巷でよく耳にする言葉である。この問い方私的にはとても面白いなと感じている。だって「〇〇するのってどう思いますか?」ならまだその行為に疑問がある程度の問いかけであるが、「〇〇するのっていけない事ですか?」という問は問以前に答えが出ているではないか。 それなのに、人は問う。つまり自身でもういけないと感じている。おそらくそのいけなさの感じを誰かに否定して欲しくて、問を発するのであろうが、自身の思いを止められる他人など存在しない。よってこれは全くの茶番である。 そして、同じくいけなさを感じてはいるけど、否定したい人が引き寄せられ「いけないことじゃないよ」というお互…

  • 2/10 意識的に無意識に帰る

    これまで沢山の文章、いや独り言をここに書き残して来たれど、実のところ私の生き様はと言うと、全く自身の書いたものと反している笑。 もはや生き様とすら呼べない。普通に悩むし、普通に死にたいし、普通に働きたくないし、普通に後悔もしている。だがそれでええやんけ、とも思っている。正しい言葉は誰が言おうと正しい。 デブが超絶痩せるテクニックを紹介した所で、およそ耳をかす人はいないだろう。しかし痩せていて、プロポーションも抜群の人から同じ方法が語り出される時、人はそれを大いに信じる。 受動的に生きている人は、自己防衛の為(本人は意図せずに)「人」という単位で物事を判断する。その方が楽だからだ。この行為は危険…

  • 2/6 恐怖 恐怖 恐怖

    人間は本質的に孤独である。なぜなら世界にはそも「私」しかいないからだ。そしてその孤独の治癒を求めて、人々は自己を顕示し、理解者を求める。 ミュージシャンは作曲という行為によって、作家は言葉を綴ることによって、「普通」の人々は誰かの悪口を言うことによって、また誰かの好きな物を好きになることによって…… 癒えぬ孤独を抱えた人々は兎角、評価されたい、共感されたい、認められたい。 そしてそれを得られないと知れば、人は自信喪失という手段を使い、自己を閉じ込める。 私は「ダメ」だから認められない、「ダメ」だから評価されない。まるでダメでない自分なら誰もに認められるかのように言い、逃げ道をつくる。 或いは逆…

  • 2/5 クレタ島の嘘つき

    言葉は全て嘘である。なぜなら人は最初から語る必要など少しもないからだ。 言葉とは神の余興にして娯楽である。世界が世界を物語的に語る為のものだ。 語るということは、二次的な行為である。 例えば、人が「〜したい」という。なぜ人は言うのだろうか。〜したいなら、すればいいのである。語る必要性など少しもない。しかし人はそこに一拍おいて、まず語るのである。 〜したいという人ほど、それをしていない。語るという行為は常に現実とは逆の方向を向いている。 「私は嘘なんかつかない。」 本当に嘘をつかない人は、そんなことは言わない。自分が嘘つきか正直者かなど、まずその人は気にしていない。気にしていないという、まさにそ…

  • 2/4 結局自分ってなんなのよ

    結局自分とはなんなのだろうか。 存在は全てが過去形の受動態である。つまりは「存在させられた」。そして意識を所有するものだけがそれを自覚できる。 それなら、存在しているのは明らかに「私」ではないだろう。存在させられた「これ」を認識しているところの存在こそ「私」である。 人は疑いもせずに「自分」が生きていると思う。それは多分身体があるからだ。痛みは感じるし、見るのも聞くのも嗅ぐのも話すのも、そういったこと全部が、この身体を通してなされている。だから人が「私」を示すときには、自分の指で自分の顔を指す仕草をする。 しかし、やはり文法的には「私の身体」なのだ。「私は身体」では無いのである。身体はどこまで…

  • 2/3 気持ちと言動

    気持ちは目には見えない。当たり前である。誰かをこよなく愛していても、愛しているだけでは伝わらない。それは言葉や行動によって示されて初めて相手に伝わるものである。確かにその通りである。しかし、ここで留意していただきたいことがある。それは気持ち=言動ではないということである。 無論、われわれには他人の気持ちを個々の言動から推し量るしかすべはない。その人の心を直接的に覗いたり、テレパシーで伝えてもらうことなど、当然だができはしない。だからこそ、言葉というものが生まれたのであろう。 だが、言葉というものは思いとはリンクしない。時には自身の思いとは真逆の言葉でさえ簡単に口をついて出てしまうものである。「…

  • 1/29 全部どうでもいい

    私の人生はたいていが他力本願である。基本的には自分から〇〇を望む、〇〇に向けて努力する。ということがない。理想的な人生プランもない。 それ故に不満もない。毎日幸せだと思っている。いや幸せかどうかなんてどうでもいいじゃないかと思っている。 毎日ご飯が食べられて、冬は暖かい布団で眠れて、夏は暑さを凌ぐ場所があれば、それで十分。 思惟という行為さえできればなんでもいいのである。考えるというのはこの世で最も自由度の高い行為であろう。極端にいえば「私」さえいればできることである。 ただ、極度の飢餓状態や、極寒や猛暑に耐えながら思惟するというのはとても大変だと思うので、最低限の生活水準は守りたい、というだ…

  • 1/28 類は友を呼ぶ

    前回は情とは強い衝動であり、情の動きとはそのまま、人の動きであるのだと書いた。 今回は、その情についてもっと掘り下げてみたいと思う。 まず情がつく言葉をひたすらにあげてみることにしよう。 愛情、友情、人情、同情、感情、激情、欲情、発情、情念、情熱、情緒、情け…。 全部の情を「激しい衝動」とは言えないのかもしれない。激情や情熱、欲情や発情は何となくそんなイメージがある。ところが友情や人情、同情や情けといったものからはそのような意味は感じられない。ここでの情は何だか静かで、落ち着いている。 友情や人情また愛情には、思いやりという言葉が近いだろう。純粋に何かを思慕する気持ちと訳して差し支えがないよう…

  • 1/27 情とはなんだろうか

    情。愛情、友情、人情、感情、同情。情とは何だろうか。 或いは、情念と言ってもいい。悲しみ、憎しみ、喜び、嫉妬…。これらの存在はいったい何なのだろうか。 何のために情は存在するのか、とは問えない。存在者の目的を問えば最後は必ず不可知なものに衝突する。「宇宙は何のために存在するのか」という問いに答えられるのはおよそ神だけである。 そして同じ理屈で存在理由も問えるものではない。 存在の問い方は必ず「~とはどういうことか?」つまり「A=?」でしかありえない。しかしその言葉がそのもの自体であるのだから、Aは結局Aである。いくら問うても、「AはAだからAである。」という皮肉な答えしか得られない。 だから、…

  • 1/22 めんどくささと戯れる

    生きるのがめんどくさい、と常々私は思っている。それは別にネガティブな意味ではない。ただただめんどくさいのである。 生きるに付帯している生活のあれこれ、食事、家事、国に生きる上での税金などの手続き。 肉体というものはあくまで付帯的である。ご飯を食べなくて済む身体なら、そも誰が食事など望むだろうか。(裏を返せば飢餓に耐えるだけの精神性が私にないだけであるが…まぁまぁ)(美味しいご飯はもちろん幸せであるが、それは飢え故である) 死にたいとは思わない、いや思えないということを私はよく知っている。私はそも生きているのではない、ただ存在しているだけである。正確には存在させられている。だから存在を消される(…

  • 1/20 主観=本当=謎

    前回、見え方に「本当は」などないという話を書いた。今回は見え方だけでなく、全てのものにそれはないのだ、つまり主観と客観など本来はわけられるものでは無いというお話をしていきたいと思う。 例えば、「私にはこの料理がまずく感じられるけど、本当は美味しいはずだ」という文から何か意味を感じとれるだろうか?その「本当は」は一体誰の味覚を指して言っているのか。 科学は言う。その料理にはグルタミン酸という旨み成分がたっぷり入っている。だからまずく感じるのはあなたの味覚が異常であると。 そうして人間は悩むことになる。「美味しく感じられない私がおかしいんだ」と。 本来、「本当は」が意味しているところのものとは、主…

  • 1/15 見え方の正しさ

    錯視。それは目が対象を間違って見えてしまっているという状況を指す言葉である。 有名なものにミュラー・リヤー錯視というものがあります。気になる人は調べてみてください。 2本の同じ長さの横棒が並んでいるのに、目の錯覚で片方が長く見えてしまうというものである。 錯覚とはその字面通り錯誤の感覚という意味である。錯視の例で言えば、「本当は」同じ長さなのだけれど、間違って片方が長く見えるということである。 こういうふうにするから、人々は勘違いする。 そのものの長さと、その長さの見え方とは本来全く別の話である。そこをごちゃ混ぜにするから、人々は「本当は」という幻想を抱く。 例えば、あなたは今飛行機の窓から富…

  • 1/14 人生の質

    量より質という言葉がある。それはつまり多さや大きさより、高品質なものの方がよいということを意味する。 市場でもまさにそうである、質がそこそこのもので大量に売られているものは安価である。それに対して、品質がよいものは、量も少なく、高値である。 人々はより質が高いものが価値である、と思っている何よりの証拠であろう。 では人生においての量と質ではどうだろうか。 人生の量それは即ち寿命のことであろう。 長寿ということは喜ばしいことだ。長生きは良い事だ。短命であるのは残念だ。若くして死んだ人は可哀想。大抵の人はこう思っているのではなかろうか。 ここに「なぜ?」と問う人はあまり見受けられない。 例えば、1…

  • 1/13 私=宇宙 宇宙=私

    宇宙が存在しなければ、自分も存在しない。これは誰もが認める事実であろう。 宇宙が存在しなければ、当然地球という星もない、そして、そこに誕生するはずの人類もない、だから当たり前であるが、自分という存在も、もちろん存在しない。常識ですね。言うまでもないようなことである。 ところが、逆のこととなると人はそうではないと思うようになる。 つまり自分が存在しなくても、宇宙は存在している、と人々は思うようである。これはなぜなのだろうか。 自分が存在しなくても、厳密には存在しなくなっても(=死?)、宇宙は存在している。とは一体どういうことなのだろうか。自分が存在しなければ、宇宙が存在していると思えるのは誰であ…

  • 1/8 早く迎えに来て

    人生の深淵。 一人で静かにベッドにねそべる時、或いは電車の窓から知らない街の景観が目にとび込んできた時、或いは友人と遊んだ日の帰り道、或いは…。 一日の中で、一度は経験する。 言葉にならない、胸のざわめきと火照り。 「私は一体何をしている?」 「私とはそもそもなんだ?」 「なぜここでこうしている?」 「この感情はなんだ?」 分からない、分からない、分からない。何もかもが分からない。 しかし、分からないとはっきり分かっている。 生きていると生かされているの狭間で、意思と運命の狭間で、揺れて、ぐらつき、傾く。 私がいるこことは即ち宇宙なのだと自覚した瞬間、足はすくみ、真下を覗くと巨大な暗闇が広がっ…

  • 1/7 認識と世界

    色。青色、赤色、白色、黒色。 我々は共通の認識をもって、それらの色を呼ぶ。色の認識が「一般の人」と違う人を色盲と呼ぶそうな。 彼らが見ている世界はどんなだろうか。 その前になぜ我々は色の共通認識を持っていることを確信しているのだろうか。 私の青色が、あなたの赤色かもしれない。あなたの黄色は、私の緑色かもしれない。 そういう可能性は絶対にないとは誰しも言い切ることは出来ないだろう。目の構造がどれだけ同じでも、それはなんの当てにもならない。 だって、脳の構造は皆同じなのに、考えていることは人それぞれで全然違うもの。 それにもかかわらず、われわれは当たり前のように「あのお花赤くて綺麗ね。」と言う。ま…

  • 1/6 あるとない 天才と凡人

    あるはある、ないはない。世の中の一番簡単であるが故にもっとも難しい道理である。 私たちの世はどうしても「ある」しかない。ないは無いのである。そんなの当たり前じゃないか、と人は思うかもしれない。 だが、いかに普段のわれわれがその事を忘れているかということを人々は認知していない。 例えば、今あなたは「何もしていない」とする。ただベットに寝そべって、ボーッとしているとしよう。 これはまさに人々が思い浮かべる「何もしていない」状況ではなかろうか。 しかし、これは本当に「何もしていない」ということなのだろうか。何もしていないことは果たして人間に可能なのだろうか。改めて考えて頂きたい。 そう、われわれには…

  • 1/3 歳をとること

    最近、歳をとることの面白さに私は目覚めている。 まだ23歳なのに、何言ってるのと言われるかもしれませんが、、、まぁ見ていってくださいな。 歳をとること、即ち老いること。 初老とは40代の別称である。老いはまさに40代から始まるのだと言う意味であろう。それまでは成長と言う名で呼ばれていた身体の流れが、ここに来て退化という名前に変わる。若さと老いとは、はていったいどのタイミングで入れかわったのだろうか。 いや、そもそも入れかわってなどいないのだ。われわれは生まれた瞬間から老け始めているのである。若さとは老いの一通過点でしかない。人生を山のように思うのは「若さ」に価値をおく為に陥る錯覚である。 生き…

  • 12/30 「科学」という物語

    さあ、いよいよお正月、もうすっかり年の瀬である。 年月の単位、それを不思議に思う人は多分あまりいない。ごく当たり前に、一日、一ヶ月、一年と過ぎていき、何十年したら、人間一人の「生」が終わる。 日が昇っては沈み、月が満ちては欠けてゆく、そして輝く星達が消えては戻ってくる。 人間は長い年月をかけ、太陽が回っているのではなく、私たちの星が回っているということに気が付き、月も満ち欠けしているのではなく、光の当たり方で違って見えるだけだと発見した。 これは科学という「物語」である。科学とはフィクションとして楽しまれるべきものであったはずだ。 しかし、科学は現代の我々の前に、「絶対的正しさ」として現れる。…

  • 12/27 お金がない

    お金が無い、最近酷くお金に困っている。でも何故だろう、すごく満たされている。初めてこんな窮地に立ったからだろうか。ここから見える景色に凄まじく興奮する。 お金が無いのは、なんて楽しいことなんだろう。自己の欲望と戦い、自制心と戯れ、日々を送る。あぁなんだかすごく「生きてる!」 生まれて初めて、魂の形をなぞっているようである。つまり「世界に一人だけしか存在していない、1996年に生まれ、2019年現在まで生きている、この私」の形である。 お金がある時には決して気づかれていなかった、「自己性」が顔を出し始めたのである。 魂の癖を垣間見た時、たまらなく嬉しくなってしまうのだ。「あぁ私ってこんな人だった…

  • 12/26 無自己な言葉

    言葉を発する。人はなんの為に言葉を発するのだろうか。 大昔、それはやはり生存の為であろう。その頃は言葉と言うより、音と言った方がいいのかもしれない。人は生きるため、敵から逃れるため、危機であることを仲間に知らせたり、仲間の居場所を確認したりしていたのだろうと想像する。 それは今の動物にも認められるだろう。群れをなす動物は何かしらの音を発し、仲間と連携する。 しかし人間が、精神が所有する言葉の本質がそこにないのは明らかだろう。今日において、特に日本においては生存の為に言葉を発する人はもはやいないと言ってもいい。 人は生存の前提で、生存以上の何らかの目的をもって言葉を発している。目的を持てる、とは…

  • 12/24 死は悲しい?

    死は悲しい。身近な人が亡くなるのは悲しいことだ。そんなの当たり前だ。ここで「なぜ悲しい?」なんて疑問を投げかけようものなら、のけものにされるのは目に見えている。 だが私はやはり問いたいのだ、なぜ人は悲しむのか。そして死とはなんなのか。 人が死ぬ。つまりは冷たくなって、身体が腐敗してゆく。日本ではもうすっかり火葬だけである。死体というのがよっぽど不気味なのであろうか、それとも人は死自体を恐れているのだろうか。とにかく死を遠ざける。この世にいるのは生きている人だけで、死人はあの世なのだ。 今や死とは完全に別世界の話である。死ぬのは果たして誰なのか。自己の死というのを人は上手く考えられない。それは死…

  • 12/23 ないからある、あるからない

    人は往往にして、それがある時にはありがたみを知らず、ない時には「なぜないんだ!理不尽だ!これさえあればうんぬん」と嘆くものである。 ある時はそれが当たり前であり、決して意識されることなく、その存在は水面下に静かに佇んでいる。その水面下の様々な存在が自分を創り、自分に安心感を与え、自分を守ってくれていることなど、人は滅多には気づかない。 人がそれに気づく時はたいてい、それが失われた時である。しかし、人はそれがあったありがたみを思い出すより先、それを失った理不尽さに嘆くのである。 存在とはかくものである。人は「自分」でさえありものであるということをしばしば忘れる。死にたいとはまさにその忘却によって…

  • 12/22 現実とは何か

    現実。現実とはなんだろうか。 人はなぜこの自分たちの生きているここが現実と信じて疑わないのだろうか。 例えばゲームの世界。人を殺したりするゲームがある。あの人達は痛みを感じないのだろうか。あの人達は自分というものを所有していないのだろうか。 「何言ってんの?ゲームの世界じゃん」と人は言う。 しかし我々の生きるこの現実が、ゲームの世界では無い保証が果たしてあるのだろうか。我々が「つくられた」存在でない保証がどこにある? そんなものはないだろう。我々はただここが現実と信じているだけだ。信じている以上の確実性などありはしない。現実を現実たらしめているのは、われわれの信仰心にほかならない。 だが、やは…

  • 12/19 無遠慮な音

    世の中騒々しい。端的にそう感じる。 どうして耳には音を遮断する機能がないのだろうか。 目には瞼が、鼻は息を止めて、口は開閉によって、外的なものを遮断できるのに、耳にはその機能がない。音は否応なしに、無遠慮に耳に侵入してくる。 聞かないということが許されない。 この耳の機能は、危険を知らせる、つまりは生存のためのものだろうと想像する。 だが、今や「生存」など当たり前である。人は死を理不尽とすら思うようになった。 そんな世の中では、耳のこの構造はむしろ厄介である。「聞くに値しないもの」を聞かされるのは、私にとっては酷く苦痛である。 それに、そもそも生存したいなんて思ってもいない。だから余計に耳を厄…

  • 12/16 人生ってなんだろうね

    人生それ自体の不思議、宇宙なんてものが存在する不思議、そして存在が存在する不思議。 これらの事を一瞬思い浮かべるだけでも、私はなにか、突風に吹かれたような、出口のない暗いトンネルの前に立たされたような、そんな気持ちになる。 自分が誰かなんてことはどうでもいい、社会がどうなろうとどうでもいい。誰がどうなろうとどうでもいい。 この圧倒的不思議の前には、およそ全てが霞み、やがて消えうせる。そして気づく。それを認識しているところの自分(?)だけが存在していることに。宇宙と自分とはここに来て完全に同じである。 そしてまた気づく。これらは全てが「言葉」であったと。 我々は当たり前のように言葉によって何かを…

  • 12/12 第三の世界

    今ここ私 の三回目。 前回と前々回で二つの世界について紹介しました。そして、あるようでない、ないようである、そういう微妙な存在の今ここ私は、 二つの世界の衝突が原因だと言いました。 今回は前回話した、その二つの世界の衝突にのより生まれた第三の世界、つまり我々の生きる現実がどうなっているのか、それについて具体的に話していこうと思います。 世界の中の私、私の中の世界。この二つの世界の衝突により、現実は「……の中の私の中の世界の中の私の中の世界の中の……」というサイクルに陥りました。 神は言われた。「光あれ」と。こうして光があった。という有名な聖書の一節があるように、存在は(言葉による)認識で存在す…

  • 12/11 今ここ私 なんてない

    前回は人生の存在形態は「今ここ私」しかないと書きました。今回はこれを逆の立場から考えてみたいと思います。 つまり「今ここ私」なんか「ない」ということです。 いや、ふざけてるとかではなく、本気で考えるとどうしてもこう言うことになりかねないのです。 今回も一つずつ考えていくことにします。 まずは「今」。時間のどこを切りとっても、それは「何年、何月、何日、何分、何秒」であって、どこにも「今」なんて見当たらないのです。「これが今だ!」と指し示すことが出来るものなど存在しないことに気がつくはずだ。全てが今だから、今は存在しないということに、どうしてもなってしまうのです。 そして次に「ここ」。これも同様に…

  • 12/10 今ここ私

    人生の存在形態を改めて考えると、どうも時制的には「今」位置的には「ここ」、そしてそれらを認識しているところの「私」しか存在していないようである。 これ、ちょっと考えてみるだけでもすごく面白いと思いませんか? 順番に一つずつ触れていこうと思います。 まずは「今」。われわれにとって時間は「今」以外には存在していない。だがそれにもかかわらず、一人一人には「確実に」過去は存在している。それは何故かと言うと、どの時点もそれがその時点にとっての「今」だったからである。だが「まさに今」しかやっぱり存在していないのだ。しかしその「まさに今」も一秒たてば、「ただの今」に戻り、「まさに今」から思い出されるだけの「…

  • 12/09 考えると感じる

    不思議を考える、つまりは不思議の掘削作業。これはこれで凄く楽しいのだけれど、最近はなんだか、不思議を感じることの方に好きが傾いている。 考える。それは対象(宇宙=私)を知ろうとする愛であり、努力である。言葉は悪いがこの愛は努力だけにかなり労力がいる笑。愛することが労力なのではなく、愛それ自体、自身の中に流れてもらうには、「私」をかなりクリアにする必要がある。 それはもちろん善への歩で心地よい反面もあるが、私としては、そればっかりやってるのは少しだるい。だから最近はすっかり億劫になってしまった。 その代わりに私は不思議を感じる方にすっかり目覚めてしまった。代わりというか、まぁ性質は同じなんですけ…

  • 12/7 生活でも変化

    働くこと。以前の私にとって、それは心のノイズ以外のものでは無かった。疲れる、しんどい、理不尽、それにより生まれる自身のマイナスの感情、そして得られるのは、お金という「ウソ」だけ。 なぜ働かなければならないのか、さっぱり分からなかった。「だって生きていくためだもの」と人は言う。じゃあなぜ生きる?そもそも生きるとは何か? 私の働く意欲はこれらの問いによりことごとく砕かれていた。そもそも生きたいとも思っていなかったのだから、働くことに関して意味など見いだせるはずも無かった。 だが、考えが変わった。いや見方が変わったと言うべきか。 私は大きな流れに身を任せる。という原点をすっかり忘れていた。人生の辛い…

  • 12/3 死はどこ?

    死。それは何を意味するだろうか。 ある人が目の前で、横になってそのまま動かなくなって冷たくなったとする。 するとその人はいつ死んだのだろう。医師が死亡診断書を書いた時であろうか。じゃあその場に医師がいなかったら?後に、解剖医や専門家の判断で決まるのだろうか。 はて、専門家や医師はどこを見て、その人が死んだと判断するのだろう。心臓が動かなくなった時だろうか。脳が動かなくなった時であろうか。はたまた専門知識をふまえて、総合的に判断するのだろうか。 さぁ、「死」はどこにある? 死んだこともない人が、どのようにして死を定義すればよいか。 果たして、死はそのように、はっきりと境があるものだろうか。 人が…

  • 12/1 妄想と現実

    私は日頃妄想するのが大好きである。 もはや妄想していない時などない。 常に、たらればの思考実験ばかりをしている。 「私」が二人存在したら? 他人がロボットだったら? 人は「そんな妄想ばっかりして、現実をみなさい」という。 この言葉の意は妄想ばっかりしても、現実では何の役にも立たない。いい加減自分の人生について、地に足をつけた計画を立てろということだろうか。 しかし、私はまさにその現実とは何かについて考えているのである。我々がこうして「普通」に生きている「日常」とはそもなんであろうか?それを考えることなしに、計画などたてられるはずがあるまい。 と、言っても通じた試しはない。 いい加減将来を見つめ…

  • 11/29 脳の物質と精神

    目はどうして見えるのだろう? 耳はどうしてきこえるのだろう? 科学は答えました。 目には水晶体というものがあってそれでピントを合わせて、そして網膜に写ったものが脳に伝わるからなのだ、と。 耳には鼓膜というものがあって、そこに、空気振動が伝わって、感覚細胞により脳に信号が伝えられるのだ、と。 これで人は納得するのだろうか? 私はどうしても、またここで問いたくなってしまう。 「で?なんで目は見えるの?」 「で?なんで耳は聞こえるの?」と。 目の構造と、ものが見えることは、 耳の構造と、音が聞こえることは、 全く別の話ではないか! 現実では「たまたま」その構造により、目からものが見えるだけで、「たま…

  • 11/28 愛、アガペー

    愛には四種類あると言います。 隣人愛、親子愛、恋愛、友人愛、だそうな。 恋愛と親子愛についてはほとんどの皆は親しみがあるはずだ。ここではとりたてて説明することは控える。 私が特に話したいのは、隣人愛についてである。ここで言う隣人はただ隣人の意ではない。隣人即ち、人類の意である。もっと言えば、宇宙の意である。 隣人愛はいわば対象がない故に、全てが対象である愛なのだ。それはもはや、自身の態度なのである。 「そんなのは綺麗事だ」 「そんなの無理に決まっている」と人は言います。 愛を特定的な行為とするなら無論そうであろう。例えば、困っている人を見かけたら助けるのが愛だとか、泣いている人がいたら慰めるの…

  • 11/27 私にはそれしか出来ない

    宇宙にとってよいことをする。それ即ち絶対的善である。宇宙というのは、指示語で示すことが出来る「あの」物理宇宙のことではない。 自身の中にあるが故に、全世界であるような、やはり言葉では示すことが出来ない「 」のことである。 「それ」(苦し紛れの指示語)の声は非常に小さい。雑多な生活の日々の中ではおよそ聞くことは出来ない。心を鎮めて、静かな環境の中で行われる内省によってのみ人は「その」声を聞くことが出来る。 「その」声を知らぬ(本来知らぬはずなどないが)ものにとって、人生とは即ち生活以外のものでは無いのだろう。つまり生活条件の向上のみが生きる意味なのであろう。もっと豪華な家に、もっと快適な暮らしに…

  • 11/25 言葉にできない変化

    最近自分の中で少しずつ何かが変化してきている。 物事の見方も自身の心情も。 生きている限り、変化は常にしているのだが、最近は何か大きな動きをそこに感じる。 まだ具体的な言葉にはならないが、この感じ悪い感じではない。前に進んでいる感じ。以前人生はバネのような形で上昇していると言ったが、最近それが一周しきって、また新たなスタートに立てた気がする。 色々自分の中で折り合いをつけながら、自身の小さな声を聞き逃さないように、心の感度を保っていきたい。 この感じが言葉にならないうちにこうして書き残すのは少しだけ卑怯な気もするが、そこは大目にみてくださいな。 新たなスタート、その踏ん切りとしてどうしても書き…

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