仏さまには様々な真言があります。お不動さまにも何種類もの真言があります。真言を称えますが心の中は「お願いします」だけです。全ての仏さまに共通する真言は「お願いします」です。真言は《心言(しんごん)》ではないでしょうか。あなたもあなたの「心言」をつかまえ
「いろはにほへと…」の47文字に乗せて、ほとけの道をやさしく分かりやすく解説します。道に迷った時、悩んでいる時、何が幸せか分からなくなった時…ふと、このブログに立ち寄ってみてください。大分県大分市にあるお寺の住職がほぼ毎日更新中!
弁(わきま)える・矜迦羅(こんがら)童子・蓮華冠(れんげかん)・独鈷杵(とっこしょ)持ちて・不動の左
不動明王の八大童子です。衿羯羅とは、奴隷のことです。しかし訳語が随順と言うことですので、おとなしく仕事をする人と言うことです。慈悲の顔をしながら、蓮華冠をいただき、天衣を着て、合掌をし、独鈷杵(とっこしょ)を両手の親指にはさみ合掌をしています。印は蓮華
奥義(おうぎ)なる・清浄比丘(びく)は・童子なり・梵夾印(ぼんきょういん)で・両手は函(はこ)か
不動明王の八大童子です。袈裟(けさ)を着けた僧侶の姿で、左手には梵篋(ぼんきょう)を持ち、右手には五鈷杵(ごこしょ)を握り、上歯牙(うわはきば)をしているのです。つまり、首髪を剃除(ていじょ)して、法袈裟を着け、左の肩に結び垂れ、左手にお経を入れた箱(
縷説(るせつ)する・烏俱婆誐(うぐばが)童子・ここにあり・金剛合掌・ただ有るのみぞ
不動明王の八大童子です。頭には五鈷冠(ごこかんむり)をいただき、左手には三鈷杵(さんこしょ)を持して、右手は金剛拳(こんごうけん)とします。真言は《おん・ばざら・さったば・うぐばが・まかそうきゃ・た》です。真言の中に、烏俱婆誐童子の名前があります。印は
額(ぬか)ずけば・指徳(しとく)童子が・表立ち・金剛合掌・中指を掌中(しょうちゅう)
不動明王の八大童子です。三眼で、甲冑(かっちゅう)を身につけてあり、左手には羯摩金剛(かつまこんごう)を持ち、右手には三叉戟(さんさげき)を持ちます。真言は《おん・きゃらま・まかべりな・はりふらか・まん》です。印は金剛合掌に、左右の中指を掌中に入れ面を
理に合った・阿耨達(あのくた)童子・道開く・左右の中指・未敷蓮華(みふれんげ)にぞ
不動明王の八大童子です。頭には金鳥冠(きんちょうかん)をいただき、左手には蓮華、右手に独鈷杵(とっこしょ)を持ちます。そして、龍王の背中にまたがっているのです。『般若心経』の中に「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」と言うのがあります
智慧を持ち・合掌するは・慧喜(えき)童子・中指合わせて・如意(にょい)宝珠(ほうじゅ)なり
不動明王の八大童子です。左手に如意宝珠(摩尼宝珠まにほうじゅ)、右手に三叉戟(さんさげき)または宝戟手(ほうげきしゅ)を持ちます。如意宝珠とは、気持ちに合わせてくれ宝をいろいろなものに変更されたものです。一切の悪魔や自分の邪念などを抑制しようとする時に
とり急ぎ・合掌するぞ・両手にて・慧光(えこう)童子は・中指合わす
不動明王の八大童子です。忿怒(ふんぬ)の顔をし、天冠(かんむり)をいただき、右手に五智杵(ごちしょ)、左手に月輪をのせた蓮の花を持ちます。両手を美しく合掌する姿です。身は白黄色です。当に不動明王の教えそのものです。袈裟瓔珞にして荘厳されたものです。 似
平衡(へいこう)だ・不動の親は・身心(みこころ)も・つりあいとれた・仏さまかな
親である不動明王は、身も心も考え方やすることにつり合いが取れているのです。そしてそのことを、子供である私たちに教えようとしてくれるのです。もっと言うと、私たちをお不動さまにしようとしてくれているのです。何事が起きても怖くない心を植え付けようとしているの
お不動さまの有難い教えや言葉を支えにし、身の周りにある事柄で他の人を助け、自分自身も助けるのです。そうするとお不動さまの教えは決して遠い所のものでなく、身近な物であると言うことを知ります。教えを知ったなら助けていただくことは更に身に心に感じるのです。
水の濁りとは、人間の煩悩のことです。汚れた水を美しい水に入れ変えるのではなく、汚れた水を美しくするのが、仏教の教えです。故に、煩悩を転じ悟りにすると言うのです。よく言われる言葉に「煩悩即菩提」と言う言葉があります。同じ物なのです。違うのは心がけが違うの
信仰・・・仏さまの教えを捨て去る人たちをも、救い上げるのがお不動さまなのです。救い上げて、仏さまの教えを教えます。多くの仏さまがそうされますが、特に目立つのがお不動さまなのです。あんなに怖い顔や姿形をされていますが、一番やさしい仏さまだそうです。
お不動さまは、何事が起きようと一番最初に来てくれ、助けてくれます。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天と六道を歩む私たちに、一番良い所を教えてくれ、導いてくれるのです。阿弥陀さまが持っている場所を極楽浄土と言いますが、そこへと案内するのが実はお不動さまな
本日から、「お不動さまのいろは歌2」を始めます。お不動さまは、いつでも、何事でも、助けてくれます。どのような時も、いや、今この時にも、助けてくれます。助けると言うても、私たちの身代わりはしません。一緒に苦労をして、苦しんでくれ、支えてくれるのです。導い
夏越しとは・ん!とこらえて・忍びつつ・夏をば無事に・越えて行くかな
夏越しの間は、こらえなさい。忍んで忍んで、こらえるのだ。それはちょうど、夏の暑さを忍んで頑張ることだ。暑さを、越えて行くことだ。難を逃れ、難をこらえるのに、言葉はいらない。口を開かず、胸の内、口の中で我慢する。それが《ん》だ。自分と仏さまの合言葉だ。
夏越しとは・水難、火難・逃げ延びて・助けをいただく・観世音なり
夏越し祈願祭は、観音さまの力もいただく。あらゆる水難や火難より逃げ延びて、幸福と言うものを手にする。観音さまはここで終わらない。私たちに対して、自分がするようなことをしなさいと言う。その為に、水難・火難を取り除いたと言う。助けてくれたのは、自分と同じ事
夏越しとは・積年(せきねん)たてぞ・それも良し・持ちつ持たれつ・仏の教えか
夏越しは、本当に厄除に似ている。一回の夏越しで、どうだこうだは言えない。繰り返しが大切だ。私たちの積もる年月の中に善し悪しが出てくる。厄年の善い時・悪い時があるようなものだ。善悪があることが、仏さまの教えだ。お蔭を与えるのが仏さまの仕事でなく善悪に対処
夏越しとは・魍魎(もうりょう)感謝の・一座なり・助け導く・水となるかな
魍魎とは、私たちを助け導くものだ。山や川の精であると同時に、妖怪であるとも言う。私たちの心の持ち方で、善にもあくにもなると言うことだ。喉が渇いた時は良い飲料水だが、大雨の後は水災に会うようなものだ。夏越しも同じだ。迎える我々の心の持ち方で、稔るものと成
夏越しとは・ひたすら念じ・手を合わす・見守りささえる・諸仏諸菩薩
夏越し祈願祭の時は、ひたすら念じて、手を合わせ、読経をする。真剣になると、直ちに諸仏諸菩薩が現れ、我々の願いを支えてくれる。「ひたすら」は、只管しかんと書く。これを「只管打坐(しかんたざ)」とすると、座禅の言葉で、余念をまじえず、ひたすらに座禅に励むこ
夏越しとは・ゑん(縁)を結ぶか・御仏と・ともに励むが・信者一同
夏越し祈願祭は、厄を除き、達者でいることを願うことが目的ではない。仏さまと縁を結び、仏さまと共に励むことが、夏越し祈願祭の目的だ。自分のことだけでなく、信者一同がそういう心に成り、そういう状態になるように願うことが大切だ。そうなることが、厄を除き、身体
夏越しとは・知れば知るほど・幸せぞ・知らずば歩く・苦難の道を
夏越し祈願祭を、それがどう言うものであり、どうしなければならないかを知れば、それを幸せと言う。幸せの道を歩むことだ。姿や形は変わらずとも、それが幸せだ。しかし、どう言うものかを知らずに歩いたなれば、いつまでも幸せになれず、楽にもなれず、ただ苦難の道を歩
夏越しとは・満たす念力・この時ぞ・有り難くなり・楽しくもあり
厳しき中でも、厳しいお行。それが夏越し祈願祭だ。そして、今の心が、念ずることだ。満たす念力、感ずる念力。この時にしか現れない念力だ。こう言う念力を持つと、全てが有り難くなり、楽しくなり、嬉しくなる。このことは自分だけでなく、広く多くの人にも伝えたいと思
夏越し祈願祭とは、私たちの目の前の迷い道をさけ、悟りの道へと路線を変える。その第一歩が、夏越しだ。夏越しで気合いを入れ直し、性根に目を覚まさせ、先に進む。それが、悟りへ向かう道を歩む幸せだ。諸仏諸菩薩と共に歩む道である。悟りの道を歩んだお釈迦さまが、道
夏越しとは・ゆれる気持ちを・新しく・落ち着く心に・仏が変える
とにかく、私たちの心は、ゆれている。落ち着きがない。安定もない。故に、何事も迷い、何事もうまく行かない。この心の揺れを無くさなければ・・・。この気持ちを汗として流してくれるのが夏越しだ。悔し涙として流す時もある。それをするのが、仏さまだ。私たちの心を、
夏越しとは・祈念一つぞ・阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏
夏越しに理論・理屈はいらない。南無阿弥陀仏に始まって南無阿弥陀仏に終わる修行だ。勿論、南無大師遍照尊でも良い。あなたの好きな仏さまの名前を称えれば良い。またその時の気持ちに従い「お助け下さい」「頼りにしています」・・・でも良いと思う。それを、祈念と言う
夏越しとは・さまよう心・落ち着かせ・読経、お百度・すがる我かな
我々の心は、普段は彷徨っている。だから迷って、あてもなく歩き回る。心が定まらずに判断に迷う。夏越しの日だけでも良い、夏越しをはさんで三日間でも良い、読経に励もう。お百度を踏んでみよう。すがってみよう。そうすると、自分とは違う、自分に出会うかも知れない。
夏越し祈願祭とは、本当に有り難い。いつまでも有り難い。何故かと言うと、どこで、どのような時でも、何をしていても、仏さまを呼べば、仏さまも応えてくれる。そして、私を導いてくれる。「なごし」とは、「夏越し」だけでなく「名越し」もある。夏の名を乗り越えて、災
夏越しは、お行である。弘法大師さまは一年中修行をされる。私たちも、何かをとらえる為に、修行をしよう。真似で良いから、お行をしよう。弘法大師さまの気持ちを知る為に。身の回りのことを照らし上げる光の明るさに気が付く。まことに有難いことだ。それはあなたの実力
夏越しとは・廻向積み上げ・功徳する・生きる者をも・死せる者をも
廻向とは、自分の積んだ功徳や善行を他に差し向けることだ。そして、共に願いの成就を望みことだ。その次が、ご先祖の供養の為にお経を読むことだ。生きる者、死せる者がその立場で、仏さまに自分のことを願おう。次が、生・死の者が相手のことを願い互いに功徳を積み重ね
夏越しとは・困ることがら・打ち消して・頼むことがら・深く守るぞ
仏さまの前で、「困った、困った」を繰り返しても駄目です。仏さまが相手にしてくれません。聞こうとしない。もっと言うと、助けてくれない。それよりも、「頼む、頼む」とすがった方が良い。「助けて、助けて」「救って、救って」と言った方が、夏は越えられる。何故なら
夏越しとは・不思議なことが・ここにある・どこまで願う・頼んですがる
仏さまに、手を合わせて思うことがある。どこまで願えば良いのだろう?。どこまで頼めば良いのだろう?。どう言うすがり方が良いのだろう?。不思議だ。分からなくても、仏さまが全てをしてくれるから。
夏越しとは・謙虚な気持ち・前にだし・後ろに回りて・仏の気持ち
自分よりも、相手を重んじて、ひかえめにするのが、謙虚な気持ちだ。傲慢になってはいけない。さらに、相手の人の後ろに回り、押すのだ。そして、相手が願いごとを成就した時に、それをともに喜ぶ。それが夏越しを迎えた時の仏さまの思いだ。仏さまの修行だ。だからこの時
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仏さまには様々な真言があります。お不動さまにも何種類もの真言があります。真言を称えますが心の中は「お願いします」だけです。全ての仏さまに共通する真言は「お願いします」です。真言は《心言(しんごん)》ではないでしょうか。あなたもあなたの「心言」をつかまえ
面白くないこと、辛いがやらなければならぬこと。面倒くさい事柄はたくさんあります。実践をしなければなりません。その時にお不動さまは、その物事を楽しいものに変えてくれるのです。そうすると、私たちも楽しい物事と観じ始めるのです。お不動さまの授けると言うことは
あなたの目の前に起こった事柄。それに全力を掛けましょう。すると仏さま、特に不動明王は道を開いてくれます。願うのも大切ですが、実際に努力を始めなければ何にもならないと思います。願うとは、実践の有ることなのです。その時が来るのを一番待って下さるのがお不動さ
お不動さまがそばに居てくれる時に、油断をしないこと。遠くに離れると一生懸命に真言をあげるが、近くに居る時はついつい油断をしてしまいます。いつも心しておきましょう。心を安定させるとお不動さまに近くではなく、お不動さまの中に、そしてお不動さまを抱えている時
不動明王にも、表と裏があります。高照院のお寺ではお不動さまの裏を拝むことができます。あなたにも、表と裏がありますが、それは体の表と裏、心の表と裏があるのです。ですので、心に恐怖感・危機感があっても、反対の裏表を考えれば良いのです。動き回ることが、落ち着
在家とは今日までのことです。お不動さまを知ったその日から、あなたは弟子入りしました。別に出家をしたと言うことではなく、弟子になったのです。弟子である以上、自分が助かる前に他の人を救い上げるのです。その努力をするのです。あなたは自分で助かる努力をしなくと
今のこと・今日のことを真剣に頼みましょう。そうすると、明日が素晴らしいものになります。明日は何でもできる者となり、多くの人を喜ばす者となるぞと思って下さい。人に尽くすと言う意味で『王』になるのです。言葉の遊びですが、明日の王が明王です。他人に尽くすこと
何でもが、出遅れてしまったと思う心は、心配しないで下さい。遅れたから不動明王とゆっくりと話せるのです。お不動さまとああではない、こうでもないと話し合ってみて下さい。ゆっくりと一つ一つを教えてくれます。お不動さまと話し合う心を持つことが大切。ただ願う心よ
自分の思いや考えを持つことは、良いことです。それがお不動さまを離れる方向に進むと、ダメです。お不動さまから心を離してしまうと、非常に残念ですが、だめです。お不動さまに甘えることが大切です。何もせず甘えるのではなく、苦労や努力をしながら支えてもらうことが
これはやり直した方が良いぞとか、別のことのほうが良いようにある…と思ったら、先ずは止めて見ることです。もう一度考え直すのです。どうするかは、あなた任せです。やめても良いし、一休みしたことが良い結果を生むのです。いったん停止をして、仏さまを思い浮かべるこ
お不動さまは自分の足もとを大切にします。そして、私たちの足もとも護ってくれるのです。心が落ち着き、何事が起きても緊張をしない時は、お不動さまの心の状態です。有難く思うのです。そしてその時が、一番お不動さまが動く時でもあるのです。言葉の遊びですが「足を動
お不動さまは、負ける人を助けます。人に対して負けるのです。しかしその時の心は「この人は仏さまだ」と思い負けることが大切です。素直な心を持つことを、負けると表現しました。形の上では負けるのです。それでも自分どうりになったら、「選んだこの道は正しいのだ」と
お不動さまの身の回りは、誰でもが浄めましょう。他人がしていても遠慮することなく、したければあなたがしましょう。いつも初心でいるのです。あなたの目に映ったことは、お不動さまがあなたに見せたことです。お不動さまがあなたにして欲しいと思ったことなのです。お不
一つで良いです、仏さまに信から念じることをしましょう。念佛を唱えるのも良し、心経を唱えるのも良し、掃除をするも良し、花の水を替えるも良し・・・仏さまの身の回りを清めることなら何でも良いのです。やって見ましょう。何故なら、仏さまを喜ばせればその喜びがあな
別に唱えようと言う気が無いのに、念佛が口から出ます。何をしてても。お不動さまはそれを聞くのが一番の楽しみです。それを聞き喜び勇むのです。念ずるを意識しながらの念佛より、さらに重要な念佛なのです。仏さまが楽しみに待っている念佛なのです。念佛の独り言が出る
派手にすることなくおとなしく人を導くようになりましょう。その人に言う必要もありません。その人の面倒を見ることもいりません。ただ黙って行じるのです。行じることでお不動さまがその人を助けてくれたなら、あなたの心の思いがお不動さまに通じていることが分かります
ここに選ばねばならぬ道があります。きつい近道とらくな遠道です。らくな近道などありません。そして、きつい遠道もあります。これから逃れることはできません。のがれた時は道を捨てた時です。せめてお不動さまに頼んだ時は、きつい遠道からきつい近道を選んでもらうので
どのようになるか分からなくても、心にあるものを創り出して下さい。単に作り出すのではなく、創り出すのです。心を込めて作るのです。性根を入れて作るのです。その中にお不動さまを押し込むのです。お不動さまもそれを知ると中に入ってくれると思います。作る気持ちを創
顔を伏せるな前を見なさい。譬えうまくいかずにつらく悲しい時でも。前を見ましょう。上を見ましょう。しかも、楽しげな笑顔で。その時に見るものがお不動さまです。大きな岩も、お不動さまです。きれいな花も、お不動さまです。花を見て笑い、人と会っては笑うのです。す
自分に向いたことか向かぬことかを考えずに始めましょう。止まること振り向くことなく、前に進むのです。お不動さまに念じたその心のままに、前へと進むのです。後はお不動さまにまかせましょう。まかせるとは何もしないでいる事ではありません。あなたも進むのです。あな
あのお行が済んだら、このお行と言うように変えます。変えることが良い悪いと言うことではなく、その時のあなたの心はどうなっているの?と聞きたいです。お不動さまも、あの手この手で私たちを助けようとしてくれます。が、助けたいと思う心だけは変わりません。
色々と頭によみがえる明王の姿・形に縛られるより、最初に縁をいただいた明王さまを大切にしましょう。だってそうでしょう。姿や形は異なっていても、我等を助けようとする心は皆一緒です。英・数・国・社・理の違いはあっても、学問と言う点では優劣をつけられないのと同
人生の道も、仕事の道も、良い道ではありません。厳しい道です。つらい道です。お不動さまはそう言う道を選びます。この厳しい道になれると、これからはどんなにつらい道でも大丈夫だから最初は厳しくつらい道の経験をさせるのです。そう言う時には、お不動さまもそばに居
何の理由も無いし、また物事に対する予想もありません。しかしこの世の中に起こることは、面白く無くても楽しみましょう。喜びましょう。すると、本当に楽しく・嬉しいことが起こってきます。それが、お不動さまの教えなのです。願いよせるのではなく、呼びよせるのです。
お不動さまは、上には如来に従い・下には衆生につかさどります。これは自分を捨て他に尽くすことを道案内としているのです。分からぬ不思議さが、お不動さまなのです。残念ながら仏さまの思いと人間の思いが異なる時があります。苦しみも違います。楽しさも違います。その
どんなことでも最後の最後まで、やることが大切です。それをお不動さまはじっと見ているのです。次々に出てくる全ての煩悩を焼き尽し、最後に大智火と為すのです。願って、直ぐに成就しなくても心配をする必要なしです。その時が峠です。それを越えれば後は下り坂になりま
特殊でなくて平凡で良い、人生は。これがお不動さまの教えです。見聞きすることの正解は、その時その時により違います。自分がこうありますから、他の人も正解はその時その時により違うのです。他人に耳をかたむけて、さらに心をかたむけるようになりましょう。それがお不
物事をするのに、誉められることを目安にしてはなりません。そうすることは、迷いです。得をすることを目標にしてはなりません。お不動さまはそう言う人を嫌います。そう言う心を嫌うのです。縁のある人なら全員が助かると言うのがお不動さまの願いなのです。お不動さまの
衆生が忍耐を心して、仕事に励むなら、お不動さまは更に励み、更に頑張り更に努力をします。人の為の努力に励む人、それをお不動さまと呼ぶのです。私たちもお不動さまになれます。ならなければ、所願・諸願は成就しません。多くの人を救い上げるために願って欲しいです。
最初のことを言いますと、お不動さまは大日如来の化身です。手を合わす私を見て、これを助けようと思えば、お不動さまに姿を変えるのです。初心を大切にし、大事にして始めるのです。恐ろしい姿をしながら、私たちを助けようとしてくれます。本当は、やさしい仏さまなので
好きで重要なことがあれば、論ずることなく、真剣に戦いぬきましょう。私たちのすべき道がたくさんあっても、お不動さまは、その中から一つを選び、大事に保ちながら、大切にするのです。それは即ち、私たちのすべきことを表しています。とにかく戦いましょう。一番の敵は
本日より「不動明王のいろは歌3」を始めます。 何事に対してもお不動さまは力いっぱい私たちに功徳を授けます。どのようなことがあっても骨身を砕いても、衆生を助けようとしているのです。また、助かる道を私に授けようとしているのです。道の案内がお不動さまの力なので
仏さまが言ってくれました。「我とあなたは今年も一緒」だと。今年だけでなく、去年も、その前も守っていてくれたのです。知りませんでした。有り難いです。長い間、ありがとうございます。
私に修行を勧める仏さまは、お寺に居ます。そして、私を促す仏さまは、心の中に居られるのです。どちらかの仏さまが右手右足を守り、他は左の手足を守ってくれます。有り難いです。
千里の道も一歩からと言います。同じく、お百度の修行も一歩から始まります。してみると、今年の初参りも大切な一歩にあたるのではないでしょうか。仏さま、道案内を宜しくお願い致します。
智慧の文殊さまに力を貸していただき、今年の一年は価値あるものにしたいです。その為には、仏さまにすがる一念を充実したものでなければいけません。頼む一念を持ち応えたいものです。
観世音さまと『心経』の観自在菩薩は、同じ仏さまです。ですから助かりたい時には、心経を称えるのです。観音さまが言いました。共にすがりて、共に助かり、共に悟りの道を行き成仏するぞ、と。
笑顔で私たちに会ってくれます。優しい仏さまです。一人でも多くの人を助けようとしています。弁天さまとの縁を大切にすると、不思議と物が成り立ち、自分の物として仕上がって行くのです。
お地蔵さまは不思議な仏さまです。地獄・餓鬼・畜生・・・の世界に居るのです。衆生を助ける為に、救い上げるために居るのです。今日も助ける為にあわただしく動き回っていると思います。
仏さまが私たちを導く教えは沢山あります。人間の数だけ教えはあると言っても言い過ぎではありません。一人一人の教えですから密教(真言宗)と言うのです。つかさどるのが大日如来です。