中国の古典を読みその中の人物について感想をつづったものです。古典と言っても主として三国志、漢書(前漢書)などです。
今日 | 04/19 | 04/18 | 04/17 | 04/16 | 04/15 | 04/14 | 全参加数 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
総合ランキング(IN) | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 1,034,216サイト |
INポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
OUTポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
PVポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
本ブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 14,703サイト |
歴史書 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 55サイト |
歴史ブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 4,540サイト |
三国志(歴史) | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 80サイト |
今日 | 04/19 | 04/18 | 04/17 | 04/16 | 04/15 | 04/14 | 全参加数 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
総合ランキング(OUT) | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 1,034,216サイト |
INポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
OUTポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
PVポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
本ブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 14,703サイト |
歴史書 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 55サイト |
歴史ブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 4,540サイト |
三国志(歴史) | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 80サイト |
今日 | 04/19 | 04/18 | 04/17 | 04/16 | 04/15 | 04/14 | 全参加数 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
総合ランキング(PV) | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 1,034,216サイト |
INポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
OUTポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
PVポイント | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0/週 |
本ブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 14,703サイト |
歴史書 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 55サイト |
歴史ブログ | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 4,540サイト |
三国志(歴史) | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 圏外 | 80サイト |
戦国策の一番初めに出てくる話です。 秦が兵を起こし周に至り、(周が殷から得た)九鼎をよこせと要求しました。鼎は三本足の鉄のかまです。鼎は王権の象徴ですが、これが九つセットだったのでしょうか。王権の象徴だから入手したかったのはわかりますが、書かれている限りはいきなり兵を興して九...
ここで戦国策について書こうと思います。 戦国策は漢の劉向 ( リュウキョウ ) が宮中の蔵書を校定し編纂したものとのことです。文章は相当な名文とされています。しかし私には原文をみてもその名文をあじわう能力はありません。内容は中国の戦国時代の遊説の士の話です。他の書物にもでてくる...
鉤弋夫人は趙姓でのちに倢伃 ( ショウヨ ) の位を授かったので鉤弋趙倢予とも書かれたりします。武帝が狩猟に出て河間国に至った時、雲気を見て吉凶を占う者が奇女がいると進言したそうです。奇女とはどんな女かというと、両手が拳を握ったまま披 ( ひら ) けないという女でした。多分美...
漢書;外戚伝 第六十七上(11) -衛氏(ii)および李夫人-
ところでこの陰惨な事件は早くもその翌年には房太子は無実である、ということがわかりました。当然ながら武帝は房太子のみならずその子供(自分の孫)まで皆殺しにしたのを非常に後悔しました。その結果房太子を陥れた江充を非常に憎み、江充本人はすでに房太子に殺されていたのですが、江充の一族は...
さていよいよ陳皇后の次に立つ衛皇后( 字 あざな 子夫とあります。)の話になります。彼女は武帝の姉である平陽公主の歌手でありました。武帝が平陽公主のもとに立ち寄ったときに公主は飾りとしておいておいたそばに侍る美女をお目通りさせたのですが、武帝は気に入りませんでした。あとで宴会で酒...
さて臧児の娘が栗姫に代わって王皇后(景帝の皇后)になったことはすでに述べています。これには陰謀家の嫖( = 館陶長公、主 文帝の娘)がからんでいて、その陰険な策謀は「外戚伝 第六十七上( 7 ) - 王皇后 (ii)- 」に書いた通りです。そしてその王皇后には一男三女が生まれた...
王皇后が立てられて 9 年後、景帝が没し、王皇后の子 ( 徹 ) が帝位に就きます。これが歴史に名高い武帝です。王皇后は景帝の死後、皇太后になったのですが、皇太后の母親の 臧児が平原君 になります。父親の王仲は追尊され共侯となります。これだけなら驚かないですが、皇太后の父親の王...
前回、栗姫の生んだ皇太子である栄に、長公主が自分の娘を押し付けようとして断られた話を書きましたが、今度は長公主は娘を王夫人の息子にやる、という話を持ち掛けました。王夫人はこれを受け入れたのです。長公主を敵に回したくないという考えもあったとおもいます。 薄皇后が廃されたのがこ...
景帝の皇后となった薄氏には子供ができなかったのは前回書いた通りです。 しかし景帝には息子が 14 人もいました。すべて側室が生んだ訳です。そして薄氏の廃せられたあと皇后の空位時代がつづきました。景帝の時代に呉楚七国の乱がおきたのですが、そのあとで景帝は栗姫(リツキ)の生んだ...
漢書;外戚伝 第六十七上(5) -竇皇后(iii) 薄氏(追補)
竇皇后関係ではまだ偉くなった人がおります。竇皇后の従昆弟 ( 小竹さんの訳では“いとこ”と振り仮名されています。 ) の竇嬰 ( トウエイ ) で、魏基侯に封ぜられています。外戚としての竇氏から侯になれたのは竇氏の兄弟二人と従昆弟一人の合計三名です。なお、従昆弟は小竹さ...
さらに竇皇后の兄弟が被る恩恵があります。 竇姫はもともと良家の娘として呂后に選抜されたはずなのですが、その後の記述では竇皇后の兄である長君(おそらく字と思います。本名は書いてありません。)、その弟の広国、字は少君は微賤の身分の者として登場します。 広国...
漢書;外戚伝 第六十七上(5) -竇皇后(iii)、 薄氏(追補)-
竇皇后関係では他にも列侯になった人がいます。竇皇后の従昆弟の竇嬰 ( トウエイ ) で、魏基侯に封ぜられています。外戚としての竇氏から侯になれたのは竇氏の兄弟二人と従昆弟一人の合計三名です。なお、従昆弟は小竹さんの訳では“いとこ”と振り仮名がついています。 しかし竇嬰の場合...
代王は文帝として帝位につくことになるのですが、その文帝の皇后が竇 ( トウ ) 皇后です。後継者である景帝を生んでいます。 竇皇后が王后として代王(後の文帝)のところへ行く経緯が現代人からみたら馬鹿げた話です。竇皇后は良家の子女として選抜されて呂后の宮中へ入ったのです。そ...
外戚伝ではまず呂氏が挙げられています。高祖の妃である呂后についてはすでに平成 27 年 (2015) 6月から平成 28 年 (2016)2 月にわたり、 13 回にわたって書いております。その中には外戚伝の記述も入れています。高祖劉邦の妃で漢書では「 呂后為人剛毅 」とあり...
皇帝の妃の親兄弟等の親族、つまり外戚というのが権力を握り政治に重要な影響を与えることが中国の歴史ではしばしばありました。漢書ではわざわざ外戚列伝がたてられています。 外戚伝では、はじめによい寄与をした妃と、害悪を流した妃の例を挙げ夫婦が大切であることを述べています。 それ...
以下の記事は2015(平成27年)2月22日にアップロードした「史記 白起・王翦列伝 第十三 白起(4)」の続きです。その当時、白起の死までを「史記 白起・王翦列伝 第十三(5)」として書いていたのですが、アップロードを忘れていたのです。それで今になってアップロードも変ですが、一...
建安 24 年 (219 年 ) に劉備が漢中を手に入れた時に、劉備に仕える群臣が劉備に漢中王に推挙し、漢帝(献帝)に上表します。ここは 「 羣下、上先主爲漢中王、表於漢帝曰 」 とあります。推挙している人の名前が列挙されていますが、はじめの方は以下の如くなっています...
前回の許靖 (2) で記した彼の曹操への手紙では、旅の労苦の説明のあとで自分は交通が途絶して北へ行けない、という話が続きます。そして彼は曹操を慕っているのに曹操の下に行けなことを大変残念がっています。 この時点で彼は曹操に仕えたいと願っていたことがよくわかります。孫策に仕...
許靖が会稽にいる時に孫策が攻めて来たので、同行の人々を連れて交州へ逃げます。 交州と言っても広いですが、交阯(今のベトナムに入る部分)で、当時は士燮(シショウ)が支配していました。士燮も許靖に敬意を払って手厚く待遇したそうです。 なお逃げる途中、川(長江?)を渡とき、彼は...
また三国志に戻ります。 許靖(キョセイ)をとり上げます。なぜこの人は正史に伝をたてられたのか不思議に思ったからです。 許靖は汝南郡平輿県の人で、許劭(キョショウ)従兄弟です。 この許劭の方は月旦評と呼ばれる人物評論会で有名です。毎月初めに行われるこの人物評価の会が...
「ブログリーダー」を活用して、漢籍癖さんをフォローしませんか?