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  • 「この夏富士山に登って、お鉢めぐりで古銭を探そう」

    「この夏富士山に登って、お鉢めぐりで古銭を探そう」【説明概略文】富士山の火口は浅間神社の奥ノ院にあたります。かつて登山者は無事の登山を感謝し一族の幸せを願い火口に賽銭を投げるお散銭(さんせん)の習慣がありました。火口は巨大な賽銭箱だったわけです。その習慣は室町時代にはすでにあったといいます。賽銭を投げればそれを拾う人がいるはずです。遠藤秀男「富士山よもやま話」によれば、散銭の処務を富士山八合目以上の所有者である村山修験辻之坊が受け持っていたといいます。江戸時代になると浅間大社がその処務を受け持ち、一番拾いを浅間大社、二番拾いを須走浅間が行ったということです。しかし一番が拾ったあとでは賽銭の額が大違い。一番拾いの権利争いが相次ぎ、元禄時代には本宮と須走で4対6の配分に決まり、江戸末期までつづいたといいます。...「この夏富士山に登って、お鉢めぐりで古銭を探そう」

  • ▼山の軽口ばなし「奥秩父・金峰山には山男住んでいた?」

    「奥秩父・金峰山には山男住んでいた?」【概略文】金峰山頂にはが18mもある五丈岩があり遠くからでも目立ちます。金峰山は農耕の神の山として村人の信仰が厚く、かつては北麓長野県側にはお寺がたくさんあったといいます。この山に大きな山男が出るというのです。江戸後期の紀行本『遠山奇談』に、金峰山には山夫(やまおとこ)がいて、人間の3倍もの大きさで、乱れ髪が腰までのびているとのこと。若いのは髪の毛が赤黒く、白けて艶がないのは歳のとったものらしい。ある時他国から盗賊たちがここに来て隠れすんでいたが、山夫につかまり連れて行かれた。残った3人が麓に逃げてきて取り押さえられました。役人に引き渡されそのまま江戸へ送られたといいます。だから「必此山へは行べからずと、おしとゞめける故、やめけり」とあります。昔は得体の知れない何かい...▼山の軽口ばなし「奥秩父・金峰山には山男住んでいた?」

  • ▼山の軽口ばなし

    「秩父城峰山・将門とお猫さま」【概略】天慶の乱で平将門が城峰山に陣を張り城を築くと、秀郷はいまの吉田小学校辺りに陣を張り、将門軍とにらみあいがつづきます。ある日、秀郷が椋神社に参拝し将門の捕獲を祈願。すると城峰山にネズミの大群が発生、鎧など武具のひもを噛み切り使用不能に。将門は捕らえられます。ところが同じ姿形の影武者がぞろぞろ出現、どれが本物か分かりません。しかし将門の愛妾、桔梗の証言で正体が発覚。将門は「桔梗あれども花咲くな」と言い残し首をはねられたという。以来、城峰山ではキキョウの花は咲かないといいます。山頂直下城峰神社のこま犬は赤い口に金色の目。それより面白いのはお犬さまのうしろにある「お猫さま」。愛嬌のある表情でハイカーを迎えてくれます。お猫さまは十一面観音の眷属。十一面観音は平将門の守り本尊と聞...▼山の軽口ばなし

  • 「富士山:あのかぐや姫はウグイスの卵から 生まれたんだってよ!」

    「富士山:あのかぐや姫はウグイスの卵から生まれたんだってよ!」【概略文】富士山にはなぜいつも雲がかかっているのか。実はかぐや姫の物語に関係があるといいます。『古今和歌集』の序文に、「竹作りの翁が竹やぶに行くとウグイスの卵が沢山あった。その中に金色に光る卵がひとつ。翁は不思議に思い家に持って帰った。竹売りから帰ると、家の中が光り輝いている。中に美しい女がいた。その女が光っていた。『私はウグイスの卵です』という。そこで翁は女を養女にし、かぐや姫と名づけた。これが評判になり帝が呼んでみたら非常に美しいのでたちまち夢中になり、妃のようにこの姫を愛した。3年が過ぎ姫は『私は天女です』といって鏡を形見に残して消えてしまった。帝の恋焦がれる想いは炎となって鏡から立ち昇った。公卿たちはその鏡を富士山頂に置いた。その時から...「富士山:あのかぐや姫はウグイスの卵から生まれたんだってよ!」

  • ▼山の伝説・神話ばなし

    「奥多摩三頭山・鬼源こと目玉のたんじと玉川上水」【概略文】その昔、大岳山の麓・檜原村白岩に子宝に恵まれない夫婦がいました。夫婦は大岳神社にお百度をふみ願をかけた結果、元気な男の子が授かりました。大岳山の神の申し子の鬼源兵衛はすくすくと育ちました。大人になるころには五百貫近くもある大石を持ち上げるほどの怪力を持つようになったといいます。その怪力が恐れられ「鬼源」とも目玉のたんじとも呼ばれていました。さて、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟の手配する上水工事の羽村堰工事人足としてかり出された鬼源は、工事の最中、大きな石の下敷きになった同僚をなんなく助けたり、大石をひょいと持ち上げポンポン放り投げるようにして運びました。そのため、工事はみるみるうちに完成。その活躍に褒美として刀を賜ったという。その鬼源兵衛が持ち上げたと...▼山の伝説・神話ばなし

  • ▼山の軽口ばなし「富士山頂の火口はふたつあった?」

    「富士山頂の火口はふたつあった?」【概略】富士山に関する最初の文書は、平安時代の「富士山記」。それには「頂上に平地あり。広さ一里許り。其の頂の中央は窪み下りて状甑(こしき)の如し。甑の中に神池あり、池の中に大石あり、石体甚だ奇にして宛も虎の蹲(うずく)まれるが如し。亦其の甑の中には常に蒸し出づる気あり。其の色純青なり。其の甑の底をのぞけば湯の沸きのぼるが如く、其の遠くより之を望めば常に煙火を見る」とあります。富士山頂上の火口には神の池があるとしながら、また煙火が見えると、矛盾したことが書かれています。それは富士山には火口がふたつあったからだという。ひとつは大内院で、私たちにもおなじみのもの。もうひとつは小内院で、その北北西にあり、いまは埋もれてしまい窪地になっています。この片方は古い火口で水が貯まっていて...▼山の軽口ばなし「富士山頂の火口はふたつあった?」

  • 伝説と神話の百名山(12)「八幡平」

    「八幡平」【説明概略】八幡平は大火山高原で温泉があちこちにあります。ここの山の名は八幡平です。この「平=たい」は「岱(たい)」であるとよく説明されます。ところが、この岱という漢字はもとは代山(たいざん)で、転じて偉大な山という義なのだそうです。しかし、八幡平は岩手山や鳥海山のような高く大きな山には見えません。それよりも八幡は「やわた」で、「やわ」は柔らかい意味、「た」は場所のことといい、「柔らかいところ」となるとの説があります。なるほど、八幡平のような高原湿原は、柔らかい所だワナ。山頂から西側(鹿角市側)のふけの湯は子宝の湯として有名。また後生掛温泉には一人の男に後生を掛け、沸き上がる大噴湯に身を投げたふたりの女性の物語の「オナメ(愛人)・モトメ(本妻)伝説」や、鹿角市八幡平小豆沢には、トンボに教えられた...伝説と神話の百名山(12)「八幡平」

  • ▼山の軽口ばなし「奈良県大峰山・女人禁制の山に登った女性」

    「奈良県大峰山・女人禁制の山に登った女性」【概略】いまだに女人禁制のしきたりを守り続ける紀伊大峰山山上ヶ岳。時どき、解禁の時期について話題になります。しかし、「日本百名山」を完登した女性は多い。それもそのはず、以前から登っている女性はいるという。記録にあるだけでも、「昭和12年(1937)9月と11月の2回女性を伴い登山決行」などの記事が1951年(昭和26)の「山と渓谷」誌に掲載しています。牧田満政氏の記録によれば、それ以外にも相当数いるという。「今更登山の見地からならば、女性登山など問題じゃない…ただし、その入山は総て開山期以外、もしくは、行者路以外。開山期に無理に女性が押し入ろうとすれば、頑迷固陋(ころう)の地元民の性格を知らないで無理強いするのは無謀であり、傷害事件に発展する可能性もある」との現地...▼山の軽口ばなし「奈良県大峰山・女人禁制の山に登った女性」

  • ▼伝承と神話の百名山「青森県・八甲田山」

    ▼伝承と神話の百名山「青森県・八甲田山」【説明概略】青森県の八甲田山といえば、明治35年(1902)の凍死者197名、「雪中行軍」の悲劇が有名です。この事件を主題として、作家・新田次郎が『八甲田山死の彷徨』を書きました。1977年(昭和52)にはこれが映画化されます。そのテレビコマーシャルの「天は我らを見放した」は流行語にもなりました。八甲田山は、十和田湖と青森市の中間にそびえる山塊の総称で、北八甲田連峰と南八甲田連峰に分かれますが、普通八甲田山といえば、北八甲田山群をさすという。8つの峰と、低地に発達する高層湿原、池塘を田とみなして「神の田」、「耕田」、「高田」から八甲田、甲(かぶと)などの説もあります。東岳と八甲田山が山争いで八甲田は東岳の首をはねました。首は西に飛んで行き、岩木山の肩のコブになった。...▼伝承と神話の百名山「青森県・八甲田山」

  • ▼伝承と神話の百名山「青森県・岩木山」

    「青森県・岩木山」【説明概略】岩木山は、その山の様子から「石(いわ)の城(き)」の字に「岩木」をあてたものといいます。山頂は中央部の岩木山、南の鳥海山、北の岩鬼山(ママ)からなる。中央部の岩木山山頂には岩木山神社(下居宮・おりいのみや)の奥宮本宮の建物が鎮座しています。弘前藩の鎮守のお山になっているそうです。ここにまつられているのは、森鴎外の小説『安寿と厨子王』で有名な安寿姫。この伝説から安寿姫を責め殺した山椒大夫の国丹後(京都)の人が岩木山の支配地に入っても神が怒るのだという。これを「丹後日和」というのだそうです。実際、山頂に登らせないという厳しい禁制がしかれていたということです。・青森県弘前市と鰺ヶ沢町の境▼【本文】をどうぞ。https://toki.moo.jp/mail-maga/100den/1...▼伝承と神話の百名山「青森県・岩木山」

  • ▼山の楽しみもうひとつ「東北・鳥海山の鳥海湖と安倍宗任」

    「東北・鳥海山の鳥海湖と安倍宗任」【説明概略】東北の名山・鳥海山の名は、鳥海弥三郎に関係するという説もあります。鳥海弥三郎は安倍宗任。平安時代後期の陸奥の国の豪族。あの阿部貞任の弟で「前九年の役」では兄とならんで阿部軍の指揮をとり、源頼義軍を悩ましました。安倍氏の全盛時、宗任の所領がこの地方にあったらしい。宮城県の鳥海の浦とが宗任の生誕地といい、鳥海弥三郎の名の元だといいます。その後安倍氏の発展に従い北に移ります。岩手県磐井郡の鳥海、胆沢郡の鳥海の柵、出羽地方にも矢島方面には鳥海山、相庭館附近に鳥の海、酒田市の泉竜寺の徳尼公廟などは鳥海氏には関係深い遺跡です。このようなことから鳥海山は鳥海氏領内の山としてその名が生まれたのではないかということです。・山形県遊佐町。【説明本文】をどうぞ。https://to...▼山の楽しみもうひとつ「東北・鳥海山の鳥海湖と安倍宗任」

  • ▼山の楽しみもうひとつ「北ア立山・雄山の一、二、三ノ越」

    「北ア立山・雄山の一、二、三ノ越」【説明概略】ふつう山に登る時、まず一合目から二合目、三合目と登り、十合目で頂上につきます。ところが立山では一ノ越、二ノ越、三ノ越と登っていくのだそうです。山を仏さまの姿に見立て、膝が一ノ越で、腰が二ノ越、肩が三ノ越、首が四ノ越、頭が五ノ越なのだそうです。この呼び方は古く、平安末期の国語辞書の『伊呂波字類抄』(編者・橘忠兼)に「躰厳石之山、膝名一輿、腰号二輿、肩字三輿、頸名四輿、申頭烏瑟(うしつ)五輿」とあり、山頂を烏瑟の峰といっているそうです。かつて越中の男子は16歳になると雄山に参詣し、朱塗りの杯のお神酒を戴かないものは一人前として扱われなかったそうです。もし途中でへばり登れなかった時は前世悪業の報いとされ、帰宅してからも一生つまはじきにされたというから大変です。この習...▼山の楽しみもうひとつ「北ア立山・雄山の一、二、三ノ越」

  • ▼山の楽しみもうひとつ「北陸・白山の御前峰」

    「北陸・白山の御前峰」【概略】白山は御前峰、大汝峰、剣ヶ峰の3峰の総称で、これらの峰から少し離れた南方に別山があります。この山は奈良時代、越ノ大徳とも呼ばれる泰澄上人が、弟子の臥(ふせり)行者と浄定(じょうじょう)行者を連れて開山したといいます。山頂に登った上人は白山妙理権現という神を感得し、その眷属配下といわれる禅師王子、児宮童子、一万眷属、十万金剛童子、五万八千采女、その他天狗などをまとめる身となりました。そして御前峰にとどまり、白峰大僧正という大天狗になって白山全体を守っていることになっています。(ただ平安時代末期の日本の仙人37人をピックアップした本『本朝神仙伝』には、泰澄は仙人として7番目に数えられています)また臥行者は奥ノ院に当たる大汝峰に止住するといいます。そして浄定行者は白山正法坊天狗とな...▼山の楽しみもうひとつ「北陸・白山の御前峰」

  • ▼山の楽しみもうひとつ「北ア立山・雄山のお花畑の由来」

    「北ア立山・雄山のお花畑の由来」【説明概略】立山の山頂付近の高山植物。ここにはもと千蛇ヶ池という池があり、恐ろしい大蛇がたくさんすんでいたという。大蛇は夜になると人里に降りてきては人を殺したり、家畜を盗んだりのし放題。見かねた立山権現は大蛇たちを神殿に集め「いまのようなことをしていると、この世には人間がいなくなってしまう。お前たちだって食べるものがなくなって困るだろう。ここにある草花の種をやるから池のほとりにまいて、芽が出るまで池に潜って待っておれ。そのうちに人間も増えるだろう」と諭しました。なるほど。大蛇たちは種をまいて池に潜りました。立山権現はそれを見すますと、池の上に毎日毎日大雪を降らせ雪の下に永久に封じ込めてしまいました。雪は大雪渓になり、やがて溶けはじめると大蛇たちがまいた高山植物の花が咲きはじ...▼山の楽しみもうひとつ「北ア立山・雄山のお花畑の由来」

  • ▼山の楽しみもうひとつ「北ア針ノ木峠・松本の遊女ものがたり」

    「北ア針ノ木峠・松本の遊女ものがたり」【説明概略】針木岳の名は針ノ木峠からきており、後でつけた名だといます。この山を越中側では地蔵岳と呼んでいました。それは峠道にあった遊女を弔う地蔵尊にちなむといいます。昔、松本の地に雛菊という遊女がいました。そこへ越中の若者があらわれ、二人は恋に落ちました。しかし若者は病気になり「故郷の親に知らせてくれ」と言い残し息を引き取ります。遊女は大町の知り合いの若者の案内で越中へ行くため、峠へ向かいました。やがて雨が雪に変わり次第に深く積もりだします。二人は必死に歩き続けますがいつか道に迷い、若者は谷底に滑落。ひとり残った雛菊はなすすべもなくついに雪の峠に散ったといいます。それを知った村人は小さな地蔵を建てたという。ある夏、雪渓を登り針ノ木峠へ。無駄とは思いましたが地蔵を探しま...▼山の楽しみもうひとつ「北ア針ノ木峠・松本の遊女ものがたり」

  • 山の楽しみもうひとつ「奈良吉野義経隠れ堂と静御前」

    「奈良吉野義経隠れ堂と静御前」【説明概略】吉野・奥千本にある義経隠れ堂。義経に行かれてしまった静御前の名をつけたセンリョウ科の植物ヒトリシズカ。『和漢三才図会』に「静とは源義経の寵妾にして吉野山に於て歌舞の事あり」とあり、またフタリシズカも同書に、「静女の幽霊二人と為り同じく遊舞す」とあります。ある年の正月七日、吉野の勝手明神の神職が女性に若菜摘に行かせました。そこへ静御前の霊があらわれ「経を書いて回向をしてくれ」という。霊は女性に乗り移り自分は静御前だと名乗ります。神職は神社宝蔵の舞い衣装を着せると女性は舞いだしました。やがて亡霊も姿をあらわし二人になって舞いはじめました。「しづやしづ、賤(しず)の苧環(おだまき)繰り返し、昔を今になすよしもがな」。春に吉野で楽しく過ごした義経との昔語りをフタリシズカと...山の楽しみもうひとつ「奈良吉野義経隠れ堂と静御前」

  • ▼もっと山の楽しみ「北ア白馬岳・蓮華温泉のはじまり」

    「北ア白馬岳・蓮華温泉のはじまり」【説明概略】戦国時代、北アルプス白馬岳北麓中腹に武士がひとり。越後上杉謙信の家臣で金鉱探索の命を受け各地の山々を巡っていました。武士は村の子供から黄金色に光る石をもらい、金鉱脈がこのあたりにあると確信しました。報告を受けた謙信は早速発掘のため、大勢の人夫を山中に送り込みました。ある日、掘られた穴からお湯が噴き出しました。その後人々はこの温泉を「黄金湯」と呼ぶようになり、いまの蓮華温泉の元になったという。かなり以前、白馬大雪渓から朝日岳経由、五輪尾根を通りやっとたどり着いた蓮華温泉。日焼けの体に熱い温泉が痛くて入れない。息子と二人、洗い場の隅で恨めしく薄めたお湯を浴びるばかり。当時、平岩駅までの道路が工事中でバスに乗っていても腑が飛び出るようなゆれ方でした。・新潟県糸魚川市...▼もっと山の楽しみ「北ア白馬岳・蓮華温泉のはじまり」

  • もっと山の楽しみ「富士山と三猿」

    「富士山と三猿」【概略説明】見ざる言わざる聞かざるの三猿(さんざる、さんえん)の像は、日光陽明門や庚申塔にも刻まれています。これは古代インドから鎌倉時代以降に日本に伝来、絵画や彫刻の題材になったという。また天台の不見・不聞・不言の三諦を猿の形にしたとの説もあります。その三猿伝説が富士山にもあるのです。咲き誇るサクラの花のような木花開耶姫。その美しさのとりこになった男神たちは姫のもとへと通い詰めるのでした。姫はそれを誇りにしている自分に気づきました。花の美しさは散りゆく時。その一瞬のはかない美をこのまま地上で散らしてはならないと考えました。姫は白馬に乗り、富士山に向かいました。途中3匹の猿があらわれ案内したという。開耶姫は山頂に着くと猿たちに向かい「私がここにきたことを誰にもいってはならぬぞ」といい残し、天...もっと山の楽しみ「富士山と三猿」

  • ▼もっと山の楽しみ「箱根明神ヶ岳」

    「箱根明神ヶ岳」【概略】神奈川県箱根の大雄山最乗寺(さいじょうじ)は天狗で有名なお寺です。ここの天狗道了薩埵(どうりょうさった)は最乗寺守護のため、南方にそびえる明星ヶ岳(924m)に飛び去り、いまもすんでいると伝えます。その北西に明神ヶ岳(1169m)があります。明神とは明星ヶ岳と同じに、宵の明星にちなんだ山名だといいます。このあたりの森は昔から相模(神奈川県)の天狗たちのたまり場で、夜な夜な酒盛りをしていたという。その時の踊りの笛や太鼓の音がよく聞こえてきたと伝えています。昔ある夏の夜、山麓に住むご八という御仁が風呂上がりのまま、行方不明になってしまうという事件がありました。村をあげて山中を探しましたがどうしても見つかりませんでした。それから3年過ぎたある日、お寺から坊さんを呼んで法事の準備をしている...▼もっと山の楽しみ「箱根明神ヶ岳」

  • ▼もっと山の楽しみ「北アルプス白馬岳」

    「北アルプス白馬岳」【説明概略】かつて新潟側から白馬岳に登るには姫川温泉近くの山之坊集落から入り、途中蓮華温泉に一泊したという。この集落には恐ろしい山男の噂が絶えませんでした。ある猟師が怪物退治に出かけました。突如、食い合った杉の枝の間から大男が現れました。猟師の打った弾は怪物からそれ、続いて第2の弾を放ちました。山男はカラカラと笑い「お前の命は預かった」。猟師は家に帰る途中で息絶えてしまったという。猟師には息子がいました。ある日息子は父親の銃をもって白馬岳へ道を登っていきました。やがてあの杉の枝が食い合った場所にきました。枝がバサッと動きました。息子は素早く銃を構え現れた影にねらいをあわせ轟然一発。確かな手応え。全身毛に覆われた大男が倒れていました。それはたしかに白馬岳にすむ怪物らしい。しかし、その正体...▼もっと山の楽しみ「北アルプス白馬岳」

  • 「会津磐梯山」

    ▼もっと山の楽しみ「会津磐梯山」【説明概略文】磐梯山は大同2(807)年に弘法大師空海が開山、永久鎮護のため恵日寺を建てたとの伝説から山頂肩の弘法清水がありそばに大師像も建っています。この山も不思議な伝説や言い伝えが多い。地元の民俗研究家橋本武氏によれば、この山はその昔「鶏岳」といったという。そして古くからの禁忌があり「磐梯山に鶏の卵を持って登ると磐梯明神の怒りにふれ、山が荒れて災いに遭う」というそうです。磐梯山の山頂には磐梯明神がまつられています。この明神に捧げて埋めた鶏の霊が祟るとされ、年寄りたちが特別に注意するわけでもないのに、いまでも何となく気がとがめるため卵は持っていかないそうです。ただ私が登ったとき山頂にある祠のなかにまつってあったのは皇高天原命の碑で、磐梯明神の碑はその下に粗雑に置かれていま...「会津磐梯山」

  • ▼山の伝承・神話に遊ぶ「中ア恵那山・足もとのウリ坊」

    「中ア恵那山・足もとのウリ坊」【概略】恵那山には明治時代、ウエストンが登り、同地区にはウエストン公園もあります。西麓からの登山道「前宮ルート」はもっとも古いルートで、かつては修験者も歩いた登山道。山頂からの帰途、木から飛び降り逃げ去る熊の気配。ことしは熊が民家に出てくるニュースが多い。登山口の河原でテント。翌朝早くバス停に急ぎます。前宮本社近く、小さな生き物が林道のクルマのわだちに頭をつっこんでいます。ウリ坊のエサ探し。ためらいましたが、バスの時間も気にかかります。やっと気がついたウリ坊、大慌て…。そのかわいいこと。しかし、親イノシシが近くにいるに違いない、立ち去るにかぎります。かなり遠のいた時、遠くで田んぼ仕事をしていた農家の人が立ち上がって、こちらと「現場」方面を見比べています。母親が出てきたに違いあ...▼山の伝承・神話に遊ぶ「中ア恵那山・足もとのウリ坊」

  • ▼山の伝承・神話に遊ぶ「奈良県十津川村五百瀬・南北朝時代の遺跡腰抜田」

    「奈良県十津川村五百瀬・南北朝時代の遺跡腰抜田」【概略】2004年(平成16)に世界遺産に登録された熊野古道。その高野山から熊野本宮に続く小辺路・奈良県十津川村五百瀬地区に「腰抜田」という石碑があります。ここは南北朝時代、大塔宮護良親王が北朝方から逃れて、吉野へ落ちる時に通ったところ。その時、芋瀬の荘司に助けを頼みました、すでに幕府からの達しが届いていました。「本来なら親王を捕らえねばなりませぬが、それはあまりにも忍びない。戦って逃げられたということにしたい」。ついては証拠として錦の旗を置いて行くようにとのこと。親王は、旗を置いていきました。しばらくして家来の村上彦四郎義光がやってきました。義光は、荘司の館に錦の御旗があるのを見つけ、激しく怒り荘司の家来を田んぼの中に投げ飛ばします。家来はそのまま腰を抜か...▼山の伝承・神話に遊ぶ「奈良県十津川村五百瀬・南北朝時代の遺跡腰抜田」

  • ▼山の伝承・神話に遊ぶ「北ア・奥穂高岳の祠と物草太郎」

    「北ア・奥穂高岳の祠と物草太郎」【概略】奥穂高山頂にある祠の祭神は綿津見命とその子・穂高見命、瓊瓊杵尊となっています。しかし、ちまたではもっぱら物草太郎をまつっていることになっています。物草太郎が信濃の中将に出世して京から帰って1290歳まで生き、死後、物草太郎ははおたがの大明神に、妻はあさいの権現になってあらわれたと「御伽草子」という本に書かれています。「おたが」の明神とは、「愛宕」とか「御多賀」といわれてきましたが、普通は「穂高」の訛りだというのが一番広く使われているそうです。江戸時代の松本藩の総合書『信府統記』に、文徳天皇の世に信濃の国の信濃中将という人が穂高神社を造営した人で、これこそ物草太郎と称えた人。当社のうちに若宮大明神の宮がありこの中将をまつっている、とあります。いまでも穂高神社を俗に物ぐ...▼山の伝承・神話に遊ぶ「北ア・奥穂高岳の祠と物草太郎」

  • ▼山の伝承・神話に遊ぶ「東京・奥多摩のオオカミ伝説」

    「東京・奥多摩のオオカミ伝説」【概略】奥多摩各地にあるオオカミ伝説。御岳神社のお使いはオオカミだという。御岳神社の御師が信徒の家に行った時、御師のあとをついてきたオオカミが信徒の家の庭先にフンをしたという話が伝わっています。東京都檜原村で畑を荒らしたオオカミを鉄砲で撃ち殺したところ、子持ちのオオカミでまだ乳が出ました。それを飲んだので育ったのが禎次郎という人で、のちに百発百中の名人猟師になったそうです。当時では93歳まで生きたほどの長寿だったということです。昔から「赤ちゃんにオオカミの乳を飲ませると丈夫に育って長生きをする」という言い伝えがあるといいますが本当だったのでしょうか。また、常右衛門さんという猟師が鍾乳洞の日原山中で、滝に追い落とした鹿を食べている2匹のオオカミに出会い、「その鹿をおくんなせえ」...▼山の伝承・神話に遊ぶ「東京・奥多摩のオオカミ伝説」

  • ▼山の伝承・神話に遊ぶ「南ア赤石岳・南朝の親王を埋葬した?大聖寺平」

    「南ア赤石岳・南朝の親王を埋葬した?大聖寺平」【概略】南北朝時代の南朝後醍醐天皇の皇子・宗良親王は足利氏調伏を祈るため、赤石岳によく登ったといいます。大聖寺平は大小寺平とも書くそうです。『山の傳説』によれば「山でなくなられた良月親王の遺骨を足利勢に奪はれることを恐れた南朝の遺臣が遺骨をこゝまで背負ひあげて埋葬申し上げたと里人は云ってゐる」とあります。また「一説には親王の御守刀の大小(刀)を埋めたから大小寺平であるといふ人もある」とも書いてあります。吉野朝廷を開いた後醍醐天皇は、地方武士を掌握するため、その皇子たちを各地方に派遣しました。『日本史諸家系図人名辞典』では、天皇には皇子が8人いるとされますが8番目の記載してある後村上天皇も第7(または第8)皇子かはっきりしないような状態です。【説明本文】http...▼山の伝承・神話に遊ぶ「南ア赤石岳・南朝の親王を埋葬した?大聖寺平」

  • 山の伝承・神話に遊ぶ「ざる一杯の酒を下さらんか??・秩父武甲山の酒好き神」

    「ざる一杯の酒を下さらんか??・秩父武甲山の酒好き神」【説明概略】武甲山の名は、その昔日本武尊が山頂に武具や甲冑を神に奉納し祈ったというので「武甲」だとされ、江戸幕府も神がかり的な神聖な山としていました。武甲山は異名を蔵王山、妙見山などといい神秘な山との印象が深く、昔からいろいろな伝承に包まれています。そのひとつ、この山には酒好きな神がおわしたといいます。昔、武甲山の北麓横瀬の酒屋に見かけたことのない白く長いひげの老人があらわれました。「このざる一杯の酒をわけてくださらんか」???。……酒屋のオヤジが酒をついでみるとアラ不思議、一滴ももれずにざるのなかに溜まっていきます。ポカンとしているオヤジに代金を払うと老人は武甲山に帰っていきました。このことがあってから村人は武甲山の酒好き神とうわさしあったそうです。...山の伝承・神話に遊ぶ「ざる一杯の酒を下さらんか??・秩父武甲山の酒好き神」

  • ▼山の雑学ばなし「富士山はこうしてできたのだ??※#?」

    「富士山はこうしてできたのだ??※#?」【概略】古川柳に「孝霊五年あれをみろ、あれをみろ」というのがあります。これは孝霊天皇5年、江州(滋賀県)の地面がへこみ一夜のうちに駿河(静岡県)の国に富士山が盛り上がった。そしてへこんだ所に水が溜まり琵琶湖が出現したというのです。一方その昔、神々が駿河と甲斐(山梨県)の間に大きな山をつくろうと相談。山頂を神々の集合場所とし、四方の悪神ににらみを利かせようとしました。これを聞いた上野(群馬県)に住む天狗が山づくりの速さの競争を挑みました。しかし天狗と神との競争です。天狗が勝てるわけがありません。とうとう天狗は途中で逃げ出しました。こうして出来たのが富士山。神々たちはその土を近江から運び、あとにできた大きなくぼみは琵琶湖になったといいます。そして天狗がつくりかけた山はそ...▼山の雑学ばなし「富士山はこうしてできたのだ??※#?」

  • ▼山の雑学ばなし「熊野古道小辺路十津川村の巨杉」

    ★★★★★★★★★★★★★★★★★★■無料メールマガジン発行不定期■発行【とよだ時】★★★★★★★★★★★★★★★★★★みなさんこんにちは。また新しく読者登録して下さったみなさん、よろしくお願いします。「熊野古道小辺路十津川村の巨杉」【概略説明】熊野古道のなかほどの十津川村五百瀬は、『太平記』巻第五の「大塔宮熊野落ちの事」の舞台。いまでも護良親王の腰掛け岩や家来・村上義光にちなむ腰抜田などの伝承が残っています。4月の初め、高野山から入り伯母子岳に着くころは雨から雪に変わり積もり出すしまつ。それでも花の季節、五百瀬への下りは満開のヤマザクラが迎えてくれました。再び降り出す冷たい雨。三浦口バス停からまた山道に入ります。石畳の坂から植林のなかを登っていきます。突然、こりゃ何だ。曲がりくねった枝の巨杉が古道を横切...▼山の雑学ばなし「熊野古道小辺路十津川村の巨杉」

  • ▼雑学・山の伝承ばなし「白山・雷とハクサンコザクラと避難小屋」

    「白山・雷とハクサンコザクラと避難小屋」【概略説明】かつてはハクサンコザクラをナンキンコザクラと呼んでいたそうです。ところが、サクラソウの品種に同じ名のナンキンコザクラがあるというから具合が悪い。そこで区別するため、武田久吉博士がハクサンコザクラと命名したといいます。9月、白山御前ヶ峰で突然、土砂降りの雨とドカ~ンと雷鳴一発。あとはずぶ濡れのまま避難小屋に逃げ込みました。翌日も狂ったような雨と雷鳴。北陸一帯に大雨・雷・洪水警報とのラジオ放送。台風が前線を刺激しているとか。きょうは停滞と決め濡れたものを干し寝袋の中にもぐり込みます。篠突く雨と雷で人っ子ひとり通らないまる3日。こうして寝泊まりしていると、こんな避難小屋にも愛着が出てきます。それもそのはず、このあたり、シーズンはハクサンコザクラが群生する小桜平...▼雑学・山の伝承ばなし「白山・雷とハクサンコザクラと避難小屋」

  • ▼山の炉端ばなし「福井県荒島岳・仙人と鹿の角と災いの風」

    「福井県荒島岳・仙人と鹿の角と災いの風」【概略】荒島岳の標高は1523m。「百名山」では95番目、「日本二百名山」は166番目、「三百名山」では224番目の山です。山名は山麓の荒島神社からつけられたという説があります。この山には仙人が住んでいたという。江戸中期の本にこれは「常陸房が事なり」とあり、義経の家来常陸坊海尊だとしています。この山にも雪形が出てそれを見て九頭竜川ではアユ捕りをはじめたという。雪形はY字形をしていて地元の人は「鹿の角」と呼んだという。春、荒島岳から吹き下ろす乾燥した南東の風は大火をもたらす荒島おろしと恐れられ、また初夏に吹く風はウンカを運び、稲に被害をもたらすとされるから厄介です。9月、やはり「百名山」ブーム?、吹き出す汗のなか、20人近くの登山者に出会いました。ブナ林の登山道にハン...▼山の炉端ばなし「福井県荒島岳・仙人と鹿の角と災いの風」

  • ▼山の炉端ばなし「中ア恵那山・前宮ルートの枯れ大ヒノキ」

    「中ア恵那山・前宮ルートの枯れ大ヒノキ」【概略】前宮ルートは、登山口が川上集落の前宮本社近くにありバス停から歩ける距離。このルートは最も古い登山道でしたが、台風で被害を受けました。その後深田久弥が「百名山」で黒井沢ルートを紹介したたため廃道同然。しかし2001(平成13)年、川上にウエストン公園がオープン、それに合わせて地元の山岳会が整備、42年ぶりに蘇らせたといいます。ここは一合目から二十合目まであり、途中には樹齢数百年の枯れた大ヒノキも行程の目印になっています。8月初め、アブに追い回されながら登山開始。途中、古い石仏や役ノ行者像が迎えてくれ、修験者の山だったことが分かります。その夜は満月ひとり占めの満足感を味わえました。帰り、形がアオダイショウに似た黒い蛇がやたらに出没。枯れ大ヒノキの腐った幹の割れ目...▼山の炉端ばなし「中ア恵那山・前宮ルートの枯れ大ヒノキ」

  • ▼山の炉端ばなし「奥多摩・今熊山の行方不明探索神」

    「奥多摩・今熊山の行方不明探索神」【概略】昔、安閑天皇東行の時、妃の橘の仲皇女が行方不明になりました。ある夜、天皇の夢枕に「武蔵国今熊山に詣で、祈願せよ」との神のお告げがありました。早速勅使がやって来て山頂の社に祈願、妃の名前を大声で呼んだところ無事発見できたといいます。以来この山は「呼ばわり山」と呼ばれ、人捜し、行方不明者を見つけてくれる神として信仰を集めたといいます。江戸時代は時々、神隠しや人さらいでいなくなった子供の名前を呼ぶ母親の声が聞こえてきたそうです。この山はまた、子供を親元から「呼ばわって」連れてきてしまう山との意味もあるという。神が誘拐するとは、あな恐ろしや。山頂で大声で叫ぶのは誘拐犯に子供を帰せと迫っているわけです。山宮裏の石碑にある天狗の文字や里宮にうちわの紋章があるのは、その犯人を天...▼山の炉端ばなし「奥多摩・今熊山の行方不明探索神」

  • 「奈良県吉野・奥千本の西行庵」

    「奈良県吉野・奥千本の西行庵」【概略】あまりにも有名な吉野のサクラ。そのサクラに惹かれ、文人墨客がたくさん訪れています。西行法師もそのひとり。「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」。俗世間を離れて庵を結び3年間、歌をたくさん残しています。その西行庵が奥千本にあります。庵の屋根には雑草が生え、いかにも当時のたたずまいを彷彿とさせます。近くの「苔清水」はいまでも人の生活に十分な水量を保っています。「とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなきすみかかな」(読み人知らず)と詠んだ人もいたそうです。余談ながら、この歌もかつては西行の歌と思われていたそうです。西行庵は平地の開かれた気持ちのいい場所にあります。前に整備された東屋も建っています。西行といえば妻子を捨てて出家したお人。かわいい娘を出家...「奈良県吉野・奥千本の西行庵」

  • 「秩父・宝登山(ほとさん)と巨人伝説」

    「秩父・宝登山(ほとさん)と巨人伝説」【概略文】宝登山は、497mと標高は低いが、山頂のロウバイ園は花の時期になると見事。宝登山は火止山(ほとさん)の意味でその昔、日本武尊(やまとたけるのみこと・『日本書紀』の表記)がこの山で火事にあったが山犬が現れ、火を消したという伝説に由来しているとか。宝登山神社奥社には山犬のこま犬が建っています。このあたりは伝説の巨人デエダン坊の活躍した地帯。ある日デエダン坊は、片方のもっこに宝登山を、もう片方に武甲山を入れて、尾田藤の長尾根をてんびん棒にして担いで歩いていたという。ところがあまりの重さのためもっこが破れ、両方の山とも地面に叩き落ちてしまいました。武甲山は固かったためそのまま残りました。しかし、宝登山を入れたもっこは落ちたとき割れて、宝登山と簑山に分かれてしまいまし...「秩父・宝登山(ほとさん)と巨人伝説」

  • 「富士山・一合二合三合と数えるわけ」

    「富士山・一合二合三合と数えるわけ」。【概略文】富士山など、山の高さを一合、二合と数えます。でもどうしてそう呼ぶのか不思議ですね。第6代孝安天皇92年というから、『日本書紀』の記述から西暦になおすと、紀元前301年にあたる6月のある日、富士山が突然現れたというのです。雲霞が飛び来たって聚(あつ)まり、穀物を盛ったような形にできあがったというのです。そのため富士山の異名を「穀聚山」というのだそうです。またその高さを計るのに穀物を計る単位を使い、富士山頂までを一斗と見なし、下から一合、二合、三合……と数えました。そしてそれぞれに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏と、仏教でいう「十界」というものをあてたのだそうです。さらに一合、二合は十佳の因果、三合、四合は十行の因果、五合、六合は十回向の...「富士山・一合二合三合と数えるわけ」

  • 「南ア・甲斐駒ヶ岳山頂の祠はなんだ?」

    「南ア・甲斐駒ヶ岳山頂の祠はなんだ?」【概略】甲斐駒ヶ岳は数ある全国の駒ヶ岳のなかでも最高峰。ドッシリ構えた雄姿は見事です。山頂には立派な祠があり、山梨側山麓・2個所の駒ヶ岳神社の奥宮です。祭る神は大国主命でおなじみの大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこのみこと)という神さま。日本神話で出雲の国譲りの時、建御雷神(たけみかづちがみ)に追われた建御名方神(たけみなかたがみ)が長野県諏訪湖まで逃げてきて、甲斐駒ヶ岳を見てただ感動。のち、諏訪湖の神になり、あの崇高な山に、父親神である大己貴命(大国主命)を祭ったのがはじまりという。少彦名命があるのは、大・小(少)の対比からコンビとしてよく祭られているケースです。シーズンには登山者が、まるでアリが列をなすような状態で、人気の加減がうかがえます。・山...「南ア・甲斐駒ヶ岳山頂の祠はなんだ?」

  • 「奈良・高天彦神社近くに土蜘蛛住んでいた洞窟がある らしい」です。

    【概略文】『古事記』や『日本書紀』などの神話伝説に出てくる高天原はここだという所は各地にありますが、ここ奈良県御所市高天集落もそのひとつです。高皇産霊神(たかみむすびのかみ)を祭神とする高天彦神社もあります。昔、ここにクモのような部族・土蜘蛛が住んでいたという。土蜘蛛は鬼と同じように、古代、朝廷に従属しない先住の人々をよぶ蔑視語。伝説によれば、土蜘蛛はサルチ(猿伐)という所から矢で射殺され、蜘蛛塚に埋められたという。かなり前の4月、高天彦神社から土蜘蛛の住処だったという蜘蛛の窟を訪ねました。蜘蛛窟は杉林の中にあり、径2m位の場所がコンクリートで固められ石碑も建っています。そこから伸びる踏み跡一本。ザックをおろし、結構な距離歩いた歩いた。たどり着いてみれば枯れ葉で埋まった同じようなくぼ地がポツン。登山靴で切...「奈良・高天彦神社近くに土蜘蛛住んでいた洞窟があるらしい」です。

  • 「南アルプス農鳥岳・農業の鳥とタマゴ」

    「南アルプス農鳥岳・農業の鳥とタマゴ」【説明概略文】農鳥岳は本峰とその西側に西農鳥岳の2峰からなり、北方に間ノ岳がある。農鳥岳は農作業の目安の鳥の雪形・農鳥からきた山名だという。しかし江戸時代の「甲斐国志」や明治時代の『大日本地名辞書』には農鳥岳が間ノ岳と同じとあり、農鳥岳の雪形が、どこのどれなのかかなり混乱している。小島烏水の『日本アルプス第1巻』の「白根山脈の記」では、農鳥岳山頂直下に出るとあり、「農鳥」はニワトリのことだそうだが、雪形はそうは見えないとある。地元の人の話ではシャモのオンドリのようだともいっている。また雪形の農鳥というのは、農鳥岳山麓に近い沢の雪の消えたあとへ出る黒い岩で、タマゴを3つも持って現れるという言い伝えがあると書いている。・山梨県早川町と静岡県静岡市との境【説明本文】http...「南アルプス農鳥岳・農業の鳥とタマゴ」

  • 「北ア常念登山口炎天下の烏川林道」

    「北ア常念登山口炎天下の烏川林道」【説明概略文】常念岳と蝶ヶ岳の登山口三ツ股から間もなく舗装になり、ゲートをくぐると立派な駐車場があります。常念岳と蝶ヶ岳の間から流れ出し、やがて烏川にそそぐ本沢に沿った烏川林道の終点です。登山者ははマイカー以外でもタクシーを利用。林道は地形が急傾斜のため、何回も大きくピンカーブ。山頂までより林道は3倍の距離。真夏炎天下、この林道を歩いてみました。あまりの暑さに雨傘をさし、アスファルトの照り返しを我慢しながらテクテク。途中、山小屋から呼んだらしいタクシーのなかで居眠りしている人たちに追い抜かれます。あのまま駅に横付け、特急で帰宅。山の余韻もなく一家団欒……。くそッ!。今度登るときはヘリでも雇うがいい。暑さで水ぶくれになった腕をさすりながらひがみました。・長野県松本市と安曇野...「北ア常念登山口炎天下の烏川林道」

  • 「北アルプス常念岳の雪形常念坊と満願寺」

    【概略説明文】常念岳の雪形にもなっている怪僧常念坊。平安時代、坂上田村麻呂が八面大王を討伐した時、一の手下の常念坊という鬼が空を飛び、いまの常念岳に逃げ込んだ。この鬼はよく念仏を唱えていという。常念坊は毎年里で市が開かれると酒を買いにあらわれ、五合徳利を差し出し「五升入れてくれ」という。不思議なことにこの徳利に五升の酒が入ってしまうといいます。一説にこの常念坊は穂高町の満願寺の住職で常念岳を開山したとか、また長野県堀金村では正福院(明治維新に廃寺)の修験者だったともいいます。ある8月、下山したついでに満願寺へ寄って住職に聞きました。「さあ、聞いたことがない」知らないといわれればとりつくしまがない。『信州山岳百科1』など複数の信頼できる本に載っているんだがな?・長野県安曇野市【説明本文】https://to...「北アルプス常念岳の雪形常念坊と満願寺」

  • 信州・安曇野早春賦の歌碑

    【概略説明文】長野県中央部・松本盆地の北半分の上高地方面から流れ出す梓川の北側を安曇野と呼ぶそうです。ここに広がる水田地帯は信州第一の米作地。周辺に北アルプスを控え、大町市、穂高町などは山岳観光の基地。また大糸線穂高駅周辺の辻々にたたずむ道祖神群は有名です。ならんだ男女2神が穏やかな表情で手を握りあったり、肩を組んだりする仲睦まじい姿は、訪れる観光客の心をなごませてくれます。その人たちが必ず寄るのが穂高川土手に建つ早春賦の碑。♪春は名のみの風の寒さや……吉丸一昌作詞、中田章作曲、誰もが知っている「早春賦」一節です。この歌は遅い春を待ちわびる農民の心を詠んだものという。4月中旬、真っ盛りの桜の花の下で石碑が3つ。遠くに北アルプス山々が雪をいだいて輝いていました。・長野県安曇野市【説明本文】https://t...信州・安曇野早春賦の歌碑

  • 秩父・三峰山奥ノ院

    かつて三峰神社奥ノ院の妙法ヶ岳と白岩山、雲取山の3つの峰を三峰と呼んでいたということです。社伝によると、日本武尊が東征の途中、雁坂峠で道に迷った時、白いオオカミが現れ、いまの三峰神社付近まで案内されたといいます。これは神の導きに違いないと、ここに伊弉諾命、伊弉冉命をまつりました。そして武尊を案内したオオカミを神社のお使いにしたといいます。室町時代三峰神社を再建した道満のの後継者・滝栄のころ神社の眷属のオオカミが大口真神(おおぐちのまがみ)として崇められはじめ、いまでは火難・盗難除けのお札として民家の門口に張られています。三峰神社の奥ノ院は鉄ばしごを登った上の小平地。熊野三社山王21社を祭ったと伝える祠があり、やはりオオカミ像が並んでいます。・埼玉県秩父郡大滝村三峰【説明本文】https://toki.mo...秩父・三峰山奥ノ院

  • 雑学「山の伝承神話」東京・高尾山の天狗は女性だという説?!

    高尾山の天狗は、くちばしのあるカラス天狗でしかも女性の天狗だという説があります。そもそも1376(永和2)年、沙門俊源大徳が高尾山再興のおり、修行に疲れ仮眠の夢枕に神が出てきた。顔は人、鳶のようにくちばしがあり、法衣を着て背に火炎を出し、わきに翼を広げた飯縄権現の姿。余はアバラ(不動)明王である。長い間魔怪たちが世の中を乱しているので雷を落とし、降伏させるために現れた。これを飯縄の女神という。山に祀るように、といったというと「若稽旧記」(1750・寛延3年)に記載されています。それなら高尾山の天狗は女天狗ということになります。くちばしのある荼吉尼天姿の天狗が鼻高天狗として麓の駅に建てられてしまっているいま、これも永遠の謎になってしまうのでしょうか。・東京都八王子市【説明本文】https://toki.mo...雑学「山の伝承神話」東京・高尾山の天狗は女性だという説?!

  • 山の炉端ばなし「西丹沢切通沢でのビバーク・荒い鼻息がテントをぐるり!」

    西丹沢切通峠は山梨・神奈川の両県境の稜線にあり、山中湖と富士山を望む絶好地。かつては相模・甲斐・駿河の三国で入会権の争いがあった所。とくに山梨県側平野地区と神奈川県世附地区の争いは激しかったらしい。峠の東側・切通沢の源頭は小平地で、先年、仲間で野宿訓練したところ。乱舞するホタルが見事でした。数年後、一人で立ち寄りました。夜が更けるといろいろな動物が水を求めてやってきてテントのまわりを徘徊します。いつものことです。そのうち見慣れないものを見て興奮したか、ひときわ鼻息の荒い動物が近づいてきます。悪かったよ、一晩だけ頼むよ。しばらく様子を見ていたが無害だと思ったのか、やはり鼻息をたてながら去っていきました。たぶんイノシシだったみたい。・神奈川県山北町と山梨県山中湖村との境。【説明本文】https://toki....山の炉端ばなし「西丹沢切通沢でのビバーク・荒い鼻息がテントをぐるり!」

  • 山の炉端ばなし「東北・飯豊連峰の境界は奇妙だぞ」

    【説明概略】山形・福島・新潟県にまたがる飯豊連峰。ところが三国岳(1644m)から種蒔山(1805m)などは3県境なのに、その先の飯豊山周辺は福島県だけに属し、さらに先の御西岳(2013m)付近は新潟県がわずかにはずれて山形・福島県境。つまり稜線の登山道沿いに福島県山都町がと入り込んでいます。地図では描きようがなくイラストのように表しています。ここは古くからの飯豊神社信仰の山。民衆は昔から里宮のある福島県側から奥ノ院へ登っていたためこんな形になったのだという。奥ノ院のまわりは塀のように石が積まれています。その「塀」の間から中に入り、よく分からないまま参拝。御西岳周辺はニッコウキスゲやチングルマなどお花畑。地元の生徒たちの集団登山がにぎやかでした。・福島県喜多方市【説明本文】https://toki.moo...山の炉端ばなし「東北・飯豊連峰の境界は奇妙だぞ」

  • 山の炉端ばなし「八ヶ岳・阿弥陀岳と諏訪大社神木の御小屋山」

    「八ヶ岳・阿弥陀岳と諏訪大社神木の御小屋山」【説明概略】阿弥陀岳山頂には、二十数基の石仏がならんでいます。ここも山岳修行道場の一峰。前山といわれるのが御小屋山で、阿弥陀岳、赤岳は奥ノ院にあたり、とくに御小屋山は、御柱山ともいい、諏訪大社の御柱祭の神木の切り出す山。そのためか諏訪大社上社、御小屋山、阿弥陀岳、赤岳は一直線上にならんだ位置になっています。9月中旬、行者小屋前にテントを張りっぱなしにして阿弥陀岳から地図上の御小屋山、その先の神社と諏訪神社奥社を訪ねました。阿弥陀岳では所属する山岳会のパーティーとバッタリ。また途中の不動清水ではカモシカとにらめっこ。しかしその先の神社や諏訪奥社は地元の人に聞いても分からずじまい。詰めの甘さをしみじみ痛感。・長野県茅野市と原村との境。【説明本文】https://to...山の炉端ばなし「八ヶ岳・阿弥陀岳と諏訪大社神木の御小屋山」

  • 山の炉端ばなし「奥多摩・鷹ノ巣山の熊」

    「奥多摩・鷹ノ巣山の熊」【説明概略】鷹ノ巣山付近一帯は御巣鷹山といい、江戸時代、鷹の幼鳥を育成、保護。幕府に献上したという。ある年の9月、お月見山行をした時のこと。3時間近くも登りヒルメシグイノタワを過ぎるあたり、突然ボキッと木の折れる音がし、黒い固まりが落ちてきました。そしてクマザサの中でこちらの様子を伺っている気配。これは熊だ。相手も怖いに相違ない。様子を見ながら急坂を引き返しました。翌日、登ってみると大木の太い枝が折れてぶら下がっています。ここは春夏秋冬おなじみの道。こんなことは初めてです。地図を見ると東側に鷹ノ巣谷の支流が突き上げ、大滝もあって熊にとっても住みやすいに違いありません。奥多摩には50~60頭の熊がいるそうです(当時)。・東京都奥多摩町【説明本文】https://toki.moo.jp...山の炉端ばなし「奥多摩・鷹ノ巣山の熊」

  • 山の炉端ばなし「中央線沿線山梨県・滝子山と鎮西八郎為朝」

    「中央線沿線山梨県・滝子山と鎮西八郎為朝」【概略】小金沢連嶺の最南端・滝子山。この山は鎮西八郎為朝が住んだ所という。北側直下には、鎮西ヶ池もあります。鎮西とは鎮西八郎為朝のことだという。保元の乱で破れ、伊豆大島に流罪になった為朝が伊豆に上陸しここまでやってきたというのです。また、為朝がかつて九州に追われれていたときの妻・白縫姫とその子為若が為朝を慕って訪ねてきて、ここに住んでいたという説もあります。付近には生活物資を運んだという「米背負の辻」、「御馬冷やし場」、「菜畑」などの地名も残っています。東麓の恵能野(えのうの)に為朝の末裔と称する家があり、為朝大神の祠に白縫姫や為若を祭ってあるという。のち、鎮西ヶ池から白縫姫か、その侍女のものらしい古鏡が出てきて大騒ぎになりました。この鏡は干ばつの時、雨乞いをする...山の炉端ばなし「中央線沿線山梨県・滝子山と鎮西八郎為朝」

  • 山の伝承神話「中ア木曽駒麦草岳・馬形の岩と麦草」

    「中ア木曽駒麦草岳・馬形の岩と麦草」【概略】麦草岳は雪解けがすすむと、山の斜面に大蛇の雪形があらわれ、ふもとの上松町の風物詩になっています。山頂のハイマツの生えた傾斜地は、春になると緑が鮮やかさになるという。下界からみると、その緑がまるで麦草が生えているようなのでその名があるそうです。ある夏、木曽駒ヶ岳のとなり木曽前岳から山姥の奇岩を経て、麦草岳に向かいました。お花畑にはわずかな踏み跡がつづいています。はしごと岩峰を越えて間もなく、開けた山頂に飛び出しました。広々とした頂は、ひざくらいまでハイマツにおおわれ、山名の由来も納得です。赤い屋根の祠のわきに寝転がり、しばらく流れる雲を眺めました。訪れる人は全くありません。赤い屋根の祠のわきに寝転がり、汗を拭きながら、しばらく流れる雲を眺めてしまいました。ついでな...山の伝承神話「中ア木曽駒麦草岳・馬形の岩と麦草」

  • 山の伝承神話に遊ぶ「北ア徳本峠の旅人・笛の音が終わるとと同時に……」

    「北ア徳本峠の旅人・笛の音が終わるとと同時に……」【説明概略】徳本峠は奈良時代からあった上高地へ通行路。こんな古い峠ですから伝説もいろいろ残っています。昔、若い旅人が徳本峠をめざしていました。前を若い美しい娘が歩いています。娘は峠道の角で見えなくなりました。夕日が沈み、月が出てきました。突然笛の音が聞こえてきます。あの娘が草原で笛を吹いているのです。美しい音色に旅人は聞きほれます。娘が笛を吹き終わったとたんお婆さんになっていました。「キツネの仕業だ」。旅人はあわてて歩きはじめました。向こうからほかの旅人がやってきました。そしてすれ違いに旅人の顛を見て、心配そうに声をかけました。「おじいさん、そんなに急ぐと転びますよ」。旅人も老人の姿になっていたのでした。・長野県松本市安曇【説明本文】https://tok...山の伝承神話に遊ぶ「北ア徳本峠の旅人・笛の音が終わるとと同時に……」

  • 山の伝承神話に遊ぶ「ワッ、富士山が持ち上がった!」

    「ワッ、富士山が持ち上がった!」【説明概略】富士山五合目、佐藤小屋上には八角堂があってわきに日蓮上人のお経を持った像が建っています。日蓮は1269(文永6)年に富士山に登り「姥ヶ懐(ふところ)」の岩穴にこもって修行したといいます。そして自筆の経王を近くの経ヶ岳に埋めたと『日蓮大士眞実傳』や「甲斐国史」などに出ています。7月の半ば、富士吉田駅から歩き、五合目の日蓮が修行したお堂の前で食事。突然、グラリと大地が揺れました。富士山がなにかといわれる昨今、目の当たりに体験すると実感がわいて、あすは早めに下山しようと逃げ腰になります。それにしても地震は富士山をも持ち上げることをいまさら体験しました。・山梨県富士吉田市【説明本文】https://toki.moo.jp/mail-maga/gate-mail/gate...山の伝承神話に遊ぶ「ワッ、富士山が持ち上がった!」

  • 山の軽口ばなし「佐々成政黄金伝説・鍬崎山はマムシの巣だった」

    ▼「佐々成政黄金伝説・鍬崎山はマムシの巣だった」【説明概略】鍬崎山は埋蔵金の山。いまから四百年あまり前。富山城主、佐々成政が豊臣秀吉が攻めよせてくるという情報に、百万両の軍用金を阿部義行に鍬崎山に埋めるよう指示したという。穏してある場所は、鍬崎山のマムシが巣をくっている大木の下あたり……。埋蔵金は笹のしるしのある壷49個に純金がぎっしりつまっているという。鍬崎山はじめじめした登山道に伝説どおりマムシがウジャウジャ。やっと着いた山頂は360度の展望。目の前に薬師岳がはだかっています。おやつを食べ、お茶を飲んでいるうちに埋蔵金の話などすっかり忘れていました。でも、妙な満足感がありました。・富山県富山市【説明本文】https://toki.moo.jp/mail-maga/gate-mail/gate01.pd...山の軽口ばなし「佐々成政黄金伝説・鍬崎山はマムシの巣だった」

  • 山の軽口ばなし「奥武蔵子ノ権現・ネ、ネ、ネ、ネ」

    ▼「奥武蔵子ノ権現・ネ、ネ、ネ、ネ」【概略説明】子ノ権現というのは子ノ聖(ひじり)のことだそうです。「子(ね)ノ権現」の「子(ね)ノ聖(ひじり)」と続きます。これにはいわくがあるのだそうです。平安時代初期、紀伊の国というからいまの和歌山県に阿字長者という女性がいました。この人がある夜、神から剣を口の中に突き通された夢を見ました。すると処女でありながら懐妊したというのです。そして、十二支の子(ね)の年の、子(ね)の月の子(ね)の日、子(ね)の刻に出産。生まれたのが子(ね)ノ聖(ひじり)だという。子ノ権現の寺の「子(ね)づくし」縁起によると、子の聖はその後東北の羽黒山に遊行、聖地を求めて般若経を空に投げました。するとお経は、遠~く埼玉県奥武蔵のいまでいう「子の山」に落ちました。子の聖はお経が放つ光りを頼りにや...山の軽口ばなし「奥武蔵子ノ権現・ネ、ネ、ネ、ネ」

  • 山の軽口ばなし「富士山と姫と兵隊」

    ▼「富士山と姫と兵士」【概略文】かぐや姫は富士山にも関係があるという。かぐや姫の評判を聞いた帝は、妃のように愛したという。3年が過ぎたころ、姫は不死の薬や手紙を帝に残し天に昇ってしまいました。悲しんだ天皇は、預かった薬や手紙を、天に一番近い富士山頂で燃やしてしまうよう指示。勅使は大勢の兵士を連れて富士山に登りました。山は兵士でいっぱいになりました。そこで「士に富む山」というので「富士山」と名づけたと平安時代の『竹取物語』にあります。また、室町時代の「富士山縁起」には、帝からかぐや姫に贈る王冠を預かった使いが富士山で姫に渡し、姫は冠をつけたまま山頂に登って行ったとあります。さらに南北朝時代の『神道集』にも、かぐや姫を寵愛していた国司が頂上にある大きな池(噴火口?)の煙のなかにほのかな姫の姿を目撃しましたが、...山の軽口ばなし「富士山と姫と兵隊」

  • 山の軽口ばなし「ナマズ神と鹿島槍」

    ▼「ナマズ神と鹿島槍」【説明概略】山の名はその形からきているものが多い。槍の穂先のように尖っている槍ヶ岳。白馬三山の「鑓ヶ岳」も槍と同じ意味です。さらに後立山連峰にも槍ヶ岳があり鹿島槍ヶ岳と呼んでいます。この山は室町時代に大地震があり大崩落し、ふもとの集落が大きな被害を受けました。村人は、常陸の国(茨城県)の鹿島神宮から鹿島大明神を勧請して山に祭り、山の名を鹿島山、集落を鹿島集落と改めたという。江戸中期の『信府統記(しんぷとうき)』という本にも「鹿島山トナズケタルハ昔シ鹿島明神出現アリシトテ此所ニ祭リシヨリ今ニ此名アルナリ」と出ています。そういえば、鹿島神宮は地震の神。地下にいる大ナマズの首と尾が神宮の下で合わさっているとされ、それを鹿島明神が「要石」という石で貫き止めていると伝えます。・長野県大町市と富...山の軽口ばなし「ナマズ神と鹿島槍」

  • 山の軽口ばなし「振りあげたげんこつと甲武信」

    ▼「振りあげたげんこつと甲武信」【概略】山梨・埼玉・長野の3県にまたがる甲武甲斐、武蔵、信濃の三国にまたがるというので一字ずつをとり甲武信ヶ岳。三国にまたが信ヶ岳は、旧国名の甲斐、武蔵、信濃から一字ずつをとってつけた名前。埼玉県側では大空に「ゲンコツ」が持ち上がっているようなので、「拳(コブシ)」と呼んでいました。さらに遠く群馬県の西部では「三国山」、同県浜平では大三国(おおみくに)と呼んでいたそうです。このように各山麓から見てそれぞれの山名で呼んでいたわけです。しかし、いまの名は甲武信ヶ岳。しかし甲武信と書いて「こぶし」と読ませるには、やはり無理があります。知らない人が「こうぶしん」と読んでいるのも無理からぬこと。明治時代、農商務省が地図を作ったとき、3つの国名の一字ずつをとって「甲武信」としました。さ...山の軽口ばなし「振りあげたげんこつと甲武信」

  • 山の軽口ばなし「北アルプス・白馬鑓ヶ岳の硫黄取り」

    ▼「北アルプス・白馬鑓ヶ岳の硫黄取り」【説明概略】白馬岳から南下すると、白馬鑓ヶ岳の裏側、富山県側に草木も生えない山があります。硫黄の臭いが鼻をつき、野ウサギや小鳥の死がいが転がっているという。朱殿坊山で、硫黄がとれ村人は我も我もと採取に登り、一時は松本藩が税金まで課したという。村人たちはなるべく安全な春から夏かけて硫黄の採取をしましたが、やはり場所が場所。時々事故が起こり、その人たちの名が地名になって残っています。白馬大雪渓下方の猿倉から鑓温泉へ向かう途中の三次郎台地は、三次郎という人が硫黄を精製したところ。一方、鑓温泉直下の湯の入沢にある六左衛門滝。その昔、六左衛門が朱殿坊に硫黄をとりに行った時、鉱石と六左衛門を乗せた芝ぞりが雪渓を滑り、そのまま大滝の滝壺に落下。2日2晩頑張ったがついに滝壺のなかに沈...山の軽口ばなし「北アルプス・白馬鑓ヶ岳の硫黄取り」

  • 山の軽口ばなし「丹沢・大山阿夫利神社の納め太刀」

    ▼「丹沢・大山阿夫利神社の納め太刀」【説明概略】阿夫利神社境内のせまい通路の奥に進むと木刀のような太刀が壁に掛けてあります。かつて大山参りには、この納め太刀を奉納する習慣があったという。これは大山石尊の御神体が石剣であることから、自分の大事な刀を奉納したのがもとだという。このように、大山信仰はもと武士階級からはじまりましたが、庶民に普及するにつれ、木太刀に変わったものらしい。この納め太刀は小さいものは七~八寸、大きいものはおとなの身長の2倍以上もあり、「大願成就」、「大山石尊大権現」などと書いた太刀をかついできて、神社の神前に納め、かわりに他人が納めた木太刀を持ち帰りお守りにしたという。明治になり鉄道が走ってからは、大きな木太刀を車内に持ち込まれ、危なくてしょうがない。持ち込みは禁止になり、いつか納め太刀...山の軽口ばなし「丹沢・大山阿夫利神社の納め太刀」

  • 山の軽口ばなし「紀伊・金剛山の蛇谷」

    ▼「紀伊・金剛山の蛇谷」【概略】修験道の開祖・役ノ行者の修行の場だった金剛山。そこから東側の御所市へと流れる蛇谷は、飛鳥時代、葛城山と金峰山に渡す「岩橋造り」で、一言主の神が役ノ行者に逆らい、葛の蔓で七巻きも縛られ、置き去りにされた所という。呪縛された一言主神が、どんな手を尽くしても葛を解くことができず、その苦しいうなり叫ぶ声は幾年たってもまだ絶えていないと伝えています。なかには一言主神は長さ2丈半(1丈は約3.0303mだから7.57575mとはデカイ!)ばかりの黒ヘビにされ、いまでは行者を恨む気力もなくなってしまったという本さえあります。またその谷は吉野だという説もあります。何回か地元の方にお聞きしたのですが、この手の話はまず無理で、まだ確認できていません。・奈良県御所市【説明本文】https://t...山の軽口ばなし「紀伊・金剛山の蛇谷」

  • 中ア木曽駒ヶ岳・もし信長が本能寺で死んでいなかったら

    中ア木曽駒・もし本能寺の変がなかったら【概略】木曽駒ヶ岳には昔から神馬がすんでいるという噂があったという。江戸中期の『新著聞集』にも、尾州の役人たちが大きなあし毛の神馬を見たという話が載っています。時代は戦国時代、その話を伝え聞いた織田信長がこの神馬を探しに行くつもりだったという。木曽地方の地誌『吉蘇志略』に『三季物語』に載っている話として、織田右丞甲州を征伐し、軍を回すの日諸将に云って曰く、吾聞く信州駒嶽に四百年来神馬有り。……明年は諸国の卒徒を督し此の山を囲み之を猟得せん。源右幕下の富士の狩に倣うべきなり。其ノ年明智光秀のため弑に遭い其ノ事遂に止む、とあります。ちなみに信長は天正10(1582)年伊那谷に入り北進、3月に高遠城を滅ぼし、諏訪から甲州に進み武田を滅ぼしたのちの6月に「本能寺の変」に遭って...中ア木曽駒ヶ岳・もし信長が本能寺で死んでいなかったら

  • 山の民俗ばなし「丹沢・菰釣山のこも」

    ………………………★★★★★★★★★★★★★★★★★★■無料メールマガジン発行不定期■発行【とよだ時】★★★★★★★★★★★★★★★★★★みなさんこんにちは。また新しく読者登録して下さったみなさん、よろしくお願いします。さてきょうの山の民俗ばなしは▼「丹沢・菰釣山のこも」【概略】比較的静かな山歩きが楽しめる西丹沢の菰釣山。このあたりの山は良材ができ、かつては北条氏の命令で小田原まで運搬していたという。江戸時代は幕府の保護を受け、明治には御料林に指定。このような山なので、甲斐国と相模国との国境争いが絶えません。特に天保年間の争いでは、甲州・平野村の名主・長田勝之進が江戸幕府に告訴。菰を吊るして山頂にたてこもり生活したという。裁判の結果は平野側が敗訴、いまの県境が決定したという。また戦国期、武田信玄が小田原城...山の民俗ばなし「丹沢・菰釣山のこも」

  • 山の炉端ばなし「南アルプス・農鳥岳の雪形」

    ▼「南アルプス・農鳥岳の雪形」【概略】南アルプスの北部にある北岳、間ノ岳、農鳥岳は、合わせて白峰(しらね)三山と呼ばれています。標高が高いため、まわりの山々よりも遅くまで白く雪が残るので白い峰なのだそうです。農鳥岳の峰は、ふたつに分かれ東側のピークが単に農鳥岳と呼び、西にあるピークを西農鳥岳といっています。ここにも雪形があらわれ、農作業をはじめる目安になっています。農作業にちなむ鳥の形であるので農鳥岳の名の由来だといいます。農鳥岳の雪形は2種類あって、東峰の農鳥岳のアスナロ沢という沢の源頭に出るという。夏のはじめ、白鳥の雪形があらわれると、山梨県側の山ろくでは苗代(なわしろ)づくりの作業を、次に牛の雪形が出ると、ダイズやアズキをまく作業をはじめたといいます。また雪形は年2回あらわれることがあるそうです。秋...山の炉端ばなし「南アルプス・農鳥岳の雪形」

  • 山旅通信【ひとり画っ展】1089号発行しました。「南アルプス光岳・光る岩と伝説」

    ▼「南アルプス光岳・光る岩と伝説」【概略文】光(てかり)岳は、三角点の西南にある乳白色の大きな岩が夕日を受けると「テカッ」と白く光り、山ろくや池口岳山頂などから見るとよく目立ちます。猟師たちは、その岩を光岩と呼んだのが山名の由来だといいます。光岳山ろく、いまの静岡市葵区井川地区田代集落に、手者万九(てしゃまんく)という力自慢の男がいました。この男が、静岡浅間神社の大鳥居工事の際、石の柱をひょいと組み立ててやりました。その時少し左に傾いて建ててしまいました。そのため、いまでも浅間神社の長谷通り側の鳥居は少し曲がっているのだそうです。同じ井川には、甲斐武田勢にも負けなかったという海野七郎太郎と、七郎三郎という兄弟の伝説があります。また南ろく川根本町寸又峡の「落ちない大石」は光岳の天狗にちなむもので、いまでは、...山旅通信【ひとり画っ展】1089号発行しました。「南アルプス光岳・光る岩と伝説」

  • 山の炉端ばなし「北アルプス・笠ヶ岳の播隆上人」

    ▼「北アルプス・笠ヶ岳の播隆上人」【概略】400字笠ヶ岳はどこから見ても笠の形に見える山です。槍ヶ岳の初登頂でおなじみの播隆上人が笠ヶ岳に登り、ここから見た槍ヶ岳に感激し、槍ヶ岳を開山を決意した話は有名です。江戸も後期の1823(文政6)年、笠ヶ岳再興を果たした播隆は翌年、笠ヶ岳の登山道に8体の石仏を4キロごとに建て、山頂に阿弥陀仏を祀ったといいます。この登山は大阪や西国からも大勢の信者が集まり、計66人もの集団登山になったといわれます。いまも笠ヶ岳山頂にはなごりの祠があります。笠ヶ岳山頂に立った播隆は、東の空に浮かぶ荒々しい穂高連峰の岩峰の中に、ひときわ天を突く槍ヶ岳を見ました。「おお!あの山こそ、絶好の修行の場所だ。」播隆はそう確信、なんとかして槍ヶ岳に登ることを決意するのでした。この瞬間から槍ヶ岳開...山の炉端ばなし「北アルプス・笠ヶ岳の播隆上人」

  • 山の炉端ばなし「北アルプス・内蔵助谷(くらのすけだん)の流れ星」

    ▼「北アルプス・内蔵助谷(くらのすけだん)の流れ星」【概略文】黒四ダムの下流、黒部川左岸の支谷・内蔵助谷(だん)は、上流に氷河地形のカールとモレイン(堆石)があることで有名です。大カールの最低部の氷は一千数百年もの年月を経た「生きている氷河」といわれています。ここはあの佐々成政も信州への往来に利用したともいわれる所。内蔵助平はその中流域にある長円形の浸食盆地になっています。北アルプスに残された数少ない静寂境のひとつで、高山植物の宝庫として知られています。7月、真砂沢ロッジから黒部ダムに向かう途中、内蔵助平の鉄橋の水場近くにテントを張りました。物音は沢の流れだけ。夜中にふと目が覚めました。テントから顔を出して覗くと外は満天の星。外に出て流れ星を肴にイッパイはじめました。天の川はオレのものだあ!。・富山県立山...山の炉端ばなし「北アルプス・内蔵助谷(くらのすけだん)の流れ星」

  • 山の炉端ばなし「北アの白馬大池に昔、鳥居があった?」

    ▼「北アの白馬大池に昔、鳥居があった?」【説明概略文】北アルプス白馬岳の北東にある白馬大池は、海抜2397m、周囲2キロ、サンショウウオも生息しています。最も深い所で13.5m、日本の高山湖のなかでも、第2位の深さだといいます。日本の湖沼学の開拓者、田中阿歌麻呂はここで携帯ボートに乗り、初の高山湖調査を行ったそうです。その湖上にかつて鳥居が建っていたというめずらしい話があります。1927(昭和2)年、いまの白馬村森上の後藤敏氏という人が、白馬岳に天照大神を祭り、天狗っ原に白馬岳神社の祠を建立しました。いまも天狗っ原に祠が建っています。続いて彼は、伊勢神宮の外宮の祭神である豊受大神(天孫降臨の随伴神で、穀物、食物の神)の神霊を受け、白馬大池に鎮め、池の中に厳島神社のそれにまねて鳥居を建てたということです。い...山の炉端ばなし「北アの白馬大池に昔、鳥居があった?」

  • 山の炉端ばなし「中ア木曽駒ヶ岳・昔から伝わる神馬(しんめ)伝説」

    ▼「中ア木曽駒ヶ岳・昔から伝わる神馬(しんめ)伝説」【概略】江戸時代前期のころ、いまの愛知県の役人で大目付の佐藤半太夫、勘定方天野四郎兵衛、金役天野孫作、材木役都築弥兵衛、小目付真鍋茂太夫たちが木曽路に見回りにやってきました。見回りの前日、地元の農夫たちを案内役に木曽駒ヶ岳に登ったという。険しい岩を木の根を頼りによじ登りホッとしたとたん、突然、大きなあし毛の馬が現れました。首の毛や尾が地面を引きずるほど長く、眼光輝き身の毛もよだつ形相をした馬でした。怪馬は人影を見つけると静かに歩きだします。役人たちはかたずを呑んで見守っています。その時、急に霧がわき出し馬の姿を覆ってしまい見失ったという。残った蹄のあとは30センチ以上もあったそうです。このような馬伝説のほか、駒形石や馬舟石、おこりの薬の馬糞のようなものな...山の炉端ばなし「中ア木曽駒ヶ岳・昔から伝わる神馬(しんめ)伝説」

  • 山の炉端ばなし「奈良県葛城山・役行者に呼び出された全国の天狗」

    ▼「奈良県葛城山・役行者に呼び出された全国の天狗」【概略文】吉野金峰山で修行をした役ノ行者は、葛城山と大峰山を交互に住みわけていました。それを見習い二大聖地に入る人たちが多くなってきます。そこで行者は、両山の間に岩の橋を架けて人々が行き来できるようしようと考えました。その工事を手伝わせるため全国の鬼神や天狗を集めようとします。その時、行者の従者の前鬼後鬼が回った山々は、愛宕山、鞍馬山、比良山、飯縄山、富士山、妙義山、筑波山、英彦山、丹沢大山、比叡山、肥後金峰山、白峰、秋葉山などだそうです。それに呼応して集まった天狗は21狗。人夫として召集された鬼神や天狗たちは、早速工事に取りかかりました。しかし、気の短い行者に早く早くと日夜せき立てられて働かされます。結局、行者が島流しに会い岩橋は未完成に終わったという。...山の炉端ばなし「奈良県葛城山・役行者に呼び出された全国の天狗」

  • 山旅【画展】496号「千葉県君津市旅名・寂光山の笠石」

    【概略文】房総丘陵に笠のような岩が台座の岩盤に乗っている笠石があります。台座の先は落差数十mの断崖。笠になっている岩は南北約3.5mくらい、東西約2mほどの楕円形で、重さは3から4トン位。笠と台座は同質ですがその間に岩質の違う石がはさまっています。「古代の石像遺跡か」「宇宙人の仕業か」。このあたりは地元の入会」。笠石についてはこんな伝説があります。その昔、笠石を若者が悪戯をして断崖から落としてしまった。しかし天狗または鬼の仕業か、翌日笠石はもと通りになっていたという。不思議なのは地図上に周囲の山々を線で結ぶと、笠石はその交差する点に見事にのっています。さらに大塚山・笠石・愛宕山の延長線が房総を開いた天富命が創建した安房国一の宮だった安房神社に達します。古代信仰の方位学に関係しているのでしょうか。・千葉県君...山旅【画展】496号「千葉県君津市旅名・寂光山の笠石」

  • 山旅通信【ひとり画っ展】1088号発行しました。「長野県・霧ヶ峰車山の伝説」

    ▼「長野県・霧ヶ峰車山の伝説」【概略】霧ヶ峰は、最高峰の車山を中心に広がる大草原。八島ヶ原・踊場・車山の3つの高層湿原があり国の天然記念物に指定されています。山ろくには、白樺湖と美ヶ原を結ぶビーナスラインが通っています。冬はスキーのゲレンデとして、また日本のグライダー発祥の地にされています。車山は諏訪湖方面からみると、大八車の形に見えるのが山名の由来とか。山頂からは蓼科山、八ヶ岳、富士山、また南・中央・北アルプス、美ヶ原、さらに戸隠、妙高、上信越の山々までが見えます。霧ヶ峰は名前のように霧が多い。湿原地帯には、数百種もの草木が生えているといわれ、とくにニッコウキスゲの大群落は名物。そのほかレンゲツツジ、マツムシソウ、ワタスゲ、ヤナギランなどが咲き乱れます。旧跡として旧御射山遺跡があり、この地域から出る黒曜...山旅通信【ひとり画っ展】1088号発行しました。「長野県・霧ヶ峰車山の伝説」

  • 山の炉端ばなし「秩父両神山・一位ガタワの石像」

    ▼「秩父両神山・一位ガタワの石像」【概略】両神山は江戸時代は木曽の御嶽教の行者で賑わいました。そのため、両神神社本社の前には御嶽神社の祠があり、山頂東方に木曽御嶽山と同じ前衛の山、三笠山、八海山の地名もあります。この山は天狗でも名高い。行者の唱える唱文のなかに「三笠山刀利天坊、八海山大頭羅坊、阿留摩耶山アルマヤ坊…」と御嶽山と同じ天狗の名が出てきます。大頭羅坊は表参道にあるが他のものはどこにあるだろうと探してみました。清滝小屋から少し上がった一位ガタワ方面に入ったところで、はからずも見つけた刀利天坊天狗の像。やはり三笠山と関係ある場所にあり、木曽御嶽山飛騨頂上にある刀利天像と姿形がよく似ています。文字は風化して読めませんが、足の指に鳥のような爪があるのが気になります。とすればこのあたり、まだ他の天狗もある...山の炉端ばなし「秩父両神山・一位ガタワの石像」

  • 山の炉端ばなし「信越・乙妻山のハイマツ」

    ▼「信越・乙妻山のハイマツ」【概略文】乙妻山は平安時代から江戸時代まで修験者の入峰錬行の山で、お裏山を巡るには一の不動から途中順次、二釈迦、三文殊とすすみ、四普賢、五地蔵を経て、六弥勒、七薬師、八観音、九勢至で、高妻山は十阿弥陀如来になります。さらに乙妻山へは十一阿しゅく、十二大日とすぎ、十三が虚空蔵菩薩で乙妻山だとされています。しかし実際の十三虚空蔵を祀る虚空蔵山は、乙妻山からさらに奥へ入った標高2044mのピークだと古書にあります。「善光寺道名所図会」には、五地蔵から奥の峰には、「投の松五葉にて葉短し、地蔵の辺より始りて奧へ続き、七谷に延わたりて繁茂し、蔓の如く其本を知ることなし、登山の輩は此葉を採て帰る、難産併歯の痛等に功能著しと也」とあり、ハイマツの葉を難産や歯痛の薬にした記録があります。・長野県...山の炉端ばなし「信越・乙妻山のハイマツ」

  • 山の炉端ばなし「房総の旧跡・おせんころがし」

    ▼「房総の旧跡・おせんころがし」【概略文】地図をみると外房海岸に「おせんころがし」という所があります。昔は断崖続きで難所だったそうです。ここの領主は強欲で領民は高い年貢に苦しんでいました。領主には「お仙」という娘がおり、領民の味方で、みんなにしたわれていました。しかし、領主はますます年貢を上げ放題。お仙がいくら頼んでも聞き入れません。やさしいお仙は悩み苦しみました。ある秋の祭りの夜、ついに領民は領主を断崖から突き落としました。翌朝、断崖に行って見るとそれは父親の衣装をまとったお仙でした。父親の身代わりになったのです。現場の断崖にはいまは立派な石碑が建っています。かつて房総半島を横に、東京湾側鋸山から3泊で縦走できたものでした。房総は標高は低いですが山が深く、起伏に富み楽しい山歩きができました。しかし採石業...山の炉端ばなし「房総の旧跡・おせんころがし」

  • 山の炉端ばなし「ゆかいな縁起植物・両づくし」

    ▼「ゆかいな縁起植物・両づくし」【概略文】野山を歩いていると、赤い実をつけた草や小低木を目にします。その植物を用いたちょっと面白い話があります。高山の湿った草地や低山の林の中に生えるアカモノ(別名一両)の実。また山地の木陰に生えるヤブコウジ。別名十両。さらに暖地の林の中で赤い実をつけたカラタチバナ。百両ともいいます。それにおなじみのセンリョウ(千両)。さらにマンリョウ(万両)があります。葉の下に赤い実を熟します。これらを、やはり赤い実がなるアリドオシ(アカネ科アリドオシ属の常緑小低木)といっしょに寄せ植えにします。そして「一両(アカモノ)、十両(ヤブコウジ)、百両(カラタチバナ)、千両(センリョウ)、万両(マンリョウ)、年中お金が有りどおし(アリドオシ)」などといって縁起をかつぎます。いろいろ楽しみ方があ...山の炉端ばなし「ゆかいな縁起植物・両づくし」

  • 山の炉端ばなし「南ア・赤石岳と南朝の大将軍・宗良(むねなが)親王」

    ▼「南ア・赤石岳と南朝の大将軍・宗良(むねなが)親王」【説明概略文」赤石岳の北側に「大聖寺平」という所があります。この名は南北朝時代、西麓大鹿村大河原に籠居していた宗良(むねなが)親王の故事による「大小寺平」ちなむといわれています。宗良(むねなが)親王は、南朝後醍醐天皇の皇子。南北朝廷の争いで信濃国に入り、大河原に幽居。しばしば赤石岳の山頂に登り、足利氏調伏を祈ったという。その後、約30年間にわたって大河原を根拠に駿河、武蔵、上野、越後、美濃、尾張などを転戦ののち、ここで死去したとされ、この一帯にはいまでも宗良(むねなが)親王伝説残っています。荒川岳から南下、荒川小屋を過ぎると大河原方面へ下る分岐で、指導標とケルンが建っています。このあたりの平坦地が大聖寺平。近くに霊神碑などもあり、そんな歴史を秘めたとこ...山の炉端ばなし「南ア・赤石岳と南朝の大将軍・宗良(むねなが)親王」

  • 山旅通信【ひとり画っ展】1087号発行しました。「房総の山々唯一の大天狗・夷隅権現坊」

    ▼「房総の山々唯一の大天狗・夷隅権現坊」【概略】高い山のない房総(千葉県)では、名前のある大天狗を探すのはなかなか大変です。なかで唯一、夷隅権現坊という天狗が挙げられます。しかし、もともとの風来坊であちこちの山に出没、どこの山がすみかかはっきりしないため、最初に姿をあらわした千葉県夷隅の名をとったもの。江戸時代の『甲子夜話』に、上総の国夷隅の住人源左衛門が天狗の世界に連れ去られた話が載っています。そして天狗たちといっしょに生活、その生活ぶりや生態などを見たといいます。自分も修行させられ、天狗の術を習い長福坊という天狗名までもらいました。しかしあまりの「のろまさ」に、師匠の天狗もあきれ果て、もとの人間の世界に追い帰されたというのです。その間、菓子を一度食べた以外、なにも食べなかったせいか一度も大・小とも通じ...山旅通信【ひとり画っ展】1087号発行しました。「房総の山々唯一の大天狗・夷隅権現坊」

  • 山の炉端ばなし「上越・平ヶ岳のタマゴ石」

    ▼「上越・平ヶ岳のタマゴ石」【概略】平ヶ岳は、その名のように山が平らで360度の展望、湿原地帯が続き、高山植物の宝庫。交通の不便さがかえって魅力につながるのか人気抜群の山です。山上の木道を姫ノ池から西に進むとタマゴ石という奇岩があらわれます。まるで誰かが彫ったような丸い石が台に乗っています。「玉子石と土台の岩はひと続きの花崗岩で風化で上の部分の芯が丸く残ったもの。落ちる危険があるので登ったり、近づいたりしないで下さい」と説明板にあります。その夜は一晩中雷で、ピーク下のテント場でも雷鳴がおなかに響く。もしかして玉子石に落雷し、そのショックで、怪獣の子でも生まれはしないかとつまらぬ心配をしだすのは人気のない大自然の中だからかも知れません。・新潟県湯之谷村と群馬県水上町との境▼【詳細はtoki.mooページで】...山の炉端ばなし「上越・平ヶ岳のタマゴ石」

  • 山旅通信477号:「北アルプス・蓮華岳のコマクサ」

    ▼「北アルプス・蓮華岳のコマクサ」【概略】蓮華岳山頂の砂礫の中に咲き乱れるコマクサは北アルプス一との評判が高い。8月の後半、大沢小屋創設者百瀬慎太郎の詩「山を想えば人恋し、人を想えば山恋し」と刻まれたレリーフを横目で見ながら針ノ木雪渓に取り付きます。雪渓はすでに崩れていて、直登できません。崩れかかる雪渓を横切り、岩の鎖をよじりながら見覚えのある大岩のわきで小休止。おやつを食べたあとやっと針ノ木峠に着きました。早速小屋のわきにザックを置き蓮華岳に向かいます。やがて登山道は広いガレ場の中に入ります。山頂に近づくにつれ、まだ登山道わきの砂礫地に濃いピンク色が広がっていました。コマクサの花、花、花。まさに期待通りのルンルン気分。山頂の三角点をなでまわします。直下の若一王子神社奥宮の祠に手を合わせ引き返しました。・...山旅通信477号:「北アルプス・蓮華岳のコマクサ」

  • 山旅通信:「黒部五郎岳は信州側の山名」

    ▼「黒部五郎岳は信州側の山名」黒部五郎岳は、えぐれた大カールが特徴です。五郎(岩石がゴロゴロしているでゴーロ)の山という呼び方は信州長野県側のいい方だそうです。この山は岐阜県側では、中ノ俣岳。富山県側では、カールを鍋が欠けた形と見て鍋山といっていました。それがなぜか信州側の呼び方になっています。明治時代、画家で登山家の中村清太郎が、白馬岳からこの山を見て興味を持ちました。そこで山の案内人で有名な嘉門次に会った時、その山の名前を聞きました。嘉門次は上高地(信州)州の人ですから、当然、黒部五郎岳だと教えます。明治43年になり、清太郎が薬師岳方面から縦走、この山に登りそのまま「登山記」に黒部五郎岳として世の中に紹介してしまいました。それからというもの黒部五郎岳がこの山の名前として定着してしまったといういきさつが...山旅通信:「黒部五郎岳は信州側の山名」

  • 山の軽口ばなし:「落ちこぼれ竿打ち仙人」

    「落ちこぼれ竿打ち仙人」山や峠には仙人の名がつくところが多い。空を飛べ、変身、不老長寿など自由自在のこんな仙人にも落ちこぼれがいるというから愉快です。奈良時代、大和の国出身の「竿打ち仙人」という人がいました。これが未熟な仙人で、仙薬を飲んで一生懸命修行をしますが、いっこうに空を飛べません。半分あきらめかかっていたころ、勢いをつけて飛び上がったら、どういうはずみか、2~3mの所をヒョロヒョロ飛べるようになりました。大人たちは、それでも人のできる技ではないと感心。しかし、喜んだのは悪ガキ共。トンボやチョウと同じように、竿をもって仙人を追い回します。慌てた竿打ち仙人は逃げ回っていたということです。竿で追いかけられていたので「竿打ち仙人」と呼ばれていましたが、いつしかいなくなり「その終(は)つる所を知らざりけり」...山の軽口ばなし:「落ちこぼれ竿打ち仙人」

  • 山の初心者【軽口ばなし】「北ア白馬岳・大雪渓の銅山発掘計画」

    ▼「北ア白馬岳・大雪渓の銅山発掘計画」明治30年ころ、白馬岳の大雪渓で銅の鉱脈が発見され試掘調査が行われたことがあったという。雪渓尻より下流から上部は小雪渓の近くという広範囲。しかし、おりからの銅価暴落で採算に合わないということでオジャン。太平洋戦争勃発で兵器、砲弾用に採掘が見直され軍の後押しで試掘されましたが思わしくなく中止。戦後になり松本市の探鉱業者が「試掘願」を提出。通産省と厚生省は登山者から見えないよう、またシーズンは中止という条件付きで「試掘許可」を出しました。これに対し地元は「白馬岳の観光価値を損なうもの」として強く反対。結局同意が得られず、試掘にもできないまま中止になったということです。しかし、これらの試掘や発掘のため登山道が整備され、登山者から喜ばれたというから皮肉なものです。・長野県北安...山の初心者【軽口ばなし】「北ア白馬岳・大雪渓の銅山発掘計画」

  • 山の初心者【軽口ばなし】「中ア・南駒ヶ岳の五人坊主」

    ▼「中ア・南駒ヶ岳の五人坊主」南駒ヶ岳はその名の通り、駒ヶ岳(木曽駒ヶ岳)の南にあるからで、木曽駒が山岳信仰の山だったように、ここにも祠が建っています。山頂東面には中央アルプスの南端の氷河期の名残りのカールがあります。夏になるとカールは高山植物が咲きみだれ、その水は断崖を下り、「オンボロ沢」というおもしろい名前の沢に流れ込んでいます。春先、カールの上の稜線近くに「五人坊主」とよばれる雪形が現れます。それは同じ間隔をおいた五つの黒い点で、伊那谷の風物詩になっていて、村人の春の農作業(ダイズなどの種まき)の季節の目安になっています。山頂からさらに南へ下ると奇っ怪な岩峰がならぶ仙涯嶺。はりつめていたガスもあがり、道ばたにガンコウランの実が熟しています。さっそく、甘酸っぱい実を口いっぱいにほおばったはもちろんのこ...山の初心者【軽口ばなし】「中ア・南駒ヶ岳の五人坊主」

  • 山の初心者【軽口ばなし】「野山の変な葉っぱ・エゴノネコアシ」

    ▼「野山の変な葉っぱ・エゴノネコアシ」「変な葉っぱエゴノネコアシ」初夏のころ、白い花が枝いっぱいに咲かせるエゴノキは散りぎわも見事。きのうまで満開だった木の下が一日のうちに真っ白な花で埋め尽くされます。果実や花に含まれるエゴサポニンは、泡立ちがよく石鹸として用いられたほか、魚毒として川に流して魚をとるのに使われました。その枝先に灰白色の虫こぶができびっくりさせられます。その形からエゴノネコアシと呼ばれます。虫こぶは長さ3センチくらい、長卵形の袋が放射状に集まって花のような形になったもの。これはエゴノネコアシアブラムシという虫が寄生したもので、夏に袋の先が開き羽のある成虫がたくさんあらわれます。口の開いた虫こぶを軽くたたくと小さな幼虫が落ちてきます。種子には脂肪が多く、ヤマガラが好んで食べるそうですが、毒性...山の初心者【軽口ばなし】「野山の変な葉っぱ・エゴノネコアシ」

  • 山の初心者【軽口ばなし】「野山のはがき・字書き虫」

    ▼「野山のはがき・字書き虫」【概略文】野山を歩いていて、文字や絵を描いたような木の葉っぱを見たことはありませんか。まさに「葉書」です。字書き虫の仕業です。字書き虫は葉の中に潜って暮らす虫で、ハモグリガや、ハモグリバエの総称です。これらの幼虫の中には、葉の内層の葉肉を食べるため中に潜り込む習性があるものがいます。この幼虫たちが、食べたあとが半透明に残り、まるで絵や字を書いたように葉の表皮を通してみえます。昆虫の種によって模様が違うそうです。幼虫のほとんどが潜葉性で、大きくなるとハンモックのような繭や絹糸の束で囲んだ繭を作るそうです。字書き虫の中には害虫になってしまうものもいるというから残念です。ハモグリガの仲間には、モモ・リンゴ・サツマイモ・アサガオなどに潜るものもがいます。ハモグリバエの仲間にはイネ・麦・...山の初心者【軽口ばなし】「野山のはがき・字書き虫」

  • 山の初心者【軽口ばなし】「富士山・ストーカーに困っていた姫」

    ▼「富士山・ストーカーに困っていた姫」【概略】富士山火口内にはコノシロ池という池があってコノシロという魚がすむという。富士浅間の氏子は頂上にすむこの魚は食べないという。ある日、風の神が富士山の開耶姫に一目惚れしてしまいました。風の神はとうとう開耶姫を妻にしたいと決心。驚いたのは父の大山祇神です。断ればどんな暴風を吹かせて暴れるかも知れません。姫は何を考えたか従者にコノシロ池の魚を捕まえさせました。次の日、返事を聞きに風の神がやってきました。庭先ヘ入ってみると、みな泣きはらしています。そして不快な臭いがおそってきました。「姫様がおなくなりに…」という従者の言葉。ではこの臭いは…。風の神は葬儀の煙を見て、ワァ~ッとものすごい声、地だんだを踏み転げ回って悲しみました。コノシロ池の魚は人を焼く臭いに似た煙を出すと...山の初心者【軽口ばなし】「富士山・ストーカーに困っていた姫」

  • 山の初心者【軽口ばなし】「もう一つの金時伝説・長野金時山」

    ▼「もう一つの金時伝説・長野金時山」【概略】おなじみの金太郎伝説は箱根の足柄山が有名です。しかし伝説は足柄山だけではなく各地にあるという。長野県南木曾岳も金時伝説の山。山中に金時ノ洞窟」や金時岩があります。そのほか長野県の大町市近くの八坂にも金時山があります。そこにはこんな伝説が残っています。昔、村内の山に顔の赤い紅葉鬼人という女が住んでいました。鬼人は有明山の魏石鬼(ぎしき)の恋人で、謎の岩窟といわれる場所で大王の子を産みました。それが金時だったというのです。その山を金時山といい、そばを流れる川を金時と熊にちなんで金熊川といっています。魏石鬼が田村麻呂に退治されるや紅葉鬼人は、山を去り舌を噛みきって死んだという。そこが鬼無里だということです。いまでも金時山で行われる金時山大姥神の神祭には必ず雨が降るとい...山の初心者【軽口ばなし】「もう一つの金時伝説・長野金時山」

  • 山の初心者【軽口ばなし】「山の花・タカネスミレと卵」

    ▼「山の花・タカネスミレと卵」【概略】高山植物のタカネスミレ。昔、越中の二六という人が正月をひかえ、塩ざけを信州に売りに出かけましたが、道に迷ってしまいました。雪の山中で見つけた小さな卵。手にとると不思議に体が暖まります。その夜は雪の穴で、卵を抱いて寝ました。二六は夢のなかで不思議な声を聞きました。「オイラはおとうが授かるはずの子供だ。けんど、こうしておとうを暖めたら、もうこの世に出ていく力がねえ。オイラを地面に埋めてくれ」。こうして二六は卵に命を助けられました。その夏、卵を埋めた所に一本のタカネスミレの花が風にゆれていました。二六は深く頭をたれました。自分の子供となるべき命の種が可憐な野草の姿になっているのだ。その後、二六は嫁さんを貰いましたが子供は授かりませんでした。あのスミレが生まれてくるはずのたっ...山の初心者【軽口ばなし】「山の花・タカネスミレと卵」

  • 「北アルプス爺ヶ岳・種まき爺さんとカラス」

    ▼「北アルプス爺ヶ岳・種まき爺さんとカラス」【概略】字春、山にあらわれる雪形は、かつては農作業をはじめる目安になっていたという。爺ヶ岳は、南峰、中央峰、北峰の3峰があり、大町市街からもよく眺められます。雪どけのころ、先ず南峰と中央峰間にざるを持った「種まき爺さん」の雪形が黒い岩肌になってあらわれます。これが爺ヶ岳の山名の由来です。そしてしばらくすると、爺さんの足元に黒い影があらわれます。爺さんがまいた種をほじくるカラスの雪形だといいます。さらにそのあと、中央本峰に同じような人の形をした形があらわれます。それを応援に来た婆さんだとし、カラスを追い払っているのだとしています。雪形はもちろん、ここだけでなく、富士山やほかの山々にもあります。しかし、このようにストーリーになってあらわれるのはここだけではないでしょ...「北アルプス爺ヶ岳・種まき爺さんとカラス」

  • 山旅通信【ひとり画っ展】「自然観察:不思議な葉・カバキコマチグモ」

    ▼「自然観察:不思議な葉・カバキコマチグモ」【概略説明】野山を歩くとちまきのように巻かれたススキを見ます。フクログモの仲間の巣です。巻かれた巣をはがしてみるとクモがあたふた出てきます。あける時、咬まれることがあるので注意。かなり痛く、なかにはカバキコマチグモのように毒を持っているものもいるので要注意です。カバキコマチグモのメスは、ススキの葉を折り曲げてちまきのような形の巣をつくり、なかに卵を産みます。しかし、卵がふ化して1回目の脱皮を終えた子グモに、よってたかって食べられ(体液を吸われ)てやがて死んでしまうという運命が待っています。ちなみにコマチグモのコマチは小野小町に由来して美しいという意味だそうです。またフクログモ属のハマキフクログモは、田んぼに多くすみ、イネの葉を三つに折り曲げて巣をつくりなかにすみ...山旅通信【ひとり画っ展】「自然観察:不思議な葉・カバキコマチグモ」

  • 山旅通信【ひとり画っ展】「高山植物・ウスユキソウと花嫁」

    ▼「高山植物・ウスユキソウと花嫁」【概略】草全体がまるで薄い雪をかぶったようにみえるウスユキソウ。昔、飛騨に貧しい父娘が住んでいました。父は小作でしたので、いくら働いても暮らしは楽になりません。しかし娘は美しくまた気品もそなわった子どもでした。年頃になるとさらに美しくなりました。娘は庄屋に嫁ぐことになりました。貧しい父はかわいい娘に何か持たせてやろうとしましたが、貧しく何もありません。そこでせめてもの花むけに歌を歌って送り出そうと考えました。いよいよ嫁ぐ日が来ました。父親の祝い歌のなか、娘が乗った馬が出発しました。すると父の口から出る歌声が、次々にわた雪のような花びらになって娘に降りかかり白い衣装にかわりました。美しい花嫁はその衣装を着て馬にゆられて行きました。娘を思う父親の気持ちから、その花は「高貴な白...山旅通信【ひとり画っ展】「高山植物・ウスユキソウと花嫁」

  • 山旅通信【ひとり画っ展】「東北・有り難い?早池峰神のご加護」

    ▼「東北・有り難い?早池峰神のご加護」【概略】種もみが自由に手に入らない昔、ある男が、北上市方面で、よく実る稲穂を黙って持ち帰りました。それを播いて実ってみたらもち稲でした。翌年もそれをまきました。ところがある日、北上の人たちが早池峰神社にお参りにきて、稲を見て「これはおれの家の種だ。盗んでまいたに違いない。品種はもち稲だろ」。男は慌てて「いや違う。これはうるち稲だ」と言い張りました。北上の人は、秋に穂が出たころ見にきて訴え出る、といって帰りました。村の男は困り果て、早池峰の神に願をかけました。秋になり、氏子はおどおどしながらその人を田んぼに案内しました。実った稲穂を調べると、もち稲だったものが、うるちになっています。「これは早池峰山の神が助けてくれたに違いない」と村中で大喜び。この米がいま生出(大出)も...山旅通信【ひとり画っ展】「東北・有り難い?早池峰神のご加護」

  • 「日本百名山」の伝説・神話」「北海道・阿寒岳」

    ▼「北海道・阿寒岳」【説明概略文】北海道に「阿寒」というの名がつく山は3座あります。いまも活発に噴火する雌阿寒岳と、その南の阿寒富士、それに雄阿寒岳です。しかし、一般的に阿寒岳というと雌阿寒岳を指すことが多いといいます。雌阿寒岳は、釧路市と足寄郡足寄町との境にある山。約2万年前から噴火をくり返し、いまも噴煙の絶えることのない活火山です。アイヌ語でマチネシリといい「女山」の意だという。山にも男女があればいろいろなことがおこります。ここにはこんな伝説があります。女神の山雌阿寒岳はかつて十勝連峰にあり、同じ十勝連峰最北の男神の山オプタテシケとは夫婦山だったといいます。しかし、2座は別れることになり、雌阿寒岳はこどもを背負うと遠く東のいまの釧路へ帰ってしまいました。気性の荒い雌阿寒岳は、くやしくてしようがありませ...「日本百名山」の伝説・神話」「北海道・阿寒岳」

  • 日本百霊山「北海道・羊蹄山」

    日本百霊山「北海道・羊蹄山」【概略文】北海道に羊蹄山という山があります。円錐形の美しい単独峰の山で「蝦夷富士」とも呼ばれています。山上にはお花畑が広がり、200種類以上もの高山植物が咲き乱れ、1921年(大正10)に国の特別天然記念物にも指定されています。この山には、父釜、母釜、子釜と呼ばれる3つの火口もあり、池塘には「羊蹄坊主」という谷地坊主(やちぼうず)があることでも有名です。谷地坊主とは、寒い土地の湿原などでこんもりと盛り上がったスゲの草の塊のことです。羊蹄山は、野草のギシギシの漢名の羊蹄(し)の山だという。なるほど、ギシギシの葉(くさび形)は羊の蹄に似ています。もとは後方羊蹄山(しりべしやま)といったそうです。後方は「しりへ」で羊蹄は「し」と読みます。ルーツは『日本書紀』の斉明天皇五年の項にある「...日本百霊山「北海道・羊蹄山」

  • 山の初心者【ひとり画っ展】「北アルプス・立山ミクリガ池の伝説」

    ▼「北アルプス・立山ミクリガ池の伝説」【概略】江戸時代初期、越前の小山という法師が室堂の地獄谷を見物。ミクリヶ池にさしかかり、八寒地獄の恐ろしさの説明をうけると、カラカラとうち笑い「聞くと見るとは大違い、何ともつまらぬ池よ。これならひとつ泳ぎまわって見せよう」と、裸になって池に飛び込み抜き手を切って池の中を一巡り、二巡り、三巡り。と、そのとき突然大波が立ち法師の体は大蛇に引きずり込まれました。案内をしていた延命坊は哀れに思い「小山法師の振る舞いは業死も仕方ない罰なれど、人の世の別れにいま一度法師の顔を見せ給え」と叫ぶと、湖面に法師の姿がぽっかりと浮き、寂しい姿に心なしか顔にかすかな笑みをふくめふたたび湖水深く沈んでいったという。以来この池を「三繰りヶ池」と呼び、ここにすむ主のためどんな静かな日でも湖水が波...山の初心者【ひとり画っ展】「北アルプス・立山ミクリガ池の伝説」

  • 山旅通信【ひとり画っ展】「東北・鳥海山の怪物」

    ▼「東北・鳥海山の怪物」【概略】昔、鳥海山に「手長足長」という鬼がすみ、通りかかる人を捕まえては食べ、里の田畑を荒らしていました。鳥海山の神はこれを見て、3本足のカラスをつかわし、山に鬼がいて危ないときは「ウヤ」、安全なときは「ムヤ」と鳴かせました。このことから山形・秋田県境、三崎山の関を「有耶無耶の関」というのだそうです。平安時代初めのころ、慈覚大師が手長足長退治のため山形県吹浦で火散の修法を行いました。21日目になり、大地がゆれ大音響とともに鳥海山が破れ、手長足長は山の頂とともに吹き飛びました(秋田県側ではあわてふためく手長足長に、大師が村人を連れて山に登り火をかけ退治)。この時、悪魔の尾が落ちてきたところが尾落伏(いまの落伏地区)になり、吹き飛んだ鳥海山の頂きは、日本海に落ちて飛島になったということ...山旅通信【ひとり画っ展】「東北・鳥海山の怪物」

  • 山旅通信【ひとり画っ展】「東北八幡平と八幡太郎義家」

    ▼「東北八幡平と八幡太郎義家」岩手県と秋田県にまたがる八幡平は、「前九年の役」で源父の頼義とともに、安倍貞任一族討伐に出陣した八幡太郎義家が、貞任軍を追って山上に登ったことから八幡平と名づけたとの言い伝えがあります。「前九年の役」で源頼義・義家らは、康平5(1062)年9月15日、厨川柵(き)(岩手県盛岡市)に到着。厨川二郎と異名をとる安倍貞任一族の軍と激戦を繰り広げます。頼義軍は、厨川柵の周辺から滝沢村におよぶ民家を壊しながら激しく攻め続けます。この執ような攻撃に耐えられなくなった厨川柵はついに同17日落ちました。阿部一族を討った源頼義・義家は滝沢村大釜字上釜に八幡大神を勧請、神社を建立したという。八幡平山上にもそれにちなんだ八幡大神の祠があります。・岩手県八幡平市と秋田県鹿角市、仙北市との境。▼【本文...山旅通信【ひとり画っ展】「東北八幡平と八幡太郎義家」

  • 山旅通信【ひとり画っ展】「どうした家康、日光天狗などになりおって!」

    ▼「どうした家康、日光天狗などになりおって!」【概略】日光には東光坊という天狗がいることになっています。この天狗は、徳川家康の化身だという説があります。家康は死んだあと神になってまつられています。その神号は「東照権現」といいます。しかしもとは「東光権現」にする意見が大勢を占めていたと「東照宮史」にあります。家康の化身のこの天狗は日光では新参者のせいか、奥山の古い天狗にバカにされよく騒ぎを起こされたという。江戸も後期の1825(文政8)年、11代将軍家斉が日光に参詣に訪れることになりました。慌てた日光奉行水野出羽守は、その前年の文政7年、日光の前山・古峰(こぶ)ヶ原の天狗・隼人坊の名前を借りて山の中の剣ヶ峰に高札を建てました。内容は将軍が日光に訪れる間は他の山に移れというもの。ウソのようなホントの話があった...山旅通信【ひとり画っ展】「どうした家康、日光天狗などになりおって!」

  • 「日本百名山」の伝説・神話」「北海道・利尻岳(山)」

    ▼「北海道・利尻岳(山)」【概略文】北海道利尻島の利尻山は島そのものがひとつの山になっていて、利尻富士とも呼ばれています。ここには不思議なことに熊やマムシなどのヘビ類がいないといいます。かつて対岸の北海道天塩(てしお)町で山火事があった時、熊が泳いで渡ってきて、すみついたことがありました。しかし、いつの間にかいなくなったというのです。山名はアイヌ語の「リ・シリ」の音訳「高い島山」という意味で、となりの低い島山「礼文」に対するもの。この山は、島の中央に山頂を突き上げ、北峰(1719m)、本峰、南峰(1721m)の3つのピークを持っています。しかし北峰から先は崩落が激しく登山は禁止。北峰に利尻郡利尻富士町鴛泊(おしどまり)地区にある利尻山神社の奥社の祠があります。「♪山は白銀、朝日を浴びて……」の詩でおなじみ...「日本百名山」の伝説・神話」「北海道・利尻岳(山)」

  • 山の軽口ばなし「群馬県榛名山・スルス峠の烏天狗」

    ▼「群馬県榛名山・スルス峠の烏天狗」【概略】榛名山には天狗が2狗もいることになっています。ここ磨墨峠にはスルス岩と呼ばれる大岩があります。岩の横を通る細道からわきに入ると洞穴があって、奧に修験道の祖・役ノ行者と従者の前鬼後鬼がまつられています。道を戻り梯子につかまって登ると岩の上に出られます。岩上には石像があり、肩から羽が生えた山伏姿のカラス天狗が、太刀を振りかざしています。石像うらに昭和12年(1937)と読める高崎登山講の銘があります。7、80年間風雪に耐えてきた面構えです。スケールを持ち出し天地左右を計ります。せまい岩の上を写真を撮るためおそるおそる歩きまわります。ファインダーの彼方に榛名湖が湖水がひかり、榛名富士へつながるロープウェイの音楽がやかましく響いていました。・群馬県高崎市▼【本文】htt...山の軽口ばなし「群馬県榛名山・スルス峠の烏天狗」

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