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TANTANの雑学と哲学の小部屋 https://information-station.xyz/

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2019/07/19

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  • デモステネスの三度にわたる反マケドニア闘争の失敗と非業の死そしてアテナイ人から死後に与えられたプリタネイオンの栄誉

    デモステネスは『フィリッピカ』と呼ばれる後世において古代ギリシア文学を代表する名として伝わる反フィリッポス演説を行うことによってアテナイの人々さらにはギリシア諸国全体を反マケドニア闘争へと結集させていく。その後の三度にわたる反マケドニア闘争の失敗ののちデモステネスは異国の地において非業の死を遂げることになるが言論の力を信じて生き抜いた彼の人生においてはその死後にアテナイの人々からプリタネイオンでの饗宴の栄誉が与えられることになる。

  • 親マケドニアのイソクラテスと反マケドニアのデモステネスの対立とアテナイ市民の選択:『フィリッポス』と『フィリッピカ』

    フィリッポス2世率いるマケドニア軍が迫るなかアテナイ本国では親マケドニア派と反マケドニア派とに国民が真っ二つに分かれる激しい論争が繰り広げられていく。アテナイの人々はマケドニアとの融和を唱える親マケドニア派のイソクラテスではなく、マケドニアに抵抗してギリシア諸都市の自由と独立を守ることを説くデモステネスの言葉を聞き入れることによってマケドニア軍との戦いへと乗り出していくことになる。

  • 第四次神聖戦争におけるデルポイへのロクリス人の侵入とカイロネイアの戦いへと至るフィリッポス2世のマケドニア軍の侵攻

    デルポイへのロクリス人の侵入が聖域を侵略する神に対する冒瀆の罪として問題視されることによってはじまった第四次神聖戦争ではロクリスの討伐を口実としてフィリッポス2世率いるマケドニア軍がデルポイの位置するギリシア中部への進軍を開始する。それに対して、反マケドニア運動の主導者であったデモステネスの主導によってアテナイとテーバイの同盟が結ばれることによって両軍の最終決戦にあたるカイロネイアの戦いへとつながっていくことになる。

  • デルポイとポーキスの関係:現代のバチカンとイタリアの関係との類似点と古代ギリシアの他の地域との都市の関係の違い

    古代ギリシアにおけるデルポイとポーキスの関係では現代のバチカンとイタリアとの関係にも多少の類似点を見いだしていくことができるように、宗教都市としてのデルポイは地理的および経済的な関係においては同じ国家の領域や地域の内に属していながら、政治的および宗教的な関係においては周囲の地域から隔絶された独自の発展を遂げていくことになっていったと考えられる。

  • 第二次神聖戦争におけるポーキス人によるデルポイのアポロン神殿の占領とアテナイとスパルタの代理戦争としての位置づけ

    前々回(リ)書いたように、デルポイのアポロン神殿の聖域をデルポイに隣接する都市国家であったキラが制圧したことによってはじまった古代ギリシアにおける第一次神聖戦争では、 その後、シキュオンを盟主とするアポロン神殿を保護する隣保同盟の同盟軍の軍勢がキラの町を包囲したのち、水攻めとヘレボルスの毒を用いた計略を用いることによってキラの町が滅亡することにより終結を迎えることになります。 そしてその後、しばらくの間、デルポイの地には安寧が訪れることになるのですが、それから100年以上の時を経てギリシア全土を二分する大きな戦いであったペロポネソス戦争が起きることになると、 そうしたペロポネソス戦争の前後の時代に、再びデルポイの地を揺るがすアポロン神殿の聖域の支配をめぐる聖なる戦いが引き起こされることになるのです。 第二次神聖戦争とポーキス人によるデルポイのアポロン神殿の占領 第一次神聖戦争が終結してデルポイに隣接する古代都市であったキラが滅亡すると、それからしばらくして、デルポイが位置するギリシア中西部にあたるフォキスあるいは古代ギリシア語の発音ではポーキスと呼ばれる地方においては地域の統一へと向けた機運が高まっていくことによってポーキス人と呼ばれる人々の勢力が強まっていくことになります。 そしてその後、北西に隣接するドーリスなどの地域への勢力の拡大を図っていったポーキス人たちは、そうした勢力拡大の一環として、ポーキス地方に属しながら、アポロン神殿を司る神聖な都市であったことから独立状態を保っていたデルポイに対しても自分たちの勢力の支配のもとに服することを求めることになり、 ポーキスの軍勢は、ついにこの地を併合することを狙ってデルフォイのアポロン神殿を占領してしまうことになります。 そして、こうしたポーキスの軍勢によるアポロン神殿の占領を神に対する冒瀆の罪としてデルフォイを守護する隣保同盟の軍勢がポーキス討伐へと乗り出したことによって、 紀元前595年にはじまった第一次神聖戦争から150年ほどの時を経た紀元前449年に第二次神聖戦争が勃発することになるのです。 故郷の地ドーリスの防衛をめぐるスパルタとポーキスの争い

  • ヒポクラテスと古代ギリシアにおける第一次神聖戦争との関係(編集中)

    前回(リ)書いたように、デルポイのアポロン神殿の聖域を隣国の都市国家であったキラが制圧したことによってはじまった古代ギリシアにおける第一次神聖戦争では、 聖域への侵略者となったキラの町がアポロン神殿を保護するシキュオンを盟主とする隣保同盟の同盟軍によって包囲されることになります。 そして、こうした第一次神聖戦争においては、アテナイの賢者であったソロンによる水攻めの計略と、ネブロスという名の医術師が用いたヘレボルスの毒によってキラの町は滅亡することになるのですが、 こうした古代ギリシアの第一次神聖戦争におけるヘレボルスの毒を用いた計略によるキラの町の滅亡という出来事は、 医学の父としても知られる古代ギリシアの医者であるヒポクラテスとも深い関わりのある出来事としても位置づけられることになるのです。

  • 第一次神聖戦争におけるデルポイとキラの戦い(編集中)

    前回(リ)書いたように、古代ギリシアでは、デルポイのアポロン神殿に代表されるように、神殿や聖域の管理と維持や互いの親善などを目的として周辺の都市国家の間で隣保同盟と呼ばれる緩やかな同盟関係が結ばれていたのですが、 こうした隣保同盟の内部における土地の支配や宗教的な権益をめぐる争いは、しばしば、デルポイとその周辺に位置する都市国家、さらには、アテナイやスパルタといったギリシア全土の都市国家へと波及していく大規模な宗教戦争へと発展していくことになります。 そして、こうした隣保同盟の内部抗争から発展した古代ギリシアにおける一種の宗教戦争にあたる神聖戦争と呼ばれる戦いは、

  • 神聖戦争の起源と古代ギリシアの隣保同盟との関係(編集中)

    前回(リ)書いたように、古代ギリシア世界におけるマケドニアによるギリシア本土への侵攻とその後のギリシアからエジプトそしてメソポタミアを経てインド西部にまで至る大帝国の建設は、 アレクサンドロス大王の父にあたるフィリッポス2世が当時アテナイやスパルタやフォキスといったギリシア本土の都市国家の間で起きていた第三次神聖戦争に介入したこときっかけとしてはじまっていくことになります。 それでは、そもそもこうした古代ギリシアにおける神聖戦争と呼ばれる古代から続く一連の戦争は、具体的にどのような歴史的な経緯と伝統に基づいて行われていくことになった宗教戦争であったと考えられることになるのでしょうか?

  • マケドニアのトラキアおよびテッサリアへの侵攻とオリントスとの戦い(編集中)

    前回(リ)書いたように、アレクサンドロス大王の父にあたるフィリッポス2世は、サリッサと呼ばれる長大な両手槍を装備したマケドニアのファランクスの運用や斜線陣と呼ばれる重装歩兵の密集戦術の改良などを通じた軍制改革および戦術改革によってマケドニアを中央集権的な強大な軍事国家へと導いていくことになります。 そして、こうしてマケドニア国内における政治的および軍事的な地盤を固めていったフィリッポス2世は、トラキアやテッサリアといったマケドニアの周辺地域へと勢力を拡大していったのち、ついにギリシア本土の都市国家へと向けて進軍を開始していくことになるのです。 マケドニアのトラキア地方への侵攻とオリントスとの戦い 紀元前359年にマケドニアの王として即位したフィリッポス2世は、マケドニア国内における軍事改革と政治改革を進めていったのち、 まずは北方のトラキアとの国境地帯に自らの名を冠したラテン語や英語ではフィリピ(Philippi)、古代ギリシア語ではピリッポイ(Φίλιπποι)と呼ばれる都市を建設したうえで、 こうして新たに建設されたピリッポイの町を軍事拠点として付近にあったパンガイオンの金鉱開発と東方に隣接するトラキア地方への侵出を試みていくことになります。

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