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TANTANの雑学と哲学の小部屋 https://information-station.xyz/

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2019/07/19

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  • デモステネスの三度にわたる反マケドニア闘争の失敗と非業の死そしてアテナイ人から死後に与えられたプリタネイオンの栄誉

    デモステネスは『フィリッピカ』と呼ばれる後世において古代ギリシア文学を代表する名として伝わる反フィリッポス演説を行うことによってアテナイの人々さらにはギリシア諸国全体を反マケドニア闘争へと結集させていく。その後の三度にわたる反マケドニア闘争の失敗ののちデモステネスは異国の地において非業の死を遂げることになるが言論の力を信じて生き抜いた彼の人生においてはその死後にアテナイの人々からプリタネイオンでの饗宴の栄誉が与えられることになる。

  • 親マケドニアのイソクラテスと反マケドニアのデモステネスの対立とアテナイ市民の選択:『フィリッポス』と『フィリッピカ』

    フィリッポス2世率いるマケドニア軍が迫るなかアテナイ本国では親マケドニア派と反マケドニア派とに国民が真っ二つに分かれる激しい論争が繰り広げられていく。アテナイの人々はマケドニアとの融和を唱える親マケドニア派のイソクラテスではなく、マケドニアに抵抗してギリシア諸都市の自由と独立を守ることを説くデモステネスの言葉を聞き入れることによってマケドニア軍との戦いへと乗り出していくことになる。

  • 第四次神聖戦争におけるデルポイへのロクリス人の侵入とカイロネイアの戦いへと至るフィリッポス2世のマケドニア軍の侵攻

    デルポイへのロクリス人の侵入が聖域を侵略する神に対する冒瀆の罪として問題視されることによってはじまった第四次神聖戦争ではロクリスの討伐を口実としてフィリッポス2世率いるマケドニア軍がデルポイの位置するギリシア中部への進軍を開始する。それに対して、反マケドニア運動の主導者であったデモステネスの主導によってアテナイとテーバイの同盟が結ばれることによって両軍の最終決戦にあたるカイロネイアの戦いへとつながっていくことになる。

  • デルポイとポーキスの関係:現代のバチカンとイタリアの関係との類似点と古代ギリシアの他の地域との都市の関係の違い

    古代ギリシアにおけるデルポイとポーキスの関係では現代のバチカンとイタリアとの関係にも多少の類似点を見いだしていくことができるように、宗教都市としてのデルポイは地理的および経済的な関係においては同じ国家の領域や地域の内に属していながら、政治的および宗教的な関係においては周囲の地域から隔絶された独自の発展を遂げていくことになっていったと考えられる。

  • 第二次神聖戦争におけるポーキス人によるデルポイのアポロン神殿の占領とアテナイとスパルタの代理戦争としての位置づけ

    前々回(リ)書いたように、デルポイのアポロン神殿の聖域をデルポイに隣接する都市国家であったキラが制圧したことによってはじまった古代ギリシアにおける第一次神聖戦争では、 その後、シキュオンを盟主とするアポロン神殿を保護する隣保同盟の同盟軍の軍勢がキラの町を包囲したのち、水攻めとヘレボルスの毒を用いた計略を用いることによってキラの町が滅亡することにより終結を迎えることになります。 そしてその後、しばらくの間、デルポイの地には安寧が訪れることになるのですが、それから100年以上の時を経てギリシア全土を二分する大きな戦いであったペロポネソス戦争が起きることになると、 そうしたペロポネソス戦争の前後の時代に、再びデルポイの地を揺るがすアポロン神殿の聖域の支配をめぐる聖なる戦いが引き起こされることになるのです。 第二次神聖戦争とポーキス人によるデルポイのアポロン神殿の占領 第一次神聖戦争が終結してデルポイに隣接する古代都市であったキラが滅亡すると、それからしばらくして、デルポイが位置するギリシア中西部にあたるフォキスあるいは古代ギリシア語の発音ではポーキスと呼ばれる地方においては地域の統一へと向けた機運が高まっていくことによってポーキス人と呼ばれる人々の勢力が強まっていくことになります。 そしてその後、北西に隣接するドーリスなどの地域への勢力の拡大を図っていったポーキス人たちは、そうした勢力拡大の一環として、ポーキス地方に属しながら、アポロン神殿を司る神聖な都市であったことから独立状態を保っていたデルポイに対しても自分たちの勢力の支配のもとに服することを求めることになり、 ポーキスの軍勢は、ついにこの地を併合することを狙ってデルフォイのアポロン神殿を占領してしまうことになります。 そして、こうしたポーキスの軍勢によるアポロン神殿の占領を神に対する冒瀆の罪としてデルフォイを守護する隣保同盟の軍勢がポーキス討伐へと乗り出したことによって、 紀元前595年にはじまった第一次神聖戦争から150年ほどの時を経た紀元前449年に第二次神聖戦争が勃発することになるのです。 故郷の地ドーリスの防衛をめぐるスパルタとポーキスの争い

  • ヒポクラテスと古代ギリシアにおける第一次神聖戦争との関係(編集中)

    前回(リ)書いたように、デルポイのアポロン神殿の聖域を隣国の都市国家であったキラが制圧したことによってはじまった古代ギリシアにおける第一次神聖戦争では、 聖域への侵略者となったキラの町がアポロン神殿を保護するシキュオンを盟主とする隣保同盟の同盟軍によって包囲されることになります。 そして、こうした第一次神聖戦争においては、アテナイの賢者であったソロンによる水攻めの計略と、ネブロスという名の医術師が用いたヘレボルスの毒によってキラの町は滅亡することになるのですが、 こうした古代ギリシアの第一次神聖戦争におけるヘレボルスの毒を用いた計略によるキラの町の滅亡という出来事は、 医学の父としても知られる古代ギリシアの医者であるヒポクラテスとも深い関わりのある出来事としても位置づけられることになるのです。

  • 第一次神聖戦争におけるデルポイとキラの戦い(編集中)

    前回(リ)書いたように、古代ギリシアでは、デルポイのアポロン神殿に代表されるように、神殿や聖域の管理と維持や互いの親善などを目的として周辺の都市国家の間で隣保同盟と呼ばれる緩やかな同盟関係が結ばれていたのですが、 こうした隣保同盟の内部における土地の支配や宗教的な権益をめぐる争いは、しばしば、デルポイとその周辺に位置する都市国家、さらには、アテナイやスパルタといったギリシア全土の都市国家へと波及していく大規模な宗教戦争へと発展していくことになります。 そして、こうした隣保同盟の内部抗争から発展した古代ギリシアにおける一種の宗教戦争にあたる神聖戦争と呼ばれる戦いは、

  • 神聖戦争の起源と古代ギリシアの隣保同盟との関係(編集中)

    前回(リ)書いたように、古代ギリシア世界におけるマケドニアによるギリシア本土への侵攻とその後のギリシアからエジプトそしてメソポタミアを経てインド西部にまで至る大帝国の建設は、 アレクサンドロス大王の父にあたるフィリッポス2世が当時アテナイやスパルタやフォキスといったギリシア本土の都市国家の間で起きていた第三次神聖戦争に介入したこときっかけとしてはじまっていくことになります。 それでは、そもそもこうした古代ギリシアにおける神聖戦争と呼ばれる古代から続く一連の戦争は、具体的にどのような歴史的な経緯と伝統に基づいて行われていくことになった宗教戦争であったと考えられることになるのでしょうか?

  • マケドニアのトラキアおよびテッサリアへの侵攻とオリントスとの戦い(編集中)

    前回(リ)書いたように、アレクサンドロス大王の父にあたるフィリッポス2世は、サリッサと呼ばれる長大な両手槍を装備したマケドニアのファランクスの運用や斜線陣と呼ばれる重装歩兵の密集戦術の改良などを通じた軍制改革および戦術改革によってマケドニアを中央集権的な強大な軍事国家へと導いていくことになります。 そして、こうしてマケドニア国内における政治的および軍事的な地盤を固めていったフィリッポス2世は、トラキアやテッサリアといったマケドニアの周辺地域へと勢力を拡大していったのち、ついにギリシア本土の都市国家へと向けて進軍を開始していくことになるのです。 マケドニアのトラキア地方への侵攻とオリントスとの戦い 紀元前359年にマケドニアの王として即位したフィリッポス2世は、マケドニア国内における軍事改革と政治改革を進めていったのち、 まずは北方のトラキアとの国境地帯に自らの名を冠したラテン語や英語ではフィリピ(Philippi)、古代ギリシア語ではピリッポイ(Φίλιπποι)と呼ばれる都市を建設したうえで、 こうして新たに建設されたピリッポイの町を軍事拠点として付近にあったパンガイオンの金鉱開発と東方に隣接するトラキア地方への侵出を試みていくことになります。

  • サリッサと改良型斜線陣(編集中)

    前回(リ)書いたように、紀元前359年に新たにマケドニアの王として即位することになったフィリッポス2世は、   その後、フィリピの町の近くにあったパンガイオンの金鉱開発によって得られた豊富な資金を財源として、マケドニア国内における軍制改革を中心とする様々な政治改革を進めていくことになります。   そして、こうしてマケドニアのフィリッポス2世によって進められた軍制改革のなかでも後世にまで影響をおよぼしていくことになった戦術面での大きな変化としては、   重装歩兵の密集隊にサリッサと呼ばれる長大な槍を装備させたことと、テーバイの名将エパミノンダスによって編み出された斜線陣と呼ばれる重装歩兵の戦術の改良という二つの点が挙げられることになります。   <h3>サリッサと呼ばれるマケドニアの長大な両手槍の特徴</h3>   サリッサまたはサリーサ(sarissa)とは、フィリッポス2世による軍制改革以降の古代マケドニアの軍隊において用いられていた長大な両手槍のことを意味する言葉であり、   マケドニアの台頭以前の古代ギリシアの重装歩兵が用いていた一般的な槍の長さがだいたい2.1~2.7 mくらいであったのに対して、古代マケドニアの重装歩兵が用いていた槍の長さはそのほぼ2倍にあたる4~6mにもおよぶ長大な槍を用いていたと考えられています。

  • フィリッポス2世によるマケドニアの軍制改革とフィリピの町の建設とパンガイオンの金鉱開発(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争後のマケドニアにおける王権争いのなかで、国内の争いを調停するための人質としてテーバイへと送られることになったフィリッポスは、 この地での人質生活のなかで、テーバイの名将であったエパミノンダスから重装歩兵の密集陣形であるファランスクの運用の仕方や、斜線陣と呼ばれる新たな戦術を学ぶことによってギリシア世界における最新の軍事的知識に深く精通していくことになります。 そしてその後、紀元前359年に、マケドニアの人々の推挙によってマケドニア王として即位することになったフィリッポス2世は自らの軍事的な才能と知識とを生かしていくなかでマケドニアの軍制改革へと乗り出していくことになるのです。

  • フィリッポス2世によるマケドニアの軍制改革(編集中)

    前回(リ)書いたように、紀元前700年ごろに、スパルタやアルゴスといったギリシア本土の都市国家と同じギリシア人の一派にあったドーリア人の手によって建国されたマケドニア王国は、 その後しばらくの間、ギリシアの周辺国としての立場にとどまり続けることになるのですが、そうしたマケドニア王国の立場は、 ペルシア戦争とペロポネソス戦争というギリシア世界における二つの大きな戦争の時代を通じて大きく変化していくことになります。

  • マケドニアの台頭とペルシア戦争期とペロポネソス戦争期の二段階におけるギリシア本土の都市国家との関係の強化(編集中)

    前回(リ)書いたように、ギリシアの北方に位置するマケドニア王国は、紀元前700年ごろにスパルタやアルゴスといったギリシア本土の都市国家と同じギリシア人の一派であるドーリア人によって建国されることになるのですが、 ペルシアを中心とする東方世界と、アテナイやスパルタといったギリシア本土の都市国家の中間に位置するマケドニアは、その後、長い間、正式なギリシア人の一員とは見なされないギリシアの周辺国としての地位にとどまり続けていくことになります。 しかし、こうしたギリシアの周辺国としてのマケドニアの立場は、ペルシア戦争とペロポネソス戦争というギリシア世界における二つの大きな戦争を通じて大きく変化していくことになるのです。

  • ギリシア北方におけるマケドニアの台頭(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争後にギリシア世界の覇権を握ることになったスパルタは、紀元前371年に起きたレウクトラの戦いでテーバイ軍に大敗することによって国力を衰退させていくことになり、 レウクトラの戦いにおけるスパルタへの勝利によって新たにギリシア世界の覇権を手にすることになったテーバイもまた、紀元前362年に起きたマンティネイアの戦いにおいて、それまでの快進撃を導いてきた名将エパミノンダスを失うことによってその後は凋落の一途をたどっていくことになります。 そして、こうしたスパルタやテーバイといったギリシア本土の都市国家において都市国家同士の分立と抗争による疲弊と衰退が続いていくなか、ギリシアの北方に位置するマケドニアの地において新たな勢力が台頭していくことになるのです。

  • マンティネイアの戦いにおけるエパミノンダスの死とギリシア世界におけるテーバイの覇権の終焉(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争後の古代ギリシアにおける覇権は、紀元前371年に起きたレウクトラの戦いにおけるテーバイの名将であったエパミノンダスが率いるテーバイ軍のスパルタ軍に対する圧倒的な勝利によって、スパルタの手からテーバイの手へと移っていくことになります。 そしてその後、勢いに乗るテーバイを中心とするボイオティア同盟軍の進撃によって、スパルタの経済の要となる支配地であったメッセニアが解放されることによってスパルタの国力は大きく衰退していくことになると、 それに代わってテーバイがギリシア世界の覇者として君臨していくことになるのですが、こうしたテーバイによるギリシア世界の支配はそれほど長く続いていく、その勢いにはすぐに陰りが見えていくことになるのです。

  • レウクトラの戦いにおけるテーバイ軍の圧倒的勝利とヘイロタイの解放によるスパルタの国力の衰退(編集中)

    前回(リ)までに書いてきたように、古代ギリシアの覇権がスパルタからテーバイへと移っていく転換点となった戦いであるレウクトラの戦いは、 テーバイの名将であったエパミノンダスによって考案された斜線陣と呼ばれる重装歩兵の新戦術と、ペロピダスが率いる精鋭歩兵部隊である神聖隊の活躍によってテーバイ軍の劇的な勝利に終わることになります。 そしてその後、レウクトラの戦いでの勝利によって勢力を大きく増大していくことになったテーバイ軍を中心とするボイオティア同盟の軍勢は、 さらに、その勢いをかって、スパルタを中心とするペロポネソス同盟の勢力圏にあたるペロポネソス半島への侵攻を開始していくことになるのです。 レウクトラの戦いにおけるテーバイ軍の圧倒的勝利 紀元前371年に起きたレウクトラの戦いにおいては、テーバイを盟主とするボイオティア同盟軍の重装歩兵を中心とする7000の軍勢と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟の同じく重装歩兵を中心とする1万の軍勢が、 ギリシア中部のボイオティア地方に位置する平野であったレウクトラの地において激突することになります。

  • テーバイ軍のにおけるペロピダスの神聖隊の活躍(編集中)

     前回(リ)書いたように、紀元前371年に起きたテーバイを中心とするボイオティア同盟軍がスパルタを盟主とするペロポネソス同盟軍の戦いであるレウクトラの戦いでは、 戦術面においてはテーバイの名将であり天才的な戦術家であったエパミノンダスによって編み出された斜線陣と呼ばれる重装歩兵の軍団における革新的な密集陣形の展開が行われることによってテーバイ軍の勝利が導かれることになったと考えられることになります。 そしてその一方で、こうしたレウクトラの戦いにおいては、こうしたエパミノンダスによる斜線陣の導入という戦術面の革新のほかに、

  • レウクトラの戦いにおけるエパミノンダスの斜線陣(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争とその後に起きたコリント戦争の後の時代のギリシア世界においては、ペロポネソス戦争の戦勝国となったスパルタの覇権が続いていくことになるのですが、 紀元前371年に起きたレウクトラの戦いにおいてテーバイを中心とするボイオティア同盟軍がスパルタを盟主とするペロポネソス同盟軍を破ることによって、こうしたギリシア世界における覇権はスパルタからテーバイへと移っていくことになります。 そして、こうしたギリシア世界においてテーバイの覇権が確立されるきっかけとなったレウクトラの戦いにおいては、 テーバイの将軍にして政治家でもあったエパミノンダスが新たに用いた斜線陣と呼ばれる新たな戦術の導入によって、ギリシア世界における最強の陸軍であったスパルタの重装歩兵の軍団が撃破されることになったと考えられることになるのです。

  • テーバイの台頭とスパルタの覇権の終焉(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争の終結後にギリシア世界の覇権を一手に握ることになったスパルタに対してアテナイとアルゴスそしてテーバイやコリントといったギリシアの諸都市が同盟を結んでスパルタの覇権に対抗していくことになったコリント戦争は、

  • コリント戦争におけるスパルタとテーバイの対立と大王の和約(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争の終結後にギリシア世界における覇権を一手に握ることになったスパルタは、さらな野望を抱いて東方のペルシア遠征へと乗り出していくことになるのですが、 こうしたスパルタの王アゲシラオス2世によるペルシア遠征は、知略に長けた宰相であったティトラウステスを中心とするペルシア側からの画策もあって、ギリシア本国においてコリント戦争がはじまることによって断念を余儀なくされることになります。

  • コリント戦争におけるアテナイとテーベの同盟とスパルタの戦い(編集中)

    前回(リ)までに書いてきたように、紀元前431年にはじまったギリシア世界を二分する戦いであったペロポネソス戦争はスパルタに対するアテナイの無条件降伏によって終結することになり、 その後は、ペロポネソス同盟の盟主であったスパルタによるギリシア世界の支配が続いていくことになります。 しかし、こうしたギリシア世界におけるスパルタの覇権はそれほど長く続いていくことはなく、

  • クセノフォンの行軍とペルシアの王子キュロスの野望(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争におけるアテナイの敗戦の後に成立した三十人政権が民主派の市民たちの手によって打ち倒されて民主政が復活すると、 アテナイではそうした三十人政権の首謀者となったクリティアスやカルミデスといった人物や、さらにそれ以前にさかのぼるペロポネソス戦争におけるアテナイの敗戦の原因をつくったアルキビアデスとの関係も一因となることによって、 不敬神の罪を口実とした詩人メレトスの後ろ盾となった民主派の政治家であったアニュトスによる告発によって不当な死刑判決が下されることになるソクラテス裁判が引き起こされることになります。

  • アルキビアデスとソクラテスの関係(編集中)

    前回(リ)書いたように、アテナイにおける三十人政権と呼ばれる寡頭政が打倒されてから2年後に行われることになったソクラテス裁判においては、 三十人政権のもとで行われた暴政の首謀者となったクリティアスやカルミデスといった人物がアテナイの市民たちからはソクラテスの弟子と目されていた人物であったことから、 民主派の市民たちの報復の矛先がそうした三十人政権の中心人物たちの師と目されていたソクラテスへと向けられていくことによって無実の罪による死刑判決へとつながっていくことになっていったとも考えられることになります。

  • アテナイの三十人政権と寡頭政の崩壊(編集中)

     前回(リ)書いたように、紀元前431年にはじまったアテナイとスパルタを中心とするギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争は、紀元前404年におけるアテナイの無条件降伏によってついに終結の時を迎えることになります。 そしてその後、スパルタの支配のもとに新たな国家を建設していくこという屈辱を強いられることになったアテナイにおいては三十人政権あるいは三十人僭主とも呼ばれる寡頭政の政治体制が樹立されていくことになるのです。 ペロポネソス戦争における敗戦後のアテナイにおいては、無条件降伏を受諾したアテナイを支配することになったスパルタの軍による統治下において国家の再建が進められていくことになり、 ペロポネソス戦争を勝利へと導いたスパルタの将軍であったリュサンドロスの後見のもとに親スパルタの人物を中心とする三十人の政治家による寡頭支配にあたる三十人政権が樹立されることになります。

  • ペロポネソス戦争におけるアテナイの敗北と六将軍の処刑(編集中)

    前回(リ)までに書いてきたように、紀元前431年にはじまったアテナイとスパルタを中心とするギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争は、 過激な発言によって民衆の支持を集めていったアテナイの煽動政治家の一人であったアルキビアデスによって強行されたシケリア遠征の失敗を転換点としてアテナイの側の不利へと大きく傾いていくことになります。 そしてその後、陸上の戦いにおいても海上の戦いにおいても窮地へと立たされていくことになったアテナイでは、国内においても民主政治の堕落による衆愚政治が進んでいくなかで、 一時は、デロス同盟の盟主としてギリシア世界の覇者として君臨していくなかで、シケリアからカルタゴ、そして、エジプトからイオニアへと至る地中海帝国の建設の野望を抱いていたアテナイは、ペロポネソス戦争における敗北と亡国への道を突き進んでいくことになるのです。

  • アルキビアデスの四度の変心と祖国アテナイの亡国への道:スパルタでのアルキビアデスの暗躍とペルシアへの逃亡の末の死

    アルキビアデスはアテナイの大艦隊を率いてシケリア遠征へと乗り出したものの瀆神罪の嫌疑をかけられたことで祖国を捨てて敵国であるスパルタへと逃亡することによってアテナイを亡国の道へと導いていく。混乱に乗じてアテナイでの復権を果たしたアルキビアデスは、その後再びペルシアへと逃亡することになり、フリュギアの地においてスパルタの刺客に暗殺されたとも伝えられている。

  • 第二次ペロポネソス戦争の開戦とアテナイのシチリア遠征の失敗(編集中)

    前回(リ)書いたように、紀元前431年にはじまったアテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟によるリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争の前半戦にあたる十年戦争は、 アテナイにおける和平派の政治家であったニキアスの主導によって紀元前421年に結ばれることになったニキアスの和約によっていったんは終結することになります。 しかし、こうしたニキアスの和約が結ばれた後のギリシア世界においても、アテナイとスパルタとの政治的および軍事的な緊張関係は持続していくことになり、 その後、アテナイにおいて、主戦派の政治家であったアルキビアデスが新たに都市国家の指導者としての地位につくことになると、両者の関係は、さらなる軍事衝突が避けられない状態にまで悪化していくことになるのです。 アルキビアデスの台頭とアテナイのシケリア遠征 アテナイの名門貴族の家柄の生まれであり、アテナイ随一とも言われるたぐいまれなる美貌と美しい肉体の持ち主であると同時に、巧みな弁舌の才によってアテナイの民衆を魅了する美青年であったアルキビアデスは、 30歳の若さにしてアテナイの将軍の地位に選出されることになり、その後、彼を熱狂的に支持する民衆たちの力によってアテナイの指導者としての立場にまで昇りつめていくことになります。

  • ペロポネソス戦争の前半戦における十年戦争とニキアスの和約(編集中)

    前々回(リ)書いたように、アテナイとスパルタの間で結ばれた「30年の和約」は長続きすることはなく、 ギリシア北方の植民市にあたるエピダムノスの内乱をきっかけとしてアテナイとコリントの間で軍事衝突が起きると、 紀元前431年、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間でギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争がついに開戦の時を迎えることになります。

  • ペロポネソス戦争期におけるアテナイの衆愚政治への堕落(編集中)

    前回(リ)書いたように、アテナイとスパルタの間で結ばれた「30年の和約」は長続きすることはなく、 ギリシア北方の植民市であったエピダムノスの内乱をきっかけとして起きたデロス同盟の盟主であるアテナイと、ペロポネソス同盟の主要国の一つであったコリントの軍事衝突をきっかけとして、 紀元前431年、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間でギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争がついに開戦の時を迎えることになります。 そして、こうしたペロポネソス戦争が開戦された当初のアテナイにおいては、アテナイの民主政を完成期へと導いたペリクレスが政治を主導することになるのですが、 疫病の流行によって偉大な指導者であったペリクレスが不慮の死を遂げることになった後のアテナイにおいては、デマゴーグとも呼ばれる煽動政治家によって政治が執り行われていく衆愚政治への堕落が進んでいくことになります。

  • コリントとアテナイの戦いとペロポネソス戦争の開戦(編集中)

     前回(リ)書いたように、第一次ペロポネソス戦争とも呼ばれる紀元前460年頃にはじまるデロス同盟とペロポネソス同盟の全面的な軍事衝突の前哨戦となる軍事的抗争は、  紀元前445年に、両陣営の盟主であるアテナイとスパルタが互いの覇権を認め合う「30年の和約」を結ぶことによっていったんは終結することになるのですが、 こうした両者の間に結ばれた30年の和約は半分の期間しか過ぎていない15年後に再び戦争へと突き進んでいくことになります。

  • 第一次ペロポネソス戦争とアテナイとスパルタの「30年の和約」(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペルシア戦争におけるアケメネス朝ペルシアによるギリシア遠征を退けた後の古代ギリシアにおいては、 アテナイを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟という二つの勢力が互いにギリシア世界の覇権をめぐって争い合う構図が形づくられていくことになります。 そして、こうしたデロス同盟とペロポネソス同盟という二つの勢力の争いは、最終的に、紀元前431年にはじまるギリシア世界を二分する大きな戦いであるペロポネソス戦争へとつながっていくことになるのですが、 そうしたペロポネソス戦争の開戦にさかのぼること30年ほど前にあたる紀元前460年頃からこうしたアテナイとスパルタを中心とする二つの同盟の間では、比較的小規模な軍事的抗争が繰り広げられていくことになります。

  • ペロポネソス同盟の成立の起源(編集中)

    前回(リ)までに書いてきたように、ペルシア戦争におけるアケメネス朝ペルシアによるギリシア遠征を退けた後の古代ギリシア世界においては、 サラミスの海戦においてギリシア艦隊を勝利へと導くことによって海軍国家として隆盛を極めていくことになったアテナイを盟主とするデロス同盟が覇権を振るっていくことになるのですが、 こうしたアテナイを中心とするデロス同盟と並んで、古代ギリシア世界において台頭していくことになった都市国家間の軍事同盟としては、スパルタを中心とするペロポネソス同盟の名が挙げられることになります。

  • ペリクレスによるアテナイの支配とペストの流行による死  

      前回(リ)書いたように、ペルシア戦争におけるサラミスの海戦による勝利を一つの契機としてギリシアを代表する海軍国家として隆盛していくことになったアテナイは、 紀元前477年に、ペルシア軍のギリシアへの再侵攻に備えることを名目として自らを盟主とする軍事同盟であるデロス同盟を結成することになります。 そしてその後、アテナイは、ギリシア中の同盟諸都市から拠出されたデロス同盟の資金を自らの裁量で自由に使っていくことによって、 名実ともに、ギリシア世界を率いる最大の経済大国であると同時に軍事大国としても昇りつめていくことになるのですが、 こうしたアテナイの黄金時代において都市国家の指導者として君臨することになった人物としては、アテナイの政治家にして軍人でもあったペリクレスの名が挙げられることになります。   ペルシア戦争においてアテナイ海軍を率いた指揮官の一人でもあった軍人であるクサンティッポスを父として、アテナイ随一の名門貴族の出身であったアガリステを母とする名家の生まれであったペリクレスは、  幼少時代から、弁論術と音楽に優れた教師であったダモンと呼ばれる人物に学ぶことによって英才教育を施されることによって若いうちから弁舌において優れた才能を見せていくことになり、 さらに、当時アテナイへと移り住んでいた古代ギリシアを代表する自然哲学者であったアナクサゴラスにも学ぶことによって、哲学的な合理的思考と深い教養を身につけていくことになります。

  • デロス同盟の成立とアテナイの黄金時代

    前回(リ)までに書いてきたように、アケメネス朝ペルシアによるギリシア世界への大規模な遠征としてのペルシア戦争は、 紀元前480年のサラミスの海戦と、その翌年に起きたプラタイアの戦いという海と陸の両方の決戦におけるペルシア軍の大敗によって幕を閉じることになるのですが、 その後、ギリシア世界においては、再びペルシア軍が攻めてきた時に備えて、ギリシアの都市国家間における連携と結束がよりいっそう強く求められていくことになります。 サラミスの海戦の勝利による海軍国家としてのアテナイの隆盛 ペルシア戦争がはじまる以前の古代ギリシアにおいては、対外戦争におけるギリシア連合軍の指揮権は、ギリシア最強の陸軍国家であったスパルタが一手に担うことになっていたのですが、 ペルシア戦争におけるギリシア側の勝利を決定づけることになった海と陸の二つの戦いのうちの前者であるサラミスの海戦におけるアテナイ艦隊の活躍によって、 陸軍国家としてのスパルタと同等に、海軍国家としてのアテナイもギリシア連合軍を率いる二大強国のうちの一国として広く認められていくことになります。 そして、 こうしたアケメネス朝ペルシアによる最後のギリシア遠征を退けた当初のギリシア世界においては、ギリシア連合軍の司令官にはスパルタの将軍であるパウサニアスが就くことになるのですが、 その後、パウサニアスがペルシアへの密通の疑いをかけられることによって失脚すると、ギリシア連合艦隊の指揮権はスパルタからアテナイへと移っていくことになるのです。

  • ペルシア戦争の三回のギリシア遠征におけるペルシア軍の進軍ルートの違い

    前回(リ)書いたように、ペルシア戦争におけるアケメネス朝ペルシアによるギリシア遠征は、古代ギリシアの歴史家であるヘロドトスの『歴史』における記述に基づくと、 紀元前492年に行われた第一回ギリシア遠征と、紀元前490年に行われた第二回ギリシア遠征、そして、紀元前480年にはじまる第三回ギリシア遠征という三段階に分けて行われたと捉えられることになります。 それでは、こうしたペルシア戦争における三回のギリシア遠征におけるペルシア軍の進軍ルートにはそれぞれ具体的にどのような違いがあったと考えられることになるのでしょうか? 第一回ギリシア遠征におけるペルシア艦隊のアトス岬の暴風による撤退 そうすると、まず、 ヘロドトスの『歴史』における記述では第一回ギリシア遠征として位置づけられている紀元前492年の遠征においては、  ダレイオス1世の命によって派遣された将軍マルドニオスが率いるペルシア軍の大艦隊は、ペルシア帝国の勢力下にあった現在のトルコが位置するアナトリア半島の西岸沿いのエーゲ海を北上していくことになります。

  • ペルシア戦争は何回あったのか?ヘロドトスの『歴史』に基づく三回におよぶギリシア遠征と四回にわたる大きな戦い

    前回(リ)までに書いてきたように、アケメネス朝ペルシアとアテナイとスパルタを中心とするギリシア諸都市との間で50年間にわたって繰り広げられていくことになったペルシア戦争は、 紀元前499年に起きたイオニアのギリシア植民市によるアケメネス朝ペルシアへの反乱であるイオニアの反乱をきっかけとしてはじまったのち、 紀元前449年に結ばれたとされているカリアスの和約によって完全に終結することになったと考えられることになります。 そして、こうしたペルシア戦争と呼ばれる一連の戦いは、ペルシ帝国からギリシア世界へと向けて行われた数回にわたる大規模な遠征を中心に展開していくことになったと考えられることになるのですが、 こうしたペルシア戦争は大きく分けて何回にわたって行われることになったのか?言い換えればペルシア戦争におけるペルシア軍によるギリシア遠征の回数は何回だったと考えられるのか?という問いについては、 この戦争における視点をギリシア軍の側に置くのか?それともペルシア帝国の側に置くのか?あるいは、ヨーロッパ大陸におけるどこまでの地域がギリシア世界とみなすことができるのか?といった観点の違いに応じて、それぞれに異なる答えが導き出されていくことになると考えられることになるのです。

  • カリアスの和約とペルシア戦争の完全終結に至るまでのアテナイとスパルタを中心とするギリシア連合軍の反撃

    前回(リ)までに書いてきたように、アケメネス朝ペルシアがヨーロッパへの領土拡大を目指して行ったギリシア世界への大規模な遠征としてのペルシア戦争は、 クセルクセス1世によって行われた第三回ギリシア遠征におけるペルシア軍の大敗によって幕を閉じることになるのですが、 その一方で、こうしたアケメネス朝ペルシアとアテナイやスパルタといったギリシア諸都市との間では、その後も互いの勢力の境界線をめぐる争いが長期間にわたって続いていくことになります。 ミュカレの戦いからビュザンティオン包囲戦までのスパルタ率いるギリシア連合軍の進撃 紀元前480年のサラミスの海戦とその翌年のプラタイアの戦いに敗れることによって、ペルシア軍の大部分の部隊がペルシア本国へと引き上げていくことになると、 アテナイとスパルタを中心とするギリシア艦隊は、アナトリア半島南西部のイオニア地方に位置するギリシア人植民市の解放を目指してペルシア軍に対する反転攻勢へと向かっていくことになります。 そしてその後、スパルタの将軍であるパウサニアスによって率いられたギリシア艦隊は、紀元前479年に行われたミュカレの戦いによってペルシア軍を破ることによって、 イオニア地方のギリシア人植民市をペルシア帝国の支配から解放して再びギリシア世界の内に組み込んでいくことになり、 さらにその後、翌年の紀元前478年に行われたビュザンティオン包囲戦にも勝利することによって、マケドニアからトラキアへと至るヨーロッパ地域の大部分がペルシアの支配から解放されてギリシア諸国の勢力圏のうちへと戻っていくことになります。 エイオン包囲戦からエウリュメドン川の戦いまでのアテナイ率いるギリシア連合軍の進撃 そして、その後、 パウサニアスがペルシアへの密通の疑いをかけられることによって失脚すると、ギリシア艦隊の指揮権はスパルタからアテナイへと移っていくことになり、 アテナイを中心とするギリシア連合軍は、 紀元前475年に行われたエイオン包囲戦において、ペルシア戦争の余波により一時的にペルシア軍に占領されていたトラキアの都市であったエイオンを解放してこの地域における支配権を確固たるものとしたうえで、

  • テミストクレスのペルシアへの亡命と毒杯による死の逸話:ペルシア戦争を勝利に導いた二人の将軍の最期②

    前回(リ)書いたように、紀元前480年のサラミスの海戦とその翌年のプラタイアの戦いという海と陸での二つの決戦を制することによって、ペルシア戦争におけるギリシア側の勝利を導いた二人の将軍のうち、 プラタイアの戦いにおいてギリシア陸軍を勝利へと導いたスパルタの将軍であるパウサニアスは、その後、ペルシアとの密通を疑われることによって、 青銅のアテナ神殿の中に閉じ込められて飢えと渇きによって衰弱していった末に力尽きるという悲惨な死を遂げることになります。 それでは、サラミスの海戦においてギリシア海軍を勝利へと導くことによって、こうしたペルシア戦争におけるギリシア軍側の勝利を導いたもう一人の将軍にあたる アテナイの将軍であるテミストクレスのその後の人生はどのように展開していくことになっていったのかというと、彼の人生もまた、ペルシア帝国との因縁のなかで大きく翻弄されていくことになっていったと考えられることになるのです。 テミストクレスによるアテナイの城壁の再建とスパルタとの不和 紀元前480年のサラミスの海戦においてギリシア艦隊を勝利へと導いたアテナイの将軍にして政治家でもあったテミストクレスは、 その後、救国の英雄としてアテナイ市民たちに迎え入れられることによって、アテナイの指導者として、ペルシア戦争の際に破壊された都市の再建へと取り組んでいくことになります。 そして、 こうしたアテナイにおける都市の再建の事業を進めていく際に、テミストクレスは、再び敵国の軍隊によって祖国の土地が蹂躙されることがないようにするために、アテナイの城壁の再建へと着手していくことになるのですが、 その際、アテナイとライバル関係にあったスパルタは、ペルシア軍が再び攻めて来た時に、アテナイの城塞を拠点として利用される可能性があるということを口実に、城壁の再建計画を中止するように圧力をかけてくることになります。 そして、 テミストクレスは、こうしたスパルタからの干渉に対して、サラミスの海戦の際にペルシア軍を欺いた時のように、再び一計を案じることになり、 スパルタ人たちに対しては、貴殿たちの了承が得られるまで城壁の再建計画を強行する気はないと述べたうえで、心配ならば大使を遣わしてアテナイまで様子を見に来るがいいとまで言って、彼らを油断させることにします。 そして、その後、

  • ペルシア戦争を勝利へと導いた二人の将軍の最期:テミストクレスとパウサニアスのペルシアとの関係

    前回(リ)書いたように、アケメネス朝ペルシアがヨーロッパへの領土拡大を目指して行ったギリシア世界への大規模な遠征としてのペルシア戦争は、 紀元前480年のサラミスの海戦と、その翌年に起きたプラタイアの戦いという海と陸の両方の決戦におけるペルシア軍の大敗によって幕を閉じることになります。 そしてその後、ギリシア本土の都市国家たちが、東方の大国であるペルシア帝国からの侵略を受けることは二度となく、古代ギリシア世界ではアテナイとスパルタを中心とする黄金時代が続いていくことになるのですが、 その一方で、こうしたサラミスの海戦とプラタイアの戦いという二つの決戦における勝利の立役者となることでペルシア戦争を勝利へと導いた二人の将軍、すなわち、 アテナイの将軍であるテミストクレスと、スパルタの将軍であるパウサニアスは、自分たちが戦場においては打ち破ることになったペルシア帝国との関わりのなかで、それぞれに非業の死を遂げていくことになるのです。

  • プラタイアの戦いにおけるマルドニオスの戦死と古い盟約で結ばれたアテナイとプラタイアの同盟関係

    前回(リ)書いたように、ペルシア戦争における最大規模の戦いが繰り広げられていくことになるクセルクセス1世による第三回ギリシア遠征においては、 紀元前480年に起きたテルモピュライの戦いの後に行われたサラミスの海戦において、アテナイ艦隊を中心とするギリシア艦隊が2倍ほどの軍艦の数におよぶペルシアの大艦隊をサラミス水道で打ち破ることによって、 ギリシア遠征の総大将でもあったアケメネス朝ペルシアの大王であるクセルクセス1世は、残されたペルシアの軍艦と共にペルシア本国への帰還することになります。 しかし、その一方で、将軍マルドニオスが率いる30万にもおよぶとも言われるペルシアの陸軍は、そのまま引き続きギリシア本土にとどまり続けることになり、アテナイやスパルタといったギリシアの主要都市を制圧する機会をうかがっていくことになるのです。 将軍マルドニオスによるアテナイとの和平交渉の決裂 紀元前480年のサラミスの海戦におけるペルシア艦隊の敗退ののち、ペルシア陸軍を率いていた将軍マルドニオスは、 軍の態勢を整えるために、一時は完全に制圧化に置いていたアテナイを離れてギリシア北方のテッサリアへといったん退いていくことになります。 そして、その後、マルドニオスは、 北方のテッサリアの地において、30万のペルシアの大軍の威容をもってギリシア諸都市を威圧し続けていくことによって、 ペルシアの侵攻に対抗するギリシア諸都市の盟主であったアテナイとの和平交渉へと臨んでいくことになるのですが、 サラミスの海戦における勝利によって士気が高まるアテナイの市民たちは、いまさら形式的なものであってもペルシアの支配のもとへと服するという決断を下すはずもなく、交渉はすぐに決裂してしまうことになるのです。

  • サラミスの海戦におけるデルフォイの神託とシロッコの風

    前回(リ)書いたように、ペルシア戦争における最大規模の戦いが繰り広げられていくことになるクセルクセス1世による第三回ギリシア遠征においては、 紀元前480年に起きたテルモピュライの戦いとアルテミシオンの海戦において、ペルシア軍は多大な犠牲を払いながらも、スパルタを中心とするギリシア陸軍と、アテナイを中心とするギリシア海軍に対して勝利することになります。 そして、こうしてギリシア軍側の防衛線を突破したペルシアの大軍は、そのまま雪崩を打ってテーバイやアテナイといった古代ギリシアの主要な都市国家が位置するギリシア中部のボイオティアからアッティカ半島へと至る地域へと侵攻を開始していくことになるのです。 ペルシア艦隊の進軍と陸路と海路におけるギリシア軍側の防衛線 テルモピュライの陥落の知らせを聞いたギリシアの諸都市では、もともとペルシア側に対して宥和的な姿勢を見せていたテーバイなどの都市国家がすぐにペルシア軍へと降伏していくことになります。

  • アルテミシオンの海戦におけるペルシア艦隊の進軍とヘレスポントスの風そしてギリシア艦隊のアテナイへの撤退

    アルテミシオンの海戦までのペルシア艦隊の進軍においてペルシア海軍はテッサリアの南部に位置するマグネシアの海岸沿いを航行している時に四日間にわたって激しい暴風に見舞われる。陸上における防衛線であるテルモピュライが陥落したことを知ったギリシア艦隊は海上における防衛線であるアルテミシオンを放棄してペルシア海軍とのギリシア本土における最終決戦に備えてアテナイへと向けて撤退を開始する。

  • テルモピュライの戦いにおけるスパルタの300人の重装歩兵とペルシアの20万の大軍との死闘

    前回(リ)書いたように、ペルシア戦争における最大の遠征にあたるクセルクセス1世による第三回ギリシア遠征においては、 紀元前480年の春に帝国の東の都にあたるサルディスを出立したペルシアの大軍は、陸路と海路の二つのルートに分かれて進軍を続けていくことになります。 そして、そうした数か月にもおよぶ長い行軍の旅の末に、陸路を進む20万を超えるとも言われる膨大な数におよぶペルシア軍の大軍は、 スパルタから来た300人の重装歩兵が守る天然の要害であるテルモピュライの地へと行き着くことになるのです。 マケドニアからの使者とギリシア連合軍のテンペからの撤退 サルディスを出立したペルシアの大軍がトラキアを通り過ぎてマケドニアの地にまでさしかかっていた頃、 スパルタとアテナイを中心とするギリシア連合軍は、1万人ほどにおよぶ重装歩兵の軍団を引き連れて、ギリシアへと侵攻してくるペルシアの大軍をマケドニアとテッサリアの境に位置する渓谷であったテンペの地において迎え討とうとして進軍していくことになります。

  • クセルクセス1世の第三回ギリシア遠征の陸軍と海軍のルートとアトス岬の運河の掘削とヘレスポントス海峡の巨大な船橋

    クセルクセス1世による第三回ギリシア遠征の陸軍と海軍のルートにおいては、ペルシア帝国の全土から集められた20万を超える大軍が、陸路においては大な船橋が架けられたヘレスポントス海峡を越えてトラキアからマケドニアそしてテッサリアへと進軍し、海路においては1200隻を超える三段櫂船から成るペルシア海軍の大艦隊がアトス岬に掘削された運河を通ってテッサリア沖のエーゲ海上を南下していくことになる。

  • テミストクレスによるアテナイの大艦隊の建造と陶片追放の末のペルシアへの亡命

    前回(リ)書いたように、紀元前490年に行われたマラトンの戦いで自軍の倍を超える数にあたる2万にもおよぶペルシアの大軍を破ることによってアテナイの英雄として讃えられることになったミルティアデスは、 その後、アテナイ市民たちの反対を押し切ってパロス島への遠征を強行したうえにこの遠征に失敗することによって反逆の罪に問われ、そのままアテナイの獄中において非業の死を遂げることになります。 そして、こうしたミルティアデスがマラトンの勝利による栄華から転落していった後のアテナイにおいては、祖国を繁栄と勝利へと導く新たな指導者としてテミストクレスが登場することになります。    

  • ミルティアデスの前半生におけるペルシアとの関わりとパロス島遠征の失敗による獄死

    前回(リ)書いたように、紀元前490年に行われたマラトンの戦いにおいては、アテナイの名将ミルティアデスが率いるアテナイとプラタイアの連合軍がギリシアの重装歩兵の密集陣形の長所をうまく活かすことによって、 自軍の2倍以上の兵力をほこる2万にもおよぶペルシアの大軍を破って敵軍を海へと追い返してしまうというギリシア側の大勝利をもたらすことになります。 そうして、こうしたマラトンの戦いにおける優れた采配によって一躍名を上げることになったミルティアデスは、母国へと帰還したのちアテナイの英雄として讃えられることによって栄華を極めていくことになるのですが、 このように、ミルティアデスがマラトンの戦いにおいてペルシア軍に対して輝かしい勝利をおさめることができた背景には、それまでの彼の人生における複雑な来歴が深く関わっていたと考えられることになります。

  • マラトンの戦いにおけるアテナイ軍とプラタイア軍の重装歩兵の奮戦とペルシア軍におけるアテナイの僭主ヒッピアスの暗躍

    前回(リ)で書いたように、ダレイオス1世の命によって紀元前490年に行われたペルシア戦争の第二回ギリシア遠征においては、 ペルシアの名将ダティスとアルタプレネスによって率いられた600隻の三段櫂船からなるペルシア軍の大艦隊がナクソス島やデロス島といったエーゲ海に浮かぶ島々を横断していく形でギリシア本土へと押し寄せてくることになります。 そして、ギリシア本土に隣接するエウボイア島へと上陸したペルシア軍は、エレトリアへと侵攻して、この都市を7日間におよぶ包囲戦の末に陥落させたのち、アテナイへと向けて軍を進めていき、 ついに、アケメネス朝ペルシアとアテナイの両軍は、エウボイア島の対岸に位置するアッティカ半島東岸のマラトンの地において対峙することになるのです。 ペルシア軍のマラトンへの上陸とアテナイの僭主ヒッピアスの暗躍  エウボイア島の主要都市であったエレトリアを制圧したペルシア軍は、その後、この地で軍備を整えたうえで、 アテナイなどのギリシア本土の主要都市が位置するアッティカ半島への上陸準備を進めていくことになるのですが、 そうしたアッティカ半島への上陸作戦を進めていく際に、ギリシア遠征に追従していた、かつてのアテナイの僭主であったヒッピアスの進言によって、 ペルシア軍の上陸地点をヒッピアスのかつての根拠地でもあったアテナイの北東27kmの地点に位置するマラトンの地に定めることになります。

  • ペルシア戦争の第二回ギリシア遠征におけるアテナイの僭主ヒッピアスの暗躍とエレトリアの滅亡

    前回(リ)で書いたように、ペルシア戦争の前哨戦にあたるアケメネス朝ペルシアによって紀元前492年に行われた第一回のギリシア遠征においては、 アトス岬の暴風によってペルシア艦隊の大部分が大破してしまうことなどによって、ペルシア軍はギリシア本土へとたどり着く前に本国へと撤退してしまうことになります。 そしてその後、ダレイオス1世がペルシア本国において再び大規模な軍備を整えたうえで第二回のギリシア遠征へと乗り出していくことによって、 アテネやスパルタなどに代表されるギリシアの都市国家とアケメネス朝ペルシア帝国とが直接衝突して互いに激しい戦いを繰り広げていくことになるペルシア戦争がついに本格的な開戦を迎えることになります。 第二回ギリシア遠征におけるダティスとアルタプレネスの進軍 第一回のギリシア遠征において、アトス岬の暴風によって大量の軍艦と兵士の命を失うことにはなったものの、トラキアからマケドニアへと至るヨーロッパ大陸における広大な領土を得ることになったダレイオス1世は、

  • 第一次ペルシア戦争におけるマルドニオスの侵攻とアトス岬での暴風による敗退

    前々回の記事(リ)で書いたように、紀元前499年にはじまったミレトスの僭主であったアリスタゴラスを首謀者とするイオニアのギリシア人植民市によるアケメネス朝ペルシアへの反乱であるイオニアの反乱においては、 反乱が起きた当初は、アテナイやエレトリアといったギリシア本土の都市国家からの加勢もあって反乱軍が大きな戦果を挙げていくことになるのですが、 その後、ダレイオス1世が派遣したペルシア軍による激しい追撃によってギリシア本国から来た援軍は帰国を余儀なくされ、 紀元前494年にミレトスが陥落することによって、およそ6年におよんだと考えられるイオニアの反乱はついにその終結を迎えることになります。 そしてその後、こうしたイオニアの反乱における因縁をきっかけとして、大きく分けて三回にわたって繰り広げられていくことになるアテナイやスパルタを中心とするギリシア本国の都市国家群とアケメネス朝ペルシア帝国とのヨーロッパの覇権をめぐる世界戦争ともいえる戦いであるペルシア戦争が繰り広げられていくことになります。

  • ペルシア戦争は侵略戦争だったのか?ペルシア側の視点に立った正義の報復としてペルシア戦争の位置づけ

    世界史におけるペルシア戦争と言えば、 一般的には、古代オリエント世界を統一した巨大な専制国家であったペルシア帝国が古代ギリシアを中心とするヨーロッパ世界への領土拡大を目指したアジアからヨーロッパへの侵略戦争として位置づけられることが多いと考えられ、 ギリシア人の側の視点に立つと、この戦いは、 アジアにおける専制主義の帝国から民主主義勢力にあたるアテナイを中心とする古代ギリシアの都市国家が自らの国土を守りきった正義の自衛戦争として位置づけられることになります。 しかしその一方で、こうしたペルシア戦争と呼ばれる戦争は、 ギリシア人からは侵略者として位置づけられているペルシア人の側の視点に立って、この戦争が起きた背景について考えていくと、そうしたペルシア帝国からギリシア世界への一方的な侵略戦争とはまた違った側面が見えてくることになります。 イオニアの反乱におけるギリシア軍の進軍とサルディスの炎上 詳しくは前回の記事(リ)で書いたように、 ペルシア戦争の直接的な原因となったと考えられる紀元前499年に起きたイオニアの反乱においては、当初はアテナイやエレトリアといったギリシア本国からの援軍が反乱軍と合流することによって、 反乱軍の軍勢はアケメネス朝ペルシアの王の道の終着地にもなっていった重要な都市であったサルディスを焼き払うなど大きな戦果を上げていくことになります。 しかしその後、ペルシア帝国の王であったダレイオス1世によって派遣された討伐部隊が到着して反撃を開始するとギリシア側の軍勢は総崩れとなって、アテナイ人たちは海を越えてギリシア本国へと逃げ帰ってしまうことになり、 紀元前494年にミレトスが陥落することによって、およそ6年におよんだイオニアの反乱はついにその終結の時を迎えることになります。 そして、 イオニアから東へと遠く離れたペルシア帝国の王都スサにおいて、イオニア人の反乱の知らせとサルディス炎上の知らせを聞いたペルシアの王ダレイオス1世は、 この反乱の首謀者のなかに、それまでペルシア帝国とは一応の友好関係にあったアテナイ人たちが含まれていたことを知るとことのほか強い怒りを示したと伝えられています。

  • イオニアの反乱におけるサルディスの炎上とミレトスの陥落  

    前回(リ)書いたように、紀元前499年にはじまるイオニアの反乱を主導してアケメネス朝ペルシアに反旗を翻すことを決意したミレトスの僭主であったアリスタゴラスは、その後すぐにギリシア本国への援軍の要請を行うことになり、 こうしたアリスタゴラスからの救援要請に対して、スパルタはその要請を断ったものの、アテナイやエレトリアといったイオニア人との関係性の深いエーゲ海沿岸の都市国家たちは援軍を派遣することを決断することになり、 アテナイからは20隻、エレトリアからは5隻の軍艦がイオニア地方のギリシア植民市の救援へと向けてギリシア本土からペルシア帝国が支配するアナトリアの地へと向けて出港していくことになります。 イオニアの反乱におけるギリシア軍の進軍とサルディスの炎上 そして、 こうしたアテナイやエレトリアといったギリシア本土の都市国家からの加勢もあって、イオニアの反乱の勢いは一挙に盛り上がっていくことになり、 紀元前498年に、アテナイとエレトリアから出港した25隻の軍艦によって構成されるギリシア軍は、 その後、現在のトルコに位置するアナトリア半島西部の古代都市であったエフェソスに上陸したのち、この地でイオニアの反乱軍と合流することになります。 そして、その後、 こうしたミレトスを中心とするイオニアのギリシア人植民市の市民たちとアテナイとエレトリアからの援軍によって構成される反乱軍の軍勢は、 山岳地帯を越えてアケメネス朝ペルシアの勢力圏の深くにまで侵入していき、かつてのリュディア王国の首都であったサルディスにまで攻め上り、 アケメネス朝ペルシアにとっても帝国のかなめとなる重要な都市の一つであったこの都市を陥落させて焼き払うことになるのです。

  • イオニアの反乱とミレトスの僭主アリスタゴラスへのアテナイからの救援

    前回(リ)書いたように、紀元前6世紀後半の時代にアケメネス朝ペルシアの支配下へと入っていくことになったイオニア地方のギリシア人植民市においては、 ペルシアから派遣された僭主による支配や兵役や納税の義務を負わされることによる市民の自由の制限、さらには貿易活動におけるフェニキア人への保護政策などによってペルシア帝国に対する不満が高まっていくことになり、 こうしたイオニア植民市におけるギリシア人たちのペルシアへの敵対心は、その後のイオニアの反乱からペルシア戦争へと続いていく戦いの火種となっていくことになります。 イオニアの反乱とミレトスの僭主アリスタゴラスのナクソス遠征の失敗 現在のトルコが位置するアナトリア地方の南西部の沿岸地域にあたるイオニア地方に築かれていた数多くギリシア人植民市を代表するミレトスはペルシアから派遣された僭主であったアリスタゴラスによって統治されていました。

  • アケメネス朝ペルシアの台頭とペルシア戦争の起源となったフェニキア人とギリシア人の王女たちをめぐる因縁の物語

    前回(リ)までに書いてきたように、スパルタと共に、古代ギリシアを代表する都市国家にあたるアテナイにおいては、 紀元前561年にはじまるペイシストラトスの僭主政の時代における中小農民の台頭と、紀元前508年に行われたクレイステネス改革における大規模な制度改革を通じて、 国力の増大が進むと同時に、民主政の基盤となる政治体制のあり方が形づくられていくことになっていったと考えられることになります。 そして、こうした古代ギリシア世界におけるアテナイの台頭と時を同じくして、東方に位置するメソポタミアやエジプトを中心とするオリエント世界においては、アケメネス朝ペルシアと呼ばれるペルシア帝国が台頭していくことになります。 アケメネス朝ペルシアの台頭とフェニキア人との関係 アケメネス朝ペルシアは、紀元前550年ごろの時代に、現在のイランに位置する古代王国であったメディア王国に属する小王国の王であったキュロス2世がそれまで仕えていたメディア王国に反旗を翻すことによって独立した国にあたり、 その後、キュロス2世は、かつて自らが仕えていたメディア王国を滅ぼしてイラン高原を平定したのち、現在のトルコに位置するリュディア王国や新バビロニア王国といった国々を次々に征服していくことによって、広大な領土を持つ帝国を築き上げていくことになります。

  • 陶片追放(オストラキスモス)とは何か?

    前回(リ)書いたように、紀元前508年に行われたクレイステネス改革においては、10部族制と呼ばれる新たに制定された地域的な部族制度に基づいてアテナイの民主政の基盤が築かれていくことになっていったと考えられるのですが、 こうしたクレイステネス改革においては、陶片追放(オストラキスモス)と呼ばれる少し変わった秘密投票に基づく追放制度の導入もなされていくことになります。 <h3>古代ギリシア語におけるオストラコンの意味と貝殻と陶片の違い</h3> (アテネのアクロポリスの井戸から出土した紀元前482年のオストラコン:出典:Wikimedia Commons:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Athen_Stoa_Ostrakismos_2.jpg Ancient Agora Museum in Athens, Credit: Xocolatl , 2008) そうすると、まず、 日本語において陶片追放と呼ばれるこの制度は、古代ギリシア語では、オストラキスモス(ὀστρακισμός)、英語ではオストラシズム(ostracism)と呼ばれることになるのですが、 こうした古代ギリシア語におけるオストラキスモス(ὀστρακισμός)という言葉は、もともと、土器や陶器の破片のことを意味するオストラコン(ὄστρακον)という古代ギリシア語の単語に由来する言葉である考えられることになります。 クレイステネス改革によって制定されたと考えられている古代ギリシアのアテナイにおいて行われていたこの追放制度においては、 陶器の破片に僭主となるおそれのある人物の名前を記したうえで、投票者が誰の名を書いたかは分からに状態で票を投じる秘密投票が行われることになり、 この秘密投票において6000票とも言われる一定数を超える自分の名前を書かれた人物は、10年間の国外追放の処分が下されることになっていたため、 こうした陶器の破片のことを意味するオストラコンに由来するオストラキスモスという呼び名がこうしたアテナイの追放制度のことを意味する言葉として用いられるようになっていったと考えられることになります。

  • クレイステネスの改革と10部族制によるアテナイの民主政の基盤の形成

    前回(リ)書いたように、暴君ヒッピアスを追放することによって、ペイシストラトスの代から続く僭主政(せんしゅせい)から解放されたアテナイにおいては、 その後、スパルタ王クレオメネス1世の支援を受けた寡頭派を代表するイサゴラスと、民主派を代表するクレイステネスとの争いが続いたのち、 最終的に、アテナイ市民たちの支持を広く集めることになったクレイステネスがアルコンと呼ばれる執政官へと任命されることによって僭主政崩壊後のアテナイの政治的混乱に終止符が打たれることになります。 そしてその後、アルコンの地位へとついたクレイステネスは、クレイステネスの改革と呼ばれる一連の政治制度と社会制度の改革を実行していくことによって、アテナイの民主政の礎を築いていくことになります。 クレイステネスの登場とスパルタのアテナイへの政治介入 クレイステネスの改革においては、これまでのアテナイにおける血縁に基づく部族制度の解体をはかった地域的な部族制度にあたる10部族制の創設や、 デーモスと呼ばれる行政区画の設定、それらの新たな社会制度を踏まえた500人評議会の設置やストラテゴスと呼ばれる将軍職の新設などといった制度改革が行われていくことになったほか、 アテナイにおいて軍事力などを用いた非合法な手段によって政権を掌握する僭主が再び現れることを防止するために、 陶器の破片に僭主となるおそれのある人物の名を記して投票することによって、一定数以上名前を書かれた人物を10年間国外へと追放するという陶片追放(オストラキスモス)と呼ばれる秘密投票による追放制度なども設けられていくことになります。 そして、 こうしたクレイステネスの改革と呼ばれるアテナイの民主政の基盤を形成していくことになったと考えられる政治改革において、 そうした一連の改革事業の根幹となった社会制度の改革こそが10部族制と呼ばれる地域的な枠組みに基づく新たな部族制度の制定であったと考えられることになります。

  • スパルタのアテナイへの政治介入とクレイステネスとイサゴラスの政争

    前回(リ)書いたように、ペイシストラトスの後を継いでアテナイにおける二代目の僭主の座へとついたヒッピアスは、弟ヒッパルコスを暗殺によって失ったのち暴君へと変貌していくことになり、 こうしたヒッピアスの暴政は、財力と政治力に長けていたアテナイの名門貴族の一家であったアルクメオン家の人々と、彼らに手を貸したスパルタ王クレオメネス1世が率いるスパルタ軍によって打倒されることになります。 しかし、こうして暴君ヒッピアスが東方のペルシア帝国のもとへと逃亡していった後もアテナイにおいては一時的な政治的な混乱が続いていくことになります。 クレイステネスの登場とスパルタのアテナイへの政治介入 紀元前510年、アテナイ市民たちは自分たちのライバルでもある古代ギリシアの都市国家であったスパルタの力を借りることによって暴君ヒッピアスを追放することに成功することになるのですが、 その後、この機会にアテナイへのさらなる政治的影響力の拡大を図ろうとしていたスパルタ王クレオメネス1世と、アテナイの一部の貴族たちが手を組むことによって、スパルタの息のかかった少数の貴族たちによる寡頭政治の復活を目指していくことになります。 しかし、 こうしたスパルタ王と一部の貴族たちの試みに対して、アテナイ市民たちの多くは、より民主的な政治の実現を求めていくことになり、そうしたアテナイ市民たちの求めに応じる形で、 暴君ヒッピアスからのアテナイ解放に力を尽くしたアルクメオン家の一員でもあったクレイステネスが彼らの代表者として立ち上がることになります。 そして、こうしたヒッピアスの暴政から解放された当初のアテナイにおいては、 スパルタ王と結んだ一部の貴族たちを中心とする寡頭政治の復活を目指す政治勢力と、クレイステネスを筆頭とする民主化の推進を目指す政治勢力とが互いに反目する対立構造が形成されていくことになるのです。

  • ヒッピアスの暴政とアルクメオン家による民主政の復活

    前回(リ)書いたように、アテナイにおいて紀元前561年にはじまったペイシストラトスの僭主政は、その後、彼の息子であったヒッピアスへと引き継がれていくことになり、 新たにアテナイの僭主となったヒッピアスは、当初は産業の育成や詩人や芸術家の保護を行うといった穏健的な統治を進めていくことになるのですが、 その後、アテナイの貴族によって引き起こされた暗殺未遂事件をきっかけとして、二代目の僭主の座についていたヒッピアスの統治のあり方は大きな変容を見せていくことになります。 ヒッピアスの暴政とペルシア帝国 紀元前514年、僭主政の打倒を目指して立ち上がった民主政の信奉者でもあったとも伝えられているアテナイの二人の青年貴族によって引き起こされた暗殺未遂事件によって自らの弟であったヒッパルコスを失うことになったヒッピアスは、 その後、再び自分が襲われて弟のように暗殺されることを恐れて、猜疑心を深めていくことによって、自分の統治に反対する人々への監視と弾圧を強めて、数多くの市民たちを処刑していくという暴君へと変貌していくことになります。 そして、 こうしたヒッピアスの暴政に対する市民たちの不満が高まっていき、その統治に対するアテナイ市民たちの支持を完全に失っていくことになると、ヒッピアスはそれまで以上にさらに軍事力による弾圧へと走っていくことになり、

  • ヒッピアスの暴政とアテナイと弟ヒッパルコスの暗殺

    前回(リ)書いたように、紀元前561年にはじまるペイシストラトスの僭主政においては、軍事力を背景とした独裁政治が行われていくことになったものの、 政策の面においては、中小農民や貧民たちへの保護政策が行われていくことによって、アテナイでは中小農民の台頭と商業や手工業の発達により国力が増大していくことになります。 そして、ペイシストラトスの死後、こうしたアテナイにおける独裁者としての僭主の座は、彼の息子であったヒッピアスへと継承されることになります。 ヒッピアスによるアテナイの治世と弟ヒッパルコスの暗殺 紀元前527年にペイシストラトスの後を継いで僭主の座へと就いたヒッピアスは、自らの弟であったヒッパルコスと共に、アテナイの統治を進めていくことになるのですが、 僭主となった当初のヒッピアスは、民主的な人柄と評されていてアテナイ市民からも愛されていたという父の姿を見習って、 手工業などの産業の育成や、詩人や芸術家を保護する文化政策などを進めていくことによって、穏健な統治を進めていくことになります。 しかし、その後、 紀元前514年、ヒッピアスとヒッパルコスの兄弟が都市国家の守護神でもあった女神アテナを祀るアテナイ最大の祭典にあたるパンアテナイア祭へと参列していた際に、 アテナイの貴族にして民主政の信奉者でもあったハルモディオスとアリストゲイトンという名の二人の人物が僭主政の打倒を目指してヒッピアス兄弟の暗殺を試みることになり、 こうした二人の青年烈士による襲撃によって、弟ヒッパルコスは命を落としてしまうことになります。 そして、その後、 自らの最愛の弟を失ったことに怒り狂うヒッピアスは、その場で、暗殺の首謀者の一人であったハルモディオスを殺したのち、もう一人の暗殺者であるアリストゲイトンも捕らえたうえで、自らの支配に反抗する市民たちへの見せしめとして処刑することによって弟の復讐を果たすことになるのです。  

  • ペイシストラトスの僭主政とアテナイにおける平野党と海岸党の対立と山地党の台頭

    前回(リ)書いたように、不正な裁判の横行や経済的な格差の拡大をめぐって貴族と平民が互いに争い合うアテナイにおける政治的な混乱状態は、 紀元前594年に行われたソロンの改革による負債の帳消しや財産政治の導入といった政策によって一定の調停がもたらされることになるのですが、 その一方で、こうしたソロンの改革を経ても、アテナイにおける経済格差といった社会的な矛盾が根本的に解決されたわけではなかったため、その後もこうした貴族と平民あるいは富者と貧者との間における対立関係は長い間続いていくことになります。 アテナイにおける平野党と海岸党の対立と山地党の台頭 そして、 こうしたソロンの改革後のアテナイにおける政治的な対立構造は、従来の貴族と平民の間における比較的単純な二項対立の関係から、 やがて、ソロンの方針にならって両者の間の中道的な政治体制のあり方を目指す人々も現れていくことによってより複雑な対立構造へと変化していくことになります。 そして、具体的には、 こうしたソロンの改革後の紀元前6世紀前半のアテナイにおいては、当初は、 アテナイが位置するアッティカ半島の平野部を地盤とする地主の一派である平野党と、アッティカ半島南部の海岸部を地盤とする海上交易を主体とする商人の一派である海岸党に分かれて政争が繰り広げられていくことになり、 平野党の人々がソロンの改革以前に行われていた少数の貴族を中心とする寡頭政治の復活を求めていたのに対して、海岸党の人々はソロンの改革の遺産を引き継いで貴族と平民の間の調停を図るより中道的な政治体制の実現を目指していくことになります。 そして、 こうしたアテナイにおける平野党と海岸党との政治対立のなかで、そのどちらにも属していない中小農民や貧民たちの存在に目をつけたペイシストラトスと呼ばれる人物たちが、 こうした土地などの生産手段を持たない無産者階級にあたる中小農民や貧民たちを主体とする高地党または山地党と呼ばれる第三の派閥を新たに築き上げることによって、 アテナイにおける三つ巴の政治対立がさらなる混迷を深めていくことになっていったと考えられることになるのです。

  • ソロンの改革とアテナイにおける「重荷おろし」と財産政治の導入

    前回(リ)書いたように、紀元前7世紀ごろの貴族政の時代のアテナイにおいては、貴族による不正な裁判の横行と経済的な格差の拡大に対する平民たちの不満が高まっていくなか、 紀元前621年に制定されたドラコンの立法によって、それまでの慣習法しか存在しなかったアテナイおいて最初の成文法がつくられることになります。 しかし、ドラコンの立法によっても、貴族と平民の間における政治的および経済的な格差の拡大はとどまることはなかったため、 アテナイにおいては、こうした貴族と平民が互いに争い合う政治的な混乱状態に終止符を打つため、新たな調停者の出現が待ち望まれていくことになります。 ギリシア七賢人の立法者ソロンによる改革と「重荷おろし」 そして、 こうした貴族と平民との間で絶え間なく続く争いに新たな調停をもたらすために現れたのが紀元前6世紀のアテナイの立法者にして詩人でもあったソロンと呼ばれる人物であり、 彼は、古代ギリシアにおける最初の哲学者として知られるミレトスのタレスなどと共に、ギリシア七賢人の一人としても数え上げられることになります。 そして、 こうした立法者ソロンによって紀元前594年に行われたソロンの改革においては、まずは、アテナイにおける貴族と平民そして富裕者と貧者との間の経済的な格差を是正するために、 古代ギリシア語において「重荷おろし」といった意味を表すセイサクテイア(σεισάχθεια)と呼ばれる山積みになった借金を帳消しにする日本における徳政令にあたるような政策が実行されることになります。

  • ドラコンの立法と貴族政の時代のアテナイでの裁判と司法における二重の不正の進展

    前回(リ)書いたように、都市国家としてのアテナイは、ミケーネ文明崩壊後の古代ギリシアの暗黒時代にあたる紀元前10世紀ごろに、ミケーネ文明の担い手ともなったアカイア人の分派にあたるイオニア人によって築かれたと考えられていて、 建国当初のアテナイにおいては王政によって都市国家の統治が行われていたと考えられているのですが、 その後、こうしたアテナイの王政は紀元前7世紀ごろの時代にまでにアルコンと呼ばれる複数の執政官を中心に国家の統治が行われる貴族政へと移行していったと考えられています。 貴族政の時代のアテナイでの裁判と司法における二重の不正の進展 そして、 こうした紀元前7世紀ごろの貴族政の時代におけるアテナイでは、国家の指導者層にあたる貴族たちが政治の実権を握っていたばかりではなく、裁判権までも独占していくことによって、 彼らは、当時のアテナイの裁判において用いられていた慣習法に対しても自分たちにとって有利になるような恣意的な解釈を行って勝手な判決を下していくようになり、 さらに、 こうした貴族の自分勝手な解釈によって下された不当な裁判の判決が今度は新たな慣習としてアテナイの慣習法のうちへと取り込まれていくことによって、法律自体までもが徐々に変容していってしまうことになります。 そして、このようにして、 こうした貴族政の時代のアテナイにおいては裁判権を独占する貴族たちが有利になるような不正な裁判が横行し、 そうした不当な裁判の判例の積み重ねによって司法の土台となる慣習法としてのアテナイの法律までも貴族に有利になるように変化していくという裁判と司法における二重の不正が進展していくことになっていったと考えられるのです。 ドラコンの立法 そして、 こうした貴族による裁判権の独占と、彼らによる不正な裁判によって被害を受けることになったアテナイの民衆たちは、次第に都市国家の指導者層にあたる貴族たちへの不満を強めていくことになり、 こうした紀元前7世紀後半ごろの時代のアテナイにおいては、司法や行政といった都市国家における権力を一手に握る指導者層にあたる貴族たちと、その支配に異を唱える平民たちの間で激しい争いが絶え間なく続いていくことになります。 そして、

  • アテナイの建国とドラゴンの立法

    紀元前12世紀ごろにギリシア人を担い手とする最古の文明にあたるミケーネ文明が崩壊すると、その後の古代ギリシア世界においては、文字文化の存在しない暗黒時代が400年間にわたって続いていくことになるのですが、  古代ギリシアを代表する都市国家の一つにあたるアテナイもまた、こうした古代ギリシアにおける長く続く暗黒時代の間に、一つの市民集団としてのまとまりを持った都市国家として成立していくことになっていったと考えられることになります。 ドーリア人の侵入によるミケーネ文明の崩壊とイオニア人によるアテナイの建国 そうすると、まず、 こうした現在のギリシャの首都アテネが位置する古代ギリシア語ではアテナイと呼ばれる地域にミケーネ文明の担い手ともなったアカイア人の分派にあたるイオニア人と呼ばれるギリシア人たちが定住していくことになったのは、紀元前2000年ごろの時代であったと考えられていて、 その後、紀元前12世紀ごろの時代に起きたと考えられている海の民による襲撃や、アカイア人とは別のギリシア人の一派であるドーリア人の侵入を相次いで受けることによってミケーネ文明が崩壊すると、 こうしたアテナイの地の周辺にあった古代都市や村落もその多くがドーリア人に征服され荒廃していくことになっていったと考えられることになります。 そして、こうした古代文明であったミケーネ文明の担い手となったアカイア人の分派にあたるイオニア人たちの多くは、その名前の由来ともなっているアナトリア半島の南西部に位置するイオニア地方にあったミレトスなどのギリシア人諸都市へと移り住んでいくことになっていったと考えられるのですが、 その一方で、こうしたイオニア人と呼ばれる古代ギリシア人のなかには、エーゲ海を越えてイオニア地方へと渡らずにギリシア本土にとどまった人々もいて、 都市国家としてのアテナイは、そうしたギリシア本土にとどまったイオニア人たちの手によって、古代ギリシアの暗黒時代にあたる紀元前8世紀ごろに建国されたと考えられることになるのです。

  • スパルタの身分制度と社会構成および長老会と民会を中心となる政治システムのまとめ

    前回(リ)までに書いてきたように、古代ギリシアを代表する都市国家の一つであるスパルタは、古代ギリシアの暗黒時代にあたる紀元前10世紀ごろにギリシア人の一派であるドーリア人によって建国されることになり、 その後、紀元前7世紀ごろに伝説的な立法者とされるリュクルゴスによって大規模な改革が行われることによって、国家としての社会制度や政治システムが確立されていくことになったと考えられるのですが、 それでは、こうした古代ギリシアの都市国家スパルタにおける身分制度や社会構成さらには国家を統治する政治システムといったものはより具体的にはどのようなものであったと考えられることになるのでしょうか? スパルタの身分制度における三つの身分階級の区別 そうすると、まず、 もともと紀元前12世紀ごろにペロポネソス半島へと侵入して、この地に栄えていたミケーネ文明を滅ぼすことによってこの地を支配していくことになった征服者であるドーリア人の末裔であったスパルタ人たちは、 この地にもともと住んでいた先住民にあたるアカイア人や、その後、隣国であったメッセニアとの戦争で捕虜にしたメッセニア人といった人々を奴隷として使役することによって国家を築いていくことになり、 こうして奴隷としてスパルタ市民による支配のもとに服することになった人々は、古代ギリシア語で「捕らえられた人々」といった意味を表すヘイロタイまたはヘイロータイという呼び名で呼ばれていくことになります。 そして、それに対して、 そうした戦争によって力ずくで支配されることを避け、古い盟約によって平和的にスパルタの支配下へと入った人々もいて、 そうした人々は古代ギリシア語で「周辺に住む人々」といった意味を表すペリオイコイという呼び名で呼ばれていくことになります。

  • スパルタにおけるクリュプティアの慣習と奴隷階級であるヘイロタイと支配階級であるスパルタ市民との関係

    前回(リ)書いたように、古代ギリシアを代表する都市国家の一つであるスパルタにおいては、スパルタ教育と呼ばれるような教育法の原型となった心身を鍛えて強い兵士を養成していく厳格な教育制度が行われていたと考えられるのですが、 ヘイロタイと呼ばれる国家共有の奴隷農民を使役して収穫物を徴収することによって国家が成り立っていたスパルタにおいては、 こうしたスパルタ教育などに代表されるように支配する側にあたるスパルタ市民には強靭な肉体と勇猛な精神が求められていたのに対して、 支配される側にあたるヘイロタイたちは反乱を起こすことがないようになるべく軟弱な状態のままにとどめておくことが求められていて、 そうした奴隷階級であるヘイロタイと支配階級であるスパルタ市民との関係のあり方に基づいて、  スパルタにおいてはクリュプティアと呼ばれる非常に残酷で極端な慣習が行われていたとも伝えられています。 スパルタにおけるクリュプティアの慣習 そうすると、まず、 こうしたクリュプティアあるいはクリュプテイアという言葉は、もともと、 古代ギリシア語において「隠された」「秘密の」といった意味を表す形容詞にあたるκρυπτός(クリュプトス)という単語を語源とする言葉にあたり、 その言葉の語源となる意味が指し示しているように、古代ギリシアの都市国家スパルタにおいて密かに行われていた秘密の儀式にあたるような古い慣習のことを意味する言葉であったと考えられることになります。

  • スパルタ教育とは何か?古代ギリシアの都市国家スパルタにおける肉体鍛錬と軍事教練を重視する実際の教育制度の内容

    前回(リ)書いたように、紀元前7世紀ごろに起きた第二次メッセニア戦争後に、戦争による疲弊や市民同士の間での貧富の格差の拡大などによって、一時は無法状態にもと近い混乱期へ陥ることになった古代ギリシアの都市国家であるスパルタでは、 その後、リュクルゴスと呼ばれる伝説的な立法者が現れて土地の再分配や教育制度の改革などに代表される大規模な国制改革を行うことによって都市国家を復興とさらなる発展へと導いていったと伝えられているのですが、 それでは、こうしたスパルタ教育といった呼び名でも知られている古代ギリシアの都市国家スパルタにおいて紀元前7世紀ごろに確立されていくことになったと考えられる教育制度は具体的にどのようなものであったと考えられるのでしょうか? 古代ギリシアの都市国家スパルタにおける教育制度の内容 そうすると、まず、 こうしたスパルタ教育という言葉は、現代では主に、子供に対して厳しい規則に基づいて心身の鍛錬や勤勉な生活を義務づけていく厳格な教育法のことを意味することになり、 しばしば、体罰などの過剰な懲罰が加えられることもあるような教育のあり方のことを非難するような意味でこうしたスパルタ教育という言葉が用いられるケースもあると考えられることになります。 そして、それに対して、 こうしたスパルタ教育の原型となったと考えられる古代ギリシアの都市国家スパルタにおける立法者リュクルゴスによって定められたとされている教育制度においては、

  • リュクルゴスの改革とスパルタ市民への土地の再分配

    前回(リ)までに書いてきたように、古代ギリシアの暗黒時代にあたる紀元前10世紀ごろにギリシア人の一派であるドーリア人によって建国された都市国家であるスパルタでは、 支配階級にあたるスパルタ市民たちがヘイロタイと呼ばれる数多くの市民共有の奴隷たちにクレロスと呼ばれる私有農地を耕作されて収穫物を徴収することによって国家が成り立っていたと考えられています。 そしてその後、紀元前8世紀~紀元前7世紀に起きた二回にわたるメッセニア戦争に勝利することによって、メッセニアの肥沃な土地を手にすることになったスパルタは、さらに国力を増大していくことになるのですが、 その一方で、長期にわたる戦争による疲弊や少数の富裕者への私有農地の集中による貧富の格差の拡大などによって、 この頃のスパルタ国内は、一時、無法地帯に近いような状態にまで治安が悪化していくという社会混乱の危機に直面していくことになります。 立法者リュクルゴスによる改革とスパルタ市民への土地の再分配 そして、 そうしたメッセニア戦争後の混乱期にあたる紀元前7世紀の終わりから紀元前6世紀のはじめごろに現れたとされているスパルタにおける伝説的な立法者として位置づけられているのがリュクルゴスと呼ばれる人物にあたり、 彼は、こうした都市国家としてのスパルタにおける国家の危機を脱するために、リュクルゴス制あるいはリュクルゴス体制などと呼ばれるスパルタにおける国家体制の大改革を行ったと伝えられています。 リュクルゴスが行ったとされているスパルタにおける国政の改革は、非常に多岐にわたっていて、そのなかでも、彼が成し遂げたとされる最も有名な仕事としては、土地の再分配とスパルタ教育などとして知られている教育制度の改革などが挙げられることになります。 このうち、はじめに挙げた土地の再分配については、 リュクルゴスは、スパルタにおける混乱の直接的な原因となっていった支配階級にあたるスパルタ市民の間における貧富の格差を根本的に是正していくために、 スパルタ国内におけるすべての土地をまずは一度、国家へと提供されたうえで、すべての市民それぞれに同じ広さの土地を割り当てていくことによって、 現代における共産主義思想にも通じるようなスパルタ市民の間における徹底した平等の実現を図っていくことになります。 ちなみに、

  • ヘイロタイとペリオイコイの違いとは?

    前回(リ)書いたように、古代ギリシアの暗黒時代にあたる紀元前10世紀ごろの時代にペロポネソス半島の南部のラコニアの地に都市国家を築いたスパルタ人たちは、 その後、もともとこの土地に暮らしていた先住民にあたるアカイア人たちを捕虜として捉えてヘイロタイと呼ばれる国家共有の奴隷として支配していくことになるのですが、 こうした都市国家としてのスパルタには、参政権を持ち都市国家の運営や軍事を担っていたスパルタ市民とその支配下に置かれていたヘイロタイのほかに、ペリオイコイと呼ばれる人々も暮らしていたと考えられているのですが、 こうしたヘイロタイとペリオイコイと呼ばれるスパルタにおける二つの身分の間には、具体的にどのような違いがあったと考えられることになるのでしょうか?   古代ギリシア語の語源に基づくヘイロタイとペリオイコイの意味の違い そうすると、まず、 ヘイロタイとは、もともと古代ギリシア語において「捕らえられた人々」あるいは「沼地に住む人々」といった意味を表す言葉であったと考えられていて、 こうしたヘイロタイと呼ばれる人々がもともとはスパルタ人との戦いに敗れて捕虜とされることによって奴隷の身分へと組み込まれていくことになったのと、そうしたヘイロタイと呼ばれる人々が捕虜にされる前にもともと住んでいた土地に由来してこうした呼び名が用いられることになったと考えられることになります。 そして、それに対して、 ペリオイコイとは、もともと古代ギリシア語において「周辺に住む人々」といった意味を表す言葉であったと考えられていて、 こうしたペリオイコイと呼ばれる人々は、その言葉が意味する通り、もともとスパルタと隣接する周辺地域に住んでいた人々であると考えられていて、都市国家としてのスパルタがその勢力を拡大していく際に、彼らと戦うことを好まず、盟約などによって平和的にスパルタの支配下に入るという道を選んだため、 こうした都市国家としてのスパルタの支配者であるスパルタ市民と、彼らとの戦いに敗れて奴隷となったヘイロタイと呼ばれる人々のちょうど中間に位置する身分へと位置づけられることになっていったと考えられることになるのです。

  • スパルタ人による先住民の征服と国有奴隷としてのヘイロタイの成立と第一次メッセニア戦争

    前回(リ)書いたように、古代ギリシアを代表する都市国家の一つであるスパルタは、古代ギリシアの暗黒時代にあたる紀元前10世紀ごろに、ギリシア人の一派であるドーリア人によって建国されたと考えられているのですが、 こうしたドーリア人たちによってペロポネソス半島の南部のラコニアの地に建設された都市国家であるスパルタは、その後、もともとラコニアの地に居住していた先住民たちを武力によって征服し、近隣の地域にもその支配を拡大していくことによって、国力を大きく増していくことになります。 スパルタ人による先住民の征服と国有奴隷としてのヘイロタイの成立 そもそも、 スパルタを建国したギリシア人の一派であるドーリア人と呼ばれる人々は、紀元前12世紀ごろにギリシア北方の地域からペロポネソス半島へと南下していくことになり、 もともとペロポネソス半島全体に広がっていた古代ギリシアの先進文明にあたるミケーネ文明の諸都市を次々と破壊して制圧いくことによって文明を滅亡へと導いていったと考えられているのですが、 その後、 ペロポネソス半島南部のラコニアの地へとたどり着き、この地に定住して都市国家を築いていくことによってスパルタ人となったドーリア人たちは、 ミケーネ文明の時代からこの地に住んでいた先住民にあたるアカイア人たちを武力によって征服したのち、彼らのことを捕虜として捕え、国家共有の奴隷として支配していくことになります。

  • スパルタの建国と古代ギリシア神話におけるヘラクレスの子孫のペロポネソスへの帰還

    ギリシア人の一派であるアカイア人たちによって築かれたギリシア人を担い手とする最古の文明にあたるミケーネ文明は、彼らとは別のギリシア人の一派であるドーリア人の侵入によって滅亡することになりますが、 その後、ギリシア本土からペロポネソス半島へと侵入してその土地に定住していくことになったドーリア人たちは、この地においてスパルタなどに代表される都市国家を建設していくことになります。 ドーリア人によるスパルタの建国と古代ギリシアの暗黒時代 冒頭でも述べたように、 ペロポネソス半島の南部に位置する古代ギリシアの都市国家であったスパルタは、ギリシア人の一派であるドーリア人またはドーリス人と呼ばれる人々によって建国された都市国家であったと考えられることになるのですが、 こうした都市国家としてのスパルタを建設していくことになるドーリア人たちは、もともと、ギリシア北方のマケドニアに近い山岳地帯などに居住していたと考えられていて、 そうした北方の地域に居住していたギリシア人の一派であるドーリア人たちは、紀元前1200年ごろ南方への民族移動を開始していくことになります。 そして、 ペロポネソス半島へと新たに侵入していくことになったドーリア人たちは、高度な工芸技術や文字文化を有するミケーネ文明を築いていたアカイア人たちとは異なり、文明の段階としては文字文化すら持たない未開の状態に近かったものの、 青銅器文明に属するミケーネ文明に対して、金属器の鋳造という点ではすでに鉄器文化の段階に達していたドーリア人たちは、 自らが持つ鉄製の武器を利用することによってアカイア人たちが築いていたミケーネ文明の諸都市を次々に破壊し、ペロポネソス半島全土を武力によって制圧していくことになります。 そして、 こうしたドーリア人の侵入によってミケーネ文明が崩壊したのち、古代ギリシア世界においては、400年間にもおよぶ文字なく文書記録も存在しない暗黒時代が続いていくことになるのですが、 そうした古代ギリシアの暗黒時代のまっただ中にあたる紀元前10世紀頃の時代に、ドーリア人たちの一部がペロポネソス半島の南部に位置するラコニアと呼ばれるギリシア有数の肥沃な平野へと集住して村落を形成していくことになり、

  • 青銅器時代におけるミレトスの建設と再建

    前回の記事(リ)で書いたように、古代ギリシアの植民時代とも呼ばれる紀元前8世紀頃から始まる前古典期の時代においては、 アテナイやスパルタ、テーバイやミレトスなどといったギリシア世界各地の都市国家から、エーゲ海を越えて地中海世界全体へと大規模な植民活動が進められていくことになったと考えられることになります。 そして、こうした前古典期とその後に続く古典期のギリシアを代表するギリシア人都市国家のなかでも、比較的早い時期に栄えていくことになったのは、 ギリシア本土からエーゲ海をはさんだ対岸に位置するアナトリア半島のイオニア地方と呼ばれる地域に建設されたギリシア人の植民都市群であったと考えられ、 そのなかでも、特に繁栄を極めた都市国家としては、最初の哲学者としても知られるタレスを生んだことで有名なギリシア人都市国家であるミレトスの名が挙げられることになります。 青銅器時代におけるミレトスの建国とミケーネ文明滅亡後の再建 そうすると、まず、 現在のトルコが位置するアナトリア半島の南西部にあたるイオニア地方に位置する古代都市ミレトスは、 もともとは、古代ギリシアの青銅器時代の文明にあたるミケーネ文明が栄えていた紀元前15世紀頃の時代にはすでに建設されたギリシア人の植民都市であったと考えられることになります。 そして、その後、 こうしたギリシア人によって築かれた最古の文明にあたるミケーネ文明が系統不明の民族集団である海の民による襲撃と、ミケーネ文明を築いたアカイア人とは別のギリシア人の一派であるドーリア人の侵入を相次いで受けることによって滅亡の時を迎えることになると、 そうしたミケーネ文明の滅亡とほぼ同じ時期にあたる紀元前12世紀頃に、エーゲ海の沿岸に位置していた植民都市ミレトスも、海の民の襲撃に遭うことなどによって破壊されてしまうことになります。 しかし、その後、 ドーリア人の侵入によってギリシア本土やペロポネソス半島から追い出されてエーゲ海を渡っていったアカイア人たちの一部がイオニア地方へとたどり着くことによってイオニア人とも呼ばれるようになると、 そうしたイオニア人とも呼ばれるようになったギリシア人たちの手によって再び都市の建設が行われていくことになり、

  • 古代ギリシアの植民時代に建設された代表的な八つのポリスの位置関係と歴史的な植民活動の流れ

    前回の記事(リ)で書いたように、ミケーネ文明が滅亡した後の400年にもおよぶ暗黒時代の後に続くアルカイック期とも呼ばれる古代ギリシアの前古典期においては、 アテナイやスパルタやミレトスなどといった古代ギリシア世界の各地において、都市国家としてのポリスが成立していくことになります。 そして、交易などによって繁栄し、人口も増加していくことになった古代ギリシアの都市国家からは、 それまでの古代ギリシア史の舞台であったエーゲ海を超えて地中海世界の全域において大規模な植民活動が進められていくことになります。 <h3>古代ギリシアの植民時代に建設された代表的な八つのポリスの位置関係</h3>

  • 古代ギリシア語におけるポリスの二つの意味とは?

    ドーリア人の侵入によってミケーネ文明が滅亡した後の古代ギリシア世界においては、文書記録がほとんど残されていない400年にもおよぶ暗黒時代が続いていくことになりますが、 こうした暗黒時代とも言われる古代ギリシアの鉄器時代においては、シュノイキスモスと呼ばれる集住と共同体の結合が進んでいくことによって、日本語においては都市国家と呼ばれることになるポリスの建設が進んでいくことになります。  そして、こうした古代ギリシア語におけるポリスという言葉は、そうした古代ギリシア世界における社会体制の変化の流れのなかで、その言葉自体の意味が大きく変化していった概念であるとも考えられることになります。 古代ギリシア語におけるポリスの二つの意味 そうすると、まず、 こうした古代ギリシア語におけるポリス(πόλις)という言葉は、 もともとは、古代ギリシア語において「小高い丘」「都市の高い場所」といった意味を持つアクロポリス(ἀκρόπολις)という言葉とほぼ同じような意味で用いられていた言葉であったと考えられていて、 暗黒時代の初期の段階においては、こうしたポリス(πόλις)という言葉は、アクロポリスと同様に、人々が集住している村落共同体の中心部にある城塞や砦のことを意味する言葉として用いられていたと考えられることになります。 しかし、それに対して、 暗黒時代の後期の段階になって、ギリシア人たちの集住化がさらに進んでいき、都市の規模が大きくなっていくと、こうしたアクロポリスと呼ばれる元々のポリスでもあった城塞の周りに、城壁などを備えたさらに一回り大きな都市部が形成されていくことになり、 こうしたアクロポリスと呼ばれる小高い丘に築かれた神殿と、そのふもとに位置するアゴラと呼ばれる広場や市場などを取り囲む城壁に囲まれた都市部と、その周辺に位置する市民の所有地や共有地などを含む共同体の全域がポリスと呼ばれるようになっていきます。 つまり、そういった意味では、 こうした古代ギリシア語におけるポリスという言葉は、古代ギリシアにおける400年にもおよぶ暗黒時代における社会体制の変化の流れのなかで、

  • 古典期(クラシック期)と前古典期(アルカイック期)の違いとは?古代ギリシア語とラテン語における語源的な意味の違い

    ローマ帝国に征服されるまでの古代ギリシアの歴史は、大きく分けて、文明が成立する前の石器時代と、クレタ文明やミケーネ文明などに代表されるエーゲ文明と呼ばれる古代文明が栄えていた青銅器時代、 そして、そうしたエーゲ文明が滅びた後の文書記録がほとんど残されていない暗黒時代にあたる鉄器時代の後に、 前古典期(アルカイック期)と古典期(クラシック期)とヘレニズム時代と呼ばれる三つの時代区分が続いていくことになるのですが、 このうち、前古典期(アルカイック期)と古典期(クラシック期)と呼ばれる二つの時代区分のあり方には、具体的にどのような意味の違いがあると考えられることになるのでしょうか? アルカイック期とクラシック期という言葉自体の意味の違い そうすると、まず、 こうした日本語における前古典期(アルカイック期)と古典期(クラシック期)という時代区分のあり方は、英語においてはそれぞれ、 Archaic Greece(アルカイック・グリース)とClassical Greece(クラシカル・グリース)と呼ばれることになるのですが、 こうした英語におけるArchaicとClassical という二つの言葉は、その単語自体の意味からして、もともとは互いにかなり異なった意味合いを持つ言葉であったと考えられることになります。 前者のArchaic(アルカイック)という単語は、現代の英語における意味としては、一般的には、「古風な」「昔風の」といった意味を表す形容詞として用いられることが多いと考えられるのですが、 その一方で、こうした英語におけるArchaicという単語は、その言葉自体の大本の語源となる意味においては、古代ギリシア語において「始原」や「起源」といった意味を表すἀρχή(アルケー)という名詞に由来する言葉であると考えられることになります。 そして、それに対して、 後者のClassical(クラシカル)という単語は、現代の英語における意味としては、「古典の」「伝統的な」といった意味を表す形容詞にあたり、 こうした英語におけるClassical という単語は、もともとは、ラテン語において、「最高位の等級」のことを意味するclassicus(クラシクス)という形容詞に由来する言葉であると考えられることになります。 つまり、そういった意味では、

  • エーゲ文明を代表する四つの文明の位置関係と具体的な特徴の違いのまとめ

    前回(リ)までの一連の記事では、エーゲ文明を代表するクレタ文明・ミケーネ文明・トロイア文明という三つの文明に、これらの文明よりもさらに古い時期に栄えていたと考えられるキクラデス文明を加えた四つの古代ギリシア文明について詳しく考察してきました。 そこで今回の記事では、こうしたエーゲ文明を代表する四つの文明の位置関係とそれぞれの文明における具体的な特徴の違いについて改めてまとめていく形で書いていきたいと思います。 紀元前3000年~紀元前2000年頃に栄えたキクラデス文明の具体的な特徴 そうすると、まず、 エーゲ海を中心とする古代ギリシア世界において最初に栄えていくことになったのは紀元前3000年~紀元前2000年頃に最盛期を迎えることになるキクラデス文明であったと考えられることになります。 エーゲ海の中央部に位置する島々であるキクラデス諸島を中心に栄えていくことなったキクラデス文明では、 パリアン大理石と呼ばれる真っ白な大理石によってつくられた抽象的な彫刻が数多く製作されるなど高度な芸術文化が発達していくことになったほか、銅細工などの金属加工技術もある程度発展していたと考えられています。 そしてその後、紀元前2000年頃になると、こうしたキクラデス文明と呼ばれるエーゲ海の古代文明は、エーゲ海のさらに南において発展していくことになるクレタ文明に吸収されていく形で、徐々に文明としての独自性を失っていくことになるのです。 紀元前2600年~紀元前1200年頃に栄えたトロイア文明の具体的な特徴 そして、エーゲ海周辺の古代ギリシア世界においてその次に栄えていくことになったのは、紀元前2600年~1200年頃に最盛期を迎えることになるトロイア文明であったと考えられることになります。 現在のトルコが位置するアナトリア北西部のエーゲ海沿岸に築かれた古代都市トロイアを中心に栄えていくことになったトロイア文明は、 黒海とエーゲ海を結ぶダーダネルス海峡を中心とする海上交易を通じて大きく発展していくことになり、 エーゲ海の島々やギリシア本土とも交流を持つと同時に、アナトリア半島において興隆した古代帝国にあたるヒッタイト帝国などのオリエントの文化からの影響も受けていくことによって、強大な王権に基づく東方的な専制政治による都市国家の統治が行われていくことになります。

  • クレタ文明とトロイア文明はどちらが早く成立したのか?

    古代ギリシアにおける最古の文明にあたるエーゲ文明を代表する文明としては、アカイア人と呼ばれるギリシア人の一派を担い手とするミケーネ文明のほかに、 ミケーネ文明が成立する以前にすでに全盛期を迎えていたクレタ文明(ミノア文明)とトロイア文明と呼ばれる二つの文明が有名ですが、 こうしたクレタ文明とトロイア文明と呼ばれる二つの文明はどちらの方がより早く成立していたと考えられることになるのでしょうか? クレタ文明のエヴァンズによる発見とアカイア人の征服による滅亡 そうすると、まず、 こうしたクレタ文明とトロイア文明と呼ばれるエーゲ海の周辺地域において栄えていくことになった二つの文明のうち、最初に最盛期を迎えることになったのは、トロイア文明の方であったと考えられ、 現在のトルコが位置するアナトリア北西部のエーゲ海沿岸地域に位置するトロイアの地においては、紀元前3000年頃にはすでに最初の都市が築かれていたと考えられ、 その後、黒海とエーゲ海を結ぶダーダネルス海峡を中心とする海上交易によって栄えていくことになったトロイア文明は、紀元前2600年頃には最盛期を迎えることになっていたと考えられることになります。 そして、それに対して、 エーゲ海の南部に位置する地中海最大の島であるクレタ島を中心に栄えていくことになったクレタ文明あるいはミノア文明と呼ばれる文明が最盛期を迎えることになるのは、トロイア文明よりかなり後の時代であったと考えられ、 ギリシア神話におけるクレタの伝説の王であるミノス王が築いたクレタの迷宮として伝えられているクノッソス宮殿が築かれたのも紀元前2000年以降のことであったと考えられ、 こうしたクレタ文明あるいはミノス文明と呼ばれるエーゲ海の文明は、地中海貿易が盛んになり、クノッソスを中心とするクレタ島の各地に宮殿などの大規模な建造物が建設されていく紀元前2000年頃になってから最盛期を迎えることになったと考えられることになるのです。 クレタ文明のエヴァンズによる発見とアカイア人の征服による滅亡 しかし、その一方で、 こうしたクレタ島と呼ばれる地中海最大の島には、すでに紀元前7000年頃の時代から人々が定住して、農耕や牧畜などを行う中規模の集落などが形成されていたと考えられていて、

  • クレタ文明とミケーネ文明とトロイア文明の違いとは?エーゲ海を代表する三つの文明の位置関係と具体的な特徴の違い

    古代ギリシアにおける最古の文明にあたるエーゲ文明を代表する三つの文明にあたるクレタ文明とミケーネ文明とトロイア文明の位置関係と具体的な特徴の違いについてまとめると以下のようになる。クレタ文明またはミノア文明と呼ばれる文明はエーゲ海の南部に位置する地中海最大の島であるクレタ島を中心に紀元前2000年頃~紀元前1400年頃にかけて栄えた文明であり、考古学の歴史においてはこうしたクレタ文明と呼ばれる文明はイギリスの考古学者であったアーサー・エヴァンズによって1900年に発見されることになる。

  • クレタ文明とミノア文明の違いとは?

    古代ギリシアにおける最古の文明にあたるエーゲ文明を代表する三つの文明としては、トロイア文明とミノア文明とミケーネ文明の名が挙げられることになりますが、 このうち、二番目に挙げたエーゲ海の南部に位置するクレタ島を中心に栄えた地中海文明であるミノア文明については、クレタ文明という呼び名が用いられることも多くあると考えられることになります。 それでは、こうしたエーゲ文明を代表する地中海文明に対して、クレタ文明とミノア文明という二つの呼び名が用いられることになったのには、具体的にどのような理由があると考えられることになるのでしょうか? 古代ギリシア神話におけるミノス王とクノッソス宮殿の伝説 そうすると、まず、 こうしたエーゲ文明を代表する地中海文明における二つの呼び名のうち、前者のクレタ文明という呼び名は、この文明の中心地となったクレタ島という地名に由来する呼び名であるのに対して、 後者のミノア文明という呼び名は、ギリシア神話において、クレタの都であったクノッソスを築き、この地を支配していたとされる伝説の王であるミノス王の名に由来する呼び名であると考えられることになります。 ギリシア神話の物語において、ミノス王は、フェニキアの王女であったエウロパと、白い牡牛へと姿を変えたゼウスとの間に生まれた息子にあたり、   その後、ミノス王は、クレタの王位継承の証として海の神ポセイドンから生贄として捧げる聖なる牡牛を授けられることになるのですが、 ポセイドンから送られた美しい牡牛の姿を目にして、この牡牛を神への犠牲として捧げるのが惜しくなったミノス王は、ポセイドンとの約束を破って、この牡牛を自分のもとにとどめ置いたまま、代わりに別の牡牛をポセイドンへの生贄として捧げることにします。 そして、その後、   ミノス王に欺かれたことを知って激怒したポセイドンは、ミノス王のもとにいるこの美しい牡牛を凶暴な獣へと変えたうえで、その姿にミノス王の妃であったパシパエが強い恋心を抱くように仕向けることにしたため、 こうしてクレタの王妃パシパエとポセイドンの牡牛との間に、頭は牛の姿をしていて首から下は人間の姿をした牛頭人身の怪物であるミノタウロスが生まれることになります。 そして、ギリシア神話においては、  

  • トロイアとイリアスの違いとは?古代ギリシア神話におけるトロース王とイーロス王の父と子の物語

    古代ギリシアにおけるエーゲ文明を代表する三つの文明としては、ミノア文明(クレタ文明)とミケーネ文明のほかに、もう一つ、シュリーマンによって発見されたトロイア文明が有名ですが、 その一方で、古代ギリシアの詩人ホメロスによって作られたと伝えられる長編叙事詩である『イリアス』と『オデュッセイア』においては、 こうしたトロイアの地で起きたとされるギリシア軍とトロイア軍との間の十年にもおよぶ大戦争であるトロイア戦争の前後の物語について語られているにも拘らず、なぜか『トロイア』ではなく『イリアス』という題名が用いられています。 それでは、こうしたトロイアとイリアスという二つの言葉には、具体的にどのような意味の違いがあると考えられることになるのでしょうか? 古代ギリシア語におけるトロイアとイリアスの語源的な意味 そうすると、まず、 こうしたトロイアとイリアスという言葉は、それぞれ古代ギリシア語においては、Τροία(トロイアー)とἸλιάς(イーリアス)と表記されることになり、 前者のΤροίαという古代ギリシア語は、そのままシュリーマンによって発見されたトロイア文明の発祥地であるトロイアという地名のことを意味するのに対して、 後者のἸλιάςという古代ギリシア語は、Ἴλιος(イーリオン)という名詞に、-άς(アス)という接尾辞が結合することによってできた言葉であると考えられることになります。 そして、こうした古代ギリシア語における-άς(アス)という接尾辞は、その接辞が付属することになる名詞や動詞の土台や実体となるより基底的な存在や集団などを表す時に用いられる接尾辞にあたり、 具体的には、「イリオンの地」あるいは「イリオンの歌」といった意味で、こうしたイリアスという言葉が用いられていると考えられることになるのです。 古代ギリシア神話におけるトロース王とイーロス王の父と子の物語 それでは、古代ギリシア神話の物語のなかでは、こうしたトロイアとイリオンという二つの言葉は、どのような形で言及がなされていくことになるのか?ということについてですが、 古代ギリシア神話においては、こうしたトロイアやイリオンと呼ばれる地域は、もともとこの地を流れる川の神スカマンドロスの息子であったテウクロス王によって治められていたとされていて、

  • ミケーネ文明の成立から滅亡までの歴史と海の民とドーリア人の侵入による滅亡

    前回(リ)書いたように、古代ギリシアのエーゲ文明においては、まずはエーゲ海の中央部において紀元前3000年頃からキクラデス文明と呼ばれる古代文明が栄えたのち、 それに続いて、紀元前2600年頃からはトロイア文明が、紀元前2000年頃からはミノア文明がそれぞれ興隆していくことになるのですが、 こうしたエーゲ海の南部に位置するクレタ島を中心に広がった地中海文明であるミノア文明の影響を受けていくなか、 紀元前1600年頃の時代になると、エーゲ海に面するギリシア本土においても、ミケーネ文明と呼ばれるギリシア人を担い手とする新たな文明が出現していくことになります。 ミケーネ文明の成立と線文字Bの開発による文字文化の定着 インド・ヨーロッパ語族の一派にあたるギリシア人たちがはじめてギリシア半島に定住していくことになったのは紀元前2000年頃の時代であったと考えられ、 この時期にバルカン半島を南下してギリシア半島へと入っていったと考えられるアカイア人と呼ばれる古代ギリシア人の一派は、 その後、ミケーネやティリンスといったギリシア南部に位置するペロポネソス半島の各地において、数多くの都市国家を建設していくことになります。 そして、 こうしてペロポネソス半島の各地に定住していくことになった古代ギリシア人たちは、エーゲ海における先進文明であったミノア文明と海上貿易などを通じて交流を結んでいくことによって、 工芸技術や芸術などといった文明や文化の面において大きく発展していくことになり、 紀元前1600年頃になるとミケーネやティリンスといった都市国家を中心にミケーネ文明と呼ばれる独自の文化圏を形成していくことになります。 そして、 こうしたギリシア本土で発展した最古の文明であるミケーネ文明においては、ミノア文明において用いられていた線文字Aと呼ばれる文字が簡略化され、文字体系が法則的に整備された線文字Bと呼ばれる文字が新たに開発されて用いられていくことによって、 古代ギリシア世界全体へと文字文化が定着していくことになっていったと考えられることになるのです。 ミケーネ文明によるエーゲ海の支配と海の民とドーリア人の侵入による滅亡 そして、その後、紀元前1200年頃の時代になると、

  • ミノア文明の成立から滅亡までの歴史とエヴァンズによるミノア文明の発見とギリシア神話のクノッソスの迷宮

    前回(リ)書いたように、エーゲ文明を代表する三文明のなかで最初に頭角を現すことになったのはシュリーマンによって遺跡の発掘がなされた古代都市トロイアを中心とするトロイア文明であったと考えられることになるのですが、 その後、こうした古代都市トロイアやギリシア本土の南に位置するエーゲ海そして地中海最大の島であるクレタ島を中心にミノア文明あるいはクレタ文明と呼ばれる海洋文明が花開いていくことになります。 エヴァンズによるミノア文明の発見とギリシア神話のクノッソスの迷宮 トロイア文明はドイツの考古学者であったシュリーマンによって1871年に発見されたのに対して、 こうしたエーゲ海に浮かぶクレタ島を中心とする地中海文明であるミノア文明はイギリスの考古学者であったアーサー・エヴァンズによって1900年に発見されることになります。 エヴァンズは自らの足でクレタ島の全域を踏破したのち、島の中央に近い北西部に位置するケファラの丘で行った発掘調査において、 ギリシア神話においてクレタ島を支配した伝説の王であるミノス王が築いた迷宮としてしれられるクノッソス宮殿を発掘することによって、 この地に洗練された文化と高度な文明を持った地中海文明が存在したことを発見し、かつてエーゲ海に存在したこの文明のことをクレタの伝説の王でありクノッソス宮殿の主であったと伝えられているミノス王の名にちなんで、ミノア文明と名づけることになります。 こうしたギリシア神話において語られているラビュリントスと呼ばれるクノッソスの迷宮は、ミノス王の命を受けた名工ダイダロスによって築かれた脱出不可能とも語り伝えられる通路が複雑に入り組んだ巨大な迷宮であったとされていて、 神話の物語においては、こうしたクノッソスの迷宮の最深部には牛頭人身の怪物であったミノタウロスが閉じ込められていたと語られているのですが、 エヴァンズの発掘によって発見された実際のクノッソス宮殿も、ギリシア神話で語られている脱出不可能な迷宮とまではいかないまでも、 宮殿の第一階層だけでも100を超える部屋に分かれていて、中央には広い中庭があり、宮殿自体が斜面に建てられていたため、東の棟における三階の部分が西の棟における一階の部分へとつながり、別の場所では四階に位置していることもあるといったかなり複雑な構造をした迷宮であったことが分かっていて、

  • トロイア文明の成立と詩人ホメロスが語る古代都市トロイアの物語とシュリーマンの発掘

    前回(リ)書いたように、古代ギリシアのエーゲ文明においては、文明の最も初期の段階においては、エーゲ海の中央部に位置するキクラデス諸島を中心とするキクラデス文明が栄えていくことになったと考えられるのですが、 こうしたキクラデス文明の後に栄えていくことになったトロイア文明、ミケーネ文明、ミノア文明と呼ばれるエーゲ文明を代表する三文明のなかで最も古い起源を持つ最古の文明としては、 19世紀のドイツの考古学者であったシュリーマンによって発見されたトロイア文明の名が挙げられることになります。 詩人ホメロスが語る古代都市トロイアの物語とシュリーマンの発掘 古代ギリシアの詩人ホメロスによって作られたと伝えられる長編叙事詩である『イリアス』において語られているトロイア戦争やトロイの木馬などの物語で有名な古代都市トロイアは、 かつては、言わば、現代でいうハリーポッターのホグワーツ魔法魔術学校や、天空の城ラピュタなどのように、 ホメロスを中心とする古代ギリシアの詩人たちの豊かな想像力によって生み出された創作上の幻の都市であると考えられていました。 しかし、 こうしたホメロスの著作とされている『イリアス』や『オデュッセイア』といった古代ギリシアの長編叙事詩のうちに語られている美しい物語に魅了され、 ホメロスの詩文をキリスト教の聖書以上に深く信じていたとも言われている19世紀のドイツの考古学者にして成功した実業家でもあったハインリヒ・シュリーマンは、 貿易などの実業の成功によって手にした自らの私財を投じてホメロスの詩に記されている古代都市トロイアの発掘へと自らの後半生をかけて挑んでいくことになります。 そして、 こうした考古学者シュリーマンの強い熱意によって実現された発掘調査によって、ついに、1871年に、現在のトルコが位置するアナトリア地方北西部のエーゲ海沿岸に位置するヒッサリクの丘において、 複数の層によって構成される大規模な遺跡が発掘されることになり、のちに、この遺跡の一部から古代ギリシアの宮殿の遺構が発見されることによって、この場所にかつてホメロスの詩によって詠われていた古代都市トロイアを中心とするトロイア文明と呼ばれる古代文明が存在したということが確証されることになるのです。 古代都市トロイアの成立とトロイア戦争による滅亡

  • 古代ギリシア最古の文明であるキクラデス文明の成立と現代美術へと通じる抽象的な彫刻の様式美

    古代ギリシアにおける最古の文明としては、地中海の北東部分を占める海域にあたるエーゲ海の島々からギリシア本土や現在のトルコが位置するアナトリア半島の沿岸地域へと広がっていくことになったエーゲ文明の名が挙げられることになりますが、 こうしたエーゲ文明と呼ばれる古代文明には、トロイア文明、ミケーネ文明、ミノア文明と呼ばれる三つの文明のほかに、 こうした古代ギリシアの三文明よりもさらに古い時期に存在していたと考えられるキクラデス文明と呼ばれるエーゲ海の島々において広がっていた古代文明の名も挙げられることになります。 古代ギリシア最古の文明であるキクラデス文明の成立とミノア文明への展開 キクラデス文明と呼ばれる文明は、紀元前3200年頃~紀元前1050年頃までエーゲ海の中央部に点在する島々にあたるキクラデス諸島において栄えた古代文明にあたり、 こうしたキクラデス文明と呼ばれる文明は、ギリシア本土で栄えたミケーネ文明や、クレタ島のクノッソス宮殿を中心に栄えたミノア文明(クレタ文明)よりもさらに起源の古い現代知られている限りでは古代ギリシアの最古の文明としても位置づけられることになります。 キクラデス諸島は、最大の島にあたるナクソス島や、キクラデス文明の中心地となった島の一つにあたると考えられるケロス島やシロス島やデロス島といった島々を中心に、全部で220以上もの島々によって構成されていて、 それぞれの島の人口はせいぜい数千人の規模であったと考えられているものの、多数の島の島民が協力して航海を行っていくことによって、エーゲ海全体へと広がる大規模な文明圏を形成していくことになっていったと考えられることになります。 こうしたキクラデス文明と呼ばれる文明は、もともと紀元前4000年より前にギリシア本土やアナトリア地方において成立していた新石器文化がキクラデス諸島を中心とする島々において独自の様式へと発展していったものであると考えられ、 キクラデス文明においては、銅細工などの金属加工技術もある程度発展していたと考えられるほか、詳しくは後述するように真っ白な大理石の彫刻などに代表される優れた芸術文化も発展していくことになります。 そして、その後、

  • ウイルスと細菌はどちらの方がどのくらい大きいのか?平均的な大きさの比較とウイルスよりも小さい細菌の種類

    インフルエンザウイルスやコロナウイルスやHIVウイルスといった代表的なウイルス粒子の大きさと、乳酸菌やビフィズス菌や肺炎球菌といった代表的な細菌の大きさを比べた場合、一般的に言って、平均的なウイルスの大きさは平均的な細菌の大きさよりもだいたい10倍くらいは大きいと結論づけることができる。その一方で、最も小さい細菌のグループにあたるマイコプラズマなどのように、天然痘ウイルスなどの巨大なウイルスのグループと比べた場合、ウイルスよりも小さい細菌の種類もごく一部ではあるが存在する。

  • ウイルスと花粉はどちらの方がどのくらい大きいのか?一番大きいウイルス粒子と一番小さい花粉の粒子の大きさ比べ

    スギ花粉やヒノキ花粉といった花粉症の原因となる代表的な植物の花粉の粒子の大きさと、インフルエンザウイルスやコロナウイルスといった代表的なウイルス粒子の大きさとを比べた場合、一般的に言って、花粉の粒子の大きさは、ウイルス粒子の大きさよりもだいたい300倍くらい大きいと結論づけることができる。また、一般的なウイルスと花粉の種類のなかでは一番大きいウイルス粒子にあたる天然痘ウイルスの粒子と、一番小さい花粉の粒子にあたるブタクサ花粉の大きさを比べた場合、そうした一番大きいウイルス粒子と比べた場合でも、一番小さい花粉の粒子の大きさの方が少なくとも40倍以上は大きいと考えられることになる。

  • 花粉の大きさはどのくらいなのか?スギやヒノキ、イネやブタクサなどの代表的な20種類の花粉の大きさの比較

    花粉症の原因となる樹木や草花としては、スギやヒノキ、イネやブタクサなどといった様々な植物の種類の名が挙げられることになりますが、 こうした花粉症の原因となる様々な植物の花粉の粒子の大きさは、だいたいどのくらいの大きさをしていると考えられることになるのでしょうか? 今回の記事では、代表的な30種類の花粉の大きさを比較していくことによって、そうした花粉症の原因となる一般的な花粉の大きさがだいたいどのくらいの範囲に位置づけられることになるのか?ということについて詳しく考えていきたいと思います。 スギやヒノキなどの木本植物における花粉の大きさの比較 そうすると、まず、 花粉症の原因となる代表的な植物の種類としては、スギ(杉)とヒノキ(檜)という二種類の樹木の名が挙げられることになりますが、こうした花粉症の原因となる代表的な二種類の樹木における花粉の大きさは、 スギ花粉の大きさはだいたい30~40マイクロメートルくらいであるのに対して、ヒノキの花粉の大きさはスギ花粉より一回り小さい25~35マイクロメートルくらいであるとされています。 ※1マイクロメートル(1㎛)=100万分の1メートル=0.001ミリメートル そして、その他にも、こうした花粉症の原因となる花粉の粒子を風に乗せて飛ばしていくことによって受粉を行う風媒花に分類される植物のなかでも、樹木を形成する植物のグループにあたる木本植物に分類される代表的な植物における花粉の大きさをいくつか挙げていくと、 クヌギの花粉の大きさは40マイクロメートルくらい、ケヤキの花粉の大きさは35マイクロメートルくらいであるとされていて、スギやヒノキの花粉の大きさとだいたい同じくらいの大きさをしていると考えられることになります。 そして、それに対して、 ハンノキやシラカバ、コナラといった樹木の花粉の大きさはそれよりもやや小さめの25マイクロメートル、 イチョウやオリーブの木の花粉の大きさはそれよりもさらに小さい20マイクロメートルくらいの大きさをしていると考えられ、 その一方で、クロマツやアカマツといったマツ科に分類される樹木の花粉はかなり大きめで50マイクロメートルくらいの大きさをしていると考えられることになります。 つまり、

  • ウイルスの大きさはどのくらいなのか?代表的な50種類のウイルスの大きさの比較

    ウイルスの大きさはどのくらいなのか?という問いについて、人間に対して病原性を示す代表的な50種類のウイルスの大きさを互いに比較していく形で詳しく考えていく。上記の図で示したようにウイルスと呼ばれる微小な病原体の大きさは全体的に見るとだいたい30~450ナノメートルくらいの大きさの範囲に位置づけられることになり、一般的なウイルスの大きさとしては、だいたい直径100ナノメートルくらいの大きさをした球形の形状をしているものが一番多いと結論づけることができる。

  • ノンエンベロープウイルスの大きさはどのくらいなのか?代表的な15種類のノンベロープウイルスの大きさの比較

    前回の記事(リ)では、ウイルスと呼ばれる微小な病原体たちのうち、エンベロープウイルスと呼ばれるエンベロープと呼ばれる膜構造を持つことを特徴とするウイルスたちがどれくらいの大きさをしているのか?ということについて詳しく考えてきましたが、 それでは、それに対して、もう一方のエンベロープを持たないウイルスのグループにあたるノンエンベロープウイルスと呼ばれるウイルスたちは、具体的にどのくらいの大きさをしていると考えられることになるのでしょうか? ノロウイルスやライノウイルスなどの球形のノンエンベロープウイルスの大きさの比較 そうすると、まず、 こうしたノンエンベロープウイルスに分類されるウイルスのなかでも、最も有名なウイルスとしては、急性胃腸炎や食中毒の原因となるノロウイルスの名が挙げられることになりますが、 こうしたノロウイルスやノロウイルスと同じく急性胃腸炎や食中毒の原因となるサポウイルスなどが含まれるカリシウイルス科に属するウイルスは直径30ナノメートル※ほどの大きさの小型で球形のノンエンベロープウイルスとして位置づけられることになります。 ※1ナノメートル(1nm)=10億分の1メートル=0.000001 ミリメートル そして、こうしたノンエンベロープウイルスと呼ばれるウイルスたちは、多くのウイルスが上述したノロウイルスなどと同じように比較的小型の球形の形状をしていると考えられ、 こうした小型で球形のノンエンベロープウイルスの種類としては、その他にも、 鼻かぜの原因となるライノウイルスや、手足口病の原因となるエンテロウイルス、さらには、ポリオと呼ばれる急性灰白髄炎の原因となるポリオウイルスやA型肝炎ウイルスなどが含まれるピコルナウイルス科に属するウイルスやE型肝炎ウイルスなどもそうした直径30ナノメートルほどの小型球形のノンエンベロープウイルスとして位置づけられることになります。 そして、それに対して、 同じ球形のノンエンベロープウイルスのなかでも、ノロウイルスに代表されるような小型球形ウイルスよりも一回り大きいウイルスの種類もあり、 のど風邪やプール熱とも呼ばれる咽頭結膜熱あるいは流行性角結膜炎などの原因となるアデノウイルスは直径80ナノメートルほどの大きさの球形のノンエンベロープウイルス、

  • エンベロープウイルスの大きさはどのくらいなのか?代表的な30種類のエンベロープウイルスウイルスの大きさの比較

    前回(リ)までの一連の記事で書いてきたように、ウイルスと呼ばれる微小な病原体たちは、ウイルス粒子の構造や形状という観点からは、大きく分けて、 エンベロープウイルスとノンエンベロープウイルスと呼ばれる二つのグループに分類されることになるのですが、 それでは、このうちの前者にあたるエンベロープと呼ばれる膜構造を持つことを特徴とするエンベロープウイルスたちは、具体的にどのくらいの大きさをしていると考えられることになるのでしょうか? インフルエンザウイルスやコロナウイルスなどの球形のエンベロープウイルスの大きさの比較 そうすると、まず、 こうしたエンベロープウイルスに分類されるウイルスのなかでも、最も有名なウイルスであると考えられるインフルエンザウイルスやコロナウイルスといった呼吸系の感染症の原因となるウイルスたちは、それぞれ、 インフルエンザウイルスは直径80~120ナノメートル※、コロナウイルスは直径80~220ナノメートルほどの大きさの球形の形状をしたエンベロープウイルスの種類として位置づけられることになります。 ※1ナノメートル=10億分の1メートル そして、こうした球形の形状をしたエンベロープウイルスとしては他にも数多くのウイルス種類が挙げられることになり、例えば、 HIVウイルスは直径100ナノメートル、B型肝炎ウイルスは直径50ナノメートル、 口唇ヘルペスなどの原因となる単純ヘルペスウイルスや、水ぼうそうや帯状疱疹の原因となる水痘・帯状疱疹ウイルスといったヘルペスウイルス科に属するウイルスは直径120~200ナノメートルほどの大きさの球形のエンベロープウイルス、 風疹の原因となる風疹ウイルスや、蚊が媒介するチクングニア熱の原因となるチクングニアウイルスといったトガウイルス科に属するウイルスは直径70 ナノメートルほどの大きさの球形のエンベロープウイルス、  C型肝炎ウイルスや日本脳炎ウイルス、蚊が媒介するデング熱の原因となるデングウイルスや、黄熱病の原因となる黄熱ウイルス、ウエストナイル熱の原因となる西ナイルウイルスや、ジカ熱の原因となるジカウイルスといったフラビウイルス科に属するウイルスは直径40~60ナノメートルほどの大きさの球形のエンベロープウイルスとしてそれぞれ位置づけられることになります。 また、その他にも、

  • エンベロープウイルスとノンエンベロープウイルスの違いと代表的なウイルスの種類のまとめ

    ウイルスは大きく分けて、遺伝子の構造の違いという観点からは、DNAウイルスとRNAウイルス(リ:DNAウイルスとRNAウイルスの違い)と呼ばれる二つのグループへと分けられることになるのに対して、 ウイルス粒子の構造の違いという観点からは、エンベロープウイルスとノンエンベロープウイルスと呼ばれる二つのグループへと分けられることになります。 それでは、こうしたエンベロープウイルスとノンエンベロープウイルスと呼ばれる二つのウイルスのグループには具体的にどのような特徴の違いがあると考えられ、 それぞれのウイルスのグループに分類される代表的なウイルスの種類としては、どのようなウイルスの名前が挙げられることになると考えられることになるのでしょうか? エンベロープウイルスとノンエンベロープウイルスの具体的な特徴の違い そうすると、まず、 こうしたエンベロープウイルスとノンエンベロープウイルスと呼ばれる二つのウイルスのグループにおける特徴の違いは、一言でいうと、 エンベロープと呼ばれる脂質性の膜構造を持っているかどうかによって区別されることになると考えられ、 エンベロープウイルスの場合は、ウイルス粒子の表面がこうしたエンベロープと呼ばれるもともとは宿主細胞の生体膜に由来する脂質膜によって覆われているのに対して、 ノンエンベロープウイルスの場合は、そうしたエンベロープと呼ばれる膜構造が存在せず、カプシドと呼ばれるタンパク質の殻がむき出しの状態になった比較的単純な粒子構造をしていると考えられることになります。 そして、 前者のエンベロープウイルスは、こうしたエンベロープと呼ばれる脂質膜が破壊されてしまうと感染性を失うことになるため、エンベロープを溶かすことができる石けんなどの界面活性剤やアルコールなどの一般的な薬剤によって容易に消毒することができるのに対して、 後者のノンエンベロープウイルスは、そうしたエンベロープと呼ばれる膜構造を持たない分、かえって、そうした界面活性剤やアルコールなどの一般的な薬剤への耐性が強いウイルスが多く、感染に失活化させるためには次亜塩素酸ナトリウムなどの比較的特殊な薬剤を用いることが必要であるケースが多いと考えられることになります。 ただし、その一方で、

  • エンベロープウイルスとノンエンベロープウイルスはどちらの方がより危険で強力なのか?外界での生存力と病原性の高さの違い

    前回(リ)までの記事では、エンベロープウイルスとノンエンベロープウイルスと呼ばれる二つのウイルスのグループの具体的な特徴や、それぞれのウイルスのグループに含まれる代表的なウイルスの種類について詳しく考察してきましたが、 それでは、こうしたエンベロープウイルスとノンエンベロープウイルスと呼ばれる二つのウイルスは、人間にとってどちらの方がより強力で危険なウイルスであると考えられることになるのでしょうか? 外界での生存力という観点から見たノンエンベロープウイルスの優位性 そうすると、まず、 こうしたエンベロープと呼ばれるもともとはウイルスが感染する細胞の生体膜に由来する脂質膜は、熱や乾燥あるいは石けんや合成洗剤などの界面活性剤やエタノールといった薬剤によって容易に破壊することができ、 エンベロープウイルスは、ウイルスの表面の層にあたるエンベロープを破壊されると病原体として感染力を失って不活化してしまうと考えられることになります。 そして、それに対して、 ノンエンベロープウイルスにおけるウイルス粒子の表面にあたるカプシドと呼ばれるタンパク質の殻は、そうした熱や乾燥あるいは一般的な消毒薬に対して比較的強い耐性を持っているので、 一般的に、 ウイルス粒子が外界に存在している時には、エンベロープを持たないノンエンベロープウイルスの方が、エンベロープを持つエンベロープウイルスよりも消毒や不活化させることが難しく、長期間にわたって感染力を保ち続ける傾向があると考えられることになります。 つまり、そういった意味では、 こうした外界におけるウイルス生存力といった観点からは、エンベロープウイルスよりもノンエンベロープウイルスの方が生存力の強い強力なウイルスと見なすことができると考えられることになるのです。 HIVウイルスやエボラウイルスといった致死性の高いウイルスの種類を数多く含むエンベロープウイルス しかし、その一方で、 こうしたエンベロープと呼ばれるもともとは細胞の生体膜に由来するウイルス粒子の表面にあたる膜構造がその真価を発揮することになるのは、ウイルスが感染する対象となる生物の体内へと入ってからのことであると考えられ、 人間の体内へと侵入したエンベロープウイルスは、自分の宿主となる感染細胞の細胞膜に対してこうしたエンベロープと呼ばれる膜構造を融合させることによって、

  • ノンエンベロープウイルスの具体的な特徴と代表的な種類とは?小さな球形のウイルスと細長い棒状のタバコモザイクウイルス

    ノンエンベロープウイルスは、エンベロープと呼ばれる膜構造を持たずに、タンパク質の殻にあたるカプシドがむき出しになった単純な構造をしている。アデノウイルスやノロウイルス、ロタウイルス、ヒトパピローマウイルス、A型肝炎ウイルスなどのように、大部分のノンエンベロープウイルスは比較的小さな球形の形状をしているものの、タバコモザイクウイルスのように、一部のノンエンベロープウイルスのなかには、細長い棒状の形状をしたウイルスの種類も存在する。

  • エンベロープウイルスの代表的な種類とは?球形や卵型、糸状や多形性といった様々な形をしたエンベロープウイルスの種類

    前回の記事(リ)で書いたように、ウイルスはその本体となるウイルス粒子の構造や形態という観点からは、大きく分けて、 エンベロープと呼ばれる膜構造を持つエンベロープウイルスとそうした膜構造を持たないノンエンベロープウイルスと呼ばれる二つのグループへと分けられることになります。 それでは、このうち前者のエンベロープウイルスには、具体的にどのような形態をしたウイルスの種類が分類されることになるのでしょうか? インフルエンザウイルスやコロナウイルスなどの球形の形状をエンベロープウイルスと天然痘ウイルスなどの大型のウイルス そうすると、まず、 エンベロープウイルスに分類されるウイルスの種類のなかで、最も有名なものとしては、冬場に流行するインフルエンザの原因となるインフルエンザウイルスや、咳かぜの原因となるコロナウイルスといったウイルスの種類が挙げられることになります。 こうしたインフルエンザウイルスやコロナウイルスといったウイルスは、だいたい直径10ナノメートル※くらいの球形の形状をしたエンベロープウイルスであり、 そうした球形の形状をしたエンベロープウイルスの種類としては、その他にも、エイズの原因となるHIVウイルスや、ヘルペスウイルスあるいはB型肝炎ウイルスなどといった多くのウイルスの種類が挙げられることになります。 ※1ナノメートル=10億分の1メートル そして、それに対して、 こうしたエンベロープウイルスと呼ばれるウイルスのなかには、ポックスウイルスと呼ばれる全長200~300nmにもおよぶレンガ型あるいは卵形の形状をしたウイルスの種族も含まれていて、 ポックスウイルス科に属する大型のエンベロープウイルスの代表的な種類としては、天然痘ウイルスや牛痘ウイルスなどが挙げられることになるのです。 糸状の形状をしたフィロウイルスと多様な形態をとるパラミクソウイルス そして、それに対して、 より複雑な形状をしたエンベロープウイルスの種類としては、パラミクソウイルスなどのように通常の球形であることが多いものの周りの状況に応じて多様な形状へと姿を変えていく多形性の形態をとるウイルスの種族もあり、

  • エンベロープウイルスの具体的な特徴とウイルス感染の仕組みとは?エンベロープの語源と宿主細胞の生体膜に由来する膜構造

    ウイルスは大きく分けて、遺伝子の構造という観点からは、DNAウイルスとRNAウイルスと呼ばれる二つのグループへと分けられることになるのに対して、 ウイルス粒子の構造や形態という観点からは、エンベロープウイルスとノンエンベロープウイルスと呼ばれる二つのグループへと分けられることになります。 それでは、このうち前者のエンベロープウイルスは具体的にどのような特徴を持ったウイルスのグループであり、そうしたエンベロープと呼ばれる構造を用いたウイルス感染の仕組みはどのようなものになっていると考えられるのでしょうか? エンベロープの語源と宿主細胞の生体膜に由来する膜構造 そうすると、まず、 こうしたエンベロープウイルスあるいはノンエンベロープウイルスという言葉にもちられているエンベロープ(envelope)という言葉は、英語において「封筒」や「覆い」のことを意味する言葉にあたり、 エンベロープウイルスとは、その名の通り、ウイルス粒子の表面が膜状の構造によって包まれている状態にあるウイルスの種類のことを意味することになります。 そして、 こうしたエンベロープウイルスにおいてウイルス粒子の表面を覆っているエンベロープと呼ばれる膜構造は、 もともと、 ウイルスが人間などの細胞の内部で増殖したのち、そうした宿主となる細胞の細胞膜や核膜をかぶったまま外へと飛び出していくことによって獲得される、もともとは、宿主細胞の生体膜に由来する膜構造であると考えられることになるのです。 エンベロープウイルスの弱点と生物の体内におけるウイルス感染を有利に進める仕組み そして、 こうしたエンベロープと呼ばれる細胞の生体膜に由来するウイルスの膜構造は、熱や乾燥あるいは石けんや合成洗剤などの界面活性剤やエタノールといった薬剤によって容易に破壊されてしまうことになるので、 そうした観点からは、 エンベロープウイルスは、エンベロープと呼ばれる膜構造を持たないノロウイルスなどのノンエンベロープウイルスと比べて、 石けんやエタノールなどの一般的な薬剤による消毒が容易なウイルスの種類として位置づけられることになると考えられることになります。 しかし、その一方で、 こうしたエンベロープウイルスにおけるエンベロープと呼ばれる膜構造は、ウイルスが生物の体内へと侵入していく際に、

  • ウイルスはどのような形をしているのか?球形やレンガ型や糸状や棒状といった代表的なウイルスの形状の種類のまとめ

    ウイルスとは、単独では生命活動を営むことができずに、生きた細胞に寄生することによって自己複製と増殖を行っていく細菌よりもさらに小さな微小な病原体のことを意味する言葉ですが、 こうしたウイルスと呼ばれる微小な病原体たちは、具体的にどのような形をしていると考えられることになるのでしょうか? 球形やレンガ型、糸状やひも状や多形性といった様々な形をしたウイルスの種類が含まれるエンベロープウイルス そうすると、まず、 こうしたウイルスと呼ばれる微小な病原体は、構造や形状という観点からは、 カプシドと呼ばれるタンパク質の殻の外側にエンベロープと呼ばれる膜構造を持つかどうかで、ウイルスそのものの全体的な構造や形状が大きく異なっていくことになります。 そして、こうしたエンベロープと呼ばれる膜構造を持つウイルスのうち、 風邪や肺炎などの呼吸器系の疾患の原因となるインフルエンザウイルスやコロナウイルス、さらには、ヘルペスウイルスやエイズウイルスやB型肝炎ウイルスなどといった多くのウイルスは、 正20面体のカプシドがエンベロープの膜によって包まれた球形の形状をしていると考えられることになります。 そして、それに対して、同じくエンベロープを持つウイルスのなかでも、 天然痘ウイルスや牛痘ウイルスといった比較的大きめのサイズのウイルスたちは、球形というよりはどちらか一方に膨らんだレンガ型あるいは卵形の形状をしている場合が多いと考えられることになります。 そして、それに対して、 こうしたエンベロープを持つウイルスのなかには、基本的には球形の形態をしていることが多いものの、はっきりとして形が決まっていない多形性を示すウイルスの種類も数多く含まれていて、 例えば、 麻疹(はしか)の原因となる麻疹ウイルスや、おたふく風邪の原因となるムンプスウイルスなどのパラミクソウイルス科に属するウイルスの種類などがそうした球形または多形性の形態をとるウイルスの代表的な種類として挙げられることになります。 また、その他にも、 エボラ出血熱の原因となるエボラウイルスや、マールブルグ熱の原因となるマールブルグウイルスなどが含まれるフィロウイルス科に属するウイルスなどは、非常に細長い糸状またはひも状の形状をしていると考えられることになるのです。

  • ウイルスの語源とは?ラテン語において「毒液」のことを意味する言葉と「感染性の体液」としてのウイルスの感染経路

    風邪や肺炎などといった感染症を引き起こす原因となる代表的な病原体の種類としては、ウイルスや細菌などが挙げられることになりますが、 このうち、細菌よりもさらに微小な病原体のことを意味するウイルスという言葉は、もともとどのような語源を持つ言葉であると考えられることになるのでしょうか? ラテン語において「毒液」のことを意味するvirus(ウィールス) そうすると、まず、 こうしたウイルスという言葉は、 ラテン語において「毒」や「粘液」、「悪臭」や「苦味」といった意味を表すvirus(ウィールス)という名詞にその直接的な語源が求められることになると考えられ、 こうしたラテン語におけるvirus(ウィールス)という単語は、もともとは、スライムのようにぬるぬるとした粘液やゲル状の物質といったイメージ持つ言葉であったと考えられることになります。 つまり、そういった意味では、 ウイルスという言葉は、こうしたラテン語における語源となる意味に基づくと、もともとは、毒性を持ち悪臭を放つような粘液状の物質、すなわち、「毒液」のことを意味する言葉であったと考えられることになるのです。 病原体としてのウイルスの発見までの微生物学の歴史と「感染性の体液」としてのウイルスの感染経路 そして、それに対して、 病原体としてのウイルスの発見までの微生物学の歴史においては、まずは、 1892年に、ロシアの微生物学者であったドミトリー・イワノフスキーによって、タバコモザイク病と呼ばれる植物の感染症の病原となる液体が、通常の細菌濾過器を通過しても感染性を失わないことが発見されたことで、 光学顕微鏡では観察できない通常の細菌よりも微小な病原体の存在が示唆されることになります。 そして、その後、 1898年に、オランダ微生物学者であったマルティヌス・ベイエリンクがタバコモザイク病について行った同様の研究において、この未知なる微小な病原体のことを指して、 ラテン語で「生命を持った感染性の液体」といった意味を表すContagium vivum fluidum(コンタギウム・ウィウウム・フルイドゥム)という言葉で呼び、 のちに、それが「感染性の体液」といった意味で、同じくラテン語におけるvirus(ウィールス)という言葉で呼び表されていくようになることによって、

  • 感染の成立にはどれくらいのウイルス粒子の数が必要なのか?インフルエンザウイルスやノロウイルスの感染に必要なウイルス量

    ウイルスの感染と発病は、飛沫感染や経口感染といった様々な感染ルートを通って人間の体内に侵入したウイルスが宿主となる細胞の内部で増殖していくことによって成立することになりますが、 こうした病原体としてのウイルスの感染は、人間の体内にウイルスの粒子が一個でも入ってしまったらすぐに感染が成立するというものでもなく、 病原体となるウイルスの種類によって、人間に感染を引き起こすために必要なウイルス粒子の数やウイルス量には大きな違いがあると考えられることになります。 ウイルスが体内に侵入しても感染が成立しないケースがあるのはなぜなのか? それでは、そもそも、 ウイルスの粒子が体内へと侵入しても、感染が成立しないケースでは、ウイルスが侵入した人間の体内において具体的にどのような出来事が起きていると考えられることになるのでしょうか? 例えば、 人間の喉や鼻の粘膜に感染する呼吸器系のウイルスであるインフルエンザウイルスの場合、 人間の体内に侵入したインフルエンザウイルスのウイルス粒子は、だいたい8時間ごとに100倍ほどの数に増えていくことになると考えられることになります。 そして、 そのようにしてウイルスが人間の体内で増殖を進めていく間に、体内を巡回しているマクロファージなどの免疫細胞にウイルスの宿主となっている感染細胞をすべて捕食されてしまうことになれば、 たとえ微量のウイルスが体内に侵入してきたとしても人間という個体レベルでの感染が成立しないうちに未然に病原体が排除されてしまうことになると考えられることになるのです。 インフルエンザウイルスとノロウイルスにおける感染に必要なウイルスの数の違い それでは、 具体的にどのようなケースにおいてウイルスの感染が成立し、逆にどのようなケースでは感染が成立しないことになるのか?というと、 それは、一言でいうと、 体内に侵入してきたウイルスの初期兵力とウイルスの増殖力とのかけ算に対する人間の免疫力とのバランスで決まることになると考えられることになります。 例えば、 通常の免疫力がある健康な状態の人間の場合、ウイルスの初期兵力にあたる体内に侵入したウイルス量が一定の基準よりも少なかった場合には、

  • N95マスクとサージカルマスクの具体的な特徴の違いとは?ポリプロピレン不織布でできたフィットテストを前提とする微粒子用マスク

    ウイルスや細菌などの微粒子物質に対する一定の防護性能を持った医療用のマスクとしては、N95マスクとサージカルマスクという二種類のマスクが有名ですが、 こうしたN95マスクとサージカルマスクと呼ばれる二種類のマスクには、より具体的にはどのような特徴の違いがあると考えられることになるのでしょうか? ポリプロピレン不織布でできたフィットテストを前提とする微粒子用マスクとしてのN95マスク そうすると、まず、 前者のN95マスクとは、一言でいうと、アメリカのCDC(疾病対策予防センター)の管轄下にある組織であるアメリカ合衆国労働安全衛生研究所(NIOSH)によって認可された微粒子用マスクの規格を満たしたマスクに対して用いられる言葉であり、 具体的には、直径0.3マイクロメートルの微粒子※を95%以上除去できる性能を持つ有機溶剤などの油状物質に対する耐油性を持たない(Not resistant to oil)微粒子用マスクという意味で、 こうしたN95という呼び名が用いられていると考えられることになります。 ※N95規格における微粒子の除去性能の基準となっている直径0.3マイクロメートルの微粒子の大きさというのは、空気動力学的粒径と呼ばれる粒子の密度などの特性を考慮した特殊な概念によって定義されているので、量中位径と呼ばれる実際の粒子としての平均的な大きさに直すと、直径0.075マイクロメートルに相当する微粒子に対する防護性能を持つと考えられることになります。 そして、 こうしたN95マスクは、通常の場合は、ポリプロピレン不織布(nonwoven polypropylene fabric)と呼ばれる合成ポリマーの細かい網目状の構造をした化学繊維によってフィルターが構成されていて、 マスクと顔の間が隙間なく密着していることを確認するために行われるフィットテストと呼ばれる専門的なチェックを定期的に受けることによって、 自分の顔の大きさや形状にしっかりと適合するマスクを選ぶと同時に、それぞれのマスクの正しい装着方法についてもフィットテストのたびに細かく確認していくことによって、 通常の不織布マスクよりもウイルス粒子などの空気中に浮遊する微粒子からの防護性能の高める仕組みになっていると考えられることになるのです。

  • N95マスクとサージカルマスクのウイルス感染症の予防効果に差はあるのか?カナダで行われた実証実験に基づく結論

    前回の記事では、日常生活において一般人がマスクを着用することによるインフルエンザウイルスやコロナウイルスなどの呼吸系のウイルス感染症に対する予防効果は、 マスクの単独使用ではなく、マスクの着用と手指衛生の両方を同時に行うことによってはじめて十分な効果をもたらすことになると書いたが、 その論拠として取り上げたサーベイ論文の記述のなかでは、N95マスクとサージカルマスクという二種類のマスクにおける感染症の予防効果を比較した実証実験についての言及もなされている。 カナダで行われたN95マスクとサージカルマスクの感染症の予防効果を比較する実証実験 前回の記事でも取り上げた「日常的なマスク着用による感染予防効果について」※と題されたサーベイ論文のなかでは、 カナダのオンタリオ州で看護師などの医療従事者を対象に行われたN95マスクとサージカルマスクの着用によるインフルエンザの予防効果の差を検証するための実証実験についての記録が示されている。 ※出典:Y’s Square:感染対策学術情報:感染対策情報レター2018年:「日常的なマスク着用による感染予防効果について」:https://www.yoshida-pharm.com/2018/letter128/) カナダで行われたこの実証実験では、 8つの病院に勤務する全部で446名の看護師が予めフィットテスト済みの N95 マスクを着用したグループと、通常のサージカルマスクを着用したグループへと分けられたうえで、 その後の勤務におけるインフルエンザの感染率の違いを調べる比較実験が行われている。 そして、実験の結果、 N95 マスクを着用したグループでは22.9%、サージカルマスクを着用したグループでは23.6%の看護師がインフルエンザを発症したことが確認されていて、 N95マスクを着用したグループの方がわずかに感染率は低かったものの、統計的に有意な差ではなかったため、 この実証実験の結論としては、 N95マスクとサージカルマスクという二種類のマスクにおける感染症予防への効果の差はみられなかったと結論づけられているのである。 一般人が日常生活においてN95マスクを着用するメリットはほとんどないと考えられる理由

  • マスクの着用と手洗いを両方同時に行うことがインフルエンザやコロナウイルスの予防対策に重要である理由

    日常生活において一般人がマスクを着用することによるインフルエンザウイルスやコロナウイルスなどの呼吸系のウイルス感染症に対する予防効果については、 一定の効果が望めるとする説と、効果はほとんどないとする説の両方の説が主張されていて、専門家の間でも意見が大きく分かれるところではあるのですが、 こうした日常的なマスクの着用は、マスクの単独使用ではなく、マスクの着用と手指衛生を両方同時に行うことによってはじめて有効な効果を発揮することを示す一つのエビデンスとなる実証実験の例が挙げられることになります。 フランスと日本での実証実験に基づくマスクの単独使用による感染症の予防効果の否定 「日常的なマスク着用による感染予防効果について」※と題されたサーベイ論文においては、 アメリカやフランス、日本や香港などで行われた数多くの実証実験を通じて、 日常的なマスク着用がインフルエンザなどの呼吸器系ウイルス感染症の予防効果に与える影響について様々な観点からの考察がなされています。 ※出典:Y's Square:感染対策学術情報:感染対策情報レター2018年:「日常的なマスク着用による感染予防効果について」:(https://www.yoshida-pharm.com/2018/letter128/) そして、このサーベイ論文においては、 前半部分に書かれているフランスでの家庭内感染を対象とした実証実験と、日本で行われた医療従事者を対象として行われた実証実験のどちらのケースにおいても、 「マスク着用による感染予防効果は認められなかった」あるいは「統計的な有意差は見られなかった」といった否定的な結果が並んでいて、 論文の結論部分においても、「マスク単独での明確なエビデンスはないのが現状」という記述が示されています。 こうした記述からは、一見すると、 日常的なマスクの着用はおろか、医療従事者におけるマスクの着用ですら感染症に対する予防効果を疑問視するような見解が示されているとも解釈することができると考えられることになるのですが、 その一方で、この論文では、 そうした日常的な場面を含むマスクの着用がある特定の条件下においては感染症予防に十分な効果を示すことを示唆する実証実験の例についても取り上げられているのです。

  • 不織布マスクのフィルターが網目よりも小さいウイルスを捕獲できる仕組みとは?不規則な繊維の多層構造と静電気力による説明

    サージカルマスクなどを含む一般的な不織布のマスクにおけるマスクのフィルターの網目の大きさは、だいたい3マイクロメートルくらいか目が細かいタイプのマスクでも1マイクロメートルのほどの大きさはあるのに対して、 インフルエンザウイルスやコロナウイルスといった一般的な呼吸器系のウイルスの大きさはだいたい0.1~0.3マイクロメートルであると考えられています。 しかし、その一方で、 マスクの防護性能の基準にあたるN95やPFE95といった規格においては、平均的な粒子の大きさが直径0.1マイクルメートルの微粒子についても95%以上の捕集率があることが認められています。 それでは、こうしたN95やPFE95の基準を満たすマスクのフィルターは、自分の網目の大きさよりも10分の1以下の小さなウイルス粒子をいったいどのような仕組みで捕獲していると考えられることになるのでしょうか? 不織布における不規則な繊維の構造と多層構造のフィルターによる微粒子の捕獲の仕組み そうすると、 こうしたサージカルマスクなどの不織布マスクのフィルターにおける微粒子の捕集率の高さを説明する仕組みとしては、 まずは、フィルターの役目をしている不織布と呼ばれるマスクの素材そのものの構造のうちにその大きな理由が求められることになります。 ガーゼマスクや布マスクなどとは違い、繊維が規則的に織り込まれていない不織布のマスクにおいては、マスクのフィルターの全体的な構造は、目の細かい繊維が不規則に敷き詰められた構造となっていると考えられることになります。 そして、 そうした不規則に並んだ繊維の網目の大きさは、大きいものでは1マイクロメートルから3マイクロメートルにはなるものの、 その他の部分では、より繊維が密に詰まっている箇所もあり、そうした繊維の網目のより細かい部分へと張り込んできた微粒子は、全体としてのマスクの網目の大きさよりも小さいウイルスなどの微粒子であっても一定の割合で捕獲されることになると考えられることになります。 そして、さらに、 こうしたサージカルマスクなどの不織布マスクにおいては、通常の場合、そうした繊維の配列が細かくランダムに並んでいる不織布のフィルターが三層から四層くらいの多層構造となる形で重ねられていることが多いため、

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