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TANTANの雑学と哲学の小部屋
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このサイトは、日常生活の知識や雑学からはじまり、哲学や人生の深淵に至るまで、さまざまな分野の知識や情報を、独自の視点で、総合的・有機的に結びつけることを目的としています。
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TANTANさんの新着記事

1件〜30件

  • デモステネスの三度にわたる反マケドニア闘争の失敗と非業の死そしてアテナイ人から死後に与えられたプリタネイオンの栄誉

    デモステネスは『フィリッピカ』と呼ばれる後世において古代ギリシア文学を代表する名として伝わる反フィリッポス演説を行うことによってアテナイの人々さらにはギリシア諸国全体を反マケドニア闘争へと結集させていく。その後の三度にわたる反マケドニア闘争の失敗ののちデモステネスは異国の地において非業の死を遂げることになるが言論の力を信じて生き抜いた彼の人生においてはその死後にアテナイの人々からプリタネイオンでの饗宴の栄誉が与えられることになる。

  • 親マケドニアのイソクラテスと反マケドニアのデモステネスの対立とアテナイ市民の選択:『フィリッポス』と『フィリッピカ』

    フィリッポス2世率いるマケドニア軍が迫るなかアテナイ本国では親マケドニア派と反マケドニア派とに国民が真っ二つに分かれる激しい論争が繰り広げられていく。アテナイの人々はマケドニアとの融和を唱える親マケドニア派のイソクラテスではなく、マケドニアに抵抗してギリシア諸都市の自由と独立を守ることを説くデモステネスの言葉を聞き入れることによってマケドニア軍との戦いへと乗り出していくことになる。

  • 第四次神聖戦争におけるデルポイへのロクリス人の侵入とカイロネイアの戦いへと至るフィリッポス2世のマケドニア軍の侵攻

    デルポイへのロクリス人の侵入が聖域を侵略する神に対する冒瀆の罪として問題視されることによってはじまった第四次神聖戦争ではロクリスの討伐を口実としてフィリッポス2世率いるマケドニア軍がデルポイの位置するギリシア中部への進軍を開始する。それに対して、反マケドニア運動の主導者であったデモステネスの主導によってアテナイとテーバイの同盟が結ばれることによって両軍の最終決戦にあたるカイロネイアの戦いへとつながっていくことになる。

  • デルポイとポーキスの関係:現代のバチカンとイタリアの関係との類似点と古代ギリシアの他の地域との都市の関係の違い

    古代ギリシアにおけるデルポイとポーキスの関係では現代のバチカンとイタリアとの関係にも多少の類似点を見いだしていくことができるように、宗教都市としてのデルポイは地理的および経済的な関係においては同じ国家の領域や地域の内に属していながら、政治的および宗教的な関係においては周囲の地域から隔絶された独自の発展を遂げていくことになっていったと考えられる。

  • 第二次神聖戦争におけるポーキス人によるデルポイのアポロン神殿の占領とアテナイとスパルタの代理戦争としての位置づけ

    前々回(リ)書いたように、デルポイのアポロン神殿の聖域をデルポイに隣接する都市国家であったキラが制圧したことによってはじまった古代ギリシアにおける第一次神聖戦争では、 その後、シキュオンを盟主とするアポロン神殿を保護する隣保同盟の同盟軍の軍勢がキラの町を包囲したのち、水攻めとヘレボルスの毒を用いた計略を用いることによってキラの町が滅亡することにより終結を迎えることになります。 そしてその後、しばらくの間、デルポイの地には安寧が訪れることになるのですが、それから100年以上の時を経てギリシア全土を二分する大きな戦いであったペロポネソス戦争が起きることになると、 そうしたペロポネソス戦争の前後の時代に、再びデルポイの地を揺るがすアポロン神殿の聖域の支配をめぐる聖なる戦いが引き起こされることになるのです。 第二次神聖戦争とポーキス人によるデルポイのアポロン神殿の占領 第一次神聖戦争が終結してデルポイに隣接する古代都市であったキラが滅亡すると、それからしばらくして、デルポイが位置するギリシア中西部にあたるフォキスあるいは古代ギリシア語の発音ではポーキスと呼ばれる地方においては地域の統一へと向けた機運が高まっていくことによってポーキス人と呼ばれる人々の勢力が強まっていくことになります。 そしてその後、北西に隣接するドーリスなどの地域への勢力の拡大を図っていったポーキス人たちは、そうした勢力拡大の一環として、ポーキス地方に属しながら、アポロン神殿を司る神聖な都市であったことから独立状態を保っていたデルポイに対しても自分たちの勢力の支配のもとに服することを求めることになり、 ポーキスの軍勢は、ついにこの地を併合することを狙ってデルフォイのアポロン神殿を占領してしまうことになります。 そして、こうしたポーキスの軍勢によるアポロン神殿の占領を神に対する冒瀆の罪としてデルフォイを守護する隣保同盟の軍勢がポーキス討伐へと乗り出したことによって、 紀元前595年にはじまった第一次神聖戦争から150年ほどの時を経た紀元前449年に第二次神聖戦争が勃発することになるのです。 故郷の地ドーリスの防衛をめぐるスパルタとポーキスの争い

  • ヒポクラテスと古代ギリシアにおける第一次神聖戦争との関係(編集中)

    前回(リ)書いたように、デルポイのアポロン神殿の聖域を隣国の都市国家であったキラが制圧したことによってはじまった古代ギリシアにおける第一次神聖戦争では、 聖域への侵略者となったキラの町がアポロン神殿を保護するシキュオンを盟主とする隣保同盟の同盟軍によって包囲されることになります。 そして、こうした第一次神聖戦争においては、アテナイの賢者であったソロンによる水攻めの計略と、ネブロスという名の医術師が用いたヘレボルスの毒によってキラの町は滅亡することになるのですが、 こうした古代ギリシアの第一次神聖戦争におけるヘレボルスの毒を用いた計略によるキラの町の滅亡という出来事は、 医学の父としても知られる古代ギリシアの医者であるヒポクラテスとも深い関わりのある出来事としても位置づけられることになるのです。

  • 第一次神聖戦争におけるデルポイとキラの戦い(編集中)

    前回(リ)書いたように、古代ギリシアでは、デルポイのアポロン神殿に代表されるように、神殿や聖域の管理と維持や互いの親善などを目的として周辺の都市国家の間で隣保同盟と呼ばれる緩やかな同盟関係が結ばれていたのですが、 こうした隣保同盟の内部における土地の支配や宗教的な権益をめぐる争いは、しばしば、デルポイとその周辺に位置する都市国家、さらには、アテナイやスパルタといったギリシア全土の都市国家へと波及していく大規模な宗教戦争へと発展していくことになります。 そして、こうした隣保同盟の内部抗争から発展した古代ギリシアにおける一種の宗教戦争にあたる神聖戦争と呼ばれる戦いは、

  • 神聖戦争の起源と古代ギリシアの隣保同盟との関係(編集中)

    前回(リ)書いたように、古代ギリシア世界におけるマケドニアによるギリシア本土への侵攻とその後のギリシアからエジプトそしてメソポタミアを経てインド西部にまで至る大帝国の建設は、 アレクサンドロス大王の父にあたるフィリッポス2世が当時アテナイやスパルタやフォキスといったギリシア本土の都市国家の間で起きていた第三次神聖戦争に介入したこときっかけとしてはじまっていくことになります。 それでは、そもそもこうした古代ギリシアにおける神聖戦争と呼ばれる古代から続く一連の戦争は、具体的にどのような歴史的な経緯と伝統に基づいて行われていくことになった宗教戦争であったと考えられることになるのでしょうか?

  • マケドニアのトラキアおよびテッサリアへの侵攻とオリントスとの戦い(編集中)

    前回(リ)書いたように、アレクサンドロス大王の父にあたるフィリッポス2世は、サリッサと呼ばれる長大な両手槍を装備したマケドニアのファランクスの運用や斜線陣と呼ばれる重装歩兵の密集戦術の改良などを通じた軍制改革および戦術改革によってマケドニアを中央集権的な強大な軍事国家へと導いていくことになります。 そして、こうしてマケドニア国内における政治的および軍事的な地盤を固めていったフィリッポス2世は、トラキアやテッサリアといったマケドニアの周辺地域へと勢力を拡大していったのち、ついにギリシア本土の都市国家へと向けて進軍を開始していくことになるのです。 マケドニアのトラキア地方への侵攻とオリントスとの戦い 紀元前359年にマケドニアの王として即位したフィリッポス2世は、マケドニア国内における軍事改革と政治改革を進めていったのち、 まずは北方のトラキアとの国境地帯に自らの名を冠したラテン語や英語ではフィリピ(Philippi)、古代ギリシア語ではピリッポイ(Φίλιπποι)と呼ばれる都市を建設したうえで、 こうして新たに建設されたピリッポイの町を軍事拠点として付近にあったパンガイオンの金鉱開発と東方に隣接するトラキア地方への侵出を試みていくことになります。

  • サリッサと改良型斜線陣(編集中)

    前回(リ)書いたように、紀元前359年に新たにマケドニアの王として即位することになったフィリッポス2世は、   その後、フィリピの町の近くにあったパンガイオンの金鉱開発によって得られた豊富な資金を財源として、マケドニア国内における軍制改革を中心とする様々な政治改革を進めていくことになります。   そして、こうしてマケドニアのフィリッポス2世によって進められた軍制改革のなかでも後世にまで影響をおよぼしていくことになった戦術面での大きな変化としては、   重装歩兵の密集隊にサリッサと呼ばれる長大な槍を装備させたことと、テーバイの名将エパミノンダスによって編み出された斜線陣と呼ばれる重装歩兵の戦術の改良という二つの点が挙げられることになります。   <h3>サリッサと呼ばれるマケドニアの長大な両手槍の特徴</h3>   サリッサまたはサリーサ(sarissa)とは、フィリッポス2世による軍制改革以降の古代マケドニアの軍隊において用いられていた長大な両手槍のことを意味する言葉であり、   マケドニアの台頭以前の古代ギリシアの重装歩兵が用いていた一般的な槍の長さがだいたい2.1~2.7 mくらいであったのに対して、古代マケドニアの重装歩兵が用いていた槍の長さはそのほぼ2倍にあたる4~6mにもおよぶ長大な槍を用いていたと考えられています。

  • フィリッポス2世によるマケドニアの軍制改革とフィリピの町の建設とパンガイオンの金鉱開発(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争後のマケドニアにおける王権争いのなかで、国内の争いを調停するための人質としてテーバイへと送られることになったフィリッポスは、 この地での人質生活のなかで、テーバイの名将であったエパミノンダスから重装歩兵の密集陣形であるファランスクの運用の仕方や、斜線陣と呼ばれる新たな戦術を学ぶことによってギリシア世界における最新の軍事的知識に深く精通していくことになります。 そしてその後、紀元前359年に、マケドニアの人々の推挙によってマケドニア王として即位することになったフィリッポス2世は自らの軍事的な才能と知識とを生かしていくなかでマケドニアの軍制改革へと乗り出していくことになるのです。

  • フィリッポス2世によるマケドニアの軍制改革(編集中)

    前回(リ)書いたように、紀元前700年ごろに、スパルタやアルゴスといったギリシア本土の都市国家と同じギリシア人の一派にあったドーリア人の手によって建国されたマケドニア王国は、 その後しばらくの間、ギリシアの周辺国としての立場にとどまり続けることになるのですが、そうしたマケドニア王国の立場は、 ペルシア戦争とペロポネソス戦争というギリシア世界における二つの大きな戦争の時代を通じて大きく変化していくことになります。

  • マケドニアの台頭とペルシア戦争期とペロポネソス戦争期の二段階におけるギリシア本土の都市国家との関係の強化(編集中)

    前回(リ)書いたように、ギリシアの北方に位置するマケドニア王国は、紀元前700年ごろにスパルタやアルゴスといったギリシア本土の都市国家と同じギリシア人の一派であるドーリア人によって建国されることになるのですが、 ペルシアを中心とする東方世界と、アテナイやスパルタといったギリシア本土の都市国家の中間に位置するマケドニアは、その後、長い間、正式なギリシア人の一員とは見なされないギリシアの周辺国としての地位にとどまり続けていくことになります。 しかし、こうしたギリシアの周辺国としてのマケドニアの立場は、ペルシア戦争とペロポネソス戦争というギリシア世界における二つの大きな戦争を通じて大きく変化していくことになるのです。

  • ギリシア北方におけるマケドニアの台頭(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争後にギリシア世界の覇権を握ることになったスパルタは、紀元前371年に起きたレウクトラの戦いでテーバイ軍に大敗することによって国力を衰退させていくことになり、 レウクトラの戦いにおけるスパルタへの勝利によって新たにギリシア世界の覇権を手にすることになったテーバイもまた、紀元前362年に起きたマンティネイアの戦いにおいて、それまでの快進撃を導いてきた名将エパミノンダスを失うことによってその後は凋落の一途をたどっていくことになります。 そして、こうしたスパルタやテーバイといったギリシア本土の都市国家において都市国家同士の分立と抗争による疲弊と衰退が続いていくなか、ギリシアの北方に位置するマケドニアの地において新たな勢力が台頭していくことになるのです。

  • マンティネイアの戦いにおけるエパミノンダスの死とギリシア世界におけるテーバイの覇権の終焉(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争後の古代ギリシアにおける覇権は、紀元前371年に起きたレウクトラの戦いにおけるテーバイの名将であったエパミノンダスが率いるテーバイ軍のスパルタ軍に対する圧倒的な勝利によって、スパルタの手からテーバイの手へと移っていくことになります。 そしてその後、勢いに乗るテーバイを中心とするボイオティア同盟軍の進撃によって、スパルタの経済の要となる支配地であったメッセニアが解放されることによってスパルタの国力は大きく衰退していくことになると、 それに代わってテーバイがギリシア世界の覇者として君臨していくことになるのですが、こうしたテーバイによるギリシア世界の支配はそれほど長く続いていく、その勢いにはすぐに陰りが見えていくことになるのです。

  • レウクトラの戦いにおけるテーバイ軍の圧倒的勝利とヘイロタイの解放によるスパルタの国力の衰退(編集中)

    前回(リ)までに書いてきたように、古代ギリシアの覇権がスパルタからテーバイへと移っていく転換点となった戦いであるレウクトラの戦いは、 テーバイの名将であったエパミノンダスによって考案された斜線陣と呼ばれる重装歩兵の新戦術と、ペロピダスが率いる精鋭歩兵部隊である神聖隊の活躍によってテーバイ軍の劇的な勝利に終わることになります。 そしてその後、レウクトラの戦いでの勝利によって勢力を大きく増大していくことになったテーバイ軍を中心とするボイオティア同盟の軍勢は、 さらに、その勢いをかって、スパルタを中心とするペロポネソス同盟の勢力圏にあたるペロポネソス半島への侵攻を開始していくことになるのです。 レウクトラの戦いにおけるテーバイ軍の圧倒的勝利 紀元前371年に起きたレウクトラの戦いにおいては、テーバイを盟主とするボイオティア同盟軍の重装歩兵を中心とする7000の軍勢と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟の同じく重装歩兵を中心とする1万の軍勢が、 ギリシア中部のボイオティア地方に位置する平野であったレウクトラの地において激突することになります。

  • テーバイ軍のにおけるペロピダスの神聖隊の活躍(編集中)

     前回(リ)書いたように、紀元前371年に起きたテーバイを中心とするボイオティア同盟軍がスパルタを盟主とするペロポネソス同盟軍の戦いであるレウクトラの戦いでは、 戦術面においてはテーバイの名将であり天才的な戦術家であったエパミノンダスによって編み出された斜線陣と呼ばれる重装歩兵の軍団における革新的な密集陣形の展開が行われることによってテーバイ軍の勝利が導かれることになったと考えられることになります。 そしてその一方で、こうしたレウクトラの戦いにおいては、こうしたエパミノンダスによる斜線陣の導入という戦術面の革新のほかに、

  • レウクトラの戦いにおけるエパミノンダスの斜線陣(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争とその後に起きたコリント戦争の後の時代のギリシア世界においては、ペロポネソス戦争の戦勝国となったスパルタの覇権が続いていくことになるのですが、 紀元前371年に起きたレウクトラの戦いにおいてテーバイを中心とするボイオティア同盟軍がスパルタを盟主とするペロポネソス同盟軍を破ることによって、こうしたギリシア世界における覇権はスパルタからテーバイへと移っていくことになります。 そして、こうしたギリシア世界においてテーバイの覇権が確立されるきっかけとなったレウクトラの戦いにおいては、 テーバイの将軍にして政治家でもあったエパミノンダスが新たに用いた斜線陣と呼ばれる新たな戦術の導入によって、ギリシア世界における最強の陸軍であったスパルタの重装歩兵の軍団が撃破されることになったと考えられることになるのです。

  • テーバイの台頭とスパルタの覇権の終焉(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争の終結後にギリシア世界の覇権を一手に握ることになったスパルタに対してアテナイとアルゴスそしてテーバイやコリントといったギリシアの諸都市が同盟を結んでスパルタの覇権に対抗していくことになったコリント戦争は、

  • コリント戦争におけるスパルタとテーバイの対立と大王の和約(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争の終結後にギリシア世界における覇権を一手に握ることになったスパルタは、さらな野望を抱いて東方のペルシア遠征へと乗り出していくことになるのですが、 こうしたスパルタの王アゲシラオス2世によるペルシア遠征は、知略に長けた宰相であったティトラウステスを中心とするペルシア側からの画策もあって、ギリシア本国においてコリント戦争がはじまることによって断念を余儀なくされることになります。

  • コリント戦争におけるアテナイとテーベの同盟とスパルタの戦い(編集中)

    前回(リ)までに書いてきたように、紀元前431年にはじまったギリシア世界を二分する戦いであったペロポネソス戦争はスパルタに対するアテナイの無条件降伏によって終結することになり、 その後は、ペロポネソス同盟の盟主であったスパルタによるギリシア世界の支配が続いていくことになります。 しかし、こうしたギリシア世界におけるスパルタの覇権はそれほど長く続いていくことはなく、

  • クセノフォンの行軍とペルシアの王子キュロスの野望(編集中)

    前回(リ)書いたように、ペロポネソス戦争におけるアテナイの敗戦の後に成立した三十人政権が民主派の市民たちの手によって打ち倒されて民主政が復活すると、 アテナイではそうした三十人政権の首謀者となったクリティアスやカルミデスといった人物や、さらにそれ以前にさかのぼるペロポネソス戦争におけるアテナイの敗戦の原因をつくったアルキビアデスとの関係も一因となることによって、 不敬神の罪を口実とした詩人メレトスの後ろ盾となった民主派の政治家であったアニュトスによる告発によって不当な死刑判決が下されることになるソクラテス裁判が引き起こされることになります。

  • アルキビアデスとソクラテスの関係(編集中)

    前回(リ)書いたように、アテナイにおける三十人政権と呼ばれる寡頭政が打倒されてから2年後に行われることになったソクラテス裁判においては、 三十人政権のもとで行われた暴政の首謀者となったクリティアスやカルミデスといった人物がアテナイの市民たちからはソクラテスの弟子と目されていた人物であったことから、 民主派の市民たちの報復の矛先がそうした三十人政権の中心人物たちの師と目されていたソクラテスへと向けられていくことによって無実の罪による死刑判決へとつながっていくことになっていったとも考えられることになります。

  • アテナイの三十人政権と寡頭政の崩壊(編集中)

     前回(リ)書いたように、紀元前431年にはじまったアテナイとスパルタを中心とするギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争は、紀元前404年におけるアテナイの無条件降伏によってついに終結の時を迎えることになります。 そしてその後、スパルタの支配のもとに新たな国家を建設していくこという屈辱を強いられることになったアテナイにおいては三十人政権あるいは三十人僭主とも呼ばれる寡頭政の政治体制が樹立されていくことになるのです。 ペロポネソス戦争における敗戦後のアテナイにおいては、無条件降伏を受諾したアテナイを支配することになったスパルタの軍による統治下において国家の再建が進められていくことになり、 ペロポネソス戦争を勝利へと導いたスパルタの将軍であったリュサンドロスの後見のもとに親スパルタの人物を中心とする三十人の政治家による寡頭支配にあたる三十人政権が樹立されることになります。

  • ペロポネソス戦争におけるアテナイの敗北と六将軍の処刑(編集中)

    前回(リ)までに書いてきたように、紀元前431年にはじまったアテナイとスパルタを中心とするギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争は、 過激な発言によって民衆の支持を集めていったアテナイの煽動政治家の一人であったアルキビアデスによって強行されたシケリア遠征の失敗を転換点としてアテナイの側の不利へと大きく傾いていくことになります。 そしてその後、陸上の戦いにおいても海上の戦いにおいても窮地へと立たされていくことになったアテナイでは、国内においても民主政治の堕落による衆愚政治が進んでいくなかで、 一時は、デロス同盟の盟主としてギリシア世界の覇者として君臨していくなかで、シケリアからカルタゴ、そして、エジプトからイオニアへと至る地中海帝国の建設の野望を抱いていたアテナイは、ペロポネソス戦争における敗北と亡国への道を突き進んでいくことになるのです。

  • アルキビアデスの四度の変心と祖国アテナイの亡国への道:スパルタでのアルキビアデスの暗躍とペルシアへの逃亡の末の死

    アルキビアデスはアテナイの大艦隊を率いてシケリア遠征へと乗り出したものの瀆神罪の嫌疑をかけられたことで祖国を捨てて敵国であるスパルタへと逃亡することによってアテナイを亡国の道へと導いていく。混乱に乗じてアテナイでの復権を果たしたアルキビアデスは、その後再びペルシアへと逃亡することになり、フリュギアの地においてスパルタの刺客に暗殺されたとも伝えられている。

  • 第二次ペロポネソス戦争の開戦とアテナイのシチリア遠征の失敗(編集中)

    前回(リ)書いたように、紀元前431年にはじまったアテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟によるリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争の前半戦にあたる十年戦争は、 アテナイにおける和平派の政治家であったニキアスの主導によって紀元前421年に結ばれることになったニキアスの和約によっていったんは終結することになります。 しかし、こうしたニキアスの和約が結ばれた後のギリシア世界においても、アテナイとスパルタとの政治的および軍事的な緊張関係は持続していくことになり、 その後、アテナイにおいて、主戦派の政治家であったアルキビアデスが新たに都市国家の指導者としての地位につくことになると、両者の関係は、さらなる軍事衝突が避けられない状態にまで悪化していくことになるのです。 アルキビアデスの台頭とアテナイのシケリア遠征 アテナイの名門貴族の家柄の生まれであり、アテナイ随一とも言われるたぐいまれなる美貌と美しい肉体の持ち主であると同時に、巧みな弁舌の才によってアテナイの民衆を魅了する美青年であったアルキビアデスは、 30歳の若さにしてアテナイの将軍の地位に選出されることになり、その後、彼を熱狂的に支持する民衆たちの力によってアテナイの指導者としての立場にまで昇りつめていくことになります。

  • ペロポネソス戦争の前半戦における十年戦争とニキアスの和約(編集中)

    前々回(リ)書いたように、アテナイとスパルタの間で結ばれた「30年の和約」は長続きすることはなく、 ギリシア北方の植民市にあたるエピダムノスの内乱をきっかけとしてアテナイとコリントの間で軍事衝突が起きると、 紀元前431年、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間でギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争がついに開戦の時を迎えることになります。

  • ペロポネソス戦争期におけるアテナイの衆愚政治への堕落(編集中)

    前回(リ)書いたように、アテナイとスパルタの間で結ばれた「30年の和約」は長続きすることはなく、 ギリシア北方の植民市であったエピダムノスの内乱をきっかけとして起きたデロス同盟の盟主であるアテナイと、ペロポネソス同盟の主要国の一つであったコリントの軍事衝突をきっかけとして、 紀元前431年、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間でギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争がついに開戦の時を迎えることになります。 そして、こうしたペロポネソス戦争が開戦された当初のアテナイにおいては、アテナイの民主政を完成期へと導いたペリクレスが政治を主導することになるのですが、 疫病の流行によって偉大な指導者であったペリクレスが不慮の死を遂げることになった後のアテナイにおいては、デマゴーグとも呼ばれる煽動政治家によって政治が執り行われていく衆愚政治への堕落が進んでいくことになります。

  • コリントとアテナイの戦いとペロポネソス戦争の開戦(編集中)

     前回(リ)書いたように、第一次ペロポネソス戦争とも呼ばれる紀元前460年頃にはじまるデロス同盟とペロポネソス同盟の全面的な軍事衝突の前哨戦となる軍事的抗争は、  紀元前445年に、両陣営の盟主であるアテナイとスパルタが互いの覇権を認め合う「30年の和約」を結ぶことによっていったんは終結することになるのですが、 こうした両者の間に結ばれた30年の和約は半分の期間しか過ぎていない15年後に再び戦争へと突き進んでいくことになります。

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