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2019/07/01

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  • 黄昏の日々(十二)待望の修学旅行

    ぼやぼやしている間に、昌太も人並みに六年生になつていた。 そうなると、待望の修学旅行に行ける。 彼は、日頃の食べたい物が食べられるチヤンスだと思つていた。 行先は、大連から奉天(現・瀋陽)を通過して、新京(現・長春)まで、帰りに奉天と撫順に立ち寄つて帰る、五日間のコースである。 昌太は、先ず茹玉子、駅弁当、落花生等を、列車が主な駅に停車の度に買つて食べた。 余程、食い物に欠乏していたのだろう。級友の殆んどが、家族や親戚の人に、おみやげを買つて楽しんでいると云うのに、彼だけはおみやげ無しで、手軽な身なりである。 汽車の窓から眺める景色は、右も左も地平線の連続で、高粱や包米(トウモロコシ)畑が見え…

  • 黄昏の日々(十一)弟がほしい

    昭和十七年 小学校も、いつの間にか国民学校と名が変わつていた。 昌太には、二人の妹がいるが、弟が一人もいない。 二階の島さん、近所の佐藤さん、岩崎さん、みんな兄弟が仲良く遊んでいると、つい彼は羨ましくなつてくるのだ。 ある日昌太は、母の機嫌の良いときを狙つて、そつと耳打ちをした。 「ねえ、僕も岩崎さんとこみたいに、弟が欲しいなア」 母は、 「このこは、なんて突拍子もないことを言うのだろうか。」 と、最初は相手にもしなかつたが、余りにも昌太がしつこく云うので、笑いながら、 「母さんは困つたわねえ。そうだ、今晩にでも、お父さんが会社からお帰りになつたら、一度、相談してみましよう。」 と、答えたが、…

  • 黄昏の日々(十)母の口癖

    学校から帰ると昌太は、鞄を玄関口に放り投げて、外へ飛び出して行つてしまう。 母は、 「勉強、宿題」 と、口うるさく言うが、ちつとも効き目が無い。 夕方、泥だらけになつて帰つてきてから、 「宿題があつた。」 と、騒ぎ出す昌太を、 「ほら、お母さんの言うことを聞かないからですよ。今夜は寝ないでおやりなさい。」 と、冷たく突き放すように言つた後で、昌太の机の隣りで、夜遅くまで付き合つてくれる。 しかし、できないものは、いくら頑張つてもできない。 しまいには眠くなって、泣き出す昌太に、追い打ちをかけるように、 「お前は本当によく泣くねえ、カラスの鳴かぬ日は有れど、お前の泣かぬ日は無し・・・」 と、これ…

  • 黄昏の日々(九)聖徳小学校に転校

    長い夏休みも、遊んでばかりいると意外と早く感じるもので、昌太は休み明けの、三年生二学期から、放送局と道を挟んだ向かいの坂に在る、聖徳小学校に転校した。 担任の森川先生は、昌太を教室まで案内すると、彼を教壇に立たせて、全生徒に紹介した。 「諸君!今日から二学期の始まりだが、その前に、新しく転校してきた杉昌太君を紹介する。仲良くしてやつてくれ。」 簡単な紹介だが、先生の話つぷりは、当を得ていて、生徒に対する説得力があつて、頼もしくもあつた。 昌太の机は、最前列に指定され、彼の隣りは藤岡君、なかなかのスポーツ万能で、授業中に椅子の上に、野球のグラブを折り曲げて尻の下に敷いて、休憩時間にワセリンを塗つ…

  • 黄昏の日々(八)実満戦!初めての野球観戦

    夏休みも終わりに近づいたある日、欣也叔父さんに連れられて、昌太は、生まれて初めて野球と云うものを見に行つた。 中央公園の中に、満倶野球場と、実業野球場の二つの野球場があつて、実満戦と云う定期戦が、この両球場で行われる。 周囲には、いろいろな樹木が生い繁つていて、絵葉書で見覚えのある、東京の明治神宮外苑によく似ている。 野球選手の中には、東京六大学の花形選手も多数参加しているそうだが、全く野球を知らない昌太には、そのようなことなど、どうでも良いことなのである。 観覧席の間を売り歩く、アイスクリーム売りのことが気になって、昌太は野球に熱中している叔父さんの上衣の袖を、チヨイと引つ張つて「アイスクリ…

  • 黄昏の日々(七)大連での暮らし

    大広場を半周して通り過ぎると、西広場、常盤橋、小村公園、小崗子と通過して、意外に早く新しい我が家に到着した。 家といつても、満鉄(満州鉄道K.Kの略)の社宅で、一棟十四世帯から十二世帯の鉄筋二階建てが七棟ほど並んで、周囲には、総合病院、商店街、中国人住宅街があり、近くの丘には、NHK大連放送局(JQAK)の近代的な建物が聳えている。 昌太は、残り少ない夏休みを、この丘でよく遊んだ。 近所の同じ年代の少年達と、すぐに仲良くなつて、一日中遊び回つて、夕方近くになつてから帰つてくる。 特に、二階の島さん兄弟とは、大の仲良しになり、屋上に飼育している伝書鳩の訓練は、興味があつた。 島さん一家は、岩手県…

  • 黄昏の日々(六)

    三日間の航海も、漸く終りに近づいた。 水平線の彼方に、一点、ポツンと島のようなものが見えると、甲板のあちこちで右往左往する気の早い船客が、もう下船の準備を始めだした。 島だと思つた一点は、やがて横に広がつて、 「なるほど、これが大陸の玄関か、大きいなあ」 と、思わせる大連港の旅客船専用の埠頭に接岸した。 向かいの埠頭は、外国の貿易船の専用埠頭らしく、巨大な起重機で積荷の降し作業が、 手に取るように見える。 船腹に鍵十字のマークを付けた独逸の貨物船まで、はるばるやつて来ているのだ。 スルスルと、タラツプが延びると、一列に並んだ乗客は、次々に渡り始めた。 昌太は母や妹に、はぐれないようにぴつたりく…

  • 黄昏の日々(五)

    何年ごろだつたか、正確には覚えていないが、以前に行つたときは、紐落し前だから、 満年齢で三才くらいか。 大連の大黒町に住んでいた時、正月に家の前の道路上で、凧揚げをして、走つて転んで、泣いて帰つたこと。 連鎖街の写真館で、紐落しの写真を撮つたとき、写真技師が、黒い布の中から顔を出して片手にした人形のキユーピーさんを、二、三度振つて見せながら、 「坊や、こちらを見てーはい!」パチリ! キユーピーを見ている間に写真を撮られて 「まるで子ども扱いにしている。」 と、子供ながら腹を立てたこと等、変なことばかりを、断片的に、記憶しているものだと、自分ながら感心していた。 まる三日間も船の上で生活している…

  • 黄昏の日々(四)

    その大連に行く日が意外に早く到来した。 丁度、夏休みを利用して、怪我も治つた昌太と、彼の妹、美智と千代を連れて母は、父の待つ大連へ旅立つたが、母の弟にあたる欣也叔父さんも、同行してくれることになつた。 出発の当日、仲の良い友達、四、五人が、遠い駅まで徒歩で、見送りに来てくれた。 汽笛を合図に、動き出した汽車の窓から手を振る昌太。 線路沿いの小道を下駄履きのままで、走りながら手を振つて、別れを惜しむ友達。 「サイナラー!」 「サイナラー!」 これが、この世での見おさめとでも思つたのだろうか。視界から遠ざかるまで、身を乗り出して、昌太は、手を振り続けた。 トンネルの多い、暗くて長い山陰本線を西へ西…

  • 黄昏の日々(三)

    昌太は、友達と砂浜で、よく戦争ごつこをして遊んだ。 「昌ちゃん、戦争ごつこ、やらいや(やろうよ)」 「うん、やらい(やろう)」 「そんなら、敵のトーチカを、こしらえにやいけんなあ」 友達三人と気が合つて、早速、工事に取りかかる。 近くの海岸の大きな石を、二、三人で抱きかかえては、石を積み重ねる。そのうち、どうした弾みか、持ち上げた石が、手元から滑り落ちて、不運にも、昌太の額に当たつた。 「昌ちやん、ごめんなー」 仲間の一人が、謝つたが、 「うん、いいよ、たいしたことないさ。」 と、昌太は言つたが、暫くするうちに、目の前が、赤くなつて見える。 夕日が顔を照らして、赤く見えるのかな、と思つていると…

  • 黄昏の日々(二)

    昌太は、絵を描くのが、大好きである。 図画の時間になると、国語、算術の時間の数倍も大張り切りである。 「好きこそ、ものの上手・・・」の諺通り、彼の絵には、自信が、みなぎつていた。 ところが、ある日、近くの港から出る船を写生したところ、先生から、その絵の出来映えについて注意された。 「昌太さん、何ですか、この色の調子は、海の水の色は緑ですか?青いでしょう。青が正しいですね。それに船の煙突から出ている煙は、まるでホースから水が出ているようではありませんか。」 昌太は黙つていた。 別に言い訳をするつもりもなく、子供心に、そのように、眼に映つたまま、クレヨンを走らせただけのことである。 事実、その日は…

  • 黄昏の日々(一)

    はじめに 忘れ去つてしまいたい忌まわしい過去。 いつまでも心に留めて置きたい美しい過去。 黄昏(たそがれ)の彼方に消えていつた。 さまざまな思い出を今、再び・・・。 昭和十四年 小学三年生になつたばかりの昌太(しょうた)は、買つたばかりの画用具を、登校の途中で落としたが、親切な生徒が拾つて、記入していた学年を手懸りに、教室まで届けてくれた。 担任の、美しい女先生が、教壇の上から落し物を高く差し上げながら、 「これは、誰のですか。」 と、辺りを見渡した。 昌太は、反射的に右手を高く上げると、 「シエンシエ(先生)わのだ!」 と、有りつたけの大声で答えた。 すると、先生は、黙ったまま、いきなり、白…

  • 国産のサイドカーはなぜ流行(はや)らないのか

    月刊「オートバイ」2月号 (昭和48年2月1日)掲載 不思議でならないのは、欧米で盛んなサイドカーは、なぜか我が国ではさっぱり見かけないことです。 原因を探ってみると第一に価格の高いことです。 軽四輪車で40万円前後、サイドカーは60万円くらいではないでしょうか。 オートバイのユーザーは、若者達が多いようですが、経済的にゆとりが出来る年頃になると四輪車に移行するようです。 二輪、四輪車双方を製造しているメーカーは、たいして腹は痛まないでしょうが二輪車専門のメーカーは一考を要するところです。 次に現在のオートバイは昔のオートバイと比較しますと個々の進歩は多数ありますが、 基本的には旧態依然として…

  • 附・父の作品集《俚謡》

    タイトルの”父の作品集”の”父”とは、私の父の父親(私の祖父)です。 作品集を出すのが好きな家系? 昔は印刷業を営んでいたからでしょうか。 本を作る事は生活の一部だったのではと思います。 一番目の作品は、父が赤ん坊だったころの一場面でしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 妻の笑顔も百パーセント膝の坊やの初笑。(昭和6年頃の作) 甘い文句を書いてたペンで苦しい家計簿書いている。(昭和13年頃の作) 蝉の啼き声雨かと聞いて靴の紐解く山の宿。(以下昭和23年以降の作) 虫に鳴かれて衣縫う窓に針の運びがまゝならぬ。 恋の未練を包んだ闇に包み切れない…

  • 小さな重量車を

    月刊オートバイ 1974年8月号掲載(当時43歳) 最近、若者のめざましい身体の発達ぶりには、驚かされる。 私たち戦中派は、小さい身体は小回りがきく、衣服地が少なくて済むなどを利点としていた。 小さいことは、いいことだ、と、ばかりに20代の後半になってから、当時のモペットブームに乗って、34年に待望の50cc、山口オートペットを購入した。 4万9千5百円と安価な魅力もあったが、何と言っても、本格オートのスタイルも心を引き付ける要因だった。 カタログデータ65kmを上回る70kmのスピードを砂利道で出して喜んでいたのも、そのころのこと。 続いてスポーツカブ55、スーパーカブ65、CL90、と排気…

  • 甦れスクーター

    月刊オートバイ 1974年2月号に掲載 わが国には、過去スクーターメーカーとして、シルバーピジョンの三菱、 ラビットの富士重工、ポップの平野、パンドラの東昌などがあったが、 他にオートメーカーのホンダ、ヤマハもスクーターを製造していた時期があった。 そのスクーターメーカーが、次々に製造を中止した原因に、ホンダのスーパーカブ号の 誕生がある。 当時、爆発人気で、モペットブームを作り出すキッカケとなったのが、そのタイルや、 スクーターのようでも、スクーターではなく、オートバイのようでも、オートバイではない・・・。 どこかのCMのようだが、その軽快で経済的なところが魅力でもあり、スクーターの ユーザ…

  • オレのこの若さ!

    ホリデーオート12月号(昭和48年12月1日)掲載 おれ年齢42歳、毎朝別居、昼間は独身、夜だけ妻子ありの所帯持ち、精神年齢20代? 愛車ホンダCB125Sに乗っかっていると一見若者風、ホリデーオートの兄弟誌「オートバイ」の永年の愛読者でもある。 四ツ輪は走るカンオケと称してケナしていたのは4~5年前の話、心境の変化で現在は 免許をとろうと自動車教習所へ通っている毎日。 「いい年して、いつまでも若い者みたいにオートバイに乗っているとあぶないよ」 とオレの子供の母親の意見で、最愛のオートバイともお別れか!悲しきわが心。 にほんブログ村 に参加中です♪

  • オートバイファンのたわごと

    こちらは父が37歳の時に、 月刊「オートバイ」2月号(昭和44年2月1日発行)に掲載されたものです。 私がまだ生まれてなかった頃ですね。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私の友人がまた一人、二輪車族から四輪車族に転向していった。 若いときにオートバイを楽しんでいた者が結婚して家庭を持つ、子供が生まれる。 すると家族ぐるみのレクリエーションとなる。それにはオートバイはだめだ。 軽四輪でもあれば家族みんなが楽しめる。 こんな気持ちの者が次々とオートバイからバイバイする。 私はだんだん友人を失って一人ぼっちの心境である。 「それでは君も四輪車に転向しろ…

  • 今日は父の命日

    今日は、私の父の命日です。 ふと思い立ち、父が残した作品を記録しておこうと、 このブログをたちあげました。 父は生前、オートバイをこよなく愛しておりました。 そして、絵を描いたり、文章を書いたりするのが好きで、 自費出版で作品集を出していました。 その作品たちに、ふたたびこの世に旅立ってもらいたい。 そう思ったのでした。 父が今もまだ元気だったなら、きっとブログで発信していたことでしょう。 父は、昭和6年生まれで、64歳の時に大腸がんでこの世をさりました。 今生きていれば、88歳です。 お父ちゃん、大好きなお父ちゃん。 亡くなって20年がたつのに、時おり急にやってくる悲しみに襲われる。 今もそ…

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