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  • 神のかたちのかたち

    「1:15御子は、見えない神のかたち(εἰκὼν τοῦ Θεοῦ)であって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 1:16万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 1:17彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。 」口語訳聖書 使徒パウロは、創造論的な文脈の中において、「御子は見えない神のかたちεἰκὼν τοῦ Θεοῦ」であると述べている。パウロが創造について論じるときに「神のかたち」として意識するの…

  • 森を見て木を見よ

    釈義論文と称して、聖書の中の一節だけ取り上げて、語句をことごとくパースして、主要語句を辞書を引いて、あんな意味、こんな意味があると論じるような聖書研究はナンセンスであると私は考えている。 なぜか。ことばは文脈の中で意味を持つからである。神学生の提出した卒論見通しのレポートを見て、そんなことを思う。こんな聖書の読み方をしているから、間違った解釈をし間違った説教をすることになる。森を見て、木を見よ。

  • J.I.パッカーと聖書

    Psalms teach us how to worship; Proverbs, how to behave ; Job, how to suffer ; Song of Solomon, how to love; Ecclesiastes, how to live. – J.I. Packer 「詩篇は如何に礼拝するかを 箴言は如何にふるまうかを ヨブ記は如何に苦しむかを ソロモンの雅歌は如何に愛するかを そして箴言は如何に生きるかを 教える」 J.I.パッカー 一度だけお目にかかったことがあるパッカー先生。聖書に対する敬虔と学識を備えた神学者ならではのことばですね。

  • 有朋自遠方来

    今朝は、朋有り遠方より来たるで、短い時間だったけれど金太郎の池の周辺を散歩して楽しかった。大学時代の友人で、卒業後は久しく会うことがなかったのだが、12,3年前私がまだ信州小海にいたとき、一度ちょうど仕事で上京するタイミングと、クラス会のタイミングが合ったので参加したら会うことができたのだった。今回は、北海道を釣り三昧の旅をしているとのこと。 春の日差しの下、池の周り林の中を、お互いの近況、仕事、家族のことを語らううちにあっというまに時間がたってしまった。お互い、もう65歳とか66歳というのが信じられないなあ。九十になろうとしている父母を見ながら、自分の老い先はどうなるのかなあなどと考えている…

  • 下種の勘繰り

    大谷君に関する疑惑が晴れたようです。 この種の「疑惑」とそれに対するマスメディアやユーチューバーなどの対応を見て思い出すのは、会田雄二が小野田寛郎少尉について書いた文章のことです。 小野田少尉が戦後ずっとルバング島に潜伏していることがわかったけれども、まだ真相が謎に包まれていたとき、いろんな立場・職業の人が好き勝手な推測をして、雑誌にその意見が出されていました。会田さんは、それらはすべて的外れだ。陸軍中野学校で訓練された小野田さんは、戦後も諜報員としての任務をジャングルの中で果たし続けていたのだと断じました。果たして、事実は会田さんの言った通りでした。 会田さんは、他の人々の推測は「下種の勘繰…

  • 聖書文脈読み違えの2例

    聖書釈義の基本は、文脈をわきまえることである。文脈とはなにか?下の数列のXは何か? 2,4,6,8,X,12,14,16・・・ X=10であるとすぐにわかるだろう。等差数列である。文脈とは数列のようなものである。課題文の前から、課題文の後へと流れているその流れが文脈である。課題文の解釈はその流れを妨げないものであることが肝心である。前後の流れから、その課題文を解釈するのである。 私がこれまで最もしばしば耳にしたり目にしたりしてきた、文脈を外れた聖書解釈の典型を2つ紹介しよう。 「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」ローマ11:29 何人かの牧師や宣教師が、「私は自分がこの使命を…

  • 女性専用車両に乗って「法律違反ではない」と騒ぐおじさん

    今朝たまたまニュースを見たら、わざわざ女性専用車に乗って、乗客や乗務員に注意されると、「女性専用車は一般車両だから、法律上、男性が乗っても問題ないのだ。日本は法治国家だ。」という内容のことを口汚く罵るユーチューバー男性が出ていた。 法律はそれを破ったら犯罪にあたる最低限の基準であって、人としてまともに生きて行くにはより高いレベルの良識が必要であることを、この男性はわかっていない。法的に問題ない行為であっても、道徳的に問題ある行為がある。男性が女性専用車に乗るというのは、そうした行為の一つである。この男性の言っていることは、「法律」ということばを初めて知った小学生低学年が、親から「朝は、ちゃんと…

  • ノアの苦労、カルヴァンの苦労

    史上最初の動物園の園長ノアは、動物たちを箱舟に順々に乗せて、それから1年と10日間にわたって、彼らの世話をしました。それはどれほどたいへんだったでしょう。カルヴァンは『綱要』の中で、ノアの苦労について「ノアは生涯の大部分のときを方舟の建造に疲れきって働いた。彼は死を免れたが、それは百度死ぬよりももっとわずらわしかった。すなわり、箱舟は十ヶ月(ママ)にわたって、かれにはあたかも墓穴のようなものであったが、そのほかに、この長い期間、獣たちの排泄物のなかに空気もかよわぬままに、ほとんど浸ったままで置かれたというほどつらいことがありえようか。」(綱要Ⅱ,10,10)と書いています。 カルヴァンの「死を…

  • 日常の変化

    20年間していた教団の理事者としての務めから解放されて、日常生活の大きな変化の一つは、毎日10通から20通を超えるメールが来なくなったことです。すべてが自分の担当に深くかかわるメールではないものの、一応、目を通してレスポンスをしなければならない場合が結構多いのです。ぽっかり穴が開いたようで寂しくは・・・全然ありません。ほっとしたというか、せいせいしました。 もう一つの変化は、毎月1回、時には2回、月曜の朝まだ暗い時に起きだして千歳空港に向かわねばならないということがなくなりました。午前11時15分に始まる理事会が終わるのは深夜ですから、事務所で一泊して帰宅は翌日の午後になりました。そして担当局…

  • 霞か霧か・・苫小牧

    夜に霧雨が降ったようで、今朝の苫小牧はしっとりしています。でも太陽は見えず、白い空。数十メートル先の病院の看板が霞でかすんでいます。 春になると、苫小牧はこういう感じの日が多くなり、それが7月まで続きます。だから日照時間が少なくて農業に適しません。苫小牧周辺は今も灌木が生えた原野が広がっています。今でこそ有数の港湾都市となっている苫小牧は、その昔は小さな漁村でした。 江戸時代の終わりに、ロシアの船が苫小牧の沖に頻々と出没するようになり、幕府は防衛のために八王子の千人同心と呼ばれる侍たちの指定100名をこの地に移住させたのだそうです。食料は現地で種を蒔いて収穫すればよい、ということで。しかし、想…

  • 入院・手術

    4月1日(月)に市立病院に入院し、翌日、副鼻腔炎の手術をして、昨日6日に退院して来ました。昨年6月にコロナにかかったあと、左耳がよく聞こえないという症状があって近所の耳鼻科に行ってレントゲンをとったところ、左の副鼻腔が真っ白であることが判明しました。その後、投薬治療を続けてきましたが、結局、鼻腔と副鼻腔をつなぐ穴が鼻茸とかいうのができて塞がっているので埒が明きません。そこで、教団理事会の務めが終わり、神学校がお休みになって一週間お休みをとれる時を待って、今回の手術となったわけです。副鼻腔炎の手術の場合、術後、丁寧に処置しておかなければ、再発してしまう可能性が高いので、まず一週間は入院というのが…

  • 岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気』ーアドラー心理学の意義と限界

    副鼻腔炎の手術で入院初日4月1日、この本を読んだ。アドラーの名は聞いたことはあったけれども、具体的にその内容を知ったのは今回が初めてである。『嫌われる勇気』という書名が強烈な印象を与える。開いてみて面白いのは、プラトンの対話篇のような感じで悩める青年と哲人との対話で話が展開していくことである。というのも、岸見一郎氏はギリシャ哲学の研究者でもあり、彼の見方からいうと、アドラーの心理学はギリシャ哲学の流れを汲んでいるものなので、このようなスタイルがふさわしいと考えたのだろう。実際、この対話篇は面白い。きっと名著として長く読まれて行くだろう。 さて、その内容であるが、三点に整理できるだろう。対話篇の…

  • 十字架と復活!

    魔除け? 「十字架って、何の道具なのかわかりますか?」と聞いたら、ある人は。「・・・魔除けですか?」と答えました。「それはドラキュラ映画の影響ですか。確かにドラキュラに十字架を近づけるとギャアとか言って逃げ回りますが・・ハズレです。」 十字架というと、首から下げるペンダントとしてシンプルで清楚なデザインが良いからでしょうか、定番のものとなっています。でも十字架は、古代ローマ帝国の時代に用いられた残忍な死刑の道具でした。今の日本で言えば絞首刑の縄、アメリカで言えば電気椅子、昔のフランスでいえばギロチンにあたるもの、それがもともとの十字架です。恐ろしく忌まわしいものです。しかし、その恐ろしく忌まわ…

  • 椅子

    冬の間運動不足になっていて、しかもヘイワースの椅子の腰当(ランバーサポート)が壊れていたので、自宅で書斎仕事を二三時間すると立ち上がるとき大変になりました。そこで、いい椅子ないかなあとジモティーで見たら、西方のお店にバウヒュッテがあることがわかったので、昨日、買って来ました。大坂先生風にいうと5野口半。ほかにもたくさんきれいな椅子がありましたが、座り心地はバウヒュッテが一番でしたから、エイッと決めました。ゲーミングチェアというのは、ながーく座りっぱなしで腰が痛くならないように工夫されています。わたしにはゲームの趣味はないのですが。 若い同労者によく勧めするのは、腰に良い椅子と目にやさしいパソコ…

  • 聖書信仰に生きる教団

    苫小牧福音教会が属する日本同盟基督教団は「聖書信仰を土台とし、宣教協力をするために、合議制を採する」ことを教団の三本柱としている。では「聖書信仰を土台とする」とはどういうことなのか。教団の信仰告白第一項には次のようにある。 旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、神の救いのご計画の全体を啓示し、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教える信仰と生活の唯一絶対の規範である。 聖書66巻が同盟基督教団にとって唯一絶対の規範である。このように告白しなければならないのは、同じくキリスト教を名乗っていても、唯一の権威を聖書66巻としない人々が存在するので、それ…

  • 教会の改革とは

    「改革された教会は常に改革され続けなければならない(羅semper reformanda ecclesia reformata)」という標語がある。ある人々は、現代の世の風潮に合わせることが教会の改革だと思い込んでいるようだが、大間違いである。「改革された教会は、常に、神のことばによって改革され続けなければならない(ecclesia reformata semper reformanda secundum verbum dei)」のである。 それはなにも教会は絶対正しいのだから、一切この世の考え方に耳を傾ける必要がないと言っているのではない。この世の文化と教会の違いが出て来たときには、安易にこ…

  • 多であること一であること

    父子聖霊の唯一の神が、多様にして一つの世界を創造したと信じているキリスト教会は、世が一斉に「統一性」を強調する時代には「多様性」の重要性を語らねばならないし、世をあげて「多様性」を強調する時代にあっては、「一つ」であることの重要性を語らなければならない。へそ曲がりというのでなく、世に流されずにぶれずに変わらない真理を語り続けよということ。そうでなければ、単なるミーハー、塩気をうしなった塩になってしまう。 ダイバーシティとか多様性を一日に何度も聞かされる時代にあって、私たちは変わらないもの、変えてはならないものを聖書で確認する必要がある。 「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たに…

  • 最後の教団理事会を終えて・・・「強固でなく、強靭な革袋を」

    昨日は私にとっては最後の教団理事会でした。20年間のご奉仕で、定年となりました。若い私が理事会に入ったのは、理事長が吉持牧師から赤江牧師に移った春でした。そのころ教団は地域教会の自律と、理事会の役割の境界線をめぐる難題を抱えてある出来事に関して直面していました。私も微力であっても問題解決にお役に立てないかと、話をうかがって回りましたが、なにも出来なかったなあという思いです。 しかし、この件がかたちの上にすぎませんが一応の区切りがついた掛川での総会のあと、赤江先生と坂本先生と温泉に入っていたとき、赤江先生が、「これほど教会観・教団観の違いがあると、これから前進して行くことはできない。ここは長年の…

  • 北海道聖書学院卒業式

    本日、北海道聖書学院で卒業式で、2名の本科生の卒業し、春からそれぞれ道内の教会に赴任することになります。お一人は女性で、かつて3年生の夏休み前に病を得て、7年7か月の闘病を経て、昨年春に復帰し、残りを1年間学び、卒論を書き上げての卒業でした。その入院生活は、神様から与えられた課外授業だったと受け止めて、「試みに遭ったことは私にとって幸いでした。私はそのことで、あなたの掟を学んだからです。」と結んでいました。 もうお一人は、学校教員だった男性で60歳を超えて入学後、ギリシャ語、ヘブル語でかなり苦労したこと、狭心症を発症したこと、ご家族のことなどもろもろの試練を経験し、これまで自分で計画し生きてき…

  • 整体師のことばと近代聖書学

    Youtuberをしている整体の先生が話していたのですが、ハワイ大学から「すぐに来い。死後間もない人体が手に入った」という知らせがあったので、そんなチャンスはめったにないので出かけて、その死後まもない人体を動かしつつ解剖するのを見て勉強することができたそうです。普通の大学医学部の勉強では、もう時間も経ち、動かすことができなくなった人体を解剖して行うそうなので、実際のからだの様々な部位の可動範囲とか、連動関係などは実は多くの整形外科の先生も見たことがないのだそうです。けれど、自分はこのような機会に恵まれて幸運だったのだと話していました。確かに動かない遺体を研究しても、生きたからだの仕組みは本当の…

  • 「教会史における教理」

    HBIの3学期は、「教会史における教理」というクラスと、「神を愛するための教理問答」のクラスを担当しました。 前者は普通、「教理史」と名乗るわけですが、そのネーミングだと絶対精神の自己展開みたいな観念的なイメージがあるので、もっと具体的な教会の2000年間の歴史に根差しつつ、初代教会から今日にいたる教理を説きたいと思って、「教会史における教理」としました。 神学生たちは、組織神学・カテキズムで学んできたことを、教会史の中で理解して、なるほどと胸に落ちることが多く、自分の所属する教会のルーツを知り、また、自分が遣わされていく歴史の中の教会という実践の場への心備えができたようです。

  • 聖書解釈の3側面 実例(その2)

    聖書解釈には、状況的、規範的、実存的の3側面に着目することが重要である。創世記1章において状況的という点は、執筆状況を取り上げたが、状況的面で常に重要なのは、文脈ということである。今回はその一例を紹介したい。聖書箇所はマルコ14:1,2の解釈である。文脈理解のために12:41から引用しておく。 41**,それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。**42**,そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。**43**,イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あ…

  • 聖書解釈の3側面 実例

    今日は北海道聖書学院での2023年度最後のカテキズムの授業だった。対象は信徒コースと聴講生たち3人である。時間配分が今一つうまく行かず、最後に1コマ余ったので、聖書的教理体系をカテキズムで学んだ者として、実際に聖書を読んで行くときに、それがどのように役立つのかということを創世記1章を用いてお話した。 聖書解釈にあたっては、状況的、規範的、実存的の3点が大事である。 まず創世記1章の創造記事が書かれた状況について。モーセがエジプト脱出を果たしたイスラエルの民を相手に神のことばを伝えているという状況である。イスラエルの民は、月、星、太陽、ナイル川、オオカミ、山犬、フンコロガシ、ワニなどありとあらゆ…

  • 「存じ上げません」?

    シリーズでもありませんが、気になる妙な日本語。安倍派の塩谷さんは、裏金問題の件で政治倫理審査会に引っ張り出されて、「(裏金問題の経緯については)存じ上げません」と何度も言って、新聞の見出しになっていましたが、なんか変だな、気持ち悪いなあと感じました。調べてみたら、「存じ上げる」というのは知る対象が人である場合の表現です。誰それに敬意を表すための謙譲表現です。ところが「裏金問題の経緯」は物事なので、「存じ上げません」ではなく、「存じません」が正しい日本語です。

  • 小畑進先生の説教チャート

    ameblo.jp リンク先をごらんください。先日投稿したものではありません。

  • 説教に向けての聖書解釈の3つの側面

    表題の文章を、「神学ノート」に掲載しておいたので、ご一読ください。 神学校卒業後、ずっと考えて来たことです。 リンク先 ameblo.jp

  • 初めてのMRI

    今日の午前中は二軒、訪問。お年を召したご夫妻は前回うかがったときよりも、ずいぶん元気になって来られたようすで感謝でした。 午後は、生まれて初めて市立病院にMRI検査を受けてきました。副鼻腔炎手術の準備です。銀行の金庫の扉みたいなのの奥に、巨大な卵のような、ドーナツのような白い機械があって、寝台に寝かされて頭を固定され、ドーナツの穴に頭をつっこむというものでした。検査中は、ガチャガチャうるさくて、トムとジェリーのアニメの映像だけが流れていましたが、ちょっと睡眠不足だったので途中で寝てしまいました。全体で20分ほどの検査でした。少し面白い経験でした。

  • ライトの聖書解釈法は本質的に間違っている

    1 ライトの新約聖書の読み方 日本長老教会によるN.T.ライトに関するレポートで、ライトの聖書理解の手順が示されている(37ページ)。ライトは、聖書のある概念を理解するには、まず第二神殿期のユダヤ教文献を読むことが必須であるとする。 ①まず第二神殿期のユダヤ教文献においてそれがどのように教えられているのかを調べ、②次にユダヤ教文献の概念や理解が使徒たちの理解と同じてあると仮定し、これを新約聖書の解釈に適用する。③そして最後に旧約聖書を開き、第二神殿期のユダヤ教文献および新約聖書とのつながりを確認する。 一見もっともらしく見えるこの新約聖書の読み方は、ほんとうに正しいのだろうか? 2 ある哲学教…

  • 駐車場の雪

    おととい駐車場の圧雪を不十分ながら、ざっとすませてお見舞いに出かけたのですが、そのあとまた吹雪いてきてしまって、土曜日にはどうだろうと思って教会にやってくるとビックリ。全面キレイに圧雪されて、縁のほうも、きれいに雪が寄せられているではありませんか。 「あーイエス様がしてくださった。」と感謝しました。でも。どうもいつものイエス様ではないようで、不思議だなあと感じておりましたら、今朝、そのイエス様とはS兄だと判明しました。こんなふうに助けられて、なんとかやっております。

  • お見舞い

    昨日は終日北海道聖書学院にいて、帰宅したのは8時を回っていた。今朝、澄川にある病院に、Y姉のお見舞いにうかがうことを思いつつ目がさめて、カーテンを引いてみたら、雪が積もっている。食後、妻といつものように為政者たちのこと、教会の兄弟姉妹のこと、家族のこと、その他もろもろのためにお祈りをして、会堂に雪かきに出かけると、T先生がすでに歩道の雪はどけてくださっていた。感謝。 そのあと、Y姉のお見舞いにうかがった。吹雪いている中を走って10時に到着すると、空は晴れ上がり、Y姉の夫君と娘さんが待合にすでにいらっしゃる。Y姉の枕頭でお話をうかがって私が想像していたよりもお元気そうで、ご主人を見て、「ちゃんと…

  • 遅塚忠躬『フランス革命―歴史における劇薬』

    遅塚忠躬『フランス革命ー歴史における劇薬』という本を読んだ。何十年ぶりかに読んでみると、よく書けているなあという感想。 「劇薬」というのは、効能がある代わり恐るべき副作用があるという意味である。フランス革命は「自由・博愛・平等」というスローガンはまことに理想主義的であるが、この革命の中で内戦も起こり、自国民を100万人以上も死に至らせた。 <貴族・ブルジョア・民衆と農民>という社会構造があって、ブルジョアと民衆・農民はともに「平民」に属している。ブルジョアは資本主義の邪魔になる封建的な諸制度をなくして自由市場がほしい。民衆・農民はとにかくパンが欲しい平等が欲しい。 まずブルジョアが中心になって…

  • 沢山の錠剤は丸飲みにする

    長年、幸いなことに薬と縁のない生活をしてきましたが、昨年春、ふと思い立ってエビオス錠という古典的な整腸剤を飲み始めました。製造元はアサヒビールで、中身はビール酵母です。これを一日三回9錠ずつ飲みます。これは薬というよりサプリみたいなものです。さらに、7月だったかコロナにかかったあと、鼻の調子が悪くなり副鼻腔炎と診断されてしまいました。それで薬がさらに3~4粒増えました。 それを一個ずつ飲むと結構飲みにくいものです。たくさんの薬を飲む方法は、一個ずつ飲むのでなく、いっぺんに全部手のひらに乗せて、口に入れて水で流し込むと簡単に飲めてしまうことを発見しました。慣れている人には常識でしょうが、たくさん…

  • 同性間性交について聖書はどう教えているか

    過去の記事に再加筆したので、ここに再々掲載する。 1 神は公正を求める LGBTQを容認する神学は、いわゆる「解放の神学」の系譜の中に現れた。「解放の神学」の発端は米国資本によって収奪されていた中南米の貧困層の解放運動のため戦った神父たちの主張である。「解放の神学」が国家体制に与(くみ)してきた伝統的神学が見落として来た聖書の視点を新たに提供したことは功績とされるべきである。 この「解放の神学」がさまざまな少数者・弱者の解放に適用されることになり、中南米の貧困層のみならず、米国社会で差別されてきた黒人、日本における被差別部落出身者、身体障碍者、女性に適用されてきた。そして、今日LGBTQに適用…

  • 東京の雪嵐

    月に一度、苫小牧駅朝6時27分に乗って、東京渋谷の幡谷事務所で会議のために上京するのですが、今日は午後雪が降り始めて、夕刻8時に会議を終えてもまだ降っていました。出てみると吹雪です。 会議終えて 外に出たら ブリザード

  • 寝耳に雪

    「雪が積もっているわよ。雪かきに行かなくちゃ。」 昨夜の天気予報では「晴れ」だったのに、朝起きたら、雪が15センチほど積もっていました。今年は苫小牧、雪がやや多いようです。

  • 健康診断と卵焼き

    年に一度の健康診断に行ってきました。信州小海で伝道していた40歳のときから年に一度の総合検診は欠かさないようにしています。もう25年目ということになります。小海では町のセット検診ということで、佐久総合病院の医師が来てくださって検診を受けました。苫小牧に転じてからは、王子総合病院というところで受けています。「王子」は王子製紙の王子です。苫小牧という町は、王子製紙の城下町と言われる街なのです。 検診を受けていつも思うのは、バリウムを呑んでの胃の検診は難関だなあ、ということです。バリウムを呑んで台に寝かさると、サンダーバード2号発進みたいに台がウィーンと仰向けになって、「はい右向いて、息止めて」「は…

  • 苫小牧は午後雪だった

    苫小牧は午後雪だった。「長崎は今日も雨だった」と聞きたくなった。若き日の前川清さんの歌唱。長崎は終戦後まもないころ、私の学生だった父と母が出会った町なんです。 www.youtube.com

  • 氷都

    札幌は雪の都ですが、苫小牧は雪は少ないけれど氷の都です。夜間の最低気温は札幌より3~5度低いのですが、日中は積もった雪が溶け出す程度まで上がるので、車道も歩道も凍り付いてしまいます。でも、このスパイク長靴を履いていれば大丈夫。ああスパイクがすり減ってます。

  • 「姑息」

    ここ数年という感じがするのだが、「姑息な」ということばを、「卑怯な」と同義語のようにして用いている文章をしばしば目にする。「姑息な」というのは「間に合わせの」「付け焼刃の」という意味であって、「卑怯な」という意味ではない。でも、十人中八人が「姑息な」を「卑怯な」というふうに誤用してくると、もはや誤用といえなくなってしまうかもしれない。 ちょっとググったら、「割愛」と「あららげる」と並べて、「姑息」=「卑怯」が浸透していることが書かれていました。私も「あららげる」とは言わないですねえ。 www.nikkei.com

  • 電話の穴とLANの穴

    昨日、聾唖の方との通信のために、自宅にもFAX付き電話を導入しました。(会堂にはあるのですが。)ところが、電話がかからない。「電話回線をつないでください」というのです。ああ、困った、断線しているのかなあ?と思ったら、モデムのLANの穴に差し込んでいました。電話の穴とLANの穴は違うんですねえ。知らんかった。ちゃんとカチッといって入るし。

  • 苫小牧も今朝はどっさり雪が積もりましたので、まず駐車場脱出のための雪かき。それから、二人で会堂に出かけて、圧雪と雪かきで、やっとスタートです。とはいえ、20cmから25cmくらいですから、札幌の半分、小樽の三分の一程度ですが、それなりにしんどい。いつも思ったり言ったりするのは、「神様が雪を白く、美しくしてくださってよかった。」ということです。もし雪が黒かったり、茶色だったら、雪国の人たちには慰めがなかったでしょう。 今日は朝8時過ぎからオンラインでHBI説教演習があります。 「罪は緋のごと赤くあるとも 罪は緋のごと赤くあるとも 恵みの神の御力は 雪のごとくに 雪のごとくに 白くしたまわん 白く…

  • ニコデモに語られた福音

    今朝は寒波が去ったのか、昨日よりも10度高く、正午で+5℃です。 主の日の説教の準備ができました。ヨハネ伝3章、ニコデモとの問答の箇所です。かつて学校教員で今はリタイアした方が、クリスマスの集会に初めて来られ、先の主の日も続けて出席なさっています。老ニコデモへの主のことばが、その心に届くようにと祈りつつ、聖霊に頼みながら務めに臨みたいと思います。

  • ひめゆり平和記念資料館とアブチラガマ

    私は沖縄を訪れるのは2回目ですが、1回目はホテルと会議をする教会堂を往復しただけでしたが、今回の聖会のプログラムはゆったりしていて、時間的余裕がありました。そこで林先生にお願いして、二日目の午前中、ひめゆり平和祈念資料館とアブチラガマに連れて行ってもらいました。 まず印象的だったのは、資料館にはいった玄関ホールに大きく拡大されたひめゆり隊の生徒たちの屈託のない笑顔と彼女たちに取り囲まれた教師の集合写真でした。 こんな娘さんたちが、動員されて暗くて不潔で危険なガマの中の野戦病院に配属されて、四六時中呻き叫んでいる傷病兵たちのために、鉄砲玉の雨が降る中危険を冒して食料を運び、兵士たちのケガに取りつ…

  • 「いまだに」の誤用

    ときどき、「今だに・・・・」という文字遣いを見ることがある。「いまだに」を漢字で書くならば「未だに」である。 また、「未」という文字は漢文で再読文字で、「いまだ・・・ず(打消し)」と読むことになっている。つまり、「まだ・・・ではない」という意味である。「未来」は「いまだ来らず」であるし、「未購入」は「いまだ購入せず」であり、「未発達」は「いまだ発達せず」である。 これらの例からわかるように、「いまだ」には打消しが呼応する。ところが、最近は「彼は90歳なのにいまだに頭脳明晰です」というふうに、打消しが呼応していない文を見かけることが多い。この場合、正しくは「彼は90歳なのに今も頭脳明晰です」とい…

  • あずかる

    「あずかる」ということばがある。何か物や金銭を託されることを意味する場合は、「預る」という字を用いる。だが、かかわりを持つという意味の場合は「与る」という文字を用いる。「関与する」という意味である。だが、最近しばしば関りを持つという意味であるのに、「預る」という漢字を用いている人がいるので、ちょっと気になってメモをしておく。

  • やっぱりタコとイカは賢かった

    二十年ほど前、タコがいかに賢いかということを知って面白いなあと思っていました。タコの目の前に、ネジ蓋のついた瓶にいれた好物のカニを入れて見せて、蓋をあけて見せると、タコはすぐに学習して自分であけるのです。また、水槽を並べて片方にタコを飼育していて、片方にカニを飼育していると、ある日、カニがいなくなってしまっている。タコがこっそり自分の水槽を出て隣の水槽に入って、カニを食べて何食わぬ顔をしていたというわけです。 最近の研究によって、タコとイカの知性が凄いことがわかったというのです。イカは明らかに社会性を持っていることとか、学習機能を持て散るということなど。神様は面白いですねえ。 www.yout…

  • あいういう

    沖縄聖会での三回のアブラハムの生涯に関する説教奉仕が終わりました。また、今日の午前中は読谷聖書教会でのご奉仕がありました。かつて米軍将兵の家として造られたコンクリート住宅を買い取って会堂として用いている教会です。 今回は時間的余裕があり、土曜日はひめゆり平和祈念資料館とガマ、主の日午後はなんとかビーチに連れて行ってくださいました。車の中で色々なことを教わりましたが、その一つは沖縄方言の音韻です。それは「あいうえお」が「あいういう」と変化していることです。 こがね→くがにいのち→ぬちおきなわ→うちなん (「き」が「ち」になることもあります) うちなんちゅ→沖縄の人 うみんちゅ→海の人(漁師) 有…

  • 沖縄新年聖会で、アブラハムの生涯

    昨晩から沖縄に聖会の御用でうかがっています。H先生が出迎えてくださって、沖縄そば屋さんで腹ごしらえをしました。ソーキ(豚バラ)、三枚肉、軟骨の入ったミックスで、平麺というのを食べました。軟骨がトロトロで、これを食べていたらウチナンチュの年寄は膝や肩がギシギシいわないだろうなと思いました。スープが出汁が効いていて、さっぱりしたとてもおいしいものでした。午前11時過ぎに千歳を立って、4時間飛行機に乗っていて昼ご飯を食べ損ねていたので、さらにおいしく感じました。ちなみに、「ウチナ」は「沖縄」という意味、「チュ」は「人」という意味だと教わりました。 そのあと、会場の沖縄キリスト教学院にまいりまして、夕…

  • おいしいです

    むかしから気になっている現代日本語の表現は、「おいしいです」とか「うれしいです」という表現である。つまり、「形容詞+です」という表現。「きれいです」とか「ほんとうです」には違和感はない。それ自体で形容動詞であるからだ。「です」という助動詞の前には体言(名詞)がないと以後ごちが悪いのである。 だから、正しくは準体言助詞「の」をつけて、「おいしいのです」「うれしいのです」と言えば落ち着くわけである。だが、でも「このお米はおいしいのです」「私はあなたの笑顔がうれしいのです」というのも、なんだか表現として強すぎるので、しかたなく「おいしいです」「うれしいです」と言うのであろう。

  • 「置換神学」に関して

    「置換神学」という用語を数年前から聞きます。たいていは非難のニュアンスで用いられることばです。それは、伝統的なキリスト教神学の中に、神はイエスをメシアとして受け入れなかったイスラエル民族を棄て、新約の教会を「真のイスラエル」として置き換えたと教える人々がいたことに対してです。さらに、「置換神学」を背景として反ユダヤ主義が生じて、ユダヤ人を迫害してきたとも非難されます。また、「置換神学」を非難する人々は多くの場合、1948年にイスラエル共和国が成立したことは聖書の預言の成就であると主張します。つまり、この出来事はイスラエルの民が今もなお神の選民であることのあかしであると言いたいわけでしょう。 で…

  • 「与えた」でなく「贈った」「差し上げた」

    アブラムがメルキゼデクから祝福を受けたとき、「すべての物の十分の一を彼に与えた」(創世記14:20)と新改訳2017は訳している。しかし、「与えた」というのでは、アブラハムがメルキゼデクより格上になってしまう。祝福を与える側は、受ける側よりも格上である(へブル7:7)。だから、ヘブル語ではナーターンは英語ではgiveで同じなのだろうが、日本語としては、ここは「与えた」ではなく、「贈った」あるいは「差し上げた」と訳すべきだろう。 このアブラムに葡萄酒とパンを持参して、祝福を与えたサレムの王メルキゼデク(義の王)という謎めいた人物は、受肉以前のロゴスではないかと言われていて、私もそう思っている。へ…

  • 能登半島で大きな地震

    元日午後四時過ぎに起きた、能登半島を震源とする大きな地震のニュース。夜が明けてようやく地震の全容があきらかになりつつある。教団の緊急災害掲示板には、北陸、飛騨、新潟方面の諸教会のようすが投稿されるようになり、少なくとも同盟基督教団に属する諸教会では大きな被害は出ていない模様である。とはいえ、その信徒一人一人のようすはまだわからないし、他団体の諸教会の被災のようすは伺い知ることができない。 神学生時代の卒業間近のころ、友人の山口陽一君と自主修学旅行として、能登半島を訪ねたことがある。その時、半島の先端の珠洲の教会を訪問した。インマヌエル綜合伝道団の教会で、年配のご婦人と三十代半ばほどのご婦人が仕…

  • 同時代のユダヤ人がイエスを誤解したのと同じ誤読

    イエスの同時代のユダヤ人たちは、ローマ帝国支配下にある自分たちが民族・国家として神の懲罰の下にあるという意識を持ち、そこからの救いを求めていた(ルカ2:25,ヨハネ6:15、使徒1:6)。もしイスラエルが主の契約に不忠実ならば、神は異教徒の外国によってイスラエルを懲らしめさせると警告されていたからである(申命記28:49~)。 ところが洗礼者ヨハネは、アブラハムの子孫であることにあぐらをかくユダヤ人たちに対して、神は石ころからでもアブラハムの子孫をつくることがおできになる。肝心なことは一人一人の悔い改めだと警告した(ルカ3:7-9)。また主イエスも、王であるご自分が来たので神の王国が近づいたと…

  • 謹賀新年

    初春のお慶びを申し上げます。昨年のご厚情を感謝申し上げます。 昨年、私どもが仕える苫小牧福音教会では、十年、二十年の求道の後に洗礼を受けた方たちが加えられました。また秋には、二十年遠ざかっていたある姉妹が、余命宣告を受けたときポストに入っていた「苫小牧通信」を読んで、主のもとに帰って来られました。3年前から数名で苫小牧市全戸を歩いて「通信」を配布した甲斐がありました。そして、一つクリスチャンホームが誕生しました。また、65歳の私が青年かと思えなくもない教会ですが、ここ三年ほど前から青年たちも楽しそうに活動するようになっています。 修治は、『私は山に向かって目を上げる』という信州開拓伝道の記録を…

  • 初春のお慶びを申し上げます。昨年のご厚情を感謝申し上げます。 昨年、私どもが仕える苫小牧福音教会では、長年の求道の後に洗礼を受けた方たちが加えられました。また秋には、長年遠ざかっていたけれど、余命宣告を受けたときポストに入っていた「苫小牧通信」を読んで、帰って来られた姉妹がいます。3年前から数名で苫小牧市全戸を歩いて「通信」を配布した甲斐がありました。高齢者の多い教会ですが、このところ青年たちも楽しそうに活動するようになっています。 修治は、『私は山に向かって目を上げる』という信州開拓伝道の記録本を出せたことは、主のご摂理の下で与えられた出会い、試練、恵みを数え、与えられた使命を確認するよい機…

  • 信仰、愛、希望

    四十年ほど前の夏、最初に友人からもらって読んだ信仰書の扉に、「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中でもっともすぐれているのは愛です。」(1コリント13:13)と書かれていました。そのせいか、ずっと意識にある三つ一組みです。使徒パウロは、信仰、愛、希望の三つを手紙のあちこちで書いていますので、列挙してみます。 1テサロニケ1:3私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。 1テサロニケ5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、…

  • 説教準備チャート

    説教準備のために心に留めていることをここに載せておきます。 一番上は、神学校時代小畑進先生によるチャートです。私は今もときどきこのチャートを眺めます。 二番目は、ボンヘッファー『説教と牧会』に書かれていたものの書き写しです。これも時々眺めます。 三番目は、ルターのいう『説教者に必要な3つのこと」。彼の本を読んでいて非常に印象的なのでメモしました。 四番目は、清水武夫先生から教わった「聖書解釈、3つのバランス」です。 いずれにせよ、説教というのは、罪と弱さのある人間が、記録された神のことばである聖書から御声を聴き取り、それをいのちある神のことばとして伝えるという、ほとんど不可能なことをしなければ…

  • 説教者とギリシャ語本文

    神学校の学びにおいて、聖書語学の負担はとても大きい。大きいけれど、卒業後それを活用している人は必ずしも多くはないらしい。30年ほど前は現代のようにAIソフトは存在していなかったから、なおのことである。語学の達人でもない凡人が、説教本文のすべての語を分析していたら、時間がかかりすぎる。そればかりやっていたら一週間ベッタリ書斎に引きこもって、「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」とあるのに、足を使って伝道も牧会訪問もできなくなってしまう。学者ならば、それでも良いのだが、私は伝道者・牧会者としての召しを受けた者である。 語学の凡人として、時間を割いて学んだ語学を使わないのはもったいな…

  • 十字架のことば

    教理史を学べば学ぶほど、悪魔は、昔から今日まで人間が己の罪を認識することと、キリストがその罪に対する神の聖なる御怒りを宥めるためにゴルゴタの十字架にかかってくださったことを、なんとしても覆い隠したいと願っているのだとわかる。これは、ペラギウスー(アベラルドゥス)ーソッツィーニーシュライエルマッハー以来、今日に至る自由主義神学の基調である。彼らは、神はお優しいお方であるから、罪に対して怒ったり代償を求めるようなことはなさらない。ただ人間が神に対して心を閉ざしているのを開いて、神の愛を受け入れれ、キリストの愛に倣って生きて行くならそれが贖罪となるというのである。彼らの人間観は楽観的人間観であり、彼…

  • イブ礼拝、youtube配信できませんでした。

    苫小牧福音教会のクリスマスイブ礼拝は、24日夕方7時からでしたが、回線が混んでいるせいかyoutubeに接続することができませんでした。24日が日曜日に重なったせいでしょうか。録画はしましたので、明日25日、アップにチャレンジするつもりです。

  • 『キリストの愛、我に迫れり』誕生秘話を読んで

    「礼拝音楽研究」の58号、59号に掲載された、作詞山口昇先生、作曲天田繋『キリストの愛、我に迫れり』誕生秘話が載っている写しを神学校でもらって読みました。作詞者、作曲者ともに、この讃美歌は神がくださった特別なものという証であり、読んでなるほど、本当にそうだろうなあと感銘を受けました。 ぼくはいつも思うのです、詩や曲のなかで本当の名作というものは、作るものではなく発見するものだと。それは神の作品の発見なのだと。だからそれを聞いた者は、新曲を聞いたというのでなく、遠くの記憶から思い出すような感覚をいだくのだ、と。「キリストの愛、我に迫れり」は発見されたものだと感じます。

  • 章立てをはずして聖書を読むこと

    聖書に付けられた章と節は後代に付けられたものである。聖書の創世記第1章からして、章の立て方をまちがえていて、1章の創造記事は2章3節まで続いている。だから、章を外して聖書を読んでみることである。章立てが間違っているわけではなくても、もともとそこには区切りがなかったことを意識すると、見えて来るメッセージがある。 一つの例は、ローマ書12章17節から13章4節である。章を外してみるとつながりが見えてくる。 17,だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。18,自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。19,愛する者たち、自分で復讐…

  • 聖書を原語で読む意味って・・・

    プロテスタントの神学校は、宗教改革の伝統に則って、聖書の原語、原典釈義を大切にする。16世紀の改革者たちはローマ教会のウルガタに基づいて論じる学者たちに対して、ギリシャ語、ヘブライ語の聖書を引用して論じたそうである。神が、これらの言語をもちいて聖書を霊感なさったのであるから、その言語に基づいて釈義をすることが有益なことはいうまでもない。 しかし、ギリシャ語やヘブル語ができれば、イエスを知り神様を知ることができる・・・というわけでは必ずしもないのが面白いところである。そもそもイエス様の話したことばはギリシャ語ではなかった。イエス様が何語を日常話されたかについては学者によって意見が分かれるようだが…

  • 聖書解釈:当該本文を文脈の中で繰り返し読むこと

    秋から、神学生たちの説教釈義とその釈義に基づく説教を聴いて批評するつとめについている。神学生たちは、指定された箇所のほんの数節のギリシャ語本文を、辞書と文法書と首っ引きで分析するのであるが、その結果が、あまり芳しくない。細かく調べれば調べるほど、当該本文所が文脈の中で意味していることが見えなくなってしまう傾向がある。 たとえばワードスタディについていえば、ある語について辞書を調べると、その語は聖書の中で何回用いられており、いくつかの意味を持っていることがわかる。さらに大きな辞書には、聖書周辺の歴史の中で担ってきた複数の意味が提示されている。そういうにわか知識が頭に入ってくると、連想ゲーム状態に…

  • 哲学書、文学書であっても

    哲学書を読み始めようとするとき、岩波文庫に入っている哲学書をちらちら見てもさっぱりわからなかったので、哲学辞典が必要だと感じた。そして指導くださる飯塚勝久先生に「哲学辞典を買わないといけないでしょうか。」とおたずねしたところ、「いや、哲学辞典には通り一遍のことしか書かれていないものです。哲学者というのは、自分の思想を表すために、その用語に独特の意味を込めるものなのです。ですから、哲学辞典は要らない。自分の脳をしぼって、その哲学者の書物を繰り返し読んでいくことによって、その思想を読み取り、哲学者がその用語に託した意味を理解することが大事です。」とおっしゃった。 自分の置かれた時代、それ以前の時代…

  • スケートの町

    今朝7時でマイナス5.2℃。クリスマスカードを出しにポストへの道がスケートリンクの上に薄い雪化粧の状態。すべりにくい靴を履いていたんですが、3回すべって転びそうになりました。おもての広い道は大丈夫なんですが、裏道は車道も歩道もスケートリンクです。・・・もうアイゼン履くしかないですね。スケートの町、苫小牧。

  • 聖書解釈における同時代文書の扱い・・・類似と相違

    N.T.ライトは、新約聖書とほぼ同時代のユダヤ教文献から、1.イエスの時代のユダヤ人たちが「罪」として意識したことは、個人としての罪ではなく、神がイスラエルの民を背信のゆえにバビロン捕囚に遭わせ、その後も民族の主権は回復していないことであったと主張する。2.したがって、その時代にユダヤ教の教師であったパウロが書簡の中でいう「罪」とは上記の意味の神に対する民族的罪であるとし、義認とはイスラエルを、神の契約に対する真実のゆえに、その民として認めてくださることを意味すると主張する。 福音書、使徒の働きに登場するユダヤ人たちが、ローマ帝国の支配下に置かれている自分たちは神の懲罰の下に置かれているのだと…

  • 子どもクリスマス会

    子どもクリスマス会が終わりました。楽しかった。子どもも大人も大興奮、いやどっちかというと大人が興奮してたかも。子どもの頃、こどもクリスマス会に来たというお母さんも、夫、子連れて来られました。H兄はゲームを考え出す天才です。お話は私の担当でした。若いころ、頭がよくて、スポーツ万能で、芸術的才能もあったけれど、一つ、わがままという欠点にあったヘロデ大王。そこにやってきた新しい王のお話。

  • 幼稚園の担任の先生から電話

    千鳥幼稚園時代の担任のO先生からひさしぶりのおでんわがありました。キリスト教会付属の幼稚園だけれど、卒園生で牧師になったのはしゅうちゃんだけなので、貴重なのだそうです。電話のなかで、「幼稚園のクリスマス会で、『幸福の王子』の劇をしたことがありましたよ。よく覚えているんです。」とお話しました。 以前このブログで書いたことがありますが、再述します。ぼくは長年、なぜ千鳥幼稚園では聖劇でなく幸福の王子の劇をしたんだろうと思っていました。でも、数年前苫小牧の教会堂にウィークデーに遊びに来る子供たちに、ある日『幸福の王子』の紙芝居をしているときに、突然、その意味がわかりました。あ、王子はイエス様なのだ、と…

  • 神様抜きで納得したいという衝動

    主イエスが水の上を歩いてきたのはガリラヤ湖の浅瀬を歩いてきたのを弟子たちが見間違えたのだとか、イエスの復活というのは、弟子たちの心の中にあの優しく力強いイエス様がよみがえったことを意味しているのだ、などという人々がいる。このように、奇跡を合理的に説明したがる人々はなぜ合理的説明を聞いたら安心するのだろうか。それは、そういう人々がもっている根本的な世界観が「世界は閉じた系であって、およそ世界の中に起こることがらはすべて、世界の中に原因があって、世界の中で説明できる」というものだからである。 このような世界観は18世紀の啓蒙主義思想の時代に生じて来た。啓蒙思想家は神は世界を創造したけれども、創造し…

  • 代償的贖罪を教える新約聖書箇所いくつか

    16世紀の自由思想家ソッツィーニ、そして19世紀のシュライエルマッハ―以来今日に至るまで自由主義神学に立つ人々は、キリストが罪ある人間の身代わりとなって十字架にかかってくださったことを受け入れない。彼らは人間の本性は善だと考えるので、キリストが人間の罪の代価を支払う必要はなかったと考えるからである。NPPのE.P.サンダースも著書『パウロ』で同様の主張をしている。 E.P.サンダースの「義認」解釈 水草牧師の神学ノート 自分には罪はないのだから神に赦される必要もないと思うならば、むしろソッツィーニのように潔く自由思想家を名乗ればよいものを、「最新の研究によれば・・・代償的贖罪など聖書は教え…

  • 贖罪論の略史

    贖罪論に関して、<古代は神が悪魔に御子を身代として渡したという「古典説・劇的説」が行われた。中世にアンセルムスが贖罪は神の満足のために行われたとし、宗教改革者はそれを聖書的用語をもって説明した(満足説~代償的贖罪説)。中世にあってアンセルムスに反発したアベラールはキリストの十字架に現れた愛に感動した者が神に忠実に生きるようになったその生き方が贖いとなるとする道徳的感化・主観説を唱えた。>という説明がなされるのをよく見る。プロテスタント教会で広く教えられる代償的贖罪説は500年ほどの歴史しかない、というのである。ほんとうだろうか?嘘である。 古代教父たちは、代償的贖罪とともに悪魔からの解放を説い…

  • 教義体系の三類型

    A.A.ホッジは、罪観は神学体系のアルキメデス点であると指摘し、罪認識の深浅によって、三つのタイプの神学体系が形成されてきたと指摘している。罪観が徹底していれば恩寵救済主義となり、原罪を否定すれば自力救済説となり、罪観が中途半端であれば神人協力説となる。罪観は堕落後の自由意志の状態がどうであるかという議論になる。 恩寵救済主義<罪観は全的堕落―キリストは救い主―代償的贖罪説> パウロ-アウグスティヌス-ルター・カルヴァン 自力救済主義<性善説-キリストは模範者―道徳的感化説> ペラギウス-アベラールーソッツィーニ―近代自由主義神学 (ただしアベラールは代償的贖罪を否定したわけではない) 神人協…

  • 牧師たち、高丘の展望台、科学センターへ

    今日は苫小牧の教会堂を会場に、北海道宣教区の教会の伝道者と奥さんたちと一人の女の子があつまって交わりの時を持ちました。午前中のみことばの学び、お弁当、おいしいケーキのあと、まず苫小牧の展望台に出かけました。ここからは苫小牧全体が展望できます。西に樽前山、王子製紙の煙突、南は港に浮かぶ船、東に向かって定規で引いたようにまっすぐに伸びる道路、そして、北は地平線まで続く森です。 そのあと、ソ連時代の宇宙ステーション(本物)ミールが展示されている科学センターに出かけました。ミールというのはロシア語で「平和」という意味なのだそうです。二機同じものを制作して、もし一機打ち上げがうまくいかなかった場合のスペ…

  • 聖書そのものを読むこと

    神様は、聖書各書が書かれた同時代の言語・文化を器として、これにメッセージを載せて啓示をお与えになりますから、その同時代の言語・文化について理解を深めることは釈義をする上で有用である場合があることは、当然でしょう。しかし、では当時の言語や文化に通じていたら、正しく聖書が読めるのか、わかるのかというと、そうでもないのが不思議です。イエス様の同時代の多くのユダヤ人たちがイエス様を理解せず十字架にかけ、イエス様を宣べ伝えるパウロをユダヤ教の人たちは理解せず迫害してしまいました。イエス様もパウロも、同時代の文化から生じたことばではなく、上から与えられた啓示を語り、時代文化の言うことと異なっていることを教…

  • 御子が「神のかたち」であることと新改訳2017の脚注

    文語訳 創世記1:26,27 1:26神言給けるは我儕に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍ふ所の諸の昆蟲を治めんと1:27神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり 以下の引用はいずれも新改訳2017から(アンダーラインは筆者による) コロサイ1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。 ローマ8:29 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。 2コリント4:4 彼らの場合は…

  • メシア像のズレ

    イエスの同時代人がイスラエル民族が贖われることを待望していたことは福音書に書かれている事実です。彼らはローマ帝国の圧制からの解放を贖いと考えていました。イエスに追随した多くの人々は、イエスをイスラエル政治的贖いのために来られた王だと信じ期待していたことは福音書に記された事実です。 しかし、主イエスはこうした彼らの要求を拒絶しました。かえってイエスは出会う一人一人に、へりくだって罪を悔い改めること、イエスを神の御子と信じ、神に赦されること、神の子とされて永遠のいのちを生きることを説いて回られました。イエスが与えたのはイスラエルの国家的贖いではありませんでした。イエスは王は王でも茨の冠を押し付けら…

  • ユダヤ教文書の色眼鏡

    N.T.ライトは、2世紀に成立したユダヤ教の第4マカバイ書とそれに関する4世紀のユダヤ教学者のコメントを手掛かりとして、「罪」や「義認」はバビロン捕囚がらみなのだという着想を得ました。そして、その2世紀のユダヤ教文書という色眼鏡をかけて1世紀のパウロ文書を読むべきだと主張します。これは時代錯誤だ、と数日前に書きました。もし第4マカバイ書が紀元前1世紀に書かれていて、イエスやパウロが生きた紀元後1世紀前半だったというならば、まだ説得力がありましょうが、順序が逆ですから。もし影響をいうならば、イエスやパウロたちの宣教が、第4マカバイ書に影響を与えたと考えるのが筋というものです。 「いやいや因果関係…

  • ユダヤ教文書の色眼鏡

    N.T.ライトは、2世紀に成立したユダヤ教の第4マカバイ書とそれに関する4世紀のユダヤ教学者のコメントを手掛かりとして、「罪」や「義認」はバビロン捕囚がらみなのだという発想を得ました。そして、その2世紀のユダヤ教文書という色眼鏡をかけて1世紀のパウロ文書を読むべきだと主張します。これは時代錯誤です。もし第4マカバイ書が紀元前1世紀に書かれていて、イエスやパウロが生きた紀元後1世紀前半だったというならば、まだ少しは説得力はありますが、順序が逆ですから。もし影響をいうならば、イエスやパウロたちの宣教が、第4マカバイ書に影響を与えたと考えるのが筋というものです。 「いやいや因果関係を言おうとしている…

  • N.T.ライトに惹かれる人々の傾向

    昨日のHBI講師教師研修会の最後の時間は、前夜に4人ずつテーブルに分かれそこから出た質問に対する答えの時でした。さまざまな質問がある中で、「日本人はなぜライトのような説に惹かれるのでしょう。」というものがありました。私は日本人キリスト者がみなライトに惹かれるとは到底思えません。まず、ライトの本は分かりやすく書かれていないので何を言っているかわからないからです。ですが、神学教育をある程度受けていれば読めないわけではないので、我慢強く読める人々の中で、ライトに惹かれる人たちにはある傾向があると思っています。ライトに惹かれるのには2つの理由があると思います。 一つの理由は、幼いころから親たちの強烈な…

  • 類似よりもむしろ相違点が大事ーブルトマン、NPP、ウォルトン

    聖書の見方に関する大きな枠の話を少し書いてみます。 その昔はブルトマンがギリシャ思想の色眼鏡をかけてヨハネ文書を読んで、今はNPPがユダヤ教の色眼鏡をかけてパウロ書簡を読んでいる。そして、ユダヤ教の言葉とパウロ書簡の中の言葉の類似を見つけると、ユダヤ教の言葉の意味でパウロ書簡を解釈すべきだと主張する。ブルトマンにせよ、NPPにせよ、どうしてこういう方法をとるのか?もとをただせば、「聖書は当時の文化の中から生じたものであるという思い込み」があるからである。つまり、世界は閉じた系であるという自然主義を背景にした実証主義にはめこまれているからである。そして実証主義こそが科学的なのだと、洗脳されてしま…

  • N.T.ライト「別の宗教」

    このたびHBIでの教師・講師研修会では聖書宣教会の三浦譲先生をお招きし、N.T.ライトのパウロ書簡における義認と信仰に関する解釈が扱われました。一度目のお話が終わったとき、次のような質問がありました。「先生によるN.T.ライトの教えをうかがっていると、まるでキリスト教とは別の宗教に聞こえます。そんなライトのために先生が、人生の貴重な時間を費やされるほどの価値があるのでしょうか。」私は、すごい質問、究極的な質問だなあと思った次第。 「別の宗教のように聞こえる」と言われるのももっともなのです。ライトご本人は第二の宗教改革を気取っているのですから、そう言われてもカエルの面にナントカでしょう。どういう…

  • 「神のことばの説教は神のことばである」とは?

    自家製教理問答を推敲していて、説教の定義について考えています。 そんな作業の中で、K.バルトとその追随者がしばしば「第二スイス信条」から引っ張ってくる有名な「神のことばの説教は神のことばである(Praedicatio verbi Dei est verbum Dei.)」という命題を調べてみて、ちょっと驚いたことがあります。 説教塾の加藤常昭師は、この命題に基づいて、次のように重大なことを主張します。 「『神の言葉の説教は神の言葉である』。前者の『神の言葉』は聖書を意味します。後者の『神の言葉』は今ここで聴く神の言葉です。大切なことは、聖書の言葉がそのまま神の言葉であるとは言っていないというこ…

  • ヨハネの手紙第一の末尾

    「5:18すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。 5:19また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。 5:20さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。 5:21子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。」(1ヨハネ5:18-21) ヨハネの手紙第一の結びの箇所である。むずかし…

  • 樽前ガロー

    今日は午前中、妻と苫小牧の西の方の有珠の沢の残りと、錦大沼公園の西の森の樽前ガローというところを福音散歩して来ました。ガローというのは、東北の方言で断崖絶壁の間を流れる川を意味するそうです。樽前ガロー周辺は別荘地として計画された場所のようですが、実際に建っている別荘とおぼしき建物は二十軒ほどでした。とてもきれいな紅葉を見ることができて、キツネ君も出てきました。 これで3年前の春に思い立って始めた、苫小牧全戸9万1千世戸に「福音新聞」配布が完了しました。2年目からは協力者も加えられて、感謝です。紅葉とキツネは、神様のねぎらいのプレゼントだなあと思いました。 こちらでは雪虫を見るようになり、冬への…

  • これからの宣教について、一緒に考えよう

    昨日から静岡県掛川での教団の研修会に来ています。今回のテーマは「これからの宣教について、一緒に考えよう」というものでした。今回は初めての試みで、参加者を8人ほどの38テーブルにわけて、昨晩から4つのセッションで学んできたところを、テーブルごとに思い思いの方法で発表するというものでした。私たちのグループは劇をしました。 笑いあり涙ありの色々な発表でした。あー面白かった。 宣教について考えると、こんなふうに盛り上がるのが日本同盟基督教団なのでした。

  • 神は愛であるということ

    「神は愛である」という聖書がいう事実からすると、「愛」の中には、神のあらゆる属性が含まれている。すなわち、善・あわれみ・真実・義・聖は神の愛を構成している諸要素である。 しかるに、従来、多くの人々によって「愛」は「義」と対立する語であるかのように使用されて来た。だがむしろ「義」と対立するのは「あわれみ」である。「愛」のうちに「義」と「あわれみ」が含まれている。神が義なる審判者として、悪しき者を断罪し刑罰を科するにあたっても、神は愛なのである。 神は悪者を罪に定める審判において義の栄光をあらわされ、悪者をあわれんでキリストのゆえに赦す審判において恵みの栄光を現わし給う。赦しの審判において神は愛で…

  • 主に近づく手がかりに

    最近、創世記とヨハネ伝を平行して連続でお話しています。明日、主の日はヨハネ伝1章、みことばの受肉の箇所。 昨日、有珠の沢団地というところを歩いて、3年前の春から続けてきた苫小牧市9万1千余戸の通信配布はあと200戸ほどになりました。自分自身の救いを振り返ると、幼稚園で聴いたお話、家にあった「聖書の講解」という冊子、あの人の勇気ある証し、たまたまある団体の集会でみた三浦綾子さんの「塩狩峠」という映画など、いろいろなきっかけが複合して導かれたものでした。一枚の配られた「通信」がそういう手がかりの一つとして用いられれば、と願っています。

  • 伝道ということ

    きょうも鼻の調子が悪く、頭が痛いのでデスクワークにならないので、残っている有珠の沢2丁目を1時間ほど散歩してきました。とっても良いお天気でした。 そのあと、聖書を読み始めた人がいるので牧師室でバイブルクラス。今日は「聖書とは」という内容。彼にはある悩みがありますが、その悩みでなく神様に出会えるようにと導いています。 二十代に読んだ米国人の書いた教会成長論の本には「地域のニーズを見出し、そのニーズに応えよ」とありましたが、きっかけ程度は有効かもしれませんが、本質的に牧師の仕事はそういうものではないと思います。やはり二十代に読んだ、森有正の文章に、「人は何か問題を抱えて教会に来ます。でも教会に来る…

  • 人権思想には二つの流れがある

    人権思想の根源には二つあって、一つはキリスト教であり、もう一つはジャン・ジャック・ルソーの反キリスト教的思想である。前者は、英国のジョン・ロックの『統治二論』に明白に表現されている。ロックがいう人権とは、創造主が被造物である人間に与えた自然権を意味している。ロックの思想を受けて、ヴァジニア州権利章典(1776年)が成り、合衆国憲法(1787年)が編まれた。そこには、創造主がすべての人に人権を付与したという天賦人権論が明瞭に表現されている。 他方、フランス革命における「人権宣言」(1789年)が、先行する上記のヴァジニア州権利章典と合衆国憲法の影響を受けていることは確かであるが、実は、決定的な違…

  • 聖書を読み直す?

    「聖書を読み直す」という言い回しをときどき目にする。「これまでは、このように教えられて来たけれど、聖書はほんとうにそういうことを教えているのかを読み直すのだ」というのである。 こういう企ては、正しく聖書がほんとうに語っていることに迫る場合と、かえって聖書がほんとうに語っていることから遠ざかってしまう場合がある。後者の場合というのは、「聖書を読み直す」という動機が、今の時代の思想とか風潮などに調子を合わせたいという場合である。 こういうことは、古代の教会からありがちだった。グノーシス主義というのは、聖書をギリシャ宗教思想の二元論に合わせて解釈しようとしたものだった。近代のシュライエルマッハーの『…

  • 有珠の沢(うすのさわ)

    苫小牧は森に近い桜坂という住宅街にヒグマ3頭出没の警告が出たので、暗い早朝に配ることは避けて、朝食後に福音散歩に出かけることにしました。残りは、有珠の沢団地という森に囲まれた地域で、桜坂野にほど近いところです。有珠の沢は苫小牧には珍しく起伏がある地域で、家々の外構も低い石垣になっていて、小さな門柱があったりして、本州の住宅街の街並みを思い出しました。 3年前の春からスタートした苫小牧市全戸『苫小牧通信配布』ですが、この有珠の沢が苫小牧市の最後の未散歩地域です。

  • N.T.ライト玉石混交の原稿に修正を加えました

    首題の文章に修正を加えました。1.彼の義認理解の土台であるユダヤ教サークルの文献について、日本長老教会が発表したライト理解の文献から学んだことを少し反映させました。 2.個人的終末論について、サンダースとライトは主張が違うことが確認できたので、その点、修正しました。 https://ameblo.jp/caelnouta/entry-12756860079.html

  • 『新・神を愛するための神学講座』個人的終末論の箇所について訂正報告

    『新・神を愛するための神学講座』個人的終末論の箇所について事実誤認があったので、お詫びして訂正いたします。p534の3行目誤「J.ヴァイス、A.シュヴァイツァー、E.P.サンダース、N.T.ライトたちは」→正「E.P.サンダースは」(E.P.サンダース『パウロ』(土岐健治・太田修司訳、教文館2002年、p64)を参照) <説明> サンダースは死後、キリスト者の霊が主の御許に行くというパウロのことばはギリシャ的二元論からの影響であるとしています。しかし、同じくNPPのN.T.ライトですが、彼は死者の霊が主の御許に行き復活を待つとする中間状態を否定していません。『驚くべき希望』(中村佐知訳、あめん…

  • 『新・神を愛するための神学講座』個人的終末論の箇所について訂正報告

    『新・神を愛するための神学講座』個人的終末論の箇所について事実誤認があったので、お詫びして訂正いたします。p534の3行目「J・ヴァイス、A・シュヴァイツァー、E.P.サンダース、N.T.ライトたちは」→「E.P.サンダースは」(E.P.サンダース『パウロ』(土岐健治・太田修司訳、教文館2002年、p64)を参照) しかし、ちなみに同じくNPPのN.T.ライトは死者の霊が主の御許に行く中間状態を否定していません。『驚くべき希望』(中村佐知訳、ア面倒、2018年p284参照)

  • 道路わきの遊歩道

    今朝も柏木町を福音散歩、昨日紹介した車道と住宅地の間をへだてる遊歩道を帰りに少しだけ歩いてみました。土地はいくらでもある北海道ならではですね。 樹種はヤチダモで、おそらく植えたものではなく、もともとこのあたりがヤチダモの森だったところに、道路を開き、住宅街を造ったのでしょう。道路の中央分離帯もヤチダモだったりします。

  • うぐいす団地

    今朝はのぞみ町の散歩を終えて、ずっと奥の樽前カントリークラブの入り口にある「うぐいす団地」という半分別荘地みたいな感じのところ数十軒を歩いてきました。周りは森に囲まれたところで、鹿のうんちがぽろぽろ落ちています。なんとなく信州を思い出しました。エゾシカのうんちは、信州のよりもひとまわり大きい。気温は歩き始めは12~13℃ですから、ウィンドブレーカーを羽織っています。 写真はのぞみ町から見た樽前山。頂上付近に雲がまとわりついています。初雪かと見まがいました。

  • 文化命令でなく、神の王国建設命令

    改革派神学では、創世記1章26‐28節および創世記2章15節を「文化命令」と呼びならわして来た。けれども、聖書全体に啓示された神のご計画の全体からいうと、むしろ「神の王国建設命令」と呼ぶ方がよいと思われる。 神のご計画の全体像を知るためには、創世記1章、2章をスタートして読み、黙示録21章後半から22章前半をゴールとして読むとよい。神は万物を創造したが、完成態として人間に与えたのではなく、いうなれば神の王国を建設するための素材をお与えになった。そして、これを支配し、耕し、守れとお命じになった。目指されていたゴールは黙示録における完成した神の王国、都エルサレムである。 主イエスが宣教を始められた…

  • 文化命令でなく、神の王国建設命令

    改革派神学では、創世記1章26‐28節および創世記2章15節を「文化命令」と呼びならわして来た。けれども、聖書全体に啓示された神のご計画の全体からいうと、むしろ「神の王国建設命令」と呼ぶ方がよいと思われる。 神のご計画の全体像を知るためには、創世記1章、2章をスタートして読み、黙示録21章後半から22章前半をゴールとして読むとよい。神は万物を創造したが、完成態として人間に与えたのではなく、いうなれば神の王国を建設するための素材をお与えになった。そして、これを支配し、耕し、守れとお命じになった。目指されていたゴールは黙示録における完成した神の王国、都エルサレムである。

  • 三位一体について

    自然宗教の種類として宗教学者はさまざまな分類をするが、神の数で分類するならば、多くの神々を立てる多神教と、ただ一つの非人格の神を立てる汎神論に分けられる。多神教における神々はオリエントの諸神話、ギリシャ神話、古事記などを見るとわかるように、人格的な神々である。多神教では複数の神々が愛したり憎んだり争ったりしているからである。 しかし、哲学者たちは神話の神々が弱弱しく不道徳であることから、それらは「神」と呼ぶに値しない者たちであることを読み取って、そういう神々をも支配している万物の原理としての唯一のものこそ、「神」と呼ぶに値するものであると考えた。そうした考え方が汎神論である。汎神論における「神…

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