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  • 桜の下にて、面影を(54)

    ☆☆☆白駒二葉様ご家族に見守られた中で、目覚めの時をお迎えになられたことと思います。そして、今方まで見ていた夢の中に、これからあなたが会うべき方がいらしたことを、ご理解いただけたかと思います。それが、あなたの霊の終着駅であり、そのためのわたくしの使命でした。その時は、もう目前に迫っております。それまでにこの文を完結させて、超常月の瞬間をお迎えいただこうと思います。面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめてあなたが最も大切にしている歌であり、あの夜、わたくしが詠じた一首です。西行の歌を詠む時、必ずあなたの耳の内には、彼の声が響ました。そして、その声を西行のものと信じて疑いませんでした。殊に恋歌を詠む声は、圧倒的にあなたの心に届きました。けれど一首だけ、声の響かない歌がありました。そうです、それがこの歌でした...桜の下にて、面影を(54)

  • 桜の下にて、面影を(53)

    ☆☆☆透明な輪郭が消えゆくまで、静っと見送っていた西行の前を、ゆらゆらと、ほの白い小さな花びらが舞い降りて来る。どれだけ触れようと手を伸ばしても、蝶のようにその横をすり抜けていく。決して触れることを許さず、目の前をすれ違いながら降りてくる。そのまま音もなく浮遊する小さき白を、終着の出会いの時を感じながら眺めている。天空の芯には、鏡のように透き通った月が張り付く。月光を独り占めしたように、西行の隣には、あの時の白桜が寂と立つ。西行と桜の深い影が、伸び並ぶ。「西行――いえ、義清」背に聞く、あまりにも最愛(いと)しい声。あの夜、一度きり囁かれただけの声。二度と聞くことの叶わなかった声。途端、西行の世界は滲む。溢れるものが止まらぬまま、すべての想いが戻りゆく。「義清――あなたなのですね」超常月の下、白桜を仰ぎ見ていた二...桜の下にて、面影を(53)

  • 月夜舟 最終夜

    今宵は、夜空に照らされる竹やぶで、測られたように色分けされたぬいぐるみたちと転がります。どこまでも同じに丸めた背は、まるで誰かが着込んでいるようです。いつでもそばにいる二体に自らを重ねて、お月さまとお話します。人が人にできることがあるとしたら、ただ、ただ横にいることなのかな。月夜舟最終夜

  • 桜の下にて、面影を(52)

    ☆☆☆「義清――否、西行」懐かしい声と共に、深い砂を踏む、耳には届かないくらいの足音が近づいて来る。すでに西行の霊(たましい)に包み込まれている桐詠には、その聞き慣れた足音が、誰のものであるかが判っている。そこが、いつの間にか、波音の聞こえる松の横に転じていたことすら不思議とも思わずに。感慨とともに、微速に振り返る。佐藤憲康(のりやす)との別れの後、人生を共にした友を迎えるために。「源季正(みなもとすえまさ)――西住(さいじゅう)」「ご無沙汰致しておりました。お変わりない姿でいらっしゃいますね、西行」いつの時代も、折り目正しい話し方である。「ここであなたにお会いしたのは、これで二度目ですね。いや、二日前を合わせれば、三度となりますか」讃岐へ渡る前、その時も同じように彼を待っていたことを思い出しながら、西行は言う...桜の下にて、面影を(52)

  • 月夜舟 六十四夜

    今宵は、白鷺の愛称をもつお城で、お殿様に謁見します。どこまでも無名のコピーライターは、七百年も愛され続ける名付け親です。意図せず、語り継がれる言葉を生み出してきた市井の人を知る、お月さまとお話します。慌てて、解ろうとしなくていいのかな。ゆっくり、解っていけばいいよね。(次の、最後の月夜は、どこへ行こうかな)月夜舟六十四夜

  • 桜の下にて、面影を(51)

    この宇宙には、いくつもの世界が並行して存在しています。そして、その並行世界を包み込むように、超常世界という、あらゆる世界の物理法則が当てはまらない高次世界が存在しています。仮に西行殿がいた時代の世界をα世界、桐詠先生のいた世界をβ世界と呼ぶとします。この二つの世界が成立している空間は、ともに地球という星です。しかしこの二つの星は、宇宙座標の上で同じ位置に存在している、異なる星なのです。それは、並行世界といわれます。α、β両世界の理りに従えば、同じ座標上に異なる星が存在することはできません。けれど、超常世界に包まれているそれぞれの世界では、衝突も干渉も起こりません。それぞれが単体として、互いに影響を及ぼさず、互いの存在に気づくこともなく在り続けます。どうしてそのようなことになるのかというと、α世界とβ世界の位置す...桜の下にて、面影を(51)

  • 月夜舟 六十三夜

    今宵は、次の瞬間、バランスを崩しそうな直立奇岩に乗る修道院の端で、踵を上げています。どこまでも誰がこしらえようとしたのか思いもつかず、頬が緩みます。すぐにも落ちてしまいそうな、永劫にそのままなような綱渡り気分で、お月さまとお話します。次の駅で降りるからと、席を譲ります。本当は、ずいぶん先で降りるはずなのに。善いうそとは、嘘とは言わないのかな。月夜舟六十三夜

  • 桜の下にて、面影を(50)

    ☆☆☆「桐詠先生――西行殿」ほんの少し前、事の始まりを告げた声が、今度は後ろから囁く。振り向くとそこは、宙に浮いたような再びの白光世界となっていた。「桐詠先生、いいえ西行殿。果たして、ここにお連れすることができました」「あなたの使命、一切を理解しました――堀河殿」さっきまで、共に奧千本を歩いていたことが幻のように思えてくる。「超常月の下で、西行殿が迎えられる邂逅のためのお役目でした。同時に、私自身もこの世界での再会を持つ一人として選ばれておりました」「そうだったのですね。あの時あなたが口にされた、師という言葉が誘因となって、この時代に生きた証人としての私が、既のところで覚醒しました」「私からの返歌を耳にすれば、必ず思い出してくださると確信しておりました」「ええ。その時代に生きたとき、私は佐藤義清(さとうのりきよ...桜の下にて、面影を(50)

  • 月夜舟 六十二夜

    今宵は、河のほとりから、やさしく滲んだオレンジ色に身をくるんだ鉄塔にフォーカスします。どこまでも澄んだ夜気に佇むランドマークは、頂点に近いほど鮮明に映ります。オレンジを邪魔せず暖かな白を惜しみなく注ぐ、お月さまとお話します。強くあろうとするか、否かのふたつだけなのかな。月夜舟六十二夜

  • 桜の下にて、面影を(49)

    ☆☆☆今まさに満月は頂点に差し掛かる。月光と影だけの世界。風の音さえ聞こえない真空のような静寂。見事にすべてが静止した世界に映る。桐詠は、そのあまりの深閑(しんかん)から、いつしか自らを確認するように白桜を撫でていた。すべてを見て来たかのような老成した幹を愛でることで、これから起ころうとしている邂逅のすべてを受け入れる構えとしていた。老桜を挟んで立つ六条は、あたかも月に呼び戻されんとする姫のように見えた。「刻限です」静かな一言で幕は下ろされ、それきり二人の間に言葉は絶した。途端、桜の下に積み重なる花びらが一斉に舞い上がり、あの時のように彼の全身は、繭の中へと飲み込まれた。一気に白光が世界を包む。二つの満月が寸分違わず合わさったかのごとく、光は無限小の粒子の束となり拡がった。あまりの光源に、桐詠の目は眩んだ。「―...桜の下にて、面影を(49)

  • 月夜舟 六十一夜

    今宵は、無数の多角形で縁取られた塩湖の中心で、浮き上がるように足あとをつけています。どこまでもまばゆい星たちを抱く漆黒と純白の湖面が、二項対立しない調和を思わせます。二つを仲良くつないでいる、お月さまとお話します。そういうときには、自分の気持ちに蓋をして考えてみればいいのかな。あなたの本当の想いが見えてくるかもしれないよね。月夜舟六十一夜

  • 桜の下にて、面影を(48)

    ☆☆☆そんな夢をみていた。一年前の月夜とは違う、長い長い夢を見ていた。見覚えある桜の下、唯一つ響くことのなかった歌が、背中越しの声が、こだました。そして、耳の奥、硬い蓋の割られた二葉は、世界を確かめるように、静々と目を開いた。(つづく)桜の下にて、面影を(48)

  • 月夜舟 六十夜

    今宵は、ひと月の骨休めをするサンタクロース家で、肩もみを任されています。どこまでも愛される永遠のおじいさんは、いつも決まって笑顔です。今年も無事に同じ笑顔が戻ってきてくれることを祈りながら、お月さまとお話します。お月さま、幸せは、見えるものなのかな。月夜舟六十夜

  • 桜の下にて、面影を(47)

    ☆☆☆白桜は、巨大な満月から一直線に光を浴びて、静っと立っていた。まるで桐詠と六条を待ちわびていたかのように、あっけないほどそこに立っていた。金峯神社から尾根をたどり、ほどなく行った二股を右に折れ、杉木立ちを進んだ、苔清水が遠慮がちに湧き出たところに、それは待っていた。夢に見たのと同じ、こじんまりとした空間。足元には、浮き上がった根がいくつも這っている。静かな白桜とのコントラストを効かせたような場所だった。そのことに違和感はなかった。別の違和感。その正体に、桐詠はすぐに気が付いた。桜を前にしていたはずの庵が見当たらないのだ。それは、単に夢の中にあったはずのものがないという違和感ではなく、あるべきものがないといった方が近かった。――ここには、庵があった。間違いなく。初めて来た場所にもかかわらず、決定的に強烈な違和...桜の下にて、面影を(47)

  • 月夜舟 五十九夜

    今宵は、氷河期の名残をかみしめながら、今を実感しています。どこまでも迫り出してくる大氷原に、以前より少しの悲しさを感じます。急激な後退の原因に懺悔して、お月さまとお話します。お月さま、見えないことを言葉で紡ぐには、限界があるよね。言葉にすればするほど、真実は離れていくのかな。真実を追えば追うほど、言葉は去っていくのかな。月夜舟五十九夜

  • 桜の下にて、面影を(46)

    ☆☆☆二葉が生まれてから、これほどまでに咲き誇ったことのない白桜は、まるで晴れ着を纏っているかのように、庵の前で主の目覚めを待ち続けていた。「よくぞ、ここまで成長してくれた」静かに寝息を立てる二葉の横で、主治医でもある父が呟いた。「二葉は――」眠り続ける娘の手を握り、今にも決壊を破りそうな涙を湛えた母がひざまずいている。「――」「そんな――」俯いて小さく首を振った彼の表情に、その一言が精一杯だった。「短すぎる制限時間を遥かに超えて、我々に幸せを与えてくれた自慢の娘だ」これまで、丁寧に、大切に刻まれてきた鼓動だからこそ、どうしたって家族に夢を見せてしまう。科学の限界を唱えたくなってしまう。医師だからこそ、己の限界を知る身だからこそ、それを信じて一日を重ねてきたのである。その人の言葉だ。「兵衛(ひょうえ)さんが、そ...桜の下にて、面影を(46)

  • 月夜舟 五十八夜

    今宵は、滑稽にも芸術にも見える奇岩の群れを、中心から眺めています。どこまでも愉快な仕業に思える景観は、いたずらな偶然を確信させます。先端を渡って行けそうと空想しながら、お月さまとお話します。お月さま、愛は、見つかるかな?見つかるよね、きっと。だけど、目には見えないよね。形なきものは、心で感知するものなのかな。月夜舟五十八夜

  • 桜の下にて、面影を(45)

    ☆☆☆生まれてこの方、付き合ったことのないほどの心臓の独走も忘れて、二葉は苗雅からの手紙を、左へ左へと追っていた。もう一つ、お話をさせてください。それは、わたくしとの出会いの二日前の夜の出来事です。これも、あなた以外の人は知り得ないはずのものです。これまで誰にも言えずにいたことだからです。なぜ言えなかったのか。それがいわゆる超自然現象であって、絶対的な確信はあれども、誰にも信じてもらえないと思っていたからです。だから、これまでずっと封印してきたことを、わたくしは知っています。初めて会った時にも、大学でご一緒するようになってからも、何度か切り出そうとしていたことも知っています。それでも、決してあなたは口にしなかった。そしてそれは、あなたの仮説である、声の魅力と密接に関係している出来事でした。その出来事の前に、あな...桜の下にて、面影を(45)

  • 月夜舟 五十七夜

    今宵は、ダイヤモンドの先端から、心が緩む風とパームツリーのじゃれあいに目を奪われています。どこまでも朗らかなコミュニケーションで、街の灯りは二割増です。いつもよりも火照った顔に見える、お月さまとお話します。お月さま、植木に水を差します。必要な分だけでないといけないよね。月夜舟五十七夜

  • 桜の下にて、面影を(44)

    ――さっき感じたものは、一体何だったのか。六条に腕を取られた時、脳内に直接映し出された、遠い記憶のようなものを思い出しながら呟いた。尋ぬとも風の伝にも聞かじかし花と散りにし君が行へをそれを受けたように、今度は桐詠の手をしっかりと握ってから、澄んだ月のような声で六条が応える。吹く風の行へしらするものならば花と散るにもおくれざらまし――ああ、以前、確かにこの歌を返されたことがある。「あなたとは、どこかで会っているのですね?」疑問文の形を取りながらも、迷いのない言葉だった。「はい」俯き加減の彼女の横顔には、もう一片の憂いも見えない。「遠い昔のことですね?」「そう、それはそれは遠い昔のことです」おもむろに吹き通う風。空には薄暮に浮かぶ、まだまだ発色が完了していない望月が上り始めている。「私の中にいる、もう一人の私が生き...桜の下にて、面影を(44)

  • 月夜舟 五十六夜

    今宵は、アルプスの女王を前にして緊張しています。どこまでも登山家たちを虜にするその姿は、未来永劫に約束されたものと錯覚しそうです。名もなき山たちの嫉妬の心配をして、お月さまとお話します。お月さま、生きるって、どういうことかな?何かを学ぶにも。仕事を選ぶにも。結婚をするにも。子供を育てるにも。何をするにも。真剣に向き合わないと、答えには近づけないのかな。月夜舟五十六夜

  • 桜の下にて、面影を(43)

    ☆☆☆人里離れた山道で、迂曲するそれを人生になぞらえ、思索を馳せたくなるのは、人の道理か世の必定か。御多分に洩れず、桐詠の思考も、重厚な蓋をぎりぎりとずらし切るために、回転速度を上げていた。実際には存在しなかった矢倉横の枝垂れ桜庵前の白桜庵に座る女性の遠い姿と遠い声届けたかった歌夢から覚めたあと、慌てて書き留めたメモを思い出し、そのつながりを組み立てながら歩いていた。この夢の主語は誰になるのか視界は紛れもなく自分のもの詠っていたのは庵の女性果たしてあれは六条だったのかだとすれば何を詠っていたのかそれが届けることのできなかった歌なのか誰に届けたかった歌なのか六条の想い人かどうして口にしなかったのか声に出したら、この世で廃る口にしない理由、届けられない理由は、それか主語は誰になるのかやはり六条なのか彼女の悲恋成就の...桜の下にて、面影を(43)

  • 月夜舟 五十五夜

    今宵は、合掌した家々が同じ方角を向く郷で、深い雪に足を沈めて佇んでいます。どこまでも均整のとれた三角は、自然の重みを上手にそらします。三角からの暖色と空からの白光色の世界で、お月さまとお話します。お月さま、いずれ、わかり合える人たちと出会えるよね。それまで、大切なものはあたためておけばいいよね。月夜舟五十五夜

  • 桜の下にて、面影を(42)

    それでは、初めてお会いした時の心象風景の一致の話から始めてみます。あの時、二つの曲、それぞれからイメージできる風景について、こう会話しました。あなたから話し始めています。「私は、この『LovingLife』という曲を聴くと、夏を連想するのです。とても青空が鮮やかな夏が想像できるのです」「わたくしの心象風景では、夏の折り返しになるずっと前の、まさにこれから夏本番に向かっていく、夏に一歩足を踏み入れた段階にあたります」「私も、そういうイメージです」「その時間は、まだ太陽は最高点に到達する前、朝という時間帯が終わったあとのように思えます。そして、このサビの部分の幅のあるバイオリンの音色と、ここから転調してその広い音のまま響き上がってラストに向かうところで、果てしなく続いていく青空へ突き抜けていく、一直線の白がイメージ...桜の下にて、面影を(42)

  • 月夜舟 五十四夜

    今宵は、地中海の十字路、岩山が掘られた円形劇場の中心で手を広げています。どこまでも古の演者と観衆たちが見守るような重層な空気が漂います。少しだけ背筋が伸びる気分になりながら、お月さまとお話します。お月さま、もらう人生と、返す人生。そこが、折り返し地点なのかな。月夜舟五十四夜

  • 桜の下にて、面影を(41)

    ☆☆☆前略ご無沙汰致しております。今こうして、桜の下でこの文を読まれているということは、あなたは結論に達したということですね。大変心苦しい問いかけをしてしまったことを、最初にお詫び致しておきます。そして、なぜ斯様な真似を致したのかということを、その真意を、この文でお伝えさせていただこうと思っております。つきましては、はじめにお願いがございます。これに同封されている、もう一つの厳封された文は、こちらを読み終えるまでは絶対に開かないでください。なぜ、今開封してはならないのかという理由も、それを開封すべき時がいつかということも、これを読んでいただければ、理解していただけるかと思います。ですから、どうかそれを信じて、まずはゆっくりと、この文を読んでいただけると嬉しいです。それでは、始めさせていただきます。ちょうど一年前...桜の下にて、面影を(41)

  • 月夜舟 五十三夜

    今宵は、山水画の原風景の中、邪魔にならないように身を屈めています。どこまでも静止画のような景観は、色の世界を超越します。水面に映える静寂に心を清めて、お月さまとお話します。お月さま、論理は、感情を超えないよね。月夜舟五十三夜

  • 桜の下にて、面影を(40)

    ☆☆☆六条との再会、そして彼女の残していった言葉。空想とも実感とも思える、不思議な風景が連れて来た、宵の一首。吉野山花吹雪具して峯こゆる嵐は雲とよそに見ゆらん二日後。約束の日の行き先は、無条件だった。京都駅から二時間で到着した吉野駅。前日に、ちょっとした山登りにも対応できる服と靴を用意した。土地柄を考慮して、身支度だけは相応にせねばならないと思ったのだ。地図も購入した。初めての吉野ということで、ガイド本の類いも買っておくかどうか迷ったが、やめた。観光に行くわけではないことを、すぐに思い出したからだ。この旅は、直観だ。余計な情報は迷いを生じさせるだけだと思ったのだ。桐詠はこれまで、吉野の桜を素通りしてきたわけではない。桜の生態というような生物学的な視点はまるでなかったが、日本人としてのDNAとでも言おうか、単純に...桜の下にて、面影を(40)

  • 月夜舟 五十二夜

    今宵は、七つの丘の都、坂の多い石畳の町を歩いています。どこまでも細い曲がり角を、器用に黄色い車両が縫っていきます。夜風に乗ってきた潮の香りを追うように、お月さまとお話します。お月さま、悲しいことと同じように、嬉しい気持ちも、忘れずにいたいな。月夜舟五十二夜

  • 桜の下にて、面影を(39)

    「それでもわたくしは、重さよりも長さを選びたいと思います」「え?苗雅さんは、そう、即断できるのですか?」これまで研究についての持論を通して、彼の人柄を知ってきた二葉だったが、ほとんど初めて聞く彼自身の恋愛観に、少しの当惑とともに聞いた。「あなたの言う『現在進行形で続いている過去』、つまり愛し合う二人は、いつでも共にいることを前提とした時間の連なりを持つことの方が、自然だと思うのです。そしてわたくしは、そういう間柄で、恋しい人との時間を送りたいと思っています」「――」普段まったく口にしない、とても奥まったところにある引き出しからの言葉だったことで、まるで自分へ向けての愛の告白かと勘違いしてしまうくらいのインパクトを持って、二葉に突き刺さってきた。同時に、なぜか旗幟鮮明に畳み掛けられる予感も襲ってきた。「二葉さん」...桜の下にて、面影を(39)

  • 月夜舟 五十一夜

    今宵は、陽気な家庭教師と彼女を慕う兄弟姉妹が歌う高原で、脚を伸ばしています。どこまでも手の届きそうに思える山々は、きれいな呼吸で眠っています。そこにあるだけで貴重で偉大な存在に感謝して、お月さまとお話します。お月さま、信じる。信じるよ、僕。月夜舟五十一夜

  • 桜の下にて、面影を(38)

    ☆☆☆「あら、本日貸切?」季節に合わせた、可愛らしいデコレーションを施された紫檀の扉に、レトロなプレートが下がっている。初めて見る小さなプレートを前に、二葉は扉を開けることを躊躇っていた。「やあ、二葉ちゃん、いらっしゃい」すると24時間、365日ご機嫌のマスターが、目が眩むほど鮮やかな赤を纏ったポインセチアを置こうと、扉を開けた。「梅雀さん、今日は貸切なのですか?」「そうなの。今日は珍しく、殿のたっての希望でね」「苗雅さんの希望ですか。確かに珍しいですね。それで、寂念さんと寂超さんはご一緒ですか?」「あ、いや、二寂さんたちは、今日は予定があるらしいよ」「ああ、そうか。寂念さんが来られるはずはないですよね」「そうだろうね」マスターは機嫌の良い顔を、二割増しにしたような笑顔で言った。「私は入っても良いのかな?」「も...桜の下にて、面影を(38)

  • 月夜舟 五十夜

    今宵は、サメの名にゆかりの、人魚伝説のモデルたちが勢揃いする海へ漕ぎ出しています。どこまでもゆるりと舞う人魚たちは、心と体の移ろいが同じ歩幅。気持ちも視線も努めて穏やかにして、お月さまとお話します。お月さま、僕が、僕が。がんばった。私が、私が。がんばった。私は、私は。悪くない。僕は、僕は。悪くない。人間の本能は、一人称の考え方なのかな。二人称で考えられるように意識することが大切なのかな。月夜舟五十夜

  • 桜の下にて、面影を(37)

    コントロール不能な暴れ狂う記憶を、重たい蓋で塞がれた箱にしまい込む。それを底なし沼へと放り込む。ゆっくりゆっくり沈んで行き、いつしかその記憶自体、日常から忘れ去られる。記憶が浮上して来ることがないことさえ忘れてしまうくらいに、忘れ去られる。そんな辛い経験を、人は誰しも持っている。それほどまでに慎重に、奥底へと追いやることに成功していたのに、まったくそのこととは関係のないものや風景、音や声、そういう無関係な断片が一瞬で複雑に結びつき、それが手鉤となって急浮上した重厚な蓋は、その役目が無駄なくらい呆気なく開かれてしまう。たとえば、何かの事故に巻き込まれた経験のある人が、似たような事故を目撃したことで、記憶がフラッシュバックすることを直接的な手鉤とすれば、この手鉤は極めて間接的なものである。間接的どころか、記憶が蘇っ...桜の下にて、面影を(37)

  • 月夜舟 四十九夜

    今宵は、未確認巨大生物が潜むかもしれない湖に、息を殺して目を走らせています。どこまでも波立つ気配のない静かな湖面は、終わりのない興味を掻き立てます。不確実な決定機に心を引きずられながら、お月さまとお話します。お月さま、理屈から判断すること、経験から判断すること。理屈で説得しようとする人、経験で伝えようとする人。大きな違いがあるよね。月夜舟四十九夜

  • 桜の下にて、面影を(36)

    ☆☆☆窓に映る反転した横顔に邪魔されながら、時折現れる線路沿いの夜桜に目をやっていた。あまりにも突然の再会を果たした六条と別れた後、宿に戻る特急の車内で、桐詠は彼女の口にしたことを思い出していた。まったくと言っていいほど、変わっていなかった姿。すぐに彼女と分かったほどだ。そして謎めいていた高校生は、今でもどこか、他の人とは違う存在であるように思えた。――解き明かさないといけないことが、山積みだ。踵を接するような昨日今日の二日に、不完全なものや相似したもの、琴線に触れる出会いや、突然の再会といったものが重なり、いつしか桐詠の心は、そぞろなる趣とは縁遠いものとなっていた。そのことにすら気づいていない彼の頭の中は、つい今方の六条との条(くだり)ですっかり占有されていた。『四年後の選択は、決められていたことです』高三だ...桜の下にて、面影を(36)

  • 月夜舟 四十八夜

    今宵は、気の遠くなる齢のジャイアントセコイアが、手つかずに息づく渓谷で感謝をしています。どこまでも高い成長点は、高純度の夜空と相まって想像すらできません。不思議な涙で謙虚な心の輪郭を鮮明にして、お月さまとお話します。お月さま、難しいことは解らないけれど、大切なことには気付けたのかな。月夜舟四十八夜

  • 桜の下にて、面影を(35)

    ――どなたかしら?交通整理の寂念と体育会系男子に護られながら、必殺スマイルで応対していた二葉は、ふと出口の方に気を取られた。そこには、ほんの少しいつもと違う表情で話をしている苗雅と、見慣れぬ女性の姿が並んでいた。退室待ちの行列は、まだまだ半分が残っているような状況だったため、ひっきりなしの短冊渡しと、スマイル業務に追われていた二葉だが、その二人の様子を捉えてからは、ほとんど告白状態の言葉をぶつけてくる男衆から、その視線が外れる度合いが増えていた。「白駒さん、どうかしましたか?」苗雅と六条の誘導を終えて教室に入ってきた寂超は、すっと二葉の横へと並び立ち声をかけた。「あ、いえ、別に、何でもないです」「住友先輩なら、あそこにいらっしゃいますよ。お呼びしますか?」「いえ、何でもないので、大丈夫です」「そうですか。ちなみ...桜の下にて、面影を(35)

  • 月夜舟 四十七夜

    今宵は、伝統的な打楽器から発せられる超音波の音色を感じています。どこまでも癒しをもたらすこの島に、神々がこぞって住みたがるのもわかる気がします。至るところに見えない包容力を感じながら、お月さまとお話します。お月さま、どうして、緊張をするのかな。背伸びをしなければいいのかな。月夜舟四十七夜

  • 桜の下にて、面影を(34)

    そんな、苗雅というカリスマに、長所という長所をすべて吸い取られた成れの果てのような二寂の、哀切を極めた無駄話が展開されていた頃、西行の『さ』の字も興味がないといった男衆を前にした二葉の、生涯初となる研究発表が、有終の美を迎えようとしていた。「ご静聴、ありがとうございました」どんな授業でも聞いたことがほどの拍手喝采が湧き上がる、男臭で充満した教室では、発表内容そっちのけで、恍惚としただらしのない面貌を晒した男衆からの声に、小町一人がカーテンコールで応えていた。あまりの迫力に、恐怖さえ覚えてしまいそうな紅一点を護衛すべく、交通整理兼司会担当の寂念が、機敏に壇上へと駆け上がる。先ほどまで、先輩の面子丸潰れのような醜態を晒していたこの男、実はこう見えて、相当のスポーツマンなのである。それはさておき、お嬢様育ちの二葉とて...桜の下にて、面影を(34)

  • 月夜舟 四十六夜

    今宵は、吸血鬼伯爵にお目にかかれそうな、森の要塞教会に辿り着きました。どこまでも気流が静止しているような木立は、すべての音を包んでしまいそうです。どこか吸血鬼のようなボクの生態に微笑んで、お月さまとお話します。お月さま、「それはできないよ」そんなに安易に、みえない限界を決めてもいいのかな。月夜舟四十六夜

  • 桜の下にて、面影を(33)

    「如何にもそれは、我らが部長、住友苗雅公のことなるぞ」「ああ、もう分かった。そんなことなら最後まで言わなくても、誰にでも分かりますよ」さすがに付き合いきれないのか、今度ばかりは、オチを前に話を切ろうとする寂超であった。「まあ、そう言わずに聞きたまえ。住友先輩の立ち居振る舞いを見れば、どうすれば世の女性たちを虜にできるかということなぞ、たちどころに分かるというものだ。先輩は、自ら動くことなど決してしない。それどころか、相手が攻め入ってきても、春風駘蕩の構えを崩すこともしない。まるで、暖簾に腕押し、柳に風だ。己を見失い、青春期男性が、もれなく陥ることになるはずの下卑た行為に及ぶことなど、まず以ってありえない。つまり、平常心の塊のようなお方なのだ。そしてその平常心が余裕を生み、余裕が人柄を輝かせ、その結果、女性を惹き...桜の下にて、面影を(33)

  • 月夜舟 四十五夜

    今宵は、脆いくらいに繊細で、美しい水の宮殿に迷い込んでいます。どこまでも清閑をもたらす豊かな水は、すべてのものを浄化してくれそうです。遠い時代からの幾多の盛衰に無常を溶かして、お月さまとお話します。お月さま、懐の深さは、自己愛の濃さに反比例するのかな。月夜舟四十五夜

  • 桜の下にて、面影を(32)

    秋が深まり、いよいよ今年最後の季節へと移り変ろうとしている時期。季節限定で大学全体を黄色に満たす大銀杏は、何万という愉快な葉をざわめかしていた。どれだけのサークルやゼミが、所狭しと陣取り合戦を繰り広げているのか分からない。例年と変わらぬ風物詩である。そんな、まるで楽しく喧嘩をしているような雰囲気の中で、今年も学園祭の火蓋は切って落とされていた。西行研究会はといえば、これまた例年同様に西校舎の最上階、その最奥の教室を本陣としていた。色気も味気も何もないという、普段の教室とほとんど変わらないようなそこは、(日頃の研究成果を発表するという、ある意味学園祭のお手本のような催し物なのだから、そんなことを言われる筋合いもないのだろうが、それを差し引いたとしても、やはり)本気で誰かに何かを伝えたいのか、と聞きたくなるような、...桜の下にて、面影を(32)

  • 月夜舟 四十四夜

    今宵は、ルネサンス発祥の地を、街一番のドームの上から眺めています。どこまでも褐色の屋根たちで覆われた一面は、まさしく息づく美術館。芸術の血が際立った歴史の一瞬にスリップして、お月さまとお話します。お月さま、逆算しながら、生きなくてもいいよね。自由に生きてもいいよね。自由に。終着駅まで、自由に。月夜舟四十四夜

  • 桜の下にて、面影を(31)

    ☆☆☆憧れの気持ちが、いつしか嫉妬に変わるということは、今に始まったことではない。平安の世、斯の長編小説が書かれた頃には、すでに妬み嫉みのオンパレードが繰り広げられていたことが詳述されている。ともすれば宝の持ち腐れになりそうな、日陰サークルで部長を務める苗雅だが、そこは超越したカリスマである。世の中が放っておくはずもない。大学公認カップルと呼ばれ、学校一のマドンナと親しげにしている姿は、それはそれは羨望の的である。それはそれは誰もが羨む、絢爛豪華な眩しい二人である。にもかかわらず、である。そんな水も漏らさぬ鉄壁な二人の間に割って入ろうとする、不届きな輩も、世の中にはいるものである。さらに言えば、割って入れないのならば、せめて邪魔をしてやれという俗心が生まれるのも、これまた人間の悲しい性であろう。いわゆる、取り巻...桜の下にて、面影を(31)

  • 月夜舟 四十三夜

    今宵は、容赦なく襲いかからんとする激流の横に坐す、最大の摩崖仏の足元で圧倒されています。どこまでも概念を覆すほどの大きさは、今にも立ち上がる気配を帯びています。妖しい光の演出で命を連想させてくれる、お月さまとお話します。お月さま、言葉は、心の代弁者にはなれないよね。月夜舟四十三夜

  • 桜の下にて、面影を(30)

    ☆☆☆「お話があるのです」手元の週刊誌から見上げた先の顔が、その頃とあまりにも変わっていなかったので、直ぐに彼女だと分かった。「やあ。六条さん、ですよね?」「はい。ご無沙汰いたしております、先生。覚えていてくださったのですね」「本当に、お久しぶりですね。ええ、すぐに思い出しました」「光栄です」そう言って、自慢の黒髪の長さも光沢も、儚げな容貌も、どこか実体を感じられない不思議な雰囲気も、まるごと何も変わっていないように見える昔の教え子は、嬉しそうにお辞儀をした。「よかったら、座りませんか?」桐詠は、はす向かいの席へ手を向けながら微笑んだ。「はい。それではお言葉に甘えて」そう答えて、桐詠の目の前にスローモーションのような動きで座ると、二人は四年ぶりの再会を喜ぶように談笑した。そうは言っても口数の少なかった六条とは、...桜の下にて、面影を(30)

  • 月夜舟 四十二夜

    今宵は、一切の枝葉をつけずに力強く太ったまっすぐの幹と、お猪口のような枝たちをてっぺんに生やした奇妙な大木に耳を当てています。器用に横向きジャンプを披露するサルたちは、奇妙な大木と無二の親友。夜空に向かう動物たちの囁きに混じって、お月さまとお話します。お月さま、好きな今が、増えますように。月夜舟四十二夜

  • 桜の下にて、面影を(29)

    ☆☆☆「お話があるのです」四年前のことだった。「今日の放課後、生物準備室に先生を訪ねて行ってもよろしいでしょうか?」教員になったばかりの年の、ようやく仕事が体に馴染んできた頃のことだ。あと数ヶ月で卒業を迎える三年生の女子生徒に、昼休みの廊下で呼び止められた。それはまるで、その時間そこに桐詠が必ずやって来るという、確信があるというような佇まいだった。すれ違いざまでもなければ、陰に隠れていたところを突然飛び出して来るでもなく、一切偶然を装うといったところがない、潔さのようなものを直感させるものだった。最上級生の中でも抜群に大人びていた、六条という生徒だった。見るからに学業優秀という生徒だったが、その期待を裏切らない実績の持ち主だった。そして何より、その高校生らしからぬ立ち居振る舞い、身のこなしは、その年頃の子たちが...桜の下にて、面影を(29)

  • 世界旅行の世界(41)

    ★「そうだ」「なあに?」「今夜は、夜景を見に行こう」「夜景?どこの?」「東京。ウォーターフロントから海を挟んだ東京タワーの灯りを見に行こう」「わあ、すてき。行こう、行こう?」ショートカットの彼女は、天井に目をやる先生の横顔をのぞいています。少し遅いランチ。先生お手製のパスタ。今日の献立は、アスパラとほうれん草、そこにベーコンの入ったガーリック風味のパスタ。彼女が帰って来る前に、すでに下準備は済ませてあります。いつものことです。「いい匂い。お腹が刺激される」「そうでしょう?今しがた、ガーリックと鷹の爪を炒めておいたんだ」「うん、そうだと思った。入った瞬間に分かった」「美容院から戻ったらお昼になっているから、すぐに食べられるようにしておこうと思ってね」「さすが、せんせいね。お腹、ペコペコ」「そうだろうね。じゃあ、す...世界旅行の世界(41)

  • 月夜舟 四十一夜

    今宵は、打ち寄せる波の力を絶妙に逃がして建つ、水上社殿で神妙にしています。どこまでも現世を忘れさせてくれそうな平舞台は、水上散歩を錯覚させます。そのまま大鳥居まで歩いていけそうな気分で、お月さまとお話します。お月さま、きちんと、伝える。感謝の気持ちを、きちんと、伝える。謝罪の気持ちを、きちんと、伝える。きっと、そこに笑顔はないよね。笑いながら、ありがとう。笑いながら、ごめんなさい。真のとき、そこに笑顔はないよね。月夜舟四十一夜

  • 桜の下にて、面影を(28)

    窮地を救ってくれた苗雅だが、ただ夜の散歩に連れ出しただけのように、その後は一切口をきくことはしなかった。今という時が、会話を必要としていない時間だと判断したのだ。この人物にはその判断ができるのである。これこそ、苗雅の真骨頂なのである。いつなんどきも無粋なこととは無縁なのである。そんな苗雅の心遣いが、もう十二分に分かっていた二葉は、その空気に存分に甘えることにして、ゆっくり歩く苗雅の横で、先ほどの寂念からの一撃について反芻していた。大学入学以来、西行という人物を追えば追うほど、そこはかとなく、その平安末期の大歌人にのめり込んでいく自分を感じていた。――私は、どこかおかしいのかもしれない。西行の歌に惹かれるとか、自分の耳にだけ響いてくるあの声に魅了されるとかならば、おかしいこともないのかもしれない。いや厳密にいえば...桜の下にて、面影を(28)

  • 世界旅行の世界(40)

    ********************************************************************************************************6月28日晴れターコイズ。今日来た家庭教師の先生の印象。海みたいな、空みたいな感じ。広くて深くて透きとおるみたい。お父さんとお母さんの誕生石のトルコ石は、ターコイズというらしい。ターコイズって名前の方が、ずっとかっこいい。それはともかく、今日は家庭教師の先生に初めて会った。すごく背が高くて、すらっとしている。最初はぶっきらぼうな感じで、ちょっと怖そうだったけれど、『よろしくお願いします』のあと、すごく優しい目で『よろしくね』と私を向いてくれた。それが、透きとおるイメージ。今日は初めてだから、ただお話をした。...世界旅行の世界(40)

  • 月夜舟 四十夜

    今宵は、遠く北の低気圧がもたらす濃密なうねりに挑むサーファーたちの聖地で、大音量の波音を耳に閉じ込めています。どこまでも連綿と続く曲線の水壁は、ひとつとして同じ割れ方を見せません。快楽と恐怖の休戦時間を利用して、お月さまとお話します。お月さま、人を恨むな、羨むな。そうありたいな。月夜舟四十夜

  • 桜の下にて、面影を(27)

    ☆☆☆「ところで、ご両名は、付き合っておいでなのですか?」すでに狂酔の域に達していた、無遠慮が取り柄で、それがどういうわけか容認されるという、妙な人徳を備えている寂念が、脈絡もへったくれもない流れで口にした。西行研究会、夏合宿恒例の酒宴でのことだった。「突然、なに馬鹿なことを言い出すんすか」同じく酩酊の域に達していた二年生の弟分寂超が、いつもの十倍突飛押しもない無駄口に、酔いも吹っ飛ぶかのごとく、咄嗟に反応した。「馬鹿ってことはなかろう。ここだけではなく、いよいよ以って、学校中の関心事だと思うのだが」鼻の頭には玉の汗をかきながら、まったく悪びれることもなく寂念は続ける。「確かに、そうかもしれないすけど」「どうにも釈然とせんのですよ。何と言いましょうか、特に白駒嬢の振る舞いと申しますか、言動が」この春卒業した先代...桜の下にて、面影を(27)

  • 世界旅行の世界(39)

    ★「いよいよ明日は、帰りの飛行機のなかだね」「うん。あっという間だったね、先生」「ああ、本当にあっという間だった」「もっともっと、いろんな景色を見てみたかったな」「そうだね、もっとたくさんのところへ連れて行ってあげたかった」「でも先生、これは初めての世界旅行だったから、2回目のときもあるのでしょう?」「あはは、るみちゃんは気が早いな」「えへへ、そうです、私はいつだって、先生の先を見ているのです」マドリードの西。大航海時代の英雄、クリストファー・コロンブスの眠る大聖堂。ヒラルダの塔から出て来たふたりは、初めての世界旅行のすべての瞬間を思い起こしています。「では、記念すべき、初めての世界旅行最後のディナーは、何にしようか?」「あのね先生、今夜はリクエストがあるの」「そうなんだ?そう言えば、るみちゃんのリクエストも、...世界旅行の世界(39)

  • 月夜舟 三十九夜

    今宵は、海をこよなく愛する文豪を意識して、最南端に突き出した桟橋に頬杖ついています。どこまでも開放的で話好きな人々が、夜風にグラスを泳がせます。どこよりも創作の聖地と感じながら、お月さまとお話します。お月さま、甘えと心配りをイコールにしておくことが大切なのかな。それが、穏やかな在り方の秘訣なのかな。月夜舟三十九夜

  • 桜の下にて、面影を(26)

    「思い出の松なのでしょうか?」砂を踏む雪駄の音に気づくこともなく、松を見遣る桐詠の横に、風流な装いの男が立っていた。「いえ、少々懐かしい気がしたもので」何の違和感もなく、いつの間にか寂かに佇んでいた参拝者らしき人に、桐詠は答えた。「昔見し松は老木になりにけりわが年経たる程も知られて」「三十一文字(みそひともじ)、あなたも嗜まれるのですか?」たった一度、それも聞こえるか聞こえないかの声で詠った一首を諳んじたことに驚きながらも、その堂に入った節回しが、紛れもない練達のものであることを悟った。年の頃なら、二十代半ばといったところだろうか。青磁色の紐に、墨流しの羽織が、この松と浜の風情に合っている。実家に暮らしていた頃は、三代にわたって和装で過ごしていたこともあってか、桐詠は隔世の感など抱くこともなく、その風采にしみじ...桜の下にて、面影を(26)

  • 世界旅行の世界(38)

    「パスタが来たよ?」「ああ、これも美味しそうだ」「うん、すごく美味しそう」マルゲリータを平らげるころに、絶妙のタイミングで運ばれてきたパスタ。ガーリックをベースにしたトマトソース。ベーコンとアスパラ。モッツアレラの溶けた上に、カットされた新鮮なトマト。シンプルだけれど極上ということが、目と鼻だけでも分かります。「どう?」「もう、落ちてしまうほっぺはないと思っていたのに、また落ちた」「あはは、るみちゃんのほっぺは無限だね」「えへへ、そうみたい。先生も食べてみて?」「うん、ではいただいてみようかな」「ほっぺ、落ちた?」「落ちた。このモッツァレアくらい、とろとろに落ちた」「あ、それそれ、そういう感じ」「だよね?」「うん、私も、とろとろになって落ちた」「このパスタを食べたら、もう他のパスタは食べられないなあ」「そうかも...世界旅行の世界(38)

  • 月夜舟 三十八夜

    今宵は、生ける火山の活動で、一夜にして埋もれてしまった古の別荘地に足を踏み入れています。どこまでも親近感を抱かせる市民の台所は、瞼の奥に当時の活気を映し出せそうです。時を超えた醗酵酒を片手にほろ酔い加減で、お月さまとお話します。お月さま、とりあえず走り出そうかな。それとも、考えてから走り出そうかな。どちらにしても、走りながら考えるのは難しいよね。時々止まって考えることが大切だよね。月夜舟三十八夜

  • 桜の下にて、面影を(25)

    ☆☆☆馴染み深い名前のついた宇野駅へは、岡山駅からおよそ五十分の列車旅だった。そこからバスに乗り換えて三十分ほどのところにあるという、渋川海岸へと向かう。今朝決めたばかりの本日の目的地だ。海岸横にある七階建てのオフホワイトのホテル前のバス停で降りると、もうそこは海岸の目の前だった。それほど奥行きも幅もないきれいな砂浜が続く、シーズン遠い閑かな海だった。青というよりも緑に近い穏やかな瀬戸内海を挟んで、讃岐までが目睫(もくしょう)の間(かん)というロケーションは、思いつきで決めた目的地としては大いに合格点だった。可愛らしい砂浜に沿うようにして続く松林も、実に風情があって良い。出勤ラッシュ直前のまだまだ閑かだった京都駅を出発してから、すでに昼時になっていたのだが、駅弁を買い込んで車内で食事を済ませていた桐詠は、そのま...桜の下にて、面影を(25)

  • 世界旅行の世界(37)

    「先生?みんな、何しているのかな?」「なんだか、急に忙しなくなったね」「うん、どんどん片付け始めてる」「でも、なんだか、少し楽しそうにも見えるね?」「ほんと、なんだか愉快にお話しながら片しているね」タイチーマークのように、ベネチアの街を二分して流れる大運河。女の子と先生は、カナルグランデに面したレストランでディナーです。夕闇がゆっくりとパープルへと移ろいゆきます。心なしか前を流れる運河の水が、その量を増やしたように見えます。「美味しい。こんなピザ、食べたことない」「そう?そんなに違うかい?」「うん、全然違う」「どれどれ本場のピザというのは、どういうものなのかな?」「どう?」「ん!こ、これは、なんたることーーー」「あはは、先生、大げさ」「えへへ、ちょっと芝居染みていたね」「うん、三文芝居」「三文芝居とは、ひどいな...世界旅行の世界(37)

  • 月夜舟 三十七夜

    今宵は、ありのままの美しさを強烈に教えてくれる、極限まで澄み切った桃源郷の湖に釘づけです。どこまでも絵画のような景観。いいえ、これこそが生の自然。「絵画のような」という比喩が生まれた理由がわかった気がしながら、お月さまとお話します。お月さま、価値観を知るには、大切にしているものを知ればよいのかな。大切にしているものを知るには、苦手なものの背中を見ればいいのかな。月夜舟三十七夜

  • 桜の下にて、面影を(24)

    そんな、幕開けから再会サプライズが待っていた二葉の大学生活は、見事に順風満帆で船出した。そして、入学式ウィークが終息して、大学が普段のペースを取り戻す頃には、すでに学内ベストカップルと称される二人になっていた。すべてにおいて効率重視の苗雅は、最終学年を迎えるにあたり、すでに卒業に必要な単位のほとんどを修得し、残すはゼミの二単位と卒業論文だけという状態だった。四年生に進級するのを待たず、卒論の執筆にも取り掛かっていたので、そちらもいたって順調そのものだった。それにくわえて、就職活動なぞ我関せずといった彼の学生生活は、とにかく優雅の一言に尽きた。一方の二葉は、入学直前に天命のごとく研究対象が舞い降りて来たことで、脇目も振らずまっしぐらに九百年前の歌人を追い始めていた。生まれついての本好き少女には、これまで誰の何の心...桜の下にて、面影を(24)

  • 世界旅行の世界(36)

    「ねえ、先生?」「ん?なあに?」「ベネチアの地下はどうなっているの?」「ベネチアの地下?」「そう、地下。だって、どうやってもこの街は、水に浮いているように思えるの。地面の上につくられていないような気がするの」「そういうことか。たしかに、水の上の街だよね」「やっぱり、そうなの?」「そうだね。厳密にいうと、潟の上の街だね」「かた?」「そう、干潟の『潟』」「その『潟』か」「ラグーナというのだけれど、その『潟』に何千、何万、いやそれでは足りないくらいの杭を打って、その上に建物を建てているんだよ」「え?木の杭?」「そう、木の杭」「ベネチアの地下には、木がびっしり埋まっているということ?」「そういうことになるね。潟に杭が埋まっていて、その上に海水があって、その上に建物があるということだね」「その木は腐らないの?海水に浸かっ...世界旅行の世界(36)

  • 月夜舟 三十六夜

    今宵は、小さな孤島で整列する、守り神のような巨像に心を奪われています。どこまでも深い青の絶海は、夜の守り神たちを潤します。不思議な石像と不気味な絶海から均等な引力を受けて、お月さまとお話します。お月さま、本当の話し上手は、聞き上手なのかな。月夜舟三十六夜

  • 桜の下にて、面影を(23)

    ☆☆☆散り際の早かった桜並木の門をくぐった二葉は、あまりの人並みでなかなか前に進めず立ち往生していた。新入生を歓待する上級生たちは、まだまだ大学生の風情を漂わすことのできていない、見るからに一年生という学生たちに群がっては、その横を通り過ぎようとする、別の一年生にも触手を伸ばしている。華やかなる、新歓小径。足元にはそこかしこに、読み捨てられたビラが散乱している。そんな騒然とした人だかりの中で、引く手数多の二葉は男子学生の恰好の的となっていた。あまりに強引な勧誘要員の誘いに断りを入れられない彼女は、蟻地獄のような様相を呈した小径で、困惑ぎみに右往左往しているのである。大学生といえばこれ、というようなお馴染みのサークルが群雄割拠している。それはそれで楽しそうとは思いながらも、彼女の心はすでに決していた。しかしその目...桜の下にて、面影を(23)

  • 世界旅行の世界(35)

    ★「ねえ、先生?透明の赤だよ?きれい」「どおれ?」「ほら、あそこ」水路の道を女の子と先生はゆらりと行きます。目抜き通りのカナルグランデを脇に入った道。網の目のように、か細い小道が縫っています。3階建の家々に挟まれるように、少し暗がりの小道が流れています。小さな町と町が、可愛らしい橋でつながりをもっています。「ベネチアングラスだね」「ベネチアングラス?」「そう、赤だけではないけれど、やっぱり一番きれいだね、赤が」「うん、向こうが透けて見える赤」「透けて見える赤、か」「なのに、深い赤」「たしかに、そういう色だね」10秒で渡れそうな橋のかかった脇にあるガラス工房。古いガラス張りのお店に飾られた赤いガラスたち。アドリア海のやわらかい陽光を受けたガラスたちは、独特の透明感を讃えています。「昔、あのグラスが鍵になった映画が...世界旅行の世界(35)

  • 月夜舟 三十五夜

    今宵は、大陸の四半を覆う砂漠を、無防備に彷徨っています。どこまでも荒涼とした様は、浮世の些細な不安を一足飛びに越えて無我に引き込みます。お話もできないほど無我にはなれなかった現実を受け止めて、お月さまとお話します。お月さま、見守ることは、勇気がいることだよね。月夜舟三十五夜

  • 桜の下にて、面影を(22)

    京都駅に着くと、売店で地図と時刻表を買い込んだ。あてのない旅とはいえ、地図くらいはないといくら何でも不自由に思えたのだ。朝のラッシュアワー前の駅というのは、どことなく寂しげな風景に映る。まだまだ客もまばらなこともあるだろう。行き交う人がまばらなものだから、一人ひとりの空間は広くなる。そのことで、歩く速度や手足の振り方が、通常の七掛け程度の速度に見えるのかもしれない。それがあと一時間もすれば、我先にと競うエネルギーの吹き溜まりのような風景に変わる。それはそれで、別の淋しさを感じさせるものである。そんな、未だ人影も薄い時間帯の寂寞を映し出している構内を、売店で買った缶コーヒーを飲みながら、広角レンズのような焦点で眺めていた。「僕はもう、出勤しないんだよな」特別な感慨や感傷が含まれていない棒切れのような言葉が口をつい...桜の下にて、面影を(22)

  • 世界旅行の世界(34)

    「あ、時代に淘汰されるって、分かった気がする」山小屋の食事を頬張る女の子は、寄り道から、突然、本筋に戻って来たようです。いったい、何がフックになったのでしょう。何かがつながるときは、突然なものです。自分でも説明のできない連携が瞬時に成立します。そうして女の子は、感覚的に言葉の意味をとらえます。「分かったかい?」「たぶん、こういうことじゃない?ある時代には馴染んでいる流れとか響きが、別の時代では馴染まなくて、だから使われなくなって自然に消えていく、そういうことじゃない?こういうのも、時代錯誤って言うのかなあ?」「ご名答。時代にそぐわない言葉、古い言葉になったもの。その時代時代で、適さなくなったものは排除されていくということだね」「でも、ちょっと気になったことがあるのだけれど?」「なんだい?」「あのね、さっきからど...世界旅行の世界(34)

  • 月夜舟 三十四夜

    今宵は、高く細く流れていた水道橋越しに、夜の光を仰いでいます。どこまでも尊い命の源を、芸術的に運んでいた頃と変わらぬ風が頬を撫でます。長く伸びた幻想的な陰影と小さな影を並べて、お月さまとお話しします。お月さま、どうして、大人なのに、言い訳するのかな。どうして、素直に謝れないのかな。月夜舟三十四夜

  • 桜の下にて、面影を(21)

    ☆☆☆旅というものは、過去との決別であり、過去との邂逅でもある。そんなことを何かで読んだ気がする。前日に、まるで二十年後に導かれることが決められていたかのように、法金剛院に佇んでいた桐詠は、すでに旅の二日目にして路頭に迷っていた。最初の目的地しか浮かんでいないままの旅立ちだったことに、今更ながらに気づいたのである。しかし、「さて、今日はどこへ向かうというのだろう」そう他人事のように呟いた彼に、不安や焦燥は見えない。それ以上に、目的や展望も見えていない。放浪とは、そもそもそういうものかもしれない。無心になれればなれるほど、放浪が放浪に近づくのかもしれない。とはいえ、無我の境地を求めているわけではない。むしろその逆で、見えない答えを探している予感のようなものがつきまとっている、そんな、どこか重たいものを抱えている心...桜の下にて、面影を(21)

  • 世界旅行の世界(33)

    「ねえ先生、お腹空かない?」「そうだね、すっかり話に夢中になっていたね」「うん、夢中になってお話していたら、ずいぶん山を登って来てた」「本当だ。さっきまでの街が、もうあんなに小さくなっているね」ふたりのお腹が空くのも無理はありません。振り返ることもせずに、前だけを向いて歩いていたふたり。足元の緑、少し先の山、突き抜ける青空、そこに浮かぶ同じ形の雲たち。わずかに視界を上に向けて、ちょっとした登山を楽しんでいたようです。「なんだか、不思議」「不思議?何がだい?」女の子は、言葉の命の話から、ほんの少し寄り道をするようです。「風景の見え方の違いが、不思議だなって思ったの」「風景の見え方の違い?」「うん」「それは、どういう違いのこと?」「あのね、今、先生と私は、とても真剣にお話をしながら歩いていたでしょう?」「そうだね、...世界旅行の世界(33)

  • 月夜舟 三十四夜

    今宵は、沐浴も洗濯も弔いも、すべてのものを受容する静穏な流れを眺めています。どこまでも無限を感じさせる水量は、一から千まで生活との繋がりを感じさせます。喜怒哀楽を溶かした不思議な色の河を挟んで、お月さまとお話します。お月さま、わかっているつもりでも、実はよく理解できていないことは多いよね。自分のことさえ、実は理解できていないことがたくさんあるよね。どんなこともわかろうと思わないと、深い理解はできないのかな。月夜舟三十四夜

  • 桜の下にて、面影を(20)

    そう今までずっと心の中で繰り返し、ノートに幾度も書き記してきたことを、語気を少し強めて説明した。一転、そこで頂点を迎えたかのごとく、次の瞬間からはそのまま下り降りるように気力は萎む。「この仮説を立証することができたらとは思っているのですが、現実的に不可能なことも分かっているのです。だから本当に残念なのですがどこまでも仮説止まりの空論です」と説明不能な絶対的な確信というものへのもどかしさを孕みながら謙虚に結んだ。「それは斬新な説ですね。これまでのどの先行研究でも見当たらない、既成概念にまったく囚われていない、正真正銘のオリジナルとお見受けいたします。確かに立証は難しいかもしれませんが、その反面、二葉さんにとっては、何か確信めいた事実に裏付けられているような気も致しました。それに何より、実はわたくしも、声というのは...桜の下にて、面影を(20)

  • 世界旅行の世界(32)

    「それは、つまり?」「それはつまり、耳触りがよくないから、かな」女の子の仮定、言葉の消えていく理由の想像。それを溢れさせる先生の短い促し。ふたりの言葉の世界は、いつものように潤っていきます。「むずかしいから使い勝手が悪い。使い勝手が悪いから、使われる頻度が低くなる。そうしていつしか使われなくなって、消滅していく。そうではなくて、けっしてむずかしい言い回しでなかったとしても、耳触りがよくないから使われない、ということもある?」「そう。なんでもそうだと思うのだけれど、使っていて気分のよくないものを、頼まれてもいないのに、人は使わないでしょう?」「それはそうだね。自ら進んで使うメリットはないよね」「そうやって人は、感覚的に判断をしているのだと思う。使いたくない言葉だなって。それでそれは、多くの人に共通の感覚だから、そ...世界旅行の世界(32)

  • 月夜舟 三十二夜

    今宵は、4体の巨像が鎮座する神殿に立ち、大河の流れを聞いています。どこまでも信仰心を拠り所にしていた王様の胸の内を想像してみます。古も今も、本質は変容していないような勝手な結論に達して、お月さまとお話します。お月さま、出会いは、奇跡だよね。だから、別れを悲しまず、出会えた奇跡を大切に、思い出を心に刻むことで永遠にしたいな。心には、永遠があるよね。月夜舟三十二夜

  • 桜の下にて、面影を(19)

    先に食事をとっていた二葉とはタイミングがずれた苗雅だったが、気づけば同じペースにまで追いついていた。そうして共にパスタを口に運びながら進む、ことごとく曲のイメージを、同じ脳内スケッチにできる間柄という偶然の合席に、初対面という距離感はすでに雲散霧消していた。ほぼ同時に食事を終える頃には、合席をすることになった時の、生来口数の少ない者同士という構えのようなものは、すっかり他人事だったかのような空気に包まれていた。となれば、二葉の頭の中には聞いてみたいことが自然と溢れ出す。日常使いの和装なのか板についた丁寧な言葉遣いについてほとんど変わらないようにも、うんと離れた歳にも思える年齢について学生にも見えるが、どうなのか学生だとすれば、どこの学生なのかすでに社会人なのかそうだとすれば、何をやっている人なのか同じ旅行者なの...桜の下にて、面影を(19)

  • 世界旅行の世界(31)

    先生のオープンな質問を予想していた女の子。そうとも知らず、得意満面で三日天下に成り下がってしまった先生。ヤマが当たった女の子の回答は、どのようなものなのでしょう。悔しがりながらも、その答えを、独特な感性から繰り出される答えを、先生は楽しみにしています。「でもね先生、反射的に問題は予想できたのだけれど、その答えは、やっぱりむずかしい」「よかった。少しだけ、救われたよ」王様のはずの先生は、わずかに天下を永らえることができたようです。その横で、右脳全開の女の子の感性は高速回転しています。「あ、こういうことかなあ?」「ん?どういうこと?」「言葉が残ってきた理由は、相手に何かを伝えるときに便利だから、だよね?」「そうだね、逆にいえば、言葉がなければ何を伝えるにも不便だもんね」「そう、不便。それって、リスボンのときに話した...世界旅行の世界(31)

  • 月夜舟 三十一夜

    今宵は、恐怖を通り越して身を預けたくなるほどの轟音が、水の落下だけでつくられています。どこまでも途切れることのない、非常識な量の水。いつまでも非常識なまでに潤していてほしいと思いながら、お月さまとお話します。お月さま、小手先の人生でなく、正直に生きていきたいな。不器用でもいいから。不格好でもいいから。要領で乗り切ろうとしないようにしたいな。月夜舟三十一夜

  • 桜の下にて、面影を(18)

    そもそも口数の少ない二人の合席だったが、ひょんなことから会話が弾むこととなった。「わたくし、この『LovingLife』という曲が、とても好きなのですね」店内に、わりと大きな音で流れている曲を持ち出して、苗雅は話を始めた。「私も、好きです。この方の曲は、どれもとても気に入っています」その装いから、まさかバイオリン曲が突破口になるなどとは思っていなかったことで、不意を突かれた二葉は、跳ねるような口調で答えていた。「そうでしたか。それは奇遇ですね。わたくしも、よく聴かせていただいております。これはおそらく彼のベスト盤ですね。今方わたくしが入店した際には、『BorntoSmile』がかかっておりましたので、そのように推察いたしました。そして曲順からいくとアルバム通りの進行をしていないようですので、法則性を外したセッテ...桜の下にて、面影を(18)

  • 世界旅行の世界(30)

    「それはね、そうして生まれてきた言葉が、脈々と生き続けていること」「なるほど、生み出した人に頼まれたわけでもないのに、ずうっと生き続けているということだね?」女の子の関心は、先生の一歩先を行っていたようです。生まれたことではなくて、生き続けてきたことに、興味が湧いたようです。「そう。仕事や義務で受け継がれるものはたくさんあるかもしれないけど、言葉はそういうものではないでしょう?」「そうだね。誰にも強制されるものではないね」「それなのに、ちゃんと埋もれずに生き続けている。ね?すごいと思うでしょう?」「たしかに、すごいことだね。そして、それに気づくるみちゃんも、すごいと思うよ」「えへへ、そうかなあ」「ああ、本当に、いつもながらに感心するセンスだよ」「先生は、褒め上手だから、照れるなあ」「別におだてているわけではなく...世界旅行の世界(30)

  • 月夜舟 三十夜

    今宵は、なだらかな丘のさざめく小麦畑の向こうに、巨人に見間違えられてしまった風車が不規則に並んでいます。どこまでも愛らしい伝説の騎士が、痩せた馬にまたがり従者とともに歩いてきそうです。老いてなお、正義や希望を胸に遍歴を続けた彼を慕いつつ、お月さまとお話します。お月さま、本当は、やるべきことは分かっているのかもね。周囲を気にして、それが言えない、それができないことが、問題を複雑にしているのかもね。月夜舟三十夜

  • 桜の下にて、面影を(17)

    ☆☆☆――いよいよ、幕が上がる時が来たようですね。何度目になるのかさえ、すでに分からなくなるくらいに通い慣れた京都。住友苗雅は、ロマンティック街道まっしぐらな後輩寂念の説に乗ったような振りをして、桜の季節の古都にいた。旅の初日は、決まって昼の食事を済ませることからスタートする慣わしの彼は、初めて訪れた喫茶店の扉を、いつもの静かな腕で引いた。――『BorntoSmile』ですね。お気に入りの曲に耳を奪われ、それだけで心地の良い店という折り紙を付けた。「いらっしゃいませ。ただいま満席でして、少しだけお待ちいただけますか?」「どうぞ、お構いなく」慌ただしく動く、丁寧な店員の言葉に苗雅は丁重に答え、店内をゆっくりと見渡そうとした。とその時、その暇もないほどに鮮烈な視線を受け止めた。入り口を背にして立っていた彼の正面奥の...桜の下にて、面影を(17)

  • 世界旅行の世界(29)

    ★「先生、ベランダの柵に、赤いお花がびっしり並んでる」「え、どこどこ?」「ほら、あそこ」女の子は、上り坂の途中にある三角屋根の白い三階建てのお家を指さします。一面を緑に覆われた山々が、ぐるりと囲む小さな町。ここでなら、すべての少女たちが、赤とピンクと黄色の三色のワンピースを着込んでいても違和感がありません。「ハイジの世界だ」「実際の風景が、これほどまでに、あのままの世界だとは」女の子と先生は、見事に印象を壊さないその風景に見惚れています。晴れた日の似合う、風景。山をひとっ飛びできそうな大きなブランコの似合う、風景。強面でもやさしいおじいさんが山から下りてきそうな、風景。ペーターとユキちゃんが弾むように歩いていそうな、風景。「なんだろう、この緑色の世界。どこにもない緑色に見える」「そうだね、ここだけで感じる緑色だ...世界旅行の世界(29)

  • 月夜舟 二十九夜

    今宵は、そのままの宇宙を感じられる山頂で、幾億の星たちと交信しています。どこまでも不純物の存在しない大気が、太古の空中と交錯します。類稀な大きさの反射鏡を持つ望遠鏡たちと並んで、お月さまとお話します。お月さま、続けることで、見えてくるものがあるよね。でも、続けることは、楽ではないよね。月夜舟二十九夜

  • 桜の下にて、面影を(16)

    尋ぬとも風の伝にも聞かじかし花と散りにし君が行へをさらっと、そしてゆっくりと、情緒豊かな抑揚で一口に詠まれた歌だった。まったく不思議で、いたって当然のような感覚だった。それまでの、古の歌人が詠んだ歌を諳んじるのとは、まるで違う感覚。まごうことなく、自分の歌だと思った。誰のものでもなく、自分の歌だと。七歳の少年の口からが吐き出されるはずもない歌。にもかかわらず、それは絶対的なものに思えた。意味がわかる、とかいうような次元の話ではない。内から湧き出る、湧き出たのである。永くここで詠まれるタイミングを静っと待っていたかのように。この現象を実存的に捉えようとするならば、多重人格としての自我が目覚めた瞬間とでもいうのかもしれない。しかしその感覚は、いくつかの人格が何かをきっかけにして、体の奪い合いをするといった多重人格障...桜の下にて、面影を(16)

  • 世界旅行の世界(28)

    ★水平線の上にパープルのグラデーションがかかっています。真っ青だった海は、眠りの色に変わっていきます。キャンドルの灯りに包まれたデッキテラスで、女の子と先生は予定通りの夕食です。紫にほんの少しのオレンジが混ざり合った世界に、真っ白の街が溶けていきます。「先生は、きっと設計士になるよ?」「設計士?」「そう、お家を設計するようになると思う。先生、そういうことするの好き?」「う・・・ん、どうだろう。一度も考えたことがなかった」「そうなの?図面を書いたりしたことは?」「ううん、一度もないよ」「そうなんだ?」「どうして、設計士だって思ったの?」「あのね、昨夜、また先生が夢に出て来たの」「前に教えてくれた、声が大人になっていたわたし?」「そう。将来の先生」「そのわたしが、設計士になっていたってこと?」「設計士になっていると...世界旅行の世界(28)

  • 月夜舟 二十八夜

    今宵は、心配になるほど傾いている塔に、一人分の体重をかけてみたい衝動に駆られています。どこまでもアンバランスな建物は、常識というものを覆してくれます。いつもとは異なる角度で見上げたつもりになって、お月さまとお話します。お月さま、諸行無常。だからこそ、永遠を信じてみたいな。永遠を愛に求めてみたいな。月夜舟二十八夜

  • 桜の下にて、面影を(15)

    ☆☆☆この旅の完結が、人生を超えた遥かに長い時間の終着駅であることなど知りもせず、この旅の終着が、一体どれほどのものを包んでいるのかなど知る由もないままに、宇野里桐詠(うのさときりよ)は目的地を目指し西へ向かっていた。竹馬の友を喪くし、職も辞し、今後の目的も失った。そんな雪崩のような三重苦を連れだった羈旅(きりょ)。本来であれば、気が重くなりそうな一人旅になってもおかしくないところだ。もちろん、悲嘆に暮れる心がのしかかっていたのは事実だが、一方で訳もなく、そぞろなる心持ちでいたこともまた事実だった。平安時代の終わり、白河法皇の寵妃(ちょうひ)、祇園女御(ぎおんにょうご)の養女となり、法皇からのひとかたならぬ寵愛を受けて育ち、後にその白河法皇の孫であった鳥羽天皇の中宮となった、藤原璋子(ふじはらたまこ)。待賢門院...桜の下にて、面影を(15)

  • 世界旅行の世界(27)

    「ウォークインクローゼットは、どこがいいかな?」「寝室から入っていけるといいよね?」「そうだね。そうすれば、客間からは一番離れているところにもなるしね」「うん、クローゼットはプライベートな空間だから、そうしたい」「では、寝室とバスルームの間のここにしよう」「そうしたら、ベッドルームの右側の壁の方にも少し伸ばして、鍵カッコの形にしよう?」「なるほど、そうすると上の辺と右の辺に分けられて、上をあなたの場所にして、右をわたしのスペースにできるね。そして、その間の角の部分には大きな姿見が置けるようにしよう」「あ、それいいね」「そうでしょう?」「うん」「そうだ、寝室からだけでなくて、この廊下からも入れるようにしてもいいかも」「そうだね。ここに扉をつければ廊下からも出入りができるね」「そうそう。そうすると、ほら、廊下を挟ん...世界旅行の世界(27)

  • 月夜舟 二十七夜

    今宵は、まるで生き物たちを拒むような荒野に、先住民たちの崇めるビュートが点在しています。どこまでも傑作な造形は、どのような奇才にも生み出せない気がしてきます。時を急激に遡ってしまった感覚に襲われながら、お月さまとお話します。お月さま、近くなりすぎると、物も人もぼやけるよね。週末前の夜が、金曜日の夜が、尊いのと似ているね。月夜舟二十七夜

  • 桜の下にて、面影を(14)

    『エトピリカ』二葉お気に入りのバイオリン曲が流れている。日曜深夜に放送されているドキュメンタリー番組のエンディング曲。バイオリンを弾いていた二葉は、この曲をとても好んでいた。そのバイオリニストの音を好んでいた。弦と弓の接触時間がほんの一瞬長いような弾き方が、心地良い音の源だと思っていた。――このお店、当たりかも。そう、ほくそ笑んだのも束の間、それほど広くない店内は、ランチタイム真っ盛りの大人気で見事に満席だった。席待ちをしている人こそいないが、食事をしている人に余計な気遣いもさせたくないので、他の店を探そうかと思った矢先、四人がけのテーブルから三人のビジネスマンが立ち上がった。入り口に立つ二葉の横で、三人それぞれに会計を済ませている後ろ姿に、自然と視線が向かう。一人がこちらを向いて笑顔を見せる。まるで、ちょうど...桜の下にて、面影を(14)

  • 世界旅行の世界(26)

    「きっとね、分かったつもりになりたくないのだと思う」「分かったつもり?」「そう、分かったつもり。家族でも友だちでも、気心の知れた相手には、このくらいは言わなくても分かるでしょう、伝わっているでしょう、という気持ちになったりするでしょう?」「うん、いっぱいある気がする」「もちろん、そういう以心伝心みたいなことができるから、家族や友だちなのだろうけれど、それはどこか信頼というものにすり替える手段のようでもある気がするんだ」「ああ、それ分かる気がする。『信頼にすり替える』って、信頼という使い勝手のいい言葉に頼っている感じでしょう?」「そう、『信頼に頼っている』。まさしくそうだね。たとえば、道を渡ろうとしているときに、右見て左見てをするけれど、急いでいるときとか、よく知っている道のときとかに、どちらか一方だけ確認をして...世界旅行の世界(26)

  • 月夜舟 二十六夜

    今宵は、地上最大のキャンバスで、幾何学的な動物たちが戯れています。どこまでも単純な技法で描かれた精巧な地上絵は、この星の宝物。名もなき芸術家たちに思いを馳せながら、お月さまとお話します。お月さま、真に、素晴らしいと感じているときは、言葉はなくなるね。月夜舟二十六夜

  • 世界旅行の世界(25)

    「この、何かに置き換える、何かにたとえて考えるというのも、先生から教わったことだよ?」「そんなこと教えたっけ?」「うん。実体験で、いつも教えてくれている。『こうやって、考えるんだよ?』という教え方ではなくて、あくまでも気づかせてくれるような教え方」「そうか。まったくそんなこと意識していなかったよ」「分かってる。先生がそれを自然にやっていること、私、分かってる」「やっぱりそれは、るみちゃんの感性だね。感性が、わたしの言動をそうやって変換して、るみちゃんのなかに積もっていっているのだね」まったく意識をしていなかった先生は、女の子の質問の答えを探しています。女の子の話を真剣に聞くことの答えを、真剣に探しています。すでにこの行為が、女の子の感じていることを立証しているようです。「きっと、こういうことだと思う」「どういう...世界旅行の世界(25)

  • 月夜舟 二十五夜

    今宵は、円を描くように巨石が並び、悠久の神秘を問いかける平原に立っています。どこまでも存在意義を考えさせられるサークルは、迷宮への扉。思索の旅路の果てに、起点に戻る気もしながら、お月さまとお話します。お月さま、求めない。あるがままを送る。あるがままで送る。そうしてみようかな。月夜舟二十五夜

  • 世界旅行の世界(24)

    オープンのバギーが風を切っています。エーゲ海に囲まれたサントリーニ島。いくつかの街が段々に点在している島を、女の子を乗せたバギーを先生が走らせています。「あ、ロバだ」「ほんとうだ。あれがタクシーなんだね?」「そうだね。ロバのタクシーなんだね」「これだけ急な坂だから、ロバも大変だろうね?」「うん、ロバ、しんどそうだよ」「心なしか、下を向いている気がしないかい?」「たしかに、下向いてる」「でもあれは、観光客用だろうから、ここに住んでいる人たちの足は何なのだろうね?」「何だろう。自転車はないね?」「ああ、それは疲れるね」「うん、私だったら、一つの坂でもう降りちゃうと思う」「わたしは、ずっと自転車を押さないとダメそうだ」「先生、それじゃあ、自転車と一緒にいる意味がないじゃない」「あはは、それもそうだ」白い街並みが夕日に...世界旅行の世界(24)

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