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  • 写真は人生の記録ー私の写真行脚(5)・・・

    このところ異常気象続きで、大震災・大災害・大洪水等自然災害が多発している。日本の変化に富む四季折々の景色も失われつつある。被災者の生活は難儀を極めるが、ボランティアの活躍も目覚ましい。彼らの活躍する中で注目したいのは、被災者の捜索は勿論、必死で被災者の写真を探している姿だ。泥だらけになった写真を丁寧に水洗いしている姿を見るにつけ、写真の持つ意義を痛感している。写真は生きてきた貴重な記録であり、証でもある。何気なく扱っている「アルバム」は、人生を集約した記録なのだ。私にも約20冊余りのアルバムと、蓄積してきた数万枚の画像があり、宝物と云って過言ではない。被災して初めて気付く写真の大切さだ。写真は生きてきたアカシなのだ。失って初めてその大切さに気付くものかもしれない。ユメユメ疎かに扱ってはならない。山紫水明の里に遊...写真は人生の記録ー私の写真行脚(5)・・・

  • 画像処理は楽しいー私の写真行脚(4)・・・

    パソコンで最初に撮ったままの原画像を見るのは、不安と楽しみが同居していて楽しい。先ず駄作は消去し、まずまずの写真だけを残して、画像処理に入る。画像処理とは「修正」することだ。トレミングから始め、色調、輝度等順次修正し、作品に仕上げる。長時間パソコンに向き合うのは目に良くないが、2~3時間没頭することがある。仕上がった写真を「作品」として保存することとなるがその数、数万枚に達している。保存には、幾つかのカテゴリーと日付により。索引できるようにしている。多分、この時が「至福」の一時なのだろう。身体が不自由なために、最近は控え目だが、元気を取り戻して、撮影に励みたい。≪以下続く≫宮島の水中花火画像処理は楽しいー私の写真行脚(4)・・・

  • 花の美しさに魅せられてー私の写真行脚(3)・・・

    夜露に濡れた「花」に魅せられて、私のカメラ行脚は始まった。「花」はカメラの向け方が大切だ。背景は暗く、適度なぼかしが花の美しさを際立たせる。撮る対象は、花から風景へと広がっていった。作品を見て何かが足りないと思ったので、ニコンの「写真教室」を一年間受講した。特に、「構図」と狙う対象の配置方法を主として学んだ。対象を中心に置く撮影はしなくなった。同時に、シンメトリーという前後左右対称形となる撮影方法も学んだ。佳き作品を作るには、カメラの種類も大切で、普通の35ミリカメラから望遠と接写ができる一眼レフにした。目にする光景をどのように収めるか、指でシュミレーションするようになった。外出する時には、積極的にカメラを持ち歩くようになった。パソコンにダウンロードする時は、楽しみの一瞬である。≪以下続く≫朝霧高原から(1)花の美しさに魅せられてー私の写真行脚(3)・・・

  • 撮影は楽しいー私の写真行脚(2)・・・

    カメラとの最初の出会いは、中学生の頃だった。父親からカメラの基礎知識を伝授された。与えられたのは、蛇腹のベスト版カメラだった。今なら玩具のような代物、それでも写真を撮るのが楽しかった。写真の基礎は、絞りにシャッター速度とピントの合わせ方だったように記憶している。写したフィルムが写真に仕上がっていくのが楽しかった。将来はカメラマンにと思ったほどだ。カメラにも興味がわき、カメラ屋のショーウインドウを眺めては、高級カメラに憧れたものだ。セミ版カメラ(4×6cm)→二眼レフカメラ→35ミリカメラへライカ等と高級カメラに憧れたものだ。当時流行った二眼レフ(リコーレフ)を買ってもらって、アマチュア・カメラマン気取りだった。暫くは見て楽しんでいたが、初めての北海道修学旅行に行った時、念願の自分のカメラを手に入れた。35ミリカ...撮影は楽しいー私の写真行脚(2)・・・

  • 写真が趣味の世界へー私の写真行脚(1)・・・

    "僕はアマチュアのカメラマン、小さいカメラをぶら下げて・・・"のコマーシャルソングに乗って、カメラブームがあった。当時はフィルム全盛の時代だったが、撮った後はカメラ屋へ直行して、画像処理を依頼したものだ。写真のデジタル化により、D(現像)・P(プリント)・E(引き伸ばし)という言葉は死語になってしまった。1990年頃、デジタル・カメラが登場した。当初は画素数も少なく、未完成の感が強かった。カメラの機能と並行して画像処理ソフトの進歩は素早かった。撮った写真を自由自在に修正できるようになって、一段と興味を持つようになった。また、カメラ屋の手を煩わさずに、自分で写真を仕上げられるようになった。この楽しみが趣味にまで嵩じ、愈々写真に嵌りこみ、カメラに凝りだした。デジカメは、無駄な写真は消去すればよく、躊躇なく撮ることが...写真が趣味の世界へー私の写真行脚(1)・・・

  • 生きる目的・目標を変える・・・

    長寿社会と云われて久しくなる。人生100歳時代の到来だ。現世を生きている人は、「人生設計」を当初計画とは大幅に変えざるを得ない。その結果がいま問われてきている。長寿社会に変わってきたからだ。若い頃、人生65歳までは生きたいと思っていたが、当時は子供達が成人する年齢を想定していた。八十路の坂を越して大病を患って、初めて長生きした実感が湧いてきた。何人もの友人を失ってしまって、淋しい。この先、何時まで生き永らえるのか、「神のみぞ知る」こととなってしまった。人の誕生と死期は、己の意思では決められない。だとすれば、天命を待つよりほかない。老いて、「生きる目的・目標」が必要となっています、何を生甲斐とするのか、迷うところである。水に戯れる生きる目的・目標を変える・・・

  • 何を血迷ったか韓国!、《GSOMIA》の破毀・・・

    日韓関係が最悪の事態になってきた。韓国政府から「軍事情報包括協定(GSOMIA)」を破棄してきた。貿易問題が「安全保障の問題に飛び火した。凡そ冷静な決断とは思えない。韓国にとって「メリット」があるのか、理解に苦しむ。日本にとっては、「デメリット」は少ないと思う。「ホワイト国外し」の報復措置だろう。文氏個人の終わりなき怨念と偏見と思い込みによるものだ。感情的な「報復措置」は、いずれの国に於いてもプラスにはならない。日本政府は、冷静に粛々として対処すればよい。国と国との約束を守れない国とは国交断絶も止むを得ない。恐らく、世界中から、特に「NATO諸国」から、顰蹙を買い、信用を失墜することになるだろう。韓国国内の動きと、今後の世界の反応に注目し、冷静に静観することにしよう。国民を煽動するのではなく、事態の落とし所を探...何を血迷ったか韓国!、《GSOMIA》の破毀・・・

  • 誤った正義感には、落とし穴が・・・

    以前、三重県松阪市の「正論おじさん」について触れた。公道を1センチでもはみ出せば、許さないという。四角四面の「正論」には、地元でも手を焼いているようだ。その後どのようになったかは定かでない。今回常磐道で発生した「あおり運転殴打事件」は動機は不明だが、同種の事件ではないか。本人達の意識は、世の中を糺す気になっていたのではないかと思う。多分、自分達の行為は正しいと思い込んでいる節がある。誤った独善的な「正義感」は、社会が迷惑する。もし事件の動機が正義感からだとすれば、誰もが納得いく説明が欲しい。偏った正義感より、良識かもしれない。福山のバラ祭り誤った正義感には、落とし穴が・・・

  • ありがたい、パソコンの外部記憶装置・・・

    デジタルカメラが普及して、一億総カメラマン時代が到来した感がある。何処へ行っても、スマホや携帯電話で、パチリ。パチリとやっている、平和な光景だ。デジカメの普及は、フィルムレス、カメラの性能向上と画像処理技術等が格段に進歩したことによる。中でもありがたいのは、パソコンによる処理能力・画像処理技術が向上したことが大きい。摂り溜めた写真を、外部記憶装置に保存することができる。私の場合、3テラバイトの外部記憶装置により、数万枚の写真が保存されている。必要により取り出すことができ、写真不足になることはまずない。ありがたい記憶装置である。黄昏の宮島ありがたい、パソコンの外部記憶装置・・・

  • 学歴は人格に非ず・・・

    学歴社会と云われて久しい、人は何のために「学ぶ」のだろうか。最高学府を卒業した人達の「生き様」を見ると、疑いたくなるような不祥事が頻発している。学業は出世の為か、裕福な生活の糧を得る為なのか、疑いたくなる。本来学業は「真理の追求」、「人格の形成」と世の為・他人の為に尽くすことを目的としたものと思う。何時の間にか、道が外れてしまったようだ。昨今の事件・不祥事を見るにつけ、教育の真髄は「人間教育」にあるのではないか。人間社会に役立つ「学業」であって欲しいものだ。学歴が世の妨げになっては、絶対にあってはならないのだ。六甲山に登る学歴は人格に非ず・・・

  • 腹芸も時には必要だ・・・

    政治の世界や、大事を決断する時、我が国では「腹芸」が良く用いられてきたきた。その典型的な例は明治維新の「江戸城無血開城」や「日中国交回復」だった。交渉当事者同士の信頼と、胆力=「腹芸」に負うところが大であった。しかし、よくよく考えてみると、この決断には、「合理性」や「論理性」に欠けることがママあるように思う。理屈に合わない「腹芸」があったのかもしれない。所謂、高度な総合的判断力なのだろう。人間社会には、「合理主義」のみでは対処しきれない何かがある。近年、解決の糸口が見えない難題が横たわっている。時には大所高所に立った「腹芸」も必要だ。宵闇迫る腹芸も時には必要だ・・・

  • 権力者には、明確な悔い改めを・・・

    政治家の不規則発言には、完全な反省と謝罪の弁が聞かれない。「もし誤解があるとすれば・・・」と前置きして謝罪しようとする傾向がある。何故己の非を素直に謝れないのか、不思議に思う。過ちを素直に認めれば、自己にとって不都合が生じるからだろう。自己保身に徹している。心からの悔い改めがあれば、素直に許す気になれる。条件付きでは、聞いていて後味が悪い。権力者であっても、「ダメはダメ」だからだ。潔い人の弁明は聴いても、聞いていてもスッキリと納得できる。ハスに抱かれて権力者には、明確な悔い改めを・・・

  • 人生いろいろ、家庭こそ基盤・・・

    人生の幸福度は人により様々だが困難な境遇にある人ほど、安定した暖かい家庭を夢見るようだ。朝ドラ「ナツゾラ」の主人公兄妹の物語は、失われた「家族の絆」=「家庭」を実現していくストーリーだ。戦争孤児になって、北海道で「乳業農家」に拾われ、アニメーターとして成長していく物語だ。別れ別れになった兄・妹との「再会」と「家族の絆」を取り戻す物語だが、自分の体験から非常に共感できた。私も幼くして母を亡し、暖かい家庭を築くのが目標だったから、その気持ちが理解できる。「青年よ、大志を抱け」とはほど遠いが、着実に実現してきたと思っている。特に物心ついた頃耳にした「鐘の鳴る丘」は私の心に強く響き、感動した。自分の人生と重なるドラマには、特別の感情が湧くものだ。クロックス・バニキラータ人生いろいろ、家庭こそ基盤・・・

  • 韓国とは距離を置いて交際あうこと・・・

    日韓関係が次から次へと悪くなってきている。誠意をもって対応しても、理解しようとしない相手と争うのは「愚の骨頂」だ。日本はこれまでと同様、毅然とした態度で臨むべきと思う。大人の対応が求められる。マスコミも無闇に過剰反応をしないことだ。静観するのがベストだ。国民も平静を保つべきだ。これからも先々、クールに対応すべきと思う。決して挑発に乗ってはならない。相手の国内事情によるもので、相手にしないことだ。人と親しく交わるにも、仁義と礼節が必要なように、国家間においては猶更だ。これを損なうと国際的にも、信用を失墜していくように思う。韓国よ、少し冷静になれと願ってやまない。争って得になることは何もないことを知るべきだ。仲良きかな睡蓮韓国とは距離を置いて交際あうこと・・・

  • 吐いた唾は、元には戻せない・・・

    現役だった頃、お客様の苦情対応した時のことである。「苦情応対」は中々厄介なことになることがある。相手様に道理を説いても通じないことだ。特に「反社会勢力」の人だった。丁寧に説明した心算でいたところ、「吐い唾(言葉)は、元に戻せない・・・」と脅されたことがある。説明が不十分だったのかもしれないが、人間一度口に出したからには、取り返しがつかないということだ。特に政治家の「不規則発言」を聞くにつれ、その言葉を思い出してしまう。口は災いの元というが、我々一般人も発言には注意すべき言葉だ。マツダ・ヅームヅーム球場吐いた唾は、元には戻せない・・・

  • 表現の自由をはき違えれば、社会不安に・・・

    戦後、自由が保障されて以来、時には自由がはき違えられることがあったと思う。人や社会に対する迷惑を顧みずに、自由を盾にとって、勝手気ままに振舞った人達のことだ。自由は、責任と義務を伴ってこそ成り立ちものだ。近年、「表現の自由」をめぐって、問題になっている。芸術の表現の自由や政治的言論の自由等の問題だ。芸術の表現にも自ずと制約があって然るべきだ。自由には時に制約が必要だ。公序良俗に反する表現が無制限に許されて良いものか。自由のはき違いは、時に混乱を招く。表現者の見識・良識が問われる。芸術は、人間の感性の世界であり、個々の受け取り方も区々だが、無制限であってはならない。スイレン爽やかに表現の自由をはき違えれば、社会不安に・・・

  • ツクツク法師鳴く、秋の気配が・・・

    連日続く猛暑の中で、クマゼミがけたたましく鳴いていたが、ツクツクボウシが盛んに鳴くようになった。猛暑の中にも、確実に時は刻まれていることを実感した。近年、「クマゼミ」の鳴き声は、他を圧倒しているように聞こえてくる。「ミーンミンゼミ」や「アブラゼミ」は影を潜めがちだが、生態系にも異変が起きているように見える。猛暑がもたらす異変だろうか。自然界の昆虫達にとっても住みづらくなってきているのかもしれない。プラスティック塵を初めとして、人間界にも自然の猛威が襲ってきているのだろうかとつい考えてしまう。この暑さと台風は、何としても避けて通りたいものだが・・・。自然は、確実に激怒しているようだ。須らく我々が招いた結果だ。納涼ナイターツクツク法師鳴く、秋の気配が・・・

  • 韓国の国民性は・・・

    報道を聞いていると、「日韓関係」は日を増すごとに険しくなっていく。日本による「ホワイト国」外しが火に油を注いだ感がある。連日、テレビ局は躍起になって報道しているが、問題は韓国の政治的事情があるようだ。青瓦台は、事情をよく知らない国民を煽動して、政治利用しているように思えてならない。理解できないのは、アジア諸国とは良好な関係にあるのに、なぜ韓国だけかである。それだけ侵略に対する「恨み・ツラミ」が大きいということか。何時も政治利用されるのにはヘキヘキしてしまう。政治カードに使われるのは困ったものだ。利用される国民にも、不信感を持ちたくなる。不可逆的解決はないものか、隣同士は仲良くしないと・・・。ハクチョウ草韓国の国民性は・・・

  • ブログ【人間らしく】の命名について・・・

    ブログを投稿し始めてから、八百回を超え、間もなく千回を迎えようとしている。投稿する契機となったのは、病気療養中で、退屈していた私を見て、長女が勧めてくれたのが始まりだった。その際に、ブログの名称を求められ、咄嗟に「人間らしく」と云ってしまった。当初は「病状日記」として、嬉しかった事、悲しかった事、辛かった事等、心に残った事を「人間らしく」赤裸々に綴るつもりで命名した。何時の間にか、回を重ねることになり、自分でも驚くほど長続きしてしまいました。今ではブログの投稿は欠かせない日課となっている。早朝に文章を練るのは、脳にとって良いことかもしれない。何時まで続くか自信がないが、自己啓発としても続けていきたいと思っている。今では100名を超す人達が読んで下さっており、継続する意欲を支えて下さっている。山百合豪華に咲くブログ【人間らしく】の命名について・・・

  • 敗者が復活できる世の中に・・・

    人生は1回きりしかないと、日々、懸命に努力する人達がいる。一度失敗すれば、取り戻すのは、容易なことではない。特に、日本はその傾向が強いように思う。失敗を挽回するのは極めて困難だ。失敗の烙印が後々まで付き纏うことになる。過ち・失敗に対して、強い強い印象が残ってしまい、寛容な心が損なわれてしまう。スポーツには、「敗者復活戦」というルールが認められている。一度の失敗は許されるのだ。人生には、紆余曲折様々な試練が待ち構えている。人生にも失敗を恐れずにチャレンジできる機会があって然るべきだ。人の失敗、躓きを認め合う寛大な世の中であって欲しい。失敗は成功の母ていうではないか。名だたる発明・発見は失敗から生まれてきている。世界の平和を願って敗者が復活できる世の中に・・・

  • 親しき仲にも、礼儀あり・・・

    人生におけて、人間関係は最も難しいものの一つと云えよう。親子関係、夫婦関係、家族関係、友人関係、その他数えれば際限なく、複雑極まりない。人間間の距離が近づけば近づくほど、緊密になっていく。親密になればなるほど、次第に狎れ狎れしくなっていく。親しくなり過ぎると、嫌悪感となり、嫌気がさしてくる。親しい仲にも自ずと一定の距離感が必要だ。「親しき仲にも、礼儀あり」だ。人間生まれる時も、死する時も一人だ。孤独なのが本来の姿だ。狎れ合う間柄は、長続きしない。親しさの中にも、距離感が大切だ。慣れ親しんでも、狎れる勿れ。人間間には、互いに尊重し合うための距離が必要なようだ。過ぎると、狎れ合うのは見苦しい。灯篭流しで平和を祈る親しき仲にも、礼儀あり・・・

  • 子供の教育は、親の後姿で・・・

    全英ゴルフ選手権で澁野日向子さんが優勝に輝いた。「スマイル・シンデレラ」と称されて、多くのギャラリーから祝福された。何と言ってもその「笑顔」が素敵だった。ご両親をはじめ、近所の人達に育てれたという。インタビューを聴けば、両親の「後姿」が彼女の笑顔を引き出したのでしょう。子供の教育には、人生にとって最も大切な数少ない「戒め」だけで良いのではないか。後は「後姿」を見せるのが最高の教育になる。子供は放っておいても、すくすくと伸びやかに成長していくものだ。真夏に咲く蓮子供の教育は、親の後姿で・・・

  • まずは大人の教育から・・・

    世間では清濁含めて様々なシーンが展開される。気になるのは、政治家を初めてして、大人達の不祥事が相次ぐことだ。子供達には見せたくない、教育上ヨロシクない問題が多々ある。子供の躾を見れば、親が判るという。子供からすれば、大人は平気で悪くて恥ずかしいことをやっていることになる。教育上甚だよろしくないことが多い。改めるべきは、まず、大人からではないか。各所で悪事は露見し、学校ではモンスター・ペアレントが教育現場を荒らしている。子供には、自然に備わった「向上心」がある。それを手助けしてやれば、子供は大きく、立派に育つ。より良い社会にするには、まず大人からかもしれない。開花を待つまずは大人の教育から・・・

  • テレビコマーシャルは喧騒なだけ・・・

    民放テレビではコマーシャルが流されるが、喧騒なだけで見ないようにしている。中には何を云わんとしているのか分からない場合がある。大概、タレントを使っているが、品の悪いコマーシャルは、出演者の品格を落としている。コマーシャルに出演して、人気に影響しているのではないかと思う。見るたびに嫌気がさしてくる。そのたびにタレントがその商品を信じて、推奨しているのか疑いたくなる。出演料が目的なら人気に逆効果となり、出演を拒否した方が得策なのではないか。品の良いスマートなコマーシャルには、好感が持てるのだが・・・美しき咲く蓮テレビコマーシャルは喧騒なだけ・・・

  • 米国の銃乱射は法規制出来ないのか・・・

    米国ではまたまた銃乱射事件が続発している。法治国家の米国でこのような事件が続発するのを許されて良いのか。日本に住む私には、銃の放置される理由が理解できない。移民国家で各々自己の生命を守り続けてきたのだろう。全米ライフル協会等の政治的圧力を封じ込められない事情があるようだ。民主主義の先頭に立ち米国としては、余りにも情けないではないか。オバマ前大統領も銃規制を試みたようだが、実現できなかった。この悲劇を阻止できないようでは、民主国家とは言えない。国民の努力を促したい。政治家のリーダーシップを強く求めたい。ハイビスカスinサマー米国の銃乱射は法規制出来ないのか・・・

  • 自分を変えないと、世界は変わらない・・・

    バブルの崩壊後、日本の各種指標は停滞気味であり、閉塞感が漂っている。高度成長時代の人々には、先行きに希望が満ち溢れていた。久しく続いたデフレに、諦めの心理が蔓延してきているようだ。会社は、利益は上がっているのだが、将来不安があるためか、内部留保に努めている。世界各国は「自国優先」とエゴ丸出しの「保護主義」になりつつある。何とかこの重っくるしい空気を変えたい。変えようと思ったら、まず自らの生活を変えることが必要だ。「自分が変わらないと、世界は変わらない」という呼びかけは、私には新鮮に響いた。世界の変化を求めるならば、一人一人が変わらないと世界は変わらない。諦めず、コツコツとやるしかないのだ。今、世界は変わる兆しがそこここに見え始めている。不安定な世は、変革のチャンスだ。明日への希望自分を変えないと、世界は変わらない・・・

  • 小異を捨てて、大同に付くように・・・

    今日8月6日は広島に原爆が投下されて74回目の記念日が挙行された。回を重ねるごとに、厳かな気持ちとなり、参列者の佇まいにも荘厳さが漂っている。広島市長の平和宣言には心打たれるものがあった。広島が世界の先頭に立って核兵器禁止条約を推進する立場にある。にもかかわらず同条約を率先批准しょうとしない政府のスタンスに異議を唱えたい。批准しない理由は色々あるが、それは小異に過ぎない。広島選出の岸田政調会長の責任を問いただしたい。「小異を捨てて、大同につく」くらいの気概が欲しい。アメリカの顔色ばかり窺うのではなく・・・。広島の祈りの朝小異を捨てて、大同に付くように・・・

  • 忘れ物、落し物が戻ってくる日本・・・

    先日、買い物に出かけた際に、参院選の期日前投票をした。その際に、バス停で買い物袋を忘れてしまった。途中で忘れ物に気が付いて引き返した。時間的には約30分ばかり経過していた。忘れ物は紛失したものと覚悟していたが、元の位置に残っていた。その時に思ったことは、日本には誇るべき「道徳」が存在していることだった。鴎州旅行に出かけた際、添乗員に繰り返し注意されたのは、「手荷物」は絶対手元から手放さないこと、だった。手放すと、所有者不明の荷物として盗難に遭うからと注意された。海外旅行の「常識」と聞かされ、驚くとともに、日本人のマナー良さに感心した。古き善き風習は、世々限りなく継続したいものだ。平和を願う夜のドーム忘れ物、落し物が戻ってくる日本・・・

  • ウソはウソを呼ぶ・・・

    嘘つきは泥棒の始まりと子供の頃から、戒められてきた。犯した罪を「ウソ」で云い逃れれば、さらに「ウソにウソ」をつく羽目になる。ウソをつけば、ついには、盗人にもなりかねない。昔も今も変わらないようだ。ウソを語れば、インタビューで「眼」と「挙動」を見ていれば、凡その見当がつく。言葉巧みに語っても、「真実」でなければ、いずれは化けの皮が表れるものだ。正直に悔いて謝罪するのが、ベストの選択である。過ちは、素直に認めよう、そして、直ちに謝ろう。祈りの朝ウソはウソを呼ぶ・・・

  • 生きるのは競争じゃない・・・

    少年時代から「受験競争」「入社試験試験」「任用試験」等と、試験に追い回されてきた。常に他人との競争に明け暮れてきたように思う。スポーツにしろ人生にしろ、競い合うことが宿命であった。気が付けば、人生の晩年になってしまった。それまでは「競争社会」に生きてきた。仕事から解放されて初めて、悠々自適の生活になり、競い合う生活から自由の身になった。そんな折「生きるのは、競争ではない」と聞けば、新鮮な響きに聞こえてくるではないか。「競争」は人間相互の「切磋琢磨」には役立つだろうが、「生きる」のは競争じゃあないと聞けば、頷ける。悠々自適の身になれば、「生きる目的と終着駅」が見えてくる。焦らずに、ゆったりした時の流れに浸りたい。今は、ただ、人生に悔いを残さないよう努めている。夜咲くスイレン生きるのは競争じゃない・・・

  • 身を捨ててこそ、浮かぶ瀬も・・・

    人の言動をよく観察していると、「自己中心」になっている。何か事があれば、「言い訳」と「保身」になりがちだ。自己に不利と見るや、「保身の術」に嵌ってしまう。途端に、正直でなくなる。「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もある」と正直な勇気ある発言が、影をひそめる。正直な自白は、人の心に響くものだ。弱い立場の人には、「失うものが何もない」のが強味だ。「身をなげうってこそ」迫力もあり、訴える力が強くなる。己を捨ててこそ、そこに「立つ瀬」があるのだろう。人は「ウソ」と「言い訳」を見抜く術を知っている。「保身」ほど醜いものはない。「権力」と「名誉」と「富」が「保身」を招く。向日葵の季節身を捨ててこそ、浮かぶ瀬も・・・

  • 人格は、見破れないか・・・

    「魔の3回生議員」が、また、不規則発言・暴言問題で、メディアの俎上に上っている。報道によると、「公募」で選出された議員だと聞く。議員に当選するには「地盤・看板・鞄」が必要と云われ、世襲議員が槍玉に挙がっていた。今回、問題の国会議員は、「公募」で選ばれて当選した議員だ。議員辞職に値する暴言だ。それほど常軌を逸している。無所属に鞍替えして議員辞職をしようとしない。公募には「スピーチ・筆記試験・面接」等により選ばれるが、性格、人柄、信条、見識等は見破れない。そこに「公募」による推薦制に、大きな落とし穴がある。羊頭狗肉は世の常だが、「出たい人」より「出したい人」を選ぶには課題がある。無節操で問題ある議員を出さないためには、人選方法を再考する必要がある。国の未来を託せる人物の登場を期待し、政治家の志を問い糺したい。清流の...人格は、見破れないか・・・

  • 怒りと感動は、表裏一体・・・

    身体と心は、繋がっているといわれている。身も心も一体のことだ。「怒り」は身体に直接影響を及ぼし、健康上、留意すべきだ。「怒り」は「感動」と表裏一体の関係にのようだ。感動する人は怒りも激しい傾向がある。己を見れば、人一倍感激屋であるとともに「怒り」も激しいようだ。良くく云えば、「感受性」が豊かということか。「感情の起伏」が激しいのだ。精神的に安定して良い年頃だが、未だに感情が制御しきれない証拠か。「喜怒哀楽」が、すぐに表情にも出てしまう。正直と云えば聞えは良いが、未熟なのだろう。何事にも平静でありたいものだ。瀑布怒りと感動は、表裏一体・・・

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