chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
私の「舞踏会の手帖」30年間合わなかった知人の家のベルを押してみた。どのように変わったのか、を確かめてみた。 https://blog.goo.ne.jp/neckerwi

昔出会った人々がどのよなうな生活をしているかを知りたくて、突然尋ねてみることにした。こんな体験をしたことのある人は少ないであろう。 30年という時間の経過で知人はどのように変わったであろうか。自分自身で確かめてみた。

人は年月によって変わっていきます。自分も変わっていきます。 幸福になった人もいれば運が悪かった人もいました。 それを批判するのではなく、どのような原因であったかを考えてみました。

竹ちゃん
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2019/05/30

arrow_drop_down
  • 「私の舞踏会の手帖」は健康のための散歩から始まった。

    注意:このブログは新しい投稿を古い日付に設定しています。新しい投稿は下のほうになります。訪問した順番に説明するため、通常のブログとは逆の投稿となりますのでご注意下さい。ブログを開いたときに最初の画面が変わらないため、「新しい投稿が無い」と判断されて他のブログに移動されず、最後までお読み下さい。老後の健康は散歩から。平成22年、私は60歳となった。還暦になったことで健康診断を受けたところ、医者から、「老後になって体調を崩すから、今の内から健康管理のために何か運動をした方が身体に良いのでは。」とアドバイスを受けた。振り返ってみると私の30代、40代は働きづめであり、特にこれといった運動はしてこなかった。いまさらゴルフやテニスなどの趣味に取り組む気はないし、そんなスポーツに金をかけるだけの余裕もない。そこで、医者に、...「私の舞踏会の手帖」は健康のための散歩から始まった。

  • 出版社からの厳しい批評

    マスコミによるブログの批評3年以上の時間をかけて、30年以上出会っていない知人の自宅を訪問してきた。訪問した知人は80人以上となったが、原稿をまとめてブログにアップしたのは20数人である。私の個人的な感想ではあるが、突然に旧友と再会することは私の半生を整理するようなもので、興味深いものであった。旧友達は意外な人生を歩んでおられ、1、2時間の会話の間にどのような活動をして、どの時点で変化があったかを知ることができたからだ。電話や手紙などでは得られない、微妙な雰囲気を掌握することができた。こんな体験をした人は少ないはずであり、このブログを一冊の単行本にできないか、と考えた。伝を頼って2、3の出版社に刊行を依頼することにした。しかし、各出版社からは採用不可という回答であった。出版社からは採用できないという理由を開示し...出版社からの厳しい批評

  • 突然に知人宅を訪問したら。

    ベルを押してからの一瞬で相手が判る。私の散歩の目的地は20、30年も会っていない知人の自宅である。地図を片手に知人宅に到着したなら、知人宅のベルを突然に押すのである。相手の都合などは全く無視し、どんどんベルを押すのである。ベルの音に反応した知人がドアーから顔を出し、再会してみるとこれが面白いことに気がついた。私が面白いと感じた点は次のように要約される。①最初の対応で相手の全てが分かる。20、30年振りの再会で、知人達がどのような反応をするか確かめられる。突然の再会であるため、皆驚いた表情になるのは当然である。気持ちの準備ができないこともあり、私をどの程度まで記憶していたか、が判別できる。「おや、久し振りだね」と親しげに挨拶してくれるのだろうか。或いは、昔は親友のような付き合いであったが、再会してみると「何のため...突然に知人宅を訪問したら。

  • 映画「舞踏会の手帖」とは。

    舞踏会の手帖のストーリー。20、30年も会っていない昔の知人の自宅を突然訪れる、という散歩を繰り返しているうちに、私の行動は昔観たことのある映画「舞踏会の手帖」とソックリなことに気がついた。映画「舞踏会の手帖」とは昭和12年に発表されたフランス映画で、数多くの賞を受賞した名画である。監督はジュリアン・デュヴィヴィエで、「望郷」、「モンパルナスの夜」、「巴里の空の下、セーヌは流れる」などの名作を残しており、フランス映画四大巨匠の一人と称されている。主演はマリー・ベルで、「外人部隊」などに出演したので有名であるが、主に舞台俳優として活動をしていた。また、「舞踏会の手帖」で共演した俳優達は、当時の一流の俳優ばかりであった。日本では昭和13年に公開され、戦中は上演が禁止されたが戦後になって再度公開されて爆発的な反響を受...映画「舞踏会の手帖」とは。

  • 私のプロフィール

    最初に、私の半生を簡単に説明しておく。私のバックグランドを説明しておかないと、訪問した知人との関係が理解でき難いからである。〔山形から東京へ〕生まれたのは昭和25年。出生地は山形県にある人口4万人の地方都市で、何の特色もない全国の何処にでもあるような平凡な街である。実家は農業であったが、戦後の農地開放で貰ったような狭い農地なので、農業だけでは生活できず、父親は隣町の町工場に勤めていた。母親は時々町内の商店にパートに働いていたが、特技があるわけでもないので給与は安かった。父母のやりくりで、親子4人が何とか生活をしていた。その父親は10年前に亡くなり、母親は90歳近くになって実家を継いだ2歳年上の兄が面倒をみている。地元の中学校では上位から5番以内の成績であったので、市内の県立高校の普通科に進学した。入学した高校は...私のプロフィール

  • 離婚を前提として、妻とは別居していた。

    【氏名】山田孝一、20数年振りの再会だった。【記憶にあるプロフィール】山田は昭和22年の生まれで、私より3歳年上。東京の私大の工学部を卒業し、学生時代から英語を勉強していたので、卒業後は就職せずにフリーの技術翻訳をしていた。途中で気が変わったようで、従業員200人規模の業界では大手の設計事務所に就職している。ここで実務経験をして受験資格を得てから一級建築士の試験に望み、32歳で合格した。合格後もそのまま同じ事務所に勤め続けた。事務所では設計や意匠の仕事をせず、得意としていた語学力により、外国文献の翻訳や外国からの同業者の通訳の仕事をしていたらしい。独立したのは38歳と比較的遅かった。山田とは知人の紹介で、私が合格した年に最初に出会った。山田はまだ受験中であり、私の勉強方法や参考書などの受験テクニックを聞くためで...離婚を前提として、妻とは別居していた。

  • 5年前に失踪していた知人。

    【氏名】石田和夫、消息は全く掴めなかった。【記憶にあるプロフィール】私と同じ昭和25年の生まれなのだが、早生まれのため1年上級である。石田と知り合ったのは、関東地方で同期に合格した者がだけが集まる懇親会であった。旧帝国大学の工学部建築科を卒業しており、私と大学や職場は全く違っていたため、合格する以前の石田の個人暦は知らない。同期の合格者の中では際立って頭の切れる男で、多少の英会話もできて話題も洗練していた。趣味は蘭の温室栽培であり、一度だけであるが、新聞に新種の欄を開発したことが掲載されていた。車の運転が好きで、イタリア系のスポーツカーを2台所有していた。一度だけで彼の車に同乗させてもらったことがあったが、高速道路を軽やかに運転していた。「仕事に疲れた時には、東名高速を車で飛ばし、箱根まで往復するんだ。運転に集...5年前に失踪していた知人。

  • 海外からの元気な知らせ。

    【氏名】新海久美子、国際結婚をしていた。【記憶にあるプロフィール】新海とはネパールの安宿で知り合った。私がネパールに旅したのは昭和53年で、建築士の試験に合格した28歳の時であった。国家試験に合格したので、自分自身のご褒美として2カ月くらいの海外旅行をすることにした。残り少なくなった20代の青春の思い出をつくることも目的であった。行き先はインドとした。昭和50年代には、若者がインド、中近東方面に旅行するのがブームであった。若者向けの週刊誌には、インド旅行の特集記事が掲載されていることが多く、そのような情報に感化されたのであろう。安航空券と貯金の全てを両替した千ドルを手にしてインドに旅立った。安航空券ではインドまでの直行便には搭乗することはでき、香港、バンコクでそれぞれ一泊しつつカルカッタ(現、コルカタ)に到着し...海外からの元気な知らせ。

  • 生活にだらしない、と自嘲していた。

    【氏名】山中守、ボンヤリと独身のまま生きてきた。【記憶にあるプロフィール】生まれは昭和25年、富山県の出身。私と同じ大学の工学部に同期で入学した。学科は違っていたが、同じ学生寮に4年間住んでいた。山中の性格は、「主体性は特になく、世の中の流れに身をまかせて流されていく。平凡な男が持っている平均的な欲望は無く、その日その日を楽しく過ごせていけばそれで十分。他人からの干渉がなく、自分で考えた範囲での行動ができれば幸せ。」というものである。良く表現すれば「性格温厚、人畜無害」であり、悪く言えば、「向上心は無く、自堕落な生活に満足する」ということかもしれない。さりとて、大酒を飲んで暴れるとか、小金が欲しいので悪事を働く、ということまではしない。適度に常識があるため、生活が成り立たなくなるほど落ちぶれるようなことはせず、...生活にだらしない、と自嘲していた。

  • 再会を頑に拒否してきた、歳月が性格を変えてしまった。

    【氏名】鈴木芳子、どんな人生を送ってきたのだろうか。【記憶にあるプロフィール】昭和23年生まれ。鈴木とは沖縄旅行で知り合った。大学2年生の夏(昭和45年)、私は沖縄を旅行した。この頃、大学生の夏の旅行先は北海道か沖縄が人気であった。北海道の旅行では、巨大なリュックサックに生活用具一式を詰めて、駅のベンチや公園で野宿するのが通例であった。学生の旅行スタイルは「カニ族」と呼ばれ、当時の社会ではそんな貧乏学生を温かく見てくれていた。「金の無い学生が旅行するのだから、多少は汚い恰好で歩いていてもしてもしかたない」と判断したのか、何日も放浪のように旅をする学生にたくましさを感じたのであろう。何れにせよ、まだ学生を甘やかせてくれるだけの社会の余裕があった。また、沖縄方面も学生には人気があった。沖縄よりも少し手前の与論島や沖...再会を頑に拒否してきた、歳月が性格を変えてしまった。

  • 現在の生活は問題ないが、仕事を辞めたらどうなるだろうか。

    【氏名】永山邦夫、建築士の仲間の中では比較的順調な人生を歩んできたが。【記憶にあるプロフィール】生まれは昭和25年で私と同年令。北海道の北斗市(函館市の隣)の出身で、地元の高校を卒業した後で東京の私学に入学した。卒業後はそのまま都内の建築設計事務所に就職して建築士を目指していた。私とは大学、職場は違っていたが、受験仲間であった。私の受験勉強中は、夜間の専門学校に通うのと平行して、数名の仲間と共に受験サークルを開催していた。専門学校で受講した知識だけでは試験を突破するのは難しく、毎週末に集まって受験対策を自主的に練らなければならなかったのである。永山は、誰かの紹介で我々の受験サークルに参加し、3年間ほどは毎週出会い、合宿もして濃厚な付き合いがあった。サークルの仲間が交代で試験官役となり、相互に試験問題を出し合って...現在の生活は問題ないが、仕事を辞めたらどうなるだろうか。

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、竹ちゃんさんをフォローしませんか?

ハンドル名
竹ちゃんさん
ブログタイトル
私の「舞踏会の手帖」30年間合わなかった知人の家のベルを押してみた。どのように変わったのか、を確かめてみた。
フォロー
私の「舞踏会の手帖」30年間合わなかった知人の家のベルを押してみた。どのように変わったのか、を確かめてみた。

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用