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歴史散歩 https://hoshistory.com

日本史の史跡をめぐっています。年表が作れるくらいめぐりたいな。

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2019/05/25

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  • 脇坂家が賤ヶ岳七本槍で唯一生き残れたワケ

    1626年8月6日 脇阪安治がこの世を去りました。 功を求めた先に転がり込んだ名誉と城 脇坂安治はその生涯、常に功名を求めた人でした。 小谷山麓にある脇坂甚内安治屋敷跡碑 1554年、近江国小谷城下(滋賀県長浜市)で浅井家家臣脇坂安明の嫡男として生まれ、1573年に浅井家が滅びた後は、明智光秀の与力として従軍します。この時から功名に焦っていたのか、羽柴秀吉の下で働けば功を得られるに違いないと思った

  • 金栗四三も激走!東海道560キロ、69人が走って繋いだ最初の駅伝

    1917年4月27日、日本初の駅伝「奠都五十周年東海道五十三次駅伝競走」が行われました。 奠都五十周年東海道五十三次駅伝競走 1917年は東京が新たな都に定められて五十年という節目でした。このイベントの主催を担っていた読売新聞社は協賛事業として、リレー形式のマラソンを企画し、当時のマラソン第一人者である金栗四三に協力を打診したところ、金栗は即答で了承します。 コースは京都三条大橋から上野不忍池まで

  • 【ゴローニン事件】日露和平に尽くした高田屋嘉兵衛の生涯 (後編)

    【日本遺産】「北前船の寄港地と船主集落」に登録された、兵庫県洲本市。18世紀~19世紀にかけて、北前船の船頭として、函館を潤し、日露和平に尽くした高田屋嘉兵衛の生涯について、後編です。 択捉航路開拓 18世紀の中頃から、ロシアが日本との商業取引を求めて、蝦夷地(北海道)へ度々接近していました。日本は鎖国中でしたので、拒否し続けていましたが、さすがに防衛の必要が出てきました。そこで、幕府は蝦夷地や千

  • 【ゴローニン事件】日露和平に尽くした高田屋嘉兵衛の生涯(前編)

    2017年、文化庁が定めた【日本遺産】に「北前船の寄港地と船主集落」が加わりました。その多くは、北前船の寄港地で、北海道から日本海を経て関門海峡から瀬戸内海を経て広島、兵庫、大阪へと至る航路上にあります。 北前船は多くは大阪で仕入れ、買い付けた品物を、航路の寄港地で売り、その港で更に商品を買い付けて、再び他の寄港地で売るという、まさに「海に浮かぶお店」でした。 その日本遺産に登録された寄港地、集

  • 辞世で抗議、罪なき罪で露と消えた駒姫と秀次妻子たち

    1585年8月2日 豊臣秀吉の妻女ら三十人が処刑されました。 1595年7月15日に豊臣秀次が高野山で命を絶ったのち、豊臣秀吉は秀次に関与した者たちを徹底的に処罰します。 家老の白江備後守、熊谷直之は自尽、木村常陸介は処刑され、妻子も磔となりました。この時、まだ幼かった木村重成は処罰を免れ、後に大坂の陣での八尾の戦いで命を落とします(異説有)連歌師の里村紹巴も近江三井寺に蟄居するなど、秀次に関わっ

  • 魔性の女?烈女?傾国の美女小少将

    Playstation4のゲーム「戦国無双4」に、小少将という女性キャラクターが出てきます。このゲームでは敵味方を惑乱させ、戦場を渡り歩くトリッキーなキャラクターとして表現されており、また魔性の女として取り扱われています。 もちろん、このゲームは完全に史実通りの表現をしているわけではありませんので、大幅なアレンジが加えられています。ゲームらしくその姿も性格もかなりイケイケです。 この小少将のモデル

  • 【久米田の戦い】鉄砲で討たれた最初の武将?三好義賢の最期

    1562年3月5日 久米田の戦いで三好義賢(実休)がこの世を去りました。 阿波勢を引き連れて兄を助ける 1553年に三好義賢は細川持隆を討ち、持隆の子・真之を擁して傀儡とし、阿波での実権を握ります。そして阿波の勢力を率い、三好家の軍事の担い手として兄三好長慶を助け、河内守護の畠山高政を河内から追放し、代わって河内守護となります。(※この畠山高政は、応仁の乱の原因の一つとなった畠山家で家督相続を争っ

  • 【見性寺事件】肉親擁護の果てに……三好義賢が細川持隆を討ったわけ

    1553年6月17日 三好義賢(実休)が見性寺で細川持隆を討つ事件が起こりました。 見性寺(勝瑞城跡) 阿波細川家を支える 兄三好長慶が、管領細川晴元に仕えたのに対し、弟三好義賢は阿波細川家の細川持隆に仕えます。 細川持隆は細川晴元の従弟にあたり、その父である細川之持は晴元の父澄元をよく補佐し、三好長慶らの父三好元長を庇護していたといいます。その為、元長が晴元の手によって命を落とした後も、之持と持

  • ホトトギスが呼んでいる……二度の落城の果てに時代に殉じたお市の方(北の庄城跡/福井県福井市)

    1583年4月24日 北の庄城が落城しました。 福井市内にある北の庄城跡 最期の宴 1583年4月21日、柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、妻子の待つ北の庄城へ戻りました。 その途中で勝家は越前府中城(福井県越前市)に立ち寄り、先に戦線を離脱した前田利家と面会しました。そして利家を責めるどころかこれまで自分に従ってくれたことを感謝し、利家が秀吉と仲が良かった事を思い、秀吉に降り家名を残すよう

  • 俺の屍を越えて行け、主家に殉じた柴田勝家(賤ケ岳古戦場/滋賀県長浜市)

    1583年4月16日 賤ケ岳の戦いが起こりました。 賤ヶ岳山頂にある賤ヶ岳古戦場碑 清須会議 1582年6月13日、本能寺で散った織田信長の敵討ちとして大山崎の戦いで明智光秀を打ち破った羽柴秀吉は、この時織田家中で最も発言力を持つ立場にありました。 6月27日に清州城(愛知県清須市)で織田家の後継者と信長の遺領の分割を決める為の会議、清須会議が行われます。この時、織田家家老の柴田勝家は信長の三男で

  • 彰義隊奮戦も、上野戦争が一日で終結したわけ(彰義隊の墓/東京都台東区)

    1868年5月15日 彰義隊と新政府軍による上野戦争が勃発しました。 上野公園内の彰義隊の墓 稀代の天才戦略家 西郷隆盛と勝海舟の会談を含め、様々な人々の想いによって成し遂げられた江戸城無血開城から、約一月。無血開城に不満を持つ旧幕臣たちは各地で蜂起していました。 西郷と勝の会談の際に、勝が提示した降伏条件について、武器・軍艦一度新政府軍が徴収し、徳川家に対して入用分を下げ渡すこととして、決まった

  • 江戸城無血開城 二人の巨人の陰に二人の未亡人(西郷南洲・勝海舟会見之地/東京都港区)

    1868年3月14日 西郷隆盛と勝海舟が江戸城開城交渉を行いました。 江戸城巽櫓 慶喜遁走 1868年1月3日に起こった、鳥羽伏見の戦いで、徳川慶喜率いる幕府軍は西郷隆盛率いる明治新政府軍に敗れ、慶喜は会津藩の神保修理の進言で、大坂へと退く幕府軍を置いて、船で江戸へと戻ります。大将を失った幕府軍は混乱に陥ります。 1月7日には徳川慶喜を朝敵とした追討令が出され、新政府軍による徳川追討が始まりました

  • これからは海ぜよ!坂本龍馬が学んだ海軍士官教育の地(神戸海軍操練所跡/兵庫県神戸市)

    1864年5月神戸に海軍操練所が開かれました。 神戸市にある海軍操練所跡碑 海軍操練所開所 1863年3月、幕府の軍艦「順道丸」に乗船した十四代徳川家茂に、随行していた勝海舟は、海防の必要性を直々に訴え、神戸に海軍操練所を開所する許可を得ます。この時、勝は朝廷からも内諾を得ており、また幕府と対立関係にあった長州藩にも海軍開設の必要性を説いて回っていました。 勝の弟子であった坂本龍馬もまた海軍塾の塾

  • トンビがタカを産んだ……勝海舟、貧乏旗本から大躍進(勝海舟生誕地/東京都墨田区)

    1823年1月30日 勝海舟が生まれました。 東京都墨田区にある勝海舟生誕地碑 一介の貧乏旗本だった勝海舟 勝海舟は下級旗本の勝小吉の長男として江戸に生まれました。父・小吉は吉原通い、着道楽、ケンカが好きな「不良旗本」と呼ばれていました。剣の腕も立ち、道場破りを繰り返しながら、生涯無役で悠々自適な生活をしていたといいます。侠客で町火消の新門辰五郎が「右に出るものなし」と言う程強かったのです。 そん

  • 【神戸事件】滝善三郎、武士としての誇りをもって(神戸事件発生地碑/兵庫県神戸市)

    1868年1月11日 備前藩士滝善三郎がフランス水兵に怪我を負わせた神戸事件が起こりました。 三宮神社にある神戸事件発生地の碑 神戸事件発生 1868年1月3日に、京都で鳥羽伏見の戦いが勃発、その間幕府方の摂津尼崎藩を牽制するため、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警備を命じました。 生麦事件などの参勤交代時での外国人との衝突を避けるために、山陽道には徳川道(西国往還付替道)が前年12月7日に開通され

  • 秀吉の横恋慕?若狭を取り戻そうとして散った武田元明(宝幢院/滋賀県高島市)

    1582年7月19日 武田元明が明智光秀に加担した罪で、没しました。 滋賀県高島市の宝幢院にある武田元明の墓 翻弄され続けた人生 若狭武田家は甲斐武田氏、安芸武田氏からの分家で成立した大名でした。 武田元明の妻は京極高吉の娘、竜子で、弟に京極高次がおり、北近江の大名浅井長政の姪であり、浅井三姉妹の従姉でもある人物です。 1568年に越前の朝倉義景が若狭に侵攻し、元明は強引に一乗谷へ移住させられてし

  • 【蛤御門の変】今楠公・真木和泉、天王山に散る(十七烈士の墓/京都府大山崎町)

    1864年7月21日 真木保臣ら十七人が天王山にて命を散らしました。 酒解神社鳥居 蛤御門の変(禁門の変)にて、久坂玄瑞と共に堺町御門から突入を試みた真木和泉(保臣)でしたが、久坂と真木が到着した時には、先行した来島又兵衛は討たれ、長州勢は敗走し始めていました。 上洛軍の責任者であった真木は、久坂らが鷹司邸で散った後、天王山方面へ退き、兵たちを国許へと帰還せるため、天王山に立てこもり、攻め寄せてく

  • 判決前に……六角獄舎の悲劇、平野国臣ら露に消える(六角獄舎跡/京都府京都市)

    1654年7月20日 六角獄舎に投獄されていた平野国臣らが処刑されました。 六角獄舎跡 六角獄舎の正式名称は「三条新地牢屋敷」といい、何度かの移転を繰り返した後、1708年の京都大火の後に六角通りに移転されたことから、六角獄舎と呼ばれるようになりました。 ここでは安政の大獄により捕まった政治犯や、過激な尊王攘夷思想を持った志士たちが多く捕らえられ、処刑されていました。坂本龍馬の妻、お龍の父、楢崎将

  • 【蛤御門の変】久坂玄瑞東奔西走、受け入れられなかった嘆願書(蛤御門/京都府京都市)

    1864年7月19日 蛤御門の変(禁門の変)が起こり、久坂玄瑞がこの世を去りました。 蛤御門 長州激昂 1863年8月18日に起こったクーデター八月十八日の政変により、長州を中心とした尊王攘夷派は京都から一掃されます。 久坂玄瑞は兵庫まで落ち延びますが、長州に戻ることはせず、情報収集のためにそのまま京都や大阪に潜伏していました。 その間、長州以外の攘夷運動は高まり、1863年10月は但馬で生野の変

  • 【池田屋事件】御用改めである!勇名を馳せた新選組の長い夜(池田屋事件の碑/京都府京都市)

    1864年6月5日 池田屋事件が発生しました。 「池田屋事件」――――それは新選組史上最も大きく、新選組の名を京都の町に轟かせた出来事でした。 京都市三条にある池田屋騒動跡碑 八月十八日の政変 当時、朝廷は尊王攘夷派と公武合体派に分かれており、攘夷派は天皇の攘夷祈願の為の大和行幸を計画していました。それは孝明天皇に大和で軍議を開いていただき、それによって幕府から軍事権と施政権を取り返すという、討幕

  • 花も花なれ人も人なれ、誇り高く生き抜いた細川ガラシャの最期とは(越中井/大阪府大阪市)

    1600年7月17日 細川ガラシャが玉造の屋敷に火を放ちました。 大阪城の南側に、細川ガラシャの最期の地である館跡の井戸があります。越中井です。細川忠興が越中守であったことから、そう呼ばれています。 越中井 石田三成の大名妻子人質作戦 1600年、徳川家康が会津征伐に出征している間に、石田三成が家康を討たんと決起します。その際、三成は大阪に残った大名たちを味方にすべく、彼らの妻子を人質に取る策を取

  • 願わくば我に七難八苦を与えたまえ、山中鹿介の願いは子孫たちへ(山中鹿介の墓/岡山県高梁市)

    1578年7月17日、山中鹿介がこの世を去りました。 1578年7月3日、上月城が毛利軍に攻め落とされ、尼子家が滅びました。尼子家再興に燃えていた山中幸盛(鹿介)は捕らえられ、毛利輝元の元へ連行されます。 鹿介の最期 鹿介が抵抗する様子を見せなかったことを、吉川元春は不審に思っていました。以前、月山富田城の戦いの後、一度鹿介を捕らえたのですが、その時彼は腹痛を装い、厠から逃げ出していました。そして

  • 生き残った幸村の娘、直(御田の方)の数奇な生涯(妙慶寺/秋田県由利本荘市)

    1635年6月11日 岩城宜隆の正室、御田の方がこの世を去りました。 御田の方の肖像(史跡伝承保存の里 天鷺村歴史館にて) 真田信繁(幸村)には三男七女の子どもたちが居ます。直(なお/なほ・御田の方)は信繁の五女で、母は豊臣秀次の娘・隆清院です。 父との別れと捕縛、大奥へ 父・信繁と祖父・昌幸は関ヶ原の戦いの際、西軍につき、敗北しましたが、伯父の真田信之の必死の嘆願により命を救われ、高野山に流され

  • 悪行も謀反も全部誤解です、豊臣秀次が命を絶ったわけ(金剛峯寺/和歌山県高野町)

    1595年7月15日 豊臣秀次が高野山金剛峰寺の柳の間で命を絶ちました。 金剛峯寺 2016年の大河ドラマでも話題になった豊臣秀次。彼が命を絶った理由についても、これまでは秀吉に命じられて命を絶ったという説が強かったのですが、「秀次が自らの潔白を訴える為」に命を絶ったのではないかという新説が持ち上がりました。 今回は秀次が命を絶つまでを追ってみましょう。 秀吉の後継に 1591年9月22日、秀吉の

  • この世の極楽浄土「平泉」を造営した男・藤原清衡(中尊寺/岩手県平泉町)

    1128年7月13日 奥州藤原氏初代・藤原清衡が亡くなりました。 平安の風わたる公園にある藤原清衡像(秋田県横手市) 奥州藤原氏といえば、源義経を奥州で保護し、匿った藤原秀衡が最も有名です。藤原清衡は秀衡の祖父に当たる人物で、奥州平泉を作った人になります。 この藤原清衡という人物、中尊寺金色堂に眠るというだけで、煌びやかな人生を謳歌した人物に思えますが、実際の彼の人生は血生臭く、苛烈なものでした。

  • 息子を心から愛した表裏比況、真田昌幸の名言とは……(真田庵/和歌山県九度山町)

     1611年6月4日 真田昌幸が配流先の九度山で亡くなりました。 「表裏比興」(老獪で食わせ者)と呼ばれ、その智謀は徳川家康からも恐れられていた真田昌幸。比興という言葉は現代では「卑怯」に通じていますが、当時は褒め言葉だったといいます。今でも真田昌幸といえば、表裏比興と代名詞のようになっているこの言葉、昌幸に掛かれば悪い言葉に聞こえないのが不思議です。 和歌山県九度山町にある「九度山・真田ミュージ

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