日々考えたことをつらつらと書いています。 日常的なことを、かなり小理屈めいて考えています。 興味がありそうでしたら、ちょろっと覗いてみてください。
今週も振り返ってみたいと思います。 見てみますと、当初の目的であった土日後の落ち込みはなくなりました。やはり休みを設けずに毎日更新していると落ちないようです。 ただ今週は徐々にアクセス数が下がっていました。木曜日に少し上がっているのは、また間違えて下書きに置いてある文章を公開にしてしまったからです。 スマホだと下書きは右上に公開ボタンがあるのですが、これが予約投稿にしておくと更新ボタンになってしまいます。ボタンが同じ位置なので、予約投稿済みのものと予約投稿前のものとを続けて手直ししていると間違って押してしまいます。困ったなぁ。 しかしそれ以降は少し上がっていますから、あまり関係なかったりするの…
皮膚はなだらかで 四肢もゆらぎなく されど目は瞬いて 頭は霞む 内奥を刺し 臓を抉り 痺れが拡がり 癇を生む されど見開き 前を向き 足を踏み出そう
エッセイと小説・論述 〜エッセイは私が主人公の小説だ(ちょっとちゃうやろ…)
ついでに小説とエッセイの違いについても少し考えてみましょうか。 小説と論述の違いは、世界に対する理解の仕方の違いだ、ととりあえず考えてみました。草原を前にしてその光景を描写するのが小説ならば、その植物相や風土を記述・分析するのが論述だ、ということになるでしょうか。世界を普通に見えるままに捉えるか、本質的に捉えようとするかの違いと考えたわけですね。 ではエッセイではどうでしょうか。 エッセイでは周りの世界に対しては小説とあまり変わらない気がしますね。書き手に受け取れる形で捉えていくことになりそうです。しかし論述のように本質的に捉えていくばかりとも言えない気もします。美しい自然について書かれたエッ…
創作と論述 〜周りの世界に対する表現の仕方が違うのだ。これでいいのだ。だっふんだ。
創作は描写が入りますが、他の文芸ジャンルではまずありません。小説はレッシングによると時間的芸術で、小説の言葉は前から後、前から後、というふうに続いていきます。この関係が時間と同じなので小説は時間的芸術となるのかもしれません。 ではエッセイや評論、論文はどうなるのでしょう。 描写はありません。しかしエッセイなら入っていてもいいでしょう。紀行文ならあってもおかしくありませんね。けどある地域の風土を分析した文章であれば皆無の可能性もあります。 これは自然を言葉で表現しなければならないから入り込んでくるわけですね。となると自然、いえ自然世界と言った方がいいのでしょうか、私たちの周りに存在する世界を可能…
言葉のジャンルの違い 〜小説、エッセイ、評論、論文…どこがどう違うんだろうか…
さて、別段小説の話がしたかったわけではないのですが、言葉がなにを表すのか、という問題からややこしく迷い込んでしまいました。 とりあえず小説が時間的芸術で言葉もまた前から後、前から後、と時間と同じように進んでいくということだけ今日はわかったことにしておきましょう。 しかし小説は芸術です。どんな芸術だ、と言われたら時間的芸術というだけでは足りずなんと言っていいかわからず困ってしまいます。たしか東大総長も勤めた文芸評論家兼映画評論家の蓮實重彦は、小説とはなんであるか、という定義をすべて裏切るものこそが小説だ、と述べていたことがあります。とりあえずなんでもありなんだとは言えそうですが、一応他のジャンル…
言葉と視覚的世界 〜目に見えるものを言葉にすると世界は分断され置き換えられる?
言葉が対象と恣意的に結びついている、という関係を記号と呼びます。これ僕の、と名前を書いておくような姿を思い浮かべてもらえばいいかもしれません。名前というものがサインや印と一緒の働きをして、そうしたサインや印のことを記号と呼ぶわけですね。物にシール貼るようなもので、シール貼ることを記号化ということになるでしょうか。 これが便利な考え方だというので、昔随分流行りました。記号論というのですが、日本では80年代頃に流行ったそうです。そのおかげでよく古本屋に並んでいて手に取りやすく、今でも探せば簡単に見つかるかと思います。最近になってこの頃出た大きな本が文庫化されたりもしています。この文章を読んでいらっ…
言葉は何を表すのか、なんて、とても大変な問題です。私の頭だけでは無理なので、また偉い先生の言うことを参考にさせてもらいましょう。 ソシュールというとても偉い言語学者の方がいて、この方が言葉の意味づけについてとても面白い考え方をしました。 ソシュール先生は言葉とその意味するものは別段なんら必然性はないと言います。たとえば犬を、毛並みのある鼻と口のとがった人よりも小さくワンワンと鳴き周りにまとわりつき可愛らしいけど獰猛でもありうる人間に近しい動物、を意味するのは単に言葉と対象となるものの結びつきでしかない、というわけですね。 つまり 犬(言葉) + (対象) という関係なわけです。 この時、言葉と…
今週からブログ状況を振り返ってみたいと思います。 今までは土日は投稿せずにすましていたのですが、やはり顕著にアクセス数が下がりました。それだけでなく翌日からも中々回復しませんでしたので、やはり毎日投稿した方がいいのかもしれない、と考え直した結果です。 普段は小理屈的ですので土日は変えてみようと悩んだのですが、こうして一週間の状況を振り返ってみるのもいいかな、と思い決めました。問題はもう一日分で、なにか理屈ではない感情的なものを、と悩み結局昨日のようなものになってしまいました。 振り返ってみますと一日アクセス数が多い日があります。引っ込めてしまいましたが、その日はお礼を述べた日でした。Googl…
何を求め 草叢に入ったのか 肌は裂け 土はぬかるみ 日も暮れる 握るものなどなく 残るのは疲労のみ だが草叢の道は覚え 森へと明日は向かう
言葉と現実 〜言葉って、本当に言いたいことを表しているのかしら
またベルクソンという哲学者は時間というものは持続であると考えました。一般に理解されている時間は空間的に区切られたもの、つまり本来なら時間とは区切ることも出来ないずっと続いているものなのに、1秒とか1分とかわけていて理解している、それは空間を1cmとか10mのようにしてわけているのを時間に当てはめ理解した気になっている、というわけですね。 となると小説の言葉というものはこうした区切りがなくずっと持続しているものでしょうか。結構そんな気もしますね。だって小説は読み始めたら終わるまでずっと言葉が続いていますから。ベルクソンが時間を持続するものと考えたように、小説も言葉が持続するものであるかもしれませ…
言葉が直線的ということは、言い換えると時間的に言葉は現われてくる、ということですね。 これは何も私の考えではありません。昔のドイツでレッシングという人が絵画と小説を比べて、互いにどう違う芸術であるかを述べた『ラオコーン』という有名な評論があります。ちょっと関係しますし、少しだけお話ししてみましょうか。 レッシングによれば絵画が空間的芸術で小説が時間的芸術ということになります。 絵画が空間的芸術であるというのはなんだかわかる気もします。絵は紙に描かなくてはいけませんから空間的になるのだろう、と、素人考えであっても直感的に納得いきそうです。 しかし小説が時間的芸術であるというのは少しわかりにくい気…
言葉は音だけではありません。単語だけでもありません。 では文はどうでしょう。今ここで書いているものであれば、〝。〟がつくまでの間が一つの文ということになるでしょうか。この文にある規則が文法になるのかもしれませんね。ここまでくると言葉として複雑な意味を表せそうです。 で、次に文が集まって文章になります。文が沢山ありますから、より複雑な意味を表すことが出来そうですね。このあたりで言葉の役割は完全に果たせそうです。 ところで文の段階ですと文法が規則となりそうですが、文章となると論理になりそうです。ですが論理とはなんでしょうか。考えてみるとうまく説明できません。論理ってなんだ、と聞かれてみれば、理屈が…
言葉と規則、そして意味と論理 〜表したいことは順番に、かな?
コミュニケーションが成り立ちにくい理由は互いに違う規則を持っているからでした。そうした相手は他者として、同じ事柄でも違う意味として受け取ってしまうのです。その理由は一つの事柄を意味づけるのは文化的背景によるので、違う文化で染まった者同士では同じ事柄でも理解が一致しないからでした。 こうした文化的規則はそれぞれの人間によって異なってきますから一致しなくても当然といえます。しかし言葉というものは人間であればまず理解しますし、そうした言葉を理解する能力も前提のものとして捉えてしまってもかまわないのではないでしょうか。もちろん病気や怪我で言葉を理解できなくなってしまうこともありますが、その場合致命的な…
言葉の規則と文化の規則 〜人間と他者、っていう規則ですね(付:アリストテレス『政治学』)
言葉というものが人間の基本的な能力であることは疑えないと思います。アリストテレスは人間だけが言葉をもっている動物(大意)だと述べていますし、哲学的には大昔からそう捉えられている年季の入った考え方と言えそうですね。 https://www.andrew.ac.jp/soken/pdf_3-1/sokenk173-1.pdf(3ページめの冒頭に引用があります) そして言葉が意味を持つことは、そこに複雑な内容を表現することが可能な規則があるからだと考えてみました。言葉の要素としては音であり、それは色や身振りとも変わらぬ一つの要素でしかないのですが、それがなぜ音のみが言葉となれたかといえばそこに規則が…
言葉がまず音であり、規則をもっている。そしてその規則は母国語を話す限りお互いに無自覚な水準にまで理解している。 とりあえずここまで考えました。 人が物事を考える時、どうしても言葉に頼らなければならないということは、この複雑な規則を使うことが出来るからかもしれません。つまり色や身振りでも意思を伝えることは可能でも、そこから考えることまで至らないのはこうした複雑性を可能とする規則がそれらにないからでしょう。なぜ色や身振りでは複雑さがないのかといえば、人間は言葉でその役割を果たしているからです。つまり言葉の元となった音、これを発することが最も人体において労力を必要としなかったため、音を使って複雑さを…
命令に対して従いながら命令内容を確認し直すことによって、距離を保つことと検証という重複した態度を持てることがわかりました。 ここで一旦命令に従おうとすることで、命令者を拒絶することなく距離が取れることになります。その上で確認し直すことによって命令が本当に正しいものなのかどうか検証することが出来るようになるわけです。 こうすることによって無闇矢鱈と反抗するわけではない批判の方法を身につけることも出来そうです。命令が可能となっているということは相手との間に上ー下の権力関係の中に絡めとられているわけです。ここから逃れられないから命令をおかしいと思っていてもはねのけることが出来ないのです。ならばこの上…
命令に対して説明し直すことによって、相手の自覚を確認することが出来ました。これで命令から逃れることはできなくとも、少なくとも相手の責任につめよれる方法を一つ学んだことにはなります。 では、どうしてこのような真似が出来るのでしょうか。また理由を考えてみましょうね。 命令に従わなければならないのは、確かに権力によってです。上ー下関係の中で上から告げられた内容に従わなければならないから命令となってしまいます。 しかし、今、内容と述べましたが、たとえ命令であったとしても、何も告げずに言うことを聞かせるわけにはいきません。無言で言うことを聞かせようとしても意思の疎通がないため、思った通りに動いてくれると…
命令の正体はよくわからないままですが、間違った命令というものはあり得そうです。ヒットラーによるユダヤ人抹殺は絶対悪として歴史に刻まれています。それをアイヒマンのように、命令だから、というだけで従うことは、それだけでも罪だとみなされたわけですね。 しかしまぁ、ユダヤ人虐殺だけでなく賄賂でもイジメの荷担でも、逆らい難い相手から言われたことに従わざるをえない場合というのはありえるはずです。そして賄賂やイジメでも悪いことには違いありません。この時、上ー下の権力関係に巻き込まれていれば反対の声をあげることすら困難です。こうした問題に挟まれて、気を病まれて病気になったり失職する人が増えているのかもしれませ…
爪を剥げ 指を潰せ 腕を折れ 自らの欲望のため剣を取り 己の敵に向かう者よ 人々に賞賛され 言葉を掲げる者よ 目を刳貫け 耳を削げ 鼻を落とせ お前は巨人を倒し 英雄になろうとするが 巨人が死ぬことによって 神をも殺す 口を噤め 口を噤め 蛇の舌を持つ者よ 毒の息を吐く者よ お前が言葉を発することにより 人々は石と化す 純情な者を挫き 邪な者を励まし 弱き者を沼に落とし 強き者を愚かにする いつのまにこうなったのだ 人々は寛容も連帯も忘れ 互いに憎み合い 扇動者ただ一人肥え太り 死骸が周りに転がる 滅びよ 滅びよ お前が地獄へと身を投げることによって 世界までをも滅ぼすな ひとりで焼かれるがい…
命令と従うこと 〜その命令は正しいのでしょうか…(付:アーレント『エルサレムのアイヒマン』/フランクル『夜と霧』)
他者性を失うことによってコミュニケーションが成り立たなくなっていくことは納得がいきそうです。しかし、もしかしたら命令やら決められた規則(他者との間で異なる規則とは別ですよ。廊下は走るな、とかゴミはゴミ箱へ、みたいな共同の規則です)などは、こうした他者性を無視したり拒絶することによって成り立っている可能性もあります。 命令の場合を考えてみましょう。命令が求められるのははっきりとした上下関係が成り立つ場合です。それを常態化して制度化された集団は組織となるでしょうか。その中で最も顕著なのは軍隊でしょう。当たり前ですが、隊長の命令を無視して勝手に行動しては作戦など遂行できません。TVゲームでもなんでも…
他者性から生じる様々な問題 〜セクハラや虐待に忖度と命令もみ〜んな他者性の喪失だ⁉︎
セクハラの場合を通して、他者性の喪失を考えてみました。ある意味、自分たちの規則をどこにでも当てはめようとしていることが問題の原因といえそうでした(もちろん他の理由があってもいいですよ)。その中に相手のことをかまわず発言してみたり、身内ウケするからと対象となる当の本人に揶揄を向けてみたり、身内に向ける態度であるため親愛の印として示したり、ということも含まれる、ととりあえず考えておきましょうか。 ですがこんなこと、別にセクハラでなくてもいくらでもあります。それはセクハラが大した問題でないといっているのではありません。そうではなくて、同じように重大な問題がどこにでも起こりえる、ということです。そうし…
他者性の喪失 〜セクハラの場合(付:セジウィック『男同士の絆』)
このような他者という問題を踏まえますと、どうしてコミュニケーションが難しいのかがよくわかります。端的に言えば、お互いの規則が違うからです。相手にこう言えば伝わるだろうということが、相手側には伝わらないわけです。 もう少し例を考えてみましょう。 たとえばセクハラ問題があります。典型的な例として挙げれそうなのは、髪を切ったら「お、失恋」みたいに声をかけることでしょうか。私の体験したことであれば、学生バイトの女の子が夜忙しい、みたいなことを言ったのを受けて、中年の勤め人の方が、夜のバイトでもしてるのか、とニタニタしながら言っていたこともありました。その女の子は笑ってやり過ごしていましたが、多分これは…
他者という問題 〜日本人とアメリカ人が謝ったとしたら(付:柄谷行人『探究』)
コミュニケーションがいかにして可能となるか、を考えようとしましたが、その前に1つ考えておかなければならない問題がありました。 それが他者という問題です。 これはコミュニケーションが可能かという前に、なぜコミュニケーションが成り立たないか、という問題を理解するために必要なことだと思いますので、ちょっと先に考えてみましょうね。 他者というものはどのようなものでしょうか。自分以外の人のことを指して他者だ、と思うかもしれません。それはそれで間違ってないでしょうね。 しかしそれじゃ他人とどう違うんだ、と思われるかもしれません。そりゃそうです。他人と他者。どこが違うんでしょうか。どちらも自分以外の人のこと…
さて、では伝達される側の受け入れる態度とはどのようなものが考えられるでしょう。 1つめは伝達者の伝える内容を受け入れようとする、ということですね。これは相手を拒絶しない、ということですから、伝える側、受け入れる側どちらも共通する問題です。受け入れる側であれば、相手の言うことを聞くまい、という態度を捨てることです。不良が教師の言うことを聞かん、といった学園ドラマにありそうな状況ですね。これでは相手の言うことを聞かなくても当然になってしまいます。 2つめに、自分は伝達者の伝えようとする内容を相手よりも詳しくない、と自覚しておくことでしょうか。もし自分の方が詳しいのであれば、確かに聞かなくても良さそ…
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