世界を幅広く見て思ったことなど書いています 西洋史なら19世紀あたりのヨーロッパ外交史 日本史なら中世南北朝から安土桃山あたりが好きです
戦後しばらくドイツ第三帝国の軍隊は華々しいイメージで語られた。特に同盟国で同じく苦渋を味わった日本ではそうだ。しかしその実態はお寒いものであったことが明らかになっている。第一次大戦の反省にたって戦争を行うとなると、自動車による機械化を進めることは不可欠だ
普仏戦争ののちの約半世紀の間にヨーロッパの人口は大幅に増大した。これに伴って当然兵力規模も大幅に増大した徴兵制を行う意義の一つに軍事訓練をした予備人員のストックを確保するということがある。未訓練の人間を動員しても意味がないのは当然だが、かといって常時から
昨日一昨日と日ハムの大田泰示が活躍してうれしい。彼は巨人でくすぶっていたところをトレードで来た選手であるそこで思いついた記事を一つ奉公構という習慣が江戸時代にあった________________________________________________________________________________奉公構(ほ
1870年の普仏戦争ではビスマルク率いるプロイセンがナポレオン三世率いるフランスに鮮やかな勝利を納めたこの時プロイセンは鉄道を綿密な計画のもとに運用し完璧な補給体制を作り上げた…というのは世上に流布したプロイセン軍事国家の神話に過ぎないらしいクレフェルトによ
今回もマーチン・クレフェルトの感想あちらの議論の常識をベースにしているらしくなじみがないと読むのに時間がかかるというか軍事には素人なのでかなり難解だそれだけに読みごたえがあるさてクレフェルトによるとナポレオンは天才性ばかり誇張されるが意外と軍事に関しては
前の記事でヨーロッパの16世紀戦争における補給の実態は収奪の組織化であるということを紹介したこの時代の戦争について見逃しがちな特徴とは軍隊は補給線による制約であるそれはつまり糧道を断つという戦略、戦術はこの時代できないということになる先手を打って占領予定場
補給(ロジスティック)の重要性というと第二次世界大戦の惨状と合わせて語られることが多い日本は多くの餓死者を出して戦後も厳しく批判を受けているしかし具体的に詳しい人というのは意外と少ないのではないか日本では防衛大以外で軍事を学ぶ場所がないそして肝心の自衛隊
マーチン・クレフェルトから欧州30年戦争と日本戦国時代を考える
17世紀ヨーロッパの30年戦争は国家がカトリックの総本山バチカンのくさびから脱した契機として知られる日本もまた戦国時代は世俗政治が宗教勢力のくさびから抜け出すというテーマがあった。天文法華の乱は歴史の授業であまり大きく扱われないが京が焼野原になるほどの激しい
紙幣に渋沢栄一が選ばれたが経済界での貢献を考えたら順当すぎるといっていいみずほ銀行、東京ガス、東洋紡、キリン、サッポロビール、東急電鉄、東証…今日の日本を代表する錚々たる大企業の立ち上げにかかわった人であるしかし彼はそもそも攘夷の志士であり、外国人であふ
一般的に20世紀に入って帝国主義は財政的な問題もあって植民地は漸次解放していく流れができていたという見方をする人が多いこれにはだから第二次世界大戦で日本がアジアを解放したなどというのは大ウソだ!と続くこれは大きな間違いだと思うアメリカは置いといてもヨーロッ
歴史は過去を通してみる姿見であり正しく認識しなくてはいけないとお叱りを受けるかもしれません。…がしかしながらこれには理由があります「Adaptation precludes adaptability(適応は適応能力を押し出す)」という格言があります社会を生きるうえでの強さとはいっ
阮朝の運命はというと悲惨だった。1883年嗣徳帝が死んだあとは内部で権力闘争と暗殺をくりかえして悲惨な混迷に向かう。実子のいない嗣徳帝には三人の甥を養子にしていた。後を継いだ育徳帝は先帝の母の命令で三日で地位をはく奪され監禁餓死した。次の協和帝はフランスとの
1884年8月25日阮朝とフランスは癸未条約を結んで阮朝は事実上降伏した阮朝と都城であるフエでの戦いでは阮朝の死傷者2500人に対してフランスはたった12人の負傷者を出すのみという一方的なものだったこれよりフランスと清は全面戦争状態ではないが、講和を模索しながら現地で
フランスはカンボジアを保護国にして拡大の足掛かりを作った今回はフランス対清とベトナム阮朝連合の戦いであるインドシナ半島に橋頭保を築いたフランスはメコン川から中国に至るルートの開発に着手している。アロー戦争の円明園略奪にも参加した海軍士官で冒険家のフランシ
フランス植民地拡大はアフリカと同時進行でアジアにも手が及んだナポレオン三世はスペイン人宣教師が殺されたことを口実にベトナムの阮朝に戦争を仕掛けた。この戦争に勝利した結果ベトナムの南部の割譲を受けた。これをコーチシナ植民地という。ベトナムは大きく三つに分け
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