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松尾清貴
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2019/04/26

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  • ピーター・グリーナウェイ監督『英国式庭園殺人事件』

    来年2024年3月にピーター・グリーナウェイ監督の特集上映が開催されるとのこと。楽しみが増えた。そんなわけで、傑作を紹介します。シンメトリーな構図、緑と赤/黒と白の色調、屋外撮影による昼の光と夜の闇のコントラスト、バロック絵画をそのまま持ち込んだような映像体験が得られる『英国式庭園殺人事件』(原題:The Draughtsman’s Contract)です。 【あらすじ】 イングランドの大地主ハーバート氏は屋敷と庭が自慢で、妻のことは蔑ろにしている。屋敷で開いた招待客で賑わうパーティの夜、ハーバート夫人ヴァージニアは、ハーバート氏が執心する庭園の絵を贈って夫の心を取り戻したいと、有名な画家ネヴ…

  • 三砂慶明著『千年の読書』について(5/20.本の長屋)

    最近、新刊書店で本の読み方や感想・批評の書き方の指南本をよく見かける。以前に比べて目立つ場所に配置されたなら、ニーズが増えたのだろう。「読書に興味があるが、なにを読めばいいか分からない」という意見は、情報過多で出版超過の社会では至極もっともなことだ。 三砂慶明さんの『千年の読書』はそんなブックガイドとしてはかなりユニークで、そして、白眉。ブックガイドと言うとたいていは古典や名作をピックアップして解説するもので、取り上げられる本も文学作品が多い印象がある。対して、『千年の読書』の紹介本には小説が少ない。 ここで紹介される250冊もの本には、いつだか書店で見たが手に取らなかったというものも多い。と…

  • 角田光代作品の魅力について(5/20.本の長屋)

    リアルとリアルタイムと 角田光代さんの小説の登場人物は、いま目の前にいるんじゃないかと思えるほど存在感がある。息遣いが聞こえてくるほど臨場感がある。人間への洞察の鋭さ、深さが、人間関係の生々しい描写ともなって立ち現れ、そして、その洞察は思いもしない深さまで達して、一般には「良いこと」(または「なんでもないこと」)と納得されそうな出来事ももう一段掘り下げられると、その底に潜んでいたグロテスクな心理が明るみに出てくる。 理想的なはずの一家族を描いた『空中庭園』では、「隠し事をせず正直に告白した」や「死の間際に自分だけに電話を掛けてきた」に対して、なぜ相手はそうしたのか、その心理が容赦なく暴き出され…

  • 5月20日(土)高円寺、本の長屋で

    来る5月20日(土)、18時より高円寺のシェア型書店「本の長屋」で角田光代さんと三砂慶明さんのトークイベントが開催されます。イベントの詳細につきましては、以下をご参照ください。 twitter.com 本の長屋は、高円寺の古本屋「コクテイル書房」さんの呼びかけで、同じ並びにある古民家を改装した書店を作ろうと始まった企画です。 このたび6月1日、シェア型書店として本格的にオープンします。私、松尾も書店内の棚を借りまして、自宅蔵書から見繕った本を持ち込んで販売しています。現在もプレオープン期間として開店していますので、お気軽にお立ち寄りください。 さて。 当トークイベントに際し、登壇者の角田さん、…

  • 『脱獄計画(仮)』という驚愕のビオイ=カサーレス体験:Dr. Holiday Laboratory『脱獄計画(仮)』

    こまばアゴラ劇場で、Dr. Holiday Laboratory『脱獄計画(仮)』という演劇を観た。作・演出、山本伊等。 なんて挑発的な。最高だった。 アドルフォ・ビオイ=カサーレスの小説『脱獄計画』を原案にした演劇ということで興味を持ったのだが、え、こんな原案の使い方するの!?という驚きが一番目にきて、それが、ビオイ=カサーレスの舞台化以外の何者でもない!という驚きに変わって全身が震えた。もう一度言いたい。最高でした。 実を言うと、僕が期待したビオイ=カサーレス原案の舞台劇『脱獄計画』はすでに終わっていて、その初演から日を経た後の公開インタビューを、今日、劇場で観ることになった。 と、この時…

  • 【リライト】曲亭馬琴『近世説美少年録』発端部3

    近世説美少年録 3 白蛇と大鳥 大江弘元は手勢を指揮して洞穴の前後を塞いだ。彼の精兵三十余人が逃げる山賊を斬り伏せ、生け捕り、勇猛果敢に休む暇なく賊を誅し続ける。 一方、川角連盈は慎重に隙を窺っていた。この死地を切り抜けようと頼みの手下十余人を己の前後に立たせ、抜け道から脱出を試みた。 が、弘元はこれを見透かし、「あれだ、逃がすな!」と激しく下知すると、賊の行く手はたちまち寄せ手に遮られた。五、六人の山賊が一斉に刃を抜いて罵声を荒らげはしたが、すでに賊徒は狩場のイノシシよろしく追い詰められていた。めいめい勝手に逃げ道を探り、もはや足並みはいっさい揃わず、痛手を負うた者から元の穴へ戻される。そこ…

  • 十三時の鐘は何回鳴ったのか?:オーウェル『一九八四年』雑考

    ジョージ・オーウェルの名作『一九八四年』は、以下の有名な文章によって始まる。 四月の晴れた寒い日だった。時計が十三時を打っている。(高橋和久訳) 原文はこう。 It was a bright cold day in April, and the clocks were striking thirteen. 『白鯨』や『高慢と偏見』などと並んで、印象的な小説の書き出しの例としてよく挙げられる。(ちなみに『白鯨』の ”Call me Ishmael” をそのまま書き出しに援用したアラスター・グレイの小説もある(『ほら話とほんとうの話、ほんの十ほど』高橋和久訳)) この書き出しの特徴はどこかと言うと…

  • 柔らかい室内にあるガラスの動物園:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出『ガラスの動物園』雑感

    新国立劇場でイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出『ガラスの動物園』を観た。イザベル・ユペール主演。もともと二年前の公演予定がコロナで延期し、昨年も企画されたがまた延期となり、今年ようやく公演が実現した。イザベル・ユペールのアマンダには二年分の期待を込めて観に行ったが、役者陣の演技は期待以上だった。あのアマンダの長広舌に途中で割り込むことはできんな。 目を惹いたのは、異様なセットだった。 暖色の壁と床に覆われた一室。色味から温かみがあるようにも思えるが、どこかグロテスクさがある。テネシー・ウィリアムズの戯曲がそうであるように、登場する母アマンダ、姉ローラ、弟トムの家族三人、それに客である弟の友人ジムは、…

  • 李禹煥展 雑感

    国立新美術館で開催中の李禹煥展に行ってきた。 岩と、ガラスや鉄などでできた「関係項」シリーズは何度見ても良い。「もの」を前にした鑑賞者(自分)はどこにいるのかという認識を含んだ作品だと自分は理解しているが、岩と自分の関係だとすれば(もちろん角度によって位置の認識は変わるが)二体問題として鑑賞者の認識は比較的容易かもしれないが、ここに岩とガラス、岩と鉄といった二者が関係項として出現すれば、これらを見る自分の位置はどこにあるのか。多対問題化して複雑さを増し、容易に認識しきれなくなる。鑑賞者は否応なしに作品内部に取り込まれ、どの「もの」との関係によって現在の自分が存在しているのか問い続けることになる…

  • 【リライト】曲亭馬琴『近世説美少年録』発端部2

    近世説美少年録 2 大江弘元 阿蘇沼氾濫の夜。 本陣にいた大江備中介弘元は、襲いくる沼水の勢いに抗えず押し流された。ほとんど溺れながらも水面へ顔を出し、懸命にもがくうち肘近くに流れてきた盾を取った。それを胸に押し当てて泳ごうとしたが、水勢は緩まず、心身ともに疲弊して流れるままに流された。 ……今生はもう尽きた。 弘元は最期にと弁才天に祈りだした。そのとき大樹の大枝にぶつかり、引っかかった。慌ててその枝にすがりつき、前後も見えない真っ暗闇のなか、息継ぐ間も惜しんで幹へよじ登った。 樹上で身を震わせ、弘元は夜明けを待った。二度と見られないと思えた陽が昇り始める頃、ようやく雨が上がった。 朝日が照り…

  • 【リライト】曲亭馬琴『近世説美少年録』発端部1

    近世説美少年録 1 阿蘇攻め 足利義稙が二度目の室町将軍に就くと、周防、長門、豊前、筑前、安芸、石見、山城の七ヶ国の守護、大内左京権大夫多々良義興がその功労から管領代に就任した。管領職は細川、畠山、斯波の三家のみ任じられる役職だったため、極めて異例な人事だった。 その翌年。 永正六年(一五〇九)春二月。 九州肥後国にて菊池肥後太郎武俊が南朝残党を結集し、阿蘇山古城に立てこもった旨、鎮西守護の大友親春、太宰少貳が幕府へ報告した。 将軍義稙は、管領細川高国、管領代大内義興、畠山尾張入道卜山、近江判官六角高頼ら諸老を集め、協議に入った。 口火を切ったのは、先ごろ出家した畠山入道卜山だった。 「南北朝…

  • 去年マリエンバートで

    「つい去年の夏も、私は、マリーエンバートで……」 エッカーマン『ゲーテとの対話』1824年2月29日、日曜日(山下肇訳) 『去年マリエンバートで』という映画。アラン・レネ監督、アラン・ロブ=グリエ脚本。名作と言われ、難解と言われる。豪華なセットや衣装、巧みなカメラワークと比較して、ストーリーはミニマムで反復が多いところが難解さの原因だろうか。 よく語られる紹介はこんな感じ。「ある男があるパーティで、「去年マリエンバートでお会いしましたね」と女に語りかけて当時の様子を語るが、女は身に覚えがないと答える。そんなことはない、私とあなたは恋に落ち、一年後の再会を約束した、と男は去年起こったことを語り続…

  • クレメンス・J・ゼッツ『インディゴ』についての雑考(バートルビーは代書しない)

    クレメンス・J・ゼッツ『インディゴ』(犬飼彩乃訳)は、奇妙な小説だ。どこがどう奇妙かは読み手によって異なるだろうが、まず言えるのは現実の扱い方のユニークさだ。 主題のひとつである「インディゴチルドレン」とは、現実世界においては、ニューエイジ運動真っ只中の1970年代、80年代アメリカで、スピリチュアルな子供たちの分類として提唱された。 子供のオーラの色が見えると自称するナンシー・アン・タッペの直観的な色分けのひとつに、インディゴがあった。インディゴのオーラを持つ子供たち、インディゴチルドレンは特殊で、使命をもってこの世に生まれたと、ニューエイジ思想らしい根拠のない決めつけが行われた。 しかし、…

  • 『重力の虹』のスロースロップは、どこへ消えたのか?

    トマス・ピンチョンの傑作小説『重力の虹』です。 さまざまな物語を内包し、重ね合わせて語られる大複合小説として、不動の地位を保ち続けています。僕も大好きな小説です。 第二次世界大戦末期、アメリカ人のタイロン・スロースロップ中尉はイギリス軍に出向している。スロースロップは女好き。ロンドンで遊んでいる。そんな彼がセックスした場所に、二日から十日以内にロケットが落ちてくる。この怪現象にイギリス軍の機関が気付いた。どうやらスロースロップの勃起とロケットの着弾に相関関係があるらしいのだが……。 そういう始まり。 戦争が終わると、スロースロップはドイツに渡る。追いかけてくる連中から逃げながら、なりゆきで「ロ…

  • 八犬伝覚書 八犬伝の引用元 その3

    『南総里見八犬伝』は引用の織物である。本文中に出典の明記がない引用箇所の、参照元を探る試みの続き。 第百三回 ◎ 富山の描写。 「嶮邊(そばのべ)逈(はる)かに直(み)下せば、白雲聳え起りて、谷神(こくしん)窅然(ようねん)と玄牝の門を開けり」 →→→「谷神不死 是謂玄牝 玄牝之門 是謂天地根 綿綿若存 用之不勤」 (谷神は死せず、これを玄牝という。玄牝の門、これを天地の根という。綿々と在るごとく、これを用いて勤(つ)きず。) (『老子道徳経』第六) 第百六回 ◎ 富山で里見義実を救った犬江親兵衛に大刀が贈られる。 (義実、親兵衛に向かって)「我が家に、大月形、小月形と名付けたる、重代の刀あり…

  • アンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』:クリーマが持ち歩く『モデル読者』とは?

    ウンベルト・エーコ『物語における読者』、原題 ”Lector in fabula” は英訳すると「おとぎ話の読者」となって意味が通らないから、英語版タイトルは ”The Role of the Reader”(読者の役割) になったと、エーコ『小説の森散策』冒頭に書かれている。 アンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』(阿部賢一 須藤輝彦訳)を読んだ。 日本文学を研究するチェコの大学生、ヤナの物語だ。あるきっかけで出会った大正時代の謎の作家、川下清丸の研究に熱中している。そんなヤナは日本が大好き。十七歳のとき念願かなって日本へ旅行に行ったが、それ以来、渋谷から出られなくなった。プラハで川下清丸を研究…

  • 『DAU.ナターシャ』

    『DAU.ナターシャ』(イリヤ・フルジャノフスキー監督)を観た。奇抜というかなんというか、異常な撮影方法が話題となった映画である。 かつてのソ連を再現するために当時の町を実際に作り、そのセット内で何百人もの参加者を、二年間も当時の風習に従って生活させて(文字通り歴史シミュレーションだ)、撮影を行ったという。「史上最も狂った映画制作」とも言われた、とんでもなく大掛かりな映画なのだ。 こうした映画が完成しただけで驚きである。ギリアム『ドン・キホーテ』やホドロフスキー『DUNE』は頓挫したわけだし、フィクションでさえ『脳内ニューヨーク』(カウフマン)の映画内映画は未完だった。この『DAU.』プロジェ…

  • 八犬伝覚書 八犬伝の引用元 その2

    『南総里見八犬伝』は引用の織物である。作中、どこから引用したか明記してある場合が多いが、前回に引き続き、典拠記載のない引用箇所を書き出してみた。 第五十六回 ◎ 囚われの犬田小文吾が対牛楼で望郷の念を抱く。 「犬田が為にはここも亦(また)、望郷の臺にして、北地より来る鴻雁(かりがね)はなけれど、いざこととはんと詠れたる、都鳥は今もありけり」 →→→「名にしおはばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」(『伊勢物語』第九段「東下り」) 【注記】「ここも亦、望郷の臺」「北地より来る鴻雁」とあるのは、その直前に小文吾が壁に掛かった「蜀中九日」という詩(王勃)を見たことから。八犬伝作中ではタイト…

  • 八犬伝覚書 八犬伝の引用元 その1

    『南総里見八犬伝』は水滸伝を基に書かれたと言われるが、参照元はそれだけではない。三国演義、西遊記、封神演義、平妖伝など中国の伝奇小説、平家物語、源平盛衰記、太平記など日本の軍記物、源氏物語、枕草子、伊勢物語といった王朝文学、あるいは和歌など。八犬伝は引用の織物である。 出典の明記されていない引用を幾つか書き出してみる。 第五回 ◎ 里見義実の瀧田城攻め。敵将岩熊鈍平に立ち向かう家臣堀内蔵人貞行の戦装束。 「備前長刀のしのぎさがりに、菖蒲形なるを挾(わきばさ)み」 →→→「備前長刀のしのぎさがりに菖蒲形なるを挾(さしはさ)み」(『太平記』巻第十五) 第六回 ◎ 玉梓の弁明。 (玉梓のセリフ)「女…

  • アルベルト・セラ『リベルテ』雑感(あるいは、ヘルムート・バーガーの liberté と libertà)

    アルベルト・セラの映画『リベルテ』の主演は、ヴィスコンティ映画でおなじみのヘルムート・バーガーだ。ユーロスペースで今回初めて観た。少し感想を。 物語は、逃亡中のフランス貴族たちへ、ルイ15世暗殺未遂の実行犯ダミアンが四つ裂きの刑に処された様子が語られる場面から始まる。聞くだに無残な処刑の描写だ(後記)。貴族たちはもう革命は起きまいと恐れ、プロシアへ亡命すべく彼の地の公爵を頼ろうとする。この公爵役がヘルムート・バーガーである。そのプロシアからの客も仲間に加え、暗い森での儀式として修道女らを交えた一夜の乱交を行う。その様子が延々と描かれてゆく。 この貴族たちは、ルイ15世暗殺を企てた黒幕という設定…

  • 映画『メッセージ』/小説「あなたの人生の物語」

    ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画『メッセージ』は、テッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語」を原作にしている。そして珍しくもないことだが、映画と原作の間には相違がある。 あまり動きのない原作を、映画はタイムリミットを設けて、ハラハラドキドキのサスペンスに作り変えた。だが、この改変は重要ではない。それは単に物語であり、根幹のテーマを揺るがすものではない。 他にも、宇宙船の形や数、文字の形などは、より映える映像に変えられた。これも同様だ。映画というメディアが、それにふさわしい物語や画作りを要請したにすぎない。 語りたいのは、もっと根幹に関わる改変についてである。 以下、ネタバレになります。 物語…

  • 八犬伝覚書 天翔ける龍に始まり、龍女の成仏に終わる

    『南総里見八犬伝』発端のエピソード、里見義実・伏姫説話は、龍の目撃に始まって龍女成仏で終わる。龍女成仏とは、『法華経』巻五第十二「提婆達多品(だいばたったほん)」における悟りに至る物語のことだ(龍女のことは、義実の龍の薀蓄でも語られている)。 龍女は宝珠をひとつ持っていた。三千大千世界の価値がある。持って奉ると、仏はこれを受け取られた。龍女、智積菩薩、尊者舎利弗に言った。 「私は宝珠を献上しました。世尊は納受されました。疾くなかったですか」 答えて言う。「甚だ疾かった」 龍女は言った。「汝の神力を以て、わが成仏を観よ。世尊が宝珠を納受なさったよりも速やかに悟りに至りましょう」 このとき衆会はみ…

  • 『南総里見八犬伝』第九輯中帙附言 現代語訳(稗史七法則)

    『南総里見八犬伝』は、文化十一年(1814)の春、平林堂(弓張月の版元)から出版しようと第一輯の企画を起こした。しかし、すでに平林堂主人は七十歳の老齢、長編の刊行を果たしきるには心許ないと、版元仲間の山青堂に譲りたいと申し出られた。私はその意を汲み、五巻の原稿を山青堂に渡した。同年の冬、八犬伝は初めて世に出ることになる。 文化十三年(1816)の正月、第二輯五巻を刊行した。世評はいよいよ高まり、読者が続きを待ちわびること一日千秋の思いだったそうだ。その後、山青堂が欲を出して他事に耽っていたようで、刊行をなおざりにする期間があった。 第三輯五巻は文政二年(1819)正月に、第四輯四巻は文政三年(…

  • 八犬伝覚書 万葉集と沼藺(ぬい)

    八犬伝を読むとき、行徳の段はちょっとした難関になりそうだ。言葉が難しかったり、人間関係が複雑だったりするからではない。八犬伝の特長である、入念に敷かれた伏線回収の見事さには舌を巻く。ストーリーは目まぐるしく動き、読んでいて飽きることはない。ただ、その展開に納得するのが難しい。 歌舞伎や浮世絵では名場面に数えられるエピソードで、室内という限られた空間での大立ち回りが視覚的に映えるのだろう。だが、物語としては、やや強引な展開に置いてけぼりを食わされ、「いや、そうはならんだろう!」と、しばしばツッコミを入れたくなる。 山林房八があまり語られないのも、人物造形に難があるからでなく、話の筋が嫌われている…

  • 八犬伝覚書 芳流閣のモデルを考えてみる

    『南総里見八犬伝』前半の山場に、芳流閣の決戦がある。犬士二人が互いの素性を知らずに戦う名場面である。芳流閣のない八犬伝は考えられない。 足場の悪い屋根の上で互いの技倆を尽くして干戈を交える。その舞台である芳流閣を、馬琴は大げさなほど修飾して天高く聳え立った楼閣として描き出す。 念のために付言すると、芳流閣は架空の建物である。物語の舞台である文明10年(1478年 戊戌)は、城郭に天守が建造され始める前の時代。 芳流閣が奇観であることは、作中人物の反応からも明らかだが、馬琴は自慢の建物に信憑性を与えるべき考証を行わない。ともすれば当の芳流閣そっちのけに古今東西の楼閣に関する蘊蓄を述べ立てるよい機…

  • 八犬伝覚書 百姓一揆との類似性

    ゾイレは慎重に手を伸ばし、スロースロップの頭上からヘルメットを被せる。両側からケープを掛ける女たちの手つきも儀式めいている。(中略) 「これでよしと。実はな、ロケットマン、ちょっと聞いてほしいんだが、わしはいまちょっとしたトラブルに……」(佐藤良明訳) 『重力の虹』(ピンチョン)の主人公スロースロップは、物語の中盤でロケットマンに変装して自分自身を見失ってゆく。 正体を露見させないためロケットマンになりきったはずなのに、そのロケットマンがスロースロップをどんどん上書きしてゆく。とはいえ、そもそものスロースロップは「生まれて以来ずっと彼らの監視の視線を浴びてきた」。その末の変装、名付け行為、しか…

  • 八犬伝覚書 巨田道灌について

    リアルな効果を狙う子供っぽい配慮から、もしくは最善の場合、ごく単純に便宜上であっても、架空の人物に架空の名前をつけることほど俗っぽいことがあるだろうか? 『HHhH』(ローラン・ビネ)の冒頭に置かれた小説という媒体を巡る、短いがスリリングな洞察は、大きな問題を提起している。架空の物語における架空の人物に架空の名を付けるとき、その名前がその人物を示す必然性は全くない。だから、作者の独断によってそうと決められることへの懐疑も止めることはできない。 歴史小説ではなおさらで、たとえば架空人物を拵えて史実に混ぜ込んで登場させるとき、なんら根拠のない名前をその人物に与えることには、ある種の恥ずかしさが伴う…

  • あまりにもノーマルな性

    デモ活動の際に全裸パフォーマンスを行ってニュースになる例が、時々ある。スペインの某動物愛護団体が有名だが、どのくらいの実効性があるのだろう? 動物愛護のお題目で裸になるのは動物と比べて人間だけを特別視する社会への異議だろうが、大抵のデモでは、裸は人間性における自由の表明とされる。デモとは抑圧に対する異議申し立てだから、男女問わず路頭で裸になるという行為には、正当な理由があるというわけだ。ただ、裸になることがどうして自由の表明になるのかという理屈については、なんとなく分かるような気もするが、根本的なところで分からない。 日本でもかつてのアングラでは全裸パフォーマンスはよく行われていた、というよう…

  • 『ファニーゲーム』の二人組はどこからきたのか?

    ときどき無性に『ファニーゲーム』(ミヒャエル・ハネケ)のオープニングが観たくなる。郊外の道をボートを牽引しながら走るSUVを、緩やかなピッチのオペラ音楽を背景に捉え続ける。車内へカメラが移ると、別荘地へ向かう三人家族の姿。父親と母親が曲当てゲームをしている。後部座席の子供は少し身を乗り出し気味に両親を見比べる。と、唐突に赤い字のタイトルバックがカットイン、BGMがNaked Cityの"Bonehead"に切り替わる。山塚アイの叫びが何気ない幸福な一幕を緊張させる。家族が湖畔の別荘地に到着して隣人の家の前に停車すると、ピタッと音楽はやむ。 本編導入部が観たかったのだからここまでで満足してDVD…

  • 『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』

    電子書籍元年?2年?の話題もだんだん凋んでる感じだけど、タブレットの性能云々からプラットフォームとコンテンツの関わり(プラットフォーム側と出版社の折衝など)へと一般的興味が移ったのは、ひとつの段階的兆候ではあるのかな、と思う。まぁ一消費者としては、紙でも電子でも書かれた内容は同じなんだから選択肢は増えたほうがいいなと単純に思っている。稀覯本蒐集にはまるで興味のない自分だけど、それでも紙の本が消えるとも思ってないわけで。 ともあれ、現状、日本語コンテンツが少ないからブックリーダー買ってもメリットないかなとは考えていた。そんなとき、某所で洋書フェアが開かれてて、未読だった"Extremely Lo…

  • 下書きを、並べてみる。

    ずいぶん長らくブログを放置している。twitterを始めてから手をつけなくなった現状を鑑みるに、所詮140文字で収まるようなことしか考えてなかったのかな、と厭な思いに駆られる。メディアによって使い分けを、と思っていたはずなのに、実行に移すのは難しいなぁ。 で、ひさしぶりに管理画面に入ってみると、思いのほか「下書き」が残っているのに驚いた。いったい何を書こうとしたのか不明な記事も多々あるが(むしろなぜ保存しようとしたのか不明なんだけど)、そのなかから「私」だとか「主体」だとかに触れている記事を選んで表に出してみる。時期にズレがあり、違う内容を書こうとして挫折している断片だけど、繋ぎ合わせてみたら…

  • 『流跡』と異界について

    話題の作家・朝吹真理子のデビュー作を読んだ。 賞を受けるのが作家か作品かという問題は、古今東西を問わず解決しがたい難問だろうと思う。それは近代特有の「人間」病かもしれないし、実はもっと古い原初的な何かかもしれない。もちろん作家本人のプロフィールばかりに光が当たるのは、テクストそのものにとっても不幸なことだし、小説というメディアにとっても好ましいことではないのでは? と思わないでもないけれど、まぁ結局は、誰がどう足掻いたところで、当の読み手が向き合うのは当の作品となるしかないのだし、誰も本当には作家を通じて作品を読むわけじゃない。だから窮極的には作者名とはインデックス以上の役割を果たさないのだが…

  • 映画とYouTubeについて

    恵比寿ガーデンシネマで『ミックマック』を観る。もしかしてこれ映画館で見るの倒錯なのかとつい思ってしまった、ジュネ版スパイ大作戦。『アメリ』のときにも思ったけど、なんというか、ジュネってキッチュであることを恐れないなぁ。マルク・キャロがいないと印象がまるで違う映画になるってのもあるけど。というわけで、『デリカテッセン』や『ロストチルドレン』を期待してはいけない(なのに、毎回それを期待してしまう)。もちろん映像は凝っているし、話のテンポもいい。でも、いくらか薄味。ま、コーエン兄弟もよくこういうの作るもんな。で、以下あらすじ。 父親を地雷で亡くした少年が三十年後、ビデオ店で働いている。店番をしながら…

  • シンプルイズベスト

    ようやく『月に囚われた男』をDVDで観た。ネタばれにご用心ください。 いろんな意味でシンプルさが効果的に機能している秀作。無駄をそぎ落としたストイックな設定とストーリーと登場人物と語り口。B級感溢れる映像も滑稽味があっていい。 監督デビュー作には低予算をアイデアで補った小品ながら秀作佳作ってあると思うけど、そういうの大好き。『レザボア・ドックス』やら『フォロウイング』やら『π』やら『マルコビッチの穴』やら。 以下、シンプルさに関する覚書――。 1、先行するSF映画へのオマージュについて、特に『2001年宇宙の旅』は意識せずにはいられない(ケヴィン・スペイシーがそのように演じてるし、なによりあの…

  • 備忘録。

    おや、『わたしを離さないで』が映画化されてる(ん? 情報遅い?)。偶然ネットで見付けた予告編を見て、ちょっとウルウルきてしまった。予告編の作りは、原作イメージ同様に静かで穏やかでドライな感じ。期待が高まるじゃないですか。キャシー・H役はキャリー・マリガン。これは大抜擢かな? それともいま旬な女優さん? オスカーノミネートの『17歳の肖像』は見そびれてしまったけど。 さてさて、日本公開はいつだ? 楽しみ楽しみ。 ついでに何の前知識もなく(そりゃ予告は前知識なく見るもんだ)『ブラックスワン』の予告編を覗いたら、ちょっと怖くて笑ってしまった。こっちも楽しみ、アロノフスキー。ミッキー・ロークのレスラー…

  • 夏の読書感想文③

    彼等をして、故国を離れ、荒波に乗出し、この世の果てまでも行くぞと決意せしめたものは、――此処にいらっしゃる天文関係者の方々には失礼ながら、――天の出来事それ自体ではなく、寧ろ、もっとずっと卑小な、人間の様々な欲求の集まりだったのであり、金星が暗くなるという現象は飽く迄その主たる対象でしかなく、――太陽視差を定めたいという王立協会の意向にしてもそうした欲求の一つだった訳であるが、――ならば観測士本人達の欲望はどうであったか、若しかすると実はそれほど学問的ではなかったかも知れぬ欲望は? ついに邦訳された『メイスン&ディクスン』(柴田元幸訳)。訳者あとがきでは「ちょっとした事件である」と触れてあるけ…

  • 夏の読書感想文②

    『バーデン・バーデンの夏』レオニード・ツィプキン著(新潮クレストブックス刊)。穏やかで静謐感に満ちた美しい小説である。ゆっくりと時間をかけて読んだ方がいいんだろうな。寝る前に少しずつ、少しずつ読み進めてゆくような。読み返すときにはそうしようと思った。 さて、どうしても触れておかなければならないだろうと思うので、まず――。 この本がなぜ知られていなかったか、それは理解にかたくない。まず、著者が専門の作家ではなかった。レオニード・ツィプキンは医師、有力な医学研究者であり、ソ連内外の専門学術誌には百点近い論文を発表してきた。しかし――チェーホフやブルガーコフと比較しても詮ないことだが――このロシア人…

  • 夏の読書感想文①

    『とある魔術の禁書目録』既刊23巻(SS2巻含む)を大人買い&一気読み。いやぁ、おもろい。おもろいよ!! 圧倒的なスケールと情報量、次々に投入される魅力的なキャラクター、そのうえめくるめく展開の速さにストーリー自体の面白さと、まぁ語りたき事柄は多々あるにつきだけど、これじゃきりがない。 科学と魔術が交差するとき、物語が始まる。って看板に偽りなしで、境界線が曖昧になってゆくというか、絶対的な価値観のようなものを揺らがせてゆくというところにも面白みがあり、それは科学とオカルトの境界だけじゃなくて、強者と思われていた超能力者や魔術師(そもそも魔術は才能のない弱者が手にした能力だそうで)が強大な力ゆえ…

  • 一瞬と時間

    先月、森山大道さんとお話をさせて頂く機会があり、以来、写真というメディアの特殊性についてしばしば考える。演劇、映画、音楽、文学等のいわゆる「表現媒体」が、アリストテレスが詩学に謂うところの「始まりがあって中間があって終わりがある」線形時間的な世界観の上に成立しているのに対し、写真だけが本来人間の知覚関心上に立ち現れることが不可能な「一瞬」を捉えることができる。一瞬とは、数学的にしか存在しない不可能な時間である。すべてが動き続ける世界において、一瞬なんてものは存在しない。 そして、被写体はもちろん静止してはいない。風景だろうと静物だろうと何らかの動きが生じている。そこに自由意思があろうとなかろう…

  • フィクションとしての身体について

    『ガールフレンド・エクスペリエンス』を観る。ときどき出現する「物語らないソダーバーグ(または、真面目なソダーバーグ)映画」である。だからこの映画を観て、「ストーリーがないことを時間軸をずらす編集で誤魔化しただけ」なんて言っても始まらない。「語りたいことがなかったら映画撮るなよ」とか言っても意味ない。『セックスと嘘とビデオテープ』の頃から、ときどきソダーバーグはこんな映画を撮るのだし、むしろこういう映画のほうがソダーバーグっぽい気もする(『トラフィック』だって物語らしい物語はない)。僕はミュトス至上主義者じゃないから楽しめたよ。 この映画は、ニューヨークの高級エスコート嬢の日常をドキュメンタリー…

  • 林檎は赤とは限らないわけで……

    ……一応、書いとこう。ま、備忘録として。 先日、iPadを起動させるのにiTunesが必要だと知る。使用OSはWindowsならXP以上、macOSに限っては10.5以上だという。Windowsは二つヴァージョンが進んでいるが、macOS10.5は最新版というじゃないか。macユーザーはiPadを使用するために最新版のOSを購入しなければならないらしい。う〜ん、Appleとしては新OSに自信アリってことかもしれないけど、ちょっとなぁ……。 それよりなにより、iPadもiPod同様に母艦が必要というのはどうなんだろう。触れこみでは、iPadはPCに代わる新デバイスじゃなかったの? 結局、iPad…

  • 「しょうがない」を肯定する

    「しょうがない」という言葉にはネガティブなイメージがあり、妥協の表明として機能する。人生は妥協の連続だから「しょうがない」ことだらけだ。でも、うっかり「しょうがない」を連発していると愚痴っぽい奴と思われて、損することもしばしば。だから、しょうがなく「しょうがない」とは口にしないようにせねばならない。 「中の下」という価値は、少し判断が難しい。それが5段階評価の2なのか9段階評価の4なのかで価値基準が大きく異なるのはさておき、自分で自分を「中の下だから」と言うとき、他人はその評価について「こいつは自分をその位置だと表明することで優越感に浸っている」と思われる危険がある(ニーチェ『道徳の系譜』にあ…

  • 現代的な普遍論争

    AppleとAdobeのFlashを巡るニュースが騒がしい。ウェブの標準においてひとつの重要なファクターがオープン性なのだと改めて認識できる興味深い事例だ。 ジョブス自身が言及しているように、AppleとAdobeは長らく蜜月関係にあった二社である。ことの発端は、Appleが今後のiPhoneやiPadのプラットフォームでのソフト開発キットにAdobe Flashを対応しない、と発表したことだ。Flashは閉鎖的で「時代に合わない」というのが、その理由だった。対してAdobeは自社のオープン性を強調してAppleの閉鎖性を連ね、ソースコードの選択はユーザーに委ねるべき、と反論する。もうしばらく…

  • 雑記。

    先日、柏餅を頂いた。美味しい。「味噌餡」という白味噌を練り合わせた餡が入っていた。味噌を加えることで独特な酸味が加わり、甘ったるくなくさっぱりした味わいになっている。 この味噌餡というあんこを、僕は知らなかった。東京では普通だそうだけど、僕の出身地ではお目に掛かったことがない。 そう思って記憶を探ると、柏餅自体、子供の頃に口にした憶えがない。もしかすると、記憶が上書きされてるかもしれないが……。というのも、うちの地元で葉っぱを巻いた餅菓子というと「がめの葉まんじゅう」だから。祖母がよく作ってくれた。餅にがめの葉が巻いてある。柏の葉より幾分厚みがある葉っぱで、柏の葉よりも匂いが強い。 これは、田…

  • 日本語では「高い家」です。

    フィリップス・アウレオルス・テオフラストゥス・ボムバストゥス・フォン・ホーエンハイム。 ――通称、《パラケルスス》。 16世紀を生きた北方出身の医者は、30歳そこそこでバーゼル大学の教授になったとき、慣習を破ってドイツ語で講義した。世は宗教改革で荒れている。歯に衣着せぬテオフラストゥスの言動は市の保守層の怒りを買う。翌年、彼は大学と街から逃げるようにして諸国放浪の旅に出る。パラケルススの数々の伝説はここから始まる。 ここで、ドイツ語での大学講義という点は興味深い。カトリックの権威が揺らいでいたとはいえ、ラテン語は長らく学問の言語だったものだ。15世紀の哲学者クザーヌスをルネサンス精神の中心にお…

  • 昔、北綾瀬に住んでいたとき違う橋を渡りたいと思って荒川河川敷を2、3キロ歩いた末、巨大な柵に行く手を阻まれて断念したことがありました。

    唐突ですが、フィクションの雛型の中ではなんだかんだ言っても《ボーイ・ミーツ・ガール》型が最強だと思うのです。ん、最強は表現が変だな。「基本にして万能」が正しいかもです。 問. ボーイ・ミーツ・ガール型って何? 答. 男の子が女の子と出会う話です。バリエーションとして逆でもいいし、異性でなくてもいいし、複数化もアリです。但し重要なのは、「出会うはずのなかった二人が出会ってしまう」ところです。これが基本で、外してはダメです。元々出会うはずがないのだから、不思議空間で出会ったりします。 中村光は、この型を縦横無尽に使いこなす稀有な人です。この人、ヤバいっす。いまさらでしょうけど。……お察しの通り、シ…

  • 1327。1434。1492。1527。

    不定例回帰的に訪れるマニエリスム中毒に現を抜かし、近ごろローマ劫掠(1527年)ばかりに目が向いていたが、アタリの『1492―西欧文明の世界支配』(ちくま学芸文庫)などを読んでみると、《ヨーロッパ》って常に危機的状況にあるんじゃないのか、と改めて感じる。 アタリのこの本は構成が面白い。1492年に向かって収斂する第Ⅰ部、1492年を語る第Ⅱ部、1492年がもたらした歴史を語る第Ⅲ部。小説を読んでいるみたいだ。Ⅱは編年体様に1492年を追うが、ⅠとⅢは各章の各テーマごとに時間が再帰する。テーマ別に歴史を追うのでとても読み易い。各テーマが関連し合ってひとつの歴史を編む。この歴史が《ヨーロッパ》とい…

  • 雑記。

    渋谷パルコPart1地下一階の書店〈リブロ渋谷店〉の店員さんが達筆で驚く。領収証の但し書、「書籍代」の文字。 手慣れたものでボールペンですらすら書いてくれるのだけど、何気ない崩し字がバランスよい。最も印象深い「書」の字はこんな感じ。……横線をすっすっすっと五本引いてその右端にちょっと掛かる具合に縦にまっすぐスッと一本、縦線の仕舞いはすぼめるようにきゅっと丸める……。ぼんやり見蕩れてしまった。「籍」も「代」も略字体で流れるようなスタイル。美しい。 だがしかし! 実を言えば、今回は僅かながらも心の準備があったのだ。もしかして、という気分でいたのだ。というより、レジに並んだときには、別の店員さんの姿…

  • 全能の監視者について

    まず―― 「マニエリスムが誠実とは、いったいどういう意味だ?」 と、二つ前の記事の文責帰属を持つ主体なるものに問いたい。つまり、4月25日の僕に対して。 話の前提として「それはお前本人だろ」という他者の声をひとまず棚上げする。これは、今の「私」から過去の「私」への問いなのだ。だからここで「あァ、それよくわからないんだ」と言って記事に手を入れて訂正編集するのは易しいが、誠実さを欠く行為だろう。かと言って、それについてはこうこうこういう意味なんだ、と誠実に答えるのはいまここでキーボードを打っている「私」であって、過去の「私」ではない。果たして、過去の「私」と今の「私」の間にある連続性を無条件に信頼…

  • 善き人

    善行は、救いをうるための手段としてはどこまでも無力なものだが――選ばれた者もやはり被造物であり続け、その行うところはすべて神の要求から無限に隔たっているからだ――選びを見分ける印しとしては必要不可欠なものだ。救いを購いとるためのではなく、救いについての不安を除くための技術的手段なのだ。こうした意味で、善行が時にはいきなり「救いのために必要」だとされたり、あるいは「救いの取得」が善行に結び付けられたりする。 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』より、カルヴィニズムの根本教義といえる「予定説」について書かれた箇所。選ばれた者は自分が選ばれたことを知らない。捨てられた者は自分が捨てられたこ…

  • 迷子の風景

    ……よく道に迷う。 いや、人生の意味に悩んでいるのでなく、言葉そのままの意味でしばしば迷子になるということ。分刻みで移動するか、さもなくばひきこもるかでなければ21世紀の東京を生きる資格はないのかもしれないが、迷うものは仕方ないのだ。 しかし、なぜ迷うのか、理由ははっきりしている。どうもこの道は違うようだぞ、と気付いたときにくるりと踵を返して引き返さないからだ。もしくは、鞄に常に入っている『文庫判東京都市図』(昭文社刊2002年5月4版4刷)を確認しないからだ。「こっちから行けば同じ方向なんじゃないかな」と、当たりをつけた曲がり角から軌道修正しようとして成功したためしはない。東京の道は碁盤の目…

  • 追記?

    「allo,toi,toi」(長谷敏司SFマガジン4月号掲載)を読んで、一言。 ――なんということでしょう! 恣意的判断で思考停止し満足してちゃいけないよ、という自戒を籠めて、前掲ブログに編集を加えない。 そろそろ『円環少女』の続きを買おう。今すぐ読むとメイぜルを見る目が変わりそうな気もするが……。にしても、この作者、一般小説のほうがライトノベルより読み易かったりするのだけど、『円環少女』の魔法体系のほうがITP制御の構造より記述の複雑さが大きいということかな。My Humanity (ハヤカワ文庫) [ 長谷敏司 ]ジャンル: 本・雑誌・コミック > 文庫・新書 > 文庫 > その他ショップ…

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