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2019/03/24

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  • 幽州 陳行泰等の軍乱

    大和8年楊志誠を逐って自立した史元忠ですが、牙軍を統率できなかったようで會昌元年9月幽州軍が亂し、節度使史元忠を[旧唐書]逐う/[新唐書.通鑑]殺すと混乱しています。首謀者は牙將陳行泰です。元忠は親唐朝派であったようで、朝廷は行泰の継承をすぐには認めません。會昌元年閏9月再び軍乱が起き、牙將張絳が行泰を殺し自立します。宰相李徳裕は現地が混乱している状況を察し、継承を慎重にするよう提案しました。會昌元年10月再度軍乱が起き、絳は逐われ、雄武軍使張仲武が幽州に入り自立しました。絳と仲武は事前に連絡があったようですが、乱後に仲間割れしたようです。仲武は衆心を得ており、宰相德裕との事前了解もあったのですぐ留後に任ぜられました。そして親唐朝派として対回紇対策に協力しました。幽州陳行泰等の軍乱

  • 幽州軍乱 楊志誠逐われる

    幽州節度使李載義を逐って自立した楊志誠ですが、節度使となった後も反唐朝姿勢を取り、与えられた官爵に不平を言い、使節を抑留したりしていました。大和8年9/10月幽州節度使楊志誠と監軍李懷仵は牙軍に逐われ、將史元忠が自立しました。原因はよくわかりません。志誠は京師へ遁走しました。志誠一行は河東太原を通過しましたが、朝廷優遇され河東節度使となっていた前使李載義に襲撃され、本人は助命されましたが、妻子や從っていた將士は殺されました。専殺ということになりますが朝廷は載義の功を考えて不問にしました。載義は逐われたことや、母兄の墓を暴かれた恨みがあり、志誠を殺す事をあくまで願いました。大和8年11月京師で志誠は糾問され、史元忠の告発により、節度使時代に皇帝を真似ていたことから流罪となり、途次殺されました。大和8年12月...幽州軍乱楊志誠逐われる

  • 永王璘の乱

    玄宗の子永王璘は幼くして母を失い、哀れんだ兄の肅宗皇帝に愛育されていました。好学でしたが容貌は冴えませんでした。安史の乱が発生しました。至徳元年7月諸王が各地に分遣され、璘は領荊州大都督領山南、江西、嶺南、黔中四道節度使となりました。それまで諸王は実任にはつかず京師の「十王宅」に常住していましたが、始めて地方に赴任したわけです。世間知らずの璘は荊南江陵に至り、江淮の租賦が山積しているのを見て舞い上がり、薛鏐、李台卿、韋子春、劉巨鱗などの軽薄な取り巻きの指嗾に乗って江淮で自立しようと思い立ちました。至德元年11/12月そして舟師を東下させ、渾惟明、季廣琛、高仙琦を將として淮南揚州を取ろうとし、採訪使李成式を攻めました。吳郡採訪使李希言は將元景曜・李承慶・丹徒太守閻敬之・を派遣しましたが、璘軍將渾惟明に敗れ、...永王璘の乱

  • 幽州 楊志誠の乱

    幽州節度使李載義は親唐朝姿勢を貫いていましたが、それに不満な河北勢力も根強く存在していました。載義は本来外来の家系で幽州軍内の大和5年正月球場後院での宴会で副兵馬使楊志誠と一党が反乱し、載義と子正元は易州に奔りました。志誠は載義姻戚莫州刺史張慶初を殺しました。あまりにもろい状況ですが、反唐朝グループが強かったとも言えます。藩鎭不干渉の政策をとる宰相牛僧孺はなんの動きもみせず、志誠の自立を認めました。しかし入朝した親唐朝姿勢の載義を太保同平章事として遇し、まもなく山西節度使を与えました。継承を認められた志誠ですが、反唐朝姿勢を示しました。幽州楊志誠の乱

  • 幽州 李載義の乱

    幽州朱克融は自立して節度使になったが、その統治は暴虐で不安定で、その政治姿勢も成德王廷湊に追随するだけでした。寶暦2年5月幽州で軍乱が起こり、克融と子延齡が殺され、第二子延嗣が擁立されました。寶暦2年9月延嗣は暴虐であったため、都知兵馬使李再義と弟再寧が乱し、延嗣と家屬三百余人を殺し自立しました。再義は劉總に登用され親唐朝分子であったようです。寶暦2年10月再義はたちまち節度使に任ぜられ、「載義」と賜名されました。載義達と唐朝は連絡があったようです。その後奴隷化されていた張弘靖幕僚の家属を返還したり、横海李同捷征討に協力するなど親唐朝姿勢を貫いていました。幽州李載義の乱

  • 山西・興元の軍乱

    李絳は憲宗時代の謀臣・宰相で功績がありました。以降は凡帝が続き、高官を歴任しましたがさしたる業績はありません。大和3年正月太常卿より山西節度使に転じました。劍南西川節度使杜元穎の失政により南詔蠻が入寇し成都を陥す事態になり、朝廷は神策軍を派遣し、山西軍も動員されました。大和4年2月山西軍は少ないため新兵千人を動員しましたが、西川の寇は早期に収まったため、手当を与えて解雇することになりました。ところが絳と不仲の監軍楊叔元は手当をろくに与えません。新軍兵は怒って乱し倉庫を荒らして使府に突入し、絳や幕僚趙存約・薛齊等を殺し、絳の家族も殺しました。叔元は絳の失態であると上奏しましたが、諌官達は弾劾しました。尚書右丞温造が山南西道節度使となり鎮定に向かいました。大和4年3月造は褒城に至り、西川からの歸途にあった山西...山西・興元の軍乱

  • 宣宗皇帝崩御後の変

    宣宗皇帝は宦官の擁立により即位したにもかかわらず、その治政への熱心さと、ボス宦官不在のため、宦官の政治関与を抑制していました。しかし皇太子については、三男夔王滋を立てたい思いと、長男鄆王温を排除する理由がないことから躊躇したたま重病となりました。大中13年8月宣宗派の宦官樞密使王歸長や馬公儒等は、右軍中尉王茂玄と図って、夔王滋を擁立しようとしましたが、同意しないであろう左軍中尉王宗實を排除するため、宣宗がすでに逝去しているにもかかわらず、淮南監軍への移動命令を出しました。宗實は命に従い赴任しようとしましたが、副使亓元實に止められ入内し、宣宗が既に崩御していることを知りました。そして王歸長・馬公儒の行為を責め、長子である鄆王を擁立しました。そして歸長、公儒等をみな殺しました。夔王は殺されていません。もはや皇...宣宗皇帝崩御後の変

  • 敬宗皇帝の殺害

    18歳の敬宗皇帝は低能の不良少年で、ポロ競技やレスリングに熱中し、朝禮政務にはなんの関心もありませんでした。宰相李逢吉達はその馬鹿さ加減に手を焼きながらも、自分達で政治を行えるため放置していました。禁軍や諸道方鎭は競技選手や力士を献上してご機嫌うかがいをし、敬宗はお気に入りの力士達に莫大な賞賜を与えたり、一転して鞭打ち・流罪にしたりとやりたい放題でした。特に宦官達はそのムラ気を懼れていました。寶暦2年12月敬宗は遊びから帰り、宦官劉克明、田務成、許文端やポロ選手・力士と宴会をしていました。そして便所で劉克明等に殺害されました。克明等は翰林學士路隋に遺制を書かせ、憲宗六子の絳王悟を擁立しました。事態を知った宦官主流の樞密使王守澄・楊承和、中尉魏從簡・梁守謙は神策軍を動員して絳王悟、克明等を殺害しました。そし...敬宗皇帝の殺害

  • 文宗皇帝崩御後の変

    大和9年の甘露の変以降、文宗皇帝は傀儡となって、宦官勢力が全権をにぎったという記述がありますが、それほどではなく、昭義劉従諫の恫喝や一部官僚勢力の抵抗を背景として、官僚派と宦官派がせめぎあっていた状況でした。開成3年宦官達に堕落させられた自子の皇太子永が卒したあと、文宗は幼少の敬宗六男の陳王成美を皇太子としました。開成5年正月文宗皇帝が崩御すると、宰相李玨や文宗派の宦官知樞密劉弘逸は皇太子を即位させようとしますが、文宗を憎んでいた神策軍中尉仇士良、魚弘志等は挙兵し懿宗の子穎王瀍[武宗]を皇太弟として擁立し、皇太子や安王溶、賢妃楊氏を殺害して即位させました。安王は文宗の寵姫楊氏の子で立太子を図り宰相等に阻止されていたのです。穆宗以降、宦官が皇帝を擁立する傾向がありましたが、文宗以降ははっきりと宦官による擁立...文宗皇帝崩御後の変

  • 宰相 元載の変

    理財に長けた元載は宦官李輔國に取り入り宰相となり、その後禁軍を支配する宦官魚朝恩と、河中朔方軍を支配する郭子儀と三頭政治で唐朝を支えてきました。大暦5年魚朝恩を排除し中央の権限を独占するとますます専横となり、莫大な賄賂をかきあつめていました。代宗皇帝は次ぎに実権回収を図りましたが、もうひとりの宰相王縉も載党で官僚人事を握り、禁中は宦官董秀に掌握させている載にどうにもできませんでした。大暦12年3月代宗皇帝は信頼できる舅の左金吾大將軍吳湊を京兆尹に任じ、警察権を掌握して載・縉・秀を逮捕させ、載と秀を誅殺し、縉を左遷しました。莫大な収賄物が摘発されました。大曆12年4月清廉な楊綰・常衮を宰相とし、代宗皇帝は即位して15年で初めて実権を握ることができました。大曆12年5月代宗の怨みは強く、元載の祖先の墓・家廟を...宰相元載の変

  • 魏博 何進滔の乱

    魏博節度使史憲誠は半朝廷派で、いやいやながら自立した横海李同捷の征討に加わっていました。息子の唐[孝章]は名の通り朝廷べったりで、風見鶏的な父を諫言し朝廷に従わせていたからです。大和2年3月史憲誠は子の副大使唐と都知兵馬使亓志紹に兵二萬五千を率いさせ德州[李同捷]を討たせました。唐の強請によるものです。大和2年7/8月魏博軍は平原を攻め、武寧王智興は棣州を陥します。さすがに同捷と成徳王廷湊は危機感を感じ、亓志紹を裏切らせるよう働きかけました。太和2年12月行營都知兵馬使亓志紹は所部二萬人と謀叛し、魏州を襲い史憲誠父子を殺して自立しようとしました。太和3年正月憲誠は救援を求め、朝廷軍の義成李聽等は志紹軍を破り、志紹は成徳へ逃亡しました。鎮定はできたとはいえ、魏博牙軍はすぐ乱を起こし、憲誠の地位は不安定なのま...魏博何進滔の乱

  • 魏博 史憲誠の乱

    魏博節度使であった田弘正は、王承宗の没後対立関係であった成德節度使に転じました。当然危険な状況であったので魏博兵二千を身辺警護として引率して赴任したのですが、朝廷はその経費を惜しんだため帰還し、王廷湊らの乱により弘正は殺害されてしまいました。当時の魏博節度使は淮西吳元濟を滅ぼした名将李愬でしたが、既に重病で成德征討にはあたれません。長慶元年8月そこで朝廷は弘正の子涇原節度史田布を魏博節度使として伐たせようとしました。忠誠心の厚い布は急遽赴任して全軍三万を動員して南宮に出鎭し王廷湊を討とうとしました。しかし魏博牙軍は札付きの軍であり、いままで多くの褒賞により甘やかされており、田弘正や李愬にとっても扱いにくい連中でした。しかも朝廷は経費を出し惜しみ褒賞どころか、軍費ですら当面自弁させようという姿勢でした。長慶...魏博史憲誠の乱

  • 山東 梁崇義の乱①②

    簡単に動揺する皇帝によって山東節度使來瑱は、転任・復任・昇進とそれぞれ異例の意味の解らない待遇を受け、結局、賄賂を断られた宦官程元振の誣告により、寶應2年正月殺されてしまいました。軍人達は朝廷に不信感をいだきましたが、もっとも衝撃をうけたのは山東軍です。來瑱は山東の將士の人望が厚かったのです。寶應2年閏正月山東將梁崇義は羽林軍より來瑱に従い山東にうつり右兵馬使となっていました。崇義は武勇に優れ衆心を得て鄧州に鎮していましたが報を聞くと襄州に入りました。瑱の死で山東軍は統制が乱れ、行軍司馬龐充は追い払われ、左兵馬使李昭、副使薛南陽と崇義が争い、結果として衆心が集まった崇義が立ち、昭・南陽は殺されました。崇義の自立を聞いても、朝廷は伐つこともできず追認するしかありませんでした。寶應二年三月崇義は襄州刺史山南東...山東梁崇義の乱①②

  • 成德 王武俊の乱

    武俊は契丹人で李寶臣に仕えていました。勇猛果敢でしたが、軍内での地位はさして高くないため、かえって寶臣に愛され、娘を子の士眞に与えていました。寶臣が卒すると、諸将は動揺し、張孝忠や康日知は唐朝に付き、河東・昭義・幽州軍が侵攻してきました。惟岳は武俊も疑っていましたが、やむをえず趙州[康日知]を伐たせました。建中3年閏正月出陣した武俊は反旗を翻し、士眞と呼応して惟岳を誅しました。建中3年2月朝廷は恩賞として武俊を恆州刺史恆冀都團練觀察使としました。恒州と冀州は趙州で分離され、張孝忠が易定節度使となったのはともかく、軽んじていた深趙都團練觀察使康日知と同格というのは極めて不満でした。武俊としては孝忠領以外を領して成德節度使になるのが望みでした。建中3年4月そこで同じく恩賞に不満な幽州朱滔、敗北して危機に瀕した...成德王武俊の乱

  • 夏綏 楊惠琳の乱

    夏綏節度使韓全義は淮西吳少誠征討で大敗し、ほうほうの体で逃げ帰りましたが、もうろくした德宗皇帝は宦官達に丸め込まれて功績があったとしていました。しかし皇帝以外は全義の失態を記憶していました。德宗が崩御し、順宗・憲宗皇帝が即位すると全義は観念し、処罰されない間に帰朝しようと考えました。永貞元年8月憲宗皇帝の即位に合わせて全義は入朝しました。留後は甥の楊惠琳に任せました。永貞元年11月左驍衛將軍李演が夏州刺史夏綏銀等州節度使となり、全義は太子少保として致仕を許されました。全義としては責を問われることがなく引退できたわけです。ところが楊惠琳は、德宗皇帝時代の姑息な継承例により、乱をおこせばなんとかなると思っていたようです。憲宗皇帝は夏綏のような自立の出来ない弱小方鎭にそのようなことを認めるつもりはありませんでし...夏綏楊惠琳の乱

  • 西川 劉闢の乱

    韋皐は奉天の乱後劍南西川節度使となり、永貞元年に卒するまで20年間西川を統治しました。軍備を強化し南詔と同盟して、吐蕃を何度も大破してその脅威を除きました。領内に重税を課し、麾下の官僚や軍人の待遇を良くし、幕僚達と朝廷との交流を行わず半独立国の状態に置きました。姑息な德宗皇帝はその功績を評価して放置していました。永貞元年6月韋皐は重病となり、麾下の劍南支度副使劉闢は京師に至り、当時の権力者王叔文に贈賄して後任となろうとしましたが峻拒されました。永貞元年八月韋皐は卒しました。行軍司馬劉闢は自立しました。憲宗皇帝が即位したばかりであり朝廷は、宰相中書侍郎平章事袁滋為劍南東西兩川山南西道安撫大使を送り慰撫しました。永貞元年10月宰相劍南安撫使袁滋を劍南西川節度觀察等使とし、西川行軍司馬劉闢を給事中としました。給...西川劉闢の乱

  • 幽州節度使 朱滔の乱 2

    興元元年正月德宗皇帝は大赦令を発し、朱泚・朱滔以外を赦しました。王武俊・田悅・淄青李納は帰順し、淮西李希烈のみが反乱を続けました。武俊・納は既得権が維持されればそれ以上の要求はなく、悅は相継ぐ敗戦により牙軍は潰滅して休戦を切望し、財政も破綻していました。南下した滔軍をまだ態度を示さない武俊・悅は供軍しています。しかし悅は軍が出兵を望まないとして会同しようとはしません。滔は悦の背信を怒り、馬寔に魏州宗城、貝州經城,楊榮國に魏州冠氏を陥させました。また回紇に魏州館陶を掠奪させました。悦は魏州に籠城します。滔は邢州平恩、魏州永濟に分兵します。滔は貝州に刑曹俊を攻囲します。また回紇を放し諸縣を大掠させ、貝州武城を陥し徳棣二州から軍糧を調達しました。興元元年2月王武俊に平章事兼幽州節度使が加えられ、滔を伐てという命...幽州節度使朱滔の乱2

  • 幽州節度使 朱滔の乱 1

    滔は泚の弟で、泚が入朝した跡、幽州節度留後となり実質的な節度使となりました。建中2年正月成德李寶臣が卒し、子の惟岳が自立すると、滔は率先して征討に参加しました。そして易州刺史張孝忠を帰服させ、3年正月には孝忠と惟岳軍を束鹿に大破し深州を囲みました。王武俊が反して惟岳を誅すると、孤立した魏博田悅を除き、河北では唐朝の優勢が定まりました。建中3年閏正月深州刺史楊榮國は滔に降り、滔はそのまま刺史に任じました。ところが2月唐朝からの恩賞は武俊に恒冀、康日知に深趙、孝忠に易定滄、滔には徳棣を与えるというものでした。恒と冀は深趙に分断され、易定と滄は離れ、幽州と徳棣も滄に分断されています。滔は隣接の深州を欲し、しかも現実に抑えていたのです。この決定に滔と武俊は憤激しました。4月朝廷は滔に検校司徒、通義郡王を与えました...幽州節度使朱滔の乱1

  • 邠寧軍の継承軍乱

    邠寧軍は郭子儀の朔方軍の系列を引き、朔方軍・河中軍が形骸化した後も、吐蕃防衛の前線として關内道で最大の武力を維持していました。韓游瓌奉天の乱に邠寧を継承した韓游瓌は、貞元3.10子の欽緒が李廣弘の乱に参加したことから軍内で権威を失い、德宗皇帝に媚びて留任はしましたが、立場が不安定になったことを自覚していました。①貞元4年正月遊瓌は豐義城を築いて吐蕃防衛にあたることを德宗に約束していたのですが、軍中の人望は既に都虞候虞鄉范希朝に移っていました。遊瓌は希朝を殺そうとしましたが、希朝は逃げ、左神策軍の将となりました。遊瓌は豐義築城を強行しましたが、將士の協力は得られず失敗しました。貞元4年6月遊瓌は病と称して辞職し、後任の交代をまたずに京師に奔りました。貞元年7月朝廷は左金吾將軍張獻甫を邠寧節度使としましたが、...邠寧軍の継承軍乱

  • 山東 來瑱の変

    乾元3年軍乱続きの山東十州節度使となった來瑱は、たちまち將士を手懐け統制を回復しました。ところが定見の無い肅宗皇帝と李輔國はそれに猜疑を抱きました。荊南呂諲や淮西王仲昇は「瑱は將士の衆心を得て自立を図っている」と讒言し、朝廷は京師に近い金商均房四州を山東の管轄から分離しました。しかし山間の遠隔地でもあり瑱はさして気にしませんでした。史朝義將謝欽讓は王仲昇を申州に破り捕らえました。瑱は怨んでいましたので救援しようとはしませんでした。元年建卯月瑱を山東から切り離し安州刺史淮西十六州節度使という一見昇進にみえる転任をさせました。山東は朝廷に内通して瑱を裏切った行軍司馬裴戎に襄鄧等州防御使として与えました。十六州は一見広大ですが史朝義の領域や戦乱で荒廃した地域が多く軍糧の調達にも困難な地域なため瑱は赴任せず山東節...山東來瑱の変

  • 浙西 李錡の乱

    李錡は都統・戸部尚書國貞[軍乱により死]の子であり、貞元15年寵臣李齊運に贈賄し常州刺史より唐朝の重要財源である浙西観察使諸道鹽鐵轉運使となりました。盛んに収奪し德宗皇帝や宦官に媚びて贈賄し寵愛を受けた。貞元17年6月には地元民崔善真にその不正を糾弾されたが、德宗は捕らえて錡に引き渡し殺させた。また私兵を募集し身辺を固めました。幕僚達は連座を懼れて逃げていきました。永貞元年3月姑息な德宗皇帝が卒し、順宗皇帝になると浙西觀察使から鎭海軍節度使に昇格しましたが、利得の源泉となる諸道鹽鐵転運使を解任されました。錡は不満でしたが昇格でもあるのでまだ激発しませんでした・元和2年9月西川の劉闢が平定され、錡は懼れて入朝を請願しました。留められるという期待に反して、すぐ判官王澹を留後とし、尚書右僕射という名誉職に任じる...浙西李錡の乱

  • 宰相 宋申錫の変

    不良少年の敬宗皇帝の頓死後、樞密使王守澄、楊承和、中尉魏從簡、梁守謙等は真面目な江王[文宗]を擁立しました。しかし真面目に統治しようとする文宗は、宦官の達の専横ががまんできなくなってきました。大和4年7月信任する翰林学士の宋申錫を宰相に起用し宦官排除策を相談し始めました。よくいわれる宦官全廃ではなく単なる幹部宦官の排除程度のものだったと思われます。宦官勢力、特に王守澄は申錫派の京兆尹王璠の密告もあり警戒し、謀臣の鄭注の策により先手をうつことにしました。太和5年2月神策軍虞候豆盧著は宰相宋申錫が、文宗の弟漳王湊を擁立しようとしていると告発しました。中尉王守澄は兵を動員して申錫宅を襲い殺害しようとしましたが、麾下の飛龍使馬存亮に止められました。文宗皇帝は狼狽して申錫を見捨てました。諌官達は根拠薄弱な告発を弾劾...宰相宋申錫の変

  • 山東節度の兵乱

    安史の乱に南下する賊軍を防ぐため魯炅が編成した山東節度軍は、規律が悪く無頼の兵団でした。魯炅の自殺後文官を節度使任命しました。①.乾元2年8月襄州將康楚元、張嘉廷が刺史王政を逐いました。楚元は南楚霸王を自称しました。皇帝は將軍曹日升を派遣して司農少卿張光奇を襄州刺史とし、康楚元を慰撫しましたが従いません。乾元2年9月張嘉延は南下して荊州を襲い、節度使杜鴻漸は逃亡し、管轄下の澧、朗、復、郢、硤、歸等州の官吏も城を捨て逃亡しました。史思明が東都付近を陥し河南道を荒らしています。太子少保崔光遠を荊襄等州招討使とし、右羽林大將軍王仲昇を申安沔等州節度使、右羽林大將軍李抱玉を鄭州刺史鄭陳穎亳四州節度使として隣接地を固めました。乾元2年11月商州刺史充荊襄等道租庸使韋倫は降者を厚く撫し、隙を窺い進攻し簡単に楚元を誅し...山東節度の兵乱

  • 幽州 朱克融の乱

    幽州節度使劉總は父を毒殺し、兄を殺して自立したのですが、病身とその祟りに苦しみ、しかも淄青・淮西が滅亡し、成德・魏博・滄景も唐朝に帰服する情勢をみて自らも帰朝することにしました。そして幽州を三分割することを提案し、一族や不満分子を京師に送り、みずからは出家[天平節度への転任の途次で卒します]しました。朱克融は滔の孫で幽州の將でしたが、劉總は不満分子とみて京師に送り神策軍の将軍として仕えさせる段取りにしました。しかし穆宗の宰相達は経綸がなく、不満分子を登用することなく放置し、克融達は失望して幽州に戻ってしまいました。長慶元年3月唐朝は帰服した幽州に宣武・河東を統治した元宰相の張弘靖を節度使に送り、瀛莫二州を分割して權知京兆尹盧士玫を觀察使として送り込みました。弘靖は藩鎭統治に熟達していると思われましたが、河...幽州朱克融の乱

  • 宦官 陳弘志の憲宗皇帝弑逆事件

    淄青・淮西を滅ぼし、成德・魏博・横海・宣武が帰服し、あとは幽州の帰服をまって全国統一に向かっていた元和15年、気の緩んだ憲宗皇帝は道教に凝り、有毒な水銀を含む仙薬服用のため精神障害を起こしていました。そのため政務を執ることが困難となり、百官を憂慮させていました。親任厚い宦官吐突承璀は、無能な皇太子[穆宗]に代えて賢明な澧王を立てることを薦めていました。確かに皇太子は遊び人で無能で、それは即位後にはっきりと示されたのですが、母は郭皇后で、外戚はあの郭子儀の子孫で隠然たる影響力を持っているため簡単に廃することができなかったのです。皇太子は廃されることを懼れ、外戚に対策を相談していました。元和15年正月宦官陳弘志が憲宗皇帝、吐突承璀、澧王を殺害したということになっています。しかし弘志だけで実行できるわけもなく、...宦官陳弘志の憲宗皇帝弑逆事件

  • 武寧軍 王智興の乱

    智興は徐州軍に属し、建中年間の李洧時代から出頭し、元和10年には節度使李愿の筆頭武将として李師道を破っていました。長慶元年には沂州刺史から武寧軍節度副使となり、元宰相で文官の崔羣に代わり武寧の兵権を握っていました。長慶2年3月成德王廷湊・幽州朱克融征討に出た智興と節度使崔羣は相互に疑い、帰還した智興は羣を逐い自立しました。鹽鐵院の錢帛を奪い、諸道の進奉物を掠奪しました。徐州の管轄は江淮からの漕運の中継点ですから唐朝にとっては死活的な問題です。しかし河北三鎭が反旗を翻し、唐朝はそれを鎮定できない状況で、武寧軍を討つ力はありません。唐朝は武寧軍節度副使王智興を檢校工部尚書充武寧軍節度使として自立を認めました。自立を認められた智興は一転して、長慶2年8月の宣武で自立した李介、大和2年横海で自立した李同捷の征討に...武寧軍王智興の乱

  • 涇原 劉文喜の乱

    宰相楊炎は対吐蕃防衛の為、原州に築城し、涇原節度軍[涇州]を原州に移そうとしました。本来涇原軍は安史の乱に際して西域の北庭や安西から派遣された行營軍が流浪して邠州に定住し、さらに僻地の涇州に遷されて成立しています。楊炎の策を諮問された涇原節度使段秀實は「また兵備は整わず、今はその時期ではありません」と反対しましたが、節度使を罷免され、閑職の司農卿に飛ばされました。建中元年2月邠寧節度使李懷光に四鎮北庭行營涇原節度使を兼任させ、軍を原州に移し、実権を持つ留後劉文喜を別駕に飛ばしました。移鎭を聞いて將士は[やっと安住できるかと思ったらまた僻地にやられるのかと]憤激しました。また涇原の將達は、邠寧で懷光が従わない將達を誅殺したことを知り懼れていました。文喜達は涇州に籠もり「帥に段秀實を復するか、朱泚にしてくれ」...涇原劉文喜の乱

  • 劍南 崔旰/寧の乱

    崔旰[賜名されて崔寧]は河北衞州の儒家の生まれだが、兵学を好み劍南に流れてきて將となり、文官の節度使嚴武に重用され漢州刺史、西山都知兵馬使として対吐蕃戦に功績が大でした。ところが永泰元年4月嚴武が卒すると、5月後任に朝廷から歴戦の將右僕射郭英乂が派遣されて来ました。旰は大將王崇俊を推していましたがならず、英乂に崇俊は殺され、旰もまた解任されて召還されました。永泰元年閏10月旰が召還に従わないので、英乂は軍糧を絶ち、大軍で伐ちましたが、山岳戦に長けた旰に敗れ敗走しました。英乂は厳酷であったため士卒は附きません。旰は所部を率いて成都を陥し、英乂は簡州に奔りましたが、途中普州刺史韓澄に殺されました。邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔が蜂起し劍南は大騒動となりました。永泰2年/大暦元年2月朝廷は華州周...劍南崔旰/寧の乱

  • 淄青 李師道の乱 2

    元和13年5月忠武節度使李光顏を義成節度使とし師道征討の先鋒としました。河陽都知兵馬使曹華は棣州刺史とし商河縣へ到り、来寇した淄青兵を破り商河を復し、橫海節度副使を加えられました。元和13年7月師道の官爵を削り、宣武韓弘、魏博田弘正、義成李光顔、武寧李愬、橫海等五鎮に征討を命じました宣歙觀察使王遂が兵站支援の供軍使です。元和13年9月宣武韓弘は自ら曹州を囲みました。元和13年10月左金吾衛大將軍薛平が義成軍節度使となり、李光顔は忠武軍節度使に戻りました。やはり自軍のほうが扱いやすかったようです。元和13年11月河陽節度使鳥重胤を滄州刺史橫海軍節度滄景德棣觀察等使とし進出させました。魏博田弘正は全軍を率いて楊劉より黄河を渡り鄆州[淄青の主邑]を攻めました。淄青軍は動揺しました。元和13年12月李愬の請願によ...淄青李師道の乱2

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