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2019/03/24

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  • 嶺南 哥舒晃の乱

    哥舒晃は字子亮、元帥として潼関で安禄山軍に敗北した翰の子で、突騎施の酋長の家柄です。淮西李希烈と戦った東都行営節度使曜の弟にもあたります。大曆八年九月嶺南節度使廣州刺史呂崇賁[軍人出身]は將で循州刺史哥舒晃に殺されました。理由は不明ですが、晃単独ではなく広く現地勢力と結びついた反乱です。廣州交易に対する唐朝の収奪への現地の反感ではないでしょうか。大曆八年十月廣州は南蛮貿易の利権がある要地ですので、朝廷は早速江西觀察使路嗣恭に廣州刺史充嶺南節度使に兼任させ、翼國公にして征討させました。大曆十年十一月嗣恭にはまともな軍団が提供されなかったようで、嗣恭は南方の暑熱になれた流人孟瑤、敬冕を將とし現地で兵を調達し、容管經略使王翃の援軍と共に廣州に突入し、哥舒晃やその黨萬餘人を殺し京観[斬首した首の山]を築きました。...嶺南哥舒晃の乱

  • 染坊供人張韶の変

    憲宗皇帝が暗殺された後、凡庸で遊び人の穆宗が継ぎ、5年ほどで頓死しました。その後は長子の敬宗ですが、唐の三愚帝[他は中宗.僖宗]の一人です。ポロ競技とレスリングが大好きで、遊び仲間と夜間に宮中を徘徊して狐狩りをするのが趣味でした。もちろん政務などには関心が無く、これも凡庸な宰相まかせでした。そういう話しは民間へも漏れ出て嘲笑の対象になっていました。占い師蘇玄明と染坊の職人張韶は友人でした。ある日玄明は「俺とおまえが殿上で会食するんだ。皇帝は遊び歩いていて不在だから簡単にできる」と韶は「おもしろい、やってみるか」と仲間に相談すると、無頼な仲間はすぐ乗ってきました。長慶4年4月丙申そこで仲間百餘人と、武器を紫草[染料]を山積みした車に隠し、左銀台門[この門を抜けると皇宮領域に入れる]に至りました。門番は武器を...染坊供人張韶の変

  • 浙東 袁晁/袁鼂の乱

    晁は台州の吏員であった。朝廷は安史の乱で欠乏した財政を補うため江淮地域で根こそぎ収奪をおこなった。晁はその暴挙についていけず、処罰されることなったため、唐興縣で起義しました。寶應元年8月台州賊袁晁は舟山島で起義し陷台州、刺史史叙を逐い、越州を陥し、改元して寶勝とし反しました。重税に憤激した民が多く結集しました。朝廷は副元帥李光弼に命じて將張伯儀・袁傪・王棲曜。李長榮等を派兵し鎮圧を図りました。9月袁晁は信州を陥しました。10月袁晁は陷溫處明州を陥しました、浙東浙西各州に侵攻し、衆二十萬と号しました。翁山に水軍基地を置き長江を遡及して各地を荒らしました。12月李光弼將張伯儀は袁晁を衢州に破りました。江西観察使張鎬軍は信州に袁晁軍を破りました。寶應2年/廣徳元年3月李光弼將張伯儀.袁傪.柏良器.王棲曜.李長榮...浙東袁晁/袁鼂の乱

  • 僕固懷恩の乱 2

    廣徳二年2月僕固瑒は榆次を囲んでいましたが抜けず、援兵が遅いと兵を処罰しました。焦暉、白玉帥等は憤激して瑒を殺しました。懷恩はこれを聞き渡河して靈州に奔りました。靈州守將渾釋之はためらいましたが受け入れ、懷恩は釋之を殺して軍を併せ、張韶に守らせました。都虞候張維岳は、焦暉、白玉を殺し郭子儀に通じ、子儀は汾州に行って懷恩兵を収めました。廣徳2年4月朔方行營節度使左僕射同平章事兼太保僕固懷恩の兵権を解き虚位太保だけは残しました。 廣徳2年6月懷恩は靈武で勢力を回復していきます。代宗は慰撫しますが懷恩は従いません。廣徳2年7月懷恩に實封一千五百戸を与えます。廣徳2年8月懷恩は吐蕃・回紇10万を率いて入寇してきました。廣徳2年9月郭子儀、李抱玉が防衛に当たります。邠寧節度使白孝德は吐蕃を宜祿に撃退しました。廣徳2...僕固懷恩の乱2

  • 僕固懷恩の乱 1

    僕固懷恩は鉄勒の僕固部酋長の家系で世襲都督として三代続いてきた。朔方軍に仕え、安史の乱以降郭子儀の下で、また李光弼の下でも活躍し、回紇と唐との橋渡しもしてきました。唐は鮮卑系の異民族国家なので、漢民族に対する警戒感が強く、安史の乱で郭子儀が大きな功績をあげると敬遠し、総司令官たる副元帥を契丹系の李光弼や、鉄勒の僕固懷恩に交代させていたのです。郭子儀敬遠策はよく宦官李輔國や魚朝恩の陰謀と言われていますが、肅宗や代宗皇帝の意志を反映しているのは間違いなく、責任転嫁といえます。寶應元年10月朔方節度使僕固懷恩は同平章事兼絳州刺史領諸軍節度行營として天下兵馬元帥雍王适の副元帥として、回紇可汗と共に史朝義征討に向かいました。寶應2年/廣徳元年正月史朝義は自殺し、安史の乱は終了しました。懷恩は降伏してきた史朝義將の李...僕固懷恩の乱1

  • 宣宗末期の 南部地域の軍乱

    宣宗皇帝は小太宗と呼ばれる唐後半期の名君で、個人としては節減し治政に配慮し、民を労ることに努力しましたが、既に唐の体制は弛緩腐敗していてその善意は下に伝わることはありませんでした。唐南部地域は、淮西吳元濟平定以降長く戦乱がなく、地域の軍は老化弱体化し、官僚達の収奪により待遇は悪化、将校は地域の豪族の利権となり、兵員は盗賊あがり・貧民で充たされ、それも給与の横領により欠員だらけでした。軍乱のタイプは[A]官僚貴族の帥が、現地の將士を軽侮し、資財を横領して待遇を切り下げる。[B]新任の帥が現地属官。土豪の癒着腐敗を摘発是正しようとして反発される。大中9年7月[Aタイプ]浙江東道で軍亂が起き觀察使李訥が逐われました。訥は遜の弟の子ですが、官僚貴族上がりで傲慢であり將士を虐待したため逐われました。大中9年9月李...宣宗末期の南部地域の軍乱

  • 浙東 裘甫/仇甫の乱

    仇甫は貧民の出で、唐末の乱の王仙芝や黄巣と同じく私鹽の販売を生業としていました。唐の地方行政はすでに破綻していて、浙西・浙東・淮南など唐朝財政の主要収奪地域では重税や土地の兼併により貧富の差は大きく、貧民の流動化が進んでいました。宣宗皇帝は治政に励んでいましたが、官僚や宦官達に阻まれてまったく効果を上げていません。大中13年12月浙東の賊帥裘甫は官軍を連破して明州象山縣を陥し、剡縣に迫りました。しかし数百人程度のものです。觀察使鄭祗德は討擊副使劉勍、副將范居植に兵三百を与え、台州軍と共に伐たせました。河北の兵乱よりは賊も官軍も一桁スケールが小さいのです。大中14年正月裘甫は官軍を桐柏觀前で破り、范居植は戦死、劉勍は敗走しました。甫は千餘人で剡縣を陥し、衆を集めて數千人に達しました。浙江地方は久しく平安で兵...浙東裘甫/仇甫の乱

  • 河東節度 唐末の軍乱 ●印が乱

    ・河東節度使は元和年間までは対回紇や河北三鎭の抑止で重視されていました。しかしその後河北三鎭は弱体化し、大中年間に回紇帝国が崩壊して重要性は低下していった。そのため中級文官の赴任先となり、当然官僚腐敗により軍備はいいげんになり、將士の資質・待遇も低下していきました。・通常將士はその家族とともに城内に混住していました。・常備軍の能力低下を補うため、団練[民兵]が多く活用されるようになりました。・代州・雲州など北部は蕃族のほうが多く、特に強敢な沙陀族が勢力を拡大しています。乾符年間にその沙陀族が反したため討伐に苦しみ河東節度は危機を迎えます。乾符5年正月/5月●沙陀が乱を起こしたため、節度使竇瀚は都押衙康傳圭に土團二千人を率いさせ代州に派遣することにしましたが、土團は賞賜を求めて暴動を起こし、抑えようとした馬...河東節度唐末の軍乱●印が乱

  • 安南 楊淸の乱

    元和14年10月容管より報告があり、安南將楊清が亂し、都護李象古[曹王皋の子.道古の兄]とその一族・部曲千餘人を殺害したことが知らされました。象古は貪縱で苛刻なため人望はありません。楊淸は安南の蠻酋で、牙將となっていましたが冷遇され、黄洞蠻を討つことを命ぜられましたが兵を返して都護府を襲撃したのです。唐州刺史桂仲武為安南都護として征討にあたります。楊清を赦し瓊州刺史としましたが従いません。元和15年2月安南都護桂仲武は安南に至りましたが、自立した楊清は入れません。しかし清は残虐であったため、仲間は離れていきます。仲武は他の有力酋豪を説き味方を増やし、兵七千餘人を得ました。朝廷は仲武が逗留しているとして、桂管觀察使裴行立を安南都護として征討させようとします。そして仲武を安州刺史に左遷しました。元和15年3月...安南楊淸の乱

  • 昭義 劉稹の乱 3

    會昌4年正月河東節度使李石は対昭義出兵により太原府兵が少なくなったので、横水戍兵を呼び返しました。しかし、前使劉沔が府庫の財を持ち去ったため、兵への賜物が少なく不満が爆発しました。都將楊弁はそれに乗じて乱を起こし、石を汾州に逐いました。石會關守將楊珍は河東の乱を知り、關をもって稹に降りました。朝廷は狼狽し、楊弁を留後とするとか、征討を中止するとかという論議が巻き起こりましたが、宰相德裕は断固として征討を続ける方針でした。河東出征軍の將王逢に、義武・宣武・兗海の援軍をつけて楊弁を討つことを命じました。また成徳王元逵に王逢軍を支援させるようにしました。榆社駐屯の河東兵主力は、他軍が太原府に入り、自分達の家族を害することを懼れ、監軍呂義忠を擁して太原に入り、乱軍を潰滅させ楊弁を誅しました。會昌4年2月李石を左遷...昭義劉稹の乱3

  • 昭義 劉稹の乱 2

    會昌3年7月寛厚で良吏の山南東道節度使盧鈞に昭義節度招撫使を兼任させ、昭義の民心を得ようとしました。刑部侍郎兼御史中丞李回に河北三鎮を宣慰させ出兵を促しました。典型的な政治的将軍の晉絳行營節度使李彥佐は武寧を立ち、緩慢に進軍しながら増兵と賞賜を求めました。德裕は彥佐が逗留するとみて、回紇征討で活躍した天德防御使石雄を副将にしました。雄は武寧軍出身で、その衆望を節度使王智興に憎まれて逐われた前歴を持ちます。智興の子忠武王宰とは仇敵です。王元逵は宣務柵を抜き、邢州堯山を攻め、昭義軍を破りました。功績により元逵は使相となりました。會昌3年8月昭義大將李丕が來降しました。元逵は魏博何弘敬が観望して動かないと訴えました。德裕は忠武王宰を魏博を通過させて磁州を攻めさせると、弘敬を威嚇しました。弘敬は領域に唐軍の進入す...昭義劉稹の乱2

  • 昭義 劉稹の乱 1

    昭義劉氏の自立は、淄青李師道を裏切った劉悟[正臣の孫]に始まります。裏切った恩賞として義成軍節度となり、昭義軍節度に移りました。いずれも淄青軍時代の親兵数千を引率して牙軍としています。寶暦元年8月劉悟の死後、子の從諫は自立を図り、宰相李逢吉、宦官王守澄に贈賄し継承に成功しました。従諫は自らは忠臣をもって任じ、李同捷征討に参加し、入朝するなど親唐朝姿勢を示していました。大和9年の甘露の変で、宦官達は李訓派のみならず、変に関係しない宰相全員を殺害し、専権を振るい、文宗皇帝や新任宰相李石・鄭覃もなすすべはありませんでした。従諫は親しかった宰相王涯が殺害されたことを怒り、殺害された宰相達の罪状を公開することを要求しました。行き過ぎた行為をしていた宦官勢力は懼れておとなしくなり、李石達も少しは政務を行うことができる...昭義劉稹の乱1

  • 宣武 李介*の乱

    檢校司空汴州刺史宣武軍節度使李愿は、德宗時の副元帥太尉李愿の子です。父や弟愬のように將才はありませんが大功臣の長子であるため優遇され節度使を歴任してきました。宣武軍は劉玄佐から韓弘まで長い半独立の期間があり、韓弘が唐朝に帰属後、才識のある元宰相の張弘靖が將士を優遇しながら慰撫してきていました。長慶2年6/7月李愿は將士の労苦や実情をしらない豪家の出身で、厳格なだけで威厳を保つタイプであり、將士を冷遇し、処罰を厳しくしていました。また妻弟竇瑗に政務を任せきっていました。宣武軍宿直將李臣則は竇瑗や愿妻を斬り、節度使李愿を逐いました。衙門都將李介*が自立しました。李介*の字は[ウ冠+介]で漢字表にありません。そのため翽や□や嶺で表示されます。李愿は隨州刺史に貶されましたが、やがて宦官に贈賄し河中節度使に復帰しま...宣武李介*の乱

  • 瀘州 楊子琳/楊猷

    子琳は雄武の才があり法規に従わず独断専行する人物でした。永泰元年閏10月中央より赴任した右僕射劍南節度使郭英乂と、前使嚴武の寵將崔旰[寧]とに紛争が起き、山岳戦に長じた旰が英乂を破り、英乂は敗走して殺されました。邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔は旰を伐つとして蜂起しました。子琳は元瀘南賊帥で帰順して將となっていたのです。大暦元年8月劍南副元帥杜鴻漸は旰を伐つことが出来ず、ひたすら慰撫して唐朝への帰属を求め、旰もまた鴻漸に媚びて西川節度の地位を求めました。鴻漸は他の諸将を宥めめ、各州の刺史とし、子琳も瀘州刺史となりました。大暦3年4月西川節度使になった崔寧[旰]が京師に入朝した隙に、瀘州刺史楊子琳は數千を率いて成都へ突入し、留守崔寬[寧の弟]を逐い占拠しました。唐朝はあわてて寧を西川に戻しまし...瀘州楊子琳/楊猷

  • 魏博 田悅の乱 2

    窮地に追い込まれた田悅は判官王侑・許士則を間道伝いに深州に送り「成德についで魏博も亡べば、幽州もあぶない」「魏博から貝州を提供する」と朱滔を説きました。朱滔は喜び、同じく不満な王武俊を味方にしました。張孝忠は同意しませんでした。建中3年4月朱滔・王武俊は反して田悅と連合しました。悅は援兵が来るのを頼みとして、將康愔に御河上で馬燧と戦わせましたが大敗しました。建中3年5月朔方節度使李懷光が征討軍に加わりました。建中3年6月朱滔と王武俊兵が田悅を救援し魏州北に至りました。李懷光も到着し、馬燧、李抱真、李芃と合しました。両軍は連篋山の西で戦い、唐軍は敗北し、反軍は河を氾濫させ唐軍の退路を断ちました。建中3年7月唐軍は退却しましたが、朱滔はそれを追いませんでした。両軍は河を隔てて対峙しました。建中3年11月悅は朱...魏博田悅の乱2

  • 魏博 田悅の乱 1

    悅は初代魏博節度使承嗣の甥であり、承嗣に代わって軍を指揮していました。大暦11年には汴宋で自立した李靈耀を支援する為に派遣されたが、淮西李忠臣等に撃破されて逃げ帰っています。大暦14年2月魏博節度使田承嗣が卒し、兄の子悅が自立しました。承嗣は11人も子がいましたが、いずれも幼く、まともに継承できるのは悅だけでした。姑息な代宗皇帝の末期でしたので、唐朝はやむをえず正式に留後とし、節度使に昇進させました。悅もまた承嗣と違い恭順を示していました。建中元年2月あらたに即位した德宗皇帝は粛軍を行い、藩鎭の兵士達も減らすように命じました。特に魏博は承嗣の時より過大な軍備[7万]を擁していたため、それを3万にするように命じました。悅にとっては財政負担が軽くなるので悪い話しではありませんが、リストラされる兵士にとっては、...魏博田悅の乱1

  • 成德 王承宗の乱 4

    元和11年10月幽州節度劉總が使相となりました。本気ではないですが征討に加わっている總への恩賞です。この時点まで淮西・成德両面ともはかばかしい戦果はなく、莫大な戦費がかかり、唐朝も疲弊していっています。当然成德承宗も領域が荒らされ、戦費に苦しんでいます。元和11年12月横海節度程執恭は成德兵を德州長河で破りました。義武節度使渾鎬は全軍で恒州へ侵攻しましたが大敗し逃げ帰りました。軍乱が起こり鎬家は掠奪されました。張茂昭の甥である易州刺史陳楚が急遽入城し鎮定しました。鎬は渾瑊の子です。元和12年3月昭義郗士美兵は趙州柏鄉で敗北しました。王承宗軍は横海程權[執恭]の領域である景州東光に侵攻しました。程權はあわてて滄州に逃げ帰りました。元和12年5月攻囲したはずの六鎮[義武.幽州.横海.魏博.河東.昭義]は形勢不...成德王承宗の乱4

  • 成德 王承宗の乱 3

    元和10年正月消極的な反唐朝傾向であった淮西吳少陽が卒し、その子元濟は自立した上に周辺地域への侵攻をくり返したため憲宗皇帝は淮西征討を始めました。元濟は淄青李師道や成德王承宗に支援を求めてきました。師道・承宗は元濟の淮西継承を求めましたが憲宗は峻拒しました。元和10年5月承宗は牙將尹少卿を送り、強硬派の宰相武元衡に元濟を取りなしましたが拒否されました。元和10年6月承宗・師道の派遣した刺客は、京師で宰相武元衡を殺し、御史中丞裴度に傷を負わせました。真犯人は師道麾下の刺客だったようですが、事前の強迫もあり承宗が疑われました。承宗系の刺客は事に遅れたようです。王士則や士平は承宗の麾下の仕業であると告発し、成德軍進奏院の張晏等八人が捕縛され誅されました。しかし世間は疑っていました。憲宗は激怒してただちに強硬派の...成德王承宗の乱3

  • 成德 王承宗の乱 2

    元和5年正月幽州節度使劉濟は唐朝方につき、諸軍に先立ち自ら兵七萬人を率いて王承宗を撃ち深州饒陽縣、束鹿縣を落としました。河東、河中、振武、義武の四軍は恆州北道招討として定州に合同しました。河東將王榮は洄湟鎮を落としました。しかし主力軍の吐突承璀は威令はなく、承宗軍にしばしば敗れ、その驍將酈定進は戰死し士気は大きく低下しました。元和5年4月昭義軍節度盧從史は王承宗征討を勧めたにもかかわらず、逗留して進まず、密かに承宗と通謀し、度支の軍糧のみをせしめていました。從史牙將王翊元は宰相裴垍に実情を告げ、都知兵馬使烏重胤も密告しました。そこで憲宗は承璀と行營兵馬使李聽に從史を捕らえさせ京師に送らせました。従史の部下は騒ぎましたが、烏重胤が抑えました。從史は歡州司馬として流されました。河東范希朝、義武軍張茂昭は承宗軍...成德王承宗の乱2

  • 成德 王承宗の乱 1

    元和4年3月成德軍節度使王士眞が卒しました。士眞は父武俊より継承し唐朝とは付かず離れずの関係で接していました。武俊は幽州朱滔を撃破するなど大功があり、士眞は武俊と共に戦い徳棣観察使を与えられている状況でしたので、継承はスムーズでしたが、承宗はそのような実績はありません。また姑息な德宗皇帝の後半期と違い、憲宗皇帝は対藩鎭強硬姿勢でした。河北三鎭では嫡子を副大使として継承させるシステムができつつありましたが、唐朝は当然それを認めていません。当時の成德軍節度使は、恒州に治し、恒冀深趙徳棣六州を領していました。元和4年閏3月承宗の叔父士則は承宗の自立の余波を受けることを恐れ、幕客劉栖楚とともに京師に走り神策大將軍に任ぜられました。唐朝では継承について議論が分かれ、憲宗皇帝は積極策でしたが、宰相裴垍や翰林学士達文官...成德王承宗の乱1

  • 淮南西道・奉国軍節度使を公開します

    淮南西道節度使は唐朝にとって悩みの種で、李希烈・吳少誠・吳元濟と長期に渡って反抗します。憲宗皇帝時に李愬により元濟が討滅された後は唐朝南部領域は唐末まで安定します。唐末、黄巣の後を継いだ秦宗權の乱により再び淮西は注目されるようになりました。秦宗權分は「奉国軍」李愬分は「唐鄧隋」シートに記載しています。藩鎭年表[淮南西道節度使]を更新公開淮南西道・奉国軍節度使を公開します

  • 汴州宣武軍節度使を公開します。

    汴州宣武軍節度使は江淮からの漕運を黄河に移転する要地で、唐朝にとっては非常に重要で確保したい場所ですが、うまみのある土地なので有力な藩鎭が発生しやすく、唐末には後梁を建国する朱全忠が位置しました。朱全忠については当然の事ながら膨大なデータがあり別シートに新旧唐書の記事をつけました。宋州シートもつけています。藩鎭年表[汴州宣義軍節度使]を更新公開汴州宣武軍節度使を公開します。

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