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2019/03/24

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  • 昭宗宰相史[附廃帝]

    唐帝国は宦官とそれに結びついた藩鎭の傀儡となり、ただ名目上存在しているだけになっています。光化3年には昭宗は宦官に一時廃位され、翌天復元年に崔胤により復位しますが、宦官に執着したため鳳翔李茂貞に拉致されます。朱全忠は茂貞を降し、ついでに宦官を絶滅させ、崔胤を殺して昭宗を東都洛陽に拉致し、やがて昭宗をも殺して、廃帝[哀帝]を立て、禅譲させて唐帝国を亡ぼします。崔胤以外の宰相は単なるお飾りでしかありません。16昭宗宰相史[リンク]15僖宗宰相史[リンク]14懿宗宰相史[リンク]13宣宗宰相史[リンク]12武宗宰相史[リンク]11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]0...昭宗宰相史[附廃帝]

  • 牛李党派の追加 武宗・宣宗期

    李派の全盛期である武宗時代と、牛派全盛の宣宗時代を追記しました。次の懿宗時代からは党派は沈静化し、僖宗以降は唐自体が衰亡し党派は意味を持ちません。16昭宗宰相史[リンク]15僖宗宰相史[リンク]14懿宗宰相史[リンク]13宣宗宰相史[リンク]12武宗宰相史[リンク]11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]牛李党派の追加武宗・宣宗期

  • 牛李党派の追加 文宗

    唐史で有名な「牛李の党争」、最も激しかった文宗[寶暦~大和~開成]時代の文宗宰相表に党派をいれました。R=李德裕派r=準李派G=牛僧孺派g=準牛派です。あとの時代[穆宗.敬宗.武宗.宣宗]も順次追加します。16昭宗宰相史[リンク]15僖宗宰相史[リンク]14懿宗宰相史[リンク]13宣宗宰相史[リンク]12武宗宰相史[リンク]11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]牛李党派の追加文宗

  • 昭宗宰相史前半

    もはや唐帝国とは名ばかりで、群雄割拠の状態ですが、日本の戦国時代の朝廷・幕府の存在のように遠隔地の勢力からは名誉職請求、近隣勢力[王行瑜.李茂貞.韓建.李克用]からは恫喝され傀儡化されています。昭宗皇帝は僖宗皇帝よりはまともですがもうどうにもなりません。文德元年~乾寧4年をアップします。16昭宗宰相史[リンク]15僖宗宰相史[リンク]14懿宗宰相史[リンク]13宣宗宰相史[リンク]12武宗宰相史[リンク]11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[x...昭宗宰相史前半

  • 僖宗宰相史 後半追加

    京師の陥落によって、かろうじて維持されていた唐帝国の全国支配は破綻し、唐朝の威令は關内・山西・劍南など一部地域のみにしか及ばなくなりました。他地域では独立勢力が跋扈し、唐朝の命令には是々非々でしか応じなくなりました。15僖宗宰相史[リンク]14懿宗宰相史[リンク]13宣宗宰相史[リンク]12武宗宰相史[リンク]11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]僖宗宰相史後半追加

  • 僖宗宰相史 前半 京師陥落まで

    唐の三愚帝(中宗.敬宗.僖宗)の筆頭である僖宗は、宦官田令孜等に擁立された痴愚の少年で、16年の治政においてなんの自己表現もない傀儡皇帝です。早速前代の寵臣韋保衡は排除されました。もはや唐の行政は宦官の専権であり宰相はその手先程度の存在でした。廣明元年12月の京師陥落・逃亡までをアップします。15僖宗宰相史[リンク]14懿宗宰相史[リンク]13宣宗宰相史[リンク]12武宗宰相史[リンク]11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集...僖宗宰相史前半京師陥落まで

  • 懿宗宰相史

    宣宗は長子[懿宗]の資質が不満で、蘷王滋の即位を望んでいましたが、長幼の順や傍系から即位した地位の不安定さから決断ができませんでした。そのため親任する宦官達[樞密使王歸長、馬公儒、宣徽南院使王居方,右軍中尉王茂玄]に擁立を頼んでいました。しかし亡くなってしまい、相談に関与しなかった左軍中尉王宗實が正統性を主張し実力で懿宗を擁立しました。宰相達はなにも関与することができません。懿宗はやはり無能でしたが、宣宗時代に抑えられていた宦官達は小粒で、財を貪るのには熱心ですが、政権を左右しようという覇気には欠けていました。そのため宦官と宰相達とのせめぎあいが続きました。14懿宗宰相史[リンク]13宣宗宰相史[リンク]12武宗宰相史[リンク]11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク...懿宗宰相史

  • 宣宗宰相史 後半

    傾く唐帝国を支えるために努力する宣宗皇帝ですが、弛緩した統治機構をいかんともできません。まず南方の崩壊した地方軍の軍乱が始まります。これは簡単に鎮圧できますが、社会全体が混乱し大規模な民乱へとつながっていきます。その中宣宗は無能な後継者に悩みながら崩御します。13宣宗宰相史[リンク]12武宗宰相史[リンク]11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]宣宗宰相史後半

  • 宣宗宰相史 前半

    宣宗皇帝は父憲宗の治政を再興しようとし、誠実に政治を行い、官僚・宦官を抑え宮廷内では主導権を握っていましたが、すでに帝国は腐敗しどうしようもありませんでした。対外的には回紇・吐蕃とも衰微し、河北藩鎭も老化して脅威はありませんでしたが、国内は官僚・宦官・豪族により収奪され、民衆の不満は拡大していきました。しかし宣宗はその努力により唐の滅亡を少し遅らせたようです。會昌6年から大中5年までをアップします。宣宗時は牛党の時代です。13宣宗宰相史[リンク]12武宗宰相史[リンク]11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02....宣宗宰相史前半

  • 武宗宰相史

    長らく中断していましたが、武宗宰相史[開成5~會昌6]を一括してアップします。短期ではありますが武宗はなかなか有能な皇帝で、李德裕を信任し専権を振るわせ、回紇対策・昭義征討・廃仏による財政再建に励みましたが、道教に耽溺し恒例の薬物中毒により急逝してしまいました。親仏派の宦官による毒殺かもしれませんが。武宗時代は李党の時代です。12武宗宰相史[リンク]11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]武宗宰相史

  • 文宗宰相史5

    牛派政権が成立しますが、開成5年正月文宗が崩御すると、仇士良達宦官は、皇太子を廃して武宗を擁立します。そして宦官と連携した李党の復権がはじまります。11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]文宗宰相史5

  • 文宗宰相史4

    甘露の変で宰相を皆殺しにした宦官達は、文宗の廃立も企てましたが、昭義軍節度使劉従諫の上奏によりその不利を知り、一歩退きました。しかし宦官仇士良は宰相権の復権を図る李石を襲撃させるなど専権を振るいます。宰相陣では李党が後退し、牛党が進出してきます。開成1~3年をアップします。11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]文宗宰相史4

  • 文宗宰相史3

    官僚の党争や宦官の専横に辟易した文宗皇帝は、李訓や鄭注などの第三勢力を登用し、牛李党を排除し、王守澄等の旧派宦官を粛清しました。そして宦官の兵権を回収しようとして甘露の変をおこしましたが失敗し、仇士良など宦官達は宰相全員を殺害し、専権を振るうことになりました。大和8~9年をアップします。11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]文宗宰相史3

  • 偏ったwikpedia 郭子儀

    日本語版wikipedia郭子儀https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E5%AD%90%E5%84%80この記事は間違いはないが、極めて偏っている。良いことづくしで郭子儀を襲った危機や迫害についてはまったく書かれていない。能天気な内容だ。①.肅宗時に宦官李輔國により副元帥を解任され、李光弼に兵権を奪われたこと。②.史朝義征討のための兵権を宦官李輔國により、僕固懷恩に奪われたこと。李輔國となっているが肅宗の猜疑心によるとみるのが正しい、唐史では悪いことは宦官のせいにするが皇帝が承認しているからそうなるのだ。③.肅宗末に河中軍で兵乱がおこり、都統李國貞が殺される危機に際して、郭子儀は登用され鎮圧に成功するが、すぐ兵権を奪われて京師に幽閉されたこと。④.吐蕃の侵攻で京師...偏ったwikpedia郭子儀

  • Wikipediaの誤り2 「中書令」

    隋と唐初には、皇帝が出す詔勅の起草を行うという役職から、非常に強い権限を持ち、実質的な宰相職となっていた。唐の太宗の治世では、中書令は参議朝政などの名で国政に参与するようになり、同中書門下三品もしくは同中書門下平章事を兼任しない宰相には実質的権限がなかった。↓唐初、高祖即位時、蕭瑀が内史令となり、武德4年に中書令と改称された。その当時から強い権限があった。↓中書令・侍中はそれ自体が宰相職であり、中書門下三品・同中書門下平章事を兼任する必要はない、玄宗時以降の尚書僕射との混同である。唐中期以降も同平章事→侍中→中書令と宰相が昇進するコースになっている。Wikipediaの誤り2「中書令」

  • Wikipediaの誤り1

    Wikipedia「尚書令」唐では尚書令を長とする尚書省は、中書省から発せられた詔勅に基づいて政務を配下の六部によって執行する実務行政の最高官庁となり、尚書令は宰相としての地位を確立した。しかし、唐の第2代太宗となる李世民が皇子であったときにこの官職を務めていたことから、唐一代を通じて皇太子のみが任ぜられ得る空官となり、本来は次官である左右2名の僕射がかわって宰相の座に就く。尚書令は、龍朔3年(663年)に廃止された。↓皇太子が任ぜられた事はない、秦王世民[太宗]も雍王适[德宗]も立太子以前に任用された。↓廣徳二年郭子儀に発令[すぐ辞す]や、唐末に鳳翔李茂貞、宣武朱全忠が任ぜられたことがある。Wikipediaの誤り1

  • 文宗宰相史2

    なれてきた真面目な文宗皇帝は宦官勢力と結びついた官僚達の党争に辟易し、色の付いていない宋申錫を登用し、擁立の功臣宦官王守澄を排除しようとしますが失敗します。その後また党争が盛んになり、七年には李德裕が登場します。大和4~7年をアップします。11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]文宗宰相史2

  • 文宗宰相史1

    無能な穆宗・敬宗による統治の混乱に辟易した主流派宦官や官僚達は、真面目に統治するだろう文宗を擁立しました。宰相陣は李党が優勢となりましたが、横海李全略征討に不手際を示します。文宗は徐々に自立を始め牛党も再起し始めました。11文宗宰相史[リンク]10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]文宗宰相史1

  • 穆宗敬宗宰相史2

    愚帝穆宗が急死し、より庸劣で年少の敬宗[16才]が即位しました。これが知能の低い不良少年でまともに政務を執らず、仲間と遊び歩いていました。宦官や李逢吉はそれに乗じて専権を振るっていましたが、寶暦二年には勢力は衰えていきました。そして敬宗は仲間に殺されてしまいました。長慶4~寶暦2をアップします。10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]穆宗敬宗宰相史2

  • 穆宗敬宗宰相史1

    憲宗暗殺後、庸劣な皇太子がその徒党の推戴を受けて即位しました。群臣・軍人は疑惑を抱き、それを宥めるために賞賜を大盤振る舞いして抑えました。憲宗の征討によって河北・淄青・淮西は一応平定されましたが、無能な宰相陣の登用によってすぐ崩壊が始まり、数年のうちに河北はまた失われてしまいました。元和15~長慶4.1をアップします。10穆宗敬宗宰相史[リンク]09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]穆宗敬宗宰相史1

  • 憲宗宰相史5

    憲宗は李愬の奇襲により淮西を滅ぼし、ついで成德を帰服させ、淄青を滅ぼし、宣武・魏博・幽州を従わせ全国再統一を実現しますが、皇太子[穆宗]一派の策謀により弑逆されてしまいます。元和12~15年初をアップします。09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]憲宗宰相史5

  • 憲宗宰相史4

    淮西吳少陽が卒し、子の元濟が自立したため淮西征討が再発します。そのうえ成德王承宗・淄青李師道が藩鎭強硬派宰相の武元衡を暗殺したため、激怒した憲宗皇帝は成德征討をも再開します。淄青は当面陰に隠れて淮西・成德を支援しています。朝廷では多くの宰相・官僚達が両面作戦に反対しますが憲宗は受け入れません。戦線が劣勢が続く、元和9~11年を掲載します。09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]憲宗宰相史4

  • 憲宗宰相史3

    宦官指揮の成德王承宗征討は失敗しましたが、義武張茂昭が帰順し、魏博に田弘正という親唐朝派が立ち、もともと唐朝派の幽州・横海と合わせて成德包囲網ができあがりました。宰相陣も吉甫・元衡・絳と藩鎭強硬派が大勢となりました。あせった成德と淄青は陰謀をめぐらせます。元和5~8年をアップします。09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]憲宗宰相史3

  • 憲宗宰相史2

    憲宗は西川・浙西・山東問題を解決し、本来の順地領域を確保し、河北・淄青・淮西の自立地域の回復を検討していきます。首相は杜黄裳→李吉甫→裴垍と切り替わりますが、藩鎭強硬策は継続しています。元和2~4をアップし、元和1を付け加えます。09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]憲宗宰相史2

  • 順宗憲宗宰相史1

    德宗は貞元21[永貞1]にやっと崩御し、順宗が即位しますが重病でとうてい執政できる状態ではありません。しかし側近王叔文や若手官僚は韋執誼を推し立てて改革を進めようとしましたが、皇太子[憲宗]を擁立した宦官・保守派に反撃され挫折しました。しかし即位した憲宗にはすぐに西川劉闢の自立という問題がの対処が課題となり、杜黄裳が執政します。永貞元年~元和元年をアップします。09順宗憲宗宰相史[リンク]08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]順宗憲宗宰相史1

  • 德宗宰相史7

    姑息と停滞が続いた德宗末期、皇太子や官僚達は德宗の寿命が尽きるのを待っており、藩鎭も安逸を楽しんでいました。貞元17~20年をアップします。08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]德宗宰相史7

  • 德宗宰相史6

    即位時の経綸を忘れ、宦官に囲まれひたすら姑息に安逸を求める德宗皇帝は平凡な宰相達を揃えていきました。対藩鎭も刺激をしないように心がけています。ところが淮西吳元濟の反乱が起き、無様な征討劇を演じました。貞元13~16年をアップします。08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]德宗宰相史6

  • 德宗宰相史5

    陸贄の直言・正論に辟易した德宗は、10年に贄を排除し、以降は行政能力はあっても人畜無害な宰相だけを選んでいきます。12年には武臣への不信感から宦官に兵権ほ委ねるという皇帝權喪失への失態も犯します。貞元9~12年をアップします。08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]德宗宰相史5

  • 德宗宰相史4

    李泌が推薦した竇参は有能でしたが徒党を組み、猜疑心の強い德宗とは合いませんでした。そこで貞元8年一派とともに排斥され、正論派の陸贄が首相を務めることになりました。5年~8年をアップします。08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史デ德宗宰相史4

  • 德宗宰相史3

    貞元2年李希烈も殺害され内乱は収まりました。德宗はさらに張延賞を起用して吐蕃と盟約を結ぼうとしましたが違約され失敗しました。過程で李晟や馬燧の兵権を解きました。その後李泌が首相となり改革を進めました。貞元2年~4年をアップします。08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]德宗宰相史3

  • 德宗宰相史2

    淮西李希烈の東都侵攻を救援する涇原軍の反乱により德宗皇帝は京師を棄てて奉天城に逃亡し、朱泚・李忠臣が反し奉天も攻囲され滅亡に瀕しました。河北から李懷光が反転して救援したため助かりましたが、德宗はまた懷光をも疑って反乱させ再度窮地に陥りました。興元元年德宗は謝罪し、李納・王武俊・田悅を帰順させたため事態は好転し、朱泚を滅ぼし、貞元元年には懷光も誅しました。建中4年~貞元元年をアップします。08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]德宗宰相史2

  • 德宗宰相史1

    德宗皇帝は即位しはやばや老耄した郭子儀を隠居させて、兵権を直轄することができました。また前代の宰相常衮を却け、登用した楊炎や盧杞を宰相とし、対外・藩鎭政策を実現しようとはりきりました。安史以来の河北三鎮諸将も老耄し次々と亡くなり、唐朝による河北・河南制覇が推進され戦役が連続し、初期には大きな戦果があり、制覇実現がみこまれましたが、経済的には破綻がまっていました。大暦14年~建中3年をアップします。08德宗宰相史[リンク]07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]德宗宰相史1

  • 肅宗代宗宰相史6

    大暦12年代宗皇帝はついに元載の一党を排除し、政権を奪回しました。郭子儀とは軍權を共有していますが、子儀も老齢であり安定しています。常衮が首相ですが載ほどの力はありません。魏博田承嗣は汴宋の乱にも介入しましたが所領は損得半ばし、兵力を破綻させただけで終わり、淄青李正己だけが大きな利を得て終わりました。大暦11年~14年をアップします。07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]肅宗代宗宰相史6

  • 肅宗代宗宰相史5

    宦官魚朝恩を除いたことにより、郭子儀は行政にあまり関与しなかったため、朝廷は元載の独裁となり、戦乱もなかったため疲弊した唐の財政はすこしずつ改善してきました。そして大暦10年過大な軍備に苦しむ魏博田承嗣が所領拡大を図る反乱を起こしました。大暦6年~10年をアップします。07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]肅宗代宗宰相史5

  • 肅宗代宗宰相史4

    弱体な代宗政権は、朔方河中軍を支配する郭子儀と、親衛軍に成り上がった神策軍を端居する宦官魚朝恩と、有能な宰相元載の三人が対立しながら支えています。代宗には実権はありません。唐朝は周智光・崔旰対策で無力さを示しますが、河北勢力も自領の確保のため紛争を起こす余力はありません。代宗皇帝が元載杜組んでなんとか三頭の一人魚朝恩を排除するまでの大暦元年~護念をアップします。07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]肅宗代宗宰相史4

  • 肅宗代宗宰相史3

    肅宗皇帝が崩御し、李輔國と張皇后で後継闘争が起き、輔國が勝利し皇太子[代宗]が即位し、一時的に輔國が専権を得たが、不満な代宗皇帝に陥れられた。代宗は僕固懷恩や來瑱や郭子儀を排除したため、軍人の不信を買い吐蕃の侵攻に対抗できず京師を陥された。そして皇帝権は衰弱し、郭子儀[朔方河中]魚朝恩[神策軍]元載[宰相]の三者が対立しながら支配する状況に入った。元年・寶應元年~永泰元年をアップします。07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]肅宗代宗宰相史3

  • 肅宗代宗宰相史2

    肅宗は安慶緒を唐軍を挙げて相州に攻め滅ぼそうとしますが、大軍の指揮者を決めないという愚行を犯します。また史思明を挑発して再度反乱させて大敗し河南・東都を失ってしまいました。幸いにもやがて思明は子の朝義に殺されてしまいます。乾元元年~上元二年をアップします。07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]肅宗代宗宰相史2

  • 肅宗宰相史1

    優柔不断で宦官李輔國と張妃の傀儡であった肅宗皇帝ですが、郭子儀や李光弼の活躍で亡国を免れています。しかし無意味な政策で乱を長期化させていますが、一旦京師と東都を回復することには成功しました。至徳元年~二年をアップします。07睿宗代宗宗宰相史[リンク]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]肅宗宰相史1

  • 玄宗宰相史10

    楊國忠は林甫ほどの能力がないのに安禄山を追いつめるという失態を犯しました。玄宗時代の辺境の將は王忠嗣や張守珪などほとんど失脚していますので禄山の危機感は当然です。天寶12~15年をアップします[肅宗即位後は除きます]06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史10

  • 玄宗宰相史9

    天寶11年に李林甫が卒するまで独裁が続きます。出頭してくるものは残らず排除していきますが、楊貴妃一族の國忠は勢力を増し後継となります。林甫は自分が推さなかった皇太子を排除しようとしますが、宦官高力士に阻止されました。天寶6~11載をアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史9

  • 唐僕尚丞郎表について

    嚴耕望氏の「唐僕尚丞郎表」は重宝していますが、その名称上からも中書省・門下省の人事はありません。給事中・中書舎人については既に表を記載しています。今回中書令と門下侍中の表を載せるつもりです。その後中書侍郎・門下侍郎を追記していく予定です。唐僕尚丞郎表について

  • 玄宗宰相史8

    30年を区切りとするため開元は29で止め、天寶と改元しました。李林甫独裁が続きますが、天寶5年ついに最後の同輩李適之も失脚させます。あとは伴食のみです。楊貴妃の勢力が増大していきます。天寶1~5載をアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史8

  • 玄宗宰相史7

    武貴妃に狂った玄宗は、優秀な皇太子やその兄弟三人を殺害します。林甫はその過程で九齢や耀卿を排除することに成功しました。玄宗は貴妃がまもなく死ぬと冷静になりその失敗を後悔します。そして林甫の推薦する壽王[貴妃の子]を排除し、誠実なだけの忠王を皇太子としました。開元23~29年までをアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史7

  • [お知らせ]更新休止について

    私的事情により、3月18日~31日は更新しません。4月1日より再開する予定です。よろしくお願いいたします。[お知らせ]更新休止について

  • 玄宗宰相史6

    裴光庭が主相ですが財政問題は悪化し続けます。そこで裴耀卿・張嘉貞が登用され改革が行われますが、佞臣李林甫も顔をだします。開元18年から22年までをアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史6

  • 玄宗宰相史5

    河西隴右等で功績をあげた文官が宰相に登用されていきます。說が失脚しますがのこった乾曜は無能です。財政問題を解決するため玄宗は宇文融を登用しますが貴族・官僚層の反発にあい挫折します。開元13~17年をアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史5

  • 玄宗宰相史4

    張嘉貞が追われ、張說の専政となります。突厥や逃戸問題で内外とも多難ですが、玄宗皇帝もメッキがはがれていきおかしくなり、女に狂って王皇后を廃します。開元9~12年をアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史4

  • 玄宗宰相史3

    宋璟主相が悪銭問題で退場し、張嘉貞が登場する開元8年までをアップします。璟も失脚したわけではなく重用されていきます。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史3

  • 玄宗宰相史2

    姚崇専政から宋璟への交代まで、宰相の数が減少し、主相が専権する時代となります。開元2~4をアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史2

  • 高祖太宗高宗宰相史を追記

    高祖・太宗・高宗宰相史を追記しました。新宰相紹介に字.封爵.没年.贈位等を加え期間中の付帯官を追加しました。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高祖太宗高宗宰相史を追記

  • 玄宗宰相史1

    即位はしたものの実権はない玄宗は、太平公主派の宰相に囲まれなにもできない状況でした。打開のため先天二年7月兄弟諸王や側近、軍人達を動員してクーデターを起こし、太平公主やその宰相陣を一掃して主権を確保し、睿宗を隠居させました。その後姚元之/崇を登用し独裁体制を築かせます。先天元年8月~開元元年までをアップします。06玄宗宰相史[リンク]05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]玄宗宰相史1

  • 睿宗宰相史2

    睿宗が即位したものの太平公主と皇太子[後の玄宗]の対立が激しくなり、間にたった睿宗は調整をはかる能力はなく揺れ動き、結局皇太子に丸投げしようとして即位させ玄宗としました。しかし太平公主に懇願され、主要な権限は上皇として握るという中途半端さでかえって事態を複雑にさせました。政治力のある公主によって宰相陣は公主側が大半です。景雲二年から太極元年8月までをアップします。05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]睿宗宰相史2

  • 睿宗宰相史1

    太平公主と臨淄王隆基[睿宗子.後の玄宗]の蜂起は宰相陣を含まない下級官人と将校による蜂起でした。誅殺した韋后派の後を劉幽求・鍾紹京などで補いましたが、能力はなく、一旦解任した宰相陣を復帰させ、その後李日知・崔日用・姚元之・宋璟などを任用して体制づくりを行いました。しかし太平公主と皇太子になった隆基とが争い始めます。政治能力では則天の娘である公主が相当上のようです。その混乱した景雲元年6月~12月をアップします。05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]睿宗宰相史1

  • 韋后殤帝宰相史

    韋后・安楽公主は中宗を毒殺し、幼少の殤帝を擁立して則天の前例を踏襲しようとしました。そのため韋氏一族で軍權をにぎり、宰相達は傍観していました。しかし太平公主や臨淄王隆基[相王の子]は万騎等の青年将校を動員してクーデターを起こし、韋氏・武氏を誅滅しました。殤帝は溫王に格下げされ流されます。この唐隆元年6月[景龍4年.景雲元年でもあります]のみをアップします。ファイルは中宗睿宗宰相史です。05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]韋后殤帝宰相史

  • 中宗睿宗宰相史2

    武氏の復権に危機感を抱いた皇太子の蜂起があった神龍3年から、妻や娘にも裏切られて鬱状態になった景龍4年6月までをアップします。則天は優秀な子供を殺し、無能な子供達だけを残したようです。05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]中宗睿宗宰相史2

  • 中宗睿宗宰相史1

    張柬之・崔玄暐等は皇太子[中宗]を擁立して「唐」を再興しますが、これが最低の人物で唐の三愚帝の筆頭[他の二人は子供の敬宗と僖宗]で則天のほうが数倍ましでした。すぐ妻の韋后やその愛人武三思に引きずり回され、功臣達を追放殺害して傀儡に戻りました。その経過である神龍元年・二年をアップします。05中宗睿宗宰相史[リンク]04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]中宗睿宗宰相史1

  • 則天宰相史5

    強力な支配権を保持していた則天も老齢化し、唐復活をめざす官僚団まだ後継を狙う武三思一族・寵愛する張兄弟一族の闘争を制御できなくなってきました。そして長安五年正月クーデターが発生します。長安二年から五年正月までをアップします。04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]則天宰相史5

  • 則天宰相史4

    則天もある程度経験を積み、宰相の統御ができるようになりました。官僚の才能の評価も定まり、宰相は再任用が多くなり、むやみな処罰も減ってきました。相変わらず対外的には敗北が続いています。萬歳通天二年~長安元年までをアップします。04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]則天宰相史4

  • 則天宰相史3

    則天の迷走は続きます。玉石混淆の登用と短期の使い捨てが続きます。対外的には突厥や吐蕃に敗北が続いています。天授三年から萬歳通天元年までをアップします。04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]則天宰相史3

  • 則天宰相史2

    むやみやたらに宰相登用し、すぐ酷吏の誣告を信じて殺害/流罪をくり返すという定見のない則天ですが、「唐」を滅ぼし「周」を建国することに成功しました。垂拱三年~天授二年をアップします。04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]則天宰相史2

  • 則天宰相史1

    愚鈍な中宗はすぐ廃され、腑抜けの睿宗が傀儡として擁立されました。則天の専権に不満な李勣の孫敬業が淮南で反乱しすぐ鎮圧されました、裴炎は中宗の廃位を率先しましたが、則天の奪位には反対し殺されました。どんどん則天体制が確立していく、弘道元年から垂拱二年までをアップします。04則天宰相史[リンク]03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]則天宰相史1

  • 高宗宰相史8

    儀鳳四年~高宗が崩御した永淳二年までをアップします。皇太子賢も武后に廃され、愚鈍な哲[中宗]が皇太子となりますが、既に老耄している高宗には無縁です。ただ高宗が生きていることで武后の残虐性は掣肘されていますが03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史8

  • 高宗宰相史7

    武后は「天后」と称し、高宗と併立します。評判の良い実子の皇太子弘を殺し、賢を擁立するなどしたい放題の、上元元年~儀鳳三年をアップします。03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史7

  • 高宗宰相史6

    武后が政治の実権を握っています。武后好みの言葉遊びで官名なども変更されていきます。対吐蕃対策が重要となっていきます。總章二年から咸亨四年までです。03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史6

  • 高宗宰相史5

    高宗が武后の束縛を逃れようとして失敗した麟德元年から、百濟・高麗の平定ができた總章元年までを追加します。官僚からも見放された高宗は傀儡でしかありません。03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史5

  • 高宗宰相史4

    長孫無忌が失脚した顯慶四年から、百濟征討は成功しましたが高麗征討は失敗し、李義府が専横しすぎて失脚する龍朔3年までを追加します。03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史4

  • 高宗宰相史2

    高宗の寵愛をうけた武氏[則天]が皇后となり、皇太子忠を廃して自分の子弘を皇太子にして実権を握っていく顯慶3年までをアップします。無忌の勢力は衰退します。03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史2

  • 高宗宰相史1

    高宗即位の貞觀23年から、長孫無忌が政敵を一掃して独裁体制を築いた永徽四年までをアップします。高宗は軟弱ですので初期は無忌の、後期は則天武后の傀儡です。03高宗宰相史[リンク]02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]高宗宰相史1

  • 太宗宰相史5

    貞觀20年から太宗が崩御する23年までを追加します。もう太宗は正常な判断能力を持っていません。02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]太宗宰相史5

  • 太宗宰相史4

    太宗は貞觀17年皇太子承乾を廃し、長孫無忌の指嗾で無能な晉王治を太子としました。そして貞觀19年には高麗遠征に失敗し、健康を害しました。貞觀15~19年を追加します。02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐史データ集[xls]太宗宰相史4

  • 太宗宰相史3

    長孫皇后が亡くなり太宗がおかしくなりはじめました。貞觀10年から侯希逸が西域征討を完了する貞觀14年までを追記します。02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]太宗宰相史3

  • 太宗宰相史2

    太宗の体制は安定していきました。貞觀五年から高祖が亡くなる九年までを追加しました。宰相陣はほとんど動きません。02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]太宗宰相史2

  • 太宗宰相史1

    太宗が奪位した武德9年7月から、宗主国の突厥を滅ぼした貞観4年までを記載します。太宗は奪位を頡利可汗に咎められ、単身謝罪させられた屈辱を晴らしたわけです。02.太宗宰相史[リンク]01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]太宗宰相史1

  • 唐高祖宰相年表2

    武德六年から、秦王世民が皇太子や齊王元吉を殺害し、高祖を退位させ自立した武德九年七月までを追加しました。宰相陣にあまり変化はありません。首相は裴寂です。01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐高祖宰相年表2

  • 唐宰相史1 高祖前半

    隋恭帝を廃して唐高祖が簒奪した武德元年から、群雄竇建徳・王世充を倒して唐の優勢が確立した武德五年までを上げていきます。PDFです。毎回5年単位で唐末まで続きます。01.高祖宰相史[リンク]唐後半の反乱年表[xls]唐宰相史1高祖前半

  • 唐後半の反乱年表

    長らく続いていた唐後半の反乱記録を集約しました。この後は唐宰相史を唐初の高祖から上げていきます。唐後半の反乱年表[xls]を掲載しました。各リンクから該当の反乱の詳細[pdf]を見ることができます。唐後半の反乱年表

  • 鳳翔 李楚琳の乱

    鳳翔隴右節度使朱泚は弟幽州節度使朱滔の反乱に与してはいませんでしたが、朝廷としては警戒して節度使を解任しました。宰相盧杞は同輩の宰相張鎰を追い出すために、朱泚の影響力がある鳳翔には重臣の配置が必要だと言いふらし、鎰を後任とすることに成功しました。建中4年10月涇原軍が反し、德宗皇帝が奉天へ奔ると、鎰は鳳翔へ迎えようとしまず貨財を獻じました。後營將李楚琳は剽悍で威權がありましたが、朱泚の配下で信任を得ていました。そのため行軍司馬齊映・齊抗などは楚琳を隴州へ出そうとしていましたが、楚琳は行かずその党とともに反し鎰や王沼等を殺しました。楚琳は節度使として自立し、朱泚に附きました。隴州刺史郝通も楚琳の配下となりましたが、隴右節度判官隴州留後韋皋は同ぜず隴州を守りました。楚琳は朱泚の奉天城攻囲を支援していましたが、...鳳翔李楚琳の乱

  • 忠武軍 周岌の乱

    乾符~廣明年間、王仙芝・黄巣の乱により唐朝の河南藩鎭軍の規律はゆるみ、兵乱が続発し、任地からの離脱や帥の追放が続発するようになり、黄巣軍の北進を止められなくなりました。廣明元年9月徐州・許州・兗州等河南各軍は兗州節度使齊克讓の指揮下に、溵水で黄巣北進を阻止するために集結していました。強暴な徐州兵の増援軍が許州を通過しました。許州節度使薛能は前任が徐州節度使でうまく統治していたので、徐軍吏も懐いていました。そこで城にいれて優待しましたがやはり放埒でした。許州軍將周岌は、徐州軍が家族を害するのではないかと懼れ、溵水よりを軍を還して徐兵を殺し、能を[旧唐]放逐/[新唐]殺害し自立しました。これを聞いた溵水の徐州軍主力は將時溥に率いられて勝手に帰還しました。兗州節度使齊克讓は兵乱を懼れて兗州に戻り、他軍も解散し、...忠武軍周岌の乱

  • 宣武の軍乱 李乃・鄧惟恭・陸長源

    宣武節度使李萬榮は自立してまもない貞元12年6月に重病となってしまった。監軍霍仙鳴は押牙劉沐に軍政を委ねた。萬榮の子乃は規律のみだれた宣武軍士を煽動し、沐を追い出し、將伊婁說、張丕を殺させました。萬榮の腹心で重鎮の都虞候鄧惟恭は監軍俱文珍とともに乃を捕らえ京師に送りました。貞元12年7月朝廷は元宰相の東都留守董晉を同平章事宣武節度使として送り込み、乃は虔州司馬へ左遷しました。惟恭は自立を策しましたが、晉が急行したために準備ができず、やむをえず諸将を率いて出迎えました。老獪な晉は惟恭を安心させ当座の軍政を委ねました。貞元12年8月硬骨果断な汝州刺史陸長源を宣武行軍司馬としました。晉は硬軟を使い分けて將士を慰撫していったので晉が卒するまでは安撫しておくことができました。貞元12年11月都虞侯鄧惟恭は徒党を組み...宣武の軍乱李乃・鄧惟恭・陸長源

  • 幽州 朱希彩の乱

    安史の乱後、史朝義を裏切って殺した李懷仙は、検校侍中幽州節度使として帰朝した賊將の中ではトップの待遇を受けました。大曆3年6月理由は不明ですが、麾下の兵馬使朱希彩、朱泚、泚弟滔は懷仙とその一族を殺害しました。そして希彩を擁立しました。大暦3年閏6月懷仙と親しかった、成德軍節度使李寶臣は希彩を攻めましたが敗北しました。朝廷はやむをえず、宰相東都留守王縉に盧龍節度使を領させ、希彩を知幽州留後としました。大曆3年7月王縉は幽州に至りましたが、到底制することができないのを知り、数日で帰還しました。大曆3年11月希彩は節度使となりました。幽州朱希彩の乱

  • 義武軍の乱 張茂昭の易定奉還

    義武軍節度易定觀察使は成德軍節度より別れてた藩鎭で、初代張孝忠より唐朝に友好的でした。幽州と成德の二大藩鎭の間にあり常に圧迫を受ける位置にありますが、強力な軍を維持するには財政的に困難な状況でした。それでも驍將孝忠の時代は圧力をはねつけていましたが、二代茂昭となると唐朝の強力な支援がないと存続も困難でした、茂昭は入朝して優遇を受けると、易定二州を唐朝に奉還し、それによって張氏一族の繁栄を図ろうと考えました。元和5年10月成德王承宗征討が戦果無く終わると、茂昭は二州奉還を実行し、自分は河中節度使を与えられ、一族を引き連れて赴任していきました。河北の情勢を考えると、易定二州が唐の領域になるということは大変なことでした。河東や昭義という唐朝領域から河北内部へ易定二州が延びれば、幽州・成德は分断され、朱滔の乱のよ...義武軍の乱張茂昭の易定奉還

  • 河中の軍乱 李國貞殺害

    安史の乱も史思明が子朝義に殺され終息が見えてきましたが、まだまだ征討が終わってはいませんでした。定見無く無能な肅宗皇帝と宦官李輔國は、軍人への不信感は強く、特に異民族以外の軍人は敬遠する傾向がありました。当時河東道地域に集結した朔方軍中心の唐軍も、主帥郭子儀を警戒し、文官の李國貞を都統としました。國貞は有能な官僚ですが、軍人ではありません。上元2年8月殿中監李若幽[賜名され國貞]を戸部尚書朔方鎮西北庭興平陳鄭等九節度行營兵馬及河中節度都統處置使とし、絳州に屯させました。元年建卯月河東軍に軍乱が起き、文官の節度使鄧景山が殺されました。当時絳州には軍糧の蓄積はなく、將士は不満でした。國貞は供給を求めましたが得られません。突將王元振は乱を企み、將士に「都統はこの食糧不足の時に、我々に自宅の修築の手伝いを命令され...河中の軍乱李國貞殺害

  • 河東の軍乱 鄧景山の殺害

    上元2年5月、戦争には弱かったけれども軍政には長けていた河東節度使王思禮が卒しました。彼は膨大な軍糧を蓄積していましたが、後任の軍人管崇嗣は無能でたちまち散逸させてしまいました。そこで文官で厳格な尚書右丞鄧景山を任命しました。景山は赴任すると將士の不正を厳しく摘発しました。元年建卯月、景山は裨將の不正を糾弾し死刑を宣しました。その弟が刑を代わると申し出ましたが拒否しました。ところが馬一匹を納付すると申し出ると赦しました。諸将は「我らは馬一匹以下なのか」と怒って乱し、景山を殺しました。姑息な肅宗皇帝はあわてて「処罰しないから落ち着いてくれ、諸君の希望の帥を選んでくれ」と低姿勢にでました。諸將は都知兵馬使代州刺史辛雲京を推し、雲京は河東節度使となりました。実の所雲京は乱の黒幕であったかもしれません。この肅宗の...河東の軍乱鄧景山の殺害

  • 涇原 田希鑒の乱

    建中4年10月、東都の救援のため節度使姚令言に率いられた涇原軍5千は、途次京師で反乱し德宗皇帝を逐い、朱泚を擁立しました。令言は留守として兵馬使馮河清を涇原留後とし、判官姚況を知涇州事としていました。河清等は反乱に従わず、德宗のいる奉天に甲兵、器械百餘車を送り込みました。德宗は河清を涇原節度使とし、況を行軍司馬に任じました。しかし軍内には反卒となった涇原兵士の家族・友人や、旧幽州兵も多く、朱泚に親しみを持つ分子もあり不安定な状況でした。興元元年4月朱泚、姚令言は河清を誘いましたが従いません。そこで大將田希鑒を誘い河清等を殺害させました。泚は希鑒を涇原節度使としました。興元元年6月李晟が京師を陥し、逃亡してきた泚・令言を希鑒は受け入れず、旧涇原兵は令言を殺し希鑒の元に戻りました。興元元年閏10月涇原節度使田...涇原田希鑒の乱

  • 甘露の変

    文宗皇帝は擁立してくれた宦官勢力が疎ましくなり、幹部宦官を排除するために宋申錫を用いて画策したが、宦官王守澄に先手をうたれ失敗しました。その後も画策しましたが、党争しか頭にない旧来の官僚[牛李の党]に失望し、その頭領たる李德裕・李宗閔を共に排除し、理財家王涯や第三勢力の李訓等を登用してきました。次々と新登用がありましたが、官僚達も文宗皇帝が党争を制圧するための対策と理解していました。大和9年6月左神策中尉韋元素、樞密使楊承和、王踐言を地方に追い、9月には守澄の実権を奪い、10月には毒殺しました。しかしこれらは後継の中尉仇士良や魚志弘の支援があってこそでした。宦官勢力も一丸ではなく、旧勢力の退陣は歓迎するところでした。宰相陣の中では李訓・舒元輿が加担し、京師近隣の邠寧節度に郭行餘、鳳翔節度に鄭注、河東節度に...甘露の変

  • 淄青 李懷玉・正己の乱

    淄青平盧軍節度使は遼東半島にあった平盧軍節度使が安禄山の乱においては同調せず唐朝側について戦った。一部[李忠臣-董泰や田神功]は渤海湾を渡り山東半島に入り防衛にあたりました。しかし幽州領域に隔たられて孤立し、奚・契丹の圧迫もあり、元年建寅/建丙月に節度使侯希逸の指揮下に家族とともに營州をすてて幽州領域を南下し黄河を渡りました。唐朝は靑密節度使を与え、淄沂節度使田神功も所轄を譲渡し淄青平盧軍節度使が成立し、侯希逸が帥となりました。永泰元年7月安定した節度使を得た侯希逸は驕慢となり、遊猟や仏事にふけるようになり、まだ生活が立て直せない將士は不満を抱き、親族の將李懷玉[高麗人]は衆心を集め希逸を逐いました。朝廷は鄭王邈為平盧淄青節度大使とし,懷玉[賜名して正己]を權知留後事として継承を認めました。希逸は京師に奔...淄青李懷玉・正己の乱

  • 河東 楊弁の乱

    昭義劉稹の自立を征討するため、忠武・河陽・晉絳軍を澤潞の主戦線とし、河東軍は背面攻撃を担当して遼州榆社に進出していました。河東節度使劉沔は回紇征討の際、幽州張仲武と軍功を争ったため義成軍節度使に左遷され、庫物をさらえて転勤し、後任に文官の荊南節度使李石が転任してきました。會昌3年12月榆社行營都將王逢から増兵を求めてきましたが、太原は無兵のため、石は橫水に屯する三千人の半分を送ろうとしました。兵は派兵手当を求めましたが、軍庫は空で支給できませんでした。都頭楊弁は太原無兵を知り士卒を煽動しました。會昌4年正月楊弁達は城市を掠奪し、都頭梁季葉を殺し、李石は汾州に奔りました。弁は自立しようとして劉稹に通じました。石會關守將楊珍は關を以って稹に降りました。劉稹征討が進まない中での、河東軍乱の通報で朝廷は大きく動揺...河東楊弁の乱

  • 汴宋 李靈耀の乱

    汴宋八州節度使は淄青・淮西と並んで平盧軍系の節度使で、長らく田神功が統治し、その没後は弟神玉が留後となっていました。汴宋は神功の独裁体制ではなく諸将の連合体でしたが、神玉まではなんとか統制がとれていました。汴宋は富裕で重要な土地でしたので、唐朝としては是非直轄に移したい地域でした。また当時は魏博田承嗣の反乱が沈静化はしてもまだ収まっていない時期でした。大暦11年5月神玉が卒すると、朝廷は文官の永平節度使李勉に汴州刺史充汴宋等八州節度觀察留後を兼任させました。しかし汴宋都虞候李靈耀達は、同調しない濮州刺史孟鑒を殺し、魏博田承嗣と通謀しました。朝廷はあわてて靈曜を濮州刺史としましたが、靈曜は受けません。大曆11年6月姑息な代宗皇帝はたちまち妥協し、靈耀を汴州刺史充節度留後としました。靈耀としては自派の同僚達に...汴宋李靈耀の乱

  • 唐反乱年表

    今までの反乱記録を集約しました。まだ多少の追加後、編集して完成版にします。唐の反乱年表[xls]を掲載しました。各リンクから該当の反乱の詳細[pdf]を見ることができます。唐反乱年表

  • 范陽節度使史思明の反

    安禄山の腹心であった史思明は、反乱後河東・河北で活躍していましたが、安慶緒による禄山暗殺後には態度を鮮明にせず幽州で范陽節度使として半自立体制を取りました。至德2年12月唐朝が両京を回復し安慶緒が相州に逃亡すると、思明は偽河東節度使高秀巖とともに帰朝しました。肅宗皇帝は歸義王范陽節度使に任じました。滄、瀛、深、德、棣等州は皆思明に附きました。これにより慶緒は追いつめられ乱の平定は近いと思われました。ところが宰相張鎬は思明の歸順を疑っていました。幽州内部でも節度副使烏承恩や派遣されて来た宦官李思敬は副元帥李光弼と通じて思明を除く陰謀をめぐらしていました。当然肅宗皇帝もそれを承認していたとみられます。まだ安慶緒が相州で戦っている時期であるのに極めて軽率であったと思われます。乾元元年6月史思明は陰謀を知り、承恩...范陽節度使史思明の反

  • 幽州 陳行泰等の軍乱

    大和8年楊志誠を逐って自立した史元忠ですが、牙軍を統率できなかったようで會昌元年9月幽州軍が亂し、節度使史元忠を[旧唐書]逐う/[新唐書.通鑑]殺すと混乱しています。首謀者は牙將陳行泰です。元忠は親唐朝派であったようで、朝廷は行泰の継承をすぐには認めません。會昌元年閏9月再び軍乱が起き、牙將張絳が行泰を殺し自立します。宰相李徳裕は現地が混乱している状況を察し、継承を慎重にするよう提案しました。會昌元年10月再度軍乱が起き、絳は逐われ、雄武軍使張仲武が幽州に入り自立しました。絳と仲武は事前に連絡があったようですが、乱後に仲間割れしたようです。仲武は衆心を得ており、宰相德裕との事前了解もあったのですぐ留後に任ぜられました。そして親唐朝派として対回紇対策に協力しました。幽州陳行泰等の軍乱

  • 幽州軍乱 楊志誠逐われる

    幽州節度使李載義を逐って自立した楊志誠ですが、節度使となった後も反唐朝姿勢を取り、与えられた官爵に不平を言い、使節を抑留したりしていました。大和8年9/10月幽州節度使楊志誠と監軍李懷仵は牙軍に逐われ、將史元忠が自立しました。原因はよくわかりません。志誠は京師へ遁走しました。志誠一行は河東太原を通過しましたが、朝廷優遇され河東節度使となっていた前使李載義に襲撃され、本人は助命されましたが、妻子や從っていた將士は殺されました。専殺ということになりますが朝廷は載義の功を考えて不問にしました。載義は逐われたことや、母兄の墓を暴かれた恨みがあり、志誠を殺す事をあくまで願いました。大和8年11月京師で志誠は糾問され、史元忠の告発により、節度使時代に皇帝を真似ていたことから流罪となり、途次殺されました。大和8年12月...幽州軍乱楊志誠逐われる

  • 永王璘の乱

    玄宗の子永王璘は幼くして母を失い、哀れんだ兄の肅宗皇帝に愛育されていました。好学でしたが容貌は冴えませんでした。安史の乱が発生しました。至徳元年7月諸王が各地に分遣され、璘は領荊州大都督領山南、江西、嶺南、黔中四道節度使となりました。それまで諸王は実任にはつかず京師の「十王宅」に常住していましたが、始めて地方に赴任したわけです。世間知らずの璘は荊南江陵に至り、江淮の租賦が山積しているのを見て舞い上がり、薛鏐、李台卿、韋子春、劉巨鱗などの軽薄な取り巻きの指嗾に乗って江淮で自立しようと思い立ちました。至德元年11/12月そして舟師を東下させ、渾惟明、季廣琛、高仙琦を將として淮南揚州を取ろうとし、採訪使李成式を攻めました。吳郡採訪使李希言は將元景曜・李承慶・丹徒太守閻敬之・を派遣しましたが、璘軍將渾惟明に敗れ、...永王璘の乱

  • 幽州 楊志誠の乱

    幽州節度使李載義は親唐朝姿勢を貫いていましたが、それに不満な河北勢力も根強く存在していました。載義は本来外来の家系で幽州軍内の大和5年正月球場後院での宴会で副兵馬使楊志誠と一党が反乱し、載義と子正元は易州に奔りました。志誠は載義姻戚莫州刺史張慶初を殺しました。あまりにもろい状況ですが、反唐朝グループが強かったとも言えます。藩鎭不干渉の政策をとる宰相牛僧孺はなんの動きもみせず、志誠の自立を認めました。しかし入朝した親唐朝姿勢の載義を太保同平章事として遇し、まもなく山西節度使を与えました。継承を認められた志誠ですが、反唐朝姿勢を示しました。幽州楊志誠の乱

  • 幽州 李載義の乱

    幽州朱克融は自立して節度使になったが、その統治は暴虐で不安定で、その政治姿勢も成德王廷湊に追随するだけでした。寶暦2年5月幽州で軍乱が起こり、克融と子延齡が殺され、第二子延嗣が擁立されました。寶暦2年9月延嗣は暴虐であったため、都知兵馬使李再義と弟再寧が乱し、延嗣と家屬三百余人を殺し自立しました。再義は劉總に登用され親唐朝分子であったようです。寶暦2年10月再義はたちまち節度使に任ぜられ、「載義」と賜名されました。載義達と唐朝は連絡があったようです。その後奴隷化されていた張弘靖幕僚の家属を返還したり、横海李同捷征討に協力するなど親唐朝姿勢を貫いていました。幽州李載義の乱

  • 山西・興元の軍乱

    李絳は憲宗時代の謀臣・宰相で功績がありました。以降は凡帝が続き、高官を歴任しましたがさしたる業績はありません。大和3年正月太常卿より山西節度使に転じました。劍南西川節度使杜元穎の失政により南詔蠻が入寇し成都を陥す事態になり、朝廷は神策軍を派遣し、山西軍も動員されました。大和4年2月山西軍は少ないため新兵千人を動員しましたが、西川の寇は早期に収まったため、手当を与えて解雇することになりました。ところが絳と不仲の監軍楊叔元は手当をろくに与えません。新軍兵は怒って乱し倉庫を荒らして使府に突入し、絳や幕僚趙存約・薛齊等を殺し、絳の家族も殺しました。叔元は絳の失態であると上奏しましたが、諌官達は弾劾しました。尚書右丞温造が山南西道節度使となり鎮定に向かいました。大和4年3月造は褒城に至り、西川からの歸途にあった山西...山西・興元の軍乱

  • 宣宗皇帝崩御後の変

    宣宗皇帝は宦官の擁立により即位したにもかかわらず、その治政への熱心さと、ボス宦官不在のため、宦官の政治関与を抑制していました。しかし皇太子については、三男夔王滋を立てたい思いと、長男鄆王温を排除する理由がないことから躊躇したたま重病となりました。大中13年8月宣宗派の宦官樞密使王歸長や馬公儒等は、右軍中尉王茂玄と図って、夔王滋を擁立しようとしましたが、同意しないであろう左軍中尉王宗實を排除するため、宣宗がすでに逝去しているにもかかわらず、淮南監軍への移動命令を出しました。宗實は命に従い赴任しようとしましたが、副使亓元實に止められ入内し、宣宗が既に崩御していることを知りました。そして王歸長・馬公儒の行為を責め、長子である鄆王を擁立しました。そして歸長、公儒等をみな殺しました。夔王は殺されていません。もはや皇...宣宗皇帝崩御後の変

  • 敬宗皇帝の殺害

    18歳の敬宗皇帝は低能の不良少年で、ポロ競技やレスリングに熱中し、朝禮政務にはなんの関心もありませんでした。宰相李逢吉達はその馬鹿さ加減に手を焼きながらも、自分達で政治を行えるため放置していました。禁軍や諸道方鎭は競技選手や力士を献上してご機嫌うかがいをし、敬宗はお気に入りの力士達に莫大な賞賜を与えたり、一転して鞭打ち・流罪にしたりとやりたい放題でした。特に宦官達はそのムラ気を懼れていました。寶暦2年12月敬宗は遊びから帰り、宦官劉克明、田務成、許文端やポロ選手・力士と宴会をしていました。そして便所で劉克明等に殺害されました。克明等は翰林學士路隋に遺制を書かせ、憲宗六子の絳王悟を擁立しました。事態を知った宦官主流の樞密使王守澄・楊承和、中尉魏從簡・梁守謙は神策軍を動員して絳王悟、克明等を殺害しました。そし...敬宗皇帝の殺害

  • 文宗皇帝崩御後の変

    大和9年の甘露の変以降、文宗皇帝は傀儡となって、宦官勢力が全権をにぎったという記述がありますが、それほどではなく、昭義劉従諫の恫喝や一部官僚勢力の抵抗を背景として、官僚派と宦官派がせめぎあっていた状況でした。開成3年宦官達に堕落させられた自子の皇太子永が卒したあと、文宗は幼少の敬宗六男の陳王成美を皇太子としました。開成5年正月文宗皇帝が崩御すると、宰相李玨や文宗派の宦官知樞密劉弘逸は皇太子を即位させようとしますが、文宗を憎んでいた神策軍中尉仇士良、魚弘志等は挙兵し懿宗の子穎王瀍[武宗]を皇太弟として擁立し、皇太子や安王溶、賢妃楊氏を殺害して即位させました。安王は文宗の寵姫楊氏の子で立太子を図り宰相等に阻止されていたのです。穆宗以降、宦官が皇帝を擁立する傾向がありましたが、文宗以降ははっきりと宦官による擁立...文宗皇帝崩御後の変

  • 宰相 元載の変

    理財に長けた元載は宦官李輔國に取り入り宰相となり、その後禁軍を支配する宦官魚朝恩と、河中朔方軍を支配する郭子儀と三頭政治で唐朝を支えてきました。大暦5年魚朝恩を排除し中央の権限を独占するとますます専横となり、莫大な賄賂をかきあつめていました。代宗皇帝は次ぎに実権回収を図りましたが、もうひとりの宰相王縉も載党で官僚人事を握り、禁中は宦官董秀に掌握させている載にどうにもできませんでした。大暦12年3月代宗皇帝は信頼できる舅の左金吾大將軍吳湊を京兆尹に任じ、警察権を掌握して載・縉・秀を逮捕させ、載と秀を誅殺し、縉を左遷しました。莫大な収賄物が摘発されました。大曆12年4月清廉な楊綰・常衮を宰相とし、代宗皇帝は即位して15年で初めて実権を握ることができました。大曆12年5月代宗の怨みは強く、元載の祖先の墓・家廟を...宰相元載の変

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