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小日向白朗学会さんのプロフィール

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ブログタイトル
小日向白朗学会 HP準備室BLOG
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/kohinatahakurouassociation
ブログ紹介文
戦前・戦中中国で馬賊総頭目となった小日向白朗氏 戦後の功績 未だ歴史上隠されている”真の事実「米中国交回復と日中国交回復」”を広く世に知ってもらうための小日向白朗学会公式HP開設準備室BLOG
更新頻度(1年)

6回 / 365日(平均0.1回/週)

ブログ村参加:2019/02/28

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小日向白朗学会さん
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小日向白朗学会 HP準備室BLOG
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小日向白朗学会さんの新着記事

1件〜30件

  • 92年前、6月、日本は蟻地獄への入り口に立っていた

    それは92年前のことになる。6月4日午前5時20分を少々回ったころ満州奉天駅の西方1キロほどの地点で張作霖が爆殺された。主犯は河本大作大佐、当時45歳。余談だが、爆弾着火当事者といわれる東宮鉄男は私の高校の先輩でもある。そして、22日後の6月26日、河本は取り調べを受けている。結果「関東軍、並びに河本は事件と無関係、白である。」(加藤康男著、謎解き張作霖爆殺事件より)という報告が田中首相にあげられる。誰が取り調べをしたのか。鈴木荘六参謀総長の命によって荒木貞夫(そのほかに、白川陸相、畑英太郎次官、南次郎参謀次長)ほかが担当した。ここで、笑ってはいけないだろうが、失笑は出てしまうのは仕方ないところだ。すべて「出来レース」であることは明白。8年後の2.26事件にまでこの勢いは止まらない。爆殺17年後の敗戦までにつな...92年前、6月、日本は蟻地獄への入り口に立っていた

  • 紫陽花や帷子時の薄浅黄・・・芭蕉

    紫陽花や帷子時の薄浅黄・・・このころは陽気もめまぐるしく変わり、晴天の次は土砂降り、気温も真夏かと思えば花冷え時を感じたり、いちいち衣替えをしていたらいくつも洋服をそろえなければ、ってな具合の大変面倒な季節でもある。アジサイはそんな季節、一言で言えば「初夏」かもしれないが、人の思いをいろいろとかき乱す花であると思う。私の家には花の咲かないアジサイの鉢がある。これは亡き妻が、確か5~6年前に白山神社で買い求めてきたものだ。いや、もっと前だったかもしれない。買ってきた当時は鮮やかな色合いを魅せて呉れていた。そして、月日はたちその季節がやってくると少しだけ咲いてくれた。また、一年が経過し、その季節が来ると…ついに一輪も咲かなくなってしまった。要は手入れが拙いだけのことであるけれど、「時の流れ」はそんなものではないだろ...紫陽花や帷子時の薄浅黄・・・芭蕉

  • 耽黙してから起きよ

    コロナ禍で世界が凍り付いていくようだ。私には「とりあえず耽黙せよ。時が来たら起きよ。」と言われているように思える。黙して語らずとも時が来れば自然と起つ。今はコロナウィルスを過ぎ越せ、と。過ぎ越してのちに復活の日が来ると。ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によってぼくは廃人であるそうだ(吉本隆明、廃人の歌)と詠った思想家は8年前すでにこの世界にバイバイしている。ある意味、よい時期にに逝ったのではないかとも思えてくるが、健在だったらコロナウィルスをなんと表現するだろうか。ただ、黙って身を躍らせるようにして生を図らんとするだろうか。彼が発言しても世界は凍り付くことはなかった。真実ではなかったのか。而して今、真実を云々するときではない、と思う。今はただ洞の中に籠って耽黙するのみが良かろうかと...耽黙してから起きよ

  • power and jurisdiction in the dominions of the tycoon of Japan

    次の文章をとりあえず読んでみていただければ幸いです。・・・・HerMajestyhashadandnowhaspowerandjurisdictioninthedominionsoftheEmperorofChinaandinthedominionsoftheTycoonofJapan:これは、THELONDONGAZETTEというイギリスの大衆紙の記事です。その日付ですが、APRIL28,1865とあるのです。つまり、江戸幕府の時代。慶応元年のことです。確かにイギリスはそれより10数年前から仕掛けてきています。それも着々と仕掛けを続けてきており、日本では「江戸時代」という区分の時代ではあったとしても、すでにイギリスの、それも大衆レベルの意識下においては中国と同列であるところの準属国?的な立ち位置と思われていた...powerandjurisdictioninthedominionsofthetycoonofJapan

  • 昭和時代の陥穽

    2019年9月①はじめに時代を語りたい。なぜなのかは大体わかっている。それは今を確認したいからである。今を確認することで、私は生存を許される気がしている。今を語れないということは、今を生きていないに等しいと思う。ところが、「語れない今」が実はひしひしとその存在感を強めてきている、と思うのである。その正体はいったい何なのか。それを追い詰め、誰でもが自由闊達に時代を語ることができるようになる、「今」であろうが、「過去」であろうが「時代」について全く分け隔てなく語ることができる、それが目的なのだ。つまりは、自由闊達に生きるためであるということだ。「過去」も「今」も実は同じである。ただ、単に「時間の流れ」の表象である。私はその意味で過去と今を自由に飛び歩く手法をとりたいと思っている。昭和天皇が即位した、その時に昭和の時...昭和時代の陥穽

  • 白朗、馬賊を捨てたその時

    朽木寒三先生の馬賊戦記の最後の部分ですが、死刑を目前にして生きながらえることに腐心していたころ・・・・・(馬賊戦記から)こうして、12月17日、もう夕方6時過ぎである。廊下の一番出口のところで、看守の大声がきこえた。「シャンシュイトン」と呼ぶ。「イヨーッ」というのが、こっちの答え方だ。すると相手は、何とかかんとか-っと叫び返してきた。白朗は片方の耳が悪い。左の方角からくる声をよく聞きとることができない。それでも言葉の調子で、「開廷-ッ」と言われたような気がしたがそれには少し時刻がおかしい。・・・・・・・・といったいきさつが書かれている。つまり、これが、釈放の日だったのだ。最後の質問は「あなたの国籍は、ほんとうはどこですか」であった。「日本です」と答えた白朗、死刑を免れた瞬間であった。と同時に、私には馬賊を捨てた...白朗、馬賊を捨てたその時

  • 朽木寒三先生の葬儀 「馬賊戦記」の朽木先生が安らかに永眠されました

    小日向白朗学会永久名誉顧問朽木寒三先生の葬儀お通夜5/28日18時から告別式5/29日10時から船橋馬込斎場にて滞りなく終わりました。29日の告別式では、しめやかに日蓮正宗に法り葬儀が行われ、僧侶と参列者との題目唱和、御焼香。そして弔電が読み上げられ、題目三唱をさらに唱和しました。最後に、喪主妻の水口マス子様より涙深いお言葉がありました。最後のお別れでは、樒(しきみ)を参列者とご家族、親戚で、安らかな永眠につかれた先生に供えさせて頂きました。式と式との間には、奥様とご家族から直接、肺炎で闘病中のお話をお伺いしました。また小日向白朗学会の研究報告を会員としてお墓に報告しに参らさせて頂くことも話させて頂きました。なお、日蓮正宗に法り、ご本尊の写っている葬儀の様子は撮ってはいけないということですのでありません。朽木寒三先生の葬儀「馬賊戦記」の朽木先生が安らかに永眠されました

  • 訃報

    令和元年5月23日、昨年来肺炎のため入院されていました朽木寒三先生がお亡くなりました。「馬賊戦記」の作者であり、小日向白朗学会の永久名誉会員でもあります。会員一同心よりお悔やみを申し上げると共にご冥福をお祈りいたします。なお、お通夜28日18時船橋北口馬込斎場。告別式29日10時となっております。訃報

  • 小日向白朗 1982年(昭和57年)1月5日 死去の記事

    小日向白朗1982年(昭和57年)1月5日午前一時四十分死去の記事出典新聞名不明白朗氏と同郷諸橋喜八氏から提供社会・政治問題ランキング国際政治・外交ランキング政策研究・提言ランキング偉人・歴史人物ランキング戦史ランキング歴史ランキングにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村小日向白朗1982年(昭和57年)1月5日死去の記事

  • 小日向白朗学会 第一回報告会が平成最後の日に行われました。

    小日向白朗学会第一回報告会が平成最後の日4月30日午後2時から事務局新宿区住吉町新宿スパイアビル7階で行われました。報告会参加者は、並木正徳代表他吉田悦夫田中昭雄湯澤利明オブザーバーとして赤井照久氏と総会にも参加して頂いた諸橋喜八氏も御出席して頂けました。さらに並木会長のお知り合いも参加されました。学会、年次決算報告が報告され、次期年度の方向性と目標が話され、今後の学会の運営を各委員が意見を述べました。また赤井照久氏からは、雑誌「丸」で記載した小日向白朗氏の研究を実証をもとにして突き求めた白朗氏の実像を語って頂きました。また白朗氏が戦中に語った対談が本または雑誌で有り、それを公共図書館で借り読んだという話をして、この資料を知らなかった会員はびっくりした次第ですー。更に、白朗氏と同じ出身の諸橋喜八氏も地元三条市で...小日向白朗学会第一回報告会が平成最後の日に行われました。

  • 昭和32年というと・・・

    西暦1957年。1955年春に白朗が台湾から日本に帰って2年目。まだ大牟田に潜伏中に発表したのでしょうか?どのような記事か、すこぶる興味があります。「奉天城事件」については、杉森久英著『荒野に骨を曝す』の小日向白朗の章でも触れられていて、このように述べられていて面白い。「もし軍事計画、あるいは軍事行動にもアイディアの権利を主張できるものならば、石原莞爾は小白竜のアイディア権を侵害していると言っていえないこともないであろう」(同書:216P)(文責・港)昭和32年というと・・・

  • 小日向白朗氏が話した雑誌人物往來社刊「特集 人物往來 「日本の黒幕」 昭和32年2月号

    小日向白朗氏が話した雑誌人物往來社刊「特集人物往來日本の黒幕」昭和32年2月号ー秘められた満州事変の導火線ーというタイトルで話されています。白朗氏は、奉天事件(張作霖爆殺事件)で張作霖が亡くなった三ヶ月後に息子張学良を訪問し、学良から”父の仇を蒋介石と共に、日本帝国主義を打倒する”強い意思を聞いた。白朗は秘密裏に「天津占領」秘密計画をたて着々と準備をしていたが、決行直前で見つかり頓挫した・・・。その後、同じような計画があったようでその蓄積が、日本帝国主義軍隊の満州事変、そして第二次世界大戦への導火線となったと締めくくっています。この白朗氏の話は、一見の歴史証言価値があります。参考文献文責:ゆざわ社会・政治問題ランキング国際政治・外交ランキング政策研究・提言ランキング偉人・歴史人物ランキング戦史ランキング歴史ラン...小日向白朗氏が話した雑誌人物往來社刊「特集人物往來「日本の黒幕」昭和32年2月号

  • 小日向ドキュメント映画企画意図

    長編ドキュメンタリー映画(90分)「緑林の人~満州馬賊王・小日向白朗~」○中国国歌『義勇軍行進曲』のモデルが日本人であることは、あまり知られていない。中国名『尚旭東』(シャオ・スイトン)。中国民衆からは、伝説の英雄『小白竜』(シャオ・パイロン)と呼ばれた馬賊王・小日向白朗(1900年~1982年)、その人である。新潟県三条市出身の白朗は戦前の満州を中心とする広大な荒野をかけめぐり、一時は、満州馬賊の頭領として7万とも8万ともいわれる配下を引きつれ何度もの修羅場をくぐりぬけてきた。○そんな白朗のモットーは、「義気千秋」「除暴安良」。義侠心を大切にし、暴力を排して良民を助ける心。その思想的バックボーンは、日中の真の友好を願う『アジアは一つ』という大きな理想。日本軍と中国軍の間に立って、両者の融和に務め、日中戦争の前...小日向ドキュメント映画企画意図

  • ドキュメント映画製作にあたって.....

    先日、本ブログで小日向ドキュメント映画製作のための予告編をご紹介しましたが、具体化のための以下のような今後のプランを立ててみました。①遅くも来月5月連休明けから本格的な撮影を開始する。(関係者のインタビューや小日向の写真類は一部撮影済です)②具体的には・白朗の米中国交回復に果たした役割などについて政治評論家を取材。・東京の日大教授M氏取材。小日向活躍の背景についてなど。・父親が小日向の「秘書役」を果たしたFさんへのインタビューや蒋介石別荘予定の伊豆ロケ・白朗の奥さんの出身地・大牟田ロケ、白朗の戦後帰国後5年の空白を探る。・白朗の故郷・三条ロケ等を6月までに済ませれば大筋の撮影は終わります。③それで、編集を始め前回予告編より長い10分程度のダイジェスト版を7月末までに作り、8月、9月でクラウドファンディングを実施...ドキュメント映画製作にあたって.....

  • 金家坊99号にちなんで

    昭和14年の暮れ近く関東憲兵隊司令官も務めた三浦三郎はこういった。「小日向君、上海で一仕事してくれんか」。これが金家坊99の活躍の始まりであった。因みに三浦少将は1893年生まれであり、白朗より七つほど年上になる。小日向の活躍を評価していた人物である。条件付きでこれを受けた白朗は魔都「上海」の謀略戦、諜報線の真っただ中に飛び込んでいったわけである。当時、青幇三大行として名をはせていたのが「杜月笙」を筆頭に黄金栄、張嘯林であり、彼らが大活躍していたというか、好き放題の所業を展開して一般庶民を苦しめていた。藍衣社、特務政治委員会、憲兵第三団など蒋介石一派のテロ集団やもともと日本軍隊によって承認されていた中国国民党特務委員会特工総部、いわゆるジェスフィールド76号などなどが、三つ巴、四つ巴のやりたい放題でほぼ無政府状...金家坊99号にちなんで

  • 満州、見果てぬ故郷

    昨晩テレビを見ていたら「我が国の生命線」などという言葉が聞こえてきました。そう満州のことです。戦後生まれの私にとって、生まれた時にはすでに満州国は存在しなかったにもかかわらず、満州という言葉を聞くと、なぜか「故郷の香り」がするのです。なぜなのでしょうか。私は3人兄弟の末っ子。長男は日本で生まれ、おそらくですが、昭和16年か17年ころに両親と3人で満州に渡ったのです。その地で長女が生まれました。戦後、おそらくですが昭和21年のころ、引き揚げてきたのです。死ぬような過酷な環境の中で、おそらくですが、ソ連兵だけでなく一部の中国の人たちからも逃れるようにして帰ってきたのでしょう。日本の港についてからも、長女が海に落ちそうになったり、はぐれてしまいそうになったり・・・・等々いろいろあったようです。つまり、私の姉は満州国の...満州、見果てぬ故郷

  • 私は田中武夫氏と一緒に仕事をしていた。あの「満州評論」編集者の田中氏と。

    一冊の書物を読みました。「満鉄~知の集団の誕生と死」・・・吉川弘文館発行、小林英夫著です。満鉄と言えば、私が大学を出て入った会社(新聞社)で満鉄出身の方と一緒に机を並べて校正の仕事をしたことがあることを思い出しました。その方の名前は[田中武夫]です。私はまだ20代前半でしたが、田中さんはおそらく60代、いや70代に入っていたかもしれません。穏やかな方で口数は少なく、でもしっかりした口調でお話しする人でした。その方はこんなようなことを言っておりました。「人は、一生のうちに三つのことをすればよい。一つは一本の木を植えること、一冊の書を書くこと、・・・・」三つ目に何を言っていたのかを残念ながら失念してしまいました。そしてかなりのヘビースモーカーで確かピースを吸っていましたが、たばこのことを言うと「私は煙草に淫している...私は田中武夫氏と一緒に仕事をしていた。あの「満州評論」編集者の田中氏と。

  • 港健二郎会員が白朗ドキュメントに挑む

    小日向白朗学会スタートメンバーの一人、映像作家の港健二郎会員が小日向白朗ドキュメントの制作に挑むこととなりました。まだまだ本格的な撮影はこれからのようですが、予告映像が届いたので、皆さんに見て頂ければ幸いと思います。(学会事務局吉田)「緑林の人」緑林の人予告2にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村社会・政治問題ランキング国際政治・外交ランキング政策研究・提言ランキング偉人・歴史人物ランキング戦史ランキング歴史ランキング港健二郎会員が白朗ドキュメントに挑む

  • アジアの平和雑感

    先月末のベトナムでの米朝首脳会談のお話は、いやっというほどテレビなどでコメントされているようです、あまり見ませんが。でも、あのお二人がお話をするっていうことが、日本に住んでいる私たちの生活にどう関係するのかって、どのくらいのリアル感があるのでしょうか。数十年まえならば「アジアの平和」というくくりで語られる話題であると思いますが、今や「アジアの問題は」「世界全体の問題」でもあるでしょうから、世界の平和、にかかわることでしょうね。ところで、昭和46年2月小日向白朗とのクレジット付きで、富士ジャーナルという雑誌に「米国への提言アジアの平和と進歩のために』が公表されています。今となってはあまりご存知の方もいらっしゃらないかもしれません。この文章は前年の昭和45年7月にはアメリカ国家安全保障会議に出されていたものそのもの...アジアの平和雑感

  • 小日向白朗氏 帰国後の功績(2) 日中国交回復まで ー概略ー 

    1971年の米国家安全保障問題担当大統領補佐官キッシンジャー氏の秘密裏での中国訪問で米中国交回復の筋道が出来、1972年2月のニクソン米大統領の訪中で米中共同声明が発表され米中国交回復が成立した。その同年1972年9月には田中角栄首相政権下で、やはりにニクソン政権と同じく、田中角栄首相と同郷(新潟県旧西山町(現長岡市と三条市旧中間選挙で新潟三区で同じ選挙区))である小日向白朗氏を介して中国と接近し日中国交回復をなした。しかし田中角栄首相は、岸・加賀・佐藤自民党主流派ラインの台湾ロビールートに切り捨て、先2月に中国との国交回復に成功したアメリカ側の意向も聞かず日中国交回復を断行した。後日談だが、キッシンジャー米国家安全保障問題担当大統領補佐官はアメリカ側の意向も聞かず田中角栄首相が一方的な日中国交回復を断行したこ...小日向白朗氏帰国後の功績(2)日中国交回復までー概略ー

  • 従軍した父のお話の第2弾です

    昭和13年5月7日の日記です。第10師団、第14師団、第5師団の位置がはっきりわかります。第16師団が増員されていることも書かれています。この中に多くの日本人が存在していたのだと思われます。何人くらいなのでしょう。その後方にいたと思われる父の周辺でも戦死者が出ていました。芦構橋事件の翌年は拡大一直線の時だったのでしょうか。この現場、どなたご存知の方がいたらうれしい限りです。その時白朗はおそらくですが、興亜挺身軍を組織して関東軍の意に沿った行動をとろうとしていた時、その関東軍に目の前で裏切られ、つまり「武士に二言あり」どころか武士にあるまじき関東軍による『裏切り』に会っていたころのことでしょう。(文責吉田)従軍した父のお話の第2弾です

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