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2019/02/02

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  • ベルの燈台

    フランス北西、ブルターニュ地方はキプロン半島の沖合に、ベル=イル=アン=メールという島がある。 優美な島だ。 名前からしてもう既に、その要素が含まれている。フランス語でベル(Belle)は「美しい」を、イル(Île)は「島」をそれぞれ意味するものらしい。 (Wikipediaより、ベル島、カストゥールの浜) 島には複数の燈台がある。 本土との主な連絡手段が船頼りである以上、それは必須施設であろう。 さて、その複数ある燈台のうち、東端に置かれたケルドニス燈台にて。 1911年4月11日、ひとりの男が死亡した。 彼はここの燈台守たるマテロット一家の亭主であって、その死は夏の夕立ほどにだしぬけな、不…

  • アメリカ三題 ―楚人冠の新聞記事から―

    思わず声を立てて笑った。 楚人冠全集第十四巻、『新聞記事回顧』を読み進めていたときである。 頁を捲った私の眼に、このような記事が飛び込んで来たのだ。 嘗てパリの労働者間に酒類に代へて石油飲用の流行したることあり。又露国が戦時禁酒を行へる当時、酒に窮してオーデコロン、オーデキニンを飲用したるものありと聞く。 大正八年三月二十五日の社説に書かれた文らしい。 大正八年といえば西暦にして1919年、およそ101年前である。 なんとこんな昔から、ロシア人のアル中ぶりが知れ渡っておったとは――。 つい先日もロシアでは、酔いを得ようと手指消毒液を呑み干して、七人が死亡したばかりである。 2016年には入浴剤…

  • 1925年のダマスカス ―フランス軍、暴徒に対して爆弾投下―

    1925年、シリア、ダマスカスの市街に於いて。 フランス軍は暴徒鎮圧に爆発物を投入し、ナポレオン・ボナパルトの勇壮な精神の輝きが遺憾なく受け継がれていることを内外に示した。 (長谷川哲也『ナポレオン 獅子の時代』13巻より) 順を追って説明しよう。 すべての元凶はイギリスである。 この年の四月一日、エルサレムに築かれたヘブライ大学の開校式に出席するため、アーサー・ジェームズ・バルフォア卿がパレスチナに乗り込んだことが始まりだった。 そう、アーサー・ジェームズ・バルフォア。 第一次世界大戦当時外務大臣の席に在り、例の三枚舌外交を発揮して、中東に百年経っても解決されない大混乱を惹き起こした張本人と…

  • トルコアヘンは大人気 ―イスタンブールの日本人―

    「ウチのアヘンはもの(・・)が違う。紛れもなく、世界最高品質だ。一度でもその味を知ってしまえば、二度と再び他国製では満足できなくなるだろう――」 そのトルコ人の自慢話がまんざら誇張でもないことを、大阪朝日の特派員・高橋増太郎は知っていた。 彼が派遣されたこの当時、トルコ共和国は国際連盟に未加入な立場を最大限活用し、アヘンの輸出に極めて積極的な状態にある。1927年だけでも三十五万七千六百キログラムを生産し、その輸出額は千四十四万リラに上ったというから大したものだ。 建国間もないトルコにとって、これほど好都合な「特産品」もなかったろう。 彼らはまた、自分たちの商品が如何に高品質を保っているかを科…

  • 英雄的独裁者 ―特派員の見たトルコ―

    1927年10月28日、トルコは死の如き静寂に包まれた。 政府がその威権を発動させて、全国一斉に外出禁止を布(し)いたのだ。 目的は、戸口調査こそにある。 オスマントルコ時代に行われていたような不徹底さを全然廃し、今度こそ完全に己が姿を直視せんと、当局者たちはよほどの覚悟で臨んだらしい。そのことは、医者や消防隊といった急を要する職種の者まで例外とせず、所帯表の取り纏めが終わるまで、断固として戸外に出るを禁じたという一事からでもよくわかる。 よほど強力な中央集権が前提になくば、とてもやれない措置だろう。 幸いこの時期のトルコにはムスタファ・ケマル・パシャという英雄的独裁者が君臨しており、この試み…

  • 山吹色の幻夢譚 ―昭和七年のゴールドラッシュ―

    昭和七年はゴールドラッシュの年と言われた。 水底(みなそこ)に沈んだ宝船、山奥に秘められし埋蔵金、海賊どもが無人島にたっぷり集めた略奪品――。 未だ見ぬ幻の黄金を求めて。遥かな時の砂の中から我こそそれを掘り出さん、と。日本全国津々浦々、誰も彼もが寄ると触るとその話題で持ちきりで、度を失った狂奔ぶりは、恰も熱病の集団感染の観すらあった。 必然として、この状況を利用しようと企む連中が出現(あらわ)れる。 金貨やプラチナを満載したまま日本海海戦の砲火に沈んだナヒーモフ号引揚會を皮切りに、 リューリック号、スワロフ号、アンナ・ローザンヌ号、神力丸の金塊引揚げ、 小栗上野介が赤城山麓に隠したという金塊探…

  • 南の島のレッド・パージ ―緑の魔境の収容所―

    ある日、牛が盗まれた。 ジャワ島東部、日本人和田民治が経営するニャミル椰子園に於いてである。 これが日本内地なら、迷わず警察に通報する一択だろう。一時間もせぬうちに附近の交番から巡査が駈けつけ、同情の意を表しながら現場検証に取り掛かってくれるはず。その程度の機能及び構造は、当時に於いて既に確立されていた。 が、ここはオランダの植民地、南洋遥かなジャワである。 この地を統治するオランダ人は、牛泥棒程度でいちいち真面目に動かない。理由は彼らの怠慢というより、政府の方針からしてそうなのだ。原住民同士の面倒は原住民同士でカタをつけろと言わんばかりに、村長に巨大な権限を投げつけ、事の処理を一任していた。…

  • 切腹したがる子供たち ―志村源太郎・岡本一平―

    志村源太郎という男がいた。 山梨県南都留郡西桂村の産というから、神戸挙一の生まれ故郷たる東桂村とはごく近い。 ほとんど袖が触れ合うような隣村関係といってよく、志村が日本勧業銀行総裁に、神戸が東京電燈社長の椅子に就いて以降は、互いに意識し合うところが大きかったに違いない。 この両人は、年齢までもがほど近かった。 1862年生まれの神戸に対し、1867年生まれの志村。共に御一新以前の年号であり、甲斐絹の取り引きでさんざ儲けた家系の裔である点も、いよいよ似ている。 その財産が父の代にてきれいさっぱり雲散霧消したところまで神戸と志村は共通しており、ここまでくると瓜二つとしか言いようがない。天の作為を、…

  • 盲人による美術鑑賞 ―寺崎広業、環翠楼にて按摩を試す―

    箱根塔ノ沢温泉に環翠楼なる宿がある。 創業はざっと四世紀前、西暦1614年にまで遡り得るというのだから、よほどの老舗に違いない。 「水戸の黄門」こと徳川光圀をはじめとし、多くの著名人がその屋根の下で時を過ごした。 秋田県出身の日本画家、寺崎広業もそのうちの一人に数え入れていいだろう。 (Wikipediaより、寺崎広業) 「放浪の画家」と呼ばれた彼は、しかし箱根に立ち寄る場合いつも決まって環翠楼に投宿し、ほとんど例外というものがなかった。 「絵筆を執り、丹青のわざをふるうのに、これほど適した場所はない」 と、太鼓判を押していた形跡がある。 肩が凝ると、按摩を呼んだ。 その按摩にも贔屓の揉み手が…

  • 天穂のサクナヒメ ―青木信一農学博士をかたわらに―

    『天穂(てんすい)のサクナヒメ』を購入した。 『朧村正』を夢中になってプレイした過去を持つ私にとって、決して見逃せぬタイトルである。和を基調とした世界観といい、横スクロールアクション的な戦闘といい、かの名作を彷彿とさせる要素がてんこ盛りであったのだ。 良き米を作ることが主人公の強化に繋がるという、あまりに独特な成長システムにも惹きつけられるところ大だった。そう、きっと日本人にはこの穀物を、一種神聖な存在として崇めたがる向きがある。今は遥かな上古の昔、稲作を以って王化の証となさしめた大和朝廷にその淵源を見出せるであろうこの偏りは、むろん私の中にもあって、そこを大いに刺激された格好である。 ところ…

  • 続・植民地時代のジャワの習俗 ―道路・散髪・美容術―

    お国柄というものは、植民政策の上に於いても如実に反映されるらしい。 たとえばオランダ人は道路を愛する。 左様、その重視の度合いは最早偏愛としか看做しようのないものであり、このためたとえば和田民治が根を下ろしたジャワ島などは、網目の如く車道が四通八達し、ほとんど汽車を圧倒する勢だったという。 主要幹線は悉くアスファルトで舗装され、道幅も至って広々として、極めて近代的なつくりであった。この豪華さは、当時のインドネシアの活発な産油事情と無関係では有り得ない。原料ならば、いくらでも手に入ったというわけだ。 街路樹としては、ネムノキが専ら活用された。この落葉高木が大きく腕を広げたその下を、エンジン音も高…

  • 植民地時代のジャワの習俗 ―出産・育児篇―

    和田民治という男がいた。 明治十九年生まれというから、ちょうどノルマントン号事件が勃発した年である。 三十路を越えてほどもなく、蘭印――オランダ領東インドに渡った。 以後、およそ二十年もの長きに亘り、彼の地で開墾・農園経営に携わり続けた人物である。 (和田民治氏) 千古斧鉞を加えざる原生林を切り拓き、東ジャワ州ブリタール市南方に彼が築いた農園は、名をニャミル椰子園と称し、その外郭を概説すると、 2100ヘクタールの面積――東京ドーム450個分に相当――を有し、 2000人近くのジャワ人を労働者として定住せしめ、 600頭の牛を耕耘用に飼育しており、 主要作物は椰子とカポック綿であり、前者だけで…

  • 続・文明堂と帝国海軍 ―軍縮をきっかけとして東京へ―

    宮崎甚左衛門が人に使われる立場から、人を使う立場に移行したのは、大正五年十月二十五日のことである。 この日、彼は佐世保の街に文明堂の支店を開いた。 一国一城の主になったのである。男としての本懐であろう。それはいい。ここで疑問とするべきは、 ――何故、佐世保を選んだか。 ということだ。 実のところこの判断の背後にも、海軍が大きく関係している。 (Wikipediaより、佐世保湾) 半年前のことだった。春爛漫たる佐世保の港に連合艦隊が入港すると小耳に挟んだ甚左衛門は、すわ商機ぞと一念発起、担げるだけの品を担ぎ、現地に向かって急行したのだ。 むろん、紹介も何もあったものではない。 ただもうひたすら当…

  • 文明堂と帝国海軍 ―長官室にフリーパスのカステラ屋―

    地下鉄三越前駅から文明堂東京日本橋本店に行く場合、A5出口を使うのが、経験上いちばん手っ取り早く思われる。 ここを出たら、後は右手側に直進するだけでいいのだ。 二分もせずにこの看板が発見できることだろう。 先日カステラを買った際には、おまけとして「黄金三笠山」がついてきた。 この「おまけ」の伝統を作ったのも宮崎甚左衛門その人で、如何にも彼らしい哲学性が底にある。 『まける』ということは、お客さまにとってはこの上ない魅力である。商人が負けるのであるから、お客さまは勝つのである。勝って気持のよくない人はいない。ところが、百円の値段を八十円にまけて、二十円が財布に残ったというのでは、まだ魅力の度が薄…

  • 「今に見てろ」という言葉 ―踏まれても根強く保て福寿草―

    宮崎甚左衛門の『商道五十年』を読んでいると、「今に見ていろ」等逆襲を誓う意味の言葉が散見されて面白い。 前回の記事からおおよそ察しがつく通り、この東京文明堂創業者は極めて律義な性格で、しかしながらそれゆえに、劫を経た古狐のように悪賢い世間師どもの手練手管にやり込められて、煮え湯を呑まされることが多かった。 甚左衛門は偽善者ではない。 そういう場合、しっかり憤りを催している。 情なさと、口惜しさで、腹の中は煮え返るようであった――あのおやじは、おれをひどい目に会わせているが、人を苦しめるお前さんが出世するか、苦しめられるおれが出世するか、今に見ていろ――と、私はひそかに歯噛みしたのであった。(7…

  • 焼け野原での墓参り ―宮崎甚左衛門の孝心―

    ――カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂。 「有名」などという言葉では、慎まし過ぎてとても現実に即さない。 あまりにも人口に膾炙されきったキャッチフレーズ。それを発想した男、東京文明堂創業者・宮崎甚左衛門。 現在私の知る限りの範囲に於いて、この男より孝心豊かな人物というのは存在しない。 日本どころか全世界を見渡しても、彼が最上ではないかと思う。 なにしろ親の戒名を、常に懐に忍ばせていた人物だ。 順を追って説明しよう。――甚左衛門の財布には、紙片がいちまい、何時々々(いついつ)だとて収まっていた。 三つ折りにされたそれを開くと、何よりもまず真っ先に、中心線にぴたりと合った「南無阿弥陀仏…

  • 夢路紀行抄 ―間違い電話―

    夢を見た。 埒のあかない夢である。 直前まで何をしていたかは憶えていない。鮮明なのは、携帯がけたたましく鳴り響いてからである。 着信を知らせる音色であった。 私は特に発信元の番号を確かめもせず、半ば反射でそれに出る。後から思えば迂闊としか言いようがない。悪徳業者のトラップだったら何とするのか。 果たしてスピーカーから聴こえて来たのは、 「――さん?」 しわがれて、変に間延びのした、知らぬ老婆の声だった。 むろん、私の苗字ではない。 (間違い電話か) 今の時代珍しいなと思いつつ、差し当たり穏当な対応を心がけることにする。 が、よほどお年を召されているのか。違います、どちら様ですか、と繰り返し答え…

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