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  • お粗末かな

    しばらく休止します。お粗末かな

  • こいちゃんの紙芝居

    竜の口の法難の絵(水彩画)、四つ切画用紙御書に曰く(種々御振る舞い御書)909頁これほどの悦びはない、笑へかし。左衛門尉が夜明けになれば、みぐるしい!と兵に告げるが返事も無し!大事なのは、発迹顕本したことです。日蓮は凡夫から御本仏となった。こいちゃんの紙芝居

  • こいちゃんの紙芝居

    前回のあらすじお釈迦様の恩に報いる為、提婆達多がそそのかしバカにしましたが誰が何と言おうとも修行をし続けるスリハンドク。それで地殻変動があってか!提婆達多は運が悪く地獄へ落ちていきました。「うわーーー」やがて月日が経ちスリハンドクは福運をもたらすようにと願いを込めた修行をやり抜き、普明如来(ふみょうにょらい)という称号を、お釈迦様からいただき仏となりました。ふみょうにょらいは供養の大切さを教え、特に食べることの喜びを、みんなが分かち合い尊敬されていきました。スリハンドクは、たった14文字の教えしかわからなくても立派に成仏できたのです。そしてお釈迦様の10大弟子には及びませんでしたが16大弟子の末っ子として生きることの喜びを悟り、ブッダから可愛がれて幸せの境地に立ったのです。おしまいこいちゃんの紙芝居

  • こいちゃんの紙芝居

    自分なりの仏教紙芝居をと塗り絵とか貼りえとかで最初はイメージが湧かず人に頼り座談会用の紙芝居をしていました。最初は誰だって下手だよね!(笑い)。だけど婦人部の方の批評をいただき、次のアタックが出来ていきました。途中であきらめず納得がいくまで、むかしの中学時代の気持ちもあり、絵が好きだった亡くなられた親友の思い出も受け継ぐ気持ちで、上を目指して水彩画を表現しています。富士宮も桜が満開になって今日は、お天気も良く母が元気を取り戻して朝の食事が「おいしいって」(笑い)「いつもありがとうって」(笑い)母を車に乗せてスーパーへ買い物、途中、桜の満開の駐車場へ寄って、桜見物ともなりました。家に帰って私の描いている「すりはんどく」の紙芝居を見ています。一枚、表紙の絵が出来ました。また、前回の絵(2枚)手直ししたり、まだまだ未...こいちゃんの紙芝居

  • こいちゃんの紙芝居

    スリハンドクの紙芝居を描いていましたのでご紹介します。まだ完成まで3か月はかかるかな!5月になって木蓮の花が咲いたころ、スリハンドクは、兄のマカハンドクから、お前はバカだと言われながらも、まっすぐな正直が認められ道場の入門が許され14文字の詩をもらい目連や舎利弗がスリハンドクを見守っていました。しかし、たった14文字の詩を中々覚えられません!とうとう兄に修行の場の道場から放り出されてしまいます。スリハンドクは途方に暮れて、一人とぼとぼ歩いていくと道端で立ち止まって泣いてしまいました。丁度そこに、お釈迦様がいらして声をかけてくださったのです。「ハンドクよ、なぜ泣いているのですか。」「私は愚かです。」お釈迦様は云いました。「自分で愚かと分かっていれば愚かではないぞ!」。そういうと心温かいお釈迦様に手を引かれて再び道...こいちゃんの紙芝居

  • 雪山の寒苦鳥

    雪山童子が遠い遠いむかしヒマラヤで修行していた山には雄大な鷲が住みかとしていたことは霊鷲山として知られてありますね。多くの野鳥や獣がすんでいて、その中に寒苦鳥(かんくちょう)と言いインドで生まれた伝説の話があります。むかし座談会で「雪山童子」の話を聞かされた時、老人の壮年の方は、昔の話をよく話してくれました。「もっと他にあれば聞かせてください」と言った覚えがあります。その中からでた「寒苦鳥」!よく知らないかと思いますのでご紹介しますね!それでは始めます。雪山の寒苦鳥は四季をとおし親鳥からヒナの子育てをして自然界で生き抜いています。自然界は生きる動物に大きな潤いや食べ物があり何一つ不自由なことがありません!しかし生きていく以上、またおおくの鳥にとっては肉食の動物や大きな鳥が生存競争に生き抜き暮らしていました。雪山...雪山の寒苦鳥

  • 雪山童子の紙芝居

    日記も兼ねて3月17日は母の誕生日で96歳になりました。きょうは背景を直そうと描いてるとき丁度テレビ(時代劇専門チャンネルCh:260)で人間革命の映画が始まりました。それでおわりまで見ていたわけですが、突然の場面に「青い山脈」の歌がながれ心の中で歌いながら背景を修正しながら細かいところもあっちこちあるのに気づき手を加え番組が終わるころはできました。仏の境涯とはいかなるところぞ!この童子にある命は動物的な躍動感と、何者にも恐れない勇気があった。ヒマラヤの山中で一人、仏道修行をしているとどこからか諸行無常是生滅法と声が聞こえてきました。しょぎょうむじょうぜしょうめっぽう、童子は声の主を探そうと山道を駆け上がります。そこには怖い顔をした鬼ばかりです。童子は勇気をもって鬼に対して、丁寧に言葉をかけました。今の声は、あ...雪山童子の紙芝居

  • 雪山童子の紙芝居

    せっせんどうじの紙芝居が出来上がりました。きのうは座談会で富木常忍の紙芝居を語り手として10分ほどいただき、皆さんにみていただきました。微笑ましい、おばあちゃんの笑顔が印象的でした。きょうは暇を見て心を込めて修正しました。出来上がったころ丁度、なつかしい友人がきて紙芝居をお見せしたら初めて見る紙芝居に感動されました。地域をめぐって語ってまいりたいと願っています。むかしむかしの、遠いむかしインドのヒマラヤに住んでいた若者の仏教故事を書写したり絵をアレンジしたり工夫を重ねての一枚ですがご紹介いたします。(こいちゃんの紙芝居より)雪山童子の紙芝居

  • 雪山童子の紙芝居(現代版)

    暇を見て、額縁を作り絵を修正して玄関に飾ってある一枚です。雪山童子の紙芝居(現代版)

  • 富木常忍の紙芝居

    また富木常忍は、四条金吾とも信心による交流があり仲が良く、流罪中に佐渡を訪れた四条金吾は大聖人から送られたお手紙や御書の一つの開目抄は金吾をとおして常忍にもお渡しして読む様にと教えられています。佐渡御書と観心本尊相は富木常忍に与えられ、「どうかご無事で」と何度も、何度も御書を読んでいました。極寒の地である佐渡を赦免されたのは大聖人が聖寿53歳。文永11年、梅の花が開花する3月に本土の鎌倉に戻られました。ここでも大聖人は国家の危機である「蒙古の襲来」が近いうちに起こりえると幕府に対して諌暁しますが、これを拒否され、また身辺が危うくなり自ら身延入山されます。また身延入山と知らせを受けた、南条時光(16歳)亡き父の信心の後継者として身延の山へと大聖人をお尋ねして食料を御供養しています。また常忍の母は高齢でありながら、...富木常忍の紙芝居

  • 富木常忍の紙芝居

    むかし鎌倉時代の物語です。建長5年、日蓮大聖人の最初のころ鎌倉に於いて入信した門下です。処は下総(しもうさ)今の千葉県、市川市の住民です。大名の千葉氏の側近にあたる武士で教養や知識が豊富でした。朝から家族そろって家中に題目の声が響いています。なんむみょうほうれんげきょう。常忍と尼御前、常忍の母。そのころ大聖人は伊豆流罪になっていました。富木常忍の紙芝居

  • こいちゃんの紙芝居

    厳しき冬も峠を越えたかな。我が家は高齢の母96歳をもっています。2月に風を引いてしまい深く咳き込む状態があって詳しく検査をしました。右の肺に少量の「水」がありました。必死に介護をして題目を上げ、毎日、毎日一週間もつづきました。風邪もおさまり再検査したら医師は綺麗になったと言われ一旦は安堵したもの今度は食事が思うようにできなくなってしまいました。「なーーん、む、みょうほうれんげきょう」とご祈念していました。まる三日間は「お水」ばかりでした。沖縄の野菜、ゴーヤからとれたサプリメントを購入してのませてみました。元気な声が返ってきました。「おなかすいたあ」(笑い)すこしづつでも食事もよく考えでも好きな「さかな」とりんごのジュース、かぼちゃの煮物、いかダイコン、あたたかい野菜スープに、おつけは卵ときのほうれん草です。ああ...こいちゃんの紙芝居

  • 四条金吾の紙芝居

    そして四条家は鎌倉から離れ老後は、今の山梨県南部町へ住むことになったそうです。令法久住からかのう、もしくは金吾の子供、月満午前の恩計らいかのう。(詳しいことはわかりません)ここで初めて座談会が開始されました。大聖人からのお手紙を手にして信心を勧める四条金吾!晩年は妻の日眼女とともに平和に暮らしたそうです。若い時はお酒が好きで気性も荒く、たびたび大聖人から指導されていました。権力の座から人間主義へ金吾は大聖人から多くの法華経の知恵をいただきました。「難を乗り越える信心」、神(日月天)にも通じる法華経の力用。金吾の胸には題目の願いとは先祖の供養に恥じない成仏への道しるべだったのかな!四条家は代々受け継がれてきた先祖のむかしばなしもあった。飛鳥時代に大化の改新があり歴史で学びましたね。中臣鎌足こそ老後になって藤原鎌足...四条金吾の紙芝居

  • 勝利した四条金吾

    難を乗り越えた四条金吾!主君のご勘気も解けて、年号がかわり弘安元年となり主君の32年間にも及ぶ大名職も解かれて一行は鎌倉におもむくことになりました。主君の江間氏は鎌倉に戻るとまだまだ名越琉と絶大な権力の有力者と根ずよいものがあり臣下からは忠誠を誓う人気がありました。そして金吾には乗るべき馬も用意され、約束された以前の3倍の領地がさずかることになりました。それから今度は鎌倉中に疫病が蔓延して、主君の子供(四郎親時)が病にかかってしまいます。この時も金吾は臣下にたいして丁重に申し上げ医者としての心得に全力で看病することになります。ばめんは白馬に乗り鎌倉を行進する四条金吾!民衆から立派な武士だと讃嘆される四条金吾の絵です。勝利した四条金吾

  • 桑が谷問答の結末!

    結局は法華経の正義を晴らしたいと、京都からまいられた三位房の圧倒的な勝利におわりました。しかし、悔しさのあまり竜象房は親の極楽寺良寛へ根も葉もない嘘のでっちあげの作り話をして、江間の主君をとうして起請文が届けられました。また江間に戻る四条金吾!殿は「金吾よ!これにて法華経を捨てよ!」と迫ります。しかし金吾はこのありさまを大聖人へ報告すると、なりさがってはいけないと厳しく指導されていきます。そして大聖人が代筆をとられ幕府に対して「うそのでっちあげ」と潔白をはらします。桑が谷問答の結末!

  • 四条金吾の紙芝居(5枚目)

    主君は一旦、快方に向かい暇をいただき金吾は鎌倉へもどることになると「桑が谷問答」おこります。金吾は後から来て同席します。三位房と竜象房の法論です。四条金吾の紙芝居(5枚目)

  • 四条金吾の紙芝居(4枚目)

    窮地に立たされる四条金吾!大聖人から「法華経を御宮使い」とあるように純真に信心に励みながらも武士の使い端りにまで落ち込んでしまったのです。こうしているうちに殿(主君)は重い病にかかりました。「殿は、おーーーい誰か医者を呼べ!」と、、、家臣の家来たちは名の知れた医者を呼んで治療にあたります。しかし、月日が経ち一向に殿の病態は良くありません!。「ほかにだれか、おらんかのう」殿は言いました。殿は思い出しだします。「そうだ!金吾を呼べ!」と家臣に伝えます。医者の心得のある金吾は殿に対して昼夜問わず看病にあたりました。四条金吾の紙芝居(4枚目)

  • 四条金吾の紙芝居(3枚目)

    雪が積もろうかと?雪をテーマに2枚上乗せしましたが降らないなあ。また元に戻って続きを御紹介します。さて、不運な殿(江間光時)に忠義を怠らず勤勉な四条金吾!竜の口の法難が過ぎたころ、鎌倉は火災や事件が相次ぎ、原因は法華経の信者だと噂が流れ、四条家は門下の中心者でしたので、幕府から所領没収と重い税金がかけられ乗るべき馬も没収される破目になります。このうごきに江間氏の家臣から金吾に対して悪口やいじめにあい、根もない噂話を殿に告げぐちするなど金吾は窮地に立たされます。そして鎌倉に於いて、にわかに疫病が蔓延して行きました。四条金吾の紙芝居(3枚目)

  • 佐渡御書を拝して一枚の絵

    雪積つもる季節になりましたね。何度も何度も繰り返し身で読んだ。大聖人の佐渡の生活!念仏の強信者だった阿仏房!あって見たらなんと尊いお方なんだろう!阿仏房夫妻は我が門下となり、冬場は食に貧しく、役人の目を逃れては雪道をかき分け塚原の三昧堂へ食べるものを御供養している一場面の絵(水彩画)です。佐渡御書を拝して一枚の絵

  • 雪山童子(せっせんどうじ)の絵(現代版)

    「ブログ創価の森の小さな家」にあった一枚の写真を見つけました。いいね(笑い)どうにかして塗り絵にならないかと工夫して水彩画(A-3)にしました。座談会で皆さんに見せたら、「いい絵ですね」とあちこちから批評をいただきました。いつも玄関に飾ってある一枚の絵です。(聖教新聞配達歴27年)私の生涯の思い出にと、大切にします。どうもありがとう!雪山童子(せっせんどうじ)の絵(現代版)

  • 四条金吾の紙芝居

    大聖人のお手紙を拝しますと1261年(弘長元年)すでに四条金吾は沼津の椎地四郎と、ともに折伏弘教に活躍していた。(前回のあらすじ)しかし大聖人は松葉が谷の法難を受けた後に、幕府の役人に捕わられ静岡県は伊東のまな板岩に放り出され流罪の身となった。まな板岩の周りは、渦が巻き潮が満ちると水没する怖い場所です。役人は幕府の命令で大聖人を放り出すと、さっさと櫓を漕いで去ってしまいます。しかし大聖人の声で地元の漁師の船守弥三郎がおぼれかけてる大聖人をすくいます。原因はなんだったのか!それは国主である北条時頼にたいして立正安国論を提出した際、念仏を破折したことが命を狙われることになったのです。そして船守弥三郎にかくまわれたあと、伊東の地頭(伊東祐光すけみつ)の屋敷に移され、更に大聖人は地頭職の伊東祐光に法華経の信心を勧めた。...四条金吾の紙芝居

  • 母の老人性掻痒症

    現在、母は95歳です。3月になれば96歳となります。紙芝居の四条金吾も武士でありながら名医にもなった。90歳になってつまづき転倒して、背骨を圧迫骨折した。近くの行きつけの病院(整形科)へ緊急入院となったのは5年前です。(救急車を要請したのは高齢になってから今まで8回もありました。すべて一命を乗り越えてきた母です。)痛い!痛いの悲鳴もまる一か月もかかりました。ようやく痛みがひき収まった病院生活。家が恋しいと言う母。そのうちに「ねだこ」ができた。薬を塗っては寝方を変えた。そのうち声がおかしいと、かすれた母の声に先生!これは肺炎でしょうか???付き添っていた私はレントゲン検査を依頼したところ、肺炎をおこしていました。一週間がすぎたころ肺炎は治ったものの片方の腰下にできた「ねだこ」は中々治らず、母は家に帰りたいとしきり...母の老人性掻痒症

  • こいちゃんの紙芝居の絵

    四条金吾の【2枚目】きょうは特に空気の冷え込みがあり寒いですね。風邪など引かぬようマスクやうがいなど心がけていきましょう。さて、本題に入ります。「法華経を学び、実践することは神にも通じる力ありと大聖人は金吾に話しかけました。」この絵は金吾の家族風景です。東洋医学を勉強して薬を調合する四条金吾とその妻の日眼女、子供は経王殿(女の子)と月満御前(次女)です。風邪や下痢、腹痛など、当時の鎌倉は、にわかに疫病が広がっていたのです。金吾は法華経の精神から不幸にあえぐ人を救っていければと伝来した東洋医学を学んで実践するに至ります。近所のお年寄りが四条家にきました。「喉が痛くて咳をこむ!。」「金吾殿!お助けください!」「突然、母の声(かゆいよーーーーーーーーー)、95歳になって背中の皮膚が薄く、かゆい。皮膚科で処方された塗り...こいちゃんの紙芝居の絵

  • こいちゃんの紙芝居

    【一枚目】この物語は四条金吾の不運な主君が「宮騒動」(1246年)権力争いに負けて罰として北条光時が伊豆の江間というところへ配流されることから始まります。そもそもの発端は1242年に起こった宝治の合戦があり、主君の北条光時は鎌倉時代の2代将軍(北条義時)の孫にあたる有力な武将の生まれです。光時は、やることなすこと得宗家にいら立ちや反感をもっていました。宝治の合戦で負けた北条光時は直接の戦いに加わることはありませんでしたが、得宗家に対して「我は北条義時の孫である!」と強く言い張るので、勝負に勝った得宗家から「おまえも一味なのか!」と責められ4年後の宮騒動で権力の争いに負け、とうとう伊豆の江間に配流されることになります。代々北条家に使えてきた四条金吾の父(頼員よりかず)は、北条光時が江間に住居を構えると家来たちは悉...こいちゃんの紙芝居

  • こいちゃんのブログ

    南条時光は、信心によって病魔を克服して行きました。師匠があって私がいる。その闘いは自分を磨き生きるということの輝きです。多くの農民信徒が南条家に参られ大聖人の仏法を語る場面です。24歳の時に一命をとりとめた南条時光!は長寿に恵まれ50年も長生きしました。いかなる困難にあおうとも自分に負けないことです。その後、日興上人の指導を仰ぎ信心を貫いた時光は誉高き先駆者として今も尚、語り告げられています。南条時光!先生の一番好きな代表的な門下だと思いました。おしまいこいちゃんのブログ

  • こいちゃんの紙芝居

    潤井川のせせらぎが聞こえる静かな農村地帯。舞台は鎌倉時代の物語です。ここで南条時光は生まれました。父、南条兵衛七郎は大聖人の門下として地頭職(今の県知事)をしていましたが時光が7歳になったときに父はお亡くなりになりました。そして時光が24歳になったころ重い病気にかかります。あの熱原の法難がようやく過ぎたころでした。師匠の大聖人はこの知らせを受けてお手紙をだします。「大願」を起こせとは別名、「竜門御書」と言います。父の代から平氏としてここまで出家して地頭職を任せられ農民信徒に力を入れて激励してきた。しかし困難の中、犠牲を伴う事件にあい時光の身心はあまりにも重い重圧に寝込んでしまったのです。それはいよいよ成仏しそうなので天魔が脅かしているのですと。竜門御書とは「今でも登竜門」となっております。もとは中国の故事で、鮒...こいちゃんの紙芝居

  • こいちゃんの紙芝居

    熱原の法難???とは、鎌倉時代に起きた法華経を迫害した事件のこと。今の静岡県中央部、富士方面で法華経が流布していく中、邪宗の僧らと幕府が結託して農民信徒を弾圧する一大事がありました。この場面は、南条時光(23歳のころ)が自分の屋敷に農民信徒をかくまい、中には神主までもかくまった絵(自作水彩画)です。こいちゃんの紙芝居

  • 仏法を語る

    立派に成長した南条時光!は若き青年になり21歳になったころ、にわかに熱原の法難があり農民信徒が迫害をうけるようになっていきます。「法華経の信心」だからです。なぜでしょう???この信心は必ず三障四魔という信心を邪魔する難があることを大聖人は身をもって門下や弟子に教えています。難があってこそ成長できることを約束されています。それは人間は宿命を背負って生まれ、一度は死に至ります。しかし生きていく上に宿業という過去世の因を消して信心強情にして難を乗り切ることから新しい人生ドラマが始まります。時光は7歳の時大聖人から信心の灯(ひ)をつけてくれた、あの温かい眼差しと言葉に,なおいっそうの御供養をと、馬に「お餅を9枚と山芋を50本」くらがけして、険しい身延の山道を登っていきます。道中!父の恩を重ねながら想い、このころ時光は父...仏法を語る

  • 仏法を語る

    母の上野尼に育てられた南条時光は、すでに16歳になられました。(故)父の南条兵衛七郎は上野郷一帯の地頭職(今で言う県知事)をして大聖人の門下として親子二代にわたる信心をしていました。師匠の大聖人は、この法を弘めんがために四度の法難にあい最後の流罪地となった極寒の地、佐渡の生活を約2年半に及ぶ大難から赦免され身延の庵に入いられました。帰還したという大聖人のお手紙を受け取った時光は、大聖人が食料に不足して、冬場は持ちこたえることが不可能としり時光は大聖人にお会いするため背中にご供養の荷物を背負って険しい山中を登っていきました。小さな庵に着くと、題目の声が聞こえてきます。胸が躍るような気持ちでお会いすることになって、命の次の大事な食料を差し出すと、亡き父の代から御供養を重ねてきたことに「じゅうらんにしょう」というむか...仏法を語る

  • 仏法を語る

    最初の一枚目は、むかしの鎌倉時代の富士宮の上野郷という地名の部落が舞台となっています。題して「南条時光」という武士に、むかしの大聖人の模範の門下として、亡き父の追善供養でわざわざ遠い鎌倉から参られた大聖人との出会いから、この物語は始まります。時光が7歳の時!母の上野尼に育てられ、立派に成長していく姿は私どもの生きるための心の財産になっています。座談会では、文章にて記憶してありますが水彩画を始めてから「色心」という観点から想像するに至りました。仏法を語る

  • 仏法を語る

    こんばんは、はじめまして!趣味で紙芝居の絵を描いています。定年になってから水彩画をはじめまた。なにをあるにも最初は誰だってみんな未熟ですよね(わらい)だけど根気よく鍛錬して自己流でも、自分に気にいる絵ができるものです。仏法の習いごとは、幼いころから母とともに信心する中、インドの故事や中国の故事、また日本の歴史など座談会をとうして書物を開いては自然に身につけました。病気も何度かして危ういときもありながら、いまは元気で高齢の母の介護をしながら暇を見て描いていました。また絵を描こうと思いついたのは母がディサービスで塗り絵をはじめたときです。かれこれ5年も前になります。絵や日本の昔話や日本の歴史など話すことが得意で、家に持ち帰り私にみせてくれました。家族のほほ笑みだね!喜ぶ笑顔には生きる力が湧いてくるものです。仏法を語る

  • 南条時光

    南条時光南条時光

  • 南条時光

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