正義の鎧を脱ぎ捨てて善悪の衣を脱ぎ捨てて優劣の靴を脱ぎ捨てて自他の眼鏡を投げ捨てて自分の始まりに還る終わりは始まり始まりは終わりそれが永遠の循環失い 求めて得ては 手放す握りしめれば時は止まり過去とな
日の本の国は世界の雛型ゆえに【かの者】が探し歩いたは『幽界(がいこく)の聖地』探して探して探り当てたその地に『栄光あれ』と【イセ】と名付く『イスラエルの民』の聖地ゆえに『伊勢に栄光あれ(イセ・ラエル)
どうにも人は勘違いをしてしまうかつてそうであったことをなかなか忘れられず離れられず・・・ついついそこに誘い込まれて陥ってしまう新しく生まれ変わるとは真の自分に還ることそれはなにも特別なことではないだが
先日『唐櫃石神社』に訪れた際に、ふと『こちらへ来い』というように『古寺山』のほうから呼ばれたが、その日は時間の都合もあり「後日」と約してその日は唐櫃を後にした。そして数日後に『古寺山』へ向かうべく再び
国に常に立つ御言(みこと)国とは口(大地)と玉(たま)を合わせた文字それは大いなる地球のことであるその地球に常に立っている御言(みこと)それは『言葉』であるかつて神の世で地球を統治していた国常立命が排
タイトルに『しん』が三つ(神・新・真)も入った(笑)少し前から何故か『御札を作れ』との導きが来ていたのですが「何故今さら御札なんかを作る必要があるのか?」と解せなかった。しかしそれでも今月に入ってから
一昨日、『言問い』をするために神戸三宮の『生田神社』へ赴いた。神社に着くなり鳥居手前にある左右二か所の摂社(海神社・松尾社)で何やらおかしな動きをしている人が居る・・・祠の手前の足元に何やら白い粉?を
最初に歪みが生まれれば、その後に続く諸々のことがその歪みの延長線上にあるため、すべてが悪のように見えるが事実はそうではない。歪みの中で善を行えど、悪と映ってしまうのである。また逆に悪を行えど、善と映っ
自由気ままに自分勝手にやらせておけば無人の野を進むが如し文句を言われようが駄々を捏ねられようが多くの人が『勝手気まま』である限り無人の野を進むが如しどんなに悪辣なことをしようがどんなに非常なことをしよ
世の元の大神『国常立命』五体裂かれてバラバラに世界に散りばめ隠されしゆえにこの世にバラバラの語体現れ調和の繋がり断たれたはじまり『鬼』と偽り恐れを広め大神の岩戸閉じたり世の元の道(水地)の神『豊雲野神
『悪』とは 過ぎたる『我(が)』である過ぎたる『我』が歪みを生むゆえ『悪』となるだが神はけっして『悪』を憎んではいないそれどころか『我』すら通せず守れぬものをこそ嘆く『毒にも薬にもならぬものは憐れ』と
かの姫神『瀬織津姫』が我が身に宿ったとき、ハートに花が咲き乱れた。桜の花が咲きクルクルと回り踊るように、色とりどりの花が咲き乱れた。はじめは小さな姫神が、身体の前面に重なり、まるで人形のエネルギー体を
思い出話をひとつ・・・・・安政6年(1859年)、備中国浅口郡大谷村(現:岡山県浅口市大谷)にて赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教である。同じ江戸時代末期に開かれ
先月の末ごろから「手放し」というか「デトックス」を行っています。おそらく今月末までにもっと多くのものを『過去へ置いていく』ことでしょう。そろそろTwitterのアカウントを閉じます。10年以上も続けて
扶桑の柱 真中に大き和となる魂たちが集いてあななす出雲道日月の神を顕す神人新しい世の夜明けなり生み出し与える神人が誠の光を火継ぎして和が広がりて世を平らけく生命光りて踊り出すあなないするにも元がいる元
今から三年ほど前はじめて『かの女神』が姿を現したときその姿は『千と千尋の神隠し』の『お千』そのものの姿であった。朱に染められた柱が立つ殿内のようなところで走り回る『小娘姿』の姫神はその時あきらかに『神
「ブログリーダー」を活用して、kojiさんをフォローしませんか?