四 系譜が意味するもの 天皇の系譜を偽って記録することは、天皇家に対する不敬であり大罪である。天皇の系譜に架空の天皇を書き込むことは許されることではなかったと思う。ただし、天皇王権の正統性を示すために系譜を正しく記録するという説明で美化したものは認められただろう。古事記と...
狗奴国=邪馬台国子国=ヤマト仮説 そういう疑問から導き出したのが、次の仮説である。 ① 狗奴国は、九州に成立した邪馬台国が三世紀前後頃に東方平定のために畿内に領地を得て造った子国である。 ② 狗奴国王卑弥弓呼は、ヒミコ(卑弥呼)の子分に相当する地位名である。 ③ 卑弥呼と...
⑵ 魏志倭人伝に記された行程 邪馬台国は九州の山岳地帯で国造りが始まったとしてきたが、これは魏志倭人伝の邪馬台国に至る行程からもそう判断できる。これについて推理を加えておく。 ① 距離算出の基本 国への行程は境界線までではなく、城壁で囲まれた王の都までの陸路、海路の距離...
五 コのナになぜ狗奴の字か ⑴ 通訳はどう説明したか 朝貢の際に使者が倭の国々についてどのように説明したか想像してみる。邪馬台国は九州とそこから東に十日くらいかけて行った先にもあると説明したとすれば、両者は一つの国か、どういう関係かと尋ねられるだろう。東の邪馬台国は九州の...
⑷ 山台の勢力の由来 山台でのムラ造りから国造りに発展していったという仮説を立てるには、その勢力がどういうものかを推理する必要がある。平野部に適当な地を得ることができなかった勢力だろうが、どういう理由で山台に住み着いたのだろうか。 ① 二つの想像 一つは、国内で王族、豪...
⑷ 畿内に邪馬台国が成立した形跡はあるか 邪馬台国畿内説には、都の位置についていくつか説があるが、有力なのは纏向を邪馬台国の都に想定した説だと言われている。纏向遺跡から発掘される物と年代から、邪馬台国の都があったと推定し、箸墓古墳を卑弥呼の墓に比定している。 遺跡からは有...
五 卑弥呼の塚 ⑴ 塚の場所と規模 卑弥呼は女王のまま死に、卑弥弓呼は軍を撤退させたということになれば、倭国としては盛大な墓を造ることとなる。しかし、男王が倭国王となって国中で誅殺し合った時期に巨大な墓を造る余裕はなかっただろう。造営は壱與が女王になってからのことと思われ...
九 記紀に記されている天皇陵と変化の理由 ⑴ 初期ヤマト王権の埋葬地 古事記には葬った場所として、山上、尾上、坂上などとともに「岡」という字がいくつか出てくる。岡は人工の山である。いずれも見晴らしの良い高い場所である。魂が天に昇っていきやすい場所に葬るという考え方にもとづ...
倭(ワ)という言葉 「倭」に関わる字について ワのクニと言ったのは、「倭」をワと読んでいるからである。 中国が一方的に名づけたという説があるが、中国側が日本列島の存在を知って倭と呼ぶようになるにはきっかけがあったはずである。 中国側が一方的に名づけるのであれば、東夷の...
国という言葉 クニと国の定義 クニや国の成立を論じるには、国とは何か、どういう状況になれば国ができたと言えるかを考えなければならない。現代の定義ではなく、弥生時代のクニや国をどう定義づけるかという問題である。縄文時代にはクニはなかったと言われているから、その言葉もなかった...
序 疑問の始まり 倭女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼 卑弥呼や邪馬台国はその名を知らない者がいないほど有名である。卑弥呼は倭の女王であったから日本の歴史に重要な人物であり、多くの物語が作られ、教科書にも出てくる。狗奴国は一般にはほとんど知られていない。 この二つの国はともに...
原稿番号 序 1 一 倭女王卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼 二 ヤマト王権の始まりの国とは 三 一世紀から三世紀までの倭の国々はどうだったか 四 邪馬台...
⑵ 食糧生産力が人口と国の基礎 平地に定住集落が増え、人口も増えていくのは水稲耕作が始まってからであるが、その生活様式が日本の各地に伝わっていくには四世紀以上の時間がかかった。九州でさえ、米作ではなく漁労や狩猟採取で生活していた人々はいたのであり、だれもが水田耕作をしてい...
二 山台に倭国の中心となるような国はできるのか ⑴ 国造りの思想を持っていればできる ① クニを造る目的 最初に述べたが、クニ(国)は自然発生的にはできない。長い縄文時代にはムラ造りはあってもクニはできなかった。水稲が伝わり、何百年もかかって日本各地に広がっても、...
二 山地の国造りの条件 山地で国造りを始めた者たちは、国造りの思想を持っていた。しかし、思想だけでは国は造れない。どのような条件が必要なのか。まず、この問題を考えてみる。 ⑴ 食糧生産力が人口と国の基礎 平地に定住集落が増え、人口も増えていくのは水稲耕作が始まってからで...
⑺ 第七代孝霊天皇 孝安天皇の第二子で、倭風諡はオホヤマトネコヒコフトニ(古事記では「大倭根子日子賦斗邇」、日本書紀では「大日本根子彦太瓊」)という。 オホヤマトの意味は第四代天皇と同じ推理になる。 根子は何か。根を張った樹木というような解釈する向きもあるが、「根」は...
⑷ 第四代懿徳天皇 安寧天皇の第二子で、倭風諡はオホヤマトヒコスキトモ(古事記では「大倭日子鋤友」、日本書紀では「大日本彦耜友」)である。橿原の軽に宮があったが、当時その一帯がオホヤマトと呼ばれていたわけではない。また、国号を倭から大倭に変えた後も国内的にはヤマトと言って...
四 初代から第十代天皇までの諡についての想像 ⑴ 初代神武天皇 倭風諡はカムヤマトイハレヒコ(古事記では「神倭伊波禮毘古」、日本書紀では「神日本磐余彦」)である。 カムヤマトは美称でイハレは地名だという説がある。カムヤマトを「神々しいヤマト」とか「神聖なヤマト」と...
三 記紀に記された初期の王と宮の名 ヤマト王権の始まりの国の初期の王について、記紀の記述を虚構だとする説があるが、突然正統の王が記紀に登場したとするのは却って不自然である。その正統の王の親はだれかということになる。分からなくなれば神代のことにしてしまうにしても、王統の記録...
第七章 ヤマト王権とミヤコ(都)についての推理 一 都(ミヤコ)とは 第三章、九において、山台国の分国造りを想像した物語を述べた。 カムヤマトイハレビコの「東行」(古事記)にはその目的は明示されていないが、日本書紀には、ニギハヤヒノミコトが「都」を造っていないことを残念...
七 前方後円墳は周濠が必要な限り造られた ⑴ 築造継続の目的 陸橋が取り除かれ、方形部が広がる周濠を持つ前方後円墳が造られ始めても、周濠造りに意味があったのは同じである。円形周溝墓,纏向型墳墓から墳墓の形が変わっても池造りという目的は維持されていたと考えられる。 三輪山...
四 纏向古墳群はどのようにして造られたか ⑴ 当初の目的 纏向型・帆立貝型墳墓に附属する池が大きいのは、墳丘墓を造るために土を掘った結 果ではない。その逆で、大きいドーナツ型の池造りが目的で、その結果として中に大きな盛り土の山ができたと考えるのが妥当である。 大型墳丘...
第六章 墳丘墓の周濠が王権を発展させた 一 畿内が発展した契機 奈良平野は広大で、縄文時代から集落ができ、水田耕作も伝わり弥生集落ができていた。その広い平野で水田耕作をすればもっと早くから人口が増えて巨大集落が各地にできていただろう。しかし、急速に発展したと思われるの...
30.10. 2 1-3 30.10. 5 6 30.10.15 6 30.10.29 6 30.10.30 目次 30.11.30 目次、1-2(4)、1-2-2追加、5-1(1) 30.12. 2 1-2-2 3...
いろいろなワ 邪馬台国の王は臣下を率いて民を統治し国を造ろうとした。武力を強化し、少数精鋭で他地域を制圧して支配下に置き、国造りを成功させ、武力により勢力を拡大した。 豪族ら利益を得た人々は臣下となって王に従うだけでなく民に対して従うことを求める側に立った。そして、一同で王...
史実の認識は可能か 事実は、現在の瞬間より過去に存在したあらゆる出来事であり、人の存在や言動も当然含まれる。歴史上の事実を史実と呼ぶこともある。従って、史実の認識とは歴史上の事実の認識に他ならないが、歴史認識と混同される。 認識は正しい判断をすることという意味であるが、...
⑵ 天照大御神(天照大神) 『古事記』では天照大御神とし、『日本書紀』では天照大神とし、別名も挙げている。別名があるのは、同じとみなされている神の呼び方が違うからであるが、縄文古来の呼び名、中国や朝鮮からの渡来した者たちが伝えた呼び名など、異なる言語が混じったからだろう。 ...
修正歴 30.10.2 1-3 30.10.5 6 30.10.15 6 30.10.29 6 30.10.30 目次 30.11.30 目次、1-2(4)、1-2-2追加、5-1(1) 30.12.2 1-2-2 30.12.3 ...
⑸ 中国の史料の「倭」について 倭という字は、百余の小国があった時代の日本が用いた字ではない。漢字は中国から伝わったものである。日本ではワと言っていたとしても、中国がどう呼んでいたかは別である。この問題は「倭族」論とも関連する。 魏志倭人伝は、「東夷伝」の「倭人条」の...
第四章 ヤマタイ王権の統一 この章も想像と推理にもとづくフィクションである。 一 邪馬台国王家の没落と奈良王家の興隆 倭国が再び乱れたにもかかわらず、奈良ヤマタイ国軍は撤退したまま、再介入はしなかった。軍事的に解決するのが奈良ヤマタイ王権のやり方であったが、魏の張政と直接対...
三 「相攻撃」の物語 不和から、やがて「相攻撃」へと進んでいく。 ⑴ 原因 奈良ヤマタイ王家の王卑弥弓呼はなぜ卑弥呼と攻撃し合うまでになったか。 互いの国家建設の思想の違いが明らかになって倭の国々がどちらに従うか動揺し、決着をつけなければ収拾がつかないかもしれないというと思...
第三章 卑弥呼と卑弥弓呼の不和 一 卑弥呼とは ⑴ 「卑弥呼」は地位の名である 人名ではない 卑弥呼(卑彌呼)は、一般には人名だと解釈されている。後漢書や魏志倭人伝に女王として名が記されているからである。確かに、「一女子を共立し王とした。名を卑弥呼という。(乃共立一女子爲...
五 狗奴国王との不和が問題を解く鍵である ⑴ 不和と相攻撃の当事者 魏志倭人伝や後漢書では狗奴国が滅ぼされた様子はうかがえない。魏志倭人伝が書かれた時期は三世紀末であるが、後漢書は五世紀である。後漢書にも狗奴国がどうなったか補足されていないのは、狗奴国がヤマト王権の国だとみ...
四 邪馬台国畿内説の問題点 ⑴ 邪馬台国の由来を語れるか 邪馬台国が畿内にあったとすれば、時代を考えるとそれはヤマト王権の国のことになる。山台の国の候補地のところで述べたが、奈良平野は巨大な盆地ではあっても山の台状地と呼ぶような地形ではない。 そのため、邪馬台国をヤマト国と...
三 邪馬台国への行程 ⑴ 魏志倭人伝の解釈 これまで、女王国とそれを共立した国々は九州で成立したという推理にもとづいて論じてきたが、魏志倭人伝に記述されている国への行程と位置と重ねることができるかという問題がある。 国への行程は境界線までではなく、王の都までの距離...
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