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水川 健人
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2018/08/23

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  • 退屈が教えてくれること

    何もすることがない。 この状態に耐えられない人は多いでしょう。 電車の中でスマホを取り出す、待ち時間にSNSを開く、寝る前に動画を流す。 退屈を感じた瞬間にそれを埋める行動が反射的に起きる。 退屈は不快な感覚として避けられがちだけれど個人的にはこの感覚にはもう少し注意を向けた方がいいと思っている。 退屈は自分との関係について大事なことを教えてくれているから。 退屈の正体は外部刺激への依存 退屈とは何か。 何もすることがないという状態そのものではないと考える。 正確に言えば外部からの刺激がない時に自分の内側だけでは時間を持て余すという状態。 これは自分の内側に向かう力

  • 伝えることの本質的な限界

    自分の考えを伝えたのに相手に伝わっていなかった。 こういう経験は誰にでもあるでしょう。 そして伝わらなかった時に人は原因を探す。 自分の伝え方が悪かったのか、相手の理解力が足りなかったのか。 だけどこのどちらかに原因を求めること自体がずれているのではないかと思う。 伝えることと伝わることは本質的に別の現象であり両者の間には構造的なずれがある。 このずれは消せない。 消せないものを消そうとするから苛立ちが生まれる。 このことを知っておくのは大事だと考える。 伝えることと伝わることは別の現象 伝えるとは自分の中にある何かを言葉にして外に出す行為。 伝わるとは相手がその

  • 正解を求めることの危うさ

    どうすればいいですか。 この問いかけがあらゆる場面で飛び交う時代になった。 検索すれば答えが出てくる、AIに聞けば要約が返ってくる、SNSには誰かの正解が並んでいる。 正解へのアクセスがこれほど容易になった時代はかつてなかったでしょう。 だけどこの環境が人の思考に何をもたらしているかを考えると少し立ち止まる必要があると思う。 正解を求めること自体が思考を止める構造を持っているから。 正解がある問いと正解がない問い まず大前提として問いには二種類ある。 正解がある問いと正解がない問い。 1+1の答え、法律上の手続き、歴史的事実の確認。 これらには正解がある。 調べれ

  • 信頼の構造

    信頼は築くのに時間がかかり壊すのは一瞬。 これはよく言われる言葉だけれど、なぜそうなるのかを構造として理解している人はあまりいないように思う。 信頼は人間関係の土台と呼ばれることが多い。 だけど信頼とは何かを正面から問うと意外と言葉にしにくい。 好きとも違う、尊敬とも違う、安心とも近いけれど少しずれる。 信頼の中身を見ておくことは関係を築く上で大事だと考える。 信頼と信用は違う まず信頼と混同されやすいものに信用がある。 この二つは似ているけれど構造が違う。 信用とは実績に基づく予測。 この人は過去にこういう行動をした、だから今後もこうするだろうという推測。 取引

  • 期待という重荷

    「期待しているよ」 この言葉を受け取った時、嬉しいと感じる人は多いでしょう。 だけど同時にどこか重たいと感じることもあると思う。 期待されると頑張れる、期待は人を伸ばす。 こういう前提が広く共有されているけれど、個人的にはそう単純な話ではないと考える。 期待には構造的に重荷になる性質がある。 そしてその重荷の正体を見ておくことはけっこう大事だと考える。 期待の中にある条件 期待の構造を見てみると、その中心には「こうなるはずだ」「こうあるべきだ」という前提がある。 上司が部下に期待する時「この仕事をきちんとやってくれるはずだ」という前提がある。 親が子供に期待する時「

  • 「わかる」と「できる」の断絶

    わかっているのにできない。 早起きした方がいいとわかっているのに起きられない。 感情的になるべきではないとわかっているのに声を荒げる。 先延ばしは良くないとわかっているのに後回しにする。 こういう経験は誰にでもあるでしょう。 そしてできなかった時に人は自分を責める。 意志が弱い、根性がない、自分はダメな人間だ。 だけどこの自責は的を外していることが多いように思う。 わかっているのにできないのは意志の弱さの問題ではなく構造の問題だから。 この構造を知っておくことは大事だと考える。 わかるは意識、できるは無意識 人の思考には意識と無意識という二つの領域がある。 意識は能

  • 避けられた苦しみと避けられなかった苦しみ

    苦しみには二つの種類がある。 避けられた苦しみと避けられなかった苦しみ。 この区別は簡単なようでいて多くの人が曖昧にしていると思う。 そして区別が曖昧なまま苦しみについて語ると議論が歪む。 避けられた苦しみを運命のせいにすれば責任の所在が消える。 避けられなかった苦しみに自己責任を押しつければ不当な負荷がかかる。 どちらも苦しみとの向き合い方として不誠実だと考える。 避けられた苦しみ 避けられた苦しみとは自分の選択や判断の結果として生じた苦しみ。 やるべきことを先延ばしにして追い込まれた。 言うべきことを言わずに関係が壊れた。 わかっていたのに同じ失敗を繰り返した

  • 内側で完了感を作る技術

    人生には外側で終えられない事柄が必ず生じる。 相手がいなくなった関係、突然の状況変化、途中で断たれた仕事、言いたかったけれど伝えられなかった言葉。 これらは自分の意思だけでは終わらせることができない。 外側の事情が許さない、相手がいない、時間が戻らない。 だけど外側で終えられないものを外側に放置し続けると内側が塞がる。 塞がったまま次に向かおうとしてもどこかで引っかかりが生じる。 この引っかかりの正体は完了感の不在だと考える。 完了と完了感は違う ここで大事な区別がある。 完了と完了感は同じものではない。 完了とは外側の事実として物事が終わること。 契約が切れる、

  • 形にできないものを尊重する力

    現代社会では数字にできるもの、言葉にできるもの、目に見えるもの。 つまりは測れるものが価値の中心にある。 売上、成績、フォロワー数、偏差値、体重、年収。 これらは形にできるから比較できる。 比較できるから評価できる。 評価できるから優劣がつく。 この構造は効率的であり実際に多くの場面で機能する。 だけど人生で大切だと感じるものの多くは形にできないことが多いように思う。 深い対話の質、誰かと過ごした時間の温度、思考が熟していく過程、関係性の中にある信頼。 これらは数値にもならず言葉にしきれず目にも見えない。 形にできないからといって存在しないわけではない。 だけど形にで

  • 被害者という立ち位置を選ぶということ

    被害者であることと被害者の立ち位置を選ぶことは違うと思っている。 実際に被害を受けた人は被害者であり、その事実は揺るがない。 だけど被害者であるという事実と、被害者の立ち位置に留まり続けるという選択は別の話。 前者は出来事の結果、後者は姿勢の問題。 この区別ができていない場面が多いように思う。 そしてこの区別ができないまま被害者性について語ると、本当に苦しんでいる場合と被害者の立ち位置を利用している場合。 これが混同され、両方にとって良くない結果になることも多いのではないか。 被害者の立ち位置が持つ機能 被害者の立ち位置には無自覚な機能がある。 被害者である限り責任を

  • 順調さという麻酔

    順調な時、人は自分を過信する。 「うまくいっている」「自分のやり方は正しい」「このまま進めば大丈夫」 こうした感覚が広がると人は立ち止まることをやめる。 立ち止まる必要を感じないから。 だけど順調さには麻酔のような作用がある。 痛みを感じなくさせる代わりに感覚そのものを鈍らせる。 順調な時にこそ見えなくなるものがあり、順調な時にこそ失われていくものがある。 この構造に気づいているかどうかで順調さとの付き合い方が変わると考える。 順調さは感覚を鈍らせる 順調な時、人は自分の状態を正確に認識しにくくなる。 うまくいっているから問題がない。 問題がないから見直す必要がな

  • 可能性と現実の非対称

    可能性は人を引きつける。 「こうなれるかもしれない」「こんな未来があるかもしれない」「まだ何にでもなれる」 こうした言葉は希望を含んでいて人の気持ちを持ち上げる力がある。 一方で現実はそこまで魅力的に語られない。 現実は制約を含み、妥協を含み、有限性を含む。 可能性は夢を語れるけれど現実は責任を求める。 この二つの間には構造的な非対称がある。 そしてこの非対称に無自覚なまま生きると人は可能性の側に偏らせ続ける。 いつまでも現実に着地しないまま時間を過ごすことになると思う。 可能性は売れて現実は売れない 「あなたの可能性は無限」「まだ間に合う」「今日から変われる」

  • 結論を急がず問いとして抱える力

    人は結論を急ぐ。 何かが起きた時すぐに「これはこういうことだ」と意味をつける。 不確実な状態に耐えられず早く決着をつけたがる。 これは人間の自然な傾向ではある。 不確実さは不安を生むし、不安は苦しいから早く解消したい。 だけど結論を急ぐことで失われるものがある。 出来事の本当の意味は時間をかけないと見えてこない。 問いとして抱え続ける力を持てるかどうかが思考の深さを決めるのではないかと考える。 結論を急ぐ構造 なぜ人は結論を急ぐのか。 一つは不確実さへの耐性の問題。 「わからない」という状態は居心地が悪い。 何かの結論を出せばその居心地の悪さが解消される。 正

  • 目的化することで失われる領域

    人は何かを得ようとする時、それを目的に据える。 目的を設定してそこに向かう、これは人間の最も基本的な行動原理の一つ。 目的があるから計画が立ち、計画があるから行動が生まれ、行動があるから結果が生まれる。 この構造は多くの場面で有効に機能する。 だけどこの構造が機能しない領域がある。 目的にした瞬間に失われるもの、狙った瞬間に逃げていくもの、追えば追うほど遠ざかるもの。 こうした領域が存在することを知っておくのは大事なことだと考える。 目的化が機能する領域と機能しない領域 目的化が機能する領域は明確。 売上を上げる、試験に受かる、体重を落とす、締め切りまでに仕上げる。

  • 持つことと持たれることの逆転

    人は何かを持ちたがる。 お金、物、地位、人間関係、知識、経験、評価。 持つことは安心を与え、持つことは可能性を広げる。 だから持つことは基本的に良いこととして捉えられているように思う。 しかし、持っているつもりで持たれている。 所有しているつもりで所有されている。 そういうこともまたあるのではないか。 この逆転に気づくかどうかで持つことへの関わり方が大きく変わると考える。 所有という関係の両義性 所有は一方的な関係に見える。 自分が主体で、対象が客体。 自分が持つ側で、対象が持たれる側。 このように見えるのが普通。 だけど所有という関係をよく見ると双方向的な側

  • 「成る」と「為る」の違い

    日本語の「なる」には二つの漢字がある。 「成る」と「為る」。 現代ではこの二つはほとんど区別されずに使われている。 だけど両者は本来別の意味を持っていて、その違いの中に人の成長や変化を考える上で大事な視点が隠れていると思う。 「なる」とはどういうことか、この問いを漢字の違いから掘り下げてみたい。 「成る」の意味 「成る」は「成」という字を使う。 「成」は「完成」「成長」「成熟」「成果」などに使われる字。 共通するのは何かがある方向に向かって自然に形を作っていくというニュアンス。 種が芽を出して花になる。 子供が歳を重ねて大人になる。 経験が積み重なって技が身につく

  • 注意の主導権を取り戻す

    現代は注意を奪われる時代。 スマートフォンの通知。 SNSの更新 動画の自動再生 広告の視覚的な刺激 これらは全て人の注意を引きつけるために設計されている。 そしてその設計は年々巧みになっている。 注意は気づかないうちに外から引っ張られ続けている。 この状態が長く続くと自分が何に注意を向けているかを自分で選んでいないという自覚すら失われていく。 注意の主導権を取り戻すことは現代において自分を保つための核心的な課題ではないかと考える。 「注意」という言葉の意味 「注意」は「注」と「意」から成り立っている。 「注」は「そそぐ」、液体を流し込むイメージ

  • 苦しみと痛みは違う

    苦しみと痛みは日常では同じものとして扱われる。 「あの人は苦しんでいる」「あの人は痛みを抱えている」「あの人は辛い思いをしている」 これらは多くの場面で同じ意味で使われている。 だけど両者は本質的に別のものだと考える。 両者を混同したまま苦しみについて語ることは本当の意味で苦しみと向き合うことを難しくする。 痛みは外から来る信号、苦しみは痛みを抱えている時間の中で生まれる現象。 この区別を持つかどうかで苦しみとの関わり方が大きく変わる。 「痛み」と「苦しみ」の言葉の違い 「痛み」の「痛」は元々、身体の異常や傷を示す字。 「やまい」「うずく」「いたむ」など、身体への直接

  • 完璧を求めない強さ

    完璧を求めることは多くの場面で美徳とされる。 完璧主義は誇るべき性質、完璧を目指す姿勢は称賛されるべきもの。 こうした認識が広く共有されている。 だけど完璧を求める姿勢には代償もある。 完璧を追い続けるあまり動けなくなる。 完璧でない自分を許せなくなる。 完璧でない結果を価値のないものとして切り捨てる。 これらは完璧主義の影として知られているけれどその構造を本当の意味で理解している人は意外と少ないと思う。 完璧を求めない強さは、完璧を諦めることでも妥協することでもない。 それは完璧という概念を相対化した上で動き続けるための姿勢だと考える。 「完璧」という言葉の意味

  • 言語の壁が守るもの

    言語の壁は不便とされる。 異なる言語の人と通じ合えない、自分の感覚を相手に伝えきれない、文化の違いを超えられない。 こうした不便を理由に、言語の壁は乗り越えるべき障害として語られることが多い。 翻訳技術の発達、国際共通語の普及、AIによる即時通訳。 これらは全て言語の壁を低くするための技術であり、それ自体は否定するものではない。 だけど言語の壁を障害としてだけ捉えると見落とすものがある。 言語の壁は不便を生むと同時に何かを守ってもいる。 その守るものに目を向けない姿勢は言語そのものへの理解を浅くするのではないかと考える。 「壁」という言葉の二重性 「壁」という言葉は普

  • 格付けという無意識の支配

    人は気づかないうちに格付けをしている。 そして格付けされている。 学歴、収入、職業、容姿、SNSのフォロワー数、フォロワーの中での発言力。 現代社会は格付けの仕組みであらゆるものを序列化する。 これは多くの人が無自覚に受け入れている前提。 だけどこの格付けの仕組みに無自覚なまま生きていると自分の価値観が知らないうちに歪んでいく。 格付けは便利な認識の道具だけど人を支配する装置にもなり得る。 その境界を見極めることが現代を生きる上で避けて通れないと考える。 「格付け」という言葉の意味 「格付け」の「格」は「規格」「品格」「人格」などに使われる字、つまり「ある基準・標準」

  • 加害と被害の境界はなぜ曖昧なのか

    加害者と被害者は明確に分けられる、これは多くの人が無自覚に持っている前提。 加害した側は責められるべき、被害を受けた側は守られるべき。 この二元論が現代の議論の土台になっている。 だけど現実をよく見ると加害と被害の境界はそれほど明確ではないことが多いように思う。 一つの関係の中に両方が同時に存在する場面。 加害者の中にも被害者性が見える場面。 被害者の中にも加害者性が見える場面。 こうした場面に踏み込まずに二元論で済ませると見えなくなるものが多い。 加害と被害の境界の曖昧さを直視することは人と人の関係を本当に理解する上で避けて通れないと考える。 加害は関係と文脈の中で成立

  • 正しさと優しさの間で

    正しさと優しさはどちらも美徳とされる。 正しくありたい、優しくありたい、こう願う人は多い。 だけど正しさと優しさはしばしば衝突する。 正しさを貫けば人を傷つけることがあり、優しさを貫けば現実を歪めることがある。 両者の間で揺れる経験は誰もが一度は持つはずだと思う。 そしてその揺れの中でどう自分の応答を選ぶかが人としての成熟につながるのではと考える。 「正」と「優」の語源 「正しい」の「正」は「止」と「一」から成り立っている。 「一つの線で止まる」、つまり「揺らがず一つの基準に従う」が原義。 正しさは本来、確固たる基準への服従を意味している。 一方「優しい」の「優」は

  • 嫌いな人から学べること

    大抵の人には嫌いな誰かがいる。 これは自然なことで嫌いを完全に消すことはできないと思う。 だけど嫌いという感情をただ嫌悪として処理することは多くの場合もったいない。 嫌いな人は実は自分について多くを教えてくれる、これは見過ごされやすいと考える。 嫌いという感情の構造 嫌いという感情は単純なものに見えて実は複雑な構造を持っている。 そして嫌いの中身を分解すると、いくつかの異なる感情が重なっていることが多い。 恐れ、軽蔑、嫉妬、苛立ち、違和感、自己否定。 これら別々の感情が「嫌い」という一つの言葉に圧縮されている。 そして嫌いという言葉でまとめてしまうと、その奥にある具体

  • 失敗という概念の再定義

    失敗を恐れる人は多い。 挑戦できない、決断できない、新しいことに踏み出せない。 こうした停滞の背後には大抵失敗への恐れがある。 だけど失敗とは何かを問い直さない限り、この恐れから自由になることは難しいと考える。 失敗は当たり前のように使われる言葉、だけどその中身を解きほぐすと意外な構造が見えてくる。 「失敗」という言葉の意味 「失敗」は「失」と「敗」から成り立っている。 「失」は「うしなう」、「敗」は「やぶれる」。 つまり失敗とは「失うこと」と「敗れること」の組み合わせを意味する。 何かを失い、その上で敗北を喫する、これを一語で表したのが失敗。 ここに失敗という言葉

  • 真面目さの罠

    真面目であることは美徳とされる。 学校でも職場でも家庭でも真面目であることは評価され、不真面目であることは批判される傾向が強い。 だけど真面目さには罠がある。 真面目さを絶対視するうちに人は最も大切なものを見失っていく。 真面目であろうとする姿勢そのものが内側を硬くしていく、これは真面目さの構造的な落とし穴ではないかと考える。 「真面目」という言葉の意味 「真面目」は「真」と「面目」から成り立っている。 「面目」とは「顔つき」「表情」を意味する古い言葉。 つまり真面目とは本来「真の顔つき」「本当の表情」を意味していた。 何かに本気で向き合った時に滲み出るその人の真の表

  • 違和感を信じる

    何かが引っかかる、だけど理由は説明できない。 このような感覚を持つことは誰にでもある。 人はこの感覚を違和感と呼ぶ。 そして多くの人は違和感を軽視する。 言葉で説明できないものを信じることは、現代では非合理的だと見なされやすいから。 だけど違和感は無意識からの早期警報、これを軽視することの代償は決して小さくないと考える。 違和感という言葉の意味 「違和感」は「違」と「和」と「感」から成り立っている。 「違」は「ちがう」、「和」は「なごやか・調和」、「感」は「感じる」。 つまり違和感とは「調和とずれているという感覚」を意味する。 調和が崩れていることを言葉ではなく感覚

  • 手放すということ

    何かを手放すことを失うことと同一視する人は多い。 抱えていたものを手放せば失う、だから抱え続ける。 これが多くの人の無自覚な選択になっている。 だけど手放すと失うは違うものだと考える。 そして手放すことの本当の意味を理解できるかどうかが人生の流動性を大きく左右する。 手放すという言葉の意味 「手放す」とは手から放つこと、つまり自分の手の中から自由にすること。 これは破壊でも消滅でもなく、ただ「持っていない状態」に戻す行為。 手放した対象は消えるわけではない。 ただ自分の所有や管理の外に出ていく、対象は対象として存在し続ける。 ここに「失う」との根本的な違いがある。

  • 共感と同情は違う

    共感と同情はしばしば同じ意味で使われる。 「あの人の気持ちに共感する」「あの人に同情する」、どちらも他者の感情に寄り添う行為として扱われている。 だけど両者は本質的に違うものだと考える。 そしてこの違いを理解できるかどうかが人間関係の質を大きく左右するように思う。 共と同の違い 共感の「共」は「ともに」を意味する。 同情の「同」は「おなじ」を意味する。 似ているように見えるけどこの二つは方向性が違う。 「ともに」は二人が並んで何かを共有している状態を示す。 「おなじ」は一方が他方に重なる、あるいは溶け込む状態を示す。 つまり共感とは並ぶこと、同情とは溶け込もうとする

  • 大人になるということ

    大人になることを年齢の問題だと捉える人は多い。 成人したから、就職したから、結婚したから、子供を持ったから。 これらの社会的な節目をもって人は大人になったと見なされる。 だけど社会的な節目と精神的な成熟は別物だと考える。 成人していても子供のまま生きている人もいるし、若くして大人の振る舞いができる人もいる。 大人になるとは年齢を重ねることではなく姿勢を獲得することではないかと思う。 年齢と成熟は一致しない 時間が人を大人にすると思っている人は多いでしょう。 歳を重ねれば自然に大人になる、経験を積めば自然に成熟する。 このような認識は社会的に広く共有されている。 だけ

  • 始めることより終えること

    新しいことを始めるのは華やかで称賛されやすい。 何かをスタートさせた人には注目が集まり応援が向けられる。 だけどその裏で終えることの方が遥かに難しく遥かに重要だという事実は見過ごされやすい。 始めるのは一瞬、続けるのは時間、終えるのは決断。 この三つの中で最も技術と勇気が要るのは終えることだと思う。 始めることへの偏重が終えることを難しくする 現代社会は始めることを過剰に賛美する。 新しい挑戦、新しい関係、新しいプロジェクト、新しい自分。 書店にもネット記事にも始めるためのアドバイスが溢れている。 だけど終え方を教えてくれるものは驚くほど少ない。 これは構造的に当然

  • 効率という呪い

    効率を上げることは現代では絶対の価値とされている。 時短、生産性、ROI、コスパ、タイパ。 これらの言葉は日常に溶け込み誰もがその追求を当然のこととして受け入れている。 だけど効率を追い求めるほど人生から何かが抜け落ちていくと感じる。 効率は手段、それが目的になった時に人は手段そのものに縛られる。 効率は手段であって目的ではない 効率という言葉は本来、何かを成し遂げるための手段を指す。 ある目的に対してより少ない時間とエネルギーで到達することが効率。 つまり目的が先にあって手段としての効率が後にある、これが本来の順序。 だけど現代では順序が逆転している。 効率そのも

  • 何もしない時間の意味

    何もしないことは現代では罪悪感の対象になりやすい。 スマートフォンを開けば情報が流れ、SNSは絶えず更新され、誰かが何かを成し遂げている様子が目に入る。 その中で自分が何もしていない時間を過ごすと置いていかれる感覚、損をしている感覚が生まれる。 そして無理に何かを始める、生産的に見える行為で空白を埋める。 だけど何もしない時間にしか起きないことがあると考える。 その時間を奪われ続けることは生産性の名のもとに大切なものを失っていくことでもあるのではないかと思う。 何もしない時間と怠惰は別物 ここで誤解されやすいのは何もしない時間が怠惰と同じものに見えること。 両者は表面的

  • 苦しみの中にある贈り物

    苦しみは避けるべきものとされる。 これは現代社会において強い前提になっている。 苦しみを取り除く、苦しみを和らげる、苦しみから守る。 医療も、教育も、エンターテインメントも多くがこの方向に向かっている。 だけど苦しみがなければ気づかなかったことがある、苦しみがなければ手に入らなかったものがある。 苦しみそのものを賛美するつもりはないけど、苦しみが教えてくれるものに目を向けないのは惜しいと考える。 苦しみは贈り物として意味を読み解くことでただの痛みではなくなる。 苦しみを否定するほど苦しみが長引く 苦しみに対する最初の反応は否定したい、消したいというもの。 これは生物と

  • 頑張らない努力

    「頑張る」という言葉には力みが含まれている。 歯を食いしばる、無理をする、自分に鞭を打つ。 この力みが本当に必要なものなら問題ないけど多くの場合、力みは行為そのものより自分を消耗させている。 そして力みは持続しない。 頑張ることと続けることは別物であり力みは続けることの最大の敵だと考える。 長く続く努力は頑張らない努力、つまり力まずに続けられる行為。 そしてこの違いに気づくかどうかで人生に積み重なるものが変わってくる。 頑張ることは短期的、続けることは長期的 頑張ることと続けることは時間軸が違う。 頑張ることは短期的な集中、瞬発力、瞬間的な力の投入。 続けることは長

  • 自分を許すということ

    他者を許すことは難しい、だけど自分を許すことはもっと難しい。 これは多くの人が直面している現実だと思う。 他者には「あの人にも事情があった」と寛容になれる人でも自分の過ちには容赦がない。 「あの時なぜあんなことをしたのか」「自分はなぜこんな人間なのか」 このような自己批判を内側で繰り返し続けている。 そして自分を許せないまま生きることは自分の中に永遠に審判者を抱え続けること。 その審判者は休まない。 自己批判は責任ではなく自己虐待になり得る 自己批判は責任感の表れだと思われやすい。 「自分の過ちを認めて反省している」「真摯に向き合っている」 このような姿勢は美徳とさ

  • 怒りは抑えるものではなく観察するもの

    怒りは社会的に否定されやすい感情。 「怒るべきではない」「怒りは未熟さの表れ」「冷静でいなさい」 このような価値観が広く共有されている。 だけどこの価値観が怒りとの健全な関係を妨げていると考える。 怒りは抑え込むものではなく観察するもの。 そして観察を通じてその根を理解することが怒りに対する本当の対処になる。 怒りの抑圧が爆発を生む 怒りを抑え込むことの問題は抑え込まれた怒りが消えないこと。 意識の上では「怒っていない」と思っていても無意識の中で怒りは残り続ける。 そして残り続けた怒りはいつか別の形で表面化する。 突然の爆発、不可解な不機嫌、慢性的な疲労、身体の不調

  • 嫉妬は何を教えてくれるか

    嫉妬は人が最も認めたくない感情の一つだと思う。 「嫉妬している」と認めることは自分の小ささを認めること、自分の欠乏を認めること。 だから人は嫉妬を別の感情に置き換える。 批判・軽蔑・無関心、これらの皮を被せて嫉妬の中身を隠す。 だけど嫉妬を見ないようにすることは嫉妬が指し示しているものを見落とすこと。 嫉妬は地図のような感情、自分が本当に欲しているものの所在地を教えてくれる。 そしてその地図を読めるかどうかで人生の選択の質が変わってくる。 嫉妬を否定する道徳が嫉妬の意味を見えなくする 嫉妬は道徳的に低い感情とされやすい。 「嫉妬する自分は醜い」「嫉妬は乗り越えるべきも

  • 死を意識することで生が始まる

    死は現代において遠ざけられている。 病院で死に、葬儀社が処理し、日常から切り離される。 死について考えることは縁起が悪いとされ避けるべき話題として扱われる。 だけどこの隔離が生そのものをぼやけさせていると考える。 死を意識することは生を縮めることではなく、生を濃くすること。 そして死を意識しない生は輪郭を失った生にしかならない。 死を遠ざけることで生が薄くなる 人は終わりがあるからこそ今を生きる感覚を持てる。 これは抽象的な話に聞こえるかもしれないけど実際にはとても具体的な現象。 「いつか終わる」という感覚があれば今この時間に意味が生まれる。 「永遠に続く」という感

  • 独りでいる力

    独りでいることは現代では避けるべきものとされやすい。 常に誰かと繋がっている、常に何かに反応している、常に空白を埋めている。 このような状態が当たり前になり独りでいる時間が苦痛として感じられる。 だけど独りでいる力こそ人間関係の土台になるものだと考える。 そして独りでいられない人ほど他者との関係に苦しむ構造がある。 孤独と独りは違う まず孤独と独りは別のものだということを区別しておきたい。 孤独は誰かと繋がりたいのに繋がれない状態、痛みを伴う感覚。 独りは一人でいる状態そのもの、そこには痛みが必ずあるわけではない。 同じ「一人」という状況でも孤独として体験される場合と

  • 承認されることの罠

    人は誰かに認められたいという欲求を持っている。 これは自然なことであり否定する必要はない。 だけど承認されたいという欲求と承認を求める姿勢は別のものだと考える。 そして承認を求めれば求めるほど承認から遠ざかる構造が存在する。 これは現代のSNS時代にますます露わになっている問題でもあり、見えにくい罠でもあると考える。 承認欲求と承認獲得の逆相関 承認を強く求める人ほど承認されにくい。 これは経験的にも観察できる事実だと思う。 なぜなら、承認を強く求める姿勢そのものが相手にとって重く感じられるから。 人は重さを避ける、これは無意識に近い反応。 「この人は私に何かを求め

  • 言葉は世界を切り取り同時に世界を作る

    言葉は現実を表すための道具だと思われている。 目の前にある物事を言葉で記述する。 物事が先にあり言葉が後からそれを写し取る。 このような順序で言葉が捉えられている。 だけど実際には言葉と現実の関係はそれほど一方向ではないと考える。 言葉は現実を切り取ると同時に現実を作っている。 どんな言葉を使うかで見える世界が変わる。 言葉は現実を切り取る そもそも世界は連続しており本来は区切りがない。 色は連続したスペクトルとして存在し、感情も連続した状態の流れ。 そこに言葉が「赤」「青」「悲しみ」「怒り」と区切りを入れる。 この区切りによって初めて世界が認識可能なものになる。

  • 怠惰は悪ではない

    怠惰は道徳的に悪とされやすい。 動かない、頑張らない、続けられない。 これらは個人の弱さや意志の欠如として責められる。 だけど怠惰には怠惰なりの意味があると考えている。 怠惰を責めることで前に進めるなら誰も苦しまない。 責めても動けないからこそ人は苦しむ。 責めることが効かないのなら別の見方が必要になる。 怠惰は意識のエネルギー不足のサイン 怠惰は能力の問題ではなくエネルギーの問題であることが多い。 意志の力が弱いから動けないのではなく、意識のエネルギーが切れているから動けない。 これは身体の疲労とは違う、心の疲労に近い感覚。 仕事をしていなくても疲れる、休んでも

  • 老いるということの意味

    老いは現代において否定されるものになっている。 若く見えることが価値とされ、老いの兆候は隠すべきものとされる。 アンチエイジング、若返り、年齢を感じさせない。 これらの言葉は商品やサービスに溢れている。 だけど老いを否定することで何かを失っているのではないかと考えている。 老いの先にしか見えないものがあると思う。 若さ至上主義の問題 現代社会には若さ至上主義とも言える風潮がある。 若さは美しさであり、可能性であり、価値である。 老いは衰えであり、過去であり、避けるべきもの。 この二項対立は強く植え付けられている。 だけどこの価値観は人生の大半を占める時期を否定する

  • 現状維持という罠

    変化を恐れるのは本能だと思う。 未知のものは危険を含んでいる可能性がある、だから既知のものに留まろうとする。 これは生物として自然な反応。 だけどこの本能に従うことが現代においては罠になりやすいと考えている。 現状維持は安全に見えて実は退行を意味することがある。 現状維持は実在しない 「現状を維持したい」と人は言う。 だけど厳密に言えば現状維持は不可能だと思う。 現実は流動的だから。 時間は流れ自分も周囲も常に変化している。 自分が動かなくても周囲は動いている、止まっているつもりでも実は流されている。 エスカレーターを逆走するようなもので立ち止まれば後ろに運ばれて

  • 役割と自己は同じではない

    人は複数の役割を生きている。 親であり子であり、従業員であり上司であり、パートナーであり友人であり。 これらの役割を切り替えながら日々を過ごすもの。 だけど役割と自己は同じではないと考えている。 役割と自己を混同すると役割が失われた時に自己も失われる。 役割は外から与えられるもの 役割は基本的に外から与えられるものだと思う。 子であるのは親が存在するから。 従業員であるのは会社が存在するから。 パートナーであるのは配偶者が存在するから。 役割は他者や状況との関係性によって成立する。 つまり役割は自分一人では成立しない。 関係性が変われば役割も変わるし、関係性が消

  • 快楽と幸福は別のものであるという話

    幸せになりたいと多くの人が言う。 だけどその幸せの中身を聞くと多くの場合それは快楽のことだと感じる。 美味しいものを食べる、欲しいものを買う、評価される、称賛される。 これらは快楽であって幸福ではないと考えている。 快楽と幸福を混同することが現代人の苦しみの原因の一つだと思う。 快楽は一時的な感覚 快楽は感覚の領域にある。 外からの刺激によって得られる反応。 食べたら美味しい、買ったら嬉しい、褒められたら気持ちいい。 これらは一時的な感覚であり刺激が消えれば消える。 そして快楽には特有の性質がある、慣れるということ。 同じ刺激を繰り返し受けると快楽の強度が下がる。

  • 矛盾を抱えたまま生きる

    人は矛盾した存在だと思う。 誠実でありたいと思いながら嘘をつく。 成長したいと思いながら怠ける。 他者を大切にしたいと思いながら傷つける。 この矛盾を解決しようとする人は多い、だけど完全に解決できた人を見たことがない。 矛盾は解決するものではなく抱えるものだと考えている。 矛盾を解消しようとする罠 矛盾を抱えると居心地が悪い。 「自分は誠実だ」と思いたいのに不誠実な自分がいる。 このギャップが痛い。 だから多くの人は矛盾を解消しようとする。 解消の方法は大きく二つ。 一つは片方を否定すること。 「自分は誠実な人間だ、あの不誠実な行動は例外だ」 不誠実な自分を

  • 責任を持つということの本当の意味

    責任という言葉は重く受け取られる。 負担、義務、追求されるもの、できれば避けたいもの。 こういう響きで捉えられていることが多い。 だけど本当の意味での責任は全く違うものだと考えている。 責任は負担ではなく力の源泉であり、人生の主導権を握る唯一の道だと思う。 責任を取らされることと責任を持つこと 責任には二つの姿がある。 責任を取らされることと責任を持つこと。 この二つは全く違う。 責任を取らされる時には主体性がない。 何か問題が起きた、誰かが責められる、その誰かが自分。 追求される立場であり受け身の姿勢。 責任を取らされた人は責任を重荷として感じる。 できれば

  • 自由とは選択肢の多さではない

    選択肢が多いほど自由だと考えられている。 情報も商品も生き方も選び放題の現代は歴史上もっとも自由な時代だと。 だけどこの前提を疑ってみたい。 選択肢の多さは本当に自由を意味するのか。 むしろ選択肢の多さが自由を奪っているのではないか。 選択肢が多いほど選べなくなる 選択肢が多いと人は選べなくなる。 これは感覚的にもわかることだと思う。 三つの中から選ぶのは簡単。 百の中から選ぶのは難しい。 千の中から選ぶのはほぼ不可能。 だから多くの人は選択を先送りにする、他者に委ねる、無意識の習慣で選ぶ。 どれも本当の意味での選択ではない。 現代はこの「選択肢が多すぎて選べ

  • 人格は今この瞬間にしか宿らない

    あの人は良い人だ。 過去の行動、これまでの評判、積み上げてきた実績。 これらを根拠にそう言われることがある。 だけど人格は過去に宿るものではないと考えている。 人格は今この瞬間にしか宿らない。 過去がどうであれ今この瞬間にどう考えどう行動するかが人格だと思う。 過去に人格を置くことの危険性 過去の実績や評判が人格を証明すると考える人は多い。 「あの人はこれまでずっと誠実だった」「だからこれからも誠実だろう」 この推論は一見合理的に見える。 だけど危険でもある。 なぜなら、過去に人格を置くと今が疎かになるから。 「自分は良い人間だ」という自己認識が過去の実績に基づ

  • 諦めは逃避ではなく技術

    諦めるという言葉は否定的な響きを持っている。 弱さ、敗北、逃げ。 そう受け取られることが多い。 だけど本当の意味での諦めは全く違うものだと考えている。 諦めは逃避ではなく技術であり、今を生きるための力だと思う。 諦めるの語源 諦めるという言葉の語源を辿ると「明らかにする」に行き着く。 仏教の「諦」は真理を意味する。 四諦という言葉がある。 苦諦、集諦、滅諦、道諦。 これは四つの真理という意味。 つまり諦めるとは本来、真理を明らかにすること。 現実をあるがままに見ること。 投げ出すことではなく、むしろ直視すること。 この語源に立ち返れば諦めることの本質が見えて

  • 他者との距離を測る技術

    人間関係の悩みは距離の問題であることが多いと考えている。 近すぎれば摩擦が生まれる。 遠すぎれば関係が形骸化する。 そして適切な距離は相手によって、時期によって、状況によって変わる。 距離を測る技術こそが人間関係を健全に保つ鍵だと思う。 近すぎる関係の問題 近すぎる関係には独特の苦しさがある。 相手の問題が自分の問題として感じられる、相手の感情が自分の感情に侵食してくる。 「あの人が落ち込んでいると自分も落ち込む」 「あの人が怒っていると自分も動揺する」 これは優しさのようでいて、実は境界線が曖昧になっている状態だと思う。 近すぎると判断が歪む。 相手のためを思

  • 矛盾との向き合い方

    人生って極論言えば矛盾をどう扱うかに集約されると思う。 そもそも人は脳の機能からしてすでに矛盾している。 意識と無意識、2つの思考傾向を持ち基本的に正反対の基準で動く、 意識は未知や未来を定義し無意識は過去や経験による確定を求める。 論理や理性を意識は尊び、感情や感覚を無意識は敬う、 意識は意味を探求し無意識は生をまっとうする。 どちらが良い悪いということではなくそれは各々の思考にとって真実である。 どちらの真実が己の言動に最終的に反映されるかは、 どのような生き方を積み重ねてきたかによるわけです。 そして、この生き方を決定づけるのは社会、国、世界という枠組みとの接点による

  • 引き付ける力を持つということ

    誠実に生きていれば報われるはず、そう信じたい気持ちはよくわかる。 だけど現実はそう単純ではないと考えている。 なぜなら引き付ける力がなければ誠実さは届かないから。 誠実さの前に、あるいは同時に引き付ける力が必要になる。 与えることより引き付けることが先にある 多くの人はまず与えることを考える。 相手のために何かをしよう、役に立とう、尽くそう。 この姿勢は尊いと思う。 だけど引き付ける力がないまま与えるだけでは疲弊する。 与えても与えても受け取ってもらえない。 あるいは受け取られても感謝されない。 こうして誠実な人が報われないという状況が生まれる。 順序が逆なのだ

  • 世界観を守るということ

    世界観は内から湧き出るものではない。 外からの刺激との戦いの中で守り続けるものだと考えている。 現代は外からの刺激があふれている。 SNS、ニュース、広告、他者の意見、流行、空気。 これらが絶え間なく自分の中に流れ込んでくる。 気づかないうちに世界観が侵食されることがある。 世界観とは何か 世界観とは世界をどう見るかという枠組みのこと。 何を大切にするか、何を美しいと感じるか、何に価値を置くか。 これらが集まって一つの世界観を形成する。 世界観は自分そのものだと言っていい。 世界観が変われば見える世界が変わり、見える世界が変われば行動が変わる。 そして行動が自然

  • 継続と反復はなぜ混同されるのか

    継続は力なりとはよく言われる言葉。 だけどこの言葉は半分正しく半分間違っていると考えている。 なぜなら、多くの人が継続と呼んでいるものは実際には反復に過ぎないから。 継続と反復は全く異なる行為だと思う。 反復とは何か 反復とは同じことを繰り返すこと。 昨日と同じ行動を今日もする、今日と同じ行動を明日もする。 これが反復。 反復には変化がない。 現実が変わっても行動は変わらない。 状況が変わっても方法は変わらない。 だから反復は現実に適応しない。 反復を続けても現実との乖離が広がるだけのことがある。 「毎日頑張っているのに結果が出ない」 この嘆きの多くは反復の

  • 過去に学ぶ人と未来を紡ぐ人

    愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ。 よく言われる格言だと思う。 だけどこの格言には第三の段階が抜けている。 経験に学ぶ人、歴史に学ぶ人、そして未来を紡ぐ人。 この三段階があると考えている。 経験に学ぶ人 経験に学ぶ人は自分の体験からしか学ばない。 失敗して初めて気づく、痛い目を見て初めて理解する。 これは学びの最も原始的な形態だと思う。 効率が悪い。 なぜなら、すべてを自分で体験しなければならないから。 人生の時間は限られている、すべてを体験することは不可能。 だから経験だけに頼る人は同じ過ちを繰り返しやすい。 他者がすでに踏んだ轍を自分も踏むことになる。

  • 意味を求めない生き方

    人生に意味はあるのか。 この問いに多くの人が取り憑かれている。 「自分の人生には意味がある」と信じたい。 「何かのために生きている」と思いたい。 だけど意味を求めること自体が苦しみを生んでいるのではないかと考えている。 意味を求めない生き方について考えてみたい。 意味の探求が無意味を加速させる 意味を探求すると無意味が生まれる。 なぜなら、意味は比較によってしか定義できないから。 「これには意味がある」と言う時「これには意味がない」ものが同時に生まれる。 自分の人生に意味を見出すほど他の何かが無意味になる。 「この仕事には意味がある」と言えば他の仕事は相対的に意味

  • 構造を見る目を持つということ

    同じことを繰り返している。 努力はしている、だけど結果は変わらない。 この徒労感を抱えている人は少なくないと思う。 なぜなら構造の内側でもがいているから。 構造そのものを見ていないまま動いているから変わらない。 構造の内側にいる限り変わらない 人は何かの中にいる。 会社という構造、人間関係という構造、社会という構造、自分の思考パターンという構造。 構造の内側にいる限りどれだけ努力しても同じゴールに収束しやすい。 水が高いところから低いところに流れるように構造には流れがある。 その流れに逆らうことは可能だがエネルギーが必要。 そしてエネルギーが尽きれば流れに戻される

  • 意志を持つということの本当の意味

    三日坊主という言葉がある。 意志が弱いと自分を責める人も多い。 だけど意志薄弱という言葉はほとんどの場合、根本的な誤用だと思っている。 なぜなら、意志に至っていないまま意志の弱さを嘆いているから。 反応・意思・意志の三段階 人の行動の起点は大きく三段階に分かれると考えている。 最初は反応。 外からの刺激に対して無意識が自動的に返す応答がこれ。 お腹が空いたから食べる、眠いから寝る、イライラするから怒鳴る。 これは選択ではなく反射に近い。 次は意思。 「やろう」と思うことがこれ。 意識が介在している。 問題はここから先が遠いということ。 「やろう」と思い「やり

  • 認めることから全ては始まる

    変わりたいと思っている、だけど変わらない。 成長したいと思っている、だけど成長しない。 この繰り返しの根本にあるのは認めていないことだと思う。 変われない人の多くは変わるべきものを認めていない。 あるいは認めているつもりでも実際は認められていない。 認めることは簡単ではない。 頭で理解することと本当に認めることは違う。 「わかっています」という言葉が最も認めていない時に出てくることがある。 認めることが変化のただ一つの起点だと考える。 認めることとはどういうことか 認めることと受け入れることは違う。 受け入れることは現状をそのまま肯定することに近い。 だけど認める

  • 情動という前提を受け入れること

    理性的に生きたいと思う。 感情に流されず冷静に判断したいと思う。 だけどこの「思う」という行為自体がすでに情動から来ている。 理性を大事にしたいという情動がある。 この矛盾を認めることが出発点だと考えている。 情動とは何か 情動とは意識に先立つ身体的な反応のこと。 何かを見て心臓が跳ねる、何かを聞いて胸が締め付けられる、何かを思い出して身体が強張る。 これらは意識が介入する前に起きている。 感情は情動を意識が解釈したものだと考える。 「怒り」「悲しみ」「喜び」という名前をつけた時点でそれは感情になる。 だけどその手前には名前のない身体の反応がある。 それが情動。

  • 直観を信じるとはどういうことか

    「直観を信じろ」とよく言われる。 論理より感覚、理屈より直感、頭より心。 こうした言葉は一見魅力的に聞こえる。 だけど直観を信じることは、誰にでも有効なわけではないと思う。 直観を信じるに足る自分を作っていない人が直観を信じれば、 それはただの思い込みや妄想になる。 直観と妄想は違う。 この違いを理解しないまま「直観を信じろ」という言葉に乗ることは危険だと考える。 直観とは何か 直観とは何か。 「なんとなくそう思う」「根拠はないけどそう感じる」 これを直観と呼ぶ人がいる。 だけどこれは直観ではなく、ただの無意識の反応だと思う。 本当の直観とは意識と無意識の積み重

  • 感情に名前をつける

    なんとなく気分が悪い、落ち着かない、苛立っている。 この「なんとなく」のまま放置することも多いと思う。 だけど「なんとなく」のままではその感情を扱えない。 感情に名前をつけることで初めて感情を意識で捉えられる。 捉えられなければ処理もできないし向き合うこともできない。 感情は名前のない暗闇の中にある間、人を支配し続ける。 名前をつけることが感情を扱う第一歩だと考える。 名前のない感情は処理できない 感情を言語化できないと飲まれやすいと思う。 怒っているのか悲しいのか不安なのか自分でもわからない。 わからないまま感情が高ぶり行動に出てしまう。 後から「なぜあんなこと

  • 自分らしさとは何か

    この世界には大きく分けると二種類の人しかいない。 世界に埋没して生きる人と世界から弾かれたいと思う人。 前者を常識、後者を自分らしさと言い換えることもできるでしょう。 常識に埋没し当たり前という価値観の中で生きていく人と、 常識から外れ、あるいは外れざるを得ずに人とは違う何かにアイデンティティを求める人。 ただ、本質的にはどちらも同じだと思うのですよね。 常識を軸としてそれを肯定する側に埋没するか、反発する側に埋没するかの違い。 自分らしさを求める人も最終的には仲間とかを求めていく、 自分らしい生き方という表現で同志を募ったり。 自分らしい生き方を体系化したりすることもあ

  • 批判を受け取るということ

    批判を受けると、多くの人は防御に入る。 「そんなことはない」「わかってもらえていない」「あの人が間違っている」 こうして批判を跳ね返す。 しかして批判は攻撃ではない、情報であると考えれば受け取り方が変わるのではないか。 少なくともそう扱えるかどうかが成熟の一つの指標だと考える。 自分に都合の良い評価だけを受け入れ批判は排除する。 これは自分の見たいものだけを見る自己欺瞞につながりやすい。 批判への防御反応 批判を受けた時、人は無意識に防御に入る。 これは自然な反応だと思う。 批判は脅威として認識される、だから無意識が防御システムを起動させる。 「自分は正しい」「相

  • 読書という行為

    読書は知識や情報収集ではない。 もちろん得ることもできるがそれは副次的なものだと思う。 読書の本質は他者の思考を追体験することであり、語彙を増やすことであり、世界の解像度を上げることだと考える。 読むことで人は自分の認識の枠を広げられる。 だから読書は単なる趣味や娯楽に留まるものではなく、自己を拡張するツールになり得ると思う。 読書は他者の思考を追体験すること 本を読むとは他者の思考を辿ることである。 著者が考えたこと、感じたこと、到達した結論。 これらを追体験する。 自分とは違う視点、自分にはない発想、自分が知らない世界。 こうしたものに触れることが読書の価値だと

  • 人を動かす2つの刺激

    人の動き方って大別すると二つしかないと思っている。 外からの刺激と内からの刺激に対する反応。 人の思考や言動は無意識で決まる、無意識にどのようなものが蓄積されているか、 どのようなシステム、プラグラムが構築されているか。 刺激に対し反射的に反応することでしか動けない無意識は必ず外界からの刺激を要する。 この外界には二つある、文字通り純粋な外界、自他や環境的な要因から生まれる刺激。 そしてもう一つ、自分という存在の中にあってなお別たれているもう一つの側面、 意識と呼ばれる自覚的な人格。 つまるところ人は無意識という領域を軸として意識と意識外の刺激、 その強弱や関連性によって己

  • 習慣という自動化

    人は習慣の生き物である。 起きたら顔を洗う、コーヒーを飲む、スマホを確認する。 こうした行動に意識はほとんど介在していない。 気づけばやっている、考えなくてもできる。 これが習慣の本質、意識を必要としない自動化された行動である。 この自動化は便利だと思う。 いちいち考えなくても行動できるから意志のエネルギーを節約できる。 だけど問題は習慣になったものに無自覚になることだと考える。 なぜそれをしているのか、本当にそれが必要なのか。 この問いを立てなくなる。 良い習慣も悪い習慣も同じ構造で動く。 そして多くの場合、習慣は無意識に作られ無意識に続く。 自分が選んでいる

  • 政治と創作は両立し得ないのではないかという話

    何かしら創作する人が政治に関わるとつまらなくなるって俗説はよく聞かれる。 個人的に一理あると思っていて、政治って要は多数派の理論なので埋没すると自己が薄れるためだと思う。 創作とは己の中の世界観の表出だと考える、知識、経験、想像、あらゆるものを何かしらの形で表現する。 それは唯一無二の自己性の発露である、少なくとも表面的にはそう信じていなければ創作などやってられないでしょう。 政治に関わると自覚的か否かはともかくその信が崩れていくのだと考える。 既存の政治的権力に埋没するにせよ革命的な思想信条に走るにせよ、 基本的にどちらも人の意見を束ねるという意味で変わりはない。 そのた

  • 基礎を把握する重要性

    基礎が大事なのはなぜかと言えばそれが基準となるからなのですよね。 人は元となる基準がなければ物事の良し悪しを判断できない、 二元論がそもそも何かを基準にしてしか成立しえない。 善悪も中心となる基準があってそこに近づく、あるいは離れることで定義される。 基礎とは技術的、倫理的、社会的、あらゆる側面において定義を明確化するための軸。 故に基礎を持たない人は常に何かに振り回されるしかない、 修正のしようがないので誰かの基準に埋没するしかないから。 そして、基礎を同にできない相手と交わることは極めて難しい、 例えば移民問題で世界中がてんてこ舞いなのはそこを見誤ったからでしょう。 基

  • 時間の使い方

    時間がないとはよく言われる。 「やりたいけど時間がない」「大切だけど時間が取れない」 だけどこれは間違いだと思う。 時間がないのではなく優先度が低いだけであることが大半でしょう。 時間の使い方は嘘をつかない。 何に時間を使っているかを見ればその人が本当は何を大切にしているかがわかる。 言葉は嘘をつける、だけど時間は嘘をつけない。 時間の使い方は価値観を計る大きな要素の1つだと考える。 時間がないという言い訳 時間がない、この言葉は便利な言い訳である。 やりたくないこと、やるべきだと思っているけど実際にはやりたくないこと。 これらから逃げるために時間がないと言う。

  • 自己と結果の分離という意識

    これは度々、お話することではあるのですけど結果と自己はまず分離した方が良い。 結果とは現実から受け取るフィードバックであり、 自己とは現実から乖離するアイデンティティの創造。 自分らしく成功というのは自覚的、無自覚的であれあり得ない、 少なくとも成功し続ける、現実から結果を引き出し続けるのであれば。 人は少なからず自己を薄めなければならない、 現実とはあらゆる要素の総体であるが故に。 成功したい、結果が欲しいと言いながらこの前提を把握していない人は多いと思う、 現実とは自己実現の場などではなく循環する世界の一部として回るための箱庭。 後天的に現実に埋没した自我を自己と錯覚する

  • 秩序の力

    倫理や道徳の役割は何かと問われればそれは秩序の構築だと言えるでしょう。 生物の盛衰は混沌とした現実の中にどれだけ自分たちに有利な秩序を構築できるかによる、 言い方を変えればどこまで世界に対し適応できるか、あるいは適応を押し付けられるかによる。 大抵の生物は適応するために自らの機能を変更する形で進化することが多い。 逆に人という種は世界に対し適応を押し付けてきた歴史であるでしょう、 自分たちに都合が良い環境を構築してそれをアップデートし続ける。 人の脳の機能は数万年変わっていないといった学説もあるように、 自分ではなく外界を変化させることで発展してきた。 ただ、それは決して美化

  • 結果とは流れにいかに適応するかであるという話

    生活基盤に根差したものが不当に評価されているのに対し、 必須でもない何かが大きな評価を得て対価を得ている。 例えばX(旧ツイッター)などだと介護とYouTuberなんかが対比されているのが見られる。 高齢化社会である現代に日本において介護職は必要不可欠と言える、 もし介護職がいなくなればどう転んでも凄惨な状況が生まれるのは火を見るより明らか。 大してYouTuber、近年ではVTuberなんかもよく取り上げられますか、 こういう職業は必要不可欠かと言われればそうでもない。 仮に明日、全員消えたとしても社会は回るでしょう、 必要性という意味において介護より下位にある。 しかし、

  • 聞くという技術

    人は聞いているつもりで聞いていないことも多い。 相手が話している間、次に何を言おうか考えている、 相手の言葉を聞きながら自分の意見を準備している。 これは聞いているのではなく待っているだけだと思う。 聞くことは受動的な行為に見えて実は極めて能動的で難しい技術である。 自分を脇に置き相手に意識を向ける。 相手の言葉だけでなくその背後にある感情や意図を理解しようとする。 これができる人は少ないと考える。 なぜ人は聞けないのか、本当に聞くとは何か。 この問いについて考えてみたい。 なぜ人は聞けないのか 人が聞けない理由の多くは自分に囚われているからだと思う。 相手の話を

  • Xの自動翻訳機能に思うこと

    X(旧ツイッター)で自動翻訳機能が賛否両論巻き起こしている。 自分でも少し見てみましたがすでに日本のポストに海外の方の返信が多くなっている印象を受けた。 これを素晴らしいものだと持ち上げる意見と最悪の事態を巻き起こすと悲観的に見る人に分かれている印象も受ける。 前者はあらゆる国の人々の交流の幅が広がるという意見にざっくりまとめられると思う、 後者は言語の壁が失われることで思想信条の対立が激化するみたいなものが目立つ。 個人的には言語の壁が取り払われることで双方向的に価値観の輸出入が起きることが問題だと思う。 つまりは独自性の希薄化が起こるのではないかと危惧している。 少なく

  • 負の感情に振り回されやすいのはなぜか

    人は負の感情に振り回されやすいようにできているとはよく言われますが、まあそれはそうだろうなと思う。 根本的に人は今を基準にして物事を考えるわけですから今からプラスとマイナスであることが刺激となる。 今を基準として何かが引かれた状態が大体は負の情念を生むわけで、 逆に何かを加えられたときに正の情念が生まれます。 引かれるというのは体感的にもわかりやすい要素でしょう、 例えばお金が引かれていく(なくなっていく)のは数値的にわかりやすい。 失われるものと言うのは五感的にも精神的な印象としても強烈であるし、 必要なものが失われていくという状態は心を蝕む。 逆に加えられるというのはなか

  • 創作は難しくも面白いという話

    個人的に何かを創作する人が好きだ。 心ふるわせる作品、全てを忘れて熱中させてくれる作品、自分とは違う世界観の具現。 つまらない作品もそれはそれで自分とは違う何かを表現しているからこそであり、 受け入れがたいけれどそれが作り手に対して尊敬しない理由にはならない。 誰かが、あるいは誰か達がその魂をかけて作ったものは尊いと思う、 逆に例えばそれになること自体が目的のものは創作ではないとも思う。 例えば近年、AIによる創作の是非はよく議論されることでありますが、 これに嫌悪を覚える人がいるのはそれが世界観の具現ではないからでしょう。 例えば絵を描くことが自分の内にある世界を何とか表現

  • 期待という呪い

    人は他者に期待する。 「こうしてくれるはずだ」「わかってくれるだろう」「応えてくれるに違いない」 だけど期待が裏切られた時、失望や怒りが生まれる。 「なぜわかってくれないのか」「どうしてしてくれないのか」 この苦しみは期待から生まれるものだと思う。 期待とは他者をコントロールしようとする試みである。 自分の望む通りに他者が動くことを期待し、そうならなければ失望する。 だけどこれは傲慢ではないか。 他者は自分の思い通りに動く存在ではない、他者には他者の意思がある。 期待することで他者を縛り自分も苦しむ。 期待という呪いについて考えてみたい。 期待は無意識の要求である

  • 恋愛工学から見て取る引き付けの重要性

    恋愛工学というものがある。 大本を辿ると作家の藤沢数希氏が提唱したものであるそうですが、 ストレートに言ってしまえば男性が女性とセックスするための方法論。 つまりはナンパテクニック、長期的な関係を結ぶためではなく、 短期的に充実感や快楽を追求するための手法。 それについての是非はここでは置いておきますがその内容は結構面白い、 特に人の無意識を割とよく見抜きうまく刺激する方法が練られていたりする。 短期的な充実、つまりは生物的な本能を満たす術ですからさもありなんということでしょう。 例えばACSモデルと呼ばれるもの。 A (Attraction)、C (Comfort)、S

  • 質問する力

    人は答えを急ぐ。 だけど多くの場合、問題は答えではなく問いの質にある。 問いが浅ければ答えも浅くなる、曖昧なら答えは散らばる。 逆に問いが明確なら思考は深まる。 質問する力とは相手を追い詰める技術ではなく理解を深める技術だと思う。 相手を理解するため、自分を理解するため、状況を正確に捉えるため。 質問はそのための道具になる。 今回はこの質問する力について考えてみたい。 なぜ人は質問できないのか 質問できない理由はいくつかある。 一つは無知を認めたくないから。 「そんなことも知らないのか」と思われたくない。 この見栄が質問を止める。 だけどわからないまま黙ること

  • 視界の差、世界観の差

    ドイツの生物学者、ユクスキュル博士が提唱した環世界という概念がある。 生物には各々、固有の感覚や作用器官で知覚し構築する主観的な世界があるという考え方。 当たり前と思うかもしれませんが人とは違う別の生物の例えば視界を考えるうえでも、 当然ながら目の構造が違いますから人が全く同じ視界を理解することはできない。 生物学において人以外の生物の構造を把握する上ではどこまでも客観的な観測結果に依存する、 こういう時にこういう反応を見せると言った客観的な事実を積み上げるしかない。 ユクスキュル博士はしかして、真に理解する上では環世界を把握することが必要だと、 あらゆる生物の主観世界の明確化

  • 伝えることは考えてみると難しいという話

    賢い人はどんな人に対してもうまく物事を説明できるという俗説がある。 翻って賢さの証とは誰にでも解像度を合わせることができることという意見。 まあ、これは一理あると言えばあるでしょう。 何を賢さと呼ぶかという前提が不明確だと何とも言えない部分はありますが、 例えばより世界を鮮明に捉える力こそ賢さだと定義するのであれば。 他者の持つ世界観をある程度、鮮明に把握してそれに合わせて解像度を下げる、 あるいは変えることでうまく伝わるように手法や表現を変更できるという側面はあると思います。 とは言え、そもそも基準となる世界観が異なればどうあっても共通するものは持てない。 例えば男性と女

  • 今を丁寧に生きるために未来を見据え過去を乗り越える

    未来をしっかり見据えて生きるべき、過去を省みて己に活かすべき、 そして今この瞬間を丁寧に生きるべき。 どれが最も大切なことなのだろうか。 結論から言えば今としっかり向き合って丁寧に生きることが一番大事だとは思う、 人はどうあっても今この瞬間からは離れられない。 しかして、人は同時に想像力という力を手にしたことで、 純粋に思考的な営みにおいて今から離れてしまうことがある。 まだ見ぬ未来に心寄せる、流れ去った過去に囚われる、 そうして意識が今から少しずつ乖離していく時があるものでしょう。 人の無意識は今この瞬間から受ける刺激に対して反応するもの、 それは外界からはもちろんのこと自

  • 比較という自己破壊

    人は比較する。 自分と他者を比べ優劣を測る。 「あの人は成功している、自分はダメだ」「あの人より自分の方が上だ」 こうして劣等感と優越感を行き来する。 だけどこの比較という行為は自己破壊の始まりだと思う。 比較は他者を基準にすることで自己を見失う行為。 自分の価値を他者との相対的な位置で測る限り真の自己理解には至らない。 そして比較から生まれる劣等感も優越感もどちらも自分を苦しめるものだと考える。 比較は無意識の習慣である 人は無意識に比較している。 意識では「自分らしく生きたい」と思っていても無意識では常に他者と自分を比べている。 収入、外見、能力、地位、人間関

  • 人は情動という前提に縛られている

    ソマティック・マーカー仮説というものがある。 ソマティック・マーカー仮説 - 脳科学辞典 bsd.neuroinf.jp ざっくり言うと人の選択や決断において情動が果たす役割についての仮説。 一見、感情などからかけ離れた選択や決断に見えたとしても、 そこには何らかの情動的な身体反応の影響が出ていると考え。 結局のところ人は情動、感情、本能の影響から逃れることはできないとこの仮説は突きつける。 批判的な反論もあり議論にまだ決着はついていないのですが、 個人的にはまあ妥当だろうと思ってます。 そもそも選択とは、決断とは何か? 何かを決するということ、

  • 欲望を認めること

    人は欲望を隠す。 「お金なんて興味ない」「承認なんて求めていない」「性的な欲求なんてない」 こうして欲望を否定する、だけど確かにそれはある。 お金が欲しい、認められたい、満たされたい。 この欲望を否定することは自分を偽ることだと思う。 欲望は悪ではない、人として自然なもの。 だけど多くの人は欲望を恥じる。 「清く正しく」あるべきだと考え欲望を抑圧する。 そして、その抑圧が偽善を生む。 欲望を認めること。 これは、自分に正直になることであり偽善から解放されることだと考える。 欲望は否定されるべきものか 社会は多くの場合に欲望を否定する。 「欲深い」「下品だ」「俗

  • 努力の使い所

    個人的に努力の使いどころを間違えると実質的にも精神的にもきついと思っている。 人は自分が傾けたものに応じて報いがあることを求めるものですが、 実際のところ現実において個人の力など些細なものでしかない。 極端な話、生まれながらに全てを持っていると思えるような人もいれば、 子供の時に命を落としてしまうような人もいるわけで。 個人の運命なんてものは現実の流れの前には無力に等しい、 努力は報われることは実際はそんなにない。 現実に自他を介した結果を求めるなら流れを見極めるしかない、 縁の流れ、お金の流れ、情念の流れ、つまりはエネルギーの流れ。 それをどれだけ自分のところに引き寄せるこ

  • 言葉と行動の一致 − 自己欺瞞からの脱却

    言葉と行動が一致しない。 「こうしたい」と言いながらそうしない。 「これは大切だ」と言いながら疎かにする。 多くの場合、言葉と行動は矛盾している。 そして、その矛盾に気づいていないか気づかないふりをしている。 だけど、言葉と行動の不一致は自己欺瞞のはじまりだと思う。 意識では「こうあるべき」と考えている。 だけど無意識では別のことを望んでいる。 この分裂が言葉と行動の矛盾を生む。 そして、この矛盾を放置すると自分を偽り続けることになる。 言葉と行動を一致させること。 これは、誠実に生きるための基盤だと考える。 言葉と行動の不一致は自己欺瞞である 人は理想を語る

  • 過去と未来と知性

    愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶというのは有名な言葉。 時間軸という点で考えれば理にかなっていないわけではないでしょう、 経験という主観の時間と歴史という積み重ねから何かを引き出す力。 どちらも過去であるならば個人の経験より歴史の方が強いのは必然、 より多く、より長く何かを積み上げてきたが故に。 しかして、結局のところどちらも過去という点では変わりない、 過去の積み重ねを現代に持ってきて適用する。 それは問題回避や現状維持においては有益でしょう、 長い歴史を紐解けばどこかに似たような事例が転がっているもの。 それを正しく認識し、抽象化し、現代の状況に適用させられるのなら、

  • 沈黙の力

    すべてを言葉にする必要はない、語らないという選択がある。 沈黙することもまた一つの表現だと思う。 このnoteでは言語化の重要性について何度も触れてきた。 無意識を言語化すること、感情を言葉にすること、自分の考えを明確にすること。 だけどそれと同時に言語化の限界も認めなければならない。 すべてを言葉にできるわけではない、すべてを語るべきでもない。 沈黙という選択が持つ力について考えてみたい。 言語化できないものがある 言語は世界を切り取るフィルターである。 複雑で流動的な現実を言語は固定化し矮小化する。 だから言語で完璧に世界を捉えることは不可能、 言語化した瞬間に

  • 選ばないという選択

    決められない、AかBかどちらを選べばいいかわからない。 だから保留にする。 「もう少し考えてから」「まだ決めなくてもいい」 こうして選択を先延ばしにする。 だけど選ばないことも実は選択なのだと思う。 選ばないという選択をしている。 そして、その選択には責任がある。 多くの人は選ばなければ責任を負わなくて済むと考える。 だけどそれは錯覚だ。 選ばないことで生じる結果にも責任はある。 選ばないという選択から逃げることはできない。 選ばないことも選択である 人は日々、選択を迫られる。 どの道を進むか、何を優先するか、誰と関わるか。 大小さまざまな選択が人生を形作る

  • 加害と被害の曖昧な境

    いじめはする方が悪いのかそうでないのかという議題が度々上がる。 概ね二つに分かれる、する方が無条件で悪いというものと、 される方にも何かしら原因があるというもの。 いじめという行為が例えば暴力などの犯罪性を帯びたのであれば、 それは間違いなく前者が社会的には圧倒的に悪である。 この前提は覆らない、暴力などが合法にならない限りはいじめは悪となる。 しかして、ではもう少しグレードダウンさせて考えてみるとどうだろう。 例えばちょっとした陰口、無視、仲間外れといったものはされた方は確かにきつい。 しかして当然ながら、する方も何かしらする理由があるでしょう、 嫌いである、ズレている、

  • 流動性と固定性のバランスを取る

    世界とは流動的だというのはよくお話する。 定まったものはなく、どこにエネルギーが流れているかという問題であり、 絶対的な真理や状態といったものは錯覚に過ぎない。 しかして人間社会は少なからずそういう世界の在り方から外れたもの、 ありのまま自然には生きていけなかった人という種は世界を固定し、 自らに都合が良いものを定義してそこに状態を固定化することで生きてきた。 善悪、功罪、損得、成否、これらは時代と共に移り変わるものですが、 その時点で最善だと思える何かを定義してそこに一気にエネルギーを注ぎ込む。 そうすることで生物的な不利を補ってきた、 より大きく進歩することが可能であったの

  • 正当化という逃避

    「仕方なかった」 思った通りにならない時そう言いたくなる。 「あの状況では他に選択肢がなかった」 「誰がやっても同じ結果だった」 こうした言葉で自分を守ろうとする。 だけど本当にそうなのか。 正当化とは自分の行動や選択を正しいものとして定義すること。 だけど多くの場合、それは自己欺瞞に過ぎないと思う。 本当は向き合うべき何かから逃げているだけではないか。 自分の責任、弱さ、失敗。 これらを認めたくないから正当化する。 正当化は一種の逃避であるというのは紛れもないことだと考える。 正当化とは何か 正当化とは自分の行動や選択を正しいものとして定義し確定させること。

  • やらないという選択肢を取り入れる

    やらないことをやるって考え方は持っておいた方が良いと思う。 人の特に無意識は刺激を受けなければ動けないという性質があるため常に自らを動かすための刺激を求めている。 加えて、無意識は否定形をうまく理解できないという性質もあります。 例えば走らないと走るの違いを無意識はうまく分けて考えられない。 子供が走るなと言われて余計に走り出すみたいなところを見たことがあるかもしれませんが、 まだ意識的な側面が発達していない子供の時は走るも走らないも同じ走るという刺激として無意識が受け入れるため。 つまり人の無意識、本能とでも呼べる側面は常に肯定系で行動的に働くということ、 逆を言えば立ち止

  • 孤独とつながりのバランス

    人は孤独を恐れる。 誰かと繋がりたい、理解されたい、一人でいたくない。 だから人と関わり繋がりを求める。 だけど人と繋がりすぎると今度は息苦しくなる。 自分を失いそうになる、一人になりたいと思う。 孤独と繋がり、この二つは矛盾しているように見える。 だけどどちらも人間には必要なものだと思う。 孤独がなければ自己は育たない。 繋がりがなければ人間は生きられない。 この矛盾の中でバランスを取りながら生きること。 それが人間というものではないか。 孤独の必要性 孤独は苦しい。 一人でいる時間が長くなると基本的には不安になることが多い。 誰も自分を必要としていないの

  • 無意識の格付け傾向を自覚することの大切さ

    人は無意識に格付けをしているということは意識しておくと良いと思う。 それは比較によってしか何かを感じることができないため、 比較によってしか何かを定めることができないため。 基準点がないと人はそれがどれだけ素晴らしいことであるかも、 どれほど醜悪なことであるかも捉えることができない。 それはしょうがないことではある、この世界は関係性でありますから、 何か(軸)と関係していることでしか世界に在ることができない。 関係性のない人はただの虚無に落ちていくでしょうし、 関係性を信じられなくなると傲慢になるか人生に意味を見いだせなくなる。 まあ、それは置いておきましょう。 そこまで突き

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