プロフィールPROFILE

座禅普及さんのプロフィール

住所
未設定
出身
藤沢市

自由文未設定

ブログタイトル
座禅普及
ブログURL
https://zazenfukyu.hatenablog.com/
ブログ紹介文
主旨は慈悲。行は座禅。
更新頻度(1年)

101回 / 133日(平均5.3回/週)

ブログ村参加:2018/08/04

座禅普及さんのプロフィール
読者になる

座禅普及さんの人気ランキング

  • IN
  • OUT
  • PV
今日 11/19 11/18 11/17 11/16 11/15 11/14 全参加数
総合ランキング(IN) 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 978,436サイト
INポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
OUTポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
PVポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
哲学・思想ブログ 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 13,113サイト
禅・坐禅 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 76サイト
今日 11/19 11/18 11/17 11/16 11/15 11/14 全参加数
総合ランキング(OUT) 69,825位 圏外 69,825位 61,562位 56,154位 48,698位 48,874位 978,436サイト
INポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
OUTポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
PVポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
哲学・思想ブログ 909位 圏外 909位 773位 679位 561位 563位 13,113サイト
禅・坐禅 7位 圏外 7位 7位 6位 6位 6位 76サイト
今日 11/19 11/18 11/17 11/16 11/15 11/14 全参加数
総合ランキング(PV) 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 978,436サイト
INポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
OUTポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
PVポイント 0 0 0 0 0 0 0 0/週
哲学・思想ブログ 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 13,113サイト
禅・坐禅 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 76サイト

新機能の「ブログリーダー」を活用して、座禅普及さんの読者になりませんか?

ハンドル名
座禅普及さん
ブログタイトル
座禅普及
更新頻度
101回 / 133日(平均5.3回/週)
読者になる
座禅普及

座禅普及さんの新着記事

1件〜30件

  • 理系の人が仏道に興味を持つ要因?

    座禅会やテーラワーダの瞑想会に行くと、相当程度、理系の大学の卒業者や理系の仕事をしている人がいます。 特に、20代から30代の人だと、IT関係の人がよくいます。 アップル社のビル・ゲイツのように、米国のIT企業の関係者の中に、マインドフルネスへの興味を持っている人が少なくないことにも由来するのかなとも思うのですが、オウム真理教事件の際に、理系出身の幹部が相当いて、毒ガス等を製造していた実態があり、宗教とは距離感があるように思われる理系出身者が何で仏教などに興味を持ったのかがマスコミ等で疑問とされたことからすると、マインドフルネスが一般に話題になる前から、理系の人が仏道の実践に興味をもつ傾向があ…

  • 平穏無事を目指すなら生まれる必要はない

    「あらゆる煩悩を挫断して、此世界に超越することが能きれば、これが悟りの境涯であると思い、安心して座り込んでいては不可ぬ。(略)今日という実際世界へ飛び出し、自由自在の働きをするのでなければならぬ。」(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』42頁) 上座仏教と禅との大きな相違点は、その活動性にあります。 上座仏教では、貪瞋癡、すなわち、煩悩の段滅を目指します。 しかし、禅は、違います。煩悩即菩提です。 大乗仏教では、全てのことはあるべくしてあります。 存在を否定されてよいものはない。 煩悩も否定されるのではなく、制御すべきことになります。 「煩悩妄想を細めていって、最後にそれをすっかり断滅し…

  • 感謝とは幸福を意識化することである。

    「信ずると言うことを二つに分けますると、まあ斯う言うものであろうと思う。解信(かいしん)と仰心(こうしん)の此二つである。(略) 智的要求に応ずるには、聖道門、情的要求に応ずるには浄土門であって、解心は乃ち聖道門に属し、仰信は乃ち浄土門に属するものであります。そこで解信に於てはどうしても多少理屈の説明をしなければならぬが、仰信となると読んで字の如く、仰いで信ずるのであって、初めから神ありと信じ、佛ありと信ずるのであります。(略) 仰信の方になりますと『何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる』で其の中に真理があります。純粋の信はこれで宜しく、何(な)にか分(わか)らぬが、唯有難…

  • 婚姻関係と自己肯定感

    「離婚の原因について、性格の不一致だとよく言うが、間違っている。 なぜなら、性格の一致している夫婦はいないからだ」 先日、京都造形芸術大学教授の本間正人先生の講演会を聞きに行ったときに印象に残った話の一つがこの話でした。 人と人とは違う者同士で承認しあうことが大切であるという大きな話の流れの中の一コマでした。 印象に残った理由の一つは、職場の同僚の実父の四十九日があり、職場から送った香典のお返しをいただいたことがあって、パートナー死別の問題も少し考えていたからです。 人生に充実感を抱くためには、自己肯定感が重要です。 自己肯定感を抱くためには、まず、自己の欲求を充足させることが挙げられるでしょ…

  • 「分別心」の否定ではなく、限定

    「すべてのものに優劣はなく、善悪もなく、尊重すべきものは何もない」という考えを優う人に語っており、これを「等価思想」と名付けていたという。 A少年が学校で暴力事件を起こしたときに「人の命はアリやゴキブリと同じ」と語っていたことに通じる考え方である。」(井出草平『アスペルガー症候群の難題』183頁) 仏道の世界では、人間の悩みや苦しみの原因は、世界を区分する作用、客観と主観、自己と他者、生と死、善と悪等に区分して解釈しようとする分析的な作用、すなわち、分別心であると考えて、分別心から自由になることを説きます。 「仏教では伝統的に判断、了別の働きは分別(vikappa)と呼ばれてきました。ですから…

  • 瓦を磨く

    「私が実践しているのは、母の頭の中の妄想や景色に付き合う方法で、意外と楽だし面白いんです。たとえば、母はいつの間にか、夢と現実とが混ざっているような状態になって、「さあ、寝ますよ」というと「ちょっと待って、赤ん坊をどうするの」といってきます。そういうときは「赤ん坊はね、さっき2階で寝ましたよ」と返します。そうすると「ああ、そうか」といって安心します。 認知症の介護は報われないことだらけです。ただ、始まってしまうと、いちいち暗くなっているひまなんかなくなって、目の前の一つひとつを解決していく毎日です。長期戦でやっていくには、イライラしても笑いと手抜きを忘れず、介護生活の中で楽しみを見つけることが…

  • 【参考資料】生きて死ぬだけ

    (1)神保如天『従容録講話』序「私どもは何の為に生れたか、何故死ぬるか、這んなことは問題にならぬ。何の為でも、何故でもない生まれたから生きてをる。死ぬから死ぬるのである、それ以上何と理屈をつけても詮無いことである。生を生とさとり、死を死とさとれば、それでよろしい。人生のすべては斯くして解決されるのである。」 (2)有馬賴底『無の道を生きる――禅の辻説法』18~19頁「禅というのは、実はとても簡単なこと。極めて単純明解なんです。(略) 「生まれたら死ぬ」。その事実だけなんです。何もないところから生まれて、生きて、また何もないところへ還っていく。(略)それを、本当にしっかり納得しましょうというのが…

  • よい仕事をし、よい家庭を築く

    「われわれがこの苦の世界に生まれ生きているのは、愛するためであり、働くためであって、苦から逃れるためではない。われわれにとっては、日々の愛や悲しみや労働の生活以外に、釈尊の悟ったさとりを現成せしめる道はないのである。」 (松本史朗『仏教への道』146頁) 仏教の本を読みかじるようになってから知ったよいな思っている言葉の中でもとびきりのものの一つです。 ほかの本などを読むと、どうも、松本先生は、袴谷憲昭と並んでほかの仏教学者の方からの評判は悪いようです。 「批判仏教」というものを提示されて、ほかの方の考え方に対して批判をしていたからのようです。 仏「教」自体が、「教」=形而上学の否定なのではない…

  • 力強い短法身

    「一人で来る人も多いよ。 どう過ごすんですか。 飲まずにひたすら愚痴る人もおる。早い時間、家に帰る前にちらっと寄って。よそでは言いづらいんやろな。外でしゃべらんとってなと言われるけど、こっちは中身を覚えてへんし。 右から左ですか。本人には何て言うんです? 覚えてへんて言うで。それでも話していく。すっきりするんかな。私にはどうでもいい話やん。 つれないですねえ。 上手に言えへんし。思ってないこと言うの難しいやん。たまに、誰々さんの店で勉強してきたら、とか言われるけど、できひんもん、私には。でも、この店は上手に言うてけえへんから、来やすいっていう人もおる。あれは褒めてんのやろか。」「八方美人は過酷…

  • 「病んでいる」という病

    「「一念不生全体現、」(略)以下四句、禅修行の心得であります。(略)一念と云うは、可愛い―――憎い―――ほしい―――おしい―――と云う、それであります。かかる念慮は何人にも胸中に生じます。(略)種々様々の念慮の生ずるのが、心の本質であります。一応字面の上のみ見ますると無念無想になれと云う様でありますが、否、然(しから)ずであります。可愛なら可愛の一念の外に余念を生ぜず、憎いなら憎いの他に邪念を生ぜず、ほしい―――おしい―――そのまま、是に別の念慮を混入せず、そのものそれ三昧になることであります。(略)次の句に「六根纔動被雲遮、」で六根の眼耳鼻舌身意のために、心が引き廻されて、妄想又妄想、執着又…

  • 一指頭受用不盡

    「真なるが故に新なり。太陽は朝々東より出で、夜々西に没し、往古来今同じ事を繰返して居って、いつも清新であって陳腐ではありません。天龍和尚より伝えられたる一指頭の禅、俱胝に至って一生受用して盡きず、いつも清新であって陳腐を見なかったのは、此の一指禅より真理が迸り出たから」(加藤咄堂『碧巌録大講座 第十三巻』163頁) 我ながら「いつも同じようなこと書いてるよな」と思います。 仏道は、結局、「慈悲」に尽きる。 だから、書く話は、全て同じように「慈悲」にまとまっていく。 「念佛行者は南無阿弥陀佛を受用して一生不盡、法華経行者は南無妙法蓮華経を受用して一生不盡、此の一生不盡の所に真もあれば新もあるので…

  • 健全な「悟り」

    「悟り」とは、上座仏教であれば、貪瞋痴を断滅することであり、大乗仏教であれば、自他不二を体認することです。 いずれも、趣旨は分かります。 けれども、いずれも、過度の瞑想等による血中酸素濃度の低下等によって引き起こされた変性意識による異常体験の類にすぎません。 健全なものとは言えません。 人間が自分の欲望や感情に振り回されて苦悩するということはよくあることです。とはいえ、それを全く無くさなくても、十分に社会に適応して生きていくことができます。これが完全になくならないと気が済まないというのは、一種の不安症で、それ自体、病的な心理でしょう。 また、世界と自己との区分が厳密にいえば困難であり、自己の主…

  • 行は助けにすぎない

    「看経(かんきん)、礼仏、布施、作福などの事は、ただ助道の跡にすぎないので、道は必ずしも此処に在るのではない。 深山窮谷に隠れて草衣木食するようなのは、幽人高尚の志の現われで道とは関係なしと言っても可い。 余は林下に淪棄(りんき・注)して世間に用のないような身ではあるが、しかし斯民(しみん)と共に聖天子のために賢相を得たいと云う楽欲(ぎょうよく)は、ひたすらに持っているのである。」(注)淪棄=地方の寺に隠れて棄てられたように現れない存在であること 引用は、山岡鉄舟が新政権を離れ、出家をしようとしたときに、師である今北洪川老師が、これを止めるために送った手紙です。 「看経、礼仏、布施、作福などの…

  • 正受の仕方

    臨済禅における公案にはいくつかの種類があり、それぞれの狙いがありますが、公案を用いての独参の最も重要な狙いは、正受する力を養うことにあると考えています。 法理などを何らかの形で、知る、感じる、体認するという狙いもありますが、法理等は言葉によっても認識することが可能だからです。 「ダルマにはじまる禅宗が、それまでの仏教学に新たに加えた道理は、おそらく何もなかったといってよい。」 (柳田聖山『禅思想』47頁) それまでの仏教学は、言葉で法理を伝えてきたのですから、法理はきちんと言葉で伝わるはずです。 そもそも、室町時代においては、伝法自体が口授によって行われていたのですから、法理を伝えるのに、わざ…

  • 共在性

    「私はよく中年女性の会話に耳を傾けます。こんなに会話を楽しむ人たちもいないからです。「久しぶり」などと、互いの近況などをまず話します。 この辺まではかみ合っているのですが、徐々に合わなくなります。互いが互いの話したいことをしゃべるからです。聞えてはいるのでしょうが、相手の息継ぎを機に自分のことを話します。この繰り返しで、分かれ際に「今日は楽しかった、また会おうね」になるのですから、不思議です。まあ、それでいいんですね。 (略) 落語には、主体性のない幇間(たいこもち)の一八(ぱち)が登場します。すごいですよ、客の言うことをすべて肯定するんです。 「いい天気だなあ」「いい天気ですねえ」「少し曇っ…

  • 浄土門から見た禅修行の目的地(第2版)

    「念仏は、まことに浄土(じようど)にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄(じごく)におつべき業(ごう)にてやはんべるらん。総(そう)じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人(ほうねんしようにん)にすかされまいらせて、念仏して地獄(じごく)におちたりとも、さらに後悔(こうかい)すべからずそうろう。」(歎異抄第二条) 禅の実践に取り組むようになってから、よかったなと思うことの一つは、浄土思想の良さがわかったことです。 「念仏して地獄(じごく)におちたりとも、さらに後悔(こうかい)すべからず」 というのは、禅の実践をしている者にとってはシビれるものがあります。 以前は、「南無阿弥陀仏」という…

  • 緩やかな「空」の捉え方

    仏教に出てくる「空」の概念については、いくつかの捉え方があり、一番流布しているものは、中観派の空観でしょう。 「〈空〉というものは無や断滅ではなくて、肯定と否定、有と無、常住と断滅というような二つのものの対立を離れたものである。したがって空とは、あらゆる事物の依存関係(relationlity)にほかならない。」(中村元『龍樹』17頁) 世界とは、パソコンの液晶画面に映っている画像のようなものであり、実体はないけれども、あらゆるものがそこに現れ出ている。 パソコンの液晶画面は、全く一つのものなのですが、その画面に映っているものは、どういうわけか、それぞれが独立した意味を持つものとして捉えられる…

  • 随時更新『問答メモ』(追加問16~25)

    (追加部分) 問16 佛道(仏教)を学ぶ価値はどこにあるのか。 答16 生きていく上でのアイディアを得る。 しかし、とらわれない。 わからなければ無視をする。 佛道を学ぶ前から生きており、生きる上では、佛教は不要。 慈悲を勧める教えだと考えて仏教に興味を持ったのであれば、既に、慈悲の行為をしたいと考えているのだから、まず、慈悲の行為をする。 わからないと考え始めると、考えることに時間を使い、慈悲の行為ができなくなる。 私たちの人生には何ら問題はなく、慈悲の行為をすることにも特別な知識はいらない。 禅の語録を含め、佛道に関する言説は、「余計な老婆親切」と心得る。 問17 佛道を学んだり、悟らなく…

  • 利他とは自利である

    慈悲とは、自分の生命を自分以外のために使うことです。 昔から、ほかの人の役に立つことに興味があって、中高生の頃は、ボランティア活動の団体に入ったり、仕事も公益の実現に寄与できるものを選び、今でも、余暇には、傾聴のボランティアに行ったり、献血に行ったりしています。 なぜ、このようなあり方がいいのか。 悩んでいたこともありました。 というのは、私は、とても利己的だからです。 利己心がありながら、ほかの人の役に立つことをやりたいということが偽善ではないかとか考えたりしていたこともありました。 人のために何かをやりたいというのも欲望で、いいものを食べたい、よい異性をだきたい、ほかの人の上に立ちたい、気…

  • 仏道とAI/受動と作用

    AIが発達し、次第に、人間がやるものとされていた「労働」をAIが代わって処理するようになってきていることに伴って、そのうち、AIが人間にとって代わるのではないかとの危機感の下、AIにはできない人間しかできないことを探すことなどといった人間像の見直しに対する問題意識が高まってきています。 その議論の中では、AIを人間の敵だと見立てて、重箱の隅をつつくように問題点を無理気味に見つけ出して(あるいは、作り出して)、人間のプライドを守ることで溜飲をさげるような言説が多いように感じます。 しかし、このような対象化とひていに対しては、仏道者として、警戒しなければならないと思います。 すべてはあるべくしてあ…

  • 【参考資料】受け入れ、向き会う

    (1)有馬賴底『『臨済録』を読む』20~24頁「『臨済録』から『無門関』『碧巌録』そして『大燈百二十則』――全部暗記させられました。覚えていないと火箸で叩かれました。 ところが これが役に立たない。二十二歳の時、上洛し相国寺に入ります。大津櫪堂師は、私が暗記していたものを全部剥ぎ取る。今まで一所懸命に身に付けていたものを全部剥ぎ取る。 先入観があったらダメなんです。「公案」でやられる。徹底的にやられる。 「公案」を拈提し、答を出す。しかし答はないんです。それで精神的に追い込まれる。 最後の方で解るんですが、実は「公案」なんてどうでもよかった。 臨済禅師も言ってますね。「わしの教えに従ったらあか…

  • 所有(蓄積)ではなく作用(放出)

    「企業は、社会と経済のなかに存在する被創造物である。社会や経済は、いかなる企業をも一夜にして消滅させる力を持つ。企業は、社会や経済の許しがあって存在しているのであり、社会と経済が、その企業が有用かつ生産的な仕事をしていると見なすかぎりにおいて、その存続を許されているにすぎない。」 (P.F.ドラッカー(上村惇夫訳)『【エッセンシャル版】マネジメント 基礎と原則』35頁) 引用した文章中の「企業」を「人」に置き換えてもよいように思います。 人は、「有用かつ生産的な仕事」をするために存在する。 仏道が、人について、何かが帰属する実体ではなく、「作用」であることを強調するのは、そのことも意味すると思…

  • 随時更新問答メモ(追加問8~15)

    問8 公案の独参は必要か?答8 本質的にいらない。 やりたければやればよいが、本来、出家のためのものなので、在家の仏道の実践としては遠回りだと思う。問9 なぜ、公案の独参がいらないのか?答9 A 公案は、法理を実社会生活の中で使いこなすためにある。 在家には、日常生活に現成公案がいくらでも生起し、法理を応用をする機会がいくらでもあるので、不要。 on the job training=修証一如B 仏道は、慈悲の生き方をすることである。 (自己の肉体を含む)あらゆる存在を慈しむ生き方である。 少なくとも次のような生き方をするものである。 「毎日々々感謝の念を捧げて仕事をする事」(釈宗演「禅学大衆…

  • 仏道修行と潔癖主義の病

    「私たちが大事にしている修行をあまり理想主義的なものにしてはいけません。」(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』106頁) テーラワーダの実践をしている人たちとの交流会に参加しました。 若手の方で大学卒業後、ニート期間が長く、最近、就職をした方から、就職先の人たちは、仕事をすればそれでよく、という感じで、人間関係から心のざわつきが起きないのでよいです、とのお話がありました。 穏やかな人間関係というものは、それはそれでよいのですが、テーラワーダの実践をする人は、それを強く求めている人が多いように思います。 心を穏やかにするということに力を入れすぎる余り複雑な問題に立ち向かうのではなく、逃…

  • 随時更新『問答メモ』

    問1 禅とは何か?答1 A 敢えて言うなら、そういう下らないことを考えないこと B 鈴木大拙『禅』41~42頁「禅は、要するに、自己の存在の本性を見ぬく術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す。(略)それはわれわれの心に生まれつきそなわっている想像と慈悲の衝動を、すべて思うままに働かせることである。一般に、われわれはこの事実、すなわち、われわれは自分を幸福にし、たがいに愛し合って生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえているのだという事実に、気がつかないでいる。 C 石井清純『禅問答入門』22頁 「禅宗系の諸派に共通しているのは、まず、現実にあるすべての事象に真理を見る、という徹底…

  • 【参考資料】不立文字のプラクティカルな根拠

    1 P.F.ドラッカー(上村惇夫訳)『【エッセンシャル版】マネジメント 基礎と原則』「われわれは期待しているものだけを知覚する。期待しているものを見、期待しているものを聞く、コミュニケーションに関する文献のおおっ雲、期待していないものは反発を受け、その反発がコミュニケーションの障害になるとしている。だが反発は、さして重要ではない。重要なのは、期待していないものは受つけられることさえないということである。見えもしなければ、聞こえもしない。無視される。あるいはまちがって見られ、まちがって聞かれる。期待していたものと同じと思われる。」(159頁)「コミュニケーションは受け手に何かを要求する。(略) …

  • 「出家の不幸」と「禅天魔」

    お世話になっている在家禅団体の久参の方から、禅の修行を続けているうちに、忙しくなり、あるとき奥さん(仕事をしている)から、「家庭と修行道場とどちらが大切なの!?」と追及され、大喧嘩になったことがあるという話を聞かされました。 坐禅だけではなく、公案の独参というマニアックなことをしている団体であり、既婚者であり、かつ、現役世代の会員は、ほとんどみんな団体の活動と家庭との両立に苦労しています。 しかし、少しおかしくはないかな、と思っています。 先日、久参の方と話していたときには「禅の修行により人格が向上するはずなのだから、禅の修行をしていれば、人格が向上する結果、家族関係もよくならなければ、おかし…

  • 浄土門から見た禅修行の目的地

    「念仏は、まことに浄土(じようど)にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄(じごく)におつべき業(ごう)にてやはんべるらん。総(そう)じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人(ほうねんしようにん)にすかされまいらせて、念仏して地獄(じごく)におちたりとも、さらに後悔(こうかい)すべからずそうろう。」(歎異抄第二条) 禅の実践に取り組むようになってから、よかったなと思うことの一つは、浄土思想の良さがわかったことです。 「念仏して地獄(じごく)におちたりとも、さらに後悔(こうかい)すべからず」 というのは、禅の実践をしている者にとってはシビれるものがあります。 以前は、「南無阿弥陀仏」という…

  • 言語と現実

    現実を言葉にすると、現実から来る不安が解消される。 非現実を言葉にすると、妄想から不安が生じる。 最近、こんなことを考えます。 以前、プラユキ・ナラテボー師の瞑想会に出席したとき、日常生活で生じることについて、ラベリングをすることにより、心を落ち着かせる手法を教えていただいたことがありました。 私は、その前に、禅の実践をしていました。 禅の世界では、「問題」と一体化することが重視されます。 「問題」は、それが自己と離れた対象として存在するから「問題」になります。 しかし、「問題」と一体化してしまえば、対象となる「問題」がなくなるということになります。 「問題」に対し、正解を出すことではなく、「…

  • 慈悲、そして、言語=形而上学の否定

    「仏教は慈悲を以て主旨とする」(釈宗演『一字不説』2頁) 偶然、釈宗演老師が、肥前鹿児島仏教会でなさった法話をまとめた『一字不説』に目を通したところ、いきなり目に入ったのが、冒頭引用のフレーズでした。 当り前といえば当り前、凡庸といえば凡庸。 でも、禅やテーラワーダなどといった「悟り」や「見性」などといった一定の心理状態の獲得を目指す仏道の「実践」をしている人たちの間で、どうも忘れられがちな言葉ではないかと思われることから、却って、胸に響きます。 「慈悲」 私たちは、これを実際にやるために、仏道の実践をするのです。 「主旨」とはそういうことです。 鈴木大拙先生が次のようにおっしゃるのは、これを…

カテゴリー一覧
商用