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  • 在家禅を辞めた理由とその周辺

    本稿の構成 1 はじめに 2 入会まで 3 退会の直接のきっかけ 4 勧誘活動 5 会員の実際 6 公案 7 最後に 1 はじめに 一時期、伊吹敦先生の『禅の歴史』にも出て来る在家禅の団体に入っていました。組織のあり方に対する疑問や私自身の禅に対する捉え方の変化などから、辞めました。これまでも、時々、ブログの中で触れることもありましたが、この種の団体の実態を知ることも、何らかの参考になるかと思い、これまで触れた内容とも重複するところもあり、思いつくまま、書いてみました。ちなみに、このブログのことや、書いている人間が誰かということは、元々所属していた団体の関係者にも知られているものと思われ、後々…

  • オウム真理教事件と伝統仏教

    1 はじめに 二十代の頃に地下鉄サリン事件が起きました。大学の近くにオウム真理教の施設があり、機動隊が捜索に入る様子を不謹慎ながら見物し、本当にカナリア(微量の毒ガスの成分で死ぬことから一種の毒ガス検知器になるのです)の入った鳥かごを持っていたことに感動(?)した記憶があります。当時、一部のマスコミに、なぜ、伝統仏教教団がオウム真理教に対する批判をしないのかとの議論がありました。オウム真理教に対する「仏教」的な側面からの批判で目立ったのは「諸君!」や「宝島30」(現在はいずれも休刊していることも何かの因縁でしょうか)に寄稿をしていた山口瑞鳳東大名誉教授くらいだったと記憶しています。大変恐縮です…

  • 【参考資料】禅における『教義の否定』

    梁の武帝、達磨大師に問う、「如何なるか是れ聖諦第一義?」 磨云く、「廓然無聖」 帝曰く、「朕に対する者は誰ぞ?」 磨云く、「不識」 ――碧巌録第一則 禅は、多様な運動であり、それを統一的な観点から説明することには無理がありますが、私は、「教義の否定」という潮流を支持しています。「人間の認識能力には限界があり、何が正しい教義なのかわからないから、無いものとして生きるしかない」からです。 禅における「教義の否定」については、臨済録等では、「概念の人為性=虚構性」から導き出していますが、そもそも人間の認識能力の限界から導き出されてしまうことがより根源的であると思います。達磨伝に出て来る『廓然無聖』や…

  • 「哲学的な問題」について考えていたことと禅思想

    私が「禅思想」に興味を持ち、色々な本を読み囓っている理由には、私が、十代から二十代に入る頃までに考えていたことに沿う面が多かったこともあります。やはり、自分を支持してくれるものは好ましいという自己愛から逃れることは難しいのでしょう。同じようなことを考えている人がいれば、お互い勇気づけられることになるので、備忘も兼ねて書くことにしようと思います。 1 誰しも十代くらいの頃、哲学的な問題を考えることがあると思います。私も同じでした。おそらく本職の哲学者の方から見れば、稚拙なもので、哲学未満のものでしょう。だから、哲学そのものではなく、「哲学的な問題」。今でも考えることがありますが、趣味的、あるいは…

  • 統合失調症と悟り体験

    【要旨】この記事は、要旨坐禅によるうつ傾向の解消等の主要な効果は、呼吸回数の減少を緒とする扁桃体の活動の低下によりもたらされると考えられるが、扁桃体の活動の過剰な低下は、統合失調症における自我意識障害及び誇大妄想に類いする症状をもたらし、これが「自他不二の体認」などと呼ばれる白隠禅的な意味での悟りの体験であると解釈されていると思われることを記述したものです。【構成】1 臨済禅(白隠禅)等における「悟り」体験(1)臨済禅=白隠禅=「悟り」体験を求める禅(2)白隠禅における「悟り」の内実(3)白隠禅以外における「悟り」体験2 扁桃体の活動の過剰な低下と悟り体験との関係性(1)坐禅のプラス面における…

  • 二者間の意志疎通による自己の探究――河合隼雄『心理療法序説』を読む(その2)

    本稿も『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』からの引用は頁数のみにとどめます。【前回の記事】 ○死と再生――河合隼雄『心理療法序説』を読む(その1) - 坐禅普及 ○自己の探究禅の目的として、「真の自己の探究」が挙げられます。(注1)心理療法においても、同様のことが言われています。 「われわれの目指しているところは、与えられた環境のなかでクライエント自身がいかに《自分の生きる道を自主的に見出してゆく》か、それを援助しようとしているのである。」(137頁)「ユングの言っている『個性化の過程』ということは参考になるだろう。まず、この世に生きてゆくために必要な強さをもつ自我をつくりあげ、その自我…

  • 死と再生――河合隼雄『心理療法序説』を読む(その1)

    新しい本ではありませんが、最近、河合隼雄先生の『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』を読みました。河合隼雄先生のお話しは、別の方の本などで目にしたことはあり、仏教に対する造指が深いことは知っていたのですが、きちんと読んだことはありませんでした。目を通して、禅の捉え方と類似する面を感じると同時に、微妙(あるいは大きな)相違点も感じました。禅との類似点としてあげられるのは大きくわけると、次のものになるのかなと思います。・ 死と再生 ・ 自己の探究 ・ 二者間のコミュニケーション ・ 実践の永久性以下備忘も兼ねて整理します。なお、『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』からの引用は頁数のみにと…

  • 【参考資料】不安なままでいいじゃないか

    禅の目的の一つは、安心立命であるとされます。 「古来の常套の語(ことば)を以っていえば、安心を得るのが仏教の目的である。(略)安心とは、心を一定不動の處に安住せしむるの意で、謂ゆる宗教の力に依って、不動の信念を確立するということである。古来禅門で悟ったと云い、又本来面目に相見したなどというは、要するに皆な安心を得たと云うことである。」(秋野孝道『此処に道あり』15頁) しかし、ここでいう「安心」が、静的状況であると捉えると間違えます。諸行無常であり、あらゆるものが変化するのですから、静的状況はあり得ません。不安定な状況なのですから、静的な安心を求めるということ自体が間違っているのです。禅では、…

  • 【参考資料】瞑想の副作用(第2版)

    (1)大谷彰『マインドフルネス入門講義』195~196頁 「マインドフルネス実践中にトラウマの自然除反応が発生することからも明らかなように、臨床マインドフルネスでも治療の差し障りとなる反応が生じることは早くから知られています(略)。マインドフルネスに伴う弊害をテーマにした論文(略)には、自然除反応や意識変容をはじめ、リラクゼーションに伴う不安とパニック、緊張感、生活モチベーション低下、退屈、疼痛、困惑、狼狽、漠然感、意気消沈、消極感亢進、批判感情、『マインドフルネス』依存、身体違和感、軽い解離感、高慢、脆弱性、罪悪感といった広範囲にわたる項目が記載されています。このリストから臨床マインドフルネ…

  • 摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(その4)

    岡田尊司先生の『マインドコントロール 増補改訂版』の内容を踏まえ、マインドフルネスの世界でも、問題が語られている摂心会やリトリートなどと呼ばれる合宿形式の坐禅会・瞑想会について検討する記事の4回目です。【これまでの記事】 ○摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(その1) (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/30/160712) ○摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(その2) (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/09/01/083035) ○摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(その…

  • 【参考資料】師弟関係(第2版)

    (1)酒井得元『沢木興道聞き書き ある禅僧の生涯』「証道歌にも『紅梅に遊び、山川を渉り、師を尋ね、道を訪うて参禅をなす』とあるように、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、自分の教えを受けるべき正師を求めて歩いたもので、これを遍参(へんざん)というのである。(略)むかしは面白い。師匠を見て歩くのである。ひと晩泊まって、ただ飯を食わせてもらい、翌朝、朝参といって師家に面会して、お茶をよばれ、二言、三言話をして、ははあ、これはいかぬと思ったら、どんどん出発してしまう。これはよいなと思ったら、いつまでもそこにとどまる。それが雲水行脚、すなわち遍参の意味である。つまり雲水とは、行雲流水の如く師を尋ね、道を…

  • 小さな自分という救い

    「あらゆる生命と意味を宇宙のなかの何らかの地点に位置づけることにすると、人生の意味は、すっかり縮減されて、いわば何らかひとかどのものだと自惚れた蟻の幻想であることになってしまいます。私たちは、ほかでもない自らの生存への利害関心ゆえに自分自身を特別視していて、人間とその生活世界とを何か特別なもののように考える傲慢な幻想にふけっているにすぎない。宇宙から眺めてみれば、そんなふうに見えることでしょう。わたしたちが何をどう感じているかなど、宇宙のなかで中心的な役割を演じていません。久しい以前に消滅してしまった銀河――その光が今ちょうどわたしたちに届いている――にしてみれば、今朝わたしが朝食をとったかど…

  • 死を恐れる

    20代の頃、一度だけ仕事をサボったことがあります。職場の建物前まで来たところで、職場に電話をかけて、その日の予定を全てキャンセルするようにお願いしました。その後、方々をフラフラと歩き回りした。最後、20階ほどの高さのマンションの最上階まで上りました。逡巡しながら廊下を徘徊しました。 幸いなことに、当時の私は、根性なしでした。どこかで、引き留められたいと思っていたのでしょう。携帯電話の電源は入れたままでした。職場やら、妻やらの電話が入りました。 最後は、情けない顔をして、自宅に戻った後、職場の上司、先輩、同僚らに頭を下げて回りました。 振り返ると、あのとき、本当に根性がなくてよかったと思います。…

  • 死を楽しみにする

    「困難なときに坐禅をしたことがない人は、禅を学ぶ者とはいえません。ほかのどんな行為も、あなたの苦しみを和らげることはできません。ほかのどんな姿勢も、自分の困難を受け入れる力を持たないのです。しかし、長い、困難な修行で確立した坐禅の姿勢によって、あなたの心と身体は、好き、嫌い、よい、悪いなしに、あるがままに受け入れる偉大な力を持つのです。」(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』71~72頁) 禅書を読みかじるようになり、苦しいことを受け入れることが大切だというアイディアをもらってから、日常生活の嫌なことが楽しみになるようになりました。 以前なら、ストレスに負けて大声を出したり、何もやる気…

  • 摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(3)

    前回の記事は次のとおり○摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(2) (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/09/01/083035)これまで、岡田尊司先生の著書『マインド・コントロール』における、マインド・コントロールの五つの原理のうち、第一の原理(情報入力を制限する、または過剰にする)と第二の原理(脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う)の二つに触れながら、摂心会やリトリートなどの合宿形式の坐禅会、瞑想会の問題点について取り上げました。先の二つの原理が、それまであった自我の解体を目指すことに対し、これから触れる原理は、一見、よいもののよう…

  • 曹洞禅とマインドフルネス

    私は、坐禅から瞑想の世界に興味を持ち、最初は数息観から入りましたが、曹洞禅の「只管打坐」に納得のいくものを感じて実践をするようになりました。只管打坐をするようになって半年ほど経ってから、マインドフルネスに関する専門書を集中的に読んでいたときがありました。その中で、只管打坐とマインドフルネスとが相違するものではないかと感じたのですが、最近になって、両者は統一的に捉えることができるのではないかと思うようになりました。 《曹洞禅=只管打坐の魅力》坐禅等の(座る)瞑想の方法には、その瞑想の際の「心の持ち方」により、大きな相違があり、数息観は、数を数えること(1から10までを数えるように指導されることが…

  • 坐禅は無功徳

    「瞑想部屋などがあるんですか?」 以前ある方から受けた質問です。私が、一時期、禅の修行団体に所属していたり、色々な瞑想会に参加するなどマニアックな活動をしていたほか、長広舌を振うものですから、自宅でも相当マニアックにやっているのだろうなと思われたのだと思います。サラリーマンで、富裕層というわけではありませんし、妻子もおりますから、そんな特別な部屋などはありません。しかも、子だくさんなものですから、「自分の部屋」自体がない。家族がテレビなどを見るリビングで坐禅をします。子供らがドラマやアニメを見ている横で坐禅をすることもよくあります。時間の計測はスマートフォンのタイマー機能を使っています。 自宅…

  • 摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(2)

    前回の記事は次のとおり○摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(1) (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/30/160712)岡田尊司先生は、『マインド・コントロール』の中で、マインド・コントロールの方法論を五つの原理に分けて整理されます。(216頁以下)。 第一の原理:情報入力を制限する、または過剰にする第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う第三の原理:確信をもって救済や不朽の意味を約束する第四の原理:人は愛されることを望み、裏切られることを恐れる第五の原理:自己判断を許さず、依存状態に置き続ける 前回の記事では、「第一…

  • 【参考資料】仏教者と家族

    1 加藤耕山発言。秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山加藤耕山老師随聞記』146頁「修行というものは実人生、実生活の中にある。わざわざ衣をきんでも修行はできる。急いで茶畑に入るものではない。(略)富士山に登るのに、荷物をしょって登るのと荷物なしで登るのとでは、荷物がない方が楽だよ。けどもね、荷物をしょった者が登るところにまた深い意味があるのだよ。あんたが妻子を捨てて此処にくるというと、わしも家内と別れなければならんがねえ」 2 岩倉政治の鈴木大拙夫妻評。秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』192~194頁*大拙先生は在家ですが、その力量は出家といってもよいかと思います。 「ビアトリス夫…

  • 摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(1)

    1 はじめに マインドフルネスが臨床の場で成果を出すに従い、その問題点も次第に明らかになってきました。このことは、これまでも本ブログで何回か扱ってきました。【参考】 ○【参考資料】瞑想の副作用 (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/07/31/224009) ○扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2) (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455) ○魔境(1)――坐禅の生理学的効果(10)(補訂板) (https://zazenfukyu.hatena…

  • 私は幸せなのか?

    〈ある日のこと〉しばらく前に、瞑想をやる先輩と食事をしに行ったときのこと。先輩に静かに話を聴いていただいていることに調子に乗り、長広舌を振い、一息ついたところで、先輩から一言。 「今、幸せですか?」 そのように聞かれて一瞬言葉に詰まりました。おそらく一年ほど前の私であれば、躊躇無く「幸せです」と答えたでしょう。しかし、そのときは、言葉に詰まり、何を答えたらよいものかと思いました。以前とは気持ちに違いが出てきていることに自分でも驚きました。先輩からの質問ばかりが印象に残り、それに対して、どう答えたかは覚えておりません。 〈幸福であると解釈する〉現在の自分に自足することが大切ですから、幸福であると…

  • なぜ、苦行ではダメなのか

    「よく世間でも『坐禅が健康にいい』などと言うけれども、私ももう長いこと坐ってきましたが、一つの限界を感じたのはやっぱり五〇歳ですね。それまでは、気力で克服してきました。接心というものを一週間ぐらいやりますからね。ですが、五〇歳を超えてからは何だか疲れてしまうし、私は幸い『膝が痛い』ということは一回もないのですが、他の人はけっこう膝の痛みが問題になったりします。(略)道元禅師の言葉で、坐禅は『安楽の法門』と言われるでしょう。恐らく、もっと古くからそんな言葉があるでしょう。でも、一つ気がついたのは、道元禅師は五三歳でなくなっているのですね。私はちょうど今年で五五歳ですから、一昨年ぐらいに亡くなって…

  • 禅と全体主義――「戦争と禅と日本国憲法」追補

    先に「戦争と禅と日本国憲法」の記事を投稿しましたが、これをきっかけに、近代史をテーマにした本を読もうという気になりました。【参考】 戦争と禅と日本国憲法 (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/15/155159?_ga=2.164096447.1644684262.1598074946-961353732.1597260876)近代史、特に、満洲事変から太平洋戦争にかけての歴史に関する本を集中的に読んだのは今から3年度ほど前で、久しぶりのことです。ブログにも少し書いた太平洋戦争の開戦の要因の一つには、海軍における予算確保もあったのでは…

  • 仏教と家族

    1 生殖禁止の異常性日本では、明治期以降、僧侶が配偶者を持つことができるようになってから、僧侶が堕落したということがよく言われます。原始仏教の特徴は「生殖の否定」と「労働の否定」であると指摘されることなどからすると、必ずしも的外れといえないところもあります。 「ゴータマ・ブッダの教説は、その目的を達成しようとする者に『労働と生殖の放棄』を要求するものである」(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』35頁) 特に、生殖の否定は徹底的なものであるとされます。 「ゴータマ・ブッダの仏教では、異性に対するおよそあらゆる欲望や思慕の情が、徹底的に否定される。」(魚川前掲書28頁) 仏教は、…

  • テーラワーダにおけるカースト制の許容ほか――上座仏教の基礎知識(2)

    上座仏教の基礎知識の2回目です。 1回目は次のとおり。現代テーラワーダは新宗教ほか――上座仏教の基礎知識(1) (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/18/040541?_ga=2.222862173.777479059.1597954280-961353732.1597260876)5 テーラワーダにおけるカースト制の許容インドにおけるカースト制に対しては、釈尊は、これを否定したという趣旨のことがよくいわれますが、上座仏教(テーラワーダ)の歴史を見ていくと、実際には、カースト制を許容していたことがわかります。たとえば、王がある一定の…

  • 現代テーラワーダは新宗教ほか――上座仏教の基礎知識(1)

    禅と並ぶ坐禅等の瞑想の実践のもう一つの雄が上座仏教(テーラワーダ)です。科学的なエビデンスの揃ってきたマインドフルネスの基礎となったり、釈尊の直説に近いといわれるなど注目されています。禅との相違点を意識しながら、その基礎知識に触れて行きます。 1 悟りの概念の相違 禅と上座仏教との最大の相違が「悟り」の概念の相違です。禅では、「自他不二の体認」などといわれます。これに対し、上座仏教では、「貪瞋痴の滅尽」とされます。 「経典において、『悟り』の境地(略)は、『貪欲の壊滅(略)、瞋恚(しんい)の壊滅(略)、愚痴の壊滅(略)』と定義されるのが常である。」(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」と…

  • 戦争と禅と日本国憲法

    せ:戦争と禅と日本国憲法1 個人的なこと 前置きに少し個人的なことを書きます。私は、1970年代生まれですが、父が歳をくってからできた子どもであり、父は、一兵卒(二等兵か上等兵のいずれかですが詳しくは知りません)としてニューギニアで終戦を迎えました。ニューギニア戦は、ガダルカナル島攻防戦において、約3万5000人を投入したものの、約2万4000人が戦死(うち約1万5000人が餓死とされます)して敗走したこと(保坂正康『あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書』114頁)を、大本営が「転進」と称して発表した後に起こりました。 「大事なのは、どこに戦いを求めて転進したのかです。陸海両総長(参…

  • 唐代南宗禅

    日本の禅宗というと、臨済宗でも、曹洞宗でも、坐禅が行として重視されます。しかし、禅の世界で坐禅が絶対視されるかというとそうでもありません。【参考】 【参考資料】坐禅修行の非本質性 (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/03/14/223339)特に、臨済宗や曹洞宗で重視される禅匠の語録の多くでベースとなっている唐代の南宗禅における馬祖道一から臨済義玄の法系においては、坐禅が重視されていなかったことは面白いことであると思われるので、ご紹介しておこうと思います。 1 唐代の南宗禅と白隠禅との相違 白隠禅をさかのぼると、中国の唐代の南宗禅、すなわ…

  • 本ブログの記事に対する質問ついて

    1 おねがい 本ブログの記事に対する質問ですが、各記事のコメントとして入力して、お寄せいただければと思います。本ブログのコメントは、私が承認することによって公開されることになっていいますが、誰でも入力できるようになっています。質問への回答は、余程短文で答えられるものでなければ、ブログの記事として、書く形にしようと思います。これまでの経験から前提となる知識や考え方の説明に相当程度要する場合が多いので。したがって、真面目な質問に対しては、きちんと回答をしたいと思いますが、回答が相当程度遅れることも多くなるのではと思います。また、質問のコメントを記入される際には、コメントとして公開することの可否も記…

  • 魔境(2)――坐禅の生理学的効果(11)

    魔境(1)――坐禅の生理学的効果(10) の続きです。 (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/09/023521?_ga=2.90687452.736804194.1596843559-541515618.1562325655)5 「禅ブーム」の終焉と日本仏教における坐禅否定の系譜(1)「禅ブーム」とその終焉 禅宗史を繙くと、明治期に禅の流行していたことがわかります。 「この時代(明治期)には、激動する時代の中で心を平静に保つことが求められ、また、今北洪川や由利宜牧らが在家に対して積極的に指導を行ったこともあって、各界の名士の間で参禅…

  • 魔境(1)ーー坐禅の生理学的効果(10)(補訂板)

    ※本稿は投稿者の記事の管理の不充分さから 冒頭部にかつての投稿と相当程度重複する点があるまま 2020年8月8日投稿いたしました。【参考】「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」 https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455?_ga=2.23411774.589133550.1595447636-541515618.1562325655前記記事をご覧になった方は3項からご覧下さい。 (2020年8月9日追記) 1 魔境の概要 坐禅の際には、特異な精神的体験が生じる場合のあることが知られており、「魔境」と呼…

  • 「調心」その問題性(4)――坐禅の生理学的効果(9)

    「『調心』その問題性」の4回目です。1回目 (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/31/225412?_ga=2.85241881.1854571952.1596114502-541515618.1562325655)2回目 (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/02/095441?_ga=2.129886735.2022437078.1596571852-541515618.1562325655)3回目 (https://zazenfukyu.hatenablog.com/…

  • 「調心」その問題性(3)――坐禅の生理学的効果(8)

    「『調心』その問題性」の3回目です。1回目 (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/31/225412?_ga=2.85241881.1854571952.1596114502-541515618.1562325655)2回目 (https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/02/095441?_ga=2.129886735.2022437078.1596571852-541515618.1562325655) 4 雑念をなくし、集中することを目指すことの問題性 (1)雑念をなくすことを…

  • 「調心」の問題性(2)――坐禅の生理学的効果(7)

    「「調心」の問題性(1)――坐禅の生理学的効果(6)」から引き続いて、調心に関する知識に触れて行きたいと思います。前稿(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/31/225412?_ga=2.85241881.1854571952.1596114502-541515618.1562325655) 2 「瞑想病人」問題 マインドフルネスが広まり、臨床分野でも実践されるに従い、瞑想には、メリットばかりではなく、デメリットがあることもわかってきました。 「イギリスのオックスフォード・マインドフルネス・センターの2016年10月号の機関紙にはルー…

  • 自我の大切さ(第2版)

    1 自我の否定で本当によいのか? 仏教の世界には、「自我」を否定するようなに思われる夥しい数の言説があります。確かに、私たちの不幸の大きな原因には、自己の幸福を実現しようとすることによって、他者との平等な関係が崩れてしまうことがあり、「自我」に対しては、警戒しなければならないように思います。【参考】「文明の発展と仏教の起源」 https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/06/09/213324?_ga=2.157753274.1854571952.1596114502-541515618.1562325655しかし、私自身、短い間でしたが、禅の修行…

  • 「調心」その問題性(1)――坐禅の生理学的効果(6)

    坐禅の構成要素は、「調息」、「調身」、「調心」といわれますが、「坐禅の生理学的効果」の記事では、(1)から(4)までで「調息」を、(5)で「調身」を取り挙げました。 (6)では「調心」を取り挙げようと思います。いわゆる「調息」の問題に関し、これまで次のようなテーマに触れてきました。「扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」 https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/12/200328?_ga=2.85793821.589133550.1595447636-541515618.1562325655「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅…

  • 姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等――坐禅の生理学的効果(5)

    坐禅の生理学的効果に関し、これまでは、いわゆる「調息」の問題について、次のようなテーマで触れてきました。「扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」 https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/12/200328?_ga=2.85793821.589133550.1595447636-541515618.1562325655「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」 https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455?_ga=2.23411774.5891…

  • 【参考資料】「苦」ですけれど、何か?

    「すべてが無常であることに、疑いはない――だからといって、思い煩うことがあるだろうか?」(リチャード・ゴンブリッチ(浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』390頁) 四連休に、積ん読状態だったリチャード・ゴンブリッチの『ブッダの考えたこと』を読了いたしました。どちらかというと、原始仏教や上座仏教に近い考え方を整理した本なのですが、冒頭に引用した言葉が禅的で気持ちよく感じました。苦を断滅しようというのが上座仏教なら、苦を受け入れてやろうというのが禅ですね。鈴木俊隆老師の『禅マインド ビギナーズ・マインド』は名著ですが、私が一気にもっていかれたのが、こちら。 「私が死ぬとき、死に行く瞬間、私が苦しんだ…

  • 呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(4)

    坐禅の生理学的な効果として、既に呼吸回数の減少による「扁桃体活動の低下」と「オキシトシンの分泌」について触れました。 「扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」 https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/12/200328?_ga=2.85793821.589133550.1595447636-541515618.1562325655「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」 https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455?_ga=2.234117…

  • 応病与薬の方便(2)

    2 現実的効果の重視 仏教を病に対する薬であると捉えると、病を現実的に治癒することができるかどうかが仏教の教義やその実践において重要な視点ということになります。仏教は、その歴史の中で多様に変容してきましたが、原始的な段階においても、このようなプラグマティックな視点が重視されていました。 「ブッダは、彼の教師としての目標が完全にプラグマティック〔実用主義的〕なものであることを、何度も繰り返し強調した。信者たちは、ブッダを偉大な医師と捉えるようになった――ダンマは彼が処方した薬であり、サンガはその投与を天職とする看護師たちである。このような解釈を支持する正典上の根拠は無いが、四聖諦の定式化が、当時…

  • オキシトシンの分泌――坐禅の生理学的効果(3)

    1 オキシトシンとは?オキシトシンは、マスコミでは、「幸せホルモン」、「愛情ホルモン」などと呼ばれて注目されている物質です。その効果については、次のようなことが言われています。 「一般にオキシトシンは良好な人間関係を築いているときに分泌されます。動物実験では、オキシトシンは闘争欲や遁走欲をほぐし、恐怖への感受性を減らすことが知られています。」(池谷裕二『脳には妙なクセがある』64頁)*東京大学大学院薬学研究科教授「私は以前から脳のセロトニン神経の活性化によって、ストレスを受け流すことができるようになり、安定した心になるということを書いてきました。さらに最近注目されているのは、オキシトシンという…

  • 仏教を学ぶということ

    ある方に「私は禅や仏教を勉強しています」とお話ししたところ、その方から、とある臨済宗の釈宗演老師の系統であるとされる師家の方が「知識に偏ると見性から離れる」という話をされたという指摘を受けました。私自身は、そのお話自体が見性に拘ったものであり、それなら、本来的に、仏教の知識もいらなければ、見性もいらない、そのために行う、坐禅も、公案の独参もいらないという方が徹底するように思われました。そもそも、それなら、世の中にある仏教の書籍は存在しない方がよく、いろいろな団体が仏教に関する講演を開催していますが、このようなものは存在しない方がよいということになるのでしょうか。とはいえ、見性等の特殊な体験を目…

  • 応病与薬の方便(1)

    私は、次の言葉が仏教の教義とその実践の本質を、よく言い表したものだと思っています。 「『浄土宗』と申しますと、ややもすると、死後のことばかり言う、死後往生、死後往生という、そんなことを言って何になるのだというおしかりを受けることがありますが、実際死後のことは何も言っておりません。死ぬまでのことが大切なのです。いまから死ぬまでのことがいかなるあり方が正しい往生かわれわれはどうやっていくかということが示されているわけで、死後のことは絶対約束せられておりますのでそういうことは一切、私たちは関係しなくていいわけです。実際、浄土宗の教えは『現実宗』といっていいという心を常に私はもっております。」(深見慈…

  • 扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)

    前回の記事で取り上げたとおり、坐禅によるプラス面の生理学的効果の主要なものは、扁桃体の過剰な活動を低下させ、うつ傾向や不安傾向を解消することにあるものと思われます。しかし、扁桃体の活動の低下には次に述べるとおり弊害もあり、扁桃体の活動を低下させればさせるほどよいというものではないように思われます。1 危険を察知する能力の低下扁桃体は、自己防衛機能ですから、これを除去した場合、危険の判断ができなくなることが知られているそうで、扁桃体の活動が過度に低下すると、危険を察知する能力などが低下することが懸念されます。 「左側の扁桃体を除去した結果、リンダは恐怖の回路の核を失うことになった。(略)リンダは…

  • 扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)

    1 扁桃体とは? 坐禅のときのようにゆっくりとした呼吸をすると、血中二酸化炭素濃度が上昇し、セロトニンが分泌され、その結果、うつや不安感が解消、軽減することが判明しているとされています。 これが坐禅の効果のうち、有益な効果の主要なものではないかと思っています。 扁桃体については、ネット上に無料で読める専門的研究者による文献が多数ありますが、これに関するドキュメンタリーを担当したNHKのディレクター氏の講演の発言が非常によくまとまっており、長文になりますが、引用します。 山本高穂「脳の進化から探るうつ病の起源」『第11回 日本うつ病学会市民公開講座・脳プロ公開シンポジウム in HIROSHIM…

  • 雑念あってよし(第2版)

    ◯雑念がでてきて困る座禅会に参加すると、座禅のときに、「雑念がなかなか収まらなくて、困る」という人がよくいます。座禅は雑念や煩悩を絶つものだ、と思っていることから、「雑念が出て来るのは困ることだ」と思ってしまうのかな、と思います。しかし、仏教は、私たちを生きづらくしてしまっている私たち自身の思い込みから自由になることを狙いの一つとしています。ですから、「雑念が出て来るのは困ることだ」ということも疑ってみる必要があると思うのです。 ◯座禅に何を求めるか?人生に答えはなく、座禅も人生の一部ですから、人生と同様、その人その人が自分なりに「これでよし!」と思ったやり方でやればよいと思っています。同時に…

  • 【マニア向け参考資料】圜悟克勤と大慧宗杲の「悟り」

    「現在の日本の臨済禅は主として白隠禅である」 (鎌田茂雄「禅思想の形成と展開」『禅研究所紀要第2号』72頁) とされます。 かつては、他の流派もあったようですが、それらはほぼ途絶えてしまったようです。 「白隠下が台頭するにいたると、衰退しはじめ、明治・大正・昭和という近代にはいると、その伝燈もほとんどが断法してしまい、白隠禅のみが、臨済禅であると言うような、ただ一派のみの法系のみが栄えていったのである」(鈴木省訓「古月下の動向」『印度學佛教學研究第三十六巻第一號』84頁) 白隠禅の特徴は何かといえば、「見性体験の一事に尽きる」とされます(柳田聖山『禅と日本文化』153頁)。 その手法は、宋代に…

  • 慈悲の実践方法

    1 はじめにこのブログを読んでいる方から、「現実の社会関係や家族関係の中での喜捨を含めた慈悲の実践の仕方」を知りたいとのお話がありました。どんな構成で説明したらよいかで少し悩みましたが、一番大切なことは、私たちの生きる根本のところに、「現実の世界を愛している」という気持ちがあって、その気持ちに素直になり、行動に現していくことではないかと思います。 「厭世家たちがいかに否定的に考えようとも、人生は、結局、何らかの形における肯定だからである。」 (鈴木大拙『禅』43頁) 「慈悲」というと、高邁にも感じますが、人間は元々群生動物なのですから、愛する気持ちを素直に日常生活の中で現わして行けばよいのであ…

  • 禅の「勉強」をしている人のための浄土真宗の簡単な解説

    よく禅は自力で、浄土教は他力であるなどと、両者が対立するかのようにいわれます。 しかし、力のある禅匠は、浄土真宗に対する理解が深いものです。 「素より法の上に二義の差別はない、けれども人根に利鈍の別あるが故に、釈尊は其根機に随って或は自力と説き或は他力と教えられた、華厳、阿含、法華、涅槃、八万四千の法門と云い、五千数十余の経巻と云うも、もと是れ応病与薬、随機開導である。故に自力を離れて他力なく、他力を離れて自力なし、自他は単に安心の堂奥に達する入口の門である。然るに此の門口に於て是非の論拠を逞しうし、清洒たる奥座敷のある事を知らぬと云うのが現今我邦に於ける宗派の状態であって、誠に困ったものであ…

  • 文明の発展と仏教の起源

    「あらゆる歴史家は、インドにおける都市化の第二期の初期において、仏教が興隆したことに同意している。(略)この都市化は、農産物の余剰生産に伴って生じたのに違いなく、社会と経済の根本的変化へと繋がった。比較的大きな都市(略)は、宮廷と貴族、および官僚階級を伴った都市国家へと発展した。余剰の農産物はさらなる規模の通称を促し、そのことがより遠方の諸社会との接触と、文化的地平の拡大をもたらした。交易商人たちは帳簿をつけ、王たちは法を施行した。(略) 仏教が、とりわけ交易商人のような新興の社会階級を惹きつけたことは、初期の文献と、少し下った時代に由来する考古学的史料の双方から、明らかである。」(リチャード…

  • 所有する不幸

    「平和はただ貧においてのみ可能である」 (鈴木大拙『禅』62頁) お付き合いのあった人との関係から、一時期、仏教系の宗教団体に所属していたことがありました。それまで宗教と関わることがなかったことから、それまで知ることのなかったいつかの苦い発見がありました。 その一つが、物を持つということが不幸の始まりにもなるということです。その宗教団体には、いくつかの施設がありました。以前は相当熱心な会員の方がいて、古くからいらっしゃる方の話によると、当時は、生命保険などを解約して、その施設の購入資金を捻出したということもあったようです。考えてみると、そのときからおそらく無理があったのかなと思います。 会員が…

  • 受容と活溌溌地

    「数年前、『ひとのいのちも、ものも、両手でいただきなさい』という言葉に出合いました。 誰が考えてもよいものを両手でいただくのには、何の抵抗もないでしょう。 しかし、自分がほしくない、拒否したい、突き返したいようなものが差し出された時、果して、それらを受けとめるだけでなく、両手でいただく心になれるだろうか。 聖書の中に、『神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。』とあります。(略) 何事もリハーサルしておくと、本番で落ちついていられるように、大きな死のリハーサルとして、“小さな死”を、生き…

  • 「衆生本来佛也」なら、なぜ、禅の修行をするのか?

    「以前、私が禅を修行しなくては、佛道の真実はわからないとだけ説いていた頃、郷里へ帰り親戚や友達の親しい人々をまじえた聴衆を相手に、説教をしましたら、年老いた従兄が、佛道のありがたいことはわかったが、私等にはそうした修行はとてもできない。本当のことはわからずに死ぬのかな、となげきました。私はこれが淋しくもあり、悲しくもありました。後に私はいま説くように、修行しなくても、本来佛心の中にいるのだから、死後も絶対安心してよいと、はっきり言い切る信念に達しました。」 (朝比奈宗源『佛心』39~40頁) 一つ前のブログにも、この言葉を取り上げました。 宗源老師のこの本は、1年程以上前に神田の古書店で求め、…

  • 佛心

    「佛教の成立の根本である悟りの境地を呼ぶ言葉は、佛性、法性、自性、法身、真如、涅槃などと非常に数が多く、佛心もその一つであります。(略) 私どもは、佛心の中に生まれ、佛心の中に生き、佛心の中に息を引き取るのでありまして、佛心からはずれて生きることも、佛心のほかに出ることも、できないのであります。たとえれば、私共は佛心という広い心の海に浮ぶ泡のようなもので、私共が生れたからといって佛心の海水が一滴増えるのでも、死んだからといって、佛心の海水が一滴へるのでもないのです。」 (朝比奈宗源『佛心』9~10頁)このように書き方は、私たちがスピリチュアルな世界に生きているようにも思わせます。 しかし、仏道…

  • 脳生理学的観点から見た坐禅と禅的人格との矛盾

    「新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から禅宗の坊さんにずいぶんと会いましたけれども、何人かをのぞき≪これは並以上に悪い人間じゃないか≫と思うことが多かったです。」(司馬遼太郎『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』65頁)禅は禅的人格を有する人を生み出すことを目的とするはずなのですが、禅の修行者に対するこの種の批判は、少なくありません。司馬遼太郎先生のような人格・見識のしっかりした方の発言は重みがあります。また、以前にも引用しましたが、禅修行をしていた方からも同様の批判があります。「禅は、徹底的に否定道を行くので、自己の煩悩を断じ、大智と大悲にめざめんとする。徹底した大悟の人においては、この大…

  • 問わない態度

    仏道の教義やその特有な実践は、応病与薬の方便であり、その時その場その人限りの親切にすぎません。とはいえ、語る言葉に一種の普遍性があるように見えなければ、接得はできませんから、発せられた言葉は、その時その場その人限りを超えて普遍性があるように思われてしまうときもあります。「禅をやるものが知らず知らずに落ち込む誤りの第一は、『自己』『無』『空』というようなものを、固定した存在と考え、そういう実体を妄想することだと思う」(大森曹玄『参禅入門』26~27頁) いつもながらの長い引用ですが、鈴木大拙先生が次のように話すのも同じです。「或時僧問う、 『四大五蘊身中、阿那箇是本来佛性。』 本来の仏性を、四大…

  • 初心

    「私が理解する仏教は『無条件に真理のようなものを提出することはできない』ということが根本にあります。だから『真理』とか『悟り』ということを無防備にいう人は信用できないんですよ。」 (南直哉発言。南直哉・島田裕巳「南直哉 坊主も知らない仏教の落とし穴【1】――対談:南 直哉×島田裕巳」https://president.jp/articles/amp/11377?page=3) こんな言い回しが好きです。 人間の認識能力には限界があります。 目の前に直面する世界には一定の法則性はありそうなので、「真理」というものは多分あるのでしょう。 けれども、自分が今、真理と思っていることが、未来永劫真理の位…

  • 【資料】碧巌録第三十七則『盤山三界無法』

    0 自家製の垂示「三界無法、何れの処にか心を求めん。」 これが本則です。 前段の「三界」とは、世界。 「法」は、世界の中の具体的な事物。 具体的な事物が「ない」ということ。 問題は、「ない」ということの意味です。 実際には、私たちの目の前には、具体的な事物がおびただしく存在します。 単純に「ない」ということですと、「仏法に不可思議なし」という根本命題に反します。 「仏法に不可思議なし」 あるのは思議する余地もなく、目の前に展開している圧倒的な現実だけです。 それを「看よ、看よ」です。 そこで「ない」の意味が問題となります。 仏道における「法」については、「仏教では『自分自身を保つもの』を、とり…

  • 碧巌録第三十七則『盤山三界無法』の垂示への時保老師の解説に対する解説の試み

    「大概の学人は正師家に一言半句を示さるゝと、腕を組み頭を傾け、七識八識の妄想分別を以て当てつ較べつするが、如何に当てつ較べつしても、玄の玄、妙の妙は、当てつ較べつすればするほど、種々様々の障碍が起り、円融無礙の境界に転々遠くなるのみ。(*1)――そのありさまを「殊不知髑髏前見鬼無数。」(訓読=殊に知らず髑髏前(どくろぜん)に鬼(き)を見ること無数なるを) 自己自身の妄想袋から、ありもせぬ幻想を無量無数に画き出し、而して驚いたり怒ったり、泣いたり悲しんだりして居る。――如是神経病者、到る処に多し。(*2)――然らば如何にして可ならん。 他なし、「不落意根不抱得失、」(訓読=意根に落ちず、得失を抱…

  • 禅の修行は「禅的人格」を生み出せるか。

    「禅堂生活は、空の真理が直覚的に把握せらるる時に終了すると考えられるばかりでなく、この真理が、あまたの試練・義務・紛争に満ちた実際生活のすべての方面において実証せらる時、そしてまた雨が悪者善者のわかちなくこれにひとしく降り注ぎ、あるいは趙州のの石橋が馬・驢・虎・豺(さい)・亀・兎・人間などのすべてのものを渡すと同じしかたにて、大慈悲(karuna)の心を生ずる時に、終了すると考えられる。これこそは人が地上において成就しうる最大の修養である。そしてこれを何人もよくなしうるものではない。しかしながら、われわれが全力を尽して菩薩の理想接近しようとするぶんには、何らの害はない。もし一生にして足らずとす…

  • 【資料】碧巌録第三十九則『雲門花薬欄』

    *多くの公案と同様、「衆生本来仏也」を示すものですが、「途中にあって家舎を離れず」の理解に関する点が興味深いものです。 1 表題 「雲門花薬欄」(宗演376頁、菅原1頁、井上400頁) 「雲門金毛獅子」(加藤245頁)2 垂示 (1)訓読 「垂示に云うく、途中受用底は、虎の山に靠(よ)るに似たり。世諦流布底は、猿の檻に在るが如し。仏性の義をを知らんと欲せば、(まさ)に時節因縁を観ずべし。百錬の精金を煆(きた)えんと欲せば、須(すべか)らく是れ作家の爐鞴(ろはい)なるべし。且(しばら)く道え大用現前底(たいようげぜんてい)、将に什麽(なん)としてか試験せん。」(宗演376頁) *鞴=ふいご (2…

  • 脳科学論から見た「煩悩即菩提」

    「美容に興味のある女性であれば、ボトックスをご存知でしょう。肌の老化を防ぐとされる魔法の物質です。 実際には、ボトックスは食中毒の原因として知られるボツリヌス菌の毒素です。この食中毒は、症状が軽微な場合は四肢の麻痺ですみますが、ひどい場合は呼吸ができず死に至ります。つまり、ボトックスは筋肉を弛緩させる作用があるのです。 この毒素を顔に注射すると、顔面筋の動きが鈍りです。だからシワができにくくなります。これが老化予防の原理です。表情が乏しくなるという欠点はありますが、美貌の劣化を恐れる富裕層や芸能界を中心に広く用いられています。 そんなボトックスの効果に関して、南カリフォルニア大学のニール博士が…

  • 瞑想の際に分泌されるオキシトシンの洗脳効果

    偶然、ブックオフで、池谷裕二先生の『脳には妙なクセがある』を見かけて購入したのですが、やはり、脳科学論は参考になります。単行本が2012年、今回買った新書版は2013年の出版だということで、なぜ、今まで知らなかったのか、と思います。坐禅のほか、仏道修行一般について、自分なりに問題意識をもっていたがことが、脳科学論でも裏づけられそうな記述がいくつかあり、興味深く読みました。坐禅でも、マインドフルネスでも、プラスの話ばかりが前面に出てくるようなところが問題なのではないかと思っています。 「一般にオキシトシンは良好な人間関係を築いているときに分泌されます。動物実験では、オキシトシンは闘争欲や遁走欲を…

  • 【参考資料】正念相続とは随処に主となることである

    禅に興味を持ってから、「正念相続」という言葉を耳にするようになりました。正直に白状すると、長いことその意味がはっきりつかめませんでした。禅関係の本や久参の方の話でよくでてくるのは、坐禅の時の状態を日常生活に及ぼすことであるということでしたが、それもピンと来ない。人によっては、歩行瞑想に明け暮れる感じの方もいますが、どうも不自然極まりない。日常生活からずれた仏道の実践が、日常生活を侵食し、仏道というより魔道という感じがしてなりませんでした。魔道が言いすぎなら、大乗仏教ではなく、上座仏教という感じと言ったらよいでしょうか。しばらく前に、秋月龍珉先生の本を読んでいるときに、西田幾多郎先生が、「正念相…

  • 応病与薬――月を差す指

    「『浄土宗』と申しますと、ややもすると、死後のことばかり言う、死後往生、死後往生という、そんなことを言って何になるのだというおしかりを受けることがありますが、実際死後のことは何も言っておりません。死ぬまでのことが大切なのです。いまから死ぬまでのことがいかなるあり方が正しい往生かわれわれはどうやっていくかということが示されているわけで、死後のことは絶対約束せられておりますのでそういうことは一切、私たちは関係しなくていいわけです。実際、浄土宗の教えは『現実宗』といっていいという心を常に私はもっております。」(〔深貝慈孝発言〕「第三回仏教福祉シンポジウム――祖師の教説と福祉思想――」『仏教福祉200…

  • 大智と大悲とが一致する実例

    「このハンバーグの下のパスタってかさ増しじゃん?」「まじ消費者舐(な)めてるわ~」。弁当の作り方について、女性が毒づきます。すると、別の女性が解説します。「これは“ガロニ”といって、時間が経つと出る油を吸ってベタベタになるのを防ぐの」「揚げ物の場合は揚げたてが熱すぎて容器が溶けるから、それを防ぐ為(ため)にあるよ」その様子を見ていた主人公。知識が教養があると、物事の理由がわかり、不満が減るーー。「勉強って大切なんだな」と、感心するのでした。(ハンバーグの下のパスタ「かさ増し」じゃなかった!マンガで話題に 「知識が人生を豊かにする」作者の思い https://headlines.yahoo.co…

  • 「ひじ、外に曲らず」ーー限界への畏敬

    「大拙には渡米直前の明治二九年一二月の臘八大摂心において、所謂見性体験があったと言われ、さらに渡米後、〈ひじ、外に曲らず〉という一句に出会うことでそれが徹底を見たと言われる。そのあたりの経緯を秋月が大拙にインタビューした際、大拙は、『〈ひじ、外に曲らず〉という一句を見て、ふと何か分かったような気がした。“うん、これで分かるわい。なあるほど、至極あたりまえのことなんだな。なんの造作もないことなんだ。そうだ、ひじは曲がらんでもよいわけだ、不自由(必然)が自由なんだ”と悟った。そのときの見解(けんげ)というか境地を、そのときなんでも毛筆で四、五枚のものに書いて、『妄想録』と題して日本に送って、雑誌に…

  • 修証一如

    「俳句の道に入ったからには、とにかく作ることから始まります。多く作り、多く反省して、自分を鍛える。これが唯一の方法であります。」(阿部筲人『俳句――四合目からの出発』5頁) 先日、一月半ぶりで、80歳過ぎの母に会いました。痴呆症の大きな要因の一つには、外出率の低下があるということで、一月に一度は、母と連れ立って、上野の美術館などを巡ったりするのですが、雑事や新型コロナウイルスによるプチパニックな状況が続いており、母に会って居りませんでした。感染に対する危惧もありましたが、気が滅入ると、抵抗力も落ちますし、こういう時だからこそ、独居の母の様子を把握する必要があると考え、備蓄の少なくなった貴重なマ…

  • 【参考資料】坐禅修行の非本質性

    先日、臨済宗系の勉強会に参加したところ、久参の方から、坐禅をしなくても、見性することはあるのかといった質問が講師の方に対してされる場面を目にしました。そもそも見性やら悟りやらにこだわるのもどうかと思うのですが、見性や悟りという観点からも、それらにこだわらず広く仏道という観点からも、坐禅にはこだわる必要がないということは教養としてあってもよいと思われます。私自身、坐禅から、相対の次元でよい効果が得られました。ですから、習慣的に続けています。けれども、あまり坐禅にこだわりすぎると、却って、妄想から離れ現実に向き合うことにつながる坐禅が、妄想の上塗りをすることになり本末転倒です。執着しないことは、坐…

  • 禅=現実=大拙の“something”

    「禅は、五官のはたらきも知的作用も道徳も無視しない。美しいものは美しく、善いものは善く、真なるものは真である。禅は、われわれが眼前の事物を評価するために普通下す判断に反対はしない。禅を形成するものは、これらの判断の一切に、更に禅が附け加へた『或もの』(サムシング)であり、この或るものをわれわれが悟つたとき、われわれは禅に生きるといふことができるのである。」(『禅による生活』鈴木大拙全集(旧版)第12巻の孫引き――ステファン・P・グレイス「【思想研究】鈴木大拙の現代仏教に対する批判」『国際禅研究2018年2月号』107頁) 誰しもあると思うのですが、物心のついてからのあるとき、この目の前に展開す…

  • 隠山派と卓州派との室内の相違

    「白隠の会下に四十余人の豪傑があったが、其中(そのうち)東嶺(とうれい)遂翁(すいおう)の二師が其(その)上足(じょうそく)であった。(略)遂翁の法嗣(ほっす)は、(略)春叢(しゅんそう)と云うので断絶してしまった。所が東嶺和尚の方脈は益々繁昌して、以て今日に至って居る。(略)そして師なる白隠の末の弟子に若年の峨山(がざん)と云うのがあったが、一日白隠が東嶺に向って、峨山は見込のある奴だから、今より汝の弟子として十分に修養させて呉れと、峨山に託された。(略)そして此峨山下に、頭の極緻密な卓州と、豪放不羈な隠山とが現れた。(略) 今の臨済宗は皆な此卓州隠山の両派の者計りで、卓州派でなければ、必ず…

  • 鈴木大拙の井上円了・仏教団体批判

    「禅はみずから仏教であることを標榜しているが、同時にその禅の見るところによれば、経論の中に述べられている仏教の教えといったものは、単にほご紙同然であって、つまるところ知性の汚物を拭い去るだけの役目しかなく、決してそれ以上とは見ないのである。(略・17頁)否定主義は確かに方法としては健全ではあるのだが、最高真理は一個の肯定であるのだ。だから、禅は哲学をもたないといったとき、また禅はあらゆる教理上の権威を否定し、いわゆる聖典の類をすべて塵芥同然に捨て去るといったとき、われわれは禅がまさにこの否定の作業を通じて、なにか絶対の肯定・永遠の断言を明示していることを忘れてはならぬのである。(略) では禅は…

  • 釈宗演老師の見ていたもの

    「わたしは宗演老師について一週間ばかりで見性(最初の公案が透ること)したですね。(略)入室(師匠の室に入って問答すること)すれば、公案はどんどん透る。それはゆるいもので、坐禅などは短いほうがいいと言って、三年ぐらいでどんどん上げてしまって、後は学問をやれ学問をやれというふうで、学問のできん者は目もかけんというようじゃった。(略)あんまり早悟りさしてくれるものだから、気にいらなかった。」(秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山加藤耕山老師随聞記』21頁) 釈宗演老師の本を色々読み散らかしているのですが、読んでいて思うことは、禅や仏教以外のものにも開かれた記述をしているものが多いことです。 特に…

  • 鈴木大拙『百醜千拙』を読む(その2・組織化の不幸)

    「人間の事はいつもこんな順序で興亡盛衰の後を遂うのだ。始めに力あり生命あり涙ある経験があった。此の経験で自分というものが光明を得た、或は救われた。此の恵みを他にも分ちたい、又自分でも意識の上で十分に味いたい。此の考えが経験を知的に組織せしめる。続いてこの経験を繰り返し得べき種々の準備が作られる、即ち説教が始められる、儀式が発明せられる、建築の様式が定まる、坐禅の法式や、口称の題目、憶念の対境など次第を追うてきめられていく。此の如き外的準備で当初の経験そのものを復活又は再現しようと云うのである。ところが是等の準備的様式が硬化してくる。様式そのものに不思議があるようになる。経験は忘れられる。方法即…

  • 慈悲の行じ方

    「最後に軽く触れたいのは、私が好んで日本仏教徒の『悪い癖』と言うことです。正直に言って、私はそれを聞くたびに、少し憤慨します。すなわち、利他の話をするときに日本の仏教徒が、ほとんど例外なしに、利他を教化と同一視するということです。そうすると、慈悲の範囲は霊的なものに限られてしまうわけです。仏教には一体人間の物体的ニーズに対する慈悲は存在していないのか。」(ヤンヴアンブラフト「仏教とキリスト教と田辺元先生」『群馬大学北軽井沢研修所2004年、8月、19日』9~10頁) 毎度ながらネットサーフィンをしていたら、この一文に触れました。 「日本の仏教徒が、ほとんど例外なしに、利他を教化と同一視する」 …

  • あるかどうかわからないことは、ないものとして行動するしかない

    「ゴーダマ・ブッダによると、当時の思想界で行われていた種々の哲学説、宗教説は、いずれも相対的、一方的であり、結局解決し得ない形而上学的問題について論争を行っているために、確執に陥り、真理を見失っているのです。(略)イエスともノーとも答えなかったことが、実は一つのはっきりした立場を表明しているのです。なぜ答えなかったかといいますと、これらの形而上学的な問題の論議は益のないことであり、真実の認識、正しいさとりをもたらさぬからであるというのです。 かれは種々の哲学説がいずれも特殊な執着に基づく偏見であると確かに知って、そのいずれにもとらわれることなく、みずから顧みて、真の人間の生きる道をめざしました…

  • 如来清浄心

    「ダルマの思想は何かということになるが、これについてはよくわからない。ダルマのイメージは時代と共に増幅されていった。(略)唐の道宣(五九六―六六七)の『続高僧伝』巻十六のダルマ伝では、曇林の書いた「二入四行論」を引用する。これがダルマの思想をあらわすものであるといわれている。二入とは理入と行入である。四行とは四つの実践行である。理入とは「教を藉りて宗を悟り、深く含生の同一真性なるを信じ、……壁観に凝住して自なく他なく、凡聖等一にして、堅く住して移らず、他教に随わず、道と冥符して寂然無為なる」を理入という。我々は仏であっても凡夫であっても、同一心性を持っている。これは仏性といってもいいが、生きと…

  • ゲームチェンジャー

    「周りと自分とを比較しながら競争ルールに巻き込まれていくのではなく、逆転の発想ができるゲームチェンジャーとして、自分ならではの個性を追求することに専念しました」先日のヤフーニュースに出ていたブロードウェイで活躍しているという由水南さんの言葉に共感を覚えました。 私たちの心の問題は、それぞれの個との関係性の中で生じます。私たちが、幸福感を抱くには自己肯定感が大切です。私たちは、自分の個性を素直に表現できないときに不幸を感じ、それが十分に表現できているときに幸福を感じます。また、自己肯定感をもたらす最も強力な要因は他者から肯定されることです。自己肯定感は、自分の個性を他者から承認されることによって…

  • 煩悩即菩提

    「本来の仏教では、『愛』という語は、いつも『憎』とウラハラの意味をもつ語として用いられ、あまりよい意味では使われなかった。『愛』は常に、その裏に『憎しみ』を秘めているものとして、仏教では否定的に見られてきた。そのよい例が、釈尊の『四諦』の法門にいう『渇愛』すなわち“喉が渇くような強い欲望(愛着)”である。臨済禅師も言う、『君たちの愛(愛着)の一念が、湿った水となって君たちを溺れさせる。』(『臨済録』「示衆」)」(秋月龍珉『日常の禅語』14頁) 上座仏教と大乗仏教との根本的な相違は、世界(目の前の現象)の現実化に対する態度にあると思います。 上座仏教では、世界を現実化しようとすることが不幸の始ま…

  • 直指人心、見性成仏

    「青年は老師の目をまっすぐに見つめて、重ねて尋ねた。 『僕とは何ですか』 老師は、そこで言われた。 『君は今日ただ今から自分のことを勘定に入れないで、他人のために一所懸命に働いてみよ。そうして、他人のために働いた結果、自分が『よかった、幸せだった』と感じるような自分が出てきたら、私はそれがほんとうの自己だと思うがなあ』」 (秋月龍珉『日常の禅語』191頁) 元々「見性」という言葉は嫌いでした。 通常、自他不二や不二不一の体認を見性と言いますが、そのような精神的満足を求めることは、未来における幸福を目指すものであり、未来における幸福を目指すことによる不幸を防ぐという仏教のアイディアと矛盾する上、…

  • 不確かな世界を愛している

    「(形而上学的な問題について)釈尊は答えられないときには、沈黙を守る。そしてその沈黙に対する執拗な追及があり、まれに釈尊は適切な比喩を、相手または弟子に示す。(略) 『(略)世界の常・無常などをいつまでも求める人は、解答の得られないあいだに死ぬ。世界の常・無常などにかかわりなく、生・老・病・死の苦はあり、わたくしはその制圧を説く。それに対して、現実の実践・さとり・ニルヴァーナ(ニッパーナ、涅槃)に役立たないから、世界の常・無常などを、わたくしは説かない。わたくしの説かなかったこと、説いたことを、そのとおりに受持せよ』(要旨)という。 (略)形而上学的論議は、それに耽る人にとっては、たしかに興味…

  • 【参考資料】“現に存在する”苦しみには問題がない

    「明治から昭和にかけて約半世紀近く建長寺派の管長をつとめた菅原時保(じほう)老師は「日面仏,月面仏,訳すれば,”ああ死にともない,死にともない”」と提唱されている。 近代の傑物であった飯田欓隠老師は,痔の手術をして,「痛い痛い。何にも無いというのは嘘の皮だ」と,わめかれたという。鈴木大拙先生に筆者が最後にお目にかかったのは,発病前日の午後から夕方にかけてであった。その翌朝から激しい腹痛を訴えられ,「痛い,痛い。この痛いのはかなわん」と叫びつつ,次の日の朝早くあっけなく世を去られた。死因は絞扼性腸閉塞という,まるで腹の中の交通事故のような病気だった。 (略)山岡鉄舟も胃癌で苦しんで死んだ。辞世の…

  • 一切皆苦の理由

    荒野に立っている。 何かよいものがないかと、素手で周りの土を掘り返すが何も出てこない。 掘っても、掘っても、探しても、探しても何も出てこない。 疲れて、爪に挟まった土を見る。 また、何かよいものがないかと土を掘り返す。 やはり、何も出てこない。 得ようとして、得られるものは何もなく、自分がこの荒野に立つ意味は何かを問う。 まるで価値がない。 とはいえ、死ぬ根性もない。 何か得られないか掘り続けるのも空しい。 だから、何もせずに、じっとし続ける。 荒野の中でいつも何か得たいと探し回るような考えだけでいると、そのうち、生きているか、死んでいるかもわからないような生き方が正しい生き方だと思い込むよう…

  • 在家修行の問題性

    1 仏道修行は利己主義を懐疑する「人生というものは元来我儘なものです。つまり人間の行動は全て利己主義的なものです。つまり人間の行動の全ては利己主義的なものです。人間はおれぞれ自分の理想を持っていますが、その理想の正体も結局のところ自己満足の追求であるし、自分の意志意欲の線に適う時に、人間は納得がいくというものです。人間は自分の意向にかなったもの、自分の好きなものは、非常に大切にし、或いは共鳴したりする。ところが自分の意向にかなわないものに対しては敵意を持ったり、または排斥したりする。そればかりでは収まらないで、利害関係が反したりしていると、その果ては殺意までおこすようになるのが人間なのです。こ…

  • 「輪廻」という「真理」?=上座仏教の神秘主義的性格

    坐禅を始めてから、落ちつけるようになると同時に、積極的に物事に対処できるようになるなど、日常が手堅くよくなってきたことから、坐禅を行とする禅や仏教について学んだり、実践する中で、上座仏教に興味を持ち、上座仏教の勉強会にも行くようになりました。 上座仏教の実践をする人たちとかかわりあうようになってから、上座仏教の世界では、「輪廻説」というものが本当に重要な教義なのだとされているのだと感じるようになりました。 1990年代にオウム真理教の信者が社会との軋轢を起すようになり、果ては毒ガステロをするまでに至ったことが社会問題となった時には、その信者の人たちの中に、宗教と相反するような科学を学んだ理系の…

  • 【参考資料】師弟関係

    (1)酒井得元『沢木興道聞き書き ある禅僧の生涯』 「むかしは面白い。師匠を見て歩くのである。ひと晩泊まって、ただ飯を食わせてもらい、翌朝、朝参といって師家に面会して、お茶をよばれ、二言、三言話をして、ははあ、これはいかぬと思ったら、どんどん出発してしまう。これはよいなと思ったら、いつまでもそこにとどまる。それが雲水行脚、すなわち遍参の意味である。」(74頁)(2)有馬賴底『無の道を生きる――禅の辻説法』 「禅では、師匠を自ら選ぶことができます。納得がいくまで、さまざまな師匠を尋ね歩き、その門下で修行をする。はじめから生涯の師に出会うことができる人もいるでしょうし、なかなかめぐり会えない人もい…

  • 個人の人生の充足と、他者=世界の調和との一致点としての「慈悲」

    「臨済のいう出家とは伝統的な生活からの逃避と解すべきではない。家とはわれわれの生命を囲繞して圧迫阻害する偏見的思想、反生命的価値観、環境対象に牛耳られる執着――即ち人間の生命を幽閉するもろもろの化石的な殻という意味である。従って禅門における出家とか、破家散宅とかいう意味は、――換言すれば一切を自由に所有すること、一切に対して自由なる君主として振舞うことに他ならない。(略) 臨済は、学人のよるところ、跼蹐(きょくせき)するところを片っ端から破壊して、相手を自由の天地に駆り立てて行く。ここにおいて彼は、飽迄も徹底的な偶像破壊者となって現れて来る。かの四科揀にせよ、四喝にせよ、要するに学人の依るとこ…

  • 仏教はなく、禅もない

    「全部が仏法であり、特別なものは、何に一つもなかったのです。したがって仏法は特別な神がかり的な自己満足的修行することではなかったのです。何故ならば、一切衆生悉有仏性だからです。したがって宇宙の全てが仏性、即ち真実です。故にこれこそはという特別であるものは、全てあってはならぬことです。こうしてみると、全てが仏性であり真実であってみれば、特に外道というものがあるわけではないのです。」(酒井得元「永平広録について」23頁) 「禅そのものの説明ということはあり得ない。禅そのものはないからである。」(上田閑照『禅仏教』3頁) 「仏教として主張するものが何もないのが仏教だ」(中川正壽「ドイツの地に曹洞禅の…

  • 【参考資料】仏教/禅は自由を説く

    (1)鈴木大拙1)「禅は心を純粋の虚無にするがごときまったくの否定ではない。何となれば、それは知的自殺だからである。禅には何か自己肯定のものがある。しかもそれは自由であり、絶対である。そして限界を知らず、抽象の取扱いを拒むものである。禅は溌剌としている。それは無機の岩石、虚無の空間ではない。この溌剌たる何物かと接触すること、否、人生各方面にわたってそれを捕らえることがすべての禅修行の目的なのだ。」(『禅学入門』49頁)2)「積極的に云えば「無我」とは「無辺の慈悲」です。キリスト教的に云えば愛、儒教的に云えば仁であります。無辺の慈悲は我を棄てて、自分より大なる心と合体することであります。而して自…

  • 【参考資料】現象に徹し、現象の要因、背景を妄想しない

    禅が不立文字というのは要するにこういうこと。 一言でいえば…… 「禅そのものの説明ということはあり得ない。禅そのものはないからである。」(上田閑照『禅仏教』3頁) この後には、「あるいは、『風が吹く』ーーそれが禅であり、『腹が痛い』ーーそれが禅だからである。」と続きます。 ある程度つかんでいる人には、好い例示ですけれど、却って難しくする人がいるような感じもします。 親切に言うと…… 「黒いものを黒いといい、白いものを白いと云うのが禅の本領である。柳は緑り、花は紅い、烏はかあかあ、雀はちうちう、みんな同じ道理である。此の道理に徹底した人を悟ったと称して居る。 禅はどこまでも説明のできぬものである…

  • 【参考】釈宗演老師の言葉

    こんなものがありました。 共感するところが多く、ご紹介しようと思います。 釈宗演老師の言葉 (『国立国会図書館デジタルコレクション』HPから無料で全文閲読可能) 1 仏教の主旨 (1)「佛教は慈悲を以て主旨とする」(『一字不説』2頁) (2)「大慈悲を有(も)ってあれば、誰れでも(略)、立派な佛であります。(略)慈悲心のある所は、佛のある所、慈悲心と、佛と意味は共通しています。(略) 『佛心とは大慈悲心是れなり。』というところへ来ては、悟り(略)は入要(いりよう)ありませぬ。」(『釈宗演全集一巻』217~218頁) (3)「自然に同情の心が起る。此心が即ち慈悲であります。(略)種々(いろいろ)…

  • 利他は個人の自由意志に基づかなくてはならない。

    「仏教は慈悲を以て主旨とする」(釈宗演『一字不説』2頁) 仏教と呼ばれる宗派には色々あるけれど、その共通する本質は、慈悲、すなわち、利他であるとつくづく思う。 「大慈悲を有(も)ってあれば、誰れでも(略)、立派な佛であります。(略)慈悲心のある所は、佛のある所、慈悲心と、佛と意味は共通しています。(略) 『佛心とは大慈悲心是れなり。』というところへ来ては、悟りといい、理屈というようなものは入要(いりよう)ありませぬ。」(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』217~218頁)「自然に同情の心が起る。此心が即ち慈悲であります。(略)種々(いろいろ)の宗教があると雖も、(略)真理は古も今も変っ…

  • 生まれてきた理由

    「人間は誰かを愛するために生まれてきたのです。誰も愛さないで死んでいくことは、せっかく生きてきたのに惜しいことだと思います。 もちろん、愛したらいろんな苦しみがともないます。けれどもその苦しみを味わわないと、人間の真のやさしさとか想像力とか、本来的に人間に備わっている素晴らしい力が表に出てこないのではないでしょうか。」 ネットサーフィンをしていたら出会った瀬戸内寂聴さんの言葉。 (https://dot.asahi.com/dot/2019122400048.html?page=2) 凡庸といえば凡庸だけれど、人により味わいの有無があるのは面白い。。 「物に対して誰が命令するか分からないが、自…

  • 当処即蓮華国

    「大に有事にして過ごす処の人間,今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で,何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで,あくせくと働いて其上が,しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。」 (釈宗活『臨済録講話』221~222頁) 年初に同友らと顔をあわせた際,この宗活老師の著書の言葉を,「当処即蓮華国」とのタイトルで紹介したのだけれど,「難しい」と言われてしまった。 難しいのかなあ,端的だと思うのだけれども。 そう思っていたところで,たまたま積ん読していた上田閑照『禅仏教』に目を通していたところ,よい言葉が見つかりました。 「『疑団』が解けるのは,問に対して答が与えられると…

  • 仏道修行者と知能が平均以上の自閉症(その1)

    1 自信の持てない仏道修行者 ちょっとの勉強のつもりで、自閉症の本を読むようになったのですが、現在の自閉症の研究の知見を踏まえると、仏道に絡むいろいろな現象について、合理的に説明ができるように感じています。 なお、念のためですが、最近の研究によれば、自閉症は、能力の欠落ではなく、脳のネットワークの器質的な構造が多数派に属していないことによるコミュニケーションの困難であると捉えられており、おそらく、マイノリティの個性に対する差別の問題であると捉えるのが適切で、これを疾患として捉えるニュアンスの「自閉症」という概念には、疑問があるのですが、他に社会的合意のある適切な概念がないようなので、以下、便宜…

  • 碧巌録第五則「雪峰大地撮来」

    【本則】 挙す。雪峰衆に示して云く、尽大地撮し来るに粟米粒の大きさの如し。面前に抛向(ほうこう)し、漆桶不会(しっつうふえ)。鼓(こ)を打って普請(ふしん)して看よ。【和訳】 一日雪峰和尚大衆に示して、尽大地といえば、如何にも大きいようであるけれども、撮(つま)んで見れば米粒位しかないぞ。 之が見えないかと言うて、其面前に抛り出された。 漆桶(しっつう)は漆桶(うるしおけ)のことで、真黒々(まっくろぐろ)ということで、不会は合点の行かぬことで、即ち漆桶不会少しも分らぬ。 是れ此通りえであるぞと眼の前に投げ出されても、凡情が之れを隔てて、少しも分らぬ。 これが分らなければ、皆一緒に、鐘や太鼓で探…

  • 理系の人が仏道に興味を持つ要因?

    座禅会やテーラワーダの瞑想会に行くと、相当程度、理系の大学の卒業者や理系の仕事をしている人がいます。 特に、20代から30代の人だと、IT関係の人がよくいます。 アップル社のビル・ゲイツのように、米国のIT企業の関係者の中に、マインドフルネスへの興味を持っている人が少なくないことにも由来するのかなとも思うのですが、オウム真理教事件の際に、理系出身の幹部が相当いて、毒ガス等を製造していた実態があり、宗教とは距離感があるように思われる理系出身者が何で仏教などに興味を持ったのかがマスコミ等で疑問とされたことからすると、マインドフルネスが一般に話題になる前から、理系の人が仏道の実践に興味をもつ傾向があ…

  • 平穏無事を目指すなら生まれる必要はない

    「あらゆる煩悩を挫断して、此世界に超越することが能きれば、これが悟りの境涯であると思い、安心して座り込んでいては不可ぬ。(略)今日という実際世界へ飛び出し、自由自在の働きをするのでなければならぬ。」(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』42頁) 上座仏教と禅との大きな相違点は、その活動性にあります。 上座仏教では、貪瞋癡、すなわち、煩悩の段滅を目指します。 しかし、禅は、違います。煩悩即菩提です。 大乗仏教では、全てのことはあるべくしてあります。 存在を否定されてよいものはない。 煩悩も否定されるのではなく、制御すべきことになります。 「煩悩妄想を細めていって、最後にそれをすっかり断滅し…

  • 感謝とは幸福を意識化することである。

    「信ずると言うことを二つに分けますると、まあ斯う言うものであろうと思う。解信(かいしん)と仰心(こうしん)の此二つである。(略) 智的要求に応ずるには、聖道門、情的要求に応ずるには浄土門であって、解心は乃ち聖道門に属し、仰信は乃ち浄土門に属するものであります。そこで解信に於てはどうしても多少理屈の説明をしなければならぬが、仰信となると読んで字の如く、仰いで信ずるのであって、初めから神ありと信じ、佛ありと信ずるのであります。(略) 仰信の方になりますと『何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる』で其の中に真理があります。純粋の信はこれで宜しく、何(な)にか分(わか)らぬが、唯有難…

  • 婚姻関係と自己肯定感

    「離婚の原因について、性格の不一致だとよく言うが、間違っている。 なぜなら、性格の一致している夫婦はいないからだ」 先日、京都造形芸術大学教授の本間正人先生の講演会を聞きに行ったときに印象に残った話の一つがこの話でした。 人と人とは違う者同士で承認しあうことが大切であるという大きな話の流れの中の一コマでした。 印象に残った理由の一つは、職場の同僚の実父の四十九日があり、職場から送った香典のお返しをいただいたことがあって、パートナー死別の問題も少し考えていたからです。 人生に充実感を抱くためには、自己肯定感が重要です。 自己肯定感を抱くためには、まず、自己の欲求を充足させることが挙げられるでしょ…

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