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  • 山内一豊誕生地

    山内一豊誕生地。山内一豊は天文一四年(1545)岩倉城の家老山内但馬守盛豊の二男として、この地に誕生した。大正八年(1919)二月神明生田神社の遷座式に一枚の棟札が発見され、これが一豊のこの地での誕生の有力な資料となり、山内家では史家沼田頼輔文学博士に調査を行なわせ、岩倉のこの地を一豊誕生の地と認め、ここに贈従三位山内一豊公誕生地の碑を建てた。父盛豊は岩倉城落城(永禄二年三月)のとき戦死。一豊一五歳の時であった。その後、一豊は家臣の五藤浄基が供で母や弟妹と共に刈安賀の城主浅井新八郎政高の許に身を寄せ、しばらくして牧村政倫のもとに寄寓。ついで山岡景隆に仕え、永禄十年(1567)~元亀元年(1570)頃織田信長に仕える。天正一二年(1584)には長浜で五千石の領主となり、同一八年(1590)遠州掛川に移封六万石の領...山内一豊誕生地

  • 岩倉城跡

    岩倉城跡。岩倉城は文明十一年(1479)頃織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。敏広はこの城によって、尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、下四郡(愛知・智多・海東・海西)を支配する清洲城の織田大和守敏定に対し武威を示し、当時の尾張では清洲城と並んで、もっとも重要な城であった。城跡は東西約91m、南北約171m、標高10m台地上にあって、内外二重堀があったといわれ、城跡の南側には外堀とか丸の内といった地名も残されている。岩倉城は引治三年(1557)織田伊勢守信安が末森城主織田信行(信長の弟)と同盟を結んでいたということで、信長に攻められ、その後、永禄元年(1558)の浮野合戦で敗れ、翌二年三月遂に落城した。本丸跡の「織田伊勢守城址」の碑は安政七年(1860)に建てられたものである(案内板より)。にほんブ...岩倉城跡

  • 浮野古戦場

    浮野古戦場。永禄元年五月二十八日二千余騎をひきいた織田信長は岩倉城主織田伊勢守信安を攻撃のため浮野へ陣を進めたこの日は小競合いの瀬踏み程度に終ったがつづいて七月十二日犬山城主織田十郎左衛門が千騎ばかりを従えて馳せ加わったので総勢三千余騎が浮野を中心に争い死闘二刻に及び首級九百余を討ち取ったこれを浮野合戦と呼びこの首級を埋めた地(通称浮剕首塚)に建碑した(碑文より)。「信長公記」によると、「浮野合戦の事」一、七月十二日、清洲より岩倉へは三十町に過ぐべからず。此の表、節所たるに依つて、三里上、岩倉の後へまはり、足場の能き方より浮野と云ふ所に御人数備へられ、足軽かけられ候へぱ、三千計りうきうきと罷り出で、相支へ候。一、七月十二日午の剋、辰巳へ向つて切りかゝり、数剋相戦ひ追崩し、爰に浅野と云ふ村に、林弥七郎と申す者、隠...浮野古戦場

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