関根清三氏によると、イザヤ書57章15節は、前半で神の「偉大さと超越」、後半で神の「低さと内在」を述べており、両者相俟って「聖書的な神観の一つの到達点」を示しているという。 すなわち私は当ブログや兄弟姉妹ブログの「全一者」で探求している「聖書的神観」・・・実際的要請により聖書を通して啓示され、導き出される神観・・・というものは、「偉大な…
信仰は人が必要に迫られ縁あってなすもの。 この物質世界の競争社会において人は優劣比較意識があり自尊欲求が強いからこそ、ちょっとしたことで争いごとになる。だからその世間的価値観を相対化する世界観が実践的に要請されるのだ。 ところで、「スピリチュアリズム普及会」のサイトで、「物質界も含めて幽界も霊界の各界層も、すべて一つの場に存在している」と言われている点には共感。 <…
「ただ遠く十字架を眺めて瞑想する十字架の神学より、十字架の事実そのものに肉迫することが必要であると信ずるのであります。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』〔紀伊国屋書店〕p338) 「十字架の神学」という表現は宗教改革者のルターに由来するらしいが、それまでの「栄光の神学」に対するものだったようだ。以下、引用。 <ルターは十字架の神学こそ、人間の現実をその現実の即し…
私は、西南学院大学神学部における寺園喜基VS青野太潮論争に関しては、後者の論旨の方に近いのでこれを参考すべくここに引用しておきます。青野氏の論文、<「障害者イエス」と「十字架の神学」>より。 (引用) いずれにしても、ここには寺園氏に典型的な「キリスト論的集中」がまた 顔を出している。しかし、イエス・キリストは「創造主」なる神ではない以 上、「創造主」なる神があっては…
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