chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
勝どきミキ/おはぐろ蜻蛉 https://ameblo.jp/pasta-and-wine-miki/

ワインにまつわる欧米の歴史がメインテーマです。

ワインは三つの要素で出来上がっている。テロワール/セパージュ/生産者だ。そして実はもうひとつ、大きな要素がある。それは歴史だ。歴史を識らずしてワインを語るのは空疎だ。

勝鬨美樹
フォロー
住所
中央区
出身
中央区
ブログ村参加

2018/02/11

arrow_drop_down
  • ナダールと19世紀#27

    少年時代から母とともにナダールの写真館を手伝っていた愛息ポールは成人すると、めきめきと写真師としての腕を挙げた。写真技術が猛烈な勢いで発達した時期でもある。新…

  • ナダールと19世紀#26

    セーヌ川を赤く染めたティエールは一度だけの大統領で終わった。政争に敗れ1873年退任。道半ばで、彼の政治生命は尽きた。そして失意のうちに4年後の1877年81…

  • ナダールと19世紀#25

    50才になったナダールは、動乱の中で息をひそめていた。 プロイセン軍と戦うために従軍したナダールだが、コミューンには名を連ねてはいない。…

  • ナダールと19世紀#24

    1871年5月21日、パリ側の内通者の手配でティエールの「正規軍」はパリへ突入した。戦いは凄惨を極めた。パリ市民側は女性子供老人…

  • ナダールと19世紀#23

    プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く「帝政ドイツ」と、名と姿を換えた旧プロイセン軍がパリへ入城したのは1872年3月1日。シャンゼリゼを行進した。人々は黒旗を掲げ…

  • ナダールと19世紀#22

    1870年秋。ナポレオン三世失墜/共和政臨時政府へ政権が移行したのちもプロイセンとの戦争は続いた。臨時政府が、プロイセン/ビスマルクが提示した休戦協定の条件で…

  • ナダールと19世紀#21

    1870年9月3日。ナポレオン三世がプロイセン軍に敗れ、捕虜になった知らせを聞いた時、妻ウジェニー皇后が烈火のごとく怒った。 「なぜ自決…

  • ナダールと19世紀#20

    ナダールが撮影した航空写真は人々を驚かせた。新聞も雑誌も挙ってそれを掲載した。ナダールは有頂天になった。そして撮影した写真をゴンドラの中で現像し、着陸したらそ…

  • ナダールと19世紀#19

    たった一回の飛行でナダールは気球に魅せられた。帰宅すると若い妻エルネスティンに熱く空の事を語った。 「写真を撮るんだ。誰も見たことのない…

  • ナダールと19世紀#18

    18世紀ブルボン朝まで、パリの人口は10万人前後だった。産業は市政と港湾事業である。セーヌ川は古くから輸送ルートとして活動しており、パリは内陸部にあるフランス…

  • ナダールと19世紀#13

    ナダールが自宅(113 Rue Saint-Lazare)で写真アトリエを起こしたのは1854年2月。実は『パンテオン・ナダール』が発表したのは同年3月なので…

  • ナダールと19世紀#12

    ふとした思い付きから制作を手掛けた『パンテオン・ナダール』だった。たしかに猛烈な評判にはなった。しかし商売としてはコケた。多数のスタッフを雇い、250名の肖像…

  • ナダールと19世紀#11

    大衆に支持され大統領となったルイ・ナポレオンは、人々に皇子大統領Prince-presidentと呼ばれた。民が、烏合の衆である共和党勢によ…

  • ナダールと19世紀#10

    5才年下の毒弟エイドリアンAdrienがナダールを頼ってパリへ出たのは20才の時だった。このときからナダールは、この出来の悪い弟を生涯背負うことになる。ナダー…

  • ナダールと19世紀#09

    1848年12月10日第二共和政の下、大統領戦が始まった。候補は、臨時政府首魁カヴェニャック将軍を筆頭に、共和派のラマルティーヌとルドリュ=ロラン、獄中から立…

  • ナダールと19世紀#08

    ナダールの義勇軍行軍は参戦もないまま終わった。ナダールは追われるようにパリへ戻った。しかしナダールは挫折しなかった。これがまた彼らしいところだろう。街へ戻ると…

  • ナダールと19世紀#07

    ナダールは、父の血を継いだ熱烈な共和主義者だった。聊か軽いところはあったが自由を信奉する熱い血を持っていた。飄々と溌剌と世間を渡り歩く彼に好感を持つ人は多かっ…

  • ナダールと19世紀#06

    ナダールの育った1820~1837年は、欧州全体が次代に向けて大きく激動した時代だった。 シャルル10世がアルジェリアで惨敗、七月革命が…

  • ナダールと19世紀#05

    ナダールは、その自伝の中で、父ヴィクトルを経営者でいるにはあまりにも夢想家だったと書いています。揶揄ではない優しい視線で、そう書いている。 …

  • ナダールと19世紀#04

    グーテンベルクGutenberg(1398年-1468年)による"知識の開放"が大きく花開いたのは、印刷機の性能が安定化し大量印刷が可能になった1500年代後…

  • 熊猫亭薄様新古細工#07 明治の海運業

    〔熊猫亭薄様新古細工#07 明治の海運業〕ユダヤ資本を背景とした薩長の東進は明治"維新"と呼ばれる。この"維新"という言葉だが、藤田東湖が藩政改革の際に引用し…

  • 熊猫亭薄様新古細工#06 ワイン瓶はなぜ750mlなのか

    〔熊猫亭薄様新古細工#06 ワイン瓶はなぜ750mlなのか〕ちょいとわき道・・船の大きさをあらわす単位/トンですが、空の木樽を叩いた音「Tun」から来たといわ…

  • 熊猫亭薄様新古細工#05 海運ルートの確立

    〔熊猫亭薄様新古細工#05 海運ルートの確立〕江戸時代、政治の中心地は江戸でした。しかし経済の中心地は京都と大阪のままだった。消費財は陸路海路で江戸に運ばれた…

  • 熊猫亭薄様新古細工#04 江戸の夕栄

    〔熊猫亭薄様新古細工#04 江戸の夕栄〕井原西鶴の「日本永代蔵(1688年)」の中に「今ほど舟路の慥なる事にぞ。世に舟あればこそ 一日に百里を越し 十日に千里…

  • 熊猫亭薄様新古細工#03 江戸の海運ことはじめ

    〔熊猫亭薄様新古細工#03 江戸の海運ことはじめ〕 江戸時代の廻船業について話そうかなぁと思ってるんだけど、いつもの通り寄り道ばかり。日…

  • 熊猫亭薄様新古細工#02 海運の町・勝どき

    〔熊猫亭薄様新古細工#02 海運の町・勝どき〕勝どきにあった「はしけの子供たち」の学校、水上小学校の話を書いたとき、その背景となる江戸時代の廻船業に触れました…

  • 熊猫亭薄様新古細工#01橋立

    〔熊猫亭薄様新古細工#01橋立〕 家人を伴って加賀市を訪ねました。 橋立にある割烹料理旅館「司」さんへお邪魔しました。 館主は、…

  • 〔ボルドー歴史物語第二部6章〕-はじまりの前に#02

    〔ボルドー歴史物語第二部6章〕-はじまりの前に#02サトウキビ/廃蜜と、アメリカ独立について、簡単に箇条書きにします。予備知識です。①アメリカ大陸を発見したコ…

  • 〔ボルドー歴史物語第二部6章〕-はじまりの前に#01

    〔ボルドー歴史物語第二部6章〕-はじまりの前に#01ボルドーという多民族都市を追ってみようという試みで始めた「ボルドー歴史物語」ですが、一昨年「先史時代からロ…

  • 銀座閑話夜話#05 畜産と酪農

    クレー(凝乳)は、酵素ラクターゼが非活性になっているヒトが飲んでも腹痛/下痢を起こしません。クレーが出来る段階で乳糖は乳酸に変わるかホエイ側に集まってしまい、…

  • 銀座閑話夜話#04 チーズという利用法

    家畜の二次利用ですが。使役を別にすると、主たる利用は①毛を取ること②乳を取ることです。鶏は卵を取る。鶏の家畜化の過程は極めて面白いのでいずれ別項で。①の毛を取…

  • 銀座閑話夜話#03 家畜の二次使用

    新石器時代最晩年から始まった農耕と畜産は、ヒトの在りかたを抜本から変えてしまいました。以来人類は急加速的に発展しました。個体数も1000倍以上に増えた。その発…

  • 銀座閑話夜話#02 動物の乳を飲む

    ところが、離乳期を過ぎても酵素ラクターゼが非活性にならないヒト集団がいます。欧州に棲む白い肌の人々です。人口比率で云うと西ヨーロッパに棲むヒトの90%前後が活…

  • 銀座閑話夜話#01 乳離れ

    昨夜から「ラクレットチーズとスイスワインの会」を銀座店で開催しています。ラクレットチーズは専用のラクレットオーブンで焼きます。半分に切ったラクレットチーズの断…

  • 台北市を歩く#41 蒋経国的13/おわり

    1981年6月の中国共産党第11期六中全会で、鄧小平が党中央軍事委員会主席になった。中国は彼のものになった。「鄧小平は、蒋経国と同じくモスクワ中山大学の卒業生…

  • 台北市を歩く#40 蒋経国的12

    「蒋経国は糖尿病だった。かなり早い時期に判明していた。しかし彼は仕事に塗れて、これを放置していた。そのため、父の後を受けて総統となった時、実はかなり容態は悪化…

  • 台北市を歩く#39 蒋経国的11

    「1971年。台湾・中華民国は国連を追い出される。そして翌年ニクソンが訪中する。そしてその翌年アメリカはベトナム戦争から手を引く。国家としての蒋介石・国民政府…

  • 台北市を歩く#38 蒋経国的10

    1965年、台湾の表の顔・陳誠が死去した。蒋介石は70代後半。本土回帰の妄念だけの老人になっていた。「大陸反攻は、蒋介石政府の存在意義だったからね。小競り合い…

  • 台北市を歩く#37 蒋経国的09

    50年代、恐怖政治を敷きながらも、蒋経国はもうひとつの深刻な問題を抱え込んでいた。それは国民兵の高齢化である。蒋介石とともに故郷を捨て、大陸を捨てた兵士たちの…

  • 台北市を歩く#36 蒋経国的08

    「闇の顔を一手に受けた蒋経国に対して、表の顔は陳誠だった。」「陳誠って、蒋介石に台湾省主席を任された人ね。」「そうだ。彼は温厚で知的な男だった。彼は、前に話し…

  • 台北市を歩く#35 蒋経国的07

    台湾島の中の蒋介石に仇名す者の粛清を担ったのは蒋経国である。「彼しかいなかった。公式には総統府機要室資料組・秘書長という立ち位置だ。彼は特務組織の事実上の最高…

  • 台北市を歩く#34 蒋経国的06

    「快進撃を続ける金日成軍の喉許を食い破るため、マッカーサーはインチョン上陸作戦を立てた。インチョンを落とせばソウルまでは一時間かからない。しかしそのためには秘…

  • 台北市を歩く#33 蒋経国的05

    「1949年4月。蒋経国は家族を台湾へ避難させた。もしそのまま敗戦が続けば、彼は家族を国外へ逃すことも辞さなかった違いない。台湾へのアナグマ戦術は、背水の陣な…

  • 台北市を歩く#32 蒋経国的04

    「1948年12月より国民党台湾党部主任に任命された蒋経国の仕事は、国民軍/蒋介石の資産を台湾等へ移し替える事だった。これは速やかに尚且つ秘密裏に行わなければ…

  • 台北市を歩く#30 蒋経国的03

    1945年8月抗日の時は終わった。しかし抗共は泥沼のように続いた。戦線維持のために乱発した貨幣が、次第に蒋介石/国民政府の首を締め付けていたのだ。戦争で勝った…

  • 台北市を歩く#30 蒋経国的02

    「蒋経国がモスクワで通った学校はモスクワ中山大学という。コミュッテルンが外地の共産党幹部の養成を目指して1921年に設立した東方勤労者共産大学クートヴェ(КУ…

  • 台北市を歩く#29 蒋経国的01

    「台湾指導者の中で、今でも一番人気は蒋経国だ。」中山公園のすぐ傍にある湖南料理の店「1010湘」にいた。湖南地区の家庭料理をベースに極めて手の込んだ料理を饗す…

  • 台北市を歩く# 28 統治幻夢

    今回取ったホテルは板橋(バンチャオ)の地下鉄の駅のそばにある。此処の地下鉄の駅は、そのまま近郊線の鉄道駅に併設されている。同時に近郊都市へのバスのターミナルが…

  • 台北市を歩く#27/中華幻夢

    「中華の官吏にとって"公僕"とは"公けのものは僕のもの"という意味だ」前職の時、うちの会社のブランチを広州へ置いていた。その地で僕らは「公僕の官吏」に悩まされ…

  • 台北市を歩く#26バンチャオ

    今回の台北紀行は、ホテルを板橋(バンチャオ)区にとった。バンチャオは淡水河という台北市の西側を流れている川の向こう岸の町で、イメージとしては荒川より向こうの町…

  • 台北市を歩く# 25篝火狐鳴ス12

    毛沢東軍はスターリンの命令(依頼)によって、主力が朝鮮半島へ移すことになる。毛沢東は空軍力が喉から手が出るほど欲しがっていた。スターリンはそれを餌に毛沢東を朝…

  • 台北市を歩く# 24 篝火狐鳴ス11

    「蒋介石/中華民国政府が南京から遁走し広州へ撤退したのは1949年1月16日。4月23日に南京は毛沢東/共産軍の手に落ちている。漢口が5月16日、西安が5月2…

  • 台北市を歩く# 23 篝火狐鳴ス10

    第二次世界大戦終結後も国/共内戦は続いた。南京国民政府は利害関係のもつれから次第に機能不全へ落ち込んでいた。一方、毛沢東共産党側はソビエトからの潤沢な支援を受…

  • 台北市を歩く# 22篝火狐鳴ス09

    「もちろん共産党勢力はやられていただけではない。4月22日に孫文未亡人宋慶齢、頭角を現し始めた毛沢東らが連名で蒋介石打倒の檄を各地へ飛ばしている。『蒋介石は既…

  • 台北市を歩く# 21 篝火狐鳴ス08

    蒋介石による『清党』共産党側の言う所の『白色テロ』の経緯を追ってみよう。汪精衛にまとわりつき勢力を伸ばしていた共産勢力は、背後では市民によるクーデターを起こそ…

  • 台北市を歩く# 20 篝火狐鳴ス07

    アンドレ・マルローが書いたものに“La Condition Humaine”というのがある。邦題は『人間の条件』彼が30代初めに書いたものだ。物語の背景は19…

  • 台北市を歩く#19 篝火狐鳴ス06

    再度、イスラエル・エプシュタイン『宋慶齢』から引用する。「上海に着いて2ヵ月目、孫文の死去からわずか10週間後に、 この沿岸の中心都市と国全体が1925年5月…

  • 台北市を歩く#18 北政南商

    「ユーラシア大陸の東側・中国部を思い浮かべてごらん。彼の地は二つの大河・黄河と揚子江で三分されている。所謂中華とはその中央部を指す。黄河より北も、揚子江より南…

  • 台北市を歩く#17 孫文03

    「1925年3月12日、孫文が逝った。59才だった。若い退場だ。無念だったと思う。しかしその臨終の席には家族があった。けっして非業の死ではなかったと僕は思う。…

  • 台北市を歩く#16 孫文02

    「孫文はマルクス主義を受け入れなかった。"土地の所有"ということについての考えが根本から違うからだ。孫文が目指した革命とは、不平等な分配によ…

  • 台北市を歩く#16 孫文

    「国父と呼ばれている孫文なんだけど、僕は彼に客寄せパンダ以上の価値を見出せないでいる。」「あら。手厳しい。」「私見だけどね。岩波文庫にある彼の書いたもの(三民…

  • 台北市を歩く#15 篝火狐鳴ス02〕

    「中国のマルクス主義研究は当初大半が日本語書籍だった。河上肇、堺利彦、高畠素之たちが書いたものが利用されていた。初期共産主義運動のシンボルとも云える北京の李大…

  • 台北市を歩く#14篝火狐鳴ス

    「中国南部の山岳地帯に湖南省というところがある。欧州各国が一次世界大戦に翻弄された直後1917年頃、その地で中学の歴史の教師をしていた男がいた。名を毛沢東とい…

  • 台北市を歩く#13辛亥革命

    二二八国家記念館を退いて街へ出た。雨は治まっていなかった。風を孕み横殴りになっていた。僕らはMRT中正記念堂駅まで傘を傾けながら歩いた。駅前に小さな露店が連な…

  • 台北市を歩く#12二二八国家記念館06

    「国府軍は制圧と称し侵攻しながら、各所に検問所を作った。そこで北京語が話せるかどうかを取り調べた。話せないものは即座に逮捕し、4~5人単位で踵や掌に針金を通し…

  • 台北市を歩く#11 二二八国家記念館06

    「3月2日、台湾人側の知的リーダーたちが、事態の収束を図るために『二二八事件処理委員会』を発足させた。これ以上の混乱は国府側にも台湾人側にもよろしくない・・と…

  • 台北市を歩く#10 二二八国家記念館05

    「敗戦時の台北は、戦前の東京市並みに整備されていた。いまの東京大学/帝国大学もあったし、台湾島の農工業を支える基点として機能していた。だから日本国内の地方都市…

  • ▼去りし先達との幻談

    ▼去りし先達との幻談はじめてNYC摩天楼を呆然と見つめたのはサイゴン陥落後だから、もう40年以上も前になる。Army官製のワンショルダーバッグだけでニューヨー…

  • 台北市を歩く#06/ 二二八国家記念館01

    〔台北市を歩く#06/ 二二八国家記念館01〕今回の台湾旅行の目的のひとつは、台北中正区にある二二八国家記念館を訪ねることだった。同記念館2011年2月28日…

  • 台北市を歩く#05

    〔台北市を歩く#05〕朝一番、ホテルの傍にあるスタバに入っています。あまり英語が通じない。シンガポールやマカティ、ホンコンのスタバとの違いは、ソレかもしれない…

  • 台北市を歩く#04

    〔台北市を歩く#04〕サイゴンが落ちたのは1975年4月30日。僕はその時、隣の国タイランドのU-TAPAOの空軍基地にいた。横田に戻ったのは、その年の5月だ…

  • 台北市を歩く#03

    〔台北市を歩く#03〕脱線しちまう・・思い出からはじめてごめん。清泉崗基地はChingChuanKang Air Baseなんで、米兵の間ではCCKと呼ばれて…

  • 台北市を歩く#02

    〕実は僕が知っている台湾は清泉崗基地Chingchuankang Air Baseだけなんです。それも50年近くムカシのそこです。清泉崗基地は台湾島中央西側に…

  • 台北市を歩く#01

    〔台北市を歩く#01〕しばらくぶりにアジアの街を歩いている。台北市である。ANAで松山空港へ降りた。此処は軍民共用空港なので上空から撮影は禁止されている。機内…

  • ▼巴里一杖酔譚#60 NYC-TOKYO-PARIS 〔パリに想う〕

    ▼巴里一杖酔譚#60 NYC-TOKYO-PARIS〔パリに想う〕パリに出会ったのは30も半ば過ぎてからだった。恋を得て結婚して、二人の天使を授かって夢中にな…

  • ▼巴里一杖酔譚# 59 パサージュ・クーヴェル

    ▼巴里一杖酔譚# 59 パサージュ・クーヴェル〔パサージュ/パリの夢幻回廊04〕ギャルリ・ヴィヴィエンヌに並んで、ギャルリ・コルベールがある。こちらは前者の盛…

  • ▼巴里一杖酔譚# 58 パサージュ・クーヴェル

    ▼巴里一杖酔譚# 58 パサージュ・クーヴェル〔パサージュ/パリの夢幻回廊03〕「ギャルリ・ヴィヴィエンヌの先進性は、ただのパサージュ『ぬけられます』じゃなか…

  • ▼巴里一杖酔譚# 57 パサージュ・クーヴェル

    ▼巴里一杖酔譚# 57 パサージュ・クーヴェル〔パサージュ/パリの夢幻回廊02〕パレ・ロワイヤルを北にすこし行くとギャルリ・ヴィヴィエンヌGalerie Vi…

  • ▼巴里一杖酔譚# 56 パサージュ・クーヴェル

    ▼巴里一杖酔譚# 56 パサージュ・クーヴェル〔パサージュ/パリの夢幻回廊〕軽い昼食の後、そのままパレ・ロワイヤルPalais-Royalを抜けてそぞろ歩いた…

  • ▼巴里一杖酔譚# 55 ルーブルとナポレオン三世04

    ▼巴里一杖酔譚# 55 ルーブルとナポレオン三世04〔ナポレオンの親族統治〕しばらくぶりなルーヴル探訪を済ませて、目の前にあるLe Nemoursへ席を移した…

  • ▼巴里一杖酔譚# 54 ルーブルとナポレオン三世03

    ▼巴里一杖酔譚# 54 ルーブルとナポレオン三世03〔ナポレオン3世の居室〕ルーブルにはポルト・デ・リオン口から入る。ここは割と知られていなくて誰も並んでいな…

  • ▼巴里一杖酔譚# 53 ルーブルとナポレオン三世02

    ▼巴里一杖酔譚# 53 ルーブルとナポレオン三世02〔ルーブルとナポレオン三世〕ナポレオン三世の大改革が実施される以前のパリは、2000年の時を重ねて、饐えた…

  • ▼巴里一杖酔譚# 52 ルーブルとナポレオン三世

    ▼巴里一杖酔譚# 52 ルーブルとナポレオン三世〔グランドホテルデュルーブル〕モンソー公園を抜けて、クールセル通りを歩いた。嫁さんがすぐに気がついた。「あ。こ…

  • ▼巴里一杖酔譚# 51 ニシム・ドゥ・カモンド美術館02

    ▼巴里一杖酔譚# 51 ニシム・ドゥ・カモンド美術館02〔カモンド伯爵邸内を歩く〕カモンド伯爵邸は中庭と外庭を挟んで建っている。中庭側にあるファサードはシンプ…

  • ▼巴里一杖酔譚# 50 ニシム・ドゥ・カモンド美術館

    ▼巴里一杖酔譚# 50 ニシム・ドゥ・カモンド美術館〔モンソー公園とカモンド伯爵〕朝一番にモンソー公園カモンド伯爵邸を訪ねた。8区にある。ニシム・ドゥ・カモン…

  • ▼巴里一杖酔譚# 49 アジェのパリ10

    ▼巴里一杖酔譚# 49 アジェのパリ10〔ソー庭園〕「アジェの時代、カメラは機器も技術も急速に進化したんだ。1900年代に入ると早々にイーストマンコダックがN…

  • ▼巴里一杖酔譚# 48 アジェのパリ09

    ▼巴里一杖酔譚# 48 アジェのパリ09〔パリの今昔風景03〕鳴かず飛ばす・・一部の人々には驚嘆されたアジェの創作活動だったが、アジェ自身が有名になることを望…

  • ▼巴里一杖酔譚# 47 アジェのパリ08

    ▼巴里一杖酔譚# 47 アジェのパリ08〔パリの今昔風景02〕1890年頃、アジェはパリに戻った。33才だった。ボルドー生まれのアジェが、演劇を志してパリへや…

  • ▼巴里一杖酔譚# 46 アジェのパリ07

    ▼巴里一杖酔譚# 46 アジェのパリ07〔パリの今昔風景〕今日のバケットをペニンシュラへ買いに行くついでに、裏口にあるテラスカフェでお茶した。その時の話である…

  • ▼巴里一杖酔譚# 45 アジェのパリ06

    ▼巴里一杖酔譚# 45 アジェのパリ06〔最初の写真集〕前後の経緯と残された資料から鑑みると、おそらくベレニス・アボットはマメに独りぼっちのアジェを訪ねていた…

  • ▼巴里一杖酔譚#44 アジェのパリ05

    ▼巴里一杖酔譚#44 アジェのパリ05 〔最後の1年〕 1926年はアジェにとって大きな変化の年になった。最愛の人ヴァランティーヌに…

  • ▼巴里一杖酔譚#43 アジェのパリ04

      ▼巴里一杖酔譚#43 アジェのパリ04 〔モンマルトルの夢見る若者たち02〕 後代名を成した、モンパルナスに流れ着いた若者たちの名…

  • ▼巴里一杖酔譚#42 アジェのパリ03

    ▼巴里一杖酔譚#42 アジェのパリ03〔モンマルトルの夢見る若者たち〕嫁さんの友人夫婦がやっているレストランが14区にある。ル・コルニッション(Le Corn…

  • ▼巴里一杖酔譚#41アジェのパリ02

    ▼巴里一杖酔譚#41アジェのパリ02 〔名声を望まず富を望まず02〕 アジェのアパートにほど近いパリ/モンパルナス・カンパーニュ=プ…

  • ▼巴里一杖酔譚#40 アジェのパリ01

    ▼巴里一杖酔譚#40 アジェのパリ01〔名声を望まず富を望まず〕市井の演劇人だったヴァランティーヌ・ドラフィスが亡くなったのは1926年6月20日。享年は79…

  • ▼巴里一杖酔譚#39 佐伯米子10

    ▼巴里一杖酔譚#39 佐伯米子10〔モンマルトルを歩きながら〕杖突きながらモンマルトル歩きは辛い。急な坂ばかりだからね。でも実は、バスが坂の細い道を巡ってる。…

  • ▼巴里一杖酔譚#38 佐伯米子09

    ▼巴里一杖酔譚#38 佐伯米子09〔不幸な終幕と帰国02〕1928年5月中旬。米子は前田寛治宛てに以下のような手紙を書いている。「フランス人の看護婦が私の止め…

  • ▼巴里一杖酔譚#37 佐伯米子08

    ▼巴里一杖酔譚#37 佐伯米子08〔不幸な終幕と帰国〕ガス事故によって祐三と娘弥智子は深く後遺症が残った。しかし米子は無事だった。これが祐三に不審と妄想をもた…

  • ▼巴里一杖酔譚#36 佐伯米子07

    ▼巴里一杖酔譚#36 佐伯米子07〔齟齬から破局ヘ そしてガス事故〕米子と祐三の間は急速に冷めて行った。理由は3つだ。ひとつは祐三がしばしば鬱に落ち込み正常な…

  • ▼巴里一杖酔譚#35 佐伯米子06

    ▼巴里一杖酔譚#35 佐伯米子06〔米子のパリ#02〕佐伯夫婦の2回目のパリは昭和2年(1927)9月から始まる。1人娘弥智子を連れて二人はシベリア鉄道経由で…

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、勝鬨美樹さんをフォローしませんか?

ハンドル名
勝鬨美樹さん
ブログタイトル
勝どきミキ/おはぐろ蜻蛉
フォロー
勝どきミキ/おはぐろ蜻蛉

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用