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  • 新聞の摂理(66)最終回

    3年といってもて、自分の事ですら、ハッキリとした意識を持っていない場合もある。「自分はアメリカに来て、何年だったかな?はて3年だったか?いや4年ではないか??」などと、明確に覚えていないので、指折り数えて見るのが凡人である。私を見られて、即座に「3年」、という正確な数字を言われるとは、まさに驚くべきであり、1人ひとりを心から愛されて、正確に観察されている何よりもの証拠である。言うまでもないが、真の愛がなければそういう事はできない心尽くし(精誠)である。これは私の勝手な推測であるが、お父様は神様から一人の人間を託されて、その人を必ず立派な指導者に育てなければならない、その責任を神様の前に確実に果たして、神様にご報告しなければならない立場から、真剣に我々を愛し、観察し、訓練しておられるのだろう。そして、その成...新聞の摂理(66)最終回

  • 新聞の摂理(65)3年やったからいいだろう

    お父様、“3年やったらいいだろう”新聞の売り上げ(発行部数)が伸びないこと、また編集内容がお父様の思われるほど強い勝共路線になってないことなどで、新聞全体を指導する人物として李誠洙先生が派遣されてきた。とくに編集内容を天の願う路線に合わせるためだった。この点においては、私がエバ国家の代表として、アメリカ人の経営陣、編集陣に対して、効果的に影響を与える事ができなかったこと、これはいくらお詫びしても済まない事である。私に関しては、お父様が「3年やったからいいだろう」と言われた。これはどういう意味か、私がそれ以後の体験をもとに解釈すれば:•何よりも、お父様との個人的因縁を築くことができたし、むろんお父様が私を記憶してくださった。•新聞を責任持ったために、多くの事を学んだ。国際情勢、政治、経済、法律など高度な英語...新聞の摂理(65)3年やったからいいだろう

  • 新聞の摂理(64)ご子女様との約束は後回し

    その後、お父様は新聞の経営陣、営業関係をイースト・ガーデンに呼ばれ、そこで報告を聞いて下さり、ご指導くださった末に、各人に何部拡大するという事を自分で決意して誓いなさいということになった。そのとき姉妹が来てお父様に、何やら耳打ちした。すると、会議をしていた部屋と玄関との仕切り戸が大きく開かれた。そこにはご子女様が全員整列して立っていて、一斉にお父様に敬礼された。何かと思ったら、お父様が言いにくそうに説明して下さった、「今日は、先生がご子供達を、ニューヨークの街に連れて行ってあげるという約束をしていたのだが、新聞の大切な会議が終わらないので、子供たちは先生なしで行くのだよ」、と言われたのだ。つまり、お父様が、我々新聞の会議をされるので、そのご子女様との約束は破られることになったのだ。それを知ってご子女様はご...新聞の摂理(64)ご子女様との約束は後回し

  • 新聞の摂理(63)お父様の本心

    ところでその後も何回かお父様とお会いする機会もあったし、以前と同様にみ言葉をいただいたりしたが、「日本に帰れ」のお言葉は、一回も聞かれなかった。私は、どうかそれをお忘れ下さるように、と祈るような気持だった。そうこうするうちにも、問題は部数拡大という事で、お父様も会社に来られて色々とご指導くださった。•こうなると、あの日お父様が非常に怒られて、挙句の果てに「日本に帰るように」のお言葉まで出てしまったが、それは決してお父様の本心でも何でもなかったのだ。朴普熙先生の言われた通り、あの日に新聞の報告をしたら、とんでもないことになるという事は分かっていたという事なのだ。要するにお父様が、我々の報告を聞こうともされないで、いきなり我々を叱ったのは、我々の億万倍も苦労して闘っておられるお父様の困難な事情を配慮せずにお伺...新聞の摂理(63)お父様の本心

  • 新聞の摂理(62)日常に戻る

    日本に帰れ⁉さて話を元に戻そう。私は海外宣教教師を通じて、海外通信のネットワークを作るための中東・アフリカ巡回を終えて、ニューヨークの本社に戻り、また日常が戻ったわけだが、それは経営の難しさという問題との闘いという事と同義であった。部数の拡大と経営を黒字にすることである。それは、既成の大新聞社でも難しい問題である。況や何の基盤もないこの小さな新聞においては、すぐに経営が黒字になるなどという事は考えられないほど大変なものである。成功していると言われる大新聞社でも、裏では競馬新聞の類を売って金を稼ぎ、帳尻を合わせているというのが現実である。なかなか難しい問題なのだ。話を簡単すれば、これはお父様にご相談する以外に道はないということで、(第二代目)社長のマイク・ウォーダーと私が、お父様をお訪ねした。ところがご報告...新聞の摂理(62)日常に戻る

  • 新聞摂理(61)果てしない神の悲しみ

    お父様が慨嘆された。それは取りも直さず、神が深い悲しみにくれていたという事であるが、復帰歴史をみれば、イエスの十字架は言うにおよばず、モーセの失敗、アブラハムの失敗、ハムの失敗、そして、アダム家庭の無残なる兄弟殺害、、、等々枚挙にいとまがない。神様の慷慨悲慟のご心情は、言葉に言い表せない。長い歴史を通じて、神様の眼に涙の涸れるがれる時もなかった。復帰摂理延長時代に入っても、神の名において、どれほど多くの酷烈無惨なる迫害・虐殺がくり返されてきただろうか。そして現代の再臨摂理、その中心国家であるアメリカの歴代大統領の相次ぐ失敗、背反を見られる神様の痛恨の心情は、我々の想像をはるかに越えている。私が新聞発刊の指示を受けていた時のお父様のご心情は、かくも深刻無比であられたことを今にして知る。たびたび訪れるイーストガーデ...新聞摂理(61)果てしない神の悲しみ

  • 新聞摂理(60)アメリカは第2次世界大戦の戦後処理をまちがえた

    1945年4月の大統領フランクリン・ローズベルト(FDR)の病死により、トルーマン副大統領が大統領に就任した。まもなく、ドイツが無条件降伏、8月には日本も無条件降伏し、第2次世界大戦は終戦となる。したがってトルーマンが戦後処理の実務を担当したわけだが、それはFDRが第2次世界大戦を通じて最高責任者であったこと、とくに戦後の体制を決定したヤルタ会談において、チャーチル、スターリンとの駆け引きのすえ、戦後世界の枠組みを決定したのだから、彼が処理を間違えたという責任は逃れるすべはない。FDRといえば、様々な角度から専門家達によって行われる米国大統領のランキングで、どの観点・分野から見ても常に、ワシントン、リンカーンと共に、ベスト3に入るほどの名大統領であった。しかし、その偉大なローズベルトにして、天の眼から観れば間違...新聞摂理(60)アメリカは第2次世界大戦の戦後処理をまちがえた

  • (59)神がアメリカにのみ、かような祝福を与えた給うた理由は?

    このように無比の祝福を受けたアメリカに関して、当の神様はどのように語られているのか、知ってみたいと願うのは、信仰者として当然であろう。なぜ神はアメリカにばかりこの様な恵みを与え給うたのか。考えの浅い者は、つい「神様は公平な方なのであろうか?」、と思ってしまうほどである。こんなことを考える人には、真の父母経の6篇第1章、第1節38を読まれることをお勧めする。お父様が、新聞の摂理担当者のみでなく、当時アメリカで活動していた食口達みなに、繰り返し教え諭してくださったみ言葉である。み言葉には、「アメリカは、民主世界の主導的な責任を担って今まで歩んできました。アメリカ国民は、神様がアメリカを200年間、無限に祝福してくださったことを知らなければなりません。サタン世界のものを奪い返して与えたのです。サタン世界を凌駕できる力...(59)神がアメリカにのみ、かような祝福を与えた給うた理由は?

  • (58) 神がアメリカの為にどれほど投入されたか

    お父様は、1969年にニクソン大統領が、「アジアの防衛はアジア人の手で」、の声明を発表したことを、心から慨嘆しておられた。いわゆる、ニクソン・ドクトリンである。なぜそのように悲しまれていたのだろうか。あとで詳述するが、お父様は、アメリカの独立以来神様がどれほど苦労されて、アメリカを偉大な国に育て上げて来られたかということをよくご存知であられたからである。その期待したアメリカが、いざこの時になって、神から与えられた聖使命を放棄してしまった、という深刻なアメリカの背反を見て、深く憂い悲しまれたのである。平たく言えば、アメリカは神からの溢れるばかりの恵みと、それに伴う大きな期待に沿わず、その祝福を“背反”でもって応えたからである。それでは第2次大戦後、神がアメリカを、どの様な状況下で、圧倒的な力を持つようにされたのだ...(58)神がアメリカの為にどれほど投入されたか

  • (57)「新聞摂理」 を打ち出したタイミング

    話しを少し元に戻そう。1976年発刊準備の半年間は、私とマイクが創業発刊の仕事を与えられた。その時、お父様が私に対して、多くのことを直接指示して下さった。マイクも同じなのだが、やはりお父様の対象は私であってマイクではなかった。むろん日本語が通じたから、という点はあったかもしれないが、私がエバ国家の代表という摂理的立場があったためであることは間違いない。新聞の摂理の内容を語られて、「新聞社の社長は先生だよ。何でも先生に報告し、相談するように」という厳しい指示を受けた。つまり、多くの幹部たちがいるが、新聞に関しては何も関与していない、先生の直接の指示しかないのである。新聞の摂理が始まったのは、タイミングとしては、ベトナム戦争でアメリカが惨めに敗れたその後だった。その後の混乱、経済の低迷等々、アメリカは栄光の歴史上、...(57)「新聞摂理」を打ち出したタイミング

  • (56)中東・アフリカ訪問を終えて

    旅程も最後の段階になったが、急用が生じたので、アイボリー・コーストに駆け足で寄って、帰途につく。アイボリー・コーストもフランス語で、むろん通訳はいたが、それでも話は英語のように幅広い会話は難しい。急というのは、妻が2番目の子供を産むその予定日が近付いている、ということで、電話があったからだ。金先生に話したところ、妻の臨月にアフリカに出て來るなど考えられない、すぐに帰りなさい、ということで、ニューヨークへ。途中、リベリアの首都、モンロビア空港で乗り換える。この国はアメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国され、1847年に独立した国なので、英語である、標識から人々の会話、全てが英語であって、何か本当に懐かしくてホッとしたのが忘れられない。やはりザイールとアイボリー・コーストでフランス語一辺倒の世界であり、人々...(56)中東・アフリカ訪問を終えて

  • 新聞の摂理(55) ザイール、キンバング教団(2)

    新聞の摂理(55)ザイール、キンバング教団(2)その教団は大変な生命力である。物質に恵まれず、科学技術全てにわたって開発発途上の国にあって、この教団は大したものだった。例えば、カメラ、音響装置、機械設備など、欧米と変わらぬ先端の設備が揃っていた。その他備えるべきものはすべて備えていた。これは何百万人という信者が、少しずつ献金して集めた資金によるものだっただろう。あらためて宗教の力を知る。(前回52,53,54参照)人々の暮らしといったら、それは日々大変な貧困と闘っているのだ。家々の前に小さな店を出して、何でも売れるものは売っている、品揃えは極めて乏しく、とても小売店とはいえない“店”だ。空港の駐車場(路上駐車)で、少年がただ立っていただけで、見張り料を請求するような経済事情なのだ。晩餐ののち、我々の原理講義紹介...新聞の摂理(55)ザイール、キンバング教団(2)

  • 新聞の摂理(54) 最大の宗教団体に招待受ける

    ところで、ザイールを中心として近辺の部族に拡大している大きな宗教団体を訪問する機会に恵まれた。「キンバング」という教団だ。信者数は数百万という事だったが正確な数かどうか定かではない。地方と言ってもアフリカである、その広さは日本の感覚では到底測れない。それが部族は無数にあり、国家かハッキリとしないという事情もあるが、何カ国にも及び、日本の何倍もの広さの地域に信者を持つものだ。彼らから、正式に晩餐会に招待されたのだ。むろんザイールの宣教師とともに招待されたのだが、その宣教師の言うには、彼らは本当に可哀そうな人達だという。西欧帝国主義者に騙され、搾取・剥奪されて、言語を絶する苦難と屈辱の生活を強いられてきた、その怨恨の歴史体験は、生々しく残っていて、彼らの心は不信感の固まりだというのである。それは哀れという言葉以外に...新聞の摂理(54)最大の宗教団体に招待受ける

  • 新聞の摂理(53) モブツ大統領の邸宅

    キンシャサの中心街を案内してもらった。官庁、放送局、ビジネス街等々、そして大統領官邸(官邸?公邸?私邸?)は、街のどの辺にあったのか覚えていないが、これはとてつもなく広大であって、車で行けども行けども延々と高い塀に覆われているので中は見えない。説明によれば、モブツ大統領の所得はGDPの1/3だそうだが、それ以上詳細はわからない。正確な情報ではないとしても、途轍もない巨額であることには間違いない。それと対象的に、先回も述べた一般市民の生活は悲惨としか言いようがない。物売りの女性、子供は至る所で、家にある物何でも売っているという様子だが、まともの商品はない。コンゴは、植民地主義からは解放され、ザイールとなったが、国民にとっては一難去ってまた一難とでも言おうか、こんどはモブツ大統領の独裁政権の下で苦しむことになる。ア...新聞の摂理(53)モブツ大統領の邸宅

  • 新聞の摂理(52) ザイール

    正式にはコンゴ民主共和国である。1885年にベルギー国王私有地となり、1908年にベルギー植民地となる。この國も、いちいち言うのも、胸が絞られるようい痛むが、欧州帝国主義の餌食となり現地民は地獄の苦しみを味わう数十年の何月が流れた。1960年にモブツ氏を首班とする民族独立がなされて、今後今後共和国として独立する。それ以來30年以上モブツ大統領による独裁政権が続く。我々が巡回したときは、まさにモブツ大統領の全盛時代だった。実際には、この巡回もかなり日を重ねて、睡眠不足、不慣れな生活、食事、時差・不規則な時間、宣教師たちの事情・報告を聴くことなどで、体はかなり疲れてきていた。南アフリカが、温帯的な気候であって、アメリカから来たわれわれにとっては、この上なく親和性が高かったが、ザイールは全く違う。まさに、これこそが真...新聞の摂理(52)ザイール

  • 新聞の摂理(51) 南アフリカ共和国、言語を絶する美しさの裏に

    プレトリアの住宅街を案内される、美しい家の並ぶ高級住宅街だ。直接関係はないが、帝国主義時代の残滓を見て、私は18世紀フランスの歴史を思い出した。ルソーは、「当時のパリはおそらく、世界で富の最も不均衡な都会である。贅を尽くした豪奢と、この上なく嘆かわしい悲惨とが同時に存在する都会、、。」と言ったが、まさにこれは南アフリカでも共通しているだろう。華やかな宮廷生活、ルイ14世から16世の時代、宮廷はカルタ遊び、音楽会、フランス役者の芝居、イタリア役者の芝居等々、お遊びのスケジュールがビッシリというわけだ。それぞれ、終わった後は晩餐会、その後もカルタ遊び、あるいは賭け事、夜食等々、毎日毎日楽しいことに多忙を極めたというわけである。また王様はことのほか狩猟が大好きで、15世は何と平均3日ごとに狩猟に出という。簡単に狩猟と...新聞の摂理(51)南アフリカ共和国、言語を絶する美しさの裏に

  • 新聞の摂理(50) 南アフリカ共和国、人種差別の実態

    次の日には、案内されて、その人種差別の実態をマザマザと見せられることとなる。公園に行けば公衆便所は、明確に白人用、黒人用と別れている。白人用は立派な建物で清潔なトイレであり、その裏に造られている黒人用は粗末で、見た目にあまりにもハッキリとしていて、調和が取れない、実に醜く不釣り合いな外見である。バスは、白人用の席は立派で、前の乗降口から乗り降りする。黒人は後ろの乗降口からである。その間は壁で区切られていて、互いに見ることも往き来することもできない。住居の寝室には、呼び出し用のボタンが付いていて、それを押せば、黒人の召使がとんできて、何でも命令通りに仕事をするようになっている。つまり主婦は何もしないで、ボタン一つで黒人召使にすべてやらせるようになっている。この主婦にとっては、洗濯機、掃除機、ディッシュウオッシャー...新聞の摂理(50)南アフリカ共和国、人種差別の実態

  • 新聞の摂理(49) 南アフリカ共和国、人種差別政策の亡霊

    ところが同行のアメリカ人のM兄弟は、全く違っていた。この地に踏み入れたその瞬間から、氣分がすぐれない、体調がおかしい、等々空港から宿舎に至るまでにすでに氣分が悪かったようだ。その後、聞いてみれば、霊的におかしくて、自分の心には全てがシックリとしない何かまともでない霊界に翻弄されて、心が安らかでない、そういう氣持ちだというのである。それだけならまだよいが、彼は本当に体調を崩してしまって、ベッドから起きて来られないまでになってしまったと記憶している。私は、せっかくアフリカで、心地の良い欧州風の街にきたのに、彼は一体どうしたのだろうか、などとのんびりしたことを考えていたのだが。彼は霊的に極めて敏感であって、どうもこの地の混乱した歴史とか、多くの怨みの籠った霊人たちの、影響をまともに受けてしまったらしい。それと比較する...新聞の摂理(49)南アフリカ共和国、人種差別政策の亡霊

  • 新聞の摂理(48) 南アフリカ共和国

    南アフリカ共和国は、19世紀~20世紀初頭、英国の植民地、大英帝国の統治下にあったが、いろいろと複雑な歴史を紹介するスペースはないので、けつろんを言えば1910年頃、アフリカーナーという、オランダなど英国人ではなく英語も喋らない白人達が、英国に対立した。けっきょく、彼らは英国統治下で自治を認められる。その後、ここではアパルトヘイトという人種隔離政策が強烈に推進され、南アフリカといえば、人種差別の代名詞のようになってしまった。長い歴史を経て、1994年にまで、現地人の熾烈なる闘いの末、ネルソン・マンデラ氏が大統領に就任し、現地人(黒人)が指導権を取得するのである。私たちが巡回したのは1977年であったから、当時は現地人(黒人)が、奴隷・召使として人間扱いされずに酷使され、徹底的に差別されていたその時代に属する。そ...新聞の摂理(48)南アフリカ共和国

  • 新聞の摂理(47) ローデシア(2)

    一つ逸話をいえば、宣教師たちの借りていた館の庭園には竹林があって、見事な竹が豊かに茂っており、良質そうな筍も見つかった。現地では筍を食する習慣がないらしい。そしてアフリカ人、ドイツ人の宣教師も、その竹になにも価値をおいていない。日本人の宣教師たちも、筍を食べるという事はしていなかったようだ。何せ不細工な男たちが、料理の方法も知らず、しかも開拓となればそもそも犠牲と苦労の道を覚悟している。筍を見てもすぐに料理に結び付かないくらいに苦労していたのかも知れない。でも我々が行くとたちまち目に留まり、この竹は十分に利用価値あり、と思った。これが、同じ日本人でも、その地で骨を埋める覚悟の宣教師と、一時的巡回で、宣教師たちを慰労しようとしている私たちの立場の違いがハッキリと解ったような気がする。よく森の中を見てみると立派な筍...新聞の摂理(47)ローデシア(2)

  • 新聞の摂理(46) ローデシア

    そろそろ体が大変になってきたころだ。それは連日暑い中で慣れない食事、寝る場所だって普通でない、時差の連続で睡眠だって容易ではない。でも苦労して開拓伝道している宣教師たちは、我々の訪問を待っていて、それが彼らの貴重な霊の糧になるのだと思えば、金先生を始めとしてM兄弟と私は、大変ななかを闘ってみんなと話したり生活を共にした。次はローデシアである。今その様な國はない。現在の「ジンバブエ」であるが当時はまだ、白人の(イギリス人)の支配下にあった。われわれの泊った教会も、イギリス建築そのままだった。そもそもローデシアというのは、その国の建設者であり、アフリカ植民地の開拓者とし有名なセシル・ローズの名に由来する。庭は豊かで、如何にも大邸宅の庭園の佇まいではあったが、それはむしろ栄光が去りつつある、斜陽の家といった空気が満ち...新聞の摂理(46)ローデシア

  • 新聞の摂理(45) ケニヤ訪問(3)

    ケニヤは英語の国なので楽である。いかに訛りが激しくても、英語であることはまちがいない。それに街に出れば看板その他すべて英語なので、アメリカにいるのと変わりない。これがどんなにありがたい事か、外国に放り出されてみて初めてわかることである。ナイロビ市内の公園に案内された。そこには、猿がたくさん、人々と同じところにいる。つまり檻に入っておらず、人が自由に近づけるし、餌を投げたりできるのだ。相手は逃げもしない。まさに人間と猿の共存である。期待した猛獣天国は、、、。自動車で少し走り、草原に出る。遥か広大な草原だ。そこにライオンも、キリンもいるはずだが、現実は何も見えない。いくら走っても景色は変わらない。まあ、こういうものです、という解説付きで“見物”は終わりとなった。ディズニーの記録映画、冒険漫画に描かれているような、心...新聞の摂理(45)ケニヤ訪問(3)

  • 新聞の摂理(44) ケニア訪問(2)

    ケニヤでも周辺数か国の宣教師が集まって、我々の一行を待っていてくれた。金先生による、一人一人の面接、心霊指導、質疑応答が主であり、私が通訳をする。知らない國へ飛び込んで伝道しようというのだから、その苦労ははかり知れない。ビザ問題、健康問題、基本的衣食住の問題、、等を始めてとして、兄弟の心情一体化問題等々。日・米・独の兄弟が共同で宣教するのだから、色々の問題、悩みがないはずがない。インタビューはそう簡単には終わらない。金先生は、さすがお父様から直接ご指導を受ける立場の先生だけあって、皆には大いに助けとなった。宣教師にとっては、文字通り砂漠の旅でオアシスを見つけて、美味しい水と、美しいも緑に、しばし心ゆく迄、憩いのひと時を持った様なものだっただろう。お父様がこうして巡回を指示されたのは、本当に宣教師に対する暖かい愛...新聞の摂理(44)ケニア訪問(2)

  • 新聞の摂理(44) ケニア訪問(2)

    ケニヤでも周辺数か国の宣教師が集まって、我々の一行を待っていてくれた。金先生による、一人一人の面接、心霊指導、質疑応答が主であり、私が通訳をする。知らない國へ飛び込んで伝道しようというのだから、その苦労ははかり知れない。ビザ問題、健康問題、基本的衣食住の問題、、等を始めてとして、兄弟の心情一体化問題等々。日・米・独の兄弟が共同で宣教するのだから、色々の問題、悩みがないはずがない。インタビューはそう簡単には終わらない。金先生は、さすがお父様から直接ご指導を受ける立場の先生だけあって、皆には大いに助けとなり、文字通り砂漠の旅で、オアシスを見つけた様なものだった。お父様がこうして巡回を指示されたのは、本当に宣教師に対する暖かい愛からであったという事がしみじみと解った。日本人の宣教師の場合は通訳不要だが、それでも私が立...新聞の摂理(44)ケニア訪問(2)

  • 新聞の摂理(43) ケニア訪問

    私の巡回は今から45年も前の話である、書かれていることは全てその時の想い出である。現在は関係のないほどに変化・発展している事だろう、それを前提として読んでいただきたい。ケニアは英国植民地だったので、言葉は英語である。でもその英語たるや余りにも訛りが激しくて、私にはほとんど理解できない、という嘆かわしい状態だった。しかしながらアメリカの兄弟は、ケニヤの英語を理解できる。何故かと言えば、結局私の英語自体、あまり分かったと言えるほどに解ってはいなかった。だから極めて正当な英語を正しく話してもらえばわかるのだが少しくずれると全くわからなくなる、その程度だったせいである。それはそうと、ケニヤと言えば私は、大草原に猛獣をはじめいろいろな動物たちが戯れている、動物天国、そんなイメージを持っていた。それはないわけではないが、ケ...新聞の摂理(43)ケニア訪問

  • 新聞摂理(42)トルコ、宣教師の証し(2)

    日本人が、アメリカ人ドイツ人と比べて、相当に劣るような言い方をしたが、誤解を招くので補足したい。私の巡回したのは、中東とアフリカであるが、この地域は日本人にとっては最も情報の少ない、歴史的繋がりの希薄だった地域だ。西洋人にとっては、中東・アフリカといえば裏庭の様なものだし。植民地政策を通じて、戦争、あらゆる種類の交易など、過去少なくも数百年にわたる、実際の激しい交流がなされてきた地域であり、いわば自分の体の一部分のような感覚があるだろう。もし目を東南アジア、中國に目を移せば、事情は正反対のなるだろう。この地域では、英語ほどでないとしても、日本語が通じる場合も多いし、歴史を通じて、色々な形で日本人にとっては近しい関係にあった。だから、宣教師の活動も、日本人の方がやりやすい側面もあるだろう。日本といえばそれだけで、...新聞摂理(42)トルコ、宣教師の証し(2)

  • 新聞摂理(41)トルコ、宣教師の証し

    世界宣教は、1975年、120カ国に、それぞれ日本、アメリカ、ドイツの3カ国から1人ずつ合計3人が派遣される摂理であった。我々が巡回したのは1977年2月だから、彼らが宣教に出て、まだわずか1~2年という時だった。トルコ、そして周辺のいくつかの国に派遣された宣教師たちが、我々を待っていたのだ。宣教師の証しを聴いて、印象に強く残ったのは、この3国の違いだった。世界に出て自分が自分の構想で開拓して基盤を造るという事になるとアメリカ人は非常に優れていた。彼らはむろん体も大きく、押出も良く、外交的である。それに何と言っても英語が自分の言葉である。さらに、世界何處でもアメリカ人といえば一目置くが、これは天の与えた長子國家の威力をそなえているためなのだ。だから、アメリカ人は何處に出ても物怖じしないし、相手も一目置く。一目置...新聞摂理(41)トルコ、宣教師の証し

  • 新聞の摂理(40) トルコ

    イスタンブールだ、少し高校時代の歴史をおさらいすると、トルコという国は、第1次世界大戦で敗れるまでは、オスマン・トルコであって、近世から現代にかけて400年以上、ヨーロッパ(バルカン半島)から、地中東部の沿岸一帯からエジプトそして今のアルジェリアの辺までを支配した大帝国であった。我々の訪問したイスタンブールは、トルコ最西端部に位置していて、バルカン半島の東端とトルコ本土とを分けるボスフォラス海峡を挟んだ大都市である。そこに長大な橋が架かっている。これの西側を“ヨーロッパ側”、東側を“アジア側”と呼んでいる。近世から現代にかけての世界史が、西欧(キリスト教、白人文化)主導であったことは言うまでもない。覇権国家もスペイン・ポルトガル、オランダ、イギリス、そしてアメリカへと移ってきた。あるいは、地中海文明圏から、バル...新聞の摂理(40)トルコ

  • 新聞の摂理(39) 出発前、お父様のご指導

    イースト・ガーデンにお伺いして、出発のご挨拶をした。”各國巡回して苦労して来なさい”、というみ言葉をいただいた。それだけではない、こちらが話を出す前に、お父様の方から予算について訊いてこられた。予算の話になったことは過去幾らでもあるが、そのたびにお父様のご指導は厳しい倹約、経費カットのお話と、それに対する厳しいご指導ばかりだった。ところが、今回は逆だった、”お金は十分にあるのか?そんな額で大丈夫かな」”と、今回に限って極めて詳細に心配して下さった。これが意外であると同時に、子を未知の世界に送り出す際の、親心を身に染みて感じたものだった。そしてご指導は続く、“君たち、我々宣教師の基盤がどれほど有難いか考えてみなさい。先生が宣教師を全世界に送ってあるので、彼らが皆特派員になる。彼らは現地の人脈に通じていて、色々と融...新聞の摂理(39)出発前、お父様のご指導

  • 新聞の摂理(38) 天の与え給うた機会

    中東・アフリカ巡回なんで、願ってもいないチャンスである。未知の世界に対する例えようもない興奮が心を掻き立てる、冒険心が刺激される。映画か、物語の中でしか知らなかった世界が、すぐに自分の実体験として、自分の体に沁み通るのである。それはとてつもない恵みだった。これを感謝せずに過ごしたら、神様の罰が当たる。同僚のメンバーからは、かなり羨望の眼で見られたが、この稀なる機会を生かさなかったら、彼らから問責される。そういう人たちの心を知りつつ、それ以上の体験と実績を積まなければならない、、、。そう考えるうちにも、目の前には灼熱の草原、ジャングルが展開する。しかし、一方、アフリカというと、どうしても不安になる。暑さはどれくらいか、マラリアに罹ったらどうしよう、何を食べるのか、自分が食べられるものがあるのだろうか、、、考えれば...新聞の摂理(38)天の与え給うた機会

  • 新聞の摂理(38) 出発準備

    中東・アフリカ巡回なんで、願ってもいないチャンスである。未知の世界に対する例えようもない興奮が心を掻き立てる、冒険心が刺激される。映画か、物語の中でしか知らなかった世界が、すぐに自分の実体験として、自分の体に沁み通るのである。それはとてつもない恵みだった。これを感謝せずに過ごしたら、神様の罰が当たる。同僚のメンバーからは、かなり羨望の眼で見られたが、この稀なる機会を生かさなかったら、彼らから問責される。そういう人たちの心を知りつつ、それ以上の体験と実績を積まなければならない、、、。そう考えるうちにも、目の前には灼熱の草原、ジャングルが展開する。しかし、一方、アフリカというと、どうしても不安になる。暑さはどれくらいか、マラリアに罹ったらどうしよう、何を食べるのか、自分が食べられるものがあるのだろうか、、、考えれば...新聞の摂理(38)出発準備

  • 新聞の摂理(37) 中東、アフリカ巡回

    1978年早々、ニュース・ワールド(NW)は、世界特派員支局に巡回指導を行う決定をした。私は中東、アフリカに行くよう指示された。ところでNWは特殊な新聞社であって、当時は世界特派員といっても、世界宣教師が兼ねていたケースがほとんどだ。宣教師は宣教のかたわら、その國の政情、経済、文化その他を取材して記事にして本社に送る。これは極めて巧妙なシステムであって、宗教団体にして初めて可能であり、宗教の性格を見事に生かした方法である。宣教というのは多くの人と会って、多岐にわたる会話をするので、自然に豊かな取材源となるのだ。巡回するということは、各國宣教師を訪ねて心霊的な問題から、政治社会にいたるまでチェックし、話し合い、アイデアの交換をすること、その内容を本社が吸い上げて、企画を練るという仕組みだ。それで私の巡回は、教会の...新聞の摂理(37)中東、アフリカ巡回

  • 新聞の摂理(36) 世界日報 北米総局

    ところで私は日本の世界日報の特派員のビザで、入国した。世界日報もニュースワールドも、摂理のための機関だったが、世界日報の方が先に出発して、アメリカに進出したかたちだ。でも実際、天のみ旨はアメリカが先なのだ。天の摂理的な予定からは、世界の中心で新聞を出版するということは疑問の余地もない。ニュースワールドには、日本人が十数人働いていたが、その中で日本の世界日報から来た人は数えるほどしかいなかった。彼らは日本の世界日報の特派員をしながら、ニューズワールドの仕事もした。お父様が巡回に来られたのも、EGでご指導いただいたのも、なにもかも全てはアメリカの日刊紙に対するご指導であって、日本の日刊紙の米国支局に対するご指導はなかった。天の心が何處にあるか、明白であった。先回は、欧米が決してわだかまりがないわけではないという事を...新聞の摂理(36)世界日報北米総局

  • 新聞の摂理(35) アメリカの誇り? 傲慢??

    一つ分かりやすい例をあげよう。アメリカに来て非常に不便なことがある。それは度量衡だ。アメリカでは距離はマイル・フィート。重量はパウンド・オンス。長さはフィート・インチ。液体ガロン・オンス等々である。これが日本から来ると大変なのだが、ヨーロッパ人も大変なのだ。みなメートル法で統一されているのだが、アメリカは違うので、この換算は面倒だ。不思議な現象だ、近代化とか技術とか、世界基準、と言ったもの、つまり新しい物の先頭を走っているはずのアメリカだ。そのリーダーシップの下で、世界の多くのものが基準化されて来た。そのアメリカが何故、古めかしいガロンとか、マイルとかオンスなどを使っているのか、換算が不便なことこの上ない。家をちょっと修理しようとして、部品、例えば蝶番とか、釘とか、色々あるが、その工具から、くぎに至るまで全てが...新聞の摂理(35)アメリカの誇り?傲慢??

  • 新聞の摂理(35) アメリカの誇り? 傲慢??

    一つ分かりやすい例をあげよう。アメリカに来て非常に不便なことがある。それは度量衡だ。アメリカでは距離はマイル・フィート。重量はパウンド・オンス。長さはフィート・インチ。液体ガロン・オンス等々である。これが日本から来ると大変なのだが、ヨーロッパ人も大変なのだ。みなメートル法で統一されているのだが、アメリカは違うので、この換算は面倒だ。不思議な現象だ、近代化とか技術とか、世界基準、と言ったもの、つまり新しい物の先頭を走っているはずのアメリカだ。そのリーダーシップの下で、世界の多くのものが基準化されて来た。そのアメリカが何故、古めかしいガロンとか、マイルとかオンスなどを使っているのか、換算が不便なことこの上ない。例えば、家をちょっと修理しようとして、部品、例えば蝶番とか、釘とか、色々あるが、その工具から、くぎに至るま...新聞の摂理(35)アメリカの誇り?傲慢??

  • 新聞の摂理(34) 本社の様子、ヨーロッパのアメリカに対する気持ち

    ヨーロッパなどは、長い歴史をかけて政治、科学技術、宗教・文化その他すべての面において世界をリードしてきたという絶対的な誇りがある。その誇りは半端ではない。19~20世紀、第2次大戦までは、世界の覇権国家であったイギリスなど、代表格であり、その誇りがそう簡単に消えるわけもない。でも世界の現実を見れば、アメリカが覇権国家である。どのように頑張っても、アメリカの力には歯が立たない。その内面の忸怩たる思いは、想像するに余りある。もっとも、アメリカ人にも逆のコンプレックスはある。つまり、歴史がないし、したがって建物、文化全般どれをとっても歴史的な趣、深い味わいはない。それを知るアメリカは、何とかハクをつけよう躍起になる。だからやたらに、旧いものが好きなのだ。レストラン等に行っても、わざと古く装い、新建築には見えないように...新聞の摂理(34)本社の様子、ヨーロッパのアメリカに対する気持ち

  • 新聞の摂理(33) 本社の様子、豊かな国際性の奥に

    ニューヨーカー時代とは大きく変わった。これで一人前の新聞社本社の体裁は備えられた。エレベーターを降りると受付、そこを通って中に入れば編集広告等々、応接室は奥の右側の角、窓が5番街と37丁目が両方に面している最高の部屋だ。その前に接客のエリアがあり、次に社長室、等々。私の机は、応接間の手前にあった。そこからは、全体が見渡せる。とくに編集長、経済部長、国際部長などが良く見えて、そこに出入りするお客さんもよく見える。外的には、けっこうまとまった新聞社の形態を整えた。従業員は、米、英、仏、独、オランダ、ベルギー、墺、中南米諸国、香港、日本、、、、国際色豊かだが、その内面は?多くの国から人が集まっているというので、従業員の口から、それぞれの国の人達の考えを知る機会に恵まれるわけである。これが外的な形態以上に色とりどりで、...新聞の摂理(33)本社の様子、豊かな国際性の奥に

  • 新聞の摂理(32) ティファニー・ビル、引っ越し

    こうして、華やかなりし昔のランドマーク(史的建築物指定)ビルも、廃墟に近かったが、我々新聞社の本社となる。我々にとっては、希望に満ちたビルである。引っ越しの時が来た。毎日新聞を発行しているのに、それに支障なく本社機能全てを移動するのであるから、大変な作業である。私の記憶する限り、総務全般を責任もって計画・指揮していたKという兄弟は、若いのになかなか作業能力があり、ほとんど問題なく、順調に引っ越し作業を成しとげた。細かいところは記憶にないが、一糸乱れず作業を完遂したその記憶は、心に残っている。余談になるが、K兄弟はその後、教会関係の重要機関で、つねに陰の管理部門を担当し、組織の強化・整備に大きな功績を残している。ワシントン・タイムズにおいても重要な仕事をしていた。彼は、真面目な信仰者であるので、何か大きな教会イベ...新聞の摂理(32)ティファニー・ビル、引っ越し

  • 新聞の摂理(31) ティファニービルに踏み込む

    我々の物になったビルに入る。戦利品を手にするような気分だが、当時景気のどん底で喘いでいたニューヨーク、老舗のビルとはいえども、テナントもいなくなり、ポッコリと荒廃した空室の並ぶ大きいビルに入るのは、そう気持ちの高揚するものではない。ニューヨーカー・ホテルに初めて踏み込んだときと同じような雰囲気だった。一階は5番街に面しており、たしかハンバーガー店、銀行などがあったが、それらも、しばらくして出て行った(リース契約が切れたのだろう)。その後は、短期契約(あるいは月ぎめ)で、いろいろ名もない小売店が出たり入ったりした。ビルのイメージを台無しにすることこの上ない状態だった。これも不景気のニューヨークの実態だっただろう。新聞社がはいる階を改装、改造、ペンキ塗り直しなどする作業から開始するのだが、これは教会員を動員して行な...新聞の摂理(31)ティファニービルに踏み込む

  • 新聞の摂理(30) ティファニー・ビル買収交渉

    お父様は先頭に立たれて、ビル買収交渉をされたようだ。次に日にもティファニーに来ておられたそうだ。「これを買うのだ」と思ったら、それを逃さないという執念という事か。私が、若いアメリカ人の何も解っていない者が、お父様に余計なことを言って、、、などと、内心苦々しく思っていたのだが、事態は私の思っていない方に発展していた。私よりも、その兄弟の方が天の心情に近かった、と言われても否定はできないだろう。その兄弟を通して神が働いたのだ。ともかくその行動力には舌を巻くばかりである。さっそく、オーナーと会っておられたという話である。別の物件であるが、ベルべデアを買われた時も、自動車で回られて、室内の調度品、絵画など美術品店、骨董品店、専門店その他、ご自分の脚で回られ、絵画、家具、調度品等々を点検され購入されたと聞いている。人に命...新聞の摂理(30)ティファニー・ビル買収交渉

  • 新聞の摂理(29) 「ティファニーで朝食を」

    これは、1961年に封切られて、世界に人気を博した名画である。私の学生時代である。往年の世界的名女優、オードリー・ヘップバーンの主演による、アメリカ全盛時代、いわゆる佳きアメリカを代表する名画である。日本でどれほど人気を獲得したのか知らないが、私も題名は知っていたくらいだ。もっとも、オードリー・ヘップバーンといっても、今の若い人にはピンと来ないかも知れない。私の年代だと懐かしく思い出す名前なのだが、、、、、。その舞台となったのが、このティファニー・ビルである。世界的に有名な5番街の老舗宝石店である。このビルは宝石店であって、レストランではない。何が「朝食」なのか分からないが、この映画のことについて深入りするつもりはない。要するに、お父様は、由緒あるある土地、建物を多く買われた、という事実を伝えたいだけだ。アメリ...新聞の摂理(29)「ティファニーで朝食を」

  • 新聞の摂理(28) ティファニー・ビル購入

    ある日、本社で仕事をしているとき、騒ぎが起こった。それは、何てことない、副社長のMが、“オトーサマが来た”、というのだ。お父様はよく巡回視察に来られたので、こんなことはよくあることではあった。しかし、実際に来られる時には、本社全体に緊張感が走るのだ。例によって、報道・取材、編集、広告、企画、等々、足早に回られて、役員室で幹部一同に話しをされた。その時、よせばいいのに(と私は思ったのだが)、役員の1人であるアメリカ人の兄弟が、「お父様、5番街にかの有名なティファニー・ビルが売りに出されていますよ“、としたり顔で報告した。するとお父様は、それにすぐに反応されて、「それでは、その物件をすぐに見に行こう」と言われた。言われればその後の行動は、稲妻のように速い。すぐに、その現場に向かわれた。私達は、それに同行するべきか否...新聞の摂理(28)ティファニー・ビル購入

  • 新聞の摂理(27)サブウェイ(地下鉄)に乗って

    朝5時に起きて、配る新聞の束を持ち、地下鉄でハーレムに行く。もちろんアパートばかりであるが、それがかなり古いし、薄暗い。安全な場所とはいえないが、恐れてばかりいても何もできない。黎明からの活動、酷寒、重い新聞の束、安全性、、、かなりマイナス要因が重なっているが、決意して行動を開始すれば、特に苦しくも何ともない。いま考えればかなり無鉄砲だったと言えるかもしれないが、当時は恐怖心などなしに、薄暗いアパートへと入っていった。それどころか、「これもアメリカ社会勉強」と、と困難を逆手にとって、すべてを前向きに見て走る。あるアパートでは、ノックすると相手が戸を開く、すると黒人の大きな夫人が鉄棒をもって仁王立ちに立っていた。でも、私を見て気抜けがしたのか、安心したのか、忠告をしてくれた、「あんたは、こんなところ一人で回って危...新聞の摂理(27)サブウェイ(地下鉄)に乗って

  • 新聞の摂理(26)ハーレムへ行く

    さあ、いよいよ出発!とは言え何も基盤はない、購読者もいない。当時は、何でもお父様が関心をもたれ、近辺の食口がニューヨーカーの、大宴会場に集められたときも、新聞の重要性についてみ言葉を賜ったものだ。さて、販売促進の1つとして、無料で各戸に新聞を配達すると作戦が取られた。マンハッタンを区域に分けて、一件々々新聞を入れてゆくのだ。私の担当地域はハーレムの一区域となった。ハーレムというのは、当時はいわゆる貧民窟だった。1月の酷寒の中だった。当時は地球温暖化の顕著となる以前の時代だったので、冬の寒さといったら東京とは程度がちがう。お金もないから、マンハッタンの安物衣料品販売店に行って防寒用のジャケットを買ってそれを着ての活動だ。マンハッタンというのは特殊な処で、ご存知のように、世界の最高級品店が軒を並べている。まさに、玉...新聞の摂理(26)ハーレムへ行く

  • 新聞の摂理(25)副社長に任命される

    新聞は印刷されるが、そのあと配達が必要だ。むろん、ニューススタンドにも出すし、立って街頭プロモーション(販売促進)もする。しかし、脚で稼ぐ戸別訪問販売、そして配達も大切だ。一般的に言って、コツコツと脚で回り、顧客を獲得して、配達するのが一番確実であり読者も定着する。ある日ニューヨーカーの本社に、お父様が突然姿を現された。例によって、その虎のように素早い歩き方で、各部を回って歩かれたのち、日本人を集められて、み言葉をくださった。細かいことは記憶していないが、新聞社と言えども教会の伝道と同じであって、要は忠孝の情をもって、人を想い、天に忠誠を尽くしながら、感謝をもって歩むこと。これをアジア人を通してアメリカ人を積極的に後援したという伝統を立てなければならないこと、そのためにアジア人の中で誰を選ぶかと言えば、先生は日...新聞の摂理(25)副社長に任命される

  • 新聞の摂理(24)第一号が印刷される

    それは1976年の12月の31日だった。色々とあったが、どうにか全ての問題を乗り越えて、第一号紙印刷にこぎつけたのだ。社長とアメリカ人のM兄弟と、そして私が、マンハッタンのニューヨーカー・ホテルから、自動車で小一時間かかる、郊外の住宅街にあるイースト・ガーデンにおうかがいした。お父様は、地下の一室で理髪をされていた。神の日の準備をされていたのだろう。私たちが駆け込んだのを、理髪の最中であったが迎えて下さった。理髪をする姉妹以外には誰もいなかったと記憶している。早速、出来立てホヤホヤの新刊をお見せして、基本的なことをご報告した。お父様は特別に何も言われなかったが、本当に嬉しそうな表情をされて、ページをめくり、色々と見られていた。この様に小さな新聞社で、未経験の者達が集まって発刊した新聞であったが、カラー印刷の記念...新聞の摂理(24)第一号が印刷される

  • 新聞の摂理(23)霊的な激戦の中の御方

    今考えれば、想像もできないほど頻繁に、お父様は現場に来られ、いろいろとみ言葉を下さった。それは、人間の生き方、アメリカが現在、精神的・霊的に如何なる危機に陥っているか、み言葉をもってアメリカに来た者の心得、お父様が如何にしてアメリカを愛しているのか、精誠とは何か、こうしてはるばると太平洋を渡ってきて、かつて(第2次大戦時)の怨讐であるアメリカに来たその感慨、等々、挙げればキリがないほど多くの教えだった。あの時、お父様のその心情の一片も理解していなかった自分を、今ながら恥じ入るものである。こうして回顧して自分の未熟さを懺悔する以外に何もできない自分が情けない。でも、考えてみれば今だって、当時と大して変わりがない自分だろうなと思う。再度深い悔い改めの思いを取り戻し、再決意する日々である。それで、痛いほど解ったのは、...新聞の摂理(23)霊的な激戦の中の御方

  • 新聞の摂理(22)アメリカ人の英語は、英語でない?

    イギリス人の誇りの高さ、というか気位の高さは、聞きしに勝るものだった。イギリス人に言わせれば、英語だけの話しではない、例を挙げれば、アメリカのジョークたるや、イギリス人にとっては何も可笑しくないどころか、“次元が低い”か、良く言っても“幼稚すぎる”ということだ。アメリカのドタバタ喜劇などは、イギリス人にとってはバカバカしくて見てはおれん、というところらしい。でもこの辺にまで話しが来ると、私も賛成できる。あるいは少なくともイギリス人の気持は良く理解できる。私だって、アメリカ人の大笑いしている喜劇など、笑う気にもなれない場面がたくさんある。例えば、大きなケーキをひっくり返してしまって、服がメチャメチャに汚れてしまった、などという、ギャグのクライマックス場面を、観衆が喜んで大笑いしているが、イギリス人にとっては可笑し...新聞の摂理(22)アメリカ人の英語は、英語でない?

  • 新聞の摂理(21)国際協調の難しさ

    新聞の摂理(21)国際協調の難しさ怨念清算、心情復帰、、言えば簡単であるが、、、。国際色豊かな従業員構成であったが、実態をいえば、その従業員たちは基本的に国ごとに固まって話したり、付き合ったりしていた。でもそれは仕方がない。お互いに全く知らない相手と、そうそう仲良く打ち解け、心を通じることはできない。でもいつも将来の理想、それに向けての努力ということで理解する。私は、イギリスから派生したアメリカとイギリスなどは、壁も何もない、同じ仲間であろう、などと想像していたが、それがそう簡単ではないようだった。言葉の壁がないアメリカ人とイギリス人も、仕事以外の時間は、やはり国ごとに分かれて、夫々の国に固まっていた。それは、私より3年も前からアメリカに来て、活動していた日本のメンバーから説明されて、なるほどとわかったことだが...新聞の摂理(21)国際協調の難しさ

  • 新聞の摂理(20)社長をイギリスから迎える

    この新聞社は、全世界の組織から従業員を募った。その結果、英、独、仏、墺、香港、中南米、、、等々、きわめて国際色豊かな従業員構成となった。社長に選ばれたのはイギリス人だった。なかなか恰幅のよい人物だったが、新聞業には経験がなかったようだ。早速事務所にやってきたが、その挨拶その他、だいぶ昔のことなのでよく覚えていない。というよりも、彼が何か言ったのだが、私には聞き取れていなかったのである。彼は、奥のスウィート・ルームをにわか改装した社長室の主となったわけだ。日本人がたくさんいるので、彼は特に日本人に気を使った様子だった。それもそうだろう。十分に英語のできない、黄色の肌の日本人を扱うのは、やはり大変だったろうと思う。40年以上も前の事である。日本人と言えば、良い噂も沢山あったが、不気味なイメージもあったことは間違いな...新聞の摂理(20)社長をイギリスから迎える

  • 新聞の摂理(19)イーストサン・ビル界隈

    その地区は、クイーンズ・ボロウ・ブリッジを渡ってすぐのロング・アイランド・シティーであったが、この地域たるや、大変な地域であった。スラム街のように汚いのは我慢するとしても、大変に危険な地域だったのには当惑した。町はすさび、アパート群は荒れていて、至る処に落書きが描かれ、まともな服装で歩いていたら間違いなく襲われるだろうという恐怖感が漂う場所だった。事実、私はサブウェイ(地下鉄)でそのビルに行ったのであるが、駅からビルまでの間を5分ほど歩くのが、恐ろしかった。それは相棒のM兄弟が、アメリカは恐ろしい所だよ、ということを繰り返し説明してくれていたためでもある。アメリカが怖い所だなどとは、実感していなかった我が身であるが、Mによれば、ミスター・コバヤシは、“盲人蛇に怖じず”だよ、というのである。その日早速、サブウェイ...新聞の摂理(19)イーストサン・ビル界隈

  • 新聞の摂理(18)印刷所候補のビル

    新しい新聞の印刷所は、クイーンズ地区にあるイーストサン・ビルに印刷機を設置して行なうという方向であった。このビルは、その当時、教会が多くのビルを購入したなかの1つである。製菓工場であったが、廃業して売りに出されていたものである。前にも述べたが、当時のアメリカの景気は沈滞しており、多くの企業が倒産へと追いやられていた時期である。そのビルに行ってみると、たしかに倒産した工場という氣色で、巨大な空間が空しく広がっていた。それだけでない。ここは製菓工場だったので、空虚な空間ではあったが、甘いクリームのような匂いが依然として、ビル内の隅々に淡く漂っていた。いくらお菓子の匂いとは言っても、荒れ果てた工場跡で、埃の積もった部屋のなかを漂う匂いなど、決して氣持ちの良い香りではない。ビルを視察して歩くに、大きな部屋とか作業場が次...新聞の摂理(18)印刷所候補のビル

  • 新聞の摂理(17)お父様のご指導

    お父様は、たびたび現場巡回に来られた。ニューヨーカー・ホテルの本社にも、幾度となく巡回に来られた。ニューヨーク(マンハッタン)には、摂理のための機関が集中していた。例えば、ニューホープ・シンガー、ニューヨーク・シティー・シンフォニー、ニューヨーク教会、MFT、一和人参等々、実に胸のすくほどに、迅速に回られ、しかも必要な場合には丁寧な霊的指導を下さり、み言葉を与えられて、疾風のように去って行かれる、ということである。新聞のために働くメンバーたちも多くの恵みを賜ったわけである。特に、ニューヨーカー・ホテルには、多くの機関の本部があった。新聞の摂理に従事する日本食口を集めて語られたこともある。たった20人にもならない我々に対して多くを語られ指導された。そのご指導の中心は、日本人はコツコツと働き、み旨を愛し、誠意を尽く...新聞の摂理(17)お父様のご指導

  • 新聞の摂理(16)本社の体裁を整える

    話を元に戻す。ニューヨーカー・ホテルに本社を置くとの決定と共に、多くのアメリカ人メンバーが、この新しい新聞発刊に関心をもち、集まってきた。といっても若くて経験不足の人ばかりだった。みな教会活動をしていた兄弟姉妹たちだが、学生時代にキャンパス新聞をはじめ、それなりの新聞経験をもっている人が何人かいただけだ。経験のあるDという兄弟が、頭を抱えていたのを思い出す。それは、話の通じる人が1人もいない、全てイロハから説明しなければならないということだった。それほど、新聞の素人ばかりの集まりであったのだ。でもそのなかに、新聞学科を専攻して卒業したメンバーが2人いた。その2人は、実践経験はないけれども、知識・判断力に優れ、大変に頼りになったものだ。この2人は、今でも立派に言論関係の仕事をしており、摂理に役立っている。日本人も...新聞の摂理(16)本社の体裁を整える

  • 新聞の摂理(15)米國の景氣はどん底だった

    余談になるが、当時は泥沼に陥ったベトナム戦争から、アメリカが撤退して、3年経つが、その後遺症を患っていた時期だ。50万人以上の兵士と、天文学的な数字の軍事費を投入しても、戦況は混乱するばかりで、「偉大なる」はずのアメリカがそれを解決することができなかったのだ。そのため、国家財政は疲弊しきっていて、ビジネスも振るわず、不況のどん底であった。ジョンソン大統領は2期目の大統領選に立候補をあきらめた。新聞摂理開始から7年ほど遡るが、ベトナム戦争の膠着状態から「名誉ある撤退」する事を公約にして、当選したのが第37代大統領のリチャード・ニクソンである。彼は早速、奇想天外な手を次々と打つ。これがニクソン・ショックと言われるものだ(1971~2年)。ここでは、本論を外れるので、これ以上は言わないが、例を挙げれば彼の打った経済政...新聞の摂理(15)米國の景氣はどん底だった

  • 新聞の摂理(14)ニューヨーカー・ホテルに本社

    新聞社はニューヨーカー・ホテルに本社を置くことに決定された。40階建て、マンハッタンのミッドタウン。これだけ聞くと華やかに聞こえるが、現実はなかなか大変だった。まずミッドタウンといっても、ニューヨーカー・ホテルのあった8番街34丁目界隈は、ウェスト・サイドで場末だった。売春婦が立ち、古びたビルは、コンクリートの覆いが剥げて赤レンガが丸出しになっていて、修復もしていない、などというビルはいくらもあった。危険で、夜の一人歩きは恐ろしかった。ビルは、たくさん売りに出ていた。摩天楼の立ち並ぶマンハッタンではあったが、そのビルは灰色にくすみ、古いビルが立ちならぶ。それでも、「腐っても鯛」というか、高層ビル群が圧倒的な存在感だったことには間違いはない。アメリカの経済は停滞していた。マンハッタンはまさに、その経済の大変な状況...新聞の摂理(14)ニューヨーカー・ホテルに本社

  • 新聞の摂理(13)ニューヨーク・タイムズに勝て

    先回の投稿で引用させてもらった聖句のように、凄まじい闘いをされていたご父母様であられたが、いつも訪問するイースト・ガーデンは、外的には限りなく美しく平和で、四季折々に美しさを見せる平和の園(のように見えた)であった。その霊的闘いの激烈さ、それに対する外的空気の平和な美しさの落差といったら、これも想像を絶する違いであった。お食事も、いつも美味しいお食事をいただいた。そんな外的な平和と幸せに酔ってしまって、親の苦しみには絶えて思いの行かない、幼く愚かな我々であった。でも今にして思う、お父様の激しい闘魂と直面することも、毎度であった。お父様の穏やかで、優しいご指導と、その激しい内容とは、確かに極と極をなしていた。たとえば、「新聞社の印刷機は、どのような機械、サイズを注文しようか」、などという話題になれば、必ず“ニュー...新聞の摂理(13)ニューヨーク・タイムズに勝て

  • 新聞の摂理(12)アメリカの地に、独り立たれ闘われたお父様の御心情

    お父様の肝いりで始まった新聞の摂理である。実際のビジネスは、むろんのこと実務者に委ねられているが、そのインスピレーション(アメリカ人は、この言葉を使う)というか、基本的な動機、方向性は創始者であるお父様そのものである。そんな事情で、私も何回もイースト・ガーデンにお伺いして、新聞に対する熱意に満ちたご指導を賜ったものである。お父様が新聞摂理を打ち上げられた目的というか、その理由は、悪意に満ちたメディアの事実に反した報道に対して、正しい立場を説明することであるが、言うまでもなく新聞摂理の本当の意義は、事実アメリカ社会を侵食している共産主義、唯物思想を糺し、アメリカ国民、ひいては世界を思想的に啓蒙するという事であるのは言うまでもない。お父様がどれほどの苦しい闘いをされていたか、その御心境は下の者がいくら理解しようとし...新聞の摂理(12)アメリカの地に、独り立たれ闘われたお父様の御心情

  • 新聞の摂(11)アメリカでの宣教活動の基礎

    苦労してその時学んだものは、すべて生きて、それ以後40年以上にわたって、私がアメリカにおける摂理に携わるに決定的に役立っている。アメリカでの私のミッションおよび信仰生活は、おおかたビジネスと切っても切り離せないものだったが、そんな生活の基礎はこの時期に培われたといってもよい。むろんこれは、私の専門的に学んだのが、経営・経済学であるが、そのような教育背景も、神様が私を訓練された賜物であることも自覚している。学生時代に専門書を原語(英語、ドイツ語)で読んだのも、アメリカでミッション活動に従事してゆくために、有難い助けとなっている。だからといって、私はビジネスマンでもなく、それほどの専門的経験・能力を持つものでもない。天一國時代に日本からアメリカに遣わされた海外宣教師である。ビジネスもビジネスだが、このミッションを与...新聞の摂(11)アメリカでの宣教活動の基礎

  • 新聞の摂理(9)弁護士を訪問

    弁護士が説明する内容は、M兄弟が訊き、ノートを取り、会社設立要領を学ぶ。この程度の話が、今は問題ないどころか当たり前の手続きだ。でも当時はM兄弟も私もすべてが新しく、学ぶことばかりだった。まずは、弁護士の言っている事、私は100%解らない。ただ意味のないペラペラという英語が響いているにすぎない。弁護士との話のあと、事務所に帰りM兄弟から、噛み砕いた易しい英語で、その内容を説明してもらう。いやはや手間のかかる、気の遠くなるような話である。当時は、日本経済が登り龍のようで、テレビ、テープレコーダー等々、日本製品がアメリカ市場を席捲し始めていた時期である。私もその恩恵に与かったといえばその通り、マンハッタンの日本書店に行けば、あらゆる種類の日本書籍を売っていた、特に初心者が「アメリリカでビジネスを始める手引き」、「ア...新聞の摂理(9)弁護士を訪問

  • 新聞の摂理(8)会社設立

    名前は決まった、事務所も決まった。手探りだが、いろいろと調査を始めた。会社形態も、ふつうの営利法人か、いや宗教団体の傘下にして、非営利で教会の思想を伝えるのが理想ではないか等々、基本的なことを検討した。しかし、原点に立ち戻り、発起人、理事会の意向を分析すると、営利会社が良いという結論に達した。M兄弟だけが頼りだった。アメリカ社会のこととなれば、私は盲人・唖のようであった。M兄弟だけが頼りといっても、彼は大学を出て間もなかったので、社会経験も少なかったし、ましてや新聞業などではズブの素人であったが。会社設立手続きのために、弁護士を雇わなければならない。私はアメリカに来た当時、自分の英語は単なる会話でなくて、ある基準をもったビジネスなり、法律なりを十分に理解し、また自分でもしゃべれるようになる事、という自己の目標を...新聞の摂理(8)会社設立

  • 新聞の摂理(7) マンハッタンに事務所をかまえる

    先輩方の助けでもって、マンハッタンの事務所を作った。国連渉外チームの事務所の空き部屋を使わせてもたったのだ。むろん家賃を払ったので、彼らとしても有難かったかもしれない。場所は、マンハッタンの真ん中、グランドセントラル・ターミナルの傍、44丁目だった。さて、この何も知らないアメリカで新聞を出すなど、狂気の沙汰かも知れない。アメリカの兄弟Mが、新聞摂理に配置されていたので、大いに助かった。彼がいなかったら何もできなかっただろう。彼だって新聞業など何も知らないが、ともかく言葉ができて、アメリカの大学を卒業して、アメリカ社会を知っている。それだけで、私にとっては救い主のようだった。イーストガーデンには、何回かお伺いして、御指導を賜った。行けば必ずダイニング・ルームのテーブルを囲んで、幹部たちが真剣にみ言葉を受けていた。...新聞の摂理(7)マンハッタンに事務所をかまえる

  • 新聞の摂理(7)ニューヨーカー・ホテルで、日本人の性格を知る

    天國といったのは、2つ目の重要な理由がある。それは、ホテルが世界各國から集まった兄弟姉妹たちで満ち溢れているということだ。これは、日本にいては絶対に味わえないことであり、そこに住むだけで視野が広まり、心も大きくなる。ロビー、食堂、エレベーター、、、、等々、いたるところで色々な國籍の人と会う。語られている言葉は基本的には英語だが、むろんそれだけでない。英語以外で圧倒的に多いのは日本語だ。言い換えれば、日本から来た食口がたくさんいるという事だ。でも、数が多いからだけでない、日本人は英語が全く苦手なのだ。日本という國は、英語教育は良くなされているし、日本には英語が満ち溢れている。でもその英語は、単語だけの場合が多い。それだけではない、日本人が英語だと思って使っていても、本場のアメリカでは全く使われていないどころか、そ...新聞の摂理(7)ニューヨーカー・ホテルで、日本人の性格を知る

  • 新聞の摂理(6)ニューヨーカー・ホテルの日常

    天國といっても、ホテルだから普通の生活をするアパートとして設計されているのではない。そこにはいろいろと問題もある。まず、大切な「食」はどうなるのか?朝食はみな2階の大食堂に行って食事していた。むろん、ホテルの食事ではない。このビルの管理責任者が、入居者のための食事を準備する。時間になればみな降りてきて、兄弟一同大ホールで食事するのだ。日本人が多かったので、日本食を準備してくれた時も多い。何も知らない外国人が料理する日本食なので、ふしぎな味がするが、セリアル類、PBJ(パンにバターとジェリーを塗って挟んだもの)、コーヒーとジュースを基本とした朝食に閉口している日本人にとっては、味噌汁とご飯、梅干しがでてくれば、人心地が付き、一日の励みとなろうというものだ。管理者の心遣いに、心から感謝したものだ。朝食の準備が不要な...新聞の摂理(6)ニューヨーカー・ホテルの日常

  • 新聞の摂理(5)ニューヨーカー・ホテルに住む

    詳しい経緯は覚えていないが、ニューヨーカー・ホテルに住むことになった。当時は、日本から宣教に来た777双家庭のなか、ニューヨークでみ旨に歩む家庭は、大体においてここに住んだ。古いホテルでも、ちゃんと冷房まで正常に機能する、暑い夏などはきわめて快適だった。日本にいた時には、冷房の効いた涼しい部屋で、蒸し暑い夏を過ごせるということは、考えられなかった(50年前である。今のように冷房が一般化してはいなかった)。日本では、初期の献身生活の時代であり、地方の地区長をしていた時も、家庭をもたない独身の地区長だ。子供を産んで育てるという、そういう段階ではなかった。前線々々の活動だったから、結婚して家庭を持つなどという事は、まったく新しい世界だった。つまり、アメリカに来たという事と、新しいけ家庭生活を出発する、という全く異なっ...新聞の摂理(5)ニューヨーカー・ホテルに住む

  • 新聞の摂理(4)ジェコブ・ハウスに住む

    私と妻は、ジェコブ・ハウスでもって新しい結婚生活をはじめた。それは、イーストガーデンから車で5分ほどのところにある家だ。昔の大きな屋敷であって、教会が買い取って、当面アパートのようにして使用していたのだ。日本の777双家庭が何家庭か新居をもっていた。イーストガーデンを中心に、近辺(車で5~10分圏内)に、いくつかの家があり、あたかも城下町のような感じで、食口達が住んでいた。この辺に住めば、日曜の礼拝(ベルデベア)に行くのも近いし、ご父母様の愛の主管圏内にいるというような、一つの霊的安心感があった。私は、その“新居”からニューヨーク、マンハッタンの事務所に通っていたのだ。通勤電車で、約45分ほどだった。通勤電車といっても、東京のそれとは天地の差だ。ご存知、東京の通勤電車のラッシュ・アワーは文字通り、動物輸送車と大...新聞の摂理(4)ジェコブ・ハウスに住む

  • 新聞の摂理(3)ニューヨーカー・ホテル界隈

    何よりも、不思議であり、運命の神秘を感じたのは、「いま私は子供のころから、憧れというか手の届かなかった偉大なるアメリカに来ている」という事だった。しかも、憧れていたアメリカの、その衰退しているように見える姿を訪ね、昔の繁栄の痕跡を見るという、、、、何とも感慨無量というか、言葉で表現しづらかった。子供の頃から、ディズニーの漫画映画、そして中学からの英語の教科書、愛唱歌「オールドブ・ラック・ジョー」、「トムソーヤの冒険」などに親しみ、学生時代には専門のビジネスを学び、IBM、GM、フォード、等々圧倒的な実力とスケールの世界を教材として、私の専門の学習をしたものだ。そのように、アメリカには親しんできたし、手の届かない素晴らしい國というイメージが固定していた。私は一世代若いので、“敗戦國日本”という一種のコンプレックス...新聞の摂理(3)ニューヨーカー・ホテル界隈

  • 新聞の摂理(2)ニューヨーカー・ホテル

    当時、教会はニューヨーカー・ホテルを買った。ホテル業ではなく、建物を買ったのだ。そこを世界宣教本部として使うためだった。私はそのビルに行ってみたが、ホテル業はすでに閉鎖して久しく、巨大なビルが空虚に立っていた。当時、景気が沈滞していて市自身が大変な不況に苦しんでいたのだ。だからホテル業も例外ではなく、ビジネスを続けることができなったのだろうか。住人のいないビルディングは至るところに立っていた。ニューヨーカー・ホテルの界隈の8番街は、売春婦が立っていて、しかも犯罪も多い、まともに歩くのも怖い所だった。世界の中心であるニューヨークでもって、そのビルディングの中は、洞窟のような感覚があり、その中を歩くのが、何かジャングルの中を探検するような感があったのを覚えている。ロビー、種々の会議室、大宴会場、、等々、どこへ行って...新聞の摂理(2)ニューヨーカー・ホテル

  • アメリカにおける、新聞の摂理開始 (1)

    私は、天命により、新聞の摂理に従事することとなる。何もない所から新聞社を設立して、日刊新聞を発行するのだ。新聞社といっても、これから設立して、すべて作り出さなければならない。その時は6月であったが、12月31日には完了して、1月1日には創刊号を発行せよ、と言うのが天の願いである。ちょっと無茶な命令に思えるが、天の摂理は、何としても達成しなくてはならない。なぜ新聞を始めるのか、その摂理的意義は、「攻撃と、防御」である。当時、新聞テレビその他のメディアは、文字通り連日、お父様(レバレント・ムーン)に対する批判、悪口の記事で、お父様および統一教会は徹底的に迫害されていた。先回も述べたが、お父様はお独りで、すさまじい迫害の中で闘っておられた。新聞は言論面から、その宣教活動の防衛と共に、正義の言葉によって相手を攻撃し、社...アメリカにおける、新聞の摂理開始(1)

  • 私がアメリカに来た頃(16)知らない国を開拓する、その悲壮なる決意

    人事配置もおわって、最後のみ言葉をいただいて、いよいよ任地へと出発することになる。まったく知らないアメリカで、言葉も不自由な状態で、ともかく開拓に出るのである。ご父母様のおられる、イーストガーデンに来れば、美しく、全て守られていて、安心して大船に乗った気持でいたが、いざ夫婦2人で開拓ともなれば、その心細さは尋常ではない。でもこれはお父様も同じであって、数年前にアメリカに来られた時は、何もなかった。お父様の場合、我々と立場が違う。神と約束して、この強大な国家を復帰するという、途轍もない使命を神様から受けておられるのだ。天聖経の「真の父母の祈祷、4章6」に、“アメリカは、荒地のようであり、自分が砂粒のように感じたが、必死にやってきました。、、、”というみ言葉がある。そのような深刻なご心情で、独り闘って来られたお父様...私がアメリカに来た頃(16)知らない国を開拓する、その悲壮なる決意

  • 私がアメリカに来た頃(15)任地を与えられる

    「各州においてアベルの立場に立つように」、というのが神のみ旨である。お父様は我々を並ばせて、任地を割り当てられた。それは祝福のときのマッチングと同様であった。並んで立っているわれわれを見られ(我々の霊的基準と、その州の因縁との関係を、深く霊的に観られていたであろう)、君はXX州、君はxx州、、と次々に決めてゆかれる、まさに祝福のマッチング、つまりは任地とのマッチングである。いよいよ私の番が近づく、むろん祝福マッチングの時ほど深刻な状況でもない。まずアメリカというものを良く知らない。どこの州と言われても、好きでも嫌いでもない、イメージも湧かない、要するに知らないのだ。だから却って気は楽である。私の番が来た時にお父様は私を列の外に出て待つように言われた。一体何だろうという、却って心配の気持が襲う。、、、それから、よ...私がアメリカに来た頃(15)任地を与えられる

  • 私がアメリカに来た頃(14)再びイーストガーデン

    カルチャー・ショックというほどの“ショック“でもないが、初めてのアメリカを味わわせていただいて、再びイースト・ガーデンに招待していただいた。今度は、み言葉の会議である。会議と言っても、我々が意見を出して、討論して、採決するという性格のものではない。そもそも、我々はご父母様から呼ばれて、アメリカに来たのだ。自分の目的で来たのではなく、神の召命で来たのである。そうであるなら、神のみ旨、神のアメリカに対する願い、アメリカに対する摂理について、篤と学ぶことから始めなければならないのは当然である。神のアメリカに対する願いについては、すでにヤンキー大会でもって、ハッキリと知らせていただいた。その他にもご父母様のメッセージはすでに数年間、豊かにアメリカ全土にわたって語られている。それらを精読すれば、神の願いはよくよく理解でき...私がアメリカに来た頃(14)再びイーストガーデン

  • 私がアメリカに来た頃(13)グレート・アドベンチャー(続)

    スリル満点の乗り物は、むろんこの施設の主役であるが、一方それを支える敷地内の雰囲気が非常に印象に残った。懐古趣味に満ちたデザイン、つまりレストラン、みやげ店、その他の商店街など、敷地内を歩きながら、楽しく、退屈しないように作られている。日本の美しさに比較すると、アメリカの美しさは、その性格が全く違い、「ああ自分もついに日本から離れたのだな」、と実感する。一言でいえばアメリカ人の精神世界は、幼な児のように純粋で無垢な、お伽噺のように美しい世界に憧れているのだ、と強く感じだ。この大冒険というテーマに対して、極にあるような、楽しい、お伽の国の園を歩き回って楽しむ、という設定である。それは、私が子供のころ感動したディズニーの世界と同質のものだった。“アメリカ“というと、冷酷な金融テクニック、世界の覇権主義、粗暴な西部劇...私がアメリカに来た頃(13)グレート・アドベンチャー(続)

  • 私がアメリカに来た頃(12)グレート・アドベンチャー

    ご父母様のつれていってくださったのは、通称「グレート・アドベンチャー」(正式には、「シックスフラッグス・グレート・アドベンチャー」)という、巨大なスケールの、スリルに富んだ遊戯場である。それは大自然の中にあり、そこに昔風の木造の家を基調とした、みやげ物店、レストランなどが並び、お伽噺の世界で、楽しく食べ、買いものし、遊べるようにできていた。目玉は、もちろんスリルに満ちたいろいろの遊戯施設(乗り物)である。これが開園されたのが1974年なので僅か2年しかたっていなかったことになる。当時としては、とんでもない企画であり、アメリカ社会でも、大きな話題になっていたようだ。乗り物は、全てスリルに満ちていて、みな恐怖の叫び声を出すようなものばかり。みな楽しみながら恐怖を味わう、まさにアドベンチャーである。今ならそれをまねて...私がアメリカに来た頃(12)グレート・アドベンチャー

  • 私がアメリカに来た頃(11)ヤンキー大会勝利

    ヤンキー大会は、確かに突風に見舞われて、外的にはかなり惨めな場面もあったが、それに関係なくお父様は重要なメッセージを送られた。その講演文は、いま私が読んで感動する。間違いなく多くのアメリカ人に目を覚まさせるものであり、歴史的な神のメッセージである。時と共に、忘れ去られるのではなく、時と共に重要さに目覚める人が増え、永遠に残る神の人類に対する愛の叫びである。大会中に雨が降ろうが、風が吹こうが、そのようなことは些細な現象であり、大会の成否には関係がない。あのみ言葉がアメリカに対して語られた、ということ自身が神の訪れたことの証しであり、間違いなく大勝利である。そのみ言葉の発せられた場所に、私がいたということを、永遠の誇りとしたい氣持でいっぱいだ。残念なのは、今のアメリカを中心とした世界の政治がますます様子がおかしくな...私がアメリカに来た頃(11)ヤンキー大会勝利

  • 私がアメリカに来た頃(10)医者として、火消しとして来たのです

    •神様と一つになることによってのみ、アメリカは誇り高き最高の先進国家として、祝福を失うことなく、世界的権威と指導力を維持できるのです。•しかし今、アメリカの信望は地に落ちてしまい、、、体中が病に罹っているのです。•私は神様から命を受けて外部から、医者として、火消しとして来たのです。•アメリカを救い出したのちに、アメリカをして全世界を救わせようとされる大きなみ旨があることを、私はあまりによく知っているからです。•200年前、建国当時アメリカの祖先は独立軍を起こし、神のみ名でイギリス軍との闘いで堂々と勝利した。•建国200周年を迎える今日のアメリカは大きい内的な試練の時期にぶつかっているのです。•私たちは、キリスト教に立脚した「神主義」の思想でアメリカを覚醒させ、この地に神様の理想国家のモデルを建設するために立ち上...私がアメリカに来た頃(10)医者として、火消しとして来たのです

  • 私がアメリカに来た頃(9)アメリカは神が創られた國である。

    ヤンキー大会のメッセージを要約してみると:•アメリカは、神様が人類を救うために創られた國である。•神様が200年間にゆたかに恵み祝福して、世界最強最大の國にして下さったのです。•でも祝福は独りで来るものではありません。そこには必ず責任が伴います。•それを投げ出せば、悲惨な結果になるでしょう。•神は、真の超人種主義者、超国家主義者、超世界主義者、、、それを誇りと考える人こそ、真のアメリカ人である。•皆様の先祖たちが血と汗と流して成し遂げた建国精神に立ち返りましょう。•皆様、アメリカには本当に神様がいらっしゃいますか?•神様が離れた場合には、一度に跡形もなく流れて行ってしまうでしょう。(続く)アメリカは、神様が人類を救うために創られ祝福した國なのである。だから、わずか200年でかくも偉大な國になったのだ。すなわち溢...私がアメリカに来た頃(9)アメリカは神が創られた國である。

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