愛するとは、何であろう。 存在=愛ならば、 愛をするとは一体? する、つまり動詞であるならば なんらかの働きかけがあるだろう。 私は今まで、それは『認める』だと 主張して譲らなかった。 それ故なのか、この5年ほど大きな解体も なかった。 私の中で一応の整合性がとれていた から、意識を生活の方へ向けて 走ってきたのである。 しかし、子供が生まれ この子を愛する″方法″を 知りたくなった。 むろん、存在そのものの 愛おしさは表現するまでもないが、 可愛い可愛いいう事が 愛することとは思っていない。 (愛情表現としてあって良いとは思う) どうすれば、存在をみとめる事が できるのか。いかに表現すれば …
労働は、仕事ではない。 仕事は、生きることそのもの。 (なぜそれでも生きるかを問い続けること) 労働は、労働力や時間の対価として 金銭を得て、生活に役立てるためのもの。 だから、労働力や時間ともらえる金銭を 天秤にかけて、条件のいい方を 選べばいい。 社会貢献とかスキルアップとか やりがいとか将来性とか、 色々考えて悩むこともあるだろう。 今までもあったし、これからも 節目節目にもたげてくるはずだ。 だが、考えてみればどんな労働も 似たりよったり。 仕事に集中していないから、 手軽に変えられる労働に目が向くだけだ。 仕事に集中するためにも、 下記のことを忘れるな。 【なるべく少ない労力と時間で…
結婚する、ということが いよいよ現実味を帯びてきた。 もちろん、生きたいという概念はない。 ただ、生きることを肯定したいという 野心がある。 生きることはいいことじゃない、 "さぁ" 続けよう。 寿命まで生きる現実は変わらなくとも、 接続詞を見つけたことで 少しだけ気が楽になった。 道徳は義務だ。 やりたいという感情で守るものではなく、 いやいやであっても遵守するもの。 生きることは、私にとって極めて道徳的だ。 淡々と守る道徳そのものだ。 子供が生まれれば、紛れもなく義務になる。 少なくとも成人になるまでは、 育てあげようと思う。 反出生主義に近い考えを持っているものの、 確実に異なる点がある…
【ものを厳選する】 かたちはどこまでいってもかたち だけれど、私にとって心地よいかたちと そうでないかたちがある。 できる限り、心地よいかたちに囲まれていたい。 私が好むのは、経年変化をするものだ。 例えば、銅製のカトラリーや鉄製のフライパン 分厚い牛革の財布に鞄、アタのボックス。 色が深まりツヤが増し、傷が入り込み馴染み、 美しい。 同時に、ストーリーを感じる。 植物や動物、鉱物を感じる。 命をいただいて生きていると、その変化を 見て肌で知る。大きな流れの中にいると 思うと、心強くて温かい。 あとは、無駄のないもの。 シルエットやシステム、動線など 無駄だなときづくと途端に 億劫になる。逆に…
人が、ものが、 すべて球体だったらいいのに。 それならシンプルでわかりやすい。 我々が考えるべきは、かたちの些細な 違いではない。悩むべきは かたちの色や大きさではない。 これは慰めではない。 その事をはっきりさせないと、 いつまでもかたち上のしょうもない 悩みに翻弄され、仕事に とりかかれないからだ。 労働ではない。仕事だ。 かたちであること自体について 考える、それこそ仕事だろう(しんどいが)。 そもそも考えるとは、かたちと意味と それらを引き受けて生きる方を 選択するために頭を使うことじゃないか? かたちはどこまでいってもかたちだ。 かたちa→かたちa′で解決される問題なんて もともと解…
家庭を持ち、子を産み育てる それが生きることの肯定だと決めて、 もうなにも考えずにさっさと 取り組もうと思った。 仕事、子育て、それに付随する コミュニティ内の役割。 忙殺されてしまえば、あっという間に 時間が過ぎて、忘れられるんじゃ ないかという期待もあった。 どうせ生きるなら、 生きることを続けなくちゃいけないのなら 考えないでいたい。 考える上に続けるなんて拷問だ。 砂を盛って、盛ったら崩して、 また別の場所に盛るのとおんなじだ。 意義を見いだせないと生きられない。 意味なんて要らないのに、 生きなきゃいけない。 かたちに埋没すればいい、そう思った。 誰かの悪口をいってみたり、 社会問題…
物事を考えるに辺り、 正しく問うことがなにより重要だ。 根本的な前提として、生きることの 善悪は我々には判断できない領域にある ことを知らねばならない。 こういう状態なら善、こうなら悪と 決めることは出来ない。 唯一できるとすれば、主観的な意見を持つ ことだけである。そしてそれは、 人類全般に共通するものでもないし 多数決で決まるものでもない。 単なる好みである。 生きることの善悪については、正解を 知るよしもないが問うことはできる。 むしろ問うことだけが、生を意義 あるものにする。 (なお、意味はかたち伴って存在する) ただ残念なことに、生を問うことが できている人は本当に少ない。 主観的な…
かたちの虚しさは、 誤魔化せるものじゃない。 気分転換に息抜きとか 周りの人に相談とか、 そんなことでやり過ごせると 本気で思っているのだろうか。 かたちである限り、逃れられない。 影のように、どこに行ってもなにに なっても、ついて回るんだよ。 いま必要なのは、誤魔化すことじゃない。 向き合うことだ。この虚しさと 対峙することだ。 対峙するには、歪めずに見なきゃいけない。 認める、とは本来そういうことだ。 いいように解釈しない、勝手に 意味付けしない。 ただ、じいっとみる。 かたちの本質。 輪郭と体積をもち、 いずれ朽ちて消える、有限のもの。 この私も。 特定の意味などないが、 すべてのかたち…
これが案外難しいよね。 人様に迷惑かけず、とか お世話になった人に恩を返す、とか 働いて税金納める、とか 老後のお金をこつこつためる、とか まぁ、気づけば色々考えてしまっている。 そして荷物が増えていく。 たまにそれらを点検するといい。 いつのまにか増えた荷物を 見直してみる。 持たなくていいな、と思ったら 捨ててしまおう。 捨てられないものには、居場所をあげよう。 空いたスペースに思わぬものが 入り込んできたりするから。 深呼吸して、想像してみる。 今の状況や環境を脇において、 胸にある景色を思い浮かべる。 小さながらんどうの部屋の、 壁にかかった絵画。 灰色の空と灰色の海を切り取ったような…
たぶんOSが違うんでしょうね。 WindowsかMACかくらい、 最初から違うようだ。 WindowsをMACに似た仕様に カスタマイズして使うことはできる けれど、いちいち手直しがいるし 工夫や技術も必要だろう。 iTunesも″あいちゅうんず″みたいになって なんか無理あるなぁ感は否めない(笑) そして世間は、およそMAC向けの作りに なっていて、新しい課題に出会うたび アプリ作りから始めなければならない。 MACがOSの人がぽちっとアップデート している横で、盗み見ながら真似っこ しつつやり過ごしてきた。 生きることに関して、価値観の違い という次元では片付けられない程 大きい隔たりを感…
続けると決めたら、 すぅっと心が軽くなった。 どうすれば続けないでいられるか 思い煩っていたときは 重くて苦しくて薄暗かったのに。 本心では生きたかったから、 なんていうつもりはない。 今でも茶番だと思っている。 それが喜劇であり、演者になりきると 腹をくくっただけ。 覚悟なんて大それたもんじゃない。 それに、かたちの痛みがなくなるワケ じゃない。身もだえる冬は近い。 また、若い命が喪われた。 SNSの誹謗中傷が要因ではあるだろうが、 本人の心が不安定であったことには 違いなかろう。 そんなの気にするな、強くなれ などとぬかすつもりはない。 ただね、くだらねぇなとは思う。 そんなの、死ぬことを…
明確な要因がわからない自死は、 人を困惑させる。身体の芯の部分が 低温やけどをしたかのように 熱を持ち、落ち着かない。 その時、かたちでは解決できない 存在の壁の前で立ち尽くしている ことに、はっと気がつく。 握った手のひらから漏れる空虚 地響きの耳鳴り 暗く荒れた海と曇天 生きることはいいことだと 自分に言い聞かせたのかもしれないな。 それだけでなく、生きることに悩む 人々へエールさえ送ろうとした。 過大に役割を意識しすぎたきらいがある。 きっと真面目で、優しかったのだろう。 そして、自信がなかったのかもしれない。 独特のらしさや尖ったところがないこと、 いい子の殻を破れないでいることが ど…
死にたがり度合いにおいては シオランに負けず劣らずだと思う。 別に誇ることではないのはわかっている。 しかしながら褒めてあげてもよかろう と思うのが、それでもなお生きることを 選択しているという点だろう。 いまだに生きたいという感覚は わからないし、死にたい気持ちも なくならない。息を吸うように、 自然にいつも死にたい。 全然健康、万事順調。むろん、死にたい。 OSが死にたいになっているとしか 思えないレベルだ。 私はもう、死にたい理由を自分に 問わないし裁かない。 皆に認めてもらおうとも思わない。 自分が認めればオッケーだ。 むしろ問うべきなのは、なぜ それでも続けるかということの方だろう。…
生きたいと思う事に 理由は問われないのに、 なぜ死にたいと思う事は 理由を問われるのだろう? 生きる理由は問われないのに、 死ぬ理由は問われるのだろう? 身近な人や大事なペットが死ねば、 共に過ごした時間を思いだし もう二度と共有できないことを知り とても悲しい気持ちになる。 でも、死ぬこと自体を悪いことだと 思ったことがない。 もちろん死んだ人をかわいそうだとも 思わない。 同時に、死にたいと思うことを 不自然だとも思わない。 かたちを持つことは本来苦しいことだ。 生きたいと思う事は、その苦しみを 少しでも和らげようとする何らかの 計らいなのかな。わからん。 私の人生の目的は、 生きることを…
鈍感は、生活する上で一番の武器だなと あらためて思う。 半径二メートルの世界で起こること以外 なにも見えていないような人や、 感受性や身体が敏感であるからと 厳しいことは他人任せでのんびり 茶を啜れる人や、 ろくに働いたこともないのに労働を 嘆き生活に足をとられる人。 捕鯨反対といいながらパンや肉を 美味しそうに食べる人や、いじめの報道に 「ありえない!」「かわいそうに…」 といいつつ身近な人の悪口や愚痴に 花を咲かせる人。 矛盾やほころびが生じる部分を どういうわけだか見ないでいられる。 たとえ見てしまっても、すぐに蓋を してしまえる。そこに罪悪感はなく、 都合のいい解釈があるだけ。 振る舞…
ことばがほしい 本当のことばがほしい 血でかかれたことばがほしい 虚しい場所でひとり 立ち尽くすことを強要する ことばがほしい 誰も救われない真理のために 私自身を差し出して 熱湯のように浴びせかけられる ことばがほしい 言語のような滑らかなものでなく 熟れたザクロの 爛れた手ざわりの ことばがほしい 混沌を煮詰め絞り出すような たった一滴のことばがほしい
Twitterで話題のパロディ …我ながらくだらない( ̄ー ̄) 100日後に死ぬかもしれない。 もしかしたら、明日かもしれないし 明後日かもしれない。 だから、生きている日々を当たり前と 思わずに大切に過ごそう。真剣に生きよう。 そういうメッセージを込めたらしい。 確かに何気なく生活していると、 明日も明後日も来年も10年後も 波風はあれど来るものだと疑わないだろう。 でもそれは、生きることに真剣じゃない からではないんだと思う。 (どのような軌跡を描いたとしても、) 生成し発達しやがて消滅するという かたちの法則にしたがっている我々は、 存在そのもののの意図は解けない。 かたちにはじまり、か…
思えば、たくさん回り道をしたものだ。 母から認められたい、愛されたいという 思いが根底にあったわけだが、 その思いを認めるのにも時間がかかった。 記憶を捏造したり取り繕ったり しないでも立っていられるようになるまで そこからさらに時間がかかった。 最初から、ストレートに受け取り 認め、渡せたなら今の私とは かなり違った自分になっていただろう。 けれど私はこの私しかいないし、 なんだかんだ人間臭い自分が好きなのだ。 感情の豊かさを感じられるのは、 翻弄されたことがあるからだし 失っていた2年間包まれていた あの透明な膜を知っているから。 豊かさ=幸せではないと 豊かさ=善ではないと、 自分だった…
これまで、特にこの4年間は ことばのために費やしてきた。 たくさんのことばに触れ、 自我を幾度もとり崩しては その破片を積み重ねてきた。 今回ばかりはもうだめだと 毎度思ったが、じっと亀のように 待っているうちにいつの間にか 春を迎えていた。 少しずつ栄養を与え、豊かになった ことばの海から引き揚げてきた言葉を 私は私のためだけに使いたくない。 正直に言えば、 得るまでの道のりやそのために 選ばなかったことを思うと、 ぽんと差し出すことに対して 惜しい気持ちがあった。 あるいは同じだけの血を流し 得てきた言葉を差し出せと、 腹のなかで思っていた。 かけてきた時間や労力に対する自負、 そのために…
考えても答えがでない、 そういう問いが好きだ。 たとえ悶え苦しんでも、ぽっかりあいた 虚無の洞窟を前することになっても。 考えても答えがでないことを 考えるのは社会的に有用ではないが、 考えて答えが出ることなど 面白くない。 自分の地位や有能さに 鼻高々になる人は多い。(逆もしかり) 確かに社会に認められる努力を したという事実は評価に値する。 ただ思うのは、その評価は いかほど大切なのだろう?ということ。 人は見た目が9割、 なるほどそうかもしれない。 ただその9割はなんのための9割か。 他人に好かれる、評価されることは 社会生活を営む上で重要なのは わかるが、その中心が語られていない。 た…
今夜は月が見えない。 あの重く厚い雲の奥に きっといるのだろうが、 月のない空はどこか不穏だ。 外灯の心許ない明かりが 寒空にぽつりぽつりと滲んでいる。 こんな夜は、後ろめたい関係の カップルにとって都合が良いだろう。 お互いのギラギラした光だけが 絡み合って、夜が濃くなっていく。 不倫。たびたびワイドショーでも 話題になるが、明確な嫌悪感を 抱くことが出来ないでいる。 頭や心を超えたところに、 まるで雪崩のように押し寄せてきて 圧倒される可能性は誰しもある。 やめろ、という理性の声を一瞬聞いた ような気もするが、もはや身動きできない。 それが結婚後に起こった場合、どういう 態度をとることが誠…
続けることの中に、肯定を見つけた。 善悪の善だけでなく、悪を含む 肯定。好き嫌いの好きだけでなく、 嫌いを含む肯定。生産性の有無を 問わない肯定。 綺麗事ではない。むしろ、清濁あわせ のみ泣きながら頷くような肯定。 私に、できるだろうか。 大きなものを畏れ、尊重し 祈るように生きることが。 自信はないけれど、ひとまず 落ち着けそうな方向性を見出だした。 続ける理由として納得はできる。 となると、生活へ目線はいく訳だが こちらも一筋縄ではいかない。 不安をあおるような要素が一杯だ。 それでも、生きることの模索とは 比べ物にならない。 暖かろうが冷たかろうが、風が こそばゆくて。 ただ、彩ることに…
生きることはいいことじゃない ということと、 (生きるのを)続けていくこと が私のなかでうまく繋げられず、 前提が間違っているのか はたまた続けていくことが 間違いなのかと問い続けてきた。 でも、どちらも間違いではないとすれば 私が探すべきなのは「接続詞」 なのかもしれない。 そう考えてふっと力を抜いたとき、 出てきたことばが ″さぁ、″ だった。 青年は考える。 生きることはいいことじゃない だから、続けない あるいはこう考える。 生きることはいいこと(のはず)だ だから、続けよう 大人はどう考える? 生きることはいいことじゃない それでも、続けるものだ あるいはこう? 生きていればいいこと…
年の瀬の、忙しない雰囲気が 割りと好きだ。 非日常なのに毎年型通りというか。 落ち着かないのに懐かしい感じ。 いつも年の瀬だったらいいのに。 (同じ型通りでも年始は好きじゃない) 帰省ラッシュの映像を見て、 皆帰る場所があるんだなと しみじみ思う。 そんな中、一人あてどもなく 電車に乗る。遠いところ、できれば 雪深いところか灰色の空と海を 眺められるところでぼんやりするために。 ぼんやりしながら、生きることを考える。 日常でも非日常でも考えることは同じだ。 そして、目覚めなければいいのにと いつも同じ結論にいきつく。 でも、目覚めてしまうのなら 来年がやって来てしまうのなら どう生きるか考えた…
生きることは、良いことではない。 かたちは不条理であり、無常だ。 それでも生きることを好む人たちは たくさんいるし、続いていくことを 願っている。 かたちの存続を維持するよう努め、 妨げない態度をとることは 道徳的に正しいことなのだろう。 それは私が存続を望まなくても 或はその意味を理解できなくとも、 続けていくための一切を肯定する 根拠となる。 存続を望む人がマジョリティだから という理由では脆い。 そもそも高齢化に伴う病苦、重い税負担、 老老介護、長時間労働、過度な情報化… そういう情勢にあって 口にせずともかたちの存続を望まない 人は少なくないと感じる。 高度経済成長期のように、頑張れば…
たまに、何もかも捨てたくなる。 仕事も趣味も人との付き合いも家も物も。 捨てたところで、どうなろう。 そうは思うが、長く持ち続けると 澱のようなものが少しずつ溜まっていく 息苦しさがある。 別に嫌いになった訳じゃない。 でもそういうときはあるし、 誰かの顔に同じような色が しゅっと浮かぶのをみることもある。 淋しい共感は少し温かい。 だからだろうか。時折、電車に乗る。 一応の行き先はあるが、目的は乗って 移動することだ。なんのつながりもない ところへ無性に行きたくなる。 街行く人を眺めて、二度と会わない んだろうな、などと思う。 それでいて、自分が景色になったような 軽さを感じる。考える主体で…
かたちのあるこことかたちのないそこ。 全体が一なる運動であると仮定すると、 どちらにもその起源はないのだろうか。 否、他方が他方の起源といえるのか。 ここゆえにそこがあり、そこゆえに ここがある? となれば、かたちのないそこでも 終わりが来るということになるだろう。 またかたちの方へ生まれでてくるのなら、 そこではある種の終わりがある。 であるならば、そこへ入ることは 一時的にかたちから解放されるだけで 永遠に無形であれるわけではない ということになる。 つまり、かたちがないこと=永遠 とはいえなくなる。 むしろ、かたちの創造と解体を 繰り返すこの運動そのものが 永遠性をはらんでいるというのだ…
死にたいと思うことは解放への希求で あって、特定のかたちへの絶望ではない。 かたちでしかあれないことに虚しさを 感じているわけで、別のかたちを あてがわれても消えるものじゃない。 ○○であれば生きていたい、 というのは立派な生存願望だ。 どのような状態であっても 生きていたくない、 というのは歪められた願望なのか? 正常であれば、生きていたいと 思うものなのか? かたちからの解放を望むことに いかなる問題があるのか。純粋に知りたい。 社会が成り立たなくなる? そもそも成り立たせなくてはならない理由が わからないのだ。 真面目な顔で生活しながら その意味するところがわからない。 精神的に奇形なの…
ここ数年、かたちや存在そのものへの 考察を深めようと努めてきた。 生きることを学び考えてきた。 その弊害として、生活への興味が 一層薄れ、生活感覚がごっそり失われて しまったようだ。 なにか生活について喜んだり悩んだり しようとしても、 「結局、かたちではないか」 という思いがもたげてきてしまう。 かたちとかたちじゃないものの差に 関心があるのであって、AとBの差には 正直あまり興味がない。 私のなかでは、かたちをもつという意味で 同じくくりなのだ。 けれども、生活に関心を持たなければ 生きることもままならない。 私自身も一つのかたちとして、 かたち界のルールを覚えなくてはならない。 運転が好…
ああ、まだまだ甘いなぁ自分。 無意識にわりきろうとしてしまう。 安楽死を尊厳死といいかえ、 死を生の終末とし選択権を与える べきだと語る。もっともらしい回答だ。 でもこんなにきれいにわりきっては、 その谷間に語られぬことばを こぼれ落としてしまうのでは? 私のベクトルはかたちからの解放、 すなわち死へ向かうから 死を肯定的にとらえる文脈を 熟慮なく採用してしまいがちだ。 でも、論拠としてあげた例は かたちへの執着の帰結であった。 生が苦しいなら死を選ぶ、 という消極的な選択はもっとも 避けたいというのに。 生きることは苦しいのになぜ続けるか 死ぬのは怖いのに何故死なねばならないか このかたちと…
パラでメダルをとった女性が 安楽死で亡くなったという。 享年40歳。 耐えがたい痛みを抱え、 晩年は夜も眠れなかったそうだ。 世界最高齢でギネス認定された 女性が後悔していることを聞かれ、 「長く生きすぎたこと」と語った。 知人や子供たちを見送り、 生き続けることに虚しさを感じたそうだ。 あげればキリがないが、そろそろ 本気で考えた方が良くないか? 存在価値を生産性で測る社会だから、 導入に慎重なのだろうけど。 迷惑がかかるから生きたいけど死ぬ、 という事態を防ぐ方法は検討すべき だと思う。だからといって、 尊厳死そのものを導入しない というのは話が違う。 尊厳死は死ぬ権利じゃなく、生ききる …
村上春樹さん風のタイトル! 生を続けることに執着がなく、 無論かたちにもこだわりがない。 だから、こうなりたいとか あれを手にいれたいという思いも ほとんどない。 よく言えば無欲、悪く言えば無気力。 どちらにせよ、残された時間を どう過ごすのか考えたいところ。 すべきことがない人生は、 時間をもて余すからね。 平均寿命が87歳前後だから、 下手したらあと60~70年近くある。 生きることはリスクだなと改めて思う。 どんだけのびりゃあ気がすむんだろ。 去年5年更新したばかりだから、 ひとまず縮める選択肢は外しておく。 お金は生活する上で必要だ。今のところ。 でも、手段であって目的じゃない。 七つ…
噂話や悪口をいわないのは、 優しさとか心がけという側面も 多少あるけれど、そもそもあまり 興味がないんだと思う(笑) 分析するのは楽しいけれど、 その人への興味(好意)ではなく人間の行動や 心理や選択について考えるのが好き なだけなんだな、と。 だから、博愛主義的に みんなに同じように接するし 家族や友人であっても一定の距離を 保つ。ずっと同じ空間にいると しんどくなって、ぷらっとでていく。 親密になるのがあまり得意じゃない。 困ってはいないけど 興味があるふりをするのはちと疲れるね。 人の名前とか情報を覚えるのも苦手。 なんでみんな人に興味があるのかな、 よくわからない。 生活に興味がないか…
生活をおいて 生きるを考える なんて、できんよなぁ(笑) 動くことも動かないこともリスク 結婚するもしないもリスク 子供生むも生まぬもリスク なんだろうね、これは。 だんだん閉塞感で苦しくなってきた。 40才独身でなくなったかたの 迷いと哀しみとやりきれなさを思う。 生きること自体へのむなしさが 耐えがたく肩にのしかかってくる。 このまま、目覚めたくないなと いつものように点検する。 弱くて醜いよ、 恐くて不安だよ。 そしてそれは、生きる方を向いている からなんだと気づく。 愛よ、なぜかたちを望んだ 愛よ、このすべてのかたちたちが 報われると言ってくれ 報われると言ってくれ 泣くのはいやだ、笑…
⚫源泉たることば:生きるを認める いいね!じゃなくていい、 あるね!と認める 他者においても認める (認められるように心を寄せることを 愛すると呼ぶ) ありえない、は ありえているということを理解できない 認められないの略 あることをそのまま眺めることで かたちの声をきき形の歪みや偏りをはかる 生活に翻弄され生きるを認めることが できない状態はかたちを出しきれない 状態であり、善くない ⚫かたちを出しきる、せかいを拓く (=生ききる) 境界線ではなく、輪郭を打ち出す ことばが最も豊かに見いだされる場所で せかいを拓いていく つまり存在そのもの、愛に向かって線を ひくことができる状態 その時に、…
笑いってすごいね。 笑わせるってすごいことだね。 出会いの数を増やそうとしている 中で、傷つけたり失敗したり 単純に縁がなかったりする。 そしてまたいちから積み上げる、 その繰り返しがたまに心を重くする。 みんなそうなんだけど、 これを越えなくちゃなんだけど、 やっぱり消耗する。 そんなときに、ふわっと 笑わせてくれる人がいる。私も 楽しくなってボケてつっこんで。 純粋に話すことを楽しめている。 うまくやらなきゃっていう固さを 解いてくれる。 癒されるね、これは。 ありがとう、と伝えた。 いつ最後になるかわからないから それでもたくさん貰ったから。 私が過剰におふざけキャラだったとき、 笑いは…
傷つけることができるのは 自分だけだ そう思いながらも、やはり気にしている。 さすがに態度悪かったよなぁ、謝りたい。 たぶんすごく真面目で、頑張り屋で 努力を重ねて生きてきたんだろう。 出会いを大切にしたいと考えるからこそ、 期待も大きかったんだろう。 真面目に向き合おうとしてくれた人に わざと怒らせるような不誠実な態度を とってしまった。反省。 かちかちになった心を解すんでなく、 パリッとヒビをいれてしまった。 今を認められなくて足らないものを埋める 彼を、よりいっそう駆り立ててしまった。 ごめんて、言葉足らずで。 たとえ終わってしまう関係でも 一度でも交わったなら、大切にしたい。 だからこ…
たいていひとは期待に応えない。 応えなくていいしな。 でもなんでかな、真面目に期待に応えて きた人ほど、ひとに期待してしまう。 そして相手が応えてくれなくて、 ないがしろにされたと勝手にへこむ。 あるいは、「これくらいやって 当然だろ!!!」と怒る。 いずれにしても、精神衛生上 あんまりよくないよね。 自分にかすハードルも高いから、 高望みというわけではないだろう。 でも、ホントにそんな肩肘はらなきゃ いけないかい?と疑問に思う。 理想の男性像があって、それに向かって 足りないものを埋めようと必死に なっているんだろうな、と感じた彼。 イケメンではないことを非常に気にかけて いるようだったけど…
自殺はなぜダメか。 私なりの答えを述べたい。 まず、多くの場合自殺によって 解決されないからだ。 問題解消の仕方に誤りがある。 なにかが上手くいかないなら、 全部やめてしまおうという 考えで死を選ぼうとする。 その場合、やめるのは生きること ではなく、かたちへの執着だ。 勝手に問題化しているのは、 なぜだろう。誰から見てなにゆえに 問題なのだろう。どんなかたちで あることを放棄したいのだろう。 そういうことをうやむやにして 死のうとするのは、生きることへの執着が ないくせに執拗なまでにかたちへ 執着しているからだ。執着したいからだ。 ならば、死んでも解決されっこない。 かたちがないのだから。 …
物悲しい。わけもなく、不安。 無意識にそういう気持ちに蓋を するところだった。 なんか、悲しいね。 なんとなく、不安だね。 よし、点検確認、完了。
迷ったときこそ、思い出せ。 既にアウトローだったでしょうが(笑) こういう日が来ることを どこかでわかっていたのだろうな。 あえてズレたのは、ズレるのを 恐れないでいたかったから。 ズレるのを恐れて、小さくなって それなりに生きていたくはないと そういう大人になりたくないと 思ったからだった。 普通、やらないでしょ(笑) そう言われたけど、私はその普通という 枠組みを取り壊したかった。 やってよかったよ。 そのとき開いたせかいは、度々 私を救ってくれた。 安心してください、普通の枠、 もう壊れてますから!笑 なんでもこいのどんとこいだ。
生活を軽視しがちではあるけど、 生きるは生活に寄り添うように あるわけで。 解体期が近そうなので(笑)、 今のうちに考えておこう。 好きなこと、大切な時間でいえば 本を読むことと一人で考える時間かな。 考えたことをつらつらまとめるのも すっきりするし、せり上がってきたものを 言語化しておくと後々役に立つ。 できれば一人でふらっと旅する時間も ほしい。半年に一回、二三日あれば とてもいい。 家族や友達と過ごす時間って、 あまり考えたことがないかも。三ヶ月から 半年にいっぺん話せればいいかなぁ。 なかなか薄情なやつっぽいけど(笑) 単純に集まってぐたぐだするのって 息抜きにはいいけど、日常ではいい…
9年ほど前。私が高校二年生の 頃から、公開しないブログを 書くようになった。つまり日記として 残していたわけだけど、 たまに読み返してみると なんだか泣けてくる。 最初は言いたいことも言葉にならず、 疲れた・嫌だ・イライラする わーい・なんとなく・怖い… そういうワードで構成されていて うまく表現できないもどかしさが 透けてみえる。 同時に、書かずには立っていられない 切迫感も伝わってくる。 パンパンの自意識で破裂しそうな 教室の濃度を思い出した。 今の若い子たちもそうなのだろうか。 私や多くの私たちを抱き締めたくなって しまう。大丈夫だと声をかけたいが、 肚落ちするまでは前途多難な道程だ。 …
思い返すと、見ているようで 全くみていなかったらしい。 大学時代の同じクラスのメンバーが どのような人物であったか ほとんど思い出せなかった。 だいたいあのグループの人かな、 くらいにはかろうじて覚えているものの だからといって知ろうとも思わなかったし 現在の状況にも興味がなかった。 自分では色々興味を持って動いていた 四年間だったのになぁとぼんやり 考えていたが、なんてことはない。 面白くなさそうだからだ。 入学して同じような服装、髪型の 人たちとつるみだし、 異性間交流もそれなりにこなし、 サークルも軽めのに入ってコンパに あけくれ、真面目に授業を受ける人を 小馬鹿にしながらツテで過去問や…
暑い日が続いておりますが、 いかがお過ごしでしょうか。 私は外に出るのも億劫で、 冷房のきいた部屋で本を めくり、想像世界でいきいき 過ごすような休日を過ごしております。 先程、好きな詩人のあるお方が 「他者と言葉を響きあわせるために 言葉を探す時間があってもいい、 言葉との関係を深めてよい」と 仰っていました。 およそ納得するところで、 相変わらず良いこというなぁと 膝を打ったのですが、同時にちょっとした 違和感を覚えたのです。胸の端のほうに スッと隠れたその違和感を 点検してみたのですが、それは 言葉に対する希求が強い受け手は それほど多くないのではないか?という 素朴な実感でした。 自分…
自分の言葉がないからと 安易に他人の言葉に便乗しては ならない。ましてや、他人の言葉で 戦うなど言語道断! そんなことして、論破して気持ちよくなって あるいは共感されてホッとして、 一体それは何なのだ? 意味もわからず言葉を繰り返すインコと 同じではないか。 自分の言葉で語れるように 一つずつ違和感や感情と向き合いながら、 丁寧に取り出していく地道な作業。 孤独でゴールも見えず、 資本主義的な観点からみれば まったく無意味とも思える作業だが、 そこをおろそかにして かたちだけ真似したって いずれ形骸化するだけだ。 ダサくていいから、自分の言葉を 見つけたい。この場所から見えるせかいを 語りたい…
全くなにも上手くいっていませんが 落ち着いているというか、 自尊心・損なわれず 好奇心・だだあがり。(笑) かたちへのこだわりがなくなった、 ということは良いことなんだろうか。 どんなかたちでも認めると 決めてしまったら、なんでも来い状態。 むしろ認めがたいことに挑戦したいという 欲求さえある。 存在していることに特定の意味はない。 というより、かたちが意味であるだけだ。 かたちである限り意味から逃れられないが、 評価から逃れることはできる。 評価は、ある特定のかたちにとって 利益になるという意味合いで、一般に価値と 呼ばれる。けれども本来、価値は 「ふさわしい」という表現の方が正しい。 存在…
生ききることは、かたちをもつ 我々存在者の意義である。 所謂幸せは(公共の福祉に反しない 限り)権利であって、意義のために 一部放棄することを選ぶ場合は あり得る。 生ききるとは各々のかたちを出しきる ことであり、出しきる状態とは 存在そのものへ最も拓かれている状態 だろうと推測する。 つまり、その存在者における ことばの発展土壌を見つけ、 愛を感じ愛であることに充たされ 在るを豊かに認められるという状態だ。 ことばの発展土壌は存在者のかたちに よってふさわしい場所や方法は異なる。 故に、世界が多様性を尊重する方向へ 進んでいるのは、存在者にとって 良い風潮ではないかと思う。 ただし、読み違え…
波。 こちら側だけではないとしたら? こちらという1つの大きな波が 死をもって終わるのではなく、 かたちを失いながらも あちら側の輪郭をもって 振り子のように波が続くなら? それは、輪廻転生という話ではないし 死後の世界があるという話でもない。 かたちがないのに波だけがある状態は 果たして存在するのか。 けれど、考えてみればかたちへ向かわせる 何らかのエネルギーがある方が 自然な気がする。 波には何か特別な意図はない。 運動だ。エネルギーの波形だ。 だから、かたちであるこちら側が なぜわざわざ?と問うたところで なにかポンとわかるものでもない。 思えば最後のとき、病院の心拍数を 計る機械には波…
ペットを世話する母を見て、 「あぁ、私は教育ではなく 飼育されたんだなぁ。」と ぼんやり思った。 猫可愛がりは、ほんの小さい時なら 存在の肯定を示すために役立つかも しれない。けれど、成長にともない 社会に出て交わりながら、 自分で障害を越えていく力を 身に付けていかなければならない。 いつまでも干渉しようとするのは、 親自身が手放したくないからだ。 それは、絶対的な支配者である親 という立場を守りたいだけの話であって 決して子供のためではない。 母は、自分自身と向き合えていないから 正面から向き合った問いをごまかした。 私のためではなく、自分が見たくないから。 そして母は今でも変わらず、自分…
絶賛婚カツ中! ということで、結婚について考える 日々な訳ですが、漠然としていた「結婚」 というかたちの輪郭が見えてきた気がする。 まず、結婚する相手について。 一つは、結婚したい人と結婚するという こと。一見すると当たり前だけど、 恋愛結婚が主流の現代において 軽視されている気がする。 好きになって、付き合って、しばらく ラブラブして、時期が来たら結婚する。 そういう王道ルートはあるけれど、 この時期とやらがなかなか合わないばかりに 同じことを繰り返してしまうのではないか? もちろん、同じ時期に結婚を意識して 進めればいいのかもしれないが、描く未来や 望む方向性を各々が抱いているのだから 結…
AIの発達は目覚ましく、 人間越えも近いと言われている。 2040頃にはほぼ達成され、 今ある仕事の半数以上がAIに 置き換えられるとか。 仕事をとられるというよりも、 大多数の人が仕事をしなくてもよくなる との予測も見受けられる。 そうなってくると、働く意味として 大多数が挙げる「生活のため」は 実質意味を持たなくなる。 人間が労働力として求められなくなると すれば、人間が働くことはどのような 地位を得るのか? マズローの5段階説でいう「自己実現」 へ一足跳びで至るのは間違いないと思う。 では、「自己実現」とは? 見渡す限り、実現したい自己を 確立させている(あるいは目指している) 人は少な…
絶賛ぶっとばし期中。 開き直ってせかいを広げるために 世界に飛び込んでいこうと思う。 でもふとたちどまれば、 やはりかたちの虚しさに 胸が締め付けられる。 有限で可変のかたち、一方通行の時間。 輪郭を境界線と区別できない故に、 削っているのは己の業だろうか。 この虚しさを認めて生きるとは それでも生きる方を向くとは 一体なんなのだろう。 小石をコツンと蹴ってみても、 濃霧に吸い込まれるように 音もなく消えていく。 そんな虚しさをどうやって 抱えていけばいいのだろう。 海を眺めていると、無形への情景が 感化される。水平線だけがすっと 伸び、その先には他の大陸があるだろうが もしかしたらここが形の…
全部自分以外のものに捧げてしまいたい という欲求に駆られることがある。 清貧で自己犠牲をともなう生き方は、 一般に推奨される良い生き方の一例で あろう。 かたちのあり方、生ききる 状態がわからない(確定の仕様がない) から、この現象界に媚びることで 認められ且つ自分の罪悪感もすり減らせる ところへ自分自身を投げ込もうとしている。 わからない不安定な状態から、 社会の要請を受けとる形である種の金型に 自分を溶かして流し込もうとしている。 どこまで傲慢で卑怯な人格なのだろう。 なにかに捧げることが目的になっては いけない。あくまで私がかたちを 出しきる、つまり生ききる過程において 付随する現象でな…
通りをいく人を眺めるのは楽しい。 どこから来たのか、何を考え 誰を想い、どこへ向かうのか。 中でも気になるのが、小さい子を つれた女性。母になる、ということを ぼんやり考える。 そして、これから生きていく子を見て 不思議な気持ちになる。 一個の生命体としてまだかたちに なりきらない彼らは、いまここを 生きている。後先ない今を生きている。 それをたしなめたり見つめたりする 母もまた、今を生きている。 子を持つということは、今を生きること でもあるようだ。 そして、子が成長するほどに 自分の死んだあとを考えるものなのかも しれない。取り巻く環境が温かいもので ありますように、幸せでありますように …
道具の手で黙々耕す農夫 言葉もなく微笑みあう子と兎 茹でた腸詰めのような赤子を抱く母 暮れかかる西日の麦色に包まれて まるで発光する美しさ 瞬間にひそむ永遠 眺める者には影しか見せぬのに 在る者にはこんなにも惜しみない それでもこの手を止めることはできまい その耳を塞ぐこともできまい いま、ここ、すべてを捉えたい 野心、否、傲慢か 振り絞り、超えんとする魂は かたちのふりした虚しさや ことばのふりした卑しさを 両手刀で斬りつける 返り血をぬらぬらと光らせながら あてどなくあるく 亡霊
反出生主義。 おおよそ、生まれることで得られる幸福より 引き受ける苦痛の方が多いから、 生むべきではないという文脈で 語られる。 ほとんど反論のしようがない ように思えるのは、「存在者側の価値観」 を根拠にしているからだ。 幸福の方が多ければ生んでもいい、 と考えるならそれはほんとうの意味での 反出生主義ではない。 この地点において、かたちであること自体の 不完全性、あるいは虚無に対するあり方が 問われている。 なぜかたちなのか。 これは解明できないからこそ、 かたちであれるという自己矛盾を 内包している。 せいぜいある解釈を述べることしか できない。 では、どのようにあるべきか。 個々のかた…
正論は傷つけることがある 世間一般の正しさであれ、個々の正義感 であれ、何かを選ぶ際正しい道というものを 意識するだろう。 この選択は、正しいのか。 望まない妊娠であったとき、 産むかいなか 不慮の事故により植物状態に なった人を、生かすかいなか そこまで究極でないにしろ、 いつも選択するときに頭を掠める。 正しさとはなにか、正しさより 大切なことはあるか、誰に対する 正しさか。 とても難しいけれど、本当に大切に したいこと、良いこととは限らないそれを あぶり出すために 正論をぶつけるのは有効だと考えている。 傷つけるのは、その本当を隠している 見栄やエゴや臆病や怠慢であって、 本質ではないか…
言葉未然のことばを どのように耕し育て、言葉として 収穫するか。それを考えている。 私において、どこでならより豊かに ことばを見いだすことができるのか。 これは自分探しの親戚みたいなもの かもしれない。幸福でいたいなら 腹六分目で納得させて、現実に没頭する 方が賢明だ。 わかっていても、やめられるもの でもないのだけれど。 言葉にこだわっているのは、 単に道具としてだろうか。それとも ことばの場所が言語的な意味での 言葉にまつわるからなのか。 夢中や好きをヒントに考えると、 手を動かして作ったり直したり することはどうだろう。 没頭して時間を忘れるのは容易い。 ただそれは作業としての性格という…
生きることに納得できていない、 ということをわずかに認められるように なった。納得させようと自分を型に はめこまなくていい。納得できないことを 認めよう、向き合うためにも。 美味しいものを食べることができる、 安心して眠ることができる、 ほどよく働くことができる、 感じ考え想像することができる、 認められることの豊かさを 慈しむことができる。 だからといって、生きることに納得 できるわけじゃない。内からほかほかした 気持ちになることもあれば、 うまくいかないことや不安で押し 潰されそうな夜もある。そうやって、 慰めたり緩めたりして過ごす日々。 けれどそういうサイクルを生きる と呼ぶことにうんざ…
何かできそうな予感 今、持てないでいる。 ずっとぐるぐる考えたり、眺めたり 振り返ったりして毎日を 無為に過ごしている。 未だに大人になりきれない自分を どう扱っていいのかわからない。 わたしというかたちがかたちでありきる、 つまり生ききるにはどうあればいいの だろう。罪悪感や焦燥感から選んだ時、 いつもここじゃない感があった。 虚しい傍観者だった。 そういう生き方はもういやだ。 当事者として生きることと向き合いたい。 認めてもらうためじゃなくて、 私が生きることを認めたい。 納得したい。 ことばが発展する場所を求めている。 生活と生きるがリンクする場所。 何かひとつ強くなりたい。 武器じゃな…
無条件の愛 矛盾している。 無条件な愛と条件付きの愛が あるのではない。 愛は無条件が条件なのだ。 そしてかたちをわけもつ私たちには、 かたちという条件のない愛を かたちなく認めることなどできない。 言葉はかたちだ。暖かいスープも 重ねる手のひらも満天の星空も もちろんかたちだ。 かたちは有限で移り変わる。 儚いといえば儚い。けれどもそれが かたちの条件なのだから、仕方がない。 そう、仕方がない。 この世は仕方がないことだらけだ。 かたちの共通項や法則性、 あるいは別のかたちへの転換方法を どれだけ見つけ、また精査できるか。 最初は純心に追い求めたのかもしれない。 いつしか考えもせずかたちだけ…
思わず笑みがこぼれる瞬間が キラキラ散らばっていたら。 それだけで生きてるのも悪くないな って思っていいんだよね。 十分生きる理由なんだよね、きっと。 例えば休みの日の二度寝。 グシャグシャの頭のまま食べる 熱々のトマトスープとこんがりトースト。 目的地もなく電車に乗り 気になっていた本を読む。うたた寝。 凛とした冬の空気に包まれるホームに 立って深呼吸する。その地に住む人を 眺めながら散策して、名物を食べる。 博物館や文学館によって、 しんとした中で歴史やそこに生きた人を 思う。どんな生活をして何を楽しみにして いただろう。なんでもないいなか道を 歩く。よろめきながら自転車をこぐ おじいさん…
状況が動かないまま、にらみあってることに 耐えられなくなって動いてみた話。 ************* Googleの検索履歴に ⚫死ぬ 手段 ⚫生命保険 免責 ⚫身辺整理 とか彼岸へ引っ張られてる フレーズが並ぶようになってきた。 2ちゃんには準備物から注意点まで 細かく載ってたりして ありがたいんだかなんなんだか(笑 もちろん抜かりなくスクショ。← 解体初期は念入りな方法を画策してた くせに、最近じゃ 「部屋であるもんでいけないかな?」 みたいな手抜き加減。 境界線を越えることとか 存在だなんだといってきたのに、 そのときは見事にポンと抜けていた。 思考はマイナスのまま行動スイッチが 入る…
考えることをやめたくて、 もがいて苦しんで 藁をもすがる思いで 手を伸ばしたのは 考えることだった。 考えることが追い詰め、 考えることで救ってきた。 すべての波は、考えること すなわち意味を求めるゆえに 引き起こされる。 だから、考えることが怖い。 けれど、考えられなくなることは もっと怖い。 あるね!と認めるために 考えること、すなわち 意味を求めるエネルギーは それほど必要じゃないように思う。 まだからまっているから 遠回りしているのだろうか。 自分だけでなく、全存在者の あるね!を認めようとするから 燃料詰まりするのだろうか。 なにも考えずにいられるのは 寝ているときだけだった。 なの…
少しだけ落ち着いてきた。 相変わらずぼーっとしてるけど、 なんとか生活はできている。 *********** 去年の秋、もはや耐え難いと思った ビックウェーブ。 今までは学生ということもあり ごまかしてこられたけど いよいよそうはいかなくなって 冬の終わりころから備えはじめた。 ことばと法則をつかみとることに 専念する準備もした。 そしてやってきたビックウェーブ。 無気力で頭も回らず圧倒的な 不安と焦燥感に包まれ、拳を握って ひたすら嵐が過ぎるのを待つ日々。 考えも全くまとまらず、 パソコンの前で気づけば数時間 ぼーっとしてしまう。 ものを壊し言葉も出てこず 人の名前も覚えられない。 今まで接…
生きる方を向いたら、 怖くてたまらなくなってきた話。 資格や結婚、保険など セーフティネットを探してしまう。 終身雇用は崩れ、給与カットも 珍しくなく、病気で働けなくなる リスクもあるものね。 みんな、必死で生きている。 確実なものなどない。 楽しいことばかりじゃない、 たんたんと営む毎日を 続けていくことは 全然当たり前じゃない。 社会性低め、女子力低空飛行 実家暮らしで甘ったれ。 一人きりで頑張る必要はないけど、 ふさぎこんで不機嫌な顔して 気を使ってもらってるのは やっぱり変だよね。 いつも全力ダッシュはできなくても、 歩いたりまわりをみたり できることはあるよ。 みんな色々かかえている…
底に背がついたかもしれない。 みんなに生かされている。 申し訳なさでいっぱいだけど 与える方になりたいけれど 笑ってしまうほど頭が回らない。 一手先を読むのにものすごく労力を使う。 それでもなにか見落としてしまう。 すぐまた次がやって来て、 さばくことができなくなっている。 ぼーっとし、ぎこちない言動に やってしまったと後悔し、 人との距離感がわからなくなり… つまりは、空回りしている。 こんなんじゃ、給料もらえないなぁ。 たぶんこの状態もいずれ抜けるだろう。 でもまた来る。それがずっと続くことが 怖かったから、克服しようとしてきた。 抜けたときに貯金をつくるように して、なんとか回してきた。…
生きていることに、罪悪感がある。 今まで生産より消費の方が多く、 守るより守られ、義務より権利が 与えられてきたと思う。 それはとても温かく、有難いことだ。 恵まれている、愛されている。 そういうかたちで、いつも認められて いたのだと思うと胸が熱くなり、 耳がきいんとなる。 私にはもったいない。 そんなに渡されても、心からは喜べない。 喜んだ演技はできても、そう振る舞う むなしさで、孤独が深くなる。 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい これからは人や社会のために 生きねばならない。役に立つために、 誰もやりたくないことを けれども秩序を維持するために 或いは権利を守るために なくてはなら…
生きたくなるように 自分を仕向けてきたけれど、 ふぅと息つくとき 死への衝動にかられる。 飛び降りそうになる自分を ぎゅっと抱え、落ち着かせては むなしくなる。 結局、死にたがりのまま生きている。 命にも、ベクトルがあると思う。 死に向かうベクトルは、 病的な気質として治療の対象と されるか、反社会的なものとして 裁かれる。 臭いものに蓋をするように、 あるいは薄汚れて寝転ぶホームレスの 脇を足早に過ぎるように。 在ることを認めてはもらえない。 すべて生に向かうはずで、 そうでないものは病気か狂気だ。 でなければ、法や秩序はどうなろう。 あらゆる生産や社会は成り立たなくなり 正しさは綿菓子のよ…
重く湿った不安感に襲われる。 息が苦しい。小刻みに背中が震えている。 生きなきゃいけない、苦しくても。 生きなきゃいけない、意味はなくとも。 生きている罪悪感は、消費に生産が 追いついていないからでもあるし 嫌々受け取ってるからでもある。 気遣い、コーヒー、大丈夫だから 優しさがもう、手いっぱいだ。 不機嫌な癖にビクビクしながら生きる わたしなぞが、もらっていいはずがない。 返せるあてもない。 眉をへの字に寄せて、あとはどんな顔 したらいいだろう。 頭がまた、もやがかってきている。 またきたか。次は半年だろうか。 長くて寂しい冬。亀みたいにじっと 背負って待つしかない冬。 どうやって話していた…
結婚、出産、健康長寿 おめでとう、お大事に わからない。 穏やかな会話であるほど、 発狂しそうになる。 かたちから解放されたいのに なぜかたちを保持しようとするのだろう。 かたちが続けば、少しずつ永遠に近寄る? 続いていくこと自体が仮想の永遠? かたちであることは即ち有限なのに、 何故繰り返すことや引き伸ばすことを 望むのだろう。人間お得意の 読み違えじゃなかったん? 当人が望む、という意味で 心を寄せていますよ、と伝えるために おめでとうやお大事にと言うのはわかる。 でも、自分事に置き換えると もうわからない。 まとめると、死にたくないという 気持ちを頭ではわかるけど、 心や肚で理解できない…
年齢的にはちょうど適齢期だ。 けれども、子供を育てている自分や 家庭を築く未来を疑いなく描くことが 出来ない。ふわふわした感じには 描けるけど、その未来を疑いなく 信じている人とは比べ物にならないなぁ と感じる。 産む産まないに関して論点はたくさん あるけど、私が一番考えたいのは 『子供が私と同じように死を望んだら、 生きることを強いられるか』ということ。 なにかが克服・達成されれば、 恋をし仕事を謳歌し笑って 暮らせたら生きることを楽しめる という子供なら そうあれるようにサポートする。 でも、それらもいらんのやって 泣きそうに笑うのなら、それでも って言えるかな。 生きててほしいと思っても…
起きてしまったついでに 働いてもしまった1日。 ごろごろしながら思うこと。 解体期はたいてい暗いもんだ。 定点観測のために考えたことを 書き残してきたけど、繰ってみても まぁ暗い。でもミサワにこんなんいたな、 ってじわじわわろえる。逆に創造期は なんかこうわちゃわちゃした 中2感がだだもれ。 いずれにしても三十路のピーターパン みたいな切なさが耐え難い。 なんやもうめんどくさい~といいながら、 仕方なしにガストのドリンクバーで 延々話につきあうもう一人の自分。 セリヌンティウスほどには信じて くれなさそうな距離感がちょうどいい。 いまだに波の乗りこなし方は つかめないし、穏やかなさざ波いいな …
『なぜ死にたい人を殺しては ならないのか』 大学の時、哲学の試験で出た問題。 習った内容とか教授の性格とか 自分の経験とか三面記事とか 頭んなかで切り貼りして書くには 書いた。 でも、納得いく答えは書けなかったし いまだにこれだと思う解答は得られて いない。 この問いの核は、 『死にたいと思う人がなぜ 死んではならないのか』 という点にあるだろう。 命が私だけのものではないから、 という解答は優等生だけど 突き放した冷たさを感じる。 宗教的、経済的知見はいうまでもなく 隔たっている。 切実に、私事として考えようとすると 底がスコンと抜けるような 無重力感。 大きな病気もなく、老いにも遠く 生活…
どうやら解体期に突入したらしい。 生活の一挙一動、ぽやんとしてしまう。 鏡に写る顔は自分に似せた粘土のよう。 今回はがらがらと崩れるというより、 内に沈みこみ、外壁がぽろぽろ 剥がれ落ちる感じだ。 いずれにしても、自分が邪魔に感じる。 それは、誰かに邪魔に思われる、 という疑念でなく、私が私自身を 煩わしく思うという意味で。 世界ごとつつまれるような一体感や 泣きたくなるいとおしさを、 夢であったのでは?と疑うほど 淋しく黒々湿ってくる。 どちらももて余すこと毎度知りながら 操作できるわけでもない。 ただ拳を握りしめ、立っているだけ。 世界を引き受けよう、 その野心とも傲慢ともつかない 意志が…
ふれるとき 言葉はない 言葉はいらない 近く、溶けるままにあずける かたちはないと思いたい温かさ だんだんに眠くなってきて 流れ込んでくる未分化を束にする 積み重ねて 積み重なって 地層になるまで
生きにくさ。 それは、生存しにくいという 意味ではないと思う。 経済的な貧困は、生存しにくい 状況を招くかもしれないが =生きにくい、ではない。 それに、衣食住揃い十分生存できる 状態であったとしても 生きにくさは感じるものだろう。 差別や偏見だろうか。 確かに性別や人種によっては、 屈辱的な扱いを受けてきた 歴史がある。しかしながら、 受け入れられなかったことを 反省し、差異あるもの同士が 認めあうために試行錯誤を し始めている風向きがある。 差別や偏見が生きにくさの 元凶であるならば、近年の動きは むしろ生きやすさへ向かう 明るさや豊かさが席巻するはずでは なかろうか。 現代、とりわけ日本…
そもそも、生きるって義務や権利なのかな。 選んでないことを生まれでてから選ぶのは、 生ききるためだ。 そうでなしに、義務だとか権利だとか 言い合ったところで何も出やしないと思う。 生命は、連鎖的に引き継がれてきたもの だけれど、誰かから与えられるもの ではない。何人もその行方を定められる ものではない。 永遠を求め、引き継がれてきた生命の連鎖。 個々の命の不死を実現することで完成される と思うのは、かたちゆえの過ちだろう。 何が言いたいのかといえば、 全体の意志として希求される『永遠』と それゆえに引き継がれてきた生命。 その連鎖のうちに生きることは、 大きな意志の働きによって与えられた もの…
こんばんは、ぴーやまです。 今日は、愛についての考察をば。 愛は、存在だ。 愛それ自体は現象界にはない。 現象界にあるのは、存在者だけ。 存在者を存在者としてあらしめる、 起源であり原子でありすべてを含む 愛。在る、その不思議に私たち 存在者は、驚き戦き喜び哀しみ怒り畏れる。 在ることの不思議の前には どんな技術も思想も力を持たない。 それでも(それ故?)、 探求せずにいられない。 存在者は愛をわけもつかたちあるものだ。 かたちのないものは現象界に存在しない。 かたちのないもの=目に見えないものでは なく、輪郭のないものだ。 故に想像上の生き物や思想も存在する。 存在者が認識できるものはすべて…
こんばんは 死にたがり界の新星、 ぴーやまです。(どや) まったくどやるとこではないけど、 唯一真剣に向き合ってきたことと いっても過言じゃないわけで。 誰になんといわれようとも(むしろ、 なにもいわれなくとも!!) 誇ってやろうと思っているわけです。 てことでさっそく、ぴーやま流 死にたさとの向き合い方、いくでー! ①死にたさは、まず「点検確認」 死にたさがもたげてきたときに、 百人一首かな?って勢いで 吹き飛ばそうとする人がいるんですが ピー!お手つき!! 瞬発力、まったく発揮しなくていい。 むしろしてくれるな、といいたい。 死にたいも様々で、明確な理由が ある場合とそうでない場合がある。…
こんばんみ、ぴーやまです。 ちょっと思ったことをば。 今どきハイソックスって短めが 流行りなんだね。 膝下まであげてる子ってほとんど いないなぁ、何てことを思いながら 眺めてたらふいに鼻の奥が ツンとした。 あ、決して汗くさいとか思春期特有の においじゃなくてね。 あの頃を思い出して、胸がつかえる というか… 自意識でぱつんぱつんだったなぁ。 何が不満といえないけど、 鬱屈としてそれでいて猛烈に 走り出したくて なにか確からしいことを求めながら 誰とも違う自分を見つけたくて。 自分の輪郭を暗中模索、 意味を求めるゆえに混沌から めりめりと分裂が起こる。 でもそれにうまく言葉を見つけられず、 怒…
静かな夜がある 寝そべった甲板は冷たく硬い 生ぬるい風があたまを撫でて 別の石あたまをくすぐりに行った 星が降ってくる ひとつも取りこぼさないよう にゅっと目を動かせば、 向こう側がぼやけてしまう 星はずっと昔に消滅しているのだと 科学は仁辺もなくいうけれど、 ほんとうはその彼方 科学も同じ彼方を祈るから 眺めずに測るのだろう それすらも照らして響く 無邪気な星たちのわらい声 眺めるこの魂は 何処まで見れるだろう 静かで騒がしいこの夜が明ける前に 遠い海に ぽつりぽつりと 剥き出しの魂が浮かんでいる 星のような魂よ 同士よ 焚き火に木をくべる熱でなく、 摩りきれる熱 漏れでる体液を燃料に 何処…
心がびしゃびしゃだ 嗚咽が止まらない 内蔵が痙攣する 愛の讃歌は 乱暴に殴り付け 痛みのまま受け取ることを要求する 怒りのまま凝視することを要求する すなわち楽器になりきることだ にじみ出ることを望んではならない 奏でる音に酔うことも許さない 繊細な弦と正確な調律を欲しながら、 楽器に徹すること ただそれだけが 讃歌を聴く対価だと 近くで遠くで鳴っている 讃歌に殴られた者共の慟哭が 聞こえぬか 遥か彼方へ響いていく 永遠への旋律が 憧憬が 殴られたことを認めたとき、 魂は取引された 望んできた地平は唾棄され 拓きかけていた視界は霧に包まれた かたちを超えよ かたちのままに 白線を引け お前の手…
もう蕩けるべき境界はないのだろうか。 それは、私のうちにおける統合が (かたちをもつ存在者における制限に 留まるにしろ、)最大限果たされた ということなのか? 目指していたはずなのに、 虚無感に襲われる。「なにかできそうな 気がする」予感を得るための、未完成の 未来を豊かに描けない。満たされ過ぎて いるのだろうか。すべて認めようとすれば、 個人レベルの痛みや憂いが吸収されてしまう。それは、かたちを出しきっていると いえるだろうか。統合までの葛藤がない。 いや、きっとこれが「次元の壁」の 前なのだ。 手酌で酒をあおりたいといつか思った その場所だ。 わたしと存在そのものの間にある壁。 越えられな…
肉体というかたちをいずれ 失うことは感覚的にわかる。 土になるとか、骨が残るとかは 結局「物質」としてだ。 (抜けた髪の毛やその辺に落ちた細胞が わたしではないのと同じ意味) なんのための肉体か?と考えれば、 土になろうが骨になろうが それは失われたといって差し支えない と思う。 *墓は、残されるものが 死者とつながるための象徴として かたちをのぞむから存在するわけで、 それだけで十分なのだと思う。 では、生命が肉体をかたちとして存在 させる機構であるとすれば、 それは脳にあるのか心臓にあるのか? 簡単に言えば脳死を死とするなら脳、 生とするなら心臓だろう。 論争になるくらいだから、立場の取り…
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