chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
人生強者への道 https://ktao1640.xsrv.jp/shigotototoushi.com/

さまざまな罠や騙しを超克し、主体的な人生を歩みだすことが、穏やかで豊かな暮らしへの第一歩です

黒兵衛
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2017/10/30

arrow_drop_down
  • 損を自覚したあとでも自分を見失わない方法

    「損をしたくないという気持ち」は誰にでもあると思います。しかしこの気持ちが強すぎると、本質を見失って更なる損失を呼び込むことにもつながります。 そこでこのページでは、「損をしたくないという気持ち」から少しだけでも自由になれる提案をしていきたいと思います。 つまらない映画とランチバイキング チケットを買って見始めた映画がおもしろくなかった場合、あなたならどうしますか。映画は一人で見ているものとします。つまり、途中で席を立ったとしても誰にも迷惑はかからないという設定です。 「映画チケット代がもったいない」という理由で、つまらない映画でも最後まで見る人と、早々に立ち去る人、あなたはどちらでしょうか。返金してくれるのならば、もちろん席を立つのは簡単です。しかし、お金は返ってきません。そこで多くの人は、「もったいないから我慢して最後まで見よう」と思います。 ランチバイキングはどうでしょうか。たくさん食べても少なく食べても、料金は同じです。どうせなら、たくさん食べて元を取り、さらにたくさん食べて得をしたい、と思うのではないでしょうか。このように、人はいたるところで損か得かを考えてしまう傾向にあります。 私自身が体験したスキー一日券の思い出 私は二十代の頃、スキーに熱中し、毎週のようにスキー場に足を運んでいました。基本は、楽しく滑ることをモットーにしていたのですが、あるとき一緒に行った友人の一人が、「元を取る取らないにとてもこだわる人」でした。 通常スキーヤーは、よほどの初心者でもない限り、リフト券は一日券を買います。一日券があれば、自由にいろいろなリフトに乗ることができ、またそれを見せるだけですぐに乗れるので便利だからです。しかし料金設定も微妙にできていて、当時は11回以上乗らないと元が取れないようになっていました。 その友人は元を取ることにこだわるあまり、あと何回だということを絶えず口にしていました。そしてその顔はどこか忙しなく、スキーを楽しんでいる顔ではありませんでした。 その姿は、私にはとても奇妙なことに思えました。スキーを楽しみに来ているのに、リフト券の元を取ることのほうに心が支配されてしまっているからです。 朝から必死の形相で滑り、彼は午後の早い時間に11回という回数をこなしました。そしてそれ以降は、元を取れた安心からか、彼の顔つきは穏やかになっていきました。

  • 集団の圧力から距離を取って自立する方法

    私には子供はいませんが、大学生の子供を持つ友人から相談を受けたことがあります。東京の大学に通う友人の長女についての相談でした。子育てをしたことのない私に相談してくるというのは奇妙にも感じましたが、頼まれたので彼の長女に会ってみることにしました。 友人の家の応接間で、体調不良で帰省していたその娘さんと会ったのですが、大学の友人たちとの付き合いに違和感を覚えていることが悩みの中心であることがすぐにわかりました。 「都合よく利用されているのでは」という違和感 彼女は東京の大学に通いながら一人暮らしをしていました。最初に仲良くなったグループは、いずれもお金持ちのお嬢さん方だったそうです。 向学心もあまりなく授業もよく休む彼女たちと違って、友人の長女はまじめな学生でした。彼女の友人たちは授業にはほとんど出ないため、配布されるプリントなどは彼女がその友人たちの分まで取っておかねばならなかったそうです。 また、金銭感覚も違っていて、忘年会などには高級ホテルを利用するその友人グループとの付き合いが、彼女は徐々に苦しくなってきました。その友人グループに合わせていくことが苦痛になってきたらしいのです。 次第に彼女は被害妄想に駆られるようになっていきました。そして、自分は「利用されているのでは」という違和感を覚えるようになっていったと言います。 そうした違和感を覚えるようになってから、彼女は今のグループを抜けて他のグループに入っていくことも考えました。しかし、そうした別のグループに飛び込んでいく勇気も自信もないのだと言っていました。 私自身も「集団の圧力」を感じていた経験があった そこまで彼女の話を聞いてきた私は、友人がなぜ私に相談を持ち掛けてきたのかがわかりました。私自身、自分の属する集団への違和感からその団体を離れた経験があるからです。そしてその友人は、私のそうした経緯を知っていました。 私の場合は、それは学校でも会社でもなく、宗教団体でした。幸福の科学という宗教団体です。そこの教祖である大川隆法氏の言行不一致に違和感を覚え、組織内で居心地の悪さを感じていた経験があるのです。

  • 変化する経済状況下でこそ役立つ考え方

    今の情報化社会で、広告を目にしない日はないと思われます。よほど決意して、情報を遠ざけない限りは、何らかの広告が目に入るようになっています。 そしてその広告ですが、多くの人は「商品を売るためのもの」だと思っています。もちろんそれは、間違いではありません。企業であれば、宣伝をすることは普通のことです。そして宣伝することの主眼は、商品を売ることにあります。 しかしもう一つ、広告には大きな役割があります。それは、すでにその商品を買った人に対するメッセージです。 広告は「すでに商品を購入した人」に安心感を与える 新しい顧客を開拓することが、広告の中心的意味であることは事実ですが、実はもう一つの大きな意味が広告にはあります。それこそが、すでにその商品を買った人に対するメッセージなのです。 私がそのことに気づくきっかけを与えられたのは、幸福の科学という宗教の会員だったときです。多くの会員は、ときどき全国紙に掲載される大川隆法氏の書籍の宣伝広告を誇らしく思っていました。 また、支部長と呼ばれる職員も「全国紙に掲載されるのは社会的信用があるからだ」と言っていました。活動会員であれば、教団の職員である支部長の言うことはそのまま受け入れます。 私も、18年近く幸福の科学の信者をしていましたから、上からのメッセージは素直に受け入れる習性がありました。しかし、小さな疑問というものは、落ち葉が増えていくようにたまっていくものです。 その一つが、職員の言う「全国紙に掲載されるのは社会的信用があるからだ」という発言でした。広告というものは、掲載されるに際し、それなりの対価を支払っているはずです。つまり、よほど反社会的な組織でない限りは、お金を支払えば広告は掲載されるでしょう。 その証拠に、幸福の科学が悪魔のように批判していた他団体の広告も、同様に掲載されていました。しかし、そうした疑問を口にすることは、信者時代の私にはできませんでした。 その後退会し、風通しの良いフリーな立場で物事を考えるようになってみると、教団が全国紙に掲載している広告も、やはり二つの意味があることがわかってきました。 一つは、もちろん大川氏の書籍の販売促進であり、信者獲得のための宣伝です。そしてもう一つが、すでに信者として活動している人たちに対する「安心せよ」というメッセージだったのです。

  • サラリーマンをしながらでも、頭の中は自営業者になろう

    私は50歳まで、負け組の人生を生きてきました。何が負け組かというと、自分の人生なのに、その自分自身がキャスティングボートを握れない、という点においてです。 具体的に言うと、仕事がつらくて会社を辞めたくてもお金がないからやめられないということがあります。 また、私はある宗教団体に属していたため、会社以外にかなりの時間とお金をその団体につぎ込んでいました。そして、その宗教の教えに縛られ、さまざまな制約を感じていました。 つまり、経済的にも自由でなく、日々の生活をする上においても宗教の教えによる制約も受けていたのです。 人生の反省と同時に取り組んだ経済の勉強 私は、その宗教団体、幸福の科学に長年在籍し、また多額のお金をお布施してきました。そのため、50歳の時点での、預貯金はほぼゼロに等しいものでした。ちょうどその頃、教祖とその教義に疑問を持ったため、宗教活動とお布施を控えるようになりました。 50という区切りの年に、私は自分自身の人生を本格的に反省し、自己を深く顧みることにしたのです。反省と内省は三年に及びました。そして53歳のときに、約18年間在籍していた幸福の科学を退会したのです。 反省と内省の三年間の間に、私は経済の勉強をゼロから初めました。そしてただ学ぶだけでなく、株式投資も始めました。経済の勉強を、机上の空論で終わらせたくはなかったのです。 反省を始めた50歳の時点で、預貯金はほぼゼロだったので、私はそれまでお布施に振り向けていたお金を貯蓄に回しました。株式投資を始めるにしても、まずは種銭が必要だったからです。 宗教活動に邁進していたときには全くできなかった預貯金と株式投資で、私は退会までの3年間で300万円ほどの資産を持つことができました。 50歳で立ち止まった私は、人生の反省をしながら経済の勉強と株式投資の実践を継続することで、生まれて初めて資産が増えていく実感を持つことができるようになったのです。 自分がキャスティングボートを握る喜びを知る キャスティング‐ボートは、英語で書くとcasting voteになります。これは、つまり決定票 のことです。せめて自分の人生くらいは、自分自身が決定権を持ちたいものです。 長年依存していた宗教団体からの脱退と経済の勉強の継続は、私の資産形成に拍車を掛けました。そしてそれと並行して、私には大きな自由が生まれました。

  • その先の展開が見えないと破滅することもある

    私が18年近く信者として関わってきた幸福の科学では、年を取ってからお金に困る人がかなりいました。その理由は、目の前の活動に翻弄されるうちに、大切な資産構築の機会を失ってしまうためです。 私自身、このことに危機感を覚え、50歳のときにお布施をセーブし、その3年後の53歳で幸福の科学を退会したため、ぎりぎりのタイミングではありましたが、経済を立て直すことができました。 なぜ、経済的に破綻していく者がいるのか 幸せになるためにその団体の教えを学び、幸せになるために活動しているはずなのに、ときどき、生活破綻者が出てしまうのはどうしてなのでしょうか。 私は、すべての宗教団体が危ないと言っているのではありません。事実、私の親戚には、立正佼成会を長く信仰している者がいますが、経済的な負担はあまりないようで、おだやかな信仰生活を送っています。 また、誤解なきように言っておきますが、すべての幸福の科学の会員が経済的に破綻していくわけではありません。あくまでも他の宗教団体に比べると生活破綻者が目に付くという話です。 私の父は世界救世教という宗教を長らく信仰していましたが、その信仰生活に掛かったお金は子供の私から見ても妥当なものでした。 キリスト教においても、バブテスト系の団体などは、10分の1献金をしているようですし、キリスト教からは異端扱いされているモルモン教も、10分の1献金は有名です。そのように、10分の1程度の献金であれば、生活が破綻することはないでしょう。 ではなぜ、幸福の科学においては、生活が破綻していく者が出てくるのでしょうか。 これは、私自身が活動会員であったからわかるのですが、世界を救いたいという使命感を強く持った者が、他の団体に比べて多いのではないか、というのが理由の一つとしてあげられるのではないかと思うのです。 不惜身命という言葉がありますが、そのような気概で活動する者が少なからずおり、そうした人たちは、自分の経済状況などは度外視して、活動に邁進してしまうのです。その結果が、常にお金を吐き出した生活です。 事実、幸福の科学においては、常に具体的なお布施の目標や、教祖である大川隆法氏の著作物の購買目標なども、支部ごとに与えられ、その成果を競争させられていました。私自身も、大川氏の本を数十冊単位で購入したこともあります。

  • 内発的動機を持った人が事を成す

    内発的動機とは、「自らの内にある自然発生的な動機のこと」を言います。内発的動機を考える際に参考になるのは、幕末の志士たちです。 坂本龍馬にしても高杉晋作にしても、私利私欲で行動したのではありません。より高次な動機、つまり、天下国家のために生きたのです。 天下国家のために生きることの高揚感は、私には想像でしか味わうことができませんが、それよりもはるかに小さな高揚感は私も経験したことがあります。 外発的動機には限界がある 内発的動機の反対側には、外発的動機があります。これは、端的に言ってしまえば、餌です。多くの場合、それは金銭としての報酬であったり、名誉欲の充足であったり、他人からの称賛であったりします。Facebookの「いいね」も、当然のことながら外発的動機の範疇に入ります。 そうした外発的動機は動力源にはなり得ますが、その動機を外部依存しているため安定的ではありません。 たとえば、一生懸命仕事をして会社内で評価され、上司から褒められる。さらには、昇給も勝ち得る。すると当然のことながら、やる気が増します。しかし、そのようなときばかりが続けばよいのですが、人生は山あり谷ありです。それは、会社員生活も同じです。 仕事をいつになく頑張ったのに、むしろ逆の評価をされるなどということはよくあります。また、会社員は仕事だけで評価されるわけではありません。そのため、仕事はできても社内政治力がないために冷遇されることも無きにしも非ずです。 頑張ったのに評価されない、あるいは昇給がない、となるとどうでしょうか。モチベーションは一気に下がるのが普通です。 会社に限らず組織における仕事というものは、頑張ったからといってそれが即評価につながるわけではないのです。実に多くの会社員が、不平不満を抱えて働いている理由もそこにあるでしょう。 私自身が内発的動機で活動していた時代 私も、実は内発的動機で活動していた時期があります。 今はすでに退会しているのですが、幸福の科学という宗教団体で20年ほど、リーダー会員として活動していた時期があるのです。そのときの私の心境は、活動が大変になるほど使命感に燃え、内的には充実していました。

  • 損をするとなぜリスクを取ろうとするのか

    二十代後半から三十代初めの頃までの数年間、私は毎週のように馬券を買っていました。本会場に行くこともあれば、後楽園などの場外馬券場で買うこともありました。 そして私自身も経験したことですが、その日のレースで負けが込んでくると、最終の12レースでかなり大きな勝負に出ることがありました。損をすると、人は一か八かの勝負に出たくなります。 損をすると、リスクを冒すハードルが下がる リスクとは、結果が不確実であることを言います。ですからリスクが高い、あるいは大きいということは、それだけ不確実性が高い、あるいは大きいことを意味します。 普段は慎重に行動する人でも、損が膨らんでくるとリスクの高いことにも挑んでしまう傾向があります。 通常、人は不確実なことを好みません。リスクを取って何かをするということは、通常はしないのです。 逆に言えば、リスクを取ってでも何かをするときというのは、何らかの理由があるときです。 テレビ番組で見た節約主婦の例 テレビ番組で私が見た節約主婦などはそのいい例かもしれません。その主婦は「節約だけでお金をやりくりするには限界がある」という趣旨のことを話していました。 事実、涙ぐましいほどの節約をしている様子がテレビ画面に映し出されていました。しかしどれほど節約に励んでも、限界があるのだとため息をついていました。 「これまでは節約だけで、何とか経済的苦境を乗り越えてきた。しかしもう、節約だけでは如何ともしがたい」というその切実さが、主婦を外貨預金に走らせたようでした。 その主婦の様子に対し、同番組に出演していた経済評論家は、その主婦の行動に対するリスクに言及していました。 この主婦がやむにやまれず外貨預金に手を出したことは、いいとも悪いとも言えないと私は思います。ただ、この主婦にとっては、「通常の銀行預金では全くお金が増えないという危機感」は現実的な生々しいものだったに違いありません。 それまでの、「節約で乗り切る」と「銀行預金」という二つの手法では対応できないと思っていたのでしょう。そうした流れの中で、考えた末に手を出したのが、この主婦にとっての外貨預金だったわけです。

  • 「世捨て人」という選択肢も考えてみませんか

    私の知人で、30代半ばで早期リタイアし、その後ずっと働かずに生きている男がいます。もうすでに50に手の届く年齢ですが、いたって幸せそうです。 彼は30代で早期リタイアしたときからすでに親はなく、兄弟もいませんでした。その彼が早期リタイアに際して最初にしたことは、古家付きの土地を安く買うことでした。 その古家を買う前まで、彼は公団住宅に母親と暮らしていました。仕事は工場勤めの正社員でした。高校を出てからずっと同じところで働いていたため、すでに十数年間の、正社員生活を経験していました。 そんな彼でしたが、母親の他界で公団住宅に住めなくなったことがきっかけとなって、古家を手に入れました。そして、単に古家を手に入れただけでなく、それきり仕事も辞めてしまったのです。 彼が私に語った「時間こそが人生である」という哲学 彼は高校卒業後、18歳で工場勤めを始めたわけですが、その単調な労働の日々に喜びはなかったそうです。仕事を面白くする工夫はしたそうですが、それにも限界があったようです。 次第に彼はどこか遠いところに行きたい衝動に駆られます。しかし病気がちの母親との二人暮らしは、彼を工場労働に縛り付けるばかりでした。 彼の唯一の趣味は読書で、それも図書館で借りて読むことが中心だったようです。そのようにして読んだ本の中から、どうしても手元に置いておきたい本だけを購入したと言います。 読書をし、思索する。彼の休日のすべてはそれだけに費やされました。読書をし、思索していると、時間が経つのを忘れました。そして彼は、「時間こそが人生である」という彼なりの哲学を持つに至ります。 「人生で最も大切なものは時間であり、時間こそが人生なのだ」そう気づいた彼は、リタイアする希望を持ちながら、貯蓄に励みました。 「人生の貴重な時間の大半を意に添わぬことで過ごしたくはない」と考えた彼は、一日も早く工場労働を辞めたかったのだと言います。 母親の死と古家の購入と早期リタイア 病弱だった母親が入院後まもなく他界したあとは、そのまま公団住宅に住むことは許されなかったそうです。そこで彼は、すぐに安いアパートを探しました。

  • 考え方ひとつで豊かさの概念は変わる

    私の後輩で、とても楽天的な男がいます。彼は二十代から三十代にかけて、仏教系のある組織にいました。そに在籍中は、月に1日の休日があるほかは、毎日朝から晩までその組織への奉仕という名の活動をしていたそうです。 彼は大学時代にその組織に勧誘され、死後の成仏を生きる目標に据えて活動にいそしみましたが、やがて精神と肉体を病み、実家に帰りました。 30代半ばでこちらの世界に戻ってきた男 その彼ですが、組織を離れ、こちらの世界に戻ってきた当初は、亡骸のようなありさまでした。当時の、彼の痩せさらばえた亡霊のような姿を、昨日のことのように思いだします。 その彼ですが、今はとても楽天的で、その組織のことも、恨んではいないようです。 ただ、本来会社員として働いていれば、稼ぐことができたであろう収入がないため、現在40代の彼は、大変質素な暮らしをしています。 彼は清掃員として働きながら質素な生活をしているのですが、「それでも自分には2000万円ほどの貯金があるのと一緒だ」と言っています。しかし実際の彼の預貯金は、その10分の1にあたる200万円ほどです。 30代半ばで社会に戻り、そこから精神と体調を回復させるのに、数年の期間を要した彼は、その後清掃員として働き、年間40万円ほどを貯め、5年で200万円を貯めることができたと言います。 彼が幸運だったのは、良い家族に恵まれていたことです。彼の父親も母親も、彼が組織を退会したときも、快く迎え入れてくれたと言います。 彼の父親は、彼がその組織を退会してから3年後に他界し、一人息子の彼は、今は母親と二人で暮らしています。 収入の柱は、清掃員としての彼の15万円の手取り月収と彼の母親の年金と遺族年金の15万円だそうです。二人合わせると手取り30万円で、二人暮らしであれば十分やっていける金額です。 彼の頭の中にある2000万円の貯金 さて、実際には200万円の貯金しかない彼が、なぜ、2000万円の貯金があると言うのでしょうか。ここに、彼の面白い考え方があります。 内容はこうです。彼の母親は元気で、介護の必要もないとのことです。以下が楽天的な彼の 発言です。

  • 最初に示された数字の罠

    私が初めて韓国に行ったときの話です。慶州という観光地でのことでした。若い女性が私に話しかけてきました。無料の観光案内をしているというのです。 私は、観光ボランティアの方だろうと思い、せっかくだからと彼女の申し出を素直に受けました。 1時間ほど観光案内をしてもらったあと、彼女はしきりに叔母がやっているとかいう店に私を誘いました。私は、無償で観光案内をしてもらったこともあり、断ることができず、言われるままについていったのです。 そこは、彼女の叔母が経営しているという宝石店でした。女店主は流ちょうな日本語で宝石の説明を始めました。残念ながら私は宝石には全く興味がなく、いつ店を出ようかと考えていました。 しかし、どうにも、そのタイミングがつかめないのです。それどころか、何か買わなければ出られないような雰囲気を感じてしまったのです。 30万ウォンの緑色の石 女店主は、しきりに私に緑色の石をすすめました。値段を訊くと、30万ウォンのエメラルドだと言います。当時のレートは、単純計算で、韓国ウォンの10分の1が、そのまま円に変換できたと思います。ですから、30万ウォンは日本円にすると3万円です。 エメラルドの相場はさておき、宝石に興味のない私は、その石に3万円を支払う気にはなれませんでした。そこで私が考えたことは、彼女の無償ガイドはいくらに値するだろうということでした。まあ、「ガイド代程度であれば払っても良いかな」と私は考えたわけです。 その石は要らない、と言えなかった私は、持ち合わせがないので10万ウォンならば考えても良いと言ってしまいました。3分の1に値切ったわけですから、私としても損はないし、そんな値段では売れないと断ってくれればなおいい、という計算があってのことです。 女店主はしばらくの思案顔の末、特別にゆずると言って、私にその石を、10万ウォンで売りつけました。あとでわかったことですが、まさに売りつけたのです。 私がその石の本当の値段を知ったのは、帰りの飛行機の搭乗を待つ金浦空港でのことでした。土産物店で、その同じ石が1万ウォン、つまり千円で売られていることを知ったときでした。 反省すべき二つのこと 若い女性の観光ガイドの申し出を観光ボランティアだと誤解したことは仕方がありません。反省すべきは、彼女の叔母だという人の店について行ってしまったことです。

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、黒兵衛さんをフォローしませんか?

ハンドル名
黒兵衛さん
ブログタイトル
人生強者への道
フォロー
人生強者への道

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用