当ブログは一応、毎週金曜日にアップする予定でやっていますが、先週の金曜は、前々日から体調を崩して数日寝込んでしまい、アップ作業ができませんでした。スミマセンデシタ。 当方も80代の半ばを過ぎて、体にも頭にも相当ガタがきております。文字通りガタガタしながら日々を送っていますので、当ブログもいつ突然前ぶれなく大穴に落ち込んで、永遠に姿を消してしまうかしれませんが、ま、続けられるかぎりは続けたいと思っております。そのおつもりでお付き合いのほどを・・・。
ボケても生きとる。生きとりゃ、めしも食うし、クソもする。もちろんモノも言うぞ。ホンネを言うたるワイ!
ボケモン島を浮かべているのは太平洋や日本海なんてケチな水たまりじゃないぞ。この世じゃ。チミモーリョーがウヨウヨ住む世界だ。そんなこの世のもろもろのチリ・アクタが、日々ボケモン島の浜辺に打ち寄せる。それらをいったん呑み込んで、ボケ頭で咀嚼し、吐き出す。とにかくボケても言うことは言うワイ。遠慮も慎みも蹴とばして、ホンネを言うたる。耳の痛いヤツは来ないでいいぞ。しっぽを巻いて逃げてろ! 高齢化ニッポン万歳!
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当ブログは一応、毎週金曜日にアップする予定でやっていますが、先週の金曜は、前々日から体調を崩して数日寝込んでしまい、アップ作業ができませんでした。スミマセンデシタ。 当方も80代の半ばを過ぎて、体にも頭にも相当ガタがきております。文字通りガタガタしながら日々を送っていますので、当ブログもいつ突然前ぶれなく大穴に落ち込んで、永遠に姿を消してしまうかしれませんが、ま、続けられるかぎりは続けたいと思っております。そのおつもりでお付き合いのほどを・・・。
一袋のナッツ(ピーナッツ・アーモンドなど食用になる木の実)が、一国を揺るがす大騒動の原因になった事件を憶えてイマスカ? 今から10年前に韓国で起こった「ナッツ・リターン事件」デス。 ハナからとんと覚えのない人、わしみたいにそんな事件があったような記憶はかすかにあるが、具体的にどんな事件だったかはしっかり忘れてしまった人もいるだろうから、ネットで調べた事件のあらましをまずざっと紹介しておく。 2014年の師走に入ってまもない頃。 米国のジョン・
「如意棒」というと誰でもすぐ思い浮べるのは、やはり「孫悟空」が振り回すあの棒であろうが、実はわしも一本持っている。 話はちょっと違うが、春・夏・秋はまだいいとして、寒い冬の間、わしは「袴型足ゴタツ」を愛用している。「袴型足ゴタツ」というのはわしの勝手な命名で、本当の名前が何であったかは忘れてしまった。何しろ買ったのは40年ほども前だから。 ひと言でいえば、袴の先端部に小型の電気コタツを取りつけたようなもので、袴と同じように両足を入れて穿き、上部は
いま世界中で最ももて囃されている・・・というか問題になり話題になっているのは、「生成AI」であろう。 言わずと知れた超高機能な人工知能である。 ふつの言葉で質問すれば、およそどんなことでもすぐさま答えてくれるという。ま、現代の「魔法のランプ」みたいなものか。 卒論や学位論文の執筆に役立てる学生もいれば、小説や漫画の制作、絵画や音楽の創作にも利用できるらしい。・・・というから、いったいどうなっちゃってるの?・・・というか、こんなものが出来ちゃ
少しも自慢にならないが、このブログは、長寿でもさっぱりメデタクナイ高齢者や、どこから見ても冴えない年寄りを扱うことが多い。 つまりそれが大方の老人のあるがままの姿だからだ。ドジャースの大谷翔平選手を実況するマスメディアと同じことをやっている結果だ。 しかし世の中には、そういう大方の年寄りの範疇には入らない(傍点)人もいる。 先日、新聞の読者欄にこんな投稿が載っていた。 投稿者は現在91歳の老人である。しかも珍しことに男性(新聞の読者投稿欄の90%以
このブログでは、たびたびカミさんの「紛失グセ」を嘆いて書いている。 だからちょっと言いにくいんだけど、そのわしが先月ある物を紛失した。それも最も避けるべき、マイナンバーカードをである。 マイナカードは、健康保険証や銀行口座、住民票や印鑑登録証明書など、日本社会で生きていく上に必要な基本的な事柄にデジタルでつながっていて、他人に拾われて悪用されれば、ドえらい被害をこうむる可能性がある。 しばらく使用することがなくて、ふと気づくと見当たらない。 慌てて周辺を
カミさんは昔からゴミが嫌いだった。 ゴミが大好き、という人もあまりいないだろうが、カミさんのゴミ嫌いは特別だと思う。 わしは昔から、ヘビが天敵の "ヘビ大嫌い人間" だが、カミさんはまあそれに近い "ゴミ大嫌い人間" ではないかと思う。 ゴミは赤い舌をチロチロ出したりしないし、ましてや噛みついて毒を吐いたりしないから、べつに恐れることはないと思うのだけれど、床(ゆか)の隅などに小さなゴミを見つけると、わしのヘビに対するのに近い反応をする。 そう言えば彼女
先日、買い物に行く途中、すぐ目の前を老夫婦が並んで歩いていた。 70代後半。わしら夫婦より7,8歳くらい年下か。 当方との間には5,6メートルくらい離れていたが、彼らの話声が急に大きくなったので、自然に耳に入ってきた。べつに聞き耳を立てたわけではない。 「お父さんはいつも、わたしの話をいい加減にしか聞いてないのね」「そんなことないよ。ちゃんと聞いてる」「嘘ばっかり、いつも生返事ばかりしてるわ」「そんなことないって」「じゃ、今わたし、何の話
夫婦がひとつ屋根の下にいっしょに住んでおれば、お互い相手の人間性から多かれ少なかれ影響を受けずにはおれない。 少し前のテレビで、一昨年亡くなった作家・政治家の石原慎太郎の逗子の家の生活を撮ったドキュメンタリー番組を見たが、その家はとてつもなく広大で、敷地は一般的な住宅の15軒分の広さ(540坪)があったそうだ。 そんな大きな家に住んでいて、一日ほとんど顔を合わすこともない夫婦だったのに、慎太郎の奥さんは夫の生き方からイヤになるほど影響を受けていた。 一方わが
先日朝早く、カミさんが寝ている部屋から変な声が聞こえてくるような気がしたので、覗いてみると、カミさんが布団の上に座ってシクシク泣いていた。 隣に抽き出しが置いてあって、中身が周辺に散らばっている。 こういうことは今までにないことだった。 ・・・と書いて、ふと思い出した。そう言えばじつは結婚してまだ間もない頃に、同じようなことがあったのを、である。 夜中にふと目を覚ますと、彼女がとなりの布団の上に身を起こしていて(当時は同じ部屋に寝ていた)、声を忍ぶ
アーノルド・ペネットというイギリスの作家が『1日24時間で生活する方法』という本を書いて、当時評判になったという。今から100年あまり前のことだ。 泣こうが喚こうが、逆立ちしようがトンボ返りを打とうが、1日24時間は1秒たりとも増えも減りもしない。人間のメタボ腹とは違うからネ。 にもかかわらず、『1日24時間で生活する方法』なんて人を喰ったタイトルの本が出て、しかも大いに売れたというから、いかに「1日が24時間じゃ足りない」と思っていたかを、100年も前から人間
さいきん記憶力がソートー慎ましくなったカミさんが、しばらく会わなかった旧友と会い、当町の海辺のレストランへ案内することになった。前回にその経緯を書いて、今回はその続きデス。(前回はこちらから) その旧友のKさんには、わしのスマホの番号を知らせておいたので、待ち合わせ時間から少し経って、無事カミさんと出会えた旨の電話が入った。 まずは第一段階をクリアしてホッとした。 カミさんがハナからアサッテの方へ行ってしまう可能性も、なきにしもあらずだったからだ。
長い間会うことのなかったカミさんの友だちから、思いがけなく電話がかかってきた。もう5,6年以上も会っていなかったKさんからである。 きのう会った人でも、名前はもちろん、1日過ぎれば会ったことさえ頭の中から雲散霧消してしまうカミさんの現況では、かつてはたびたびご一緒した仲だったKさんも、もはや誰のことやら濃い霧の中であるらしい。応答にヘドモドしている。 たまた隣にいたまわしが電話を替わって、カミさんの認知状況を説明し、後ほどこちらから掛け直させることにして、
老人の日々の暮らしは、ウンザリするほど単調で退屈だ。新年早々パッとしない話だけどネ。 だがそんな老人生活にも、一夜明けたら別世界・・・なんてことも全くないわけではない。 前回、カミさんが白内障の手術をしたら、別世界のように風景が鮮やかにキレイに見える・・・と感動の声をあげたという話を書いたが、それにもう一つ付け加えマス。(前回はこちら) 前回は片目だけの手術だった。 その目には遠目用のレンズを入れたので、鮮明に見えるのはじつは遠くの景色だけだっ
新年は12日(金曜日)から開始いたします。 お知らせ当ブログは週1回の更新(金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。
先日、カミさんがようやく白内障の手術をした。 ようやく・・・というのは、だいぶ前から小さい文字が読めないとか、遠くの風景がぼやけてよく見えないとか言って嘆いていながら、当人が積極的に治そうという行動を取らなかったからである。 しかし認知症が忍び足で進行して、短期記憶はどんどんゼロに近づいているし、日々の生活でやれることは目に見えて減っている。 このまま自然に任せるままにしておくと、文字や遠景のみならず、人生のそのものの先にも明るいものはあまり見えない。
前回、相性について・・・とりわけややこしい "夫婦の相性" について書いたが、充分ではなかったので、補充的にもう少し書いてみようと思う。 夫婦の相性というと、誰でもまず "性格が合う合わない" ということを思い浮かべると思う。 場合によっては、性格が違うから却ってうまくいく、というケースもないわけではないけれど、違うためにイライラしたり、ムカッとする場合のほうが圧倒的に多いと思う。そして無用な夫婦ゲンカを生み出す。 よくあるのが、キレイ好き派か、キタナ
人間の関係には "相性" というものがある。 相性が良くないと折り合いがうまくいかない。 あの人、悪い人間じゃないんだけど、どうもウマが合わないんだよなぁ、一緒にいると何となく居心地悪い・・・もっと言えば、特に理由はないんだけど、どうもイライラしてくる・・・といった感じになる。 人と人との関係に限らない。物との関係にもこの相性はある。身近な例でいえば、かつてわが家の玄関のドアが古くなって、新しいのと取り替えたことがあった。 するとその新しいドア
前回、わが人生で初めての恋(らしきもの)を書いたが、もう一つあったのを思い出した。高校生のときのことである。 しかしまあこっちは、実際は「・・・らしきもの」とも言えないその前の段階、「恋の匂いのようなもの」かもしれない。 わしの通った高校は、その地方では比較的大きな隣町にあって、生徒は周辺の村や町から自転車で通学した。 わしも自転車で通っていたが、通学路が途中で別の町からくる道と合流する。その道をやはり自転車でやってくる女子高校生たちがいて、その中にな
前回、『惚れた腫れたは遠くなった』と題して、男と女の艶ごとが遠くなったわが現在の老人状況を書いたら、反射的に、生まれて初めて男女の恋らしき感情を抱いた少年のときの記憶が思い出されてきた。 ・・・で、今回はそのことを書いてみる。 棺桶に片足を突っこんでいるヨボヨボ爺さんが、初恋の話を思い出して書こうというのだから、相当ヨロヘロした昔話になるだろうと思っていたが、記憶の底にフォーカスを当ててみたら、意外にもかなり具体的で鮮明な情景が思い出されてきて、我ながら驚
本記事のタイトルに掲げた少々エロチックな言葉は、上等な品性に欠けるわしが思いついたものではない。 過日、某大新聞の紙上で、とある女史が言っているのを見たのである。ただ、それが誰だったか思い出せない。かなり名の通っている人だったように思うが・・・。 自慢じゃないが、近ごろますます、固有名詞が突然どっかに遁走する頻度が多くなった。 目の前に年齢を突きつけられてるようで気分はよくないが、年の進行は止めるわけにいかないから致し方ない。昨日も野菜の「ブロッコリー」が急
前回、脳梗塞の後遺症ですべりが悪くなったロレツを改善するために、「童謡を唄う会」に出かけたのだが、一回で挫折した、・・・というサエない話を書いたが、今回はそれにちょっとつながる話。 何度も書いているが、わしら夫婦は運動を兼ねて、原則毎日スーパーへ買い物に出かける。老人の足で片道30分ほどの道のり。 時刻は夕方が多いので、帰りはだいたい薄暗くなる。とくに秋や冬期には完全に日が暮れて、道で人と出会うこともほとんどなくなる。田舎町のことで外灯も間遠い。子どもだっ
脳梗塞の後遺症で、滑舌が油ぎれになったようにギクシャクする。 油を差して舌の回りをスムーズにするには、合唱サークルに参加するのも一法だと言語聴覚士に教えられて、とある童謡サークルに電話をした。そこまで前回に書いて、今回はその続きである。(前回はこちら) 電話の問い合わせに応答したのは、品のいい感じの高齢男性の声だった。 その人が会を主宰する人物らしかった。見学参加にOKをもらったので、早速次の例会にカミさんと出かけた。 会場は近くの小学校の音
前回、人生には思ってもみなかったことが起きるという話を書いたが、女房が80歳近くになって女子プロレスを始めた(先日の記事)というほどではないけれど、わし自身にも思ってもみなかったことが起きた。(先日の記事『79歳のカミさんが、女子プロレス?』はこちら) 何度も書いているが、わしは1年ほど前に軽い脳梗塞を患った。 いまは、体の半身不随はほぼ完全になくなったが、発語機能に少々後遺症が残った。要するにロレツが以前のように正常に回らないのだ。チコちゃんは言うに及ば
まいにち汗水垂らして働いている者にとっては、一日の終りに温かい風呂にゆっくり入るのは喜びだ。ひるまの疲れを癒し、翌日また元気に働くために、体と心をリフレッシュしてくれる。 でもわしらのようにいちンち家にいて、ぼんやりテレビを眺めているか、紙の上の文字をタラタラ追っているか、ときおりベランダの手すりに飛んでくる雀らに目をやって喜んでいる者にとっては、毎日風呂に浸かることの有難みは薄い。 そこでつい、シャワーだけで済ますようになる。 それも最初のうちは夏の間だけ
お気づきと思うが、このわしのブログには、同じ言葉がけっこうくり返えし出てくる。 その一つが "この世は一寸先は闇"・・・だろう。 月並みの親玉のような言葉で、それが分かっているから気後れはあるが、長年人間をやっていると、じっさいに何度もこの "闇" におデコにぶち当てて慌てる。で、自分の体験を書くことを基本にしているこのブログでは、どうしても度々出てくる。 今回の記事のタイトル "冷水を浴びせられる" という言葉も、内容からいえば "一寸先は闇" の親
カミさんは育った環境があまりよくなかった。 やや誇張していえば、拘束衣を着せられる精神病院みたいな所・・・といえば近いか。 で、子どもの頃からスポーツとはまるで縁がなかった。 運動に関係するものといえば、小中学校の体育の時間ぐらい。 それも何かと理由を付けて休むことが多かったらしい。鉄棒の尻上がりはついに最後までできなかった。 大学からは誰に遠慮することもなく、大っぴらに一切の運動から遠ざかった。手に持つものといえば箸と絵筆ぐらいのもの(彼女は美術系
その老婆と出会ったのは、先日、買い物を終えたあと、いつものスーパーを出て横道に入り、しばらく歩いたときだった。 この道は何となく暗い感じがするので、人通りは多くない。道の両側は葛やススキやオオブタ草など背の高い雑草が生い茂る原っぱで、もよりの人家までやや距離があり、電柱に取り付けられた外灯も間遠だ。 で、日が暮れて暗くなったら、重い荷物でも持ってないかぎり、わしらもこの道は近道でもあまり使わない。 ところがこのときの時刻はまさに黄昏どきであった。 し
前回と前々回の2回にわたって、「もし自分の人生に子供がいたら・・・」という「もし・れば」がらみの話を取り上げたら、たまたまそれを読んだ知りあいから、「なぜ子供を産まないという選択をしたのか」について、もっと詳しく書けという電話があった。 前回でもちょっと触れたが、わしらが子供を産まなかったのは単純な理由だ。カミさんが産みたくないと強く主張したからである。 それに対するわしの対応は前回に書いているので、今回は、カミさんがなぜ子供は産みたくないと主張したかについて、
わしら夫婦は子供を持たなかったが、「もし子供を産んでいたら、自分たちの人生はどのように変わっていただろうか」ということを、想像してみるきっかけについて、前回に述べた。(前回はこちら) で、どう変わっていただろう、という話であるが・・・。 難しいことはさておいて、まず頭に浮かぶのは、おそらくわしは子供に甘い父親だったのではないか、ということがある。 わしには兄がふたりいるが、そのひとり(故人)がわしと瓜二つだった。 趣味・関心・好みは言うに及ばず、と
「もし・れば」という言葉がある。「歴史に『もし・れば』はない」・・・などとよく使われるよね。 「もし明智光秀が本能寺で失敗して、織田信長が長生きしていれば日本は・・・」とか、「もしわしが水もしたたる若き美男子で、サッカーの日本代表選手だったら・・・」なんてことを考えても、100%無意味だワな。単なる仮定にしても、完全なる時間の浪費。 ・・・と言えない場合もある。わしのようにいちんち時間を持て余している者には、全く無意味というわけではない。老人には「時間の上手な浪
今やどんな高齢者の世帯でも、パソコンの1台くらいは家に置いてある。白くホコリを被らせているかどうかは別にしてね。 わが家には2台ある。 1台はデスクトップ型でわしの部屋に置いてあり、わしが毎日使う。このブログを書くのにも使っている。 もう1台はノートブック型で、居間に置いてあってこちらは主にカミさん用だ。使う頻度はうんと落ちるが、こっちは特別な使い方をする。 もう何度も触れているけれど、カミさんはある種のMCI(軽度認知障害)に足を取られていて、記
多くは2週間ほどで治癒するので、歯周病みたいに余り世上の口に上らないないが、「口内炎」というのはけっこう厄介な疾患である。 口内炎とは口の中にできる炎症。 この余計な "出モノ" が口の中にできるのは、ストレスとか栄養の偏りとか、他の病気の影響とかいろいろ原因があるらしいが、わしの場合は「物理的刺激」が原因になることが多い。 自慢するわけではないが、わしの歯はほぼ全員が作りものである。今をときめくAIならぬAT(Artificial teeth)。
聞いたことがあると思うが、「仏の顔も三度」という ことわざ がある。 カミさんは最近、その「仏の顔も三度」を度々わしにさせるようになった。 "ホトケ顔の大盤振る舞い" など、わしは別にしたくもないんだけどサ。 たとえば先日の朝のこと・・・。 カミさんは週に2回、デイサービスに通っている。 朝、係の人が車で迎えに来て、彼女は家を出て行く。 わしは彼女を玄関に送り出したあと、家の中にひとりになるので、ブッソーな人間が入ってこないよう念のため鍵をかける。
早いものでもう大晦日である。 一年前の今年の正月、屠蘇のお燗をする徳利をどこかに仕舞いこんで見つからず、家じゅう大探ししても出てこなくて、仕方なく薬缶でお燗をしたのを思い出す。 そのお屠蘇を、「おカンとやカン」だから相性は悪くないはず・・・などと自嘲しながら呑んだのも思い出すなあ。(参照→2022年1月7日付け『今年の年始め』) だが内心では、こんな「年の始め」で今年1年大丈夫かなあ~と、密かに思わずにおれなかったものも思い出す。 すると案の定、まだ松も
先日、知らない人間から電話がかかってきた。 若い男の声である。 いきなりわしの名前を口にし、「ご本人に間違いありませんか?」と問う。 そうだと答えると、さらに、「念のため確認させて頂きたいのですが、あなたの生年月日をお伺いできますか?」と言った。 そのときにはもう、これはヘンな電話だぞ、という気はしていた。 しかしすでに相手はこっちの名前も、電話番号も知っているのだから、へんな細工をすると却ってコトを混乱させると思い、すなおに生まれた年月日を言っ
前回、映画に関する話を書いたので、ついでにもう1回映画の話。 映画に係わる仕事をしていたこともあって、若いころはよく映画を観た。毎日めしを食うように観た。時には食当たりを起こすほどに・・・。 ところがあるときからとつぜん映画館へ行かなくなった。 映画の仕事から離れたせいもあるけれど、テレビでタダで観られるようになったことが大きかったと思う。根はケチだからネ、あっしは。 というわけで、かれこれ40年ほども映画館のスクリーンから遠ざかってい
親が長く住んでいた海辺の小さな町に引っ越してきて3年が経つが、この町に映画館などという文化施設があるとは全く知らなかった。思いも寄らなかったと言った方がいいか。 ところが先日、ひょんな偶然から、わが家からそれほど遠くないところに映画館があることを知った。 家から歩いて25分ほど。 波が打ち寄せる浜辺から50メートルと離れない住宅地に、その映画館はあった。 しかし外から見ると、古びた洋館風の民家にしか見えない。 それも、海辺に生えるゴツイ感じの樹
朝起きたらオシッコに行って、歯を磨いて、顔を洗って、目玉焼きとトーストの朝めしを食って・・・といった退屈なことをくり返している毎日。 そういった実に平々凡々たる生活をしている人間でも、ときに訳の分からない不思議な・・・というか妙なことに出遭うことがある。 もちろん、それらはどうでもいい小さなことだ。 無視してそのまま忘れても、どこからもお咎めは来ないし、罰金を求められることもない。 が、ちょっと気になる。 話が跳ぶが、わしは実は週に2回、家の中に完全
残念ながら、年を取ると動作がのろくなる。 やることなすことがトロイ。自分でも情けなくなるが、どうすることもできない。 ところが逆に年を取ると、早く、そして速くなるものもある。 涙である。涙の出が早い、そして速い。 たとえばわしは、脳梗塞の後遺症の一つでロレツの回りがちょっと怪しくなった。で、言語聴覚士からリハビリ訓練を受けている。 このあいだも、そのリハビリの一つとして童謡を歌わせられたのだが、「赤とんぼ」を歌っているとき、とつぜん涙がドッと出てき