chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
貢蕉の瞑想
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2017/05/08

arrow_drop_down
  • 新潟市船江大神宮 浮き身宿!

    令和5年2月2日(木)新潟市:船江大神宮古町神明宮は、天照大御神と豊受大神を主神として祀る神社。天正19年(1591)4月、上杉家より米4斗7升2合、社地二千坪の寄進と共に、直江山城守兼続より真筆の「高天ヶ原」の額並びに黒印書を賜り、御師次太夫が古町神明宮の神職として任命される。また、古町神明宮に合祀された船江神社は、御祭神は猿田彦大神と大彦命。千七百年以上の歴史があり、『延喜式』神明帳に式内社としても名を連ねている。この二つの神社は、安政5年(1858)社殿を再築した際に合祀され、「船江大神宮」の社号を賜る。このような由緒ある神社で、今も尊崇されている。芭蕉の句は、新潟で詠われたという、「海に降る雨や恋しやうき身宿」。新潟市船江大神宮浮き身宿!

  • 乙宝寺その2 「桜塚」から「浮世塚」へ

    令和5年2月1日(水)石段の脇には、松尾芭蕉が奥の細道の途中で立ち寄った時に詠んだ句、「うらやまし浮世の北の山桜」の碑がある。かつては、この句から「桜塚」といわれていたそうだが、現在は、「浮世塚」という。<浮世塚>説明板によると、芭蕉の句碑は、後列の円形碑。<不玉の句碑>酒田の不玉の句は、「三越路や乙の寺の花ざかり」。<以哉坊の句碑>安田以哉坊の句は、「差別なう神も仏もさくらかな」。左側には、後世の俳人達の句碑が林立している。乙宝寺その2「桜塚」から「浮世塚」へ

  • 浮世の北の山桜!

    令和5年1月31日(火)寒波襲来の二十五日、近所の知人の奥様が急逝!心筋梗塞であっという間に天に召されてしまった。家内の大の親友でもある。昨日、今日とその葬祭に出かける。みんな、「えっうそ!」というのが本音!納得のいかないお別れになる。どうか安らかに!そして、知人とその家族が立ち直って元気にくらせるよう見守ってあげて・・・・・・・・・・・・・祈り願うのみ!!!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・胎内市:乙寳寺<本殿>乙寶寺(おっぽうじ)は、新潟県胎内市乙(きのと)にある真言宗智山派の寺院。猿供養寺、乙寺(きのとでら)とも呼ばれる。境内には国の重要文化財である三重塔や、大日堂(本堂)、本坊、方丈殿、六角堂、弁天堂、観音堂、地蔵堂が建つ。新潟県屈指の古寺.釈迦の左眼を納めたと伝える舎利塔など、寺にまつわる伝...浮世の北の山桜!

  • 村上市:岩船神社その2 老いても七夕はワクワク!

    令和5年1月30日(月)「いわふね」は、「磐船」とか、「岩船」とか、「石船」とか三通りの表記がある。芭蕉のもう一つの句碑は、「文月や六日も常の夜には似ず」。元禄2年7月6日の直江津での吟。「明日は7日、明晩が二星の逢う七夕だと思うと、今夜の空も常の夜とは違ったように感じられる。」という意。老いても七夕は楽しみの一夜だ。<岩船柵址の碑>村上市:岩船神社その2老いても七夕はワクワク!

  • 天の岩船に乗りお出まし!

    令和5年1月29日(日)村上市:岩船神社芭蕉は『奥の細道』の旅で、元禄2年6月27日(旧暦)越後路に入って、村上に2泊、瀬波の浜に行ったことも『曽良日記』でわかる。しかし、芭蕉は、「越後の地に歩行を改、越中の国、一(市)ぶりの関に至る。此間、九日、暑湿の労に神をなやまし病おこりて事をしるさず。文月や六日も常の夜には似ず荒海や佐渡に横たふ天の河」と記すのみ。「神様が天(あま)の石船(いわふね)に乗りお出でになられた」との伝説をもつ磐舟郡総鎮守。<岩船神社の鳥居>瀬波温泉から程近くの岩船神社を参拝。岩船神社の赤い大鳥居の手前に、「花咲きて七日鶴見る麓かな」という芭蕉の句碑がある。境内には、磐船柵趾の碑と松尾芭蕉の句碑がもう一基。~つづく。天の岩船に乗りお出まし!

  • 俵石岩の絶景と芭蕉句碑!

    令和5年1月28日(土)鶴岡市温海町:俵石岩羽州浜街道沿いにある奇石怪石の海の造形箇所。塩俵岩は柱状節理の玄武岩が日本海の荒波と吹き付ける強風によって浸食され俵のような模様がついている。曾良日記には特に「塩俵岩」は記載されていないが、「色々ノ岩組景地有」の中に含まれているのでは?芭蕉と曽良は海岸の景勝地を見ながら温海に着く。元禄2年6月26日未刻、鈴木惣左衛門宅にて旅装をとく。その家は旧国道筋で、現鈴木美津子さんの祖先に当たるそうだ。<俵石岩の芭蕉の句碑>首標の詠句は、同19日(陽歴8月4日)酒田の不玉と共に小舟で納涼のときの立句である。「あつみ山吹浦かけて夕すゞみ」翠峰温海岳から吹浦かけての景趣と涼風に感動した雄大な句である。なお、芭蕉は翌朝馬で越後路に出発し、曽良は湯温海を見て後を追ったという。「暑き...俵石岩の絶景と芭蕉句碑!

  • 酒田市:日和山公園の文学道!

    令和5年1月27日(金)酒田市:日和山公園前回の駐車場より上に上がり、公園の正面入口の駐車場に停める。芭蕉を始め詠み人知らずまで、29名の文学散歩も楽しめる公園。スケールも違う。ちょうど一学期も終了間近。近くの小学校6年生の社会科見学に出くわす。子どもたちの弾んだ会話やグループの活動の様子が伺え、好感度を増すことに…。公園に入るとすぐ立派な黒松の周囲に、芭蕉の立像と句碑がある。「暑き日を海に入れたり最上川」。取りあえず、子どもたちの学習の妨げだけは避け、文学道を散策。常世田長翠さんの「人の柳うらやましくもなりにけり」東宮殿下の歌碑も堂々としている。~つづく。酒田市:日和山公園の文学道!

  • 鳥海山の恵みと坩満寺周辺田園!

    令和5年1月26日(木)親鸞上人のお腰掛石の傍には、いろいろな人の歌句碑も林立。<道標かな?><連名の句碑>、句碑><大和国?・・・碑>そして、舟つなぎの石も添えられている。そこを境にして、のどかな田園風景が・・・。現在の象潟風景だ。受付に戻ると、やはり猫だけ。拝観料を置き、駐車場へ。途中、掃き掃除をしておられたご婦人を見て、この方がお寺のご婦人だなと判じ、挨拶。事の次第を説明し、お礼を述べて失礼する。<素晴らしい芭蕉>道の駅「鳥海」で一休み。鳥海山の水を購入。これがすこぶる味よし!!鳥海山の水の恵みが稲作などの恵みに顕現。地元の子どもたちは、卒業年次鳥海山に登るという。いつか登ってみたい山の一つ。鳥海山の恵みと坩満寺周辺田園!

  • 坩満寺 歴史を感じさせる庭園!

    令和5年1月25日(水)九十九島巡り始終の地坩満寺の参道を満ち足りて庭園へ向かう。九十九島の石碑も発見。歌枕象潟を、自らの命と引き換えに守ったという、第24世覚林和尚のことも知る。ここから有料という受付に行くと、二匹の猫が気持ちよさそうに留守番(?)をしている。周囲を見渡すがどなたも見えないので、帰りにと、猫ににゃん語(?)で、「後でね。」と庭園に入る。夜泣きの椿の木が伸びる枝を支えていたり、北条時頼公のツツジがあったり、西行法師の若き歌桜を見たり・・・。ちょっとヒヤッと冷気の漂う庭を散策。歴史をもろに感じるよきお庭である。~つづく。坩満寺歴史を感じさせる庭園!

  • 田園風景添える花といっぱいのタニシ!

    令和5年1月24日(火)弁天島より奈良島へ。奈良島やこおり島(南側)・そり舟島(西側)の表示の近辺は畑に変わっている。<休耕田>ご夫婦で、夏野菜の手入れをされていたり、軽トラが停車していたり・・・・。良く土を見ると、砂地に近い。元々が海だったから、地元の人の稲作への苦心が手にとるようにわかる。溝川にはタニシもいっぱい。消毒等にも細心の注意をはらっておられる。そんなことに想いを馳せると、島巡りの歓びも倍加。ニッコウキスゲやアザミなども道端に咲き乱れ、田園地帯に花を添えている。笹山から下堂ノ森へ。<笹山・そり舟島西側>九十九島巡りから坩満寺に戻る。田園風景添える花といっぱいのタニシ!

  • 満開の合歓の花!蛙の合唱!!象潟島巡りその1

    令和5年1月23日(月)全長2.3キロのコースを選択。駒留島に向かって田園の中を清々しく歩く。<駒留島>新たな象潟の、全くの独り歩き。海の中を歩いて行くように。入道雲ももこもこと空を歩いている。<駒留島の大岩>これが島のてっぺんなのだ。海は湖みたいだったろう。そして、下堂の森から弁天島へ。<弁天島>大岩の傍を通る。岩と松に見とれながら、3の駒留島の北側に来たようだ。名勝天然記念物の石碑も黒松も皆傾いているのも最近の災害の仕業?弁天島到着まで、雲の流れ、島々の変化に富む風景、満開の合歓の花、夢の調べを聴いたり、蛙の合唱を聴いたり、蛙の出迎えもあったり。万緑の時季をひとり占め!一見のどかな田園風景だが、この島々を残すために尽力された方々もいて、今がある。深謝あるのみ!合掌!!満開の合歓の花!蛙の合唱!!象潟島巡りその1

  • 心を閉ざす?象潟への芭蕉の想い!

    令和5年1月22日(日)松島は陽気で笑っているようだが、象潟は逆にうらみに心を閉ざしているように感じた芭蕉。寂しい印象が先立つ上に、哀しさまでも加わり、湖の表情が憂いを抱いている美女西施を偲ばせる。「象潟や雨に西施がねぶの花」という句が、その想いから誕生する。坩満寺の駐車場で、数名の仲間と車で旅行中の人達と出会う。象潟と芭蕉と西施のことにちょっと触れ、喜んでいただく。こんな出会いもロマンティック。私より少し年配の方たち。仲間との旅も良し哉。その後、広い境内の庭園を散策していると、ここ数年の時の流れの中で、名残を留める田園の中の隆起した島巡りが整備されている。月山登山での疲れもとれるなと島巡りにしゃれ込む。心を閉ざす?象潟への芭蕉の想い!

  • 坩満寺の座敷より象潟の全景を! 見たかったなあ!!!

    令和5年1月21日(土)にかほ市:象潟:坩満寺かつて、私の別称は「晴れ男」。午前10時頃、今朝も青々と空は晴れ渡る。「江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責」。(ここまで、海・山・川・陸など、風光明媚な所をいろいろまわってきて、古くからの名勝として名高い象潟を一刻も早く見たい。)とせき立てられた芭蕉は、日射しが傾きかけた頃、象潟に到着。<坩満寺山門>しかし、その日は、海からの風が砂を吹き上げ、あたりは一面雨に煙って、鳥海山も姿を消してしまっていたという。好対照!<坩満寺本殿>翌日は快晴。芭蕉達は、象潟へ舟を漕ぎ出す。能因法師が3年間住んだという能因島を、先ず訪ねる。次に、対岸に舟を寄せ、陸に上がる。「象潟の桜はなみに埋もれて花の上漕ぐ海人のつり舟」と、西行法師が詠んだ桜の老木に西行を偲ぶ。<おくの細道...坩満寺の座敷より象潟の全景を!見たかったなあ!!!

  • 道の駅「ねむの丘 象潟」 絶世の美女西施と再会!

    令和5年1月20日(金)にかほ市:道の駅ねむの丘象潟<象潟海岸>先ず、奥の細道最北端の象潟の道の駅へ。海辺の広い芝生の所に、中国の愁いを抱く絶世の美女「西施」に会いに行く。きれいな海を眺め、西施とは二度目の出会い。正面から見た西施がやはり良い。二度目の方が印象に残る。「象潟や雨に西施がねぶの花」道の駅「ねむの丘象潟」絶世の美女西施と再会!

  • 羽黒山五重塔と三首そしてだだ茶のソフトクリーム!

    令和5年1月19日(木)<羽黒山神社多くの参拝者と・・・>「合わす手を塔と想えり羽抜鳥」「昼煌々羽黒の夏に翁来る」「十六夜の月も遊びし羽黒山」<私も三句>15分程階段、杉の小径を降りる。降りきったところの左側の広場に、大杉の向こうに凜と五重塔がやや薄白けた趣を讃えている。修験の五重塔?茶屋で、ただちゃのソフトクリームを食す。200円。品の良い女性の店番の方が、だだ茶とは、お父さんのことだと方言をについて教えてくださる。2年前伊勢の神宮を詣った話などで、花が咲く。13時30分下山する。未来から現在を、そして過去を行く。羽黒山五重塔と三首そしてだだ茶のソフトクリーム!

  • 出羽三山巡礼の三句!

    令和5年1月18日(水)鶴岡市:羽黒山<羽黒山鳥居>『奥の細道』での「出羽三山」。「6月3日、羽黒山に登る。図司佐吉といふ者を尋ねて、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に宿して、憐愍の情こまやかにあるじせらるる。」と記されている。今回は、羽黒山から入る。翌日、芭蕉は俳諧興行。その時の句が、「ありがたや雪をかをらす南谷」。続けて、「5日、権現に詣づ。当山開闢能除大師は、いづれの代の人といふことを知らず。延喜式に「羽州里山の神社」とあり。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。『羽州黒山』を中略して『羽黒山』と云にや。『出羽』といへるは、『鳥の毛羽を此国の貢に献る』と風土記に侍とやらん。」と、羽黒山や出羽の命名の由来等きちんと調べ、書き記している。これも珍しい。そして、8日に月山を登頂。「息絶え身凍えて、頂上...出羽三山巡礼の三句!

  • 湯殿・・・銭ふむ道の泪かな?

    令和5年1月17日(火)鶴岡市:湯殿山5時に起床。朝食を摂り、6時40分湯殿山に向かう。7時15分着。湯殿山有料道路は、7時45分通行開始。それまで駐車場で一休み。黄土出湯湯殿の山に身を禊ぎ貢人蝉しぐれちぢに聞こゆる神の社貢人ご本堂御神湯湯殿山のご信仰。この世の全てのもの何ものをも包み込み、慈しむ御心なり。また、月山、羽黒山、湯殿山三山を詣でることにより、過去、現在、未来を経る。<天候も急転>三関三度の教えにも、生まれ変わりの信仰なり。「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」芭蕉「湯殿山銭ふむ道の泪かな」曾良バスは30分に一本。次は、9時15分。山頂より吹く風が涼やかで心地良い。湯殿の神湯に身を入れし、三関三度の祓いも受ける。9時40分、湯殿山に別れを告げる。心身とも清められし!湯殿・・・銭ふむ道の泪かな?

  • 月山その5 余韻・余情の月山下山!

    令和5年1月16日(月)月山頂上付近でのちょっと楽しいひととき。名前も交わさず、出会いの記念撮影と謝辞を述べ、三者三様。山ガールさんは、地元の方で下山。ご夫婦は月山頂上へ。私は、月山頂上へ戻り摂食。芭蕉の句は、「雲の峯幾つ崩て月の山」。<句意>あの入道雲の峰がいくつ崩れ、築き上げたのが、この月光に照らされる神々しい月山なのだろう。月山登山記念の焼き印を戴き、その後、慎重さを倍加して、ゆっくり下山する。月山その5余韻・余情の月山下山!

  • 月山頂上 芭蕉句碑の偶然の出会い!

    令和5年1月15日(日)月山頂上小屋の表示に、「1984m」と記載されている。一昨年は「志津(リフト)口コース」。今回は羽黒山コース。どちらも初心者向きだが、2年の歳月は、かかる時間や疲労度、趣等微妙ならず変容…!?その後、本宮を参拝。体の悪弊を祓う儀式も前回同様にしていただく。体に潜む悪弊を除去した後、ちょっと下って芭蕉の句碑へ向かう。60歳くらいのご夫婦がちょうど登って来られるのと重なる。出会い頭という感じ。すると、近くに見えた地元の山ガール(?)さん。「その句碑、説明しましょうか。」と声をかけて下さる。「はい。お願いしまあす。」「『雲の峯幾つ崩て月の山』と刻まれています。桃青という人の句です。」と、スティックを指示棒代わりにして、蕩々と詠まれる。「あっ、元高校の国語の先生かな?」…その解説の巧さに聴...月山頂上芭蕉句碑の偶然の出会い!

  • 月山その4 雲と雪渓そして流れ!

    令和5年1月14日(土)今回は根雪も残り、雪道を歩かねばならない所がある。また、凍結している所もあり、スティックのない人が滑って転倒していたり…。一足一足安全を確かめるように歩み続け、無事雪渓を渡り終える。こういう時のためのアイゼンが必要なのかもしれない。雲の流れも速く、いろいろな現象世界に身を委ねることになる。後で写真を見ても、やはり見事としかいえない風景。こんな幸運に恵まれるとは…感謝あるのみ!雪渓と雲と風と岩…ちょっと特集にしたことは、芭蕉と曾良への感謝のしるし。こんなゆったり、のんびりした登山は久し振り。この山の魅力は尽きることなし!そうして、大峰から月山頂上へと歩を運ぶ。月山その4雲と雪渓そして流れ!

  • 月山その3 行者返しまでお花見!

    令和5年1月13日(金)さらに、ミヤマウスユキソウ、ハクサンフウロ、ハクサンチドリ等、修行を終えた感じで月山を飾っている。<ウサギギク>時は、さらにゆっくりと流れる。ご主人より健脚の女性の方が、ご主人に、「行者返しが難所かな?」と教えられ、「ご一緒に!」と声をかけられる。「いえいえ、私はゆっくり気をつけて登りますので・・・。」と、先に行っていただくことに…。案の定速い!やっとの思いで行者返しを通過。月山その3行者返しまでお花見!

  • 月山その2 雪渓の下ゼンマイ、トキソウなど 魅惑!

    令和5年1月12日(木)ハクサン石楠花は、高山でしか見られない透明度の高い白。緑の中で大いに映え、浮かんでいるよう。ミヤマホタルイかな?透き通る水の中で活き活きと群れている。しばらく登ると、破れ傘のようなチングルマに出合う。高山植物図鑑はやっぱり必要。そして、目的を変え、時間をかけて愛で、記録をきちんとメモすべきだと、反省。特に、登山では、予期せぬ出合いの準備も怠ってはいけない。コイワカガミ、トキソウ、シラネアオイに目が点となる。飽きない色に形、可憐さなど一花一花に惚れ惚れする。そして、トキソウ、ゼンマイの仲間。雪渓の下が溶け始めその近くでゼンマイがしなやかに群生。どこまでも伸びていくような感じ。月山その2雪渓の下ゼンマイ、トキソウなど魅惑!

  • 月山その1 弥陀ヶ原から仏生池へ

    令和5年1月11日(水)鶴岡市:月山私の好きな道の駅は、「庄内みかわ」。鳥海山のお蔭で、水も人も田園も憩う緑そのもの。三度の月山付近訪問で、合計7泊ぐらいしているかな。尊敬する日野原さんが105歳の生涯を現役のまま全うされたとの訃報もあった場所。「楽に素直に生きる。あるがまま、あるがまま。」生涯驕らず、好奇心旺盛なお医者さんでエッセーイスト。我が師の一人でもある。深謝あるのみ!再び合掌!!出羽三山登山への前夜。無事を祈願し、5時半頃道の駅を出発。<鳥海山にも挨拶>月山8合目の弥陀ヶ原の標高は1400m。<月山八合目表示碑>私一台の専用道路。狭い所もあり。この道でいいのかとの不安も顔を出す。取りあえず安全運転に終始する。やっと月山八合目到着。駐車場には結構な台数がもはや駐車。すぐ登山の用意をし、用も足し、出...月山その1弥陀ヶ原から仏生池へ

  • 蕉風俳諧、風流ここに至れり!大石田!!!

    令和5年1月10日(火)北村山郡大石田町:黒滝山向川寺今から329年前の元禄2年(1689)5月28日(現在の暦では7月14日)に、芭蕉と曽良が大石田を訪れる。地元の俳人高野一栄宅に3泊。芭蕉主従と大石田の俳人一栄と高桑川水の4人で句会を催すことになる。芭薫は、大石田に杖をとどめ3泊したが、それは、一栄と川水が、芭蕉が当時目指していた俳諧(蕉風俳諧)にとりわけ熱心であったかららしい。当初の予定では、大石田は、最上川を船で下る通過地。その芭蕉を大石田に留めた2人は、直接、懇ろに芭蕉から俳諧の指導を受ける。その記念歌仙が、現在山形県指定文化財となっている「さみだれを」の1巻である。「さみだれをあつめてすゞしもがみ川」大石田の俳人と芭蕉との出会いは、芭蕉にとっても思い出深いものとなり、『奥の細道』本文の中で、「...蕉風俳諧、風流ここに至れり!大石田!!!

  • とっくり浸る! 最古の芭蕉句碑!

    令和5年1月9日(月)山形市:山形美術館芭蕉の句は、「雲おりおり人を休める月見かな」。芭蕉42歳の時の句。この碑は元禄8年(1645)の建立。芭蕉死後の翌年で、芭蕉句碑の最古のもの。300年の風雪に耐え抜き、風化摩滅も甚だしい。昭和53年、山形市の安藤政友氏から寄贈される。撮影禁止のため、とっくりと眺める。写真に残したい一念も浮上するが…。至極無念!<シンボル女性像>とっくり浸る!最古の芭蕉句碑!

  • 珍しい文字「くぬぎ」= 六椹(くぬぎ)

    令和5年1月8日(日)山形市:六椹(くぬぎ)八幡宮クヌギが御神木。クヌギの字は、「椚」「櫟」「橡」「櫪」等いろいろあれど、この「椹」は珍しく、単語登録をする。周囲の欅も何十本も大木。大樹である。芭蕉句碑は探索、また探索、結局受付の女性に尋ね、わかる。<芭蕉句碑>芭蕉の句は、「雲をりをり人を休むる月見かな」である。珍しい文字「くぬぎ」=六椹(くぬぎ)

  • 芭蕉の片心! ~山形市大龍寺~

    令和5年1月7日(土)山形市:大龍寺寺町で、お寺はいくつもあり。大寶寺をちょっと参拝。再度名前を確認し、車で近辺を周回したが見つからず。歩いて探すことにする。すぐ見つかる。予想外の可愛いお寺。出羽二山の石碑の隣に、芭蕉句碑と墓碑もすぐ見つかる。<芭蕉句碑>芭蕉の句は、「朝よさを誰まつしまそ片心」句意は、「松島を見ることを朝な夕なに、恋人を待つようだ。(松と待つをかけた)」。<若い松と芭蕉句碑・墓碑>芭蕉の片心!~山形市大龍寺~

  • 芭蕉句、まさに極楽の詩!

    令和5年1月6日(金)山形市:極楽寺山門を潜ると、すぐ墓所となっている。八角の鞘堂に、2m50cmの大きな地蔵が小豆地蔵と呼ばれ、祀られている。のっぺらぼうの顔も風雪に耐え、摩滅したよう。石碑群として築地のようになっている処に、芭蕉翁の石碑と<芭蕉翁碑>芭蕉翁の句碑が並列。<芭蕉句碑>芭蕉の句は、「世にさかる花にも念仏申志けり」である。まさに、極楽寺の詩なり!芭蕉句、まさに極楽の詩!

  • 松風の真蹟と芭蕉の句碑 <出羽国分寺篇>

    令和5年1月5日(木)山形市:出羽国分寺薬師堂出羽国分寺は天平の頃、聖武天皇の命を受けた行基によって開山され、鎮守府将軍大野東人が伽藍を造営する。さらに、慈覚大師が再興して天台宗となる。その後、源頼義や藤原秀衡、鎌倉時代と寒河江近辺を領した大江広元、戦国時代は山形城主が出羽国按察使として山形に入部する。<国分寺の説明>早速堂塔を修復し、最上義光等幾多の人たちの再興により現在に至っている。毎年5月8日には、「薬師まつり」が開かれ、名物の植木市が出店し、賑わいを見せる。山形の植木市は「全国三大植木市」に数えられる盛大なもので、四百年以上の古い歴史を持つ。山形城主最上義光が大火で焼失した山形城下の緑を取り戻すために、農民に呼びかけたのが始まり。現在は、「千歳公園」として公園の中央に薬師堂がある。明治44年(19...松風の真蹟と芭蕉の句碑<出羽国分寺篇>

  • 山寺芭蕉記念館 句碑のシンフォニー!

    令和5年1月4日(水)芭蕉が「奥の細道」の旅で山寺を訪れてから三百年目、と同時に山形市ができてから百周年を記念して、平成元年に建てられたのが、この「山寺芭蕉記念館」。記念館では、芭蕉に関する文書や映像などを観賞。芭蕉の真筆のものもあり。<句碑と色紙と表具>入口に芭蕉の同じ句が三種類。「閑かさや岩にしみ入る蟬の聲」句の味がちょっと薄れていく感じがしないでもない。着物姿のボランティアの説明の婦人が待機されていたが、ちょっとタイミングを外し、説明を聞く機会を逃す。外には、句碑が林立し、樹木と一緒に並列している。17文字のシンフォニーというより、小さな石碑のシンフォニーという感じ。山寺芭蕉記念館句碑のシンフォニー!

  • 山寺6 修行の洞と布袋様

    令和5年1月3日(火)<釈迦ケ峰>「釈迦ヶ峰」と呼ばれ、危険極まりない岩場を通り、お釈迦様の御許に至る行場である。<これも修行の洞>出世や欲望からの解放または解脱を志す修行者が、岩場から転落したことも少なくなかったと伝えられている。<修行の岩場説明>百丈岩の上に立つ開山堂は、立石寺を開かれた慈覚大師の御堂。<開山堂と納経堂>この御堂が建つ崖下にある自然窟に大師の御遺骸が金棺に入れられ埋葬されている。御堂には大師の木造の尊像が安置されており、朝夕、食飯と香が絶やさず供えられ護られているという。<開山堂と五大堂の説明>向かって左、岩の上の赤い小さな堂は写経を納める納経堂で、山内で最も古い建物。また、ここより向かって右上には五大明王を奉る五大堂。舞台造りのこの御堂からは山寺を一望でき、絶景を大いに楽しむ。<五大...山寺6修行の洞と布袋様

  • 山寺その5 奥の院と大仏殿

    令和5年1月2日(月)明けましておめでとうございます。元日、家族と一緒に御岳山へ初詣。駐車場がケーブル下にあり、予想通り満車。1時間近く急坂の道で空き待ち。ケーブルはスムーズに乗れ、富士見平から息子たちの住む処の百名山、筑波山が、新宿のビル群が・・・、すぐそこに見える。そして、双子の赤ちゃんをしょって急坂を小一時間、息子の嫁さんは茨城県育ち、平地ばかりの生活、足に呼吸にとバテバテ。休憩を取りながらやっと仲店の処に。「七代の瀧水のコーヒーを飲もう!」と七人は、お座敷で初詣前のくつろぎ。すぐ上の赤い鳥居の前で参拝・祈願!記念写真を撮り下山する。苦楽共に愉しみながら、今年も良い年に!いつも拙いブログを読んでくださる皆様、そして、「いいね」など励ましてくださる皆様、今年もよろしくお願いします。さて、立石寺が越年そ...山寺その5奥の院と大仏殿

  • 丈六の阿弥陀如来を探索!と仁王門(山寺その4)

    令和4年12月31日(土)蝉塚をじっくり楽しみ、先を急ぐことにする。「丈六の阿弥陀如来を見ることができると、幸福が訪れる」という「弥陀洞」に到着。凝灰岩と風雨と時のなせる宗教文化?<弥陀洞の説明板>「丈六」とは、「1丈6尺」のこと。約4.8メートルの高さ。長年にわたり修行僧などがこつこつと彫り物をし、今は阿弥陀如来を見つけることは難しくなっているようだ。そして、仁王門に到着。大きく口を開けた洞も見事だし、仁王門を見上げるとその素晴らしさもわかる。ここは、何度参拝しても飽きることはない。四季折々の素晴らしさが、修行の助けとなっているのだろう。丈六の阿弥陀如来を探索!と仁王門(山寺その4)

  • 山寺その3 佳景寂寞 蝉塚へ!

    令和4年12月30日(金)日本を代表する霊場の登山口に。これで4度目の参拝!横浜に奉職した2年間で、福島大学から同じ職場に来た後輩が、連れて行ってくれたのが最初。当時の印象とは大違い。目的が違うからだろう?芭蕉は、『奥の細道』で、山寺のことをこう記している。「山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。」。修行者の参道を少し登ると、可愛い風車が目にとまる。可愛い地蔵さんが祀られている。「端午の地蔵」かな。そして...山寺その3佳景寂寞蝉塚へ!

  • 芭蕉と曽良の像の違い、さあ、800段!

    令和4年12月29日(木)しばらく歩くと、名句、「閑かさや巌にしみ入蟬の聲」を詠んだ「俳聖松尾芭蕉」像と弟子の「河合曾良」像が並んでいる。風情を感じさせる芭蕉と生真面目で堅郎な曾良が印象に残る。<芭蕉句碑>宝物殿、念仏堂を通り過ぎると、「山門」が見えてくる。鎌倉時代に建立されたといわれているこの山門は、開山堂や五大堂などへの登山口となっている。奥の院まで、800段を越える石段を登らなければならない。芭蕉と曽良の像の違い、さあ、800段!

  • 山寺(立石寺)その2 ティーデマン先生!

    令和4年12月28日(水)その後、清和天皇御宝塔。山寺を勅願寺とした清和天皇の供養塔。「天皇の遺徳を慕い、国家の安泰を祈り建立。当山で、最も古い石塔」という説明である。傍に根本中堂があり、御礼と本登山の無事を、再度祈る。ティーデマン先生の記念碑。ドイツの哲学者で、1921年から十年間、山形高等学校においてドイツ語を教授。山形の風土を愛し、独自の風格を持って慕われる。~つづく。山寺(立石寺)その2ティーデマン先生!

  • 芭蕉の山寺参拝から164年後に句碑建立!それから164年以上!!!

    令和4年12月27日(火)山形市:立石寺(山寺)今回は、朝から登り、参拝予定。近くの個人の駐車場に車を止め、登山準備をする。<商店街の駐車場>商店街を歩いていると、対面岩の前で「幸福の鐘」を見つける。<幸福の鐘>やさしく鐘を鳴らし、御礼と本登山の無事を願う。そして、山寺へ。芭蕉が使ったといわれる手水盤を眺め、芭蕉句碑と清和天皇御宝塔の所へ。<清和天皇の御宝塔>説明板を読み取る。「閑かさや巌にしみ入蟬の聲」。先ず、芭蕉の山寺で詠んだ有名な句。<芭蕉句碑>この句碑は、門人たちが、嘉永6年(1853)に建てたという。芭蕉が訪れて164年の月日が流れている。建立から164年過ぎて、私が訪問。偶然の過年の一致。芭蕉の山寺参拝から164年後に句碑建立!それから164年以上!!!

  • 猪と鉢合わせになるところ!

    令和4年12月26日(月)昨日昼前、いつものようにノルディックウォーク、いつもの多摩川周回コース。途中三叉路の処で、若い男性が携帯片手に左側を見ながら、「おいで、おいで!」の手招きを繰り返している。子どもの自転車乗りの撮影でも・・・?近くまで来たら、「猪です。」「えっ?」前の空き家の庭から薄汚れた白い大きな犬かなと誤解する様で、のしのしと・・・下向いて・・・!「ほんとだ。野生の猪だ!すぐ知り合いの家に避難。携帯も不携帯。行き先と違う方向にてくてくと・・・お巡りさんが二人その跡を追っている。取りあえず自宅に急いで帰り、知人のうちに電話して、用心してもらうことに・・・・。その後、メ-ルでやりとり。多摩川を渡って住みかのほうに去ったみたいだと結末。クリスマスに猪とは?トナカイのほうがいいかな?尾花沢市:念通寺芭...猪と鉢合わせになるところ!

  • 尾花沢:「涼しさを・・・」の連句碑

    令和4年12月25日(日)「涼し塚」の東側にも2つの石碑がある。<尾花沢芭蕉の思い出碑>右に、「十泊のまち尾花沢芭蕉翁」の石碑。左の大きめの石碑は、「芭蕉連句碑」。連句碑には、芭蕉が尾花沢滞在中に巻いた、「すゞしさを」歌仙の初折の表4句が刻まれている。「涼しさを我宿にしてねまる也」芭蕉「つねのかやりに草の葉を燒」清風「鹿子立つをのへの清水田にかけて」曾良「ゆふづきまるし二の丸の跡」素英尾花沢:「涼しさを・・・」の連句碑

  • 苦の山刀伐峠越えから 清風の安楽へ

    令和4年12月24日(土)「涼し塚」の芭蕉句碑の隣に、「壷中居士」を刻む石碑が建っている。壷中は、村山地方を代表する江戸期の俳人で、初め蕉門十哲・服部嵐雪の流れを汲む海谷一中に入門。後に、蕉門十哲の一人各務支考を祖とする美濃派の俳人林風草(鶴岡)の門下となる。宝暦元年(1751)、俳諧仲間と山寺立石寺に「蝉塚」を築いた人物である。「富める者なれど志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情を知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。」と、清風の人柄とそのもてなしの多彩さ、誠実さに居心地の良さを満喫する芭蕉である。苦は楽の種。山刀伐峠越えまでの苦しさからも解放された楽しい日々となる。~つづく。苦の山刀伐峠越えから清風の安楽へ

  • 涼しさや・・・「涼し塚」!

    令和4年12月23日(金)尾花沢市:養泉寺<山門>芭蕉は、養泉寺で七泊する。<おくのほそ道ゆかりの地説明>清風邸から700mほど離れた梺(ふもと)町にある天台宗の寺で、江戸時代まで上野東叡山寛永寺直系の寺院として格式を誇る。<本殿>本尊は、慈覚大師作の聖観世音菩薩。境内に、柴崎路水と鈴木素州が宝暦12年(1762)に建てた「涼しさを我宿にしてねまる也」の芭蕉句碑がある。<涼し塚><芭蕉句碑>隣に「壷中居士」を刻む石碑が建っている。~つづく。涼しさや・・・「涼し塚」!

  • 芭蕉と清風の仲!

    令和4年12月22日(木)尾花沢市:芭蕉清風歴史資料館山形県道120号東根尾花沢線沿いにある。二度目の訪問。松尾芭蕉は、奥の細道の旅で尾花沢市の鈴木清風を訪ね、10日間滞在する。それらの資料などがここに展示されている。ビデオで、芭蕉と清風をゆったり偲ぶ。<芭蕉翁像>建物は、旧丸屋・鈴木弥兵衛家の店舗と母屋を、鈴木清風宅の隣に移転復元したもので、尾花沢地方における江戸時代の町屋の完成した姿を伝える貴重なものでもある。芭蕉と清風の仲!

  • 山刀伐峠越えは異種の感動!

    令和4年12月21日(水)山刀伐峠の道は「二十七曲り」と言われる曲がりくねった山道で、うっそうとしたブナの原生林に覆われた手つかずの(?)自然が、当時の面影を残している。出羽街道に下りると、山刀伐峠越えの歴史の道の表示や句碑も整備されている。俳人田川飛旅子の句。「山刀伐に立つ初蟬に取りまかれ」。こうして、芭蕉たちは、弟子の清風を尋ねることとなる。山刀伐峠越えは、異種の感動で、我が身を包んでくれた。山刀伐峠越えは異種の感動!

  • 恐怖の山刀伐峠越え

    令和4年12月20日(火)大崎市:山刀伐峠山刀伐峠は、山形県の最上町から尾花沢市へと越える峠。<山刀伐峠入り口>峠の形状が、山仕事や狩りの際に被った「なたぎり」に似ていることから名付けらる。しかし、俗説では、刀を持った山賊が住み着いて、道行く旅行者を襲撃しては身包みを剥ぐ危険な峠であったことに由来するという。実際に、松尾芭蕉の『奥の細道』には、山刀伐峠を越えるにあたって、「封人の家」の当主有路氏が、山賊から芭蕉の身を守るため、屈強の者を護衛に付けた旨、記されている。『奥の細道』には、「高山森々として、一鳥声きかず、木の下闇、茂りあひて、夜行くがごとし」とあり、当時はかなり厳しい峠であったことが偲ばれる。現在、山刀伐峠の山頂へは舗装道路(旧道)が整備されていて、車一台何とか通れる道となっている。「どうか、車...恐怖の山刀伐峠越え

  • 封人の家に宿泊!馬の尿の音、蚤と虱!

    令和4年12月19日(月)山形県最上町:封人の家封人の家は、10㎞出羽街道の先にあることがわかる。山形県にあり。もうびっくり!生憎整備のため、工事中であった。受付の老男性が見える。入口に、芭蕉と曾良の木彫像がある。封人の家とは、「国境を守る役人の家」のこと。仙台領と境を接する新庄領堺田村の庄屋家、つまりこの旧有路家住宅であったといわれている。元禄2年(1689)5月、芭蕉は二泊三日にわたって"封人の家"に逗留し、その時の印象を、「蚤虱馬の尿する枕もと」という句で表現した。最上町は以前は小国という地名で、山形県内では随一の馬産地だったようだ。私の母屋は、役牛を飼育していた。同じ屋内で大事に育てられていることが、芭蕉の句でもよくわかる。しかし、元禄当時のこと。芭蕉も蚤と虱で眠れず、しかも馬の放尿の凄い音を聞い...封人の家に宿泊!馬の尿の音、蚤と虱!

  • 義経同行の幼児が初のおしっこ!尿前の由緒!!!

    令和4年12月16日(金)元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)、岩出山で一宿した芭蕉は、「道遠ク、難所有之」(曽良随行日記)という理由から、尾花沢までの旅を、急遽、小野田経由から鳴子経由に変更する。このため、通行手形の用意がないまま尿前から中山峠越えを目指すこととなる。<尿前の関石碑>「美豆の小島」というのは、江合川の中にある岩山だそうだが、名称の響きに誘われて探すことに。田園と山合の所と化し、分からずじまいとなる。<芭蕉翁像><芭蕉句碑>芭蕉の句は、「蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと」。なお、「尿前」という名前は、義経一行が平泉に逃避する際、連れていた幼児が初めておしっこをした場所というのが由来らしい。何ともいえない。が、史実を尊び、納得!義経同行の幼児が初のおしっこ!尿前の由緒!!!

  • 関守に怪しまれる旅人!?

    令和4年12月15日(木)大崎市:尿前(しとまえ)の関跡『奥の細道』には、「南部道遙にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿(しと)前(まえ)の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。」と、怪しき者と訝られ、足止めを食う芭蕉たち。しかも、三日間も暴風雨に見舞われるという…。かつての鳴子町は、平成18年3月、古川、岩出山など一市五町が合併して大崎市となる。芭蕉が訪れた頃は、出羽国で最上、伊達氏らの対立が続いていたことから、その波及を恐れた大崎氏は国境の警備を更に強めるため、「岩手の関」に小屋館の番所を設置。小屋館は、尿前の西方の...関守に怪しまれる旅人!?

  • 「なるごの湯より」しか語らず?湯につかりたし!

    令和4年12月13日(火)大崎市鳴子温泉神社(ゆのかみのやしろ)「あ・ら・伊達な道の駅」の朝、燕の子らが大きな口を開けて親燕の運ぶ餌を待っている。トイレの入口で、大事に育てられているのを慈しみ、出発。鳴子温泉神社は、鳴子グランドホテルの駐車場内にある。承和2(835)年4月、谷ケ森俄かに鳴動すること数日で、遂に轟然と爆発し熱湯を噴出する。その年の10月朝廷は、この地に一社を建てて、温泉神社を祀ったという。この湯を「鳴(なき)声(ごえ)の湯」と名付ける。湯の神人石やこけしの歌碑は珍しい。<湯の神人石><鳴子こけしの歌碑>鳴子の湯にゆったりしたかったが・・・。芭蕉は、『奥の細道』では「なるごの湯より」と記すだけ。湯に入らなかったのか。やっぱり入りたかったな!朝早く来すぎちゃった・・・?「なるごの湯より」しか語らず?湯につかりたし!

  • 蘭梅に 荷馬も初音と 鳴きぬべし!

    令和4年12月12日(月)一関市:配志和神社一関駅の北西2キロ程の蘭梅山の麓に鎮座。蘭梅山は、菅原道真の子・敦茂が、父の育てた蘭梅を植えた山。参道の入口には、姥杉を御神木とする石の小祠・白鳥神社?立派な木の茂った、長く、静かな階段。幾つかの境内社が祀られ、石碑も多い。階段を上ると、正面に拝殿がある。式内社・配志和神社に比定される古社で、景行天皇の御代、日本武尊により創祀されたといわれる神社である。<阿吽像>火石輪が変化して配志和となったとされている。火石輪とは?芭蕉句碑は見当たらず。あれば、「此の梅に午も初音となきぬべし」。蘭梅に荷馬も初音と鳴きぬべし!

  • 二夜庵跡は標柱のみ!

    令和4年12月11日(日)一関市:二夜庵跡二夜庵跡は、芭蕉が「奥の細道」の行脚の際立ち寄った金森邸の跡。<近くの道の駅>芭蕉が二晩泊まったことから「二夜庵」と呼ぶようになる。芭蕉は、登米を5月12日に出立している。その日は、かなりの雨だったらしく合羽を濡らしながら同日の暮れに一関へ到着する。翌日は快晴。朝から平泉へ行き、金色堂や高館、無量光院などを見学し、再び夕刻に一関の二夜庵に宿泊する。翌14日に、日本海側の象潟へ向けて出立することになる。ここも大地震・大津波の影響があったよう?この標柱しか見当たらず。二夜庵跡は標柱のみ!

  • 平泉浄土! 世界遺産登録!!!!

    令和4年12月10日(土)平泉市:無量光院跡無量光院は、藤原秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院である。<無量光院跡説明>当時は平等院の規模をも上回る煌びやかな寺院だったが、度重なる火災で焼失し、土塁や礎石が残るのみ。だが、よき場所だ!平成23年(2011)、「平泉仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の構成資産として、<世界遺産登録>世界遺産に登録される。<無量光院庭園内池>平泉浄土!世界遺産登録!!!!

  • 大好きな義経の墓と芭蕉句碑を詣でる!

    令和4年12月9日(金)平泉市:高館(たかだち)義経堂「先ず高館に登れ~ば~♫北上川南部より流るる~♪大河なり~♬・・・・」今朝はこの鼻歌から開始!義経(ぎけい)堂(どう)は、北上川を見下ろすこの「高館」と呼ばれる高台にある。<義経堂>説明板によると、「義経最期の地。兄の源頼朝に追われ、藤原秀衡を頼って平泉に逃れたのが文治5年(1189)のこと。」<義経堂の説明板>義経、31歳の若さである。2年生の時、先生が読んでくれた『源平盛衰記』等で、私もまた幼少よりの義経贔屓!判官館(はんがんだて、ほうがんだて)とも呼ばれている。北上川を見下ろす光景は見事!東を望むと、北上川の向こうに秀峯・束(たば)稲(しね)山(やま)が見える。この山は、かつて安倍頼時の時代に、桜の木を一万本植えたといわれる桜の名所。黄金文化華や...大好きな義経の墓と芭蕉句碑を詣でる!

  • 中尊寺その5 茅の輪くぐりの能楽堂

    令和4年12月8日(木)芭蕉句碑から更に下ると、白山神社。能楽堂はこの神社の前にある。<能楽堂>白山神社は、慈覚大師自ら十一面観音を刻み、安置、本尊とした神社。その後、配仏として季衡(すえひら。清衡の子)の持仏運慶作の正観音と源義経の持仏毘沙門天が寄進安置されるが、嘉永2年正月の火災で焼失する。仮宮の拝殿(現在の能楽殿)と鳥居は、嘉永6年旧伊達藩主伊達慶邦公によって建立寄進されたもの。<能楽堂>能楽殿は橋掛、楽屋などを完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本では唯一とされ、平成15年5月、国の重要文化財に指定される。明治天皇も天覧されたようで、記念碑が建立されている。社殿は、茅の輪をくぐることで祓われ、お参りをし、抜けるときは横から(くぐらずに)出るという、面白い神社。<茅の輪くぐりをしてお詣り><茅の...中尊寺その5茅の輪くぐりの能楽堂

  • 中尊寺その4 千歳のかたみ!!!

    令和4年12月7日(水)金色堂を出ると、すぐに芭蕉翁像と奥の細道碑がある。<芭蕉翁像><おくのほそ道碑>「兼て耳驚かしたる二堂(光堂と経堂のこと)開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉(とぼそ)風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念(かたみ)とはなれり」と、『奥の細道』で記す。勿論、芭蕉の句は、「五月雨の降のこしてや光堂」。※五月雨は全てのものを腐らすのだが、ここだけは降らなかったのであろうか。500年の風雪に耐えた光堂の何と美しく輝いていることよ。芭蕉の感動が文章からも伝わってくる。芭蕉と賢治は、中尊寺では、ほんとうに大事にされていることが伺える。中尊寺その4千歳のかたみ!!!

  • 中尊寺その3 賢治と平安後期の黄金美!!!

    令和4年12月6日(火)もう一人は宮澤賢治。賢治は金色堂に合祀されている。熱心な法華経信者であった事。賢治の詩には、最澄が理想とした慈悲の心に通じる作品が多い。延暦寺でも高い評価を受け、歌碑もある。ここ中尊寺では、詩碑。<賢治詩碑>宮沢賢治の『中尊寺』。「七重の舎利の小塔(こたう)に蓋(がい)なすや緑(りょく)の燐光大盗は銀のかたびらおろがむとまづ膝だてば赭(しゃ)のまなこたゞつぶらにてもろの肱映(は)えかゞやけり手触(たふ)れ得ね舎利の宝塔大盗は礼(らい)して没(き)ゆる」※金色堂に盗みに入った大泥棒も金色堂の放つ燐光と、その迫力に盗むことが出来ず、一礼をして、その場を立ち去っていくといった意味。この大泥棒は、源頼朝を指しているとも・・・。中尊寺創建当時の姿を今に伝える金色堂は、天治元年(1124)に上...中尊寺その3賢治と平安後期の黄金美!!!

  • 中尊寺その2 吉野の他に見事な桜花あり!(西行歌碑)

    令和4年12月5日(月)西行の歌碑に出合う。「きゝもせず束稲やまのさくら花よし野のほかにかゝるべしとは」※束稲山の桜がこんなに素晴らしいとは知らなかった。吉野の桜以外に桜の名所があろうとはの意。遠藤悟逸の句碑もあり。「清衡の願文の意の大文字」。これも俳句?<色鮮やかな道祖神慶堂>もう一人、宮澤賢治。~つづく。中尊寺その2吉野の他に見事な桜花あり!(西行歌碑)

  • 弁慶を偲ぶ!中尊寺に到着

    令和4年12月4日(日)平泉市:中尊寺<中尊寺入り口>中尊寺の駐車場に車を止め、先に弁慶の大墓碑拝礼。<武蔵坊弁慶の大墓碑>中尊寺の僧、素鳥が詠んだ句は、「色かえぬ松のあるじや武蔵坊」。中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれ、その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔造営が行われる。清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というもの。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもある。月見坂を上がっていく。左手に、八幡堂、続いて...弁慶を偲ぶ!中尊寺に到着

  • 「あかし」ではなく「めいせき」と呼ぶお寺(第43番札所)

    令和4年12月3日(土)第43番西予市:明石(めいせき)寺当寺は、「めいせきじ」と呼ぶ。「あかしじ」ではない。欽明天応の勅願により、行者・円手院正澄が千手観世音菩薩を安置。七堂伽藍を建立したのが始まりと伝えられている。<仁王門>天平六年(734)には、寿元行者が紀州熊野から十二社権現を勧請し、十二坊を建てて修験道場となる。弘仁十三年(822)、嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が荒廃した伽藍を再興して、四国霊場に定める。建久五年(1194)には、源頼朝が命の恩人である池禅尼の菩提を弔うため、阿弥陀如来像を安置。経塚築いて堂宇を再興し、山号を「源光山」と改める。室町時代には西園寺氏の祈願所となり、寛文十二年(1672)に、宇和島藩主・伊達宗利が菩提寺として現在の御堂を建立。仁王門の右手に延命地蔵堂があり、尊像は...「あかし」ではなく「めいせき」と呼ぶお寺(第43番札所)

  • 太平洋の架け橋となる?オンリーワン!!! <毛越寺最終章>

    令和4年12月2日(金)芭蕉の句碑に辿り着く。句碑は、新渡戸稲造氏の英訳の碑。英訳の碑は初物で、オンリーワン!元禄2年、1689年5月13日にこの地を訪れた松尾芭蕉が、この悲運の義経を偲び、あの有名な句を詠む。「夏草や兵どもが夢の跡」新渡戸稲造氏の英語俳句は、「Thesummergrass'Tisallthat'sleftOfancientwarriors'dream.」新渡戸稲造氏は、岩手県出身の教育学者・農学者。「われ、太平洋の架け橋とならん」という大志を抱き、国際平和に貢献、「国際連盟の輝く星」と賞讃され、日本の誇りとする人物である。臨池伽藍跡と浄土庭園をのんびり、ゆったり廻り、世界遺産になった恩恵も同時に味わう。太平洋の架け橋となる?オンリーワン!!!<毛越寺最終章>

  • いろいろな跡地の探索と遣り水を目の当たりに!

    令和4年12月1日(木)築山から入り、蓮の花、そして、花菖蒲園を散策。数年前に、杜若と菖蒲との違いについて学んだが、未だにあやめとかきつばたとしょうぶの花の句別がつかない。花菖蒲園では、分かるような説明図。花菖蒲は、日本自生の植物だそう。湿潤な土地を好むが、池や沼の植物ではなく、陸地の植物。昭和28年町民の発案により栽培。明治神宮より100種100株を分けて貰い、現在では300種3万株の菖蒲園になったという。専門に手入れをしておられる方がいた。開山堂、嘉祥寺跡、講堂跡、金堂圓隆寺跡、鐘楼跡など廻り、山水を池に取り込んだ遣り水を楽しんだ。荒磯の風情を表現した出島と池中立石も印象に残る。そして、芭蕉の句碑へ。いろいろな跡地の探索と遣り水を目の当たりに!

  • 「もうつうじ」の由来! 毛越寺篇その2

    令和4年11月30日(水)<大泉が池の中島>WorldHeritageMotsujiTempleとしての毛越寺の由来には、「白鹿伝説」がある。「嘉祥3年(850)、慈覚大師が東北巡遊の折この地にさしかかると、一面雪に覆われ、一歩も前に進めなくなる。<赤松の道を入る>ふと足下を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちている。大師は、その毛を辿ると、白鹿が蹲っているのを見つける。<慈覚大師を祀る開山堂>大師が近づくと、白鹿は姿をかき消す。やがてどこからともなく、一人の白髪の老人が現れ、『この地に堂宇を建立して霊場にせよ』と告げる。大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立。嘉祥寺と号す。」<嘉祥寺跡>これが毛越寺の起こり。<大泉が池から遣り水を>毛越寺の「越」は、慣用音で「おつ」と読む。「もうおつじ」...「もうつうじ」の由来!毛越寺篇その2

  • 特別史跡と特別名勝を散策。平泉に到着!その1

    令和4年11月29日(火)平泉市:毛越寺(もうつうじ)<毛越寺入り口><山門><本殿>浄土庭園とは仏堂と苑池とが一体として配された庭園で、毛越寺では北に塔山と呼ばれる小山を背景として、広々とした苑地美観を展開している。大泉が池は浄水をたたえ、その周辺には、州浜、荒磯風の水分け、浪返しにあたる立石、枯山水風の築山といった石組みや、池に水を引き入れる遣水など、自然の景観が表現されている。日本最古の作庭書「作庭記」の思想や技法を今に伝える貴重な庭園として、八百有余年を経た現在も、四囲の樹木の景観と相まって、訪れる人を楽しませてくれる。「特別史跡」・「特別名勝」と、その文化価値を国から二重に指定されている毛越寺。<毛越寺伽藍原図説明>境内には平安時代の堂塔伽藍を偲ばせる礎石等の遺構が多数残っている。<毛越寺庭園説...特別史跡と特別名勝を散策。平泉に到着!その1

  • 降らずとも、蓑と笠の準備!再現を!!!

    令和4年11月28日(月)登米市:登米神社山の中腹にあり。鄙びた閑静な神社。奈良時代以前からこの地には「遠山(とおやま)村」という村があり、これが「登米(とよま)」の語源?旧登米町周辺には明治時代の建造物が多く、「みやぎの明治村」と呼ばれ,大切されている。登米神社の随身門の随身像も印象に残った。<随神門より><随神呍像><随神阿像>芭蕉の句碑は、見つからず。あれば、「降らずとも竹植うる日は蓑と笠」。再度、参拝の御礼と旅の祈願をし、浄めた心で神社を後にする。降らずとも、蓑と笠の準備!再現を!!!

  • おくのほそ道三百年祈念・歴代芭蕉一宿庵の石碑!

    令和4年11月27日(日)登米市:水澤県廳記念館<入り口>戊辰戦争(明治元年1868-1869)で政府軍に敗れた仙台藩は、領地を没収される。廃藩置県などの改革等の変遷も影響を受ける。その中で、明治4年現在の宮城県の北部と岩手県の南部を管轄する地域を「登米県」と称し、本町に登米県庁舎が設置されることになる。明治8年まで使用される。建物の玄関は堂々たる入母屋造の屋根をかけ、破(は)風(ふ)には狐格子を付した純粋な日本建築となっている。<入母屋造りの屋根:洋風の平屋建て>しかし、本棟は、洋風な木造平屋建てとなっており、県内官公衙建築を代表する貴重な日本独自の洋風建築だ。<説明>元禄2年、芭蕉翁「奥の細道」行脚の折、戸伊摩(登米)に一宿せしを記念し、宝暦の頃、登米の俳人、金指紋兵衛が一宿庵を称えた。これは庵を建て...おくのほそ道三百年祈念・歴代芭蕉一宿庵の石碑!

  • 戸伊摩は現在「登米市(とめし)」に!

    令和4年11月26日(土)登米市:旧登米高等尋常学校<校舎>芭蕉は、『心細き長沼にそふて、戸伊摩と云ふ所に一泊して、平泉に至る。其間廿余里ほどゝ(と)おぼゆ』と記す。一泊した戸伊摩という所は、現在の登米市登米町。訪れてみて初めて町の品格、風格を知る。<校舎玄関側>「登米市」は「とめ」、登米町は、「とよま』という読み。「とめし」の「旧とよま高等尋常小学校」という呼び方となる。初めは戸惑ったが、こういうのもまた楽し!<そのとなりに>「教育資料館」でもある。戸伊摩は現在「登米市(とめし)」に!

  • 石巻の長谷寺は、「ちょうこくじ」と!

    令和4年11月25日(金)石巻市:長谷(ちょうこく)寺芭蕉は、「袖の渡り・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遙かなる堤を行。」と、『奥の細道』で表しているように、北上川に沿って行く。心細かった心境も吐露している。「かやはら祭り」の歌謡にも「芭蕉の跡よ。」と歌われ、<かやはら祭の説明>「長谷寺の由緒」にも『奥の細道』に触れている。長谷寺は、「ちょうこくじ」という。「はせでら」と、つい読んでしまう。<長谷寺本殿><長谷寺の由緒><山門><紫陽花が参道を!>紫陽花がきれいに咲いていた。そして、馬頭観音や諸々の石碑がまとめてあるが、今ひとつ説明がほしい。歌碑や句碑等記録は残っていないのだろうか。ちょっと口惜しい感あり。この田園地帯にも津波が押し寄せたそう。土塁を数段高く積まれていた。三分の一は畑作に。石巻の長谷寺は、「ちょうこくじ」と!

  • 歌枕「をぶちの駒」

    令和4年11月24日(木)石巻市:零羊崎(ひつじさき)神社創建年代は不詳。安永元年(1772年)の『封内風土記巻之13』では、応神天皇の勅によって、西国から湊邑竜巻島(現在の牧山)に鎮座したと述べている。阿吽像「涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)」という神名を賜り、東奥鎮護の神として、牡鹿郡龍巻山に祀られたと伝わる。神社名の「零羊崎(ひつじさき)」は涸満瓊別神にちなみ、龍巻山は龍の字が取り除かれて「牧山」と呼ばれるようになる。平安時代に、馬の牧場が歌枕になったもので、「をぶちの駒」として用いられる。<歌枕「をぶちの牧」>後撰集に、詠み人不祥の歌。「みちのくのをぶちの駒も野飼ふには荒れこそまされ懐くものかは」の碑が「奥の細道紀行300年記念」に建立される。歌枕「をぶちの駒」

  • 句碑・石碑の多くある歌枕の場所・石巻では 宿探しに一苦労?

    令和4年11月23日(水)石巻市:住吉(大嶋)神社通称は住吉神社。鎮座地名も住吉町。祭神も住吉神。社前の川岸に、「袖の渡り」という名所がある。北上川対岸への渡し船が出ていた場所で、歌枕として有名らしく、芭蕉も当地を訪れている。河合曾良の旅日記に、「帰りニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。」と記されている。芭蕉は、『奥の細道』」の「石巻」の項で、「~終に路ふみたがえて、石の巻という湊に出。・・・・。思ひかけず斯かる所に来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に一夜をあかして、明(あく)れば又しらぬ道まよい行(ゆく)。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて、遥かなる堤を行く。・・以下省略」と述べている。大嶋神社には鐘楼がある。神社に鐘楼?これは、江戸時代に寿福...句碑・石碑の多くある歌枕の場所・石巻では宿探しに一苦労?

  • 文学碑や芭蕉・曽良などの像の復元を期待!

    令和4年11月22日(火)元禄2年(1689)に、松尾芭蕉と曽良が訪れ、二人は石巻の繁栄ぶりに驚いたよう。芭蕉の句は、「雲折々人を休めるつきみかな」。<芭蕉句碑の説明>日和山は全国に約80カ所あるといわれる。江戸時代千石船の出入航の日和を見る場所や航路目標の重要な山、日和山東南の中腹に「マネキ」という航路を指示する場所があったという。高さ56mの北上川河口に位置する孤立丘に建立。6年以上たっても復興中の真っ只中といった感あり。江戸時代から桜の名所としても有名。小野寺鳳谷(1810~1866)による『仙臺石巻湊眺望之全圖』にも石巻の繁栄ぶりが、パノラマ風に描かれている。大正初期に公園整備され、桜の他つつじで彩られる憩の場として今日に至る。何の句碑?芭蕉のかな?吉田松陰・志賀直哉、井伏鱒二、廣津和郎、宇野浩二...文学碑や芭蕉・曽良などの像の復元を期待!

  • 芭蕉 石巻の繁栄に驚嘆! その1

    令和4年11月21日(月)石巻市島市:鹿島御子神社またの名は,「日和山神社」。御祭神として軍神・武神・剣神・雷神・地震鎮めの神とされ、鹿嶋市の鹿島神宮の祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)と、武甕槌命の御子神である鹿島天足別命(かしまあまたりわけのみこと)を祀っている。元禄2年(1689)に、松尾芭蕉と曽良が訪れ、二人は石巻の繁栄ぶりに驚いたよう。<芭蕉句碑と説明>芭蕉の句は、「雲折々人を休めるつきみかな」。~つづく。芭蕉石巻の繁栄に驚嘆!その1

  • 瑞巌寺 津波記念碑!

    令和4年11月20日(日)松島市:瑞巌寺平安時代創建で、現在は臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷。古くは松島寺と呼ばれる。今回は、平成の大修理の最中に参拝。観光客や参拝者は多い。大修理のため、拝観できず。<本堂>その代わりにはならないが、建造物や宝物などの拡大写真や諸々の工事の説明など、写真付きでよく分かるよう工夫。もう大修理も終わっているだろう!境内には、「臥龍梅」と呼ばれる紅白二本の梅の木があり、伊達政宗お手植えの梅。また、参道にはシンボルとも言える杉並木があったが、平成23年(2011)3月11日の東日本大震災の津波に見舞われしまい、その後の塩害によって立ち枯れが目立ったことから、約三百本が伐採の憂き目。「ここまで津波が来たよ」という表示板もある。<津波記念碑>「四寺廻廊」という巡礼コースは、瑞巌寺、平泉中...瑞巌寺津波記念碑!

  • 櫻おもはす千松島?

    令和4年11月18日(金)松島市:五大堂五大堂へ現在の建物は慶長9年(1604)、伊達政宗公が造営する、東北地方最古の桃山建築。大きさ方三間(22.68尺=6.87m)、宝形造、本瓦葺。<五大堂の説明>軒まわりの蟇股に、方位に従って十二支の彫刻が配されている。正面に掲げられている額には「五太堂」と彫られているが、正確には「大」が正しい。揮毫は105世天嶺。「太」の字は筆の遊びともいわれている。慈覚大師手彫りと伝えられる厨子内の五大明王(国重文、中央・不動東・降三世南・軍荼利西・大威徳北・金剛夜叉)は、平安時代中期に制作された秘仏で、33年に一度開帳される。<日本三景碑>次回の開帳は2039年の予定。祭礼日は8月20日。現在の堂へ渡るすかし橋は、縦板が2枚しつらえられているが、もともとこの板はなく、はしご状...櫻おもはす千松島?

  • 千手の誓いも!

    令和4年11月17日(木)第43番西予市:明石(めいせき)寺当寺は、「めいせきじ」と呼ぶ。「あかしじ」ではない。欽明天応の勅願により、行者・円手院正澄が千手観世音菩薩を安置。七堂伽藍を建立したのが始まりと伝えられている。天平六年(734)には、寿元行者が紀州熊野から十二社権現を勧請し、十二坊を建てて修験道場となる。弘仁十三年(822)、嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が荒廃した伽藍を再興して、四国霊場に定める。建久五年(1194)には、源頼朝が命の恩人である池禅尼の菩提を弔うため、阿弥陀如来像を安置。経塚築いて堂宇を再興し、山号を「源光山」と改める。室町時代には西園寺氏の祈願所となり、寛文十二年(1672)に、宇和島藩主・伊達宗利が菩提寺として現在の御堂を建立。仁王門の右手に延命地蔵堂があり、尊像は子育てと...千手の誓いも!

  • 見仏上人の再来・頼賢の庵と雄島の絶景に感嘆!!!

    令和4年11月16日(水)<雄島編3>島の南端には、頼賢の碑が六角形の鞘堂の中に納められている。頼賢堂ここに22年間住み、その間ついに一歩も島を出なかったという僧の頼賢は見仏上人の再来と崇められる。高さ3メートルの碑の表面には、まわりに雷文と唐草が施され梵字とともに、「奥州御島妙覚庵」「頼賢庵主行実銘並序」の文字が刻まれている。頼賢の碑頼賢の碑説明本文は、頼賢の徳を讃えたもので、松島の古い時代の様子も記載されている。北の端にある「妙覚庵敷」は、見仏上人の修行する場所(見仏堂跡)。享保17年(1732)になって、僧良哉が一庵を建て、六時念仏の道場にしたいと懇願したのに応え、瑞巌寺第105代天嶺性空が、三万人からの布施を集め建立する。その後、荒廃して建て直される。最後の堂宇は瑞巌寺に移築され、近年まで執事寮と...見仏上人の再来・頼賢の庵と雄島の絶景に感嘆!!!

  • 松島への恋心・・・片想いぞ!~雄島篇2

    令和4年11月15日(火)<雄島篇№2>「奥の細道」の標柱と句碑が立っており、江戸時代へタイムスリップ!句歌碑群あり。その中で、芭蕉と曾良の句碑を選別する。芭蕉句碑芭蕉の句は、「朝よさを誰まつしまぞ片心」。(桃舐集元禄元年)その意は、「朝な夕なに、私は松島の旅に心惹かれている。まるで、片思いしている相手を待っているような気持ちだ。」そして、曽良の句は、曽良の句碑「松島や鶴に身をかれほととぎす」「ここ松島につりあうには、鶴の衣に身をまとって優美になっておいで、ほととぎすよ。」という意。松島吟並序碑は、寛政元年(1789)に雄島の最北端に建てられた石碑で、高さは2メートル程。瑞巌寺の「奥の細道」碑と同じ松島湾の章段が刻まれている。「そもそもことふりにたれと松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭西湖を恥す東南より海を...松島への恋心・・・片想いぞ!~雄島篇2

  • やっと辿り着くや雄島なり!

    令和4年11月14日(月)松島市:雄島朱塗りの渡月橋を渡ると、百八の岩窟があったという雄島だ。復興した渡月橋現在は50程度しか残っていない。まさに霊地。中世の松島は、「奥州の高野」と称される死者供養の霊場だったという。三方に岩窟のある崖とわずかの平地に気がとられる。見仏上人が、法華経六万部を読誦した見仏堂の跡で、奥の院といわれた場所。修行場所のひとつ。また、江戸後期、江戸からの便船が暴風に巻き込まれ、乗り合わせていた白キツネに救われた話をもとに、海難防止の守り神・新右衛門稲荷が祀られる。海難防止の守り神の稲荷神社震災による津波で流失した渡月橋は、平成25年6月下旬に完成、7月より雄島に渡ることが可能になり、往来することができる。「奥の細道」の標柱と句碑が立っており、江戸時代へタイムスリップ!句歌碑群あり。...やっと辿り着くや雄島なり!

  • どんぐりころころ・・・芭蕉への感謝の思い募る!

    令和4年11月13日(日)松島:観瀾亭観瀾亭大欅の説明観瀾亭は、文禄年中に、豊臣秀吉から伊達政宗が拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを、二代藩主忠宗が一木一石変えず、この地に移したものと伝えられている。童謡「どんぐりころころ」は、松島町出身の青木存義氏が、文部省在職中の大正年間に、松島での幼き日を偲び作詞したもの。雄島へ向かう途中で、歴史建造物・地元の出身の歌碑「どんぐりころころ」、独特の形をした大欅、そして、六年過ぎてもまだ復興中の様子等々未知の遭遇!自然の強さ芭蕉への感謝も募る朝となる。そして、雄島入口へ。どんぐりころころ・・・芭蕉への感謝の思い募る!

  • 鐘楼のよき鐘の響き!!

    令和4年11月12日(土)第42番宇和島市:仏木(ぶつもく)寺大同二年(807)、弘法大師がこの地を巡錫中に、牛を牽く老人と出会った。導かれて進んでいくと、楠の大樹の梢で大師が唐から投げた宝珠が光っていた。その霊木で大日如来像を刻み、眉間に宝珠を納め、本尊として安置。仁王門鎌倉時代には領主西園寺家、江戸時代には藩主伊達秀宗の庇護を受け、隆盛を誇る。四国霊場では珍しい茅葺き屋根の鐘楼堂は、納経所の向かいに建つ。一撞きさせていただく。よき響き、よき音色、心底落ち着いた。鐘楼のよき鐘の響き!!

  • よくぞ、残った!松島の絶景!

    令和4年11月11日(金)松島市:松島湾島巡り松島湾一周乗船前。案内図を楽しみながら、乗船する。朝一番なので乗客もまばら。五大堂近くの観光桟橋より出発。乗船券は千五百円。大型遊覧船「第三仁王丸」だ。取りあえず、窓側に場所をとる。毘沙門島、大黒島等七福神命名の島を見ながら甲板に出て、カメラ片手に船旅を楽しむことにする。出帆後の光景鐘島、仁王島等見ながら、「あの大地震による津波被害は、ここまでで済んだのか、よくこの景観を後世に残してくれた」と胸を撫で下ろす。絶景の船旅仁王島と島唯一の小学校が印象に強く残る。仁王島50分の遊覧はあっという間。見事な松島の風景が残ったと同時に、象潟も残っていれば・・・等と独りよがりの欲をかく。よくぞ、残った!松島の絶景!

  • 日台交流:松島市の福浦橋で

    令和4年11月10日(木)松島市:福浦橋道の駅「上品の里」を、6時30分に出発。7時過ぎに、松島に到着。今回は、松島湾一周も楽しもうと目論んでいたので、受付へ。9時発なので、8時半に駐車場へ入れば良しという由。駐車料金も高いので、島の端っこで一休みする。7時半頃から福浦橋の風景を楽しむ。この福浦橋は、台湾と松島町の友情の絆の橋という説明。日台の架橋だ。東日本大震災の影響は人と人が結ばれることも多い。復興も未だ続いている姿も垣間見る。福浦島は、桜や多様な植物できれいだという話。日台交流:松島市の福浦橋で

  • お休み処 勝画楼!

    令和4年11月9日(水)今風に直すと、「早朝、鹽竈神社に参詣する。鹽竈神社はかつて藩主伊達政宗公が再興されて、宮柱は太く、彩色した垂木はきらびやかで美しく、石段は極めて高く重なり、朝日が朱色の垣根を輝かせている。このような奥地の片田舎であっても、神のご利益があらたかでおられることこそ我が国の風俗であり、大変貴いことと思われた。社殿の前に古い燈篭がある。鉄の扉の面に、『文治三年和泉三郎寄進』と彫られている。五百年も前の様子が今、目の前に浮かんできて、ただ無性に珍しいと思われた。和泉三郎は、勇気、節義、忠孝を兼ね備えた武士である。誉れ高い名前は今に至っても慕わないものはいない。誠に人はよく道理をわきまえた行いをし、節義を守るべきである。『名声もまたこれに自然についてくる』というが、まさにその通り。日はもう正午...お休み処勝画楼!

  • 塩竃の浦絶景を一望!

    令和4年11月8日(火)塩釜市:塩竈神社・志波彦神社鳥居志(し)波(わ)彦(ひこ)神社・鹽(しお)竈(がま)神社は、宮城県塩釜市にある神社(二社が同一境内に鎮座)。本殿志波彦神社は式内社(名神大社)。志波彦神社随神門鹽竈神社は式外社、陸奥国一宮。鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社。歌柱塩釜市北西部の一森山に鎮座し、古来より東北を鎮護する「陸奥国一の宮」として崇敬を集めている。随神門境内の広さは28ヘクタールに及び、神社の杜は、室町初期に植えられた樹齢六百年の杉の木を筆頭に、相当数の樹木で緑の生活が営まれている。ご神木の杉同じ山内の志波彦神社の境内に立てば、塩釜の浦の絶景を一望することができ、晴れた日は、遥か遠くの牡鹿半島や金華山まで見渡すことができるという。「八百八島」...塩竃の浦絶景を一望!

  • 三間のお稲荷さん!

    令和4年11月7日(月)第41番宇和島市:龍光寺大同二年(807)二月初午の日、弘法大師がこの地を巡錫していると、稲を背負った白髪の老人が現れて、「我、この地に住み、法経を守り、人々を救わん。」と言って姿を消した。大師は、その老人こそ、五穀大明神化身であると感得し、稲荷大明神を祀った。大師堂十一面観世音菩薩に代わる、脇士に不動明王、毘沙門天を刻み、安置。地元では、「三間のお稲荷さん」の愛称で親しまれる。三間のお稲荷さん!

  • 終はかくのごとき?

    令和4年11月6日(日)多賀城市:寶国寺末の松山の麓にあり、「末松山」の山号を有す。初めは隣障寺と称したが、出羽国から当地に移り住んだ天童頼澄の法名から寶国寺と改め、天童氏の菩提寺となる。本殿『奥の細道』本文に、「松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。」と綴られている。建立句碑と歌枕の説明曽良は、「末の松山」について「塩カマノ巳午ノ方三十丁斗。八幡村ニ末松山寶国寺ト云寺ノ後也。市川村ノ東廿町程也。仙台ヨリ塩カマヘ行ハ右ノ方也。多賀城ヨリ見ユル」と、名勝備忘録に記している。後に、正岡子規や与謝野鉄幹なども訪れている。終はかくのごとき?

  • 乾く間もなし わが袖は!

    令和4年11月5日(土)昨日、コロナワクチン5回目の接種券が郵送されてきた。早速、予約する。明日の午後三時半を予約。スムーズにできるようになってきた。今日は沖の石多賀城市:沖の井(石)直径約20メートル岩が連なる池で住宅地に陣取っている。説明板によると、「今もって池の中の奇石は磊磊(るいるい)とした姿をとどめており、古の情景を伝えている。元禄2年5月8日、芭蕉と曾良はこの地を訪れる。四代藩主伊達綱村の時代には、仙台藩により名所整備が行われ、手厚い保護を受けていた」と。「わが袖はしほひにみえぬおきの石の人こそしらねかわくまぞなき」という二城院讃岐の歌(千載和歌集)。そして、小野小町(古今和歌集)の、「沖のゐて身をやくよりもかなしきは宮こしまべのわかれなりけり」の歌などで知られ、歌枕の地としても有名となってい...乾く間もなしわが袖は!

  • やっと 末の松山へ!

    令和4年11月4日(金)多賀城市:末の松山多賀城には、坂上田村麻呂や万葉歌人である大伴家持らも派遣されている。また、平安時代には、風流を愛する都人が「歌枕の地」として憧れ、地名を詠み込んだ和歌をたくさん作っている。末の松山碑と説明ここは、多賀城市八幡地区、歌枕の地「末の松山」。沖の井の方から末の松山末の松山の黒松有名な歌は、小倉百人一首の、清原元輔の歌、「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」(後拾遺集)。「約束しましたよね。涙に濡れた着物の袖を絞りながら。末の松山を波が越すことなどあり得ないように、私たちの心も決して変わらない」という意。古今和歌集東歌碑歌碑の説明碑しかし、どうして「末の松山」と「波」は、一緒に詠まれているのだろう?「実は、869年(貞観11)、陸奧国で大地震が発生し、多賀...やっと末の松山へ!

  • 多賀城碑:壺の碑と芭蕉句碑満喫!

    令和4年11月3日(木)多賀城市:多賀城碑と壷の碑そして、道路向かい側の名勝「奥の細道の風景地」へ。壷の碑と芭蕉の句碑を、再度拝観しにいくことに。多賀城碑は、平城京をはじめ各地から多賀城までの距離と、多賀城の創建・修造の刻まれた碑で、雨風から守るために覆堂の中に収められている。制作は奈良時代で、江戸時代に発見される。栃木県の「那須国造碑」と群馬の「多胡(たご)碑」とともに、日本三古碑に数えられている。前回来た時には、そのものの真偽が不明瞭の儘という記憶だが、少し根拠の明白な、専門的な見地も加わり、進化したパンフレットで了解する。歌枕「壷の碑」として有名で、芭蕉も訪れている。芭蕉の句は、「あやめ草足に結ばん草履の緒」古代ロマンを謳歌する。江戸時代の仙台藩4代藩主の伊達綱村が歌枕を整備・保護したため、多賀城の...多賀城碑:壺の碑と芭蕉句碑満喫!

  • 待ち遠しい復元の姿!!!

    令和4年11月2日(水)多賀城市:多賀城址以前来廳した時とは、違う駐車場に停める。管理事務所のある所だ。多賀城祉は、前回訪れた時に、丁寧に説明をして下さった年配のボランティアの方が印象に残っている処。今回も出かけようとした時、「パンフレットある?」と気さくに声かけて下さる方、やっぱり年配の男性だ。有難し!パンフレットを戴き、ひとりで好きなように廻る。前回よりも説明板や復元図など整備され、わかりやすくなっている。多賀城跡後は、国が予算をつけて復元すること。ロマンも近い!?聞くと、南門の復元は国の予算がつく予定だが、県と市の予算化が難しいとのこと。「特別史跡多賀城跡附寺跡」という資料によると、「多賀城は、奈良・平安の時代に、陸奥国の国府が置かれた所で、奈良時代には鎮守府も併せ置かれた。神亀元年(724)、大野...待ち遠しい復元の姿!!!

  • 秋の暮れ 烏と枯れ枝!

    令和4年11月1日(火)仙台市:長興寺加美町八幡宮も目と鼻の先。駐車場からの出入口を利用する。すぐ「希望の鐘」があり、希望に燃えて鐘を撞こうかなと迷うが、この閑かさを大事にしようと音を鳴らさず、撞く真似のみ。参拝し、山門の方に行く。山門の左側に、芭蕉の句碑あり。ちょっと珍しい芭蕉の句が彫られている。「かれ朶(えだ)に烏(からす)のとまりけり秋の暮」(東日記発案)掲示板には、ちょっと難しい弘法大師の言葉が、住職の直筆で書かれ、それも楽しむ。秋の暮れ烏と枯れ枝!

  • 我も、及び腰の柳かな?

    令和4年10月31日(月)仙台市:保福寺街道近くに二木の松があり。そこを左折すると、杉が聳える杉並木の参道。ひとり詣での神々しさと涼しさを感得。新たに造られた本堂を参拝。よく整備され、閑静。本堂前に、「但(ただ)木(き)土(と)佐(さ)公邸屋敷門」があり。本堂は、「但木土佐公邸」でもある。「保福寺」には仙台藩士但木土佐(家老の家柄)の墓がある。戊辰戦争敗戦後、戦犯首謀者として捕えられ処刑され、一旦、東禅寺(東京都港区)に埋葬されたが、後に保福寺に改葬される。「保福寺山門」の右手前に芭蕉句碑。「卯の花やくらき柳のおよひこし」※垣根に卯の花が咲いている。白く浮き出ている卯の花に対して、黒々と繁り濃い夏の柳が及び腰のような恰好で枝を垂れている。庭前の景色。及び腰は、中腰で少し届きかねる距離にあるものをとろうとす...我も、及び腰の柳かな?

  • すべて 「花のあとかな」?

    令和4年10月30日(日)一月十六日に天に召された学友を偲んで、四喜寿の友と京都駅で待ち合わせ。福知山の自宅に弔問。お別れと深謝のお線香をあげさせていただいた。さばけたご子息のお嫁さんと獣医業を生業とされた優しいご主人としばらく友の思い出の話に咲いた。「やりきった一生」という印象をさらに強くした。よき友に恵まれたのは、本当に宝物、財産である。その後、4人で南郷温泉で一泊。学生時代そのままの語らいで、真から寛いだ!!!!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仙台市:吉岡八幡神社仙台藩祖伊達政宗の三男宗清が、居城を下草から吉岡に移したのに伴い、元和4(1618)年に現在地に移される。黒川郡の総鎮守社とされる。社殿は本殿と拝殿とを石の間でつないだ石の間造(権現造)で、以前は宮城県指定有形文化財。しかし、昭和62...すべて「花のあとかな」?

  • 十符の菅(とふのすげ)、初物!

    令和4年10月25日(火)仙台市:十符の菅(とふのすげ)芭蕉没50年後、『続奥細道蝶の遊』を著した俳人北華が「塩釜へは、…原町、あんない、びくに坂、今市…」と道筋を記載している。芭蕉たちもこのルートを通ったと思われる。但し、現在の道が当時の道と同じかは不明。『奥の細道』には、「かの画図にまかせてたどり行けば、おくの細道の山際に、十符の菅あり。今も年々十符の菅菰を調(ととの)へて、国守に献ずといへり。」と記されている。民家の庭先に、今も往時を偲ばせる「十符の菅」が栽培されている。十符とは、10の節の事であり、この菅で編んだ菅菰(すがごも)はきれいな模様が浮き出て珍重されたとのこと。菅は近辺の湿地帯に一杯生えていたが、この地のものが歌枕の代表となる。曾良の備忘録に,「百姓屋敷の内にあって、垣で囲ってある。今も...十符の菅(とふのすげ)、初物!

  • 芭蕉の蓑塚あり、妙心院!

    令和4年10月24日(月)仙台市:妙心院新寺界隈は、仙台城から見て、鬼門の位置にあたるために、多くの寺院が集まり寺町を形成している。妙心院もその一つ。大きな総檜の山門が参拝者を迎えている。山門の仁王像は、大変迫力がある阿吽像。写真におさめる。当寺は、伊達政宗の乳母である片倉喜多子の父が戦死した折、正宗の母が喜多子の慰めに、1586年山形の長井に建立したのがその始まり。その後、岩出山を経て現在の地に移る。この寺院は喜多子の牌寺である。境内には稲荷堂があり。心休まる静かな禅寺という感じ。本堂前左手に建つ芭蕉翁蓑塚(右)と芭蕉翁蓑衣塚銘。寛政7年(1795)建立。銘碑は黄檗宗万福寺の蒲庵禅師が撰文したもの。それによれば,当地に浮月坊鉄船という医者の俳人がおり,芭蕉が奥の細道の旅で着用した蓑を脱いで置いていったも...芭蕉の蓑塚あり、妙心院!

  • 榴ヶ岡天満宮は句碑の林立、俳人の育成場所!

    令和4年10月23日(日)平成23年3月11日に発生した東日本大震災により被災。御社殿の損傷が激しかったため、修復工事を行う。二年半以上の歳月をかけて完了。平成25年11月24日に本殿遷座祭を、翌日には本殿遷座奉祝大祭を斎行し、本殿での祭祀が再開する運びとなる。平成27年3月10日、芭蕉が訪れた当時の趣を残していることから「つゝじが岡及び天神の御社」として、国の名勝『おくのほそ道の風景地』に指定される。平成28年4月25日、「政宗が育んだ伊達な文化」のひとつとして、文化庁が認定する『日本遺産』に登録された。平成29年7月25日に榴ヶ岡の地に御遷座なされてより三百五十年を迎える。平成29年の今年、「御鎮座三百五十年奉祝」の年として、様々な祭典や催しを実施している。芭蕉と蓮二翁の句碑がある。芭蕉の句は、「あか...榴ヶ岡天満宮は句碑の林立、俳人の育成場所!

  • 伊予国「菩提の道場」入り!

    令和4年10月22日(土)その3~伊予国(愛媛県)菩提の道場伊予菩提の道場厳しい行路を来た巡礼者を穏やかな海が迎えるという。大師とゆく悟りの道はまだまだ続く。第四十番霊場「観自在寺」から第65霊場「三角寺」まで。「同行二人」ですすむのみ。第40番南宇和郡:観自在寺本寺は、第一番霊山寺より一番遠く「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる名刹。大同二年(807)、平城天皇の勅願所として、弘法大師が開創。本尊の薬師如来、脇仏の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩の三躰は、大師が一本の霊木を彫造し、安置した。病弱だった平城天皇は、在位3年で皇位を嵯峨天皇に譲り上皇となる。しかし、平城天皇の寵愛を受けた藤原薬子と兄の仲成が上皇に政権を取り戻そうと画策するが、弘仁元年(810)に嵯峨天皇に鎮圧される。薬子の乱により平城天皇は連座の罪...伊予国「菩提の道場」入り!

  • あせび咲く頃お詣り!

    令和4年10月21日(金)仙台市:榴岡天満宮仙台市の観桜地として有名な榴ヶ岡に鎮座する榴岡天満宮は、平安時代の天延2年(974)に山城国(現在の京都府)に創建された。その後、平将春が陸奥国宇多郡(現在の福島県)に勧請し、次に宮城県柴田郡川内村に御遷座したのが始まりで、天文20年(1551)に小俵玉手崎(仙台市青葉区の仙台東照宮の地)に三度目の御遷座が行われたそうだ。後に、藩祖伊達政宗公が仙台城を造営するとき、当宮の社木(境内地にあった樹木)を用財として切り取った為、その報賽に慶長16年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を造営したが、慶安3年(1650)徳川幕府の命令による仙台東照宮建立に際し、その境内地東側に御遷座がなされた。そして、寛文7年(1667)7月25日に三代藩主伊達綱宗公の意思により、丹塗りの...あせび咲く頃お詣り!

  • 芭蕉は訪れたが、作句せず!

    令和4年10月20日(木)やっと爽やかな秋晴れ!車の中を大掃除!!!今日も仙台!仙台市:東照宮仙台東照宮は仙台藩二代藩主伊達忠宗が、徳川家康を伊達家の守護神として祭るため、慶安2年(1649年)に三代将軍徳川家光に願い出て許しを得た。それから5年後の承応3年(1654年)に本殿や唐門石鳥居等全てが完成したという。拝殿芭蕉と曾良は、元禄2年(1689年)5月7日(新暦6月23日)、大淀三千風門下の加右衛門の案内で、東照宮等を訪れた。芭蕉が訪ねたのは、完成から35年後ということになる。曾良随行日記には、「七日快晴。加衛門(北野加之)同道ニテ権現宮(仙台東照宮)を拝、玉田・横野を見。つゝじが岡ノ天神ヘ詣、木の下ヘ行。薬師堂、古ヘ国分尼寺之跡也。帰リ曇。夜ニ入、加衛門・甚兵ヘ入来。冊尺並横物一幅づゝ翁書給。ほし飯...芭蕉は訪れたが、作句せず!

  • 亀岡八幡宮の神主さんと出会い、芭蕉のこと等で話し咲く!

    令和4年10月19日(水)仙台市:亀岡八幡宮亀岡八幡宮は、文治年間(1185年~1190年)に伊達氏始祖伊達朝宗(だてともむね)が福島県伊達郡梁川に鶴岡八幡宮を勧請して建立。その後仙台藩四代藩主伊達綱村によって現在の地に遷宮された。昭和20年の仙台空襲により社殿は焼失したため、今では石鳥居と長く急な石段のみに昔の面影が残っているという。石鳥居には趣があり、長く急な階段は地震の影響などもうけたのか、不揃いで降りる時は要注意!風雪を感じる階段である。途中の広場で、階段を上るのをやめ、社務所はどうも上の方にありそうなので、車の所に戻り、車で上がる。お花好きの神主さんと見え、可愛い数々の小花が参拝する人を慰めてくれている。神主さんに運良く出会い、芭蕉のことや神社の歴史、瑞巌寺の工事のことなどいろいろ教えていただく...亀岡八幡宮の神主さんと出会い、芭蕉のこと等で話し咲く!

  • 緑いっぱい、歴史もいっぱい!くつろぎのひととき!

    令和4年10月18日(火)芭蕉句碑は、神社北側裏手の西公園の所にある。芭蕉200回忌の建立。「風流のはじめや奥の田植うた」さて、その西公園。西公園には、石碑があちこちにあり。また、竜のように這う古梅の木「臥竜梅」等の樹木もあり。仙台市簡易商業学校跡地の碑もある。画家(?)の人がひとり、気持ちよさそうに中央のベンチで背中合わせに腰を下ろし、会話するふたりの若者の像等を描かれている。歴史を感じ、緑豊かで寛ぎたい気分!!!!今もなお、いろんな人がいろんな文化を継承し、仲睦まじく競い合い、磨き合っている街なんだろうな!?更に発展していくことを祈りつつ・・・・。緑いっぱい、歴史もいっぱい!くつろぎのひととき!

  • 風流の初めや 仙台市へ!

    令和4年10月17日(月)仙台市:櫻岡大神宮一の鳥居元和7年(1621)仙台藩祖伊達政宗公が伊勢両宮の分霊を府内荒巻村の勝地に勧請した。別当寺を祓山神宮寺(妙海法印開山、今の北山町伊勢堂山)という。天和2年4代綱村公伊勢堂山の規模を拡張、社殿を改築して社領二貫文の地(加美郡色麻村)を寄進した。維新の際、神宮寺を廃す。明治2年村社に列せられ荒巻神明社と改称、同5年仙台大町の商人佐藤助五郎等の協力により元柳町に遷す。同8年5月県社に列格、社号を現在名に改めた。二ノ鳥居後、いろいろな経緯を経て、住吉神社も合祀。桜の名所としても知られ、広大な西公園の一隅を照らし、市民の憩いの場所ともなっている。芭蕉句碑は、神社北側裏手の西公園の所にある。「風流のはじめや奥の田植うた」はせを芭蕉200回忌に建立された。~つづく。風流の初めや仙台市へ!

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、貢蕉の瞑想さんをフォローしませんか?

ハンドル名
貢蕉の瞑想さん
ブログタイトル
貢蕉の瞑想
フォロー
貢蕉の瞑想

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用