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ブログタイトル
貢蕉の瞑想
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/michan237
ブログ紹介文
青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。
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2017/05/08
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貢蕉の瞑想さんの新着記事

1件〜30件

  • 松島の滞在は僅か半日!

    令和3年12月2日(木)予を待ってくれたのは、桜ではなくて、二木の松であった。その松を三月越しに見ることができた。「松」と「待つ」、「二木」と「三月」と数を数え、三月を見るを掛けている。五月四日、名取川を渡り、仙台に入る。端午の節句の前日である。画工の加右衛門というのが、風雅の分かる者というので、付き合う。仙台のあちこちを案内してくれ、別れには紺色に染めた緒の草鞋をくれる。まさしく風雅の人の贈り物であった。松島を芭蕉と曽良が見たのは、元禄二年五月九日で、見物したのはたった半日であった。この後、十日・石巻、十一日・登米、十二日・一関、十三日・平泉の旅である。この日程は、紀行本文と違うが、そういう本文は創作とし、読み進むより仕方がない。たとえ創作であろうとも、松島の本文はなかなかの名文である。つづく。松島の滞在は僅か半日!

  • 松は、「待つ」も掛けて!

    令和3年12月1日(水)あっという間の師走入り!『伊勢物語』の「みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆへにみだれそめにし我ならぬくに」の石を訪ねて、信夫の里に行くが、里の子どもが、史実にないというので驚く。阿武隈川の月の輪の渡しを渡って、福島の瀬の上という宿に着く。五月一日、飯塚温泉(飯坂温泉)に泊まる。夜は雷と大雨で、雨漏りと蚤と蚊に刺されて眠られない。伊達領に入る。奥羽街道を行く。岩沼(宮城県岩沼市)の武隈の二木の松を見て、昔のままに、二股に分かれていたのを見て、芭蕉は嬉しがり。桜より松は二木を三月越しと詠む。つづく。松は、「待つ」も掛けて!

  • 花かつみは、見ることなく・・・

    令和3年11月30日(火)霜月も晦日、穏やかな日和である。宿駅のそばに浮世離れした僧がいて、「栗という字は、西の木だから西方浄土を示す。」と、つまらないことを言うと、走り書きしている。ほんとお坊さんも悟りとはほど遠し?やっと例の等躬宅から逃げ出して、沼の多い街道を行く。この辺り花かつみが多いと『古今和歌集』にあったので、「どなたか花かつみはどれか教えてください。』と、人々に尋ねてみるが、誰もしらない。がっかり!今は、花かつみは、「ひめしゃが」とされ、郡山市の花として制定されている。安積山公園で、しっかり育てられている。二本松から福島に来て、宿に泊まる。花かつみは、見ることなく・・・

  • 文章の変化を読むか

    令和3年11月29日(月)白河の関を越えて、いよいよ奥羽に入る。芭蕉の心は松島に向いていて、その焦りのためか、散文は、どこか、形式や人物の羅列式である。対象の自然、特に山や川の文章にあまり精彩がない。そして、松島に来て急に緻密で勢いのある文体となる。この突然の変化ができるのも、何回も読んでみると、前のほうの羅列式の文章が急に勢いのある細密描写になることで、その変幻の効果を狙っている向きも芭蕉にはあったと読めるのだ。まず、阿武隈川を渡る。磐梯山が見える。やがて、山々の連なるのが見える。須賀川の宿駅に等躬という芭蕉の旧知の男がいる。つづく。文章の変化を読むか

  • 卯の花の晴着かな

    令和3年11月28日(日)卯の花をかざしに関の晴着かな曽良奥羽への入り口に来て、心躍る様を力ある文章で表現する。能因の歌「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と源頼政の歌「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関」の二つの詠みを、巧みに組み合わせた書き様は見事というほかなし。卯の花を雪に見立てたのもよい。古人が冠を正した代わりに、芭蕉と曽良は卯の花をかざして晴着にしたのだ。卯の花の晴着かな

  • 奥羽の入り口、心も躍る!

    令和3年11月27日(土)小春日和から一転寒の入り!落葉に誇りが舞い、体の冷えは増すばかりのウォーキングとなる。さて、四月二十日、やっと白河の関に到達。「心もとなき日かず重なるままに、白河の関にかかりて、旅ごころ定まりぬ。『いかで都へ』と、たより求めしも、ことわりなし。中にも、この関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉のこずゑ、なほあはれなり。卯の花のしろたへに、いばらの花の咲きそひて、雪にも越ゆる心地ぞする。古人、冠を正し、衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。卯の花をかざしに関の晴着かな曽良」奥羽への入り口に来て、心躍る様が、力ある文章で表現されている。つづく。奥羽の入り口、心も躍る!

  • 裏見はできぬ今の滝!

    令和3年11月26日(金)どこまでが事実で、どこまでが想像なのか?これもまたよしかな?師匠の追究!「私の詠んだ芭蕉の伝記や研究書でも、事実を求める本を読むと釈然としなくなり、面白さが半減する。そういう読み方ではなくて、表現や文章の勢いを鑑賞するほうが楽しいし、それを芭蕉は本意とすると思う。」と。山奥へと歩いて行くと、裏見の滝というのに、出合う。滝の裏側から初夏の景色を見て、一句。暫時(しばらく)は滝にこもるや夏(げ)の初(はじめ)夏(げ)とは夏の初めに九十日間、念仏や滝に打たれて修行すること。実際に籠もったのではないし、滝に打たれたのでもないが、その心意気を覚えたというのである。長年の私の願い出合った「裏見の滝」も、芭蕉のお陰でたっぷり愉しむこともできた。裏見は、今はできないが・・・。裏見はできぬ今の滝!

  • 男体山が別名黒髪山とは?

    令和3年11月25日(木)四月一日、黒髪山(男体山)に霧がかかり、雪がまだ白く残っている。剃り捨てて黒髪山に衣更(ころもがへ)の一句は、曽良の作となっているが、実は芭蕉の代作である。こうして、『おくのほそ道』には、事実と違う文章や設定が表現されている。芭蕉の文章は、曽良が丹念につけた日記とも違い、彼の想像の文章が挿入されている。それは、事実よりも文章の質を高めるために、推敲を重ねて、この旅日記を品格のある文章と俳句で埋めていったから・・・。男体山が別名黒髪山とは?

  • 青葉若葉に日の光が・・・!

    令和3年11月24日(水)あらたうと青葉若葉の日の光おお、何と尊く思われることだ。穏やかな世に、青葉・若葉に降り注ぐ日光山の光は。芭蕉は、本気で家康を崇めている。その心と乞食を旨とする荘子への賛美とはどうつながるのか。その詮索は、今回はなし。師匠の意見は、「家康の日光東照宮への挨拶句の趣が強く出た句を、春先の青葉の美を詠った句に仕上げた芭蕉の鋭い感覚が素晴らしかった。」ということだ。青葉若葉に日の光が・・・!

  • 家康への褒め詞

    令和3年11月22日(月)さて、出立の日。3月27日のうちに、草加の宿に着く。出発早々、重い荷物を背負って歩き、疲れ果てて宿に到着する。紙子(渋紙製の防寒着)、浴衣、雨具、墨、筆、餞にもらった物は捨てるわけにもいかぬ荷厄介である。これら重い荷物が痩せた体を苦しめた。鳥木の室の八島明神(歌枕)にお参りする。神道に詳しい曽良が「この祭神は、木の花さくや姫と申し、富士山の浅間神社の祭神と同じ方です。」と教えてくれる。三月三十日、日光山のふもとに泊まる。四月一日、日光山にお参りする。家康が天下太平をもたらしてくれたと感謝している。そして、次の文章、最大限の家康褒めである。私は芭蕉の褒める詞の累積に驚く。「千歳未来を悟りたまふにや。今この御光一矢にかばやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の住みか穏やかなり。なほ、はばかり多...家康への褒め詞

  • 『おくのほそ道』とは?

    令和3年11月21日(日)ここへ来て、師匠は問う。「『おくのほそ道』とは、何か。」まず、奥羽の旅、日光・白河・松島・平泉、尾花沢・出羽三山・坂田・象潟。次いで、北陸の旅、出雲崎・金沢・福井・敦賀。八月二十日過ぎに大垣、ここに九月六日まで滞在。以上、書き連ねた所が、『おくのほそ道』の舞台である。私は、未だ二回踏破しただけ。もう少しゆったりその所々の食や温泉、伝統、歴史など堪能しながらの旅をしてみたい。さて、『おくのほそ道』は、俳諧紀行の体裁を取っている。日記風の散文と、その場で詠んだ俳諧とが互いに寄り合って、独特の表現力で迫ってくる。難解なところもまだまだあり、芭蕉の感性まで同化(?)していない節も見られる。しかし、芭蕉の俳諧ができあがっていく過程を知るには、格好の文献である。つづく。『おくのほそ道』とは?

  • 別離の悲しさの一句

    令和3年11月20日(土)さて、元禄二年(1689)三月二十七日の早朝に旅が開始された。門人の曽良を供として出立し、見送りに来た人々とともに、舟で千住まで行って別れた。前途には三千里もの道中が予定されており、上野や谷中の花とも別れて、いささか心細い気持ちでの出立である。この文章、はじめは威勢のよい美文だが、終わりにくると、別離の寂しさで、元気がなくなってくる。行春や鳥啼魚の目は泪と、添えた一句の意味も涙と心細さである。鳥は泣き声で叫び、魚は泪を流し、行く春を惜しんでいる。けだし、別離の悲しさである。別離の悲しさの一句

  • 矢立はじめの心境

    令和3年11月15日(月)「弥生も末の七日。あけぼのの空朧々として、付きは有明けて、光をさまれるものから、富士の峰かすかに見えて、上野、谷中のはまのこずゑ、またいつかはと心ぼそし。むつまじきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住といふところにて舟をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたは離別の涙をそそぐ。行春や鳥啼魚の目は泪これを矢立のはじめとして、行く道なほ進まず。途中にたちならびて、うしろかけの見ゆるまではと見送るなるべし。」さて、元禄二年(1689)三月二十七日の早朝に旅が開始された。つづく。矢立はじめの心境

  • 庵の変化を愉しむ!

    令和3年11月14日(日)「予もいずれの年よりか・・・。」からの現代訳。予も何歳の時からか、小さな雪が風に乗って飛んでいくのをうらやみ、漂泊の望みが絶えず、『笈の小文』の旅のように、海辺をさすらい、去年の秋、川辺のあばらやの蜘蛛の古巣を払って、やがて年の暮れ、春になって、霞の空を見る頃には、浮かれ神が身辺に取り憑いて、心を浮き立たせ、道祖神の旅の誘いに遭って、何事も手につかず、股引の破れを縫い合わせ、笠の緒を付け替え、健脚になるという灸点の三里に灸を据え、最高の名所松島の月が見たくて、心が焦り、住んでいた庵は人に譲り、弟子の杉風の別宅に引っ越して一句詠んだ。草の戸も住替る代ぞひなの家娘や孫のいる人に庵を譲ったので、やがて雛を飾っている家になるだろう?という連句の発句を庵の柱に掛けておいた。庵の変化を愉しむ!

  • 古人も多く旅に死せるあり

    令和3年11月12日(金)美文を味わう。「月日は百代の過客にして、行きかふ人もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老ひを迎ふる者は、日々旅にして旅を住みかとす。古人も多く旅に死せるあり。」師匠の現代訳。「月日は永遠の旅人であって、行く年も来る年も、李白の言うように百代の旅人なのだ。舟の上で一生を送る船頭も、馬の口を牽いて暮らしていく馬方も、毎日が旅であって、旅を住処にしているようなものだ。昔の人で名のある人たち、能因・西行・宗祇・杜甫・李白なども旅先で死んでいった。」古人も多く旅に死せるあり

  • 奥の細道・・日本語の美を味わう!

    令和3年11月9日(火)今日から、『おくのほそ道』へ。お師匠さんは、「芭蕉の散文が日本語の表現として、如何に優れて、如何に美しいかと体験して戴きたいので、『おくのほそ道』の冒頭の文章を・・・。」と・・・。私も、古稀から初め、この頃やっと冒頭の文章をそらで暗唱できるようになった。江戸を出て、松島や平泉など旅したいという願いの強さ、深さを見事に表出。決死の念いを、ここまで巧みに表現する事に、ほんと、時代を超えて感嘆する。「原文と私の現代語訳を提示するのは、皆さんに原文を何度か読み返し、その日本語の美を味わって戴きたいからである。」と導いてくださる師匠。嬉しい限りである。その原文。「月日は百代の過客にして、行きかふ人もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老ひを迎ふる者は、日々旅にして旅を住みかとす。古人...奥の細道・・日本語の美を味わう!

  • 動画風に完了!

    令和3年11月8日(月)孫の七五三のお祝いで、つくばみらいの方に出かけていた。往路、つくばジャンクションの手前近くのところで、前のトラックと80㍍ぐらい離れていたが、前から長方形の黒っぽい物が、兎のダンスのようにひょこひょこ飛び跳ねて近づいてくる。軽い物かなと、それが目の前に来たので、軽くブレーキを踏みちょっとハンドルをきったが、左の方で「バーン」とはねる音がする。「うわー、鉄板かブリキ板だったか?」と、吃驚。物が飛んで来る高速道路の恐ろしさを初めて知る。大事に至らず、胸をなで下ろす。久しぶりの芭蕉。いよいよ「笈の小文」も完了だ。「先ず、須磨の海は右に見え、明石は左に見える。それが、中国の呉の国と楚の国の眺望に似ていると想像する。名所として、田井の畑という集落が松風・村雨のふるさとだという。次第に、一ノ谷が近づ...動画風に完了!

  • 百骸九竅が最初、最後の小文は・・・?

    令和3年11月4日(木)『笈の小文』の最後の散文、師匠は「なんと美しい文章であることよ。」と讃歎する。冒頭の開幕の文章と響き合って、きっかりと締めている。旅の初めにあったのは、骸骨となった己が姿であったが、最後にあるのは、幼い天皇の最期である。「最初の旅立ちの恐ろしい予感を、「小文」の終わりの秋に、明石・須磨を見て、平家滅亡の有様を哀れの涙で飾ったのだ。ここは大意を述べるに止めて、芭蕉の不思議に動的な文章は、皆さんの丁寧な読書にお任せしよう。」とも・・・・言及されている。再度、原文を。「かゝる所の穐なりけりとかや。此浦の実は秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさいはむかたなく、秋なりせば、いさゝかの心のはしをもいひ出づべき物をと思ふぞ、我心匠の拙きをしらぬに似たり。淡路島てにとるやうに見えて、すま・あかしの...百骸九竅が最初、最後の小文は・・・?

  • 平家滅亡の散文が結末に!

    令和3年11月3日(水)「かゝる所の穐なりけりとかや。此浦の実は秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさいはむかたなく、秋なりせば、いさゝかの心のはしをもいひ出づべき物をと思ふぞ、我心匠の拙きをしらぬに似たり。淡路島てにとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。呉・楚東南の詠もかゝる所にや。物しれる人の見侍らば、さまざまの境にもおもひなぞらふるべし。又、後の方に山隔てゝ、田井の畑といふ所、松風・村雨のふるさとゝいへり。尾上つゞき、丹波路へかよふ道あり。鉢伏のぞき・逆落など、おそろしき名のみ残りて、鐘懸け松より見下に一ノ谷内裏やしき、めの下に見ゆ。其代のみだれ、其時のさわぎ、さながら心にうかび、俤につどひて、二位のあま君、皇子を抱奉り、女院の御裳に御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有さま、内侍・局・...平家滅亡の散文が結末に!

  • 古典劇の幕が上がっていくような風情の一句!

    令和3年11月2日(火)海士の顔先見らるゝやけしの花◎陰暦四月中旬の空もおぼろに春の気配を残して、すぐ隠れてしまう。月もなかなか美しいのに、木々の葉は黒く染められて、やがてほととぎすが鳴き出すはずの夜明けとなった。海の方から白み始めて須磨寺付近の台地、上野には海人の家々が並び建ちその軒端には、麦の穂の波が見渡される。けしの花もその付近の所々に咲いている。夜が明け初めて来ると、けしの花咲く辺りに海士の顔がちらほら見えてくるのが、よい風情だ。須磨寺に、『平家物語』の遺品を多くとどめ、平敦盛の笛など有名である。また、『源氏物語』の舞台でもある。それら古典を背景に朝がゆっくり明けてくる様子は、まるで古典劇の幕が上がっていき、明るい照明が照らしてくるかのよう・・・。古典劇の幕が上がっていくような風情の一句!

  • あはれを解する須磨の海士(海女)!

    令和3年11月1日(月)いよいよ霜月の始まり、はじまり!卯月中頃の空も朧に残りて、はかなく短夜の月もいとど艶なるに、山は若葉に黒味かかりて、しらみそめたるに、上野とおぼしき所は麦の穂浪あからみあひて、海人の軒近き芥子の花のたえだえに見わたさる。海士の顔先見らるゝやけしの花けしの花が咲くこのあたり、出会った漁師の顔に先ず目がいってしまう、の意。「海士」・・古典作品に出る須磨の海士は、「あはれ」を解する優しい存在で、この句もそれを前提とする。「らるゝ」・・・自発の意。紀行本文に、「海人の軒ちかきけしの花のたえだえに見渡さる」として掲載。つづく。あはれを解する須磨の海士(海女)!

  • 揶揄句?????

    令和3年10月26日(火)草臥て宿かる比や藤の花◎旅の道の困難さに疲れ切った芭蕉が、愚痴をこぼしているような文章と俳句。自分が好んで行っている旅に疲れ果てた芭蕉は、それでも藤を仲間に引き入れて俳句を詠んで、じっと疲労を耐えて見せている。たそがれ時の藤の花は頼りなさそうに見える。「此や」の切れ字「や」は、嘆きの心を示していて、「藤の花」を装飾している。吉野にて花を見た後の満足が、疲労と宿探しによって少し削られ、さらにたそがれの色も定かでない藤によって揶揄されている。揶揄句?????

  • 旅の疲れも・・・愚痴の一句?

    令和3年10月25日(月)草臥て宿かる比や藤の花歩き疲れて宿屋を求める夕暮れ頃、藤の花が私の目をとらえる、の意。貞享五年(1688)の作。4月25日は、惣七宛書簡の「ほととぎす宿かる比の藤の花」が初案で夏来る。『猿蓑』の前書きは、「大和行脚のとき」。それを出発からほど近いころの吟ととらえ直し、本文「旅の具多きは道さはりなり。・・・道猶すゝまず、物うき事のみ多し」と対応させたもの。旅の疲れも・・・愚痴の一句?

  • 旅の具の重さも身に沁みる・・・加齢?

    令和3年10月24日(日)旅寐してみしやうき世の煤はらひこの煤払いの習慣は、私が生誕地を離れる十八歳まで、田舎では風習になっており、近隣で一緒の日にやっていたような記憶が残っている。日本手ぬぐいでマスク代わりにして、やっていた。煙突掃除もいっしょだったなあ。さて、俳諧師の日常を簡潔な一句にまとめた世間離れの秀句を、本日も。旅の具多きは道さはりなりと、物みな払い捨てたれども、夜の料にと紙子ひとつ、合羽やうの物、硯、筆、紙、薬など、昼餉なんど物に包みてうしろに背負ひたれば、いとど臑(すね)よわく力なき身の、あとざまにひかふるやうにて道なほ進まず、ただものうきことのみ多し。そして、次の句へ。次回に!旅の具の重さも身に沁みる・・・加齢?

  • 浮世離れの俳諧師の常を詠う!

    令和3年10月23日(土)師走十日余り、名古屋を出でて旧里(ふるさと)に入らんとす。旅寐してみしやうき世の煤はらひ江戸城内の煤払いは、師走十三日に行われたので、庶民もこれに倣って、一斉に煤払いを行った。これは家にいる者が、皆で協力して賑やかに行ったものだ。それで、昔、父母が健在であった幼年時代を思い出し、世間の習慣など忘れて旅寝してきた自分も、賑やかな人々を見て、今の年老いた身を思い、旅寐という浮世離れした日々を送っている自分を思うという。俳諧師の日常が、如何に浮世離れしているかを、簡潔な一句にまとめたところが面白い。浮世離れの俳諧師の常を詠う!

  • 森羅万象、闇から生まれるのだ!

    令和3年10月22日(金)闇には、古来の叙情とちがって、哀切の響きがあって、千鳥に聞き惚れ天地を包む闇の強い表現力に惹かれるのであった。闇の力を詠んだ秀句については『野ざらし紀行』の外宮の闇についても述べたけれども、芭蕉は夜空の星よりも星も見えぬ夜の闇に寄宿の根源を認め、闇の美の表現を大事にしている。この芭蕉の感覚は、彼の俳諧の中心を占めているので、もう少し述べてみたい。例として、『おくのほそ道』の一句をあげよう。荒海や佐渡によこたふ天河芭蕉の視線は、先ず目の前の荒海に落ちている。七夕時の荒れた海である。荒海は何に支えられているか。波の下の暗く深い海に支えられている。視線が揚がって、佐渡島を見る。島にある歴史は流(る)謫(たく)の歴史である。暗い歴史である。そして、視線は天ノ川に上がる。明るい星の河だ。この満天...森羅万象、闇から生まれるのだ!

  • 闇の美を作句

    令和3年10月19日(火)鳴海に泊りて星崎の闇を見よとや啼千鳥星崎の闇を見よと勧めるのか。千鳥が盛んに鳴き立てる、の意。貞享四年(1697)の作。「鳴海」・・・星崎を含む鳴海潟は、千鳥の名所。(『類船集』に、「千鳥→鳴海」)。千鳥は闇夜のものとして詠むことも多く、「星」と「闇」は類語。十一月七日、安信亭で巻かれた歌仙(千鳥掛)の立句で、興じる気分が軽快な調子になって現れる。真蹟自画賛には斧斤の名所を織り込んだ前書きが付される。◎名古屋の鳴海町で、同地の門人知足の家に宿泊した。星崎の闇の空を見よとでも私に言うつもりか、哀切な鳴き声の千鳥がいた。まるで闇を見よと誘うような鳴き声であった。闇には、古来の叙情とちがって、哀切の響きがあって、千鳥に聞き惚れ天地を包む闇の強い表現力に惹かれるのであった。闇の力を詠んだ秀句に...闇の美を作句

  • 造化の妙の俳句は棄てられず!

    令和3年10月18日(月)突如、冬型の気圧配置の影響で、冬入り?と勘違いする寒さ、衣替えの準備完了で難を逃れる。さて、『笈の小文』の序文解説。「百骸とは体の中にある沢山の骨、九竅とは体に空いている九つの穴のことで、二目・二耳・二鼻・一口・一尿道口・一肛門で、九つの穴。つまり、百骸九竅は、人の身体のことである。身体の中に物、つまり心がある。風羅とは、風に翻る薄物で、破れやすい芭蕉の葉のこと、坊をつけて芭蕉は、自分の仇名にしているのだ。さて、風羅坊は狂句、つまり俳句を好んで生涯の仕事にした。時には、俳句に飽きてしまったし、時には、いい俳句が詠めて人に勝ったりしたが、なにせ俳諧師というのは、厄介な仕事で、ふと士官して楽をしようと思ったりした。しかし、好きな道の俳諧師は棄てられず今も仕事をしている。西行の和歌、宗祇の連...造化の妙の俳句は棄てられず!

  • 百骸九竅(ひやくがいきゆうきよう)の序文

    令和3年10月17日(日)今日から衣替え。朝から小雨降り、寒し。寒いのは苦手のひとつ。『笈の小文』は、私にとって、「老いの鼓舞覧」にあたる・・・?前回に続く。弟子たちが作ったために、『おくのほそ道』などを参照して弟子たちが書いた部分もあるらしく、芭蕉の吟行した時の思いなのか、後に弟子たちが書いた推測による文章なのか、迷う、と諸家は言っているが、それは『おくのほそ道』にも芭蕉の旅のずっと後の思いや文章の推敲があるのに似ていて、諸家もそれを承知で文章を読み論じているので、『笈の小文』も同じことであると思うより他の方途はない。末席に序文がある。なかなかの名文で、先ずこれを吟味。「百骸九竅(ひやくがいきゆうきよう)の中に物あり。仮に名付けて風羅坊とい付。まことにうすもんお破れやすからんことを言ふにやあらむい。かれ狂句を...百骸九竅(ひやくがいきゆうきよう)の序文

  • 『笈の小文』の「笈」とは?

    令和3年10月16日(土)今日から『笈の小文』を追従。5年前の2016年5月に『笈の小文』の旅をし、兵庫の明石まで行く。これからそれらを振り返りながら芭蕉の句を再度紐解くことに。また、ご支援、ご声援よろしく!!!4笈の小文貞享四年(1681)十月二十五日に、江戸を立って尾張から伊賀に入り、故郷で年を越し、伊勢にて遊び、弟子の杜国を伴って吉野の花を見、さらに高野山、和歌浦を、須磨、明石を巡り歩いた紀行である。『笈の小文』とは、芭蕉が別の紀行のためにとっておいたのだが、没後、弟子たちが紀行文を組み立て、この名前をつけたという。「笈」というのは、旅の僧が仏具、衣服、食器、食糧等を入れて、背に担う箱で、地に置いたときに安定がいいように四隅に木の脚がある。つまり、芭蕉を旅の僧になぞらえた俳諧紀行文。つづく。『笈の小文』の「笈」とは?

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