朔太郎の第二詩集「青猫」を読みました。この詩集は詩篇のあとに、附録として「自由詩のリズムに就て」という朔太郎の論が収録されています。これが大変興味深い。朔太郎は韻を踏んだもののみを詩とし、散文で書かれたもの(朔太郎の立場はこちら)を詩としない、当時の世間に物申しています。ここで、私の生きている現代の「散文」と朔太郎の時代の「散文」の違いに着目。私が初めて「散文」という言葉を知ったのはたしか小学校高学年です。ザ・ハイロウズというバンドがあり、その青春という歌の中で「散文的に笑う」という歌詞がある。当時私は「散文的に笑うってなんだ?散文って言ったら詩じゃない文だから、こう、ロマンがない笑い方なのか