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  • 思考

    言葉を網羅することで、こぼれ落ちてしまうものがあると思う。 ときには、心の中でただ噛みしめたり、過ぎ去るのを眺めたりしたいと思うけれど。

  • グザヴィエ・ドラン『わたしはロランス』

    〈本当の自分〉を追い求めることはこんなにも美しい、と素直に思えた一方で、それは社会との隔りでもあるという現実も垣間見た。しかし、このような普通と異端との対立を超克するものも、逆説的にも、自分であれ他者であれ〈本当の自分〉を愛そうとすることなのではないか、と思わせる。 〈本当の自分〉をめぐる生(性)に対するドラン監督の思いが作品に反映されているように思えて、不思議な高揚感に包まれた。 (グザヴィエ・ドランの作品は、いつにもまして、自分と他なるもの(人生、愛、家族など…)に直面する場であり、そこにおいて他者は、願望によって歪められずに、ありのままにある。そこには、われわれの願望充足こそないが、迷いのなかに〈気づき〉がある。)

  • 明日になれば今の気持ちは過ぎ去ってしまうかもしれない

    最近すっかり映画が好きになった。去年から突然にそうなったのである。なぜだろうかと考えているがわからない。理由などないのだろう。こんな調子で、明日には映画が好きでなくなっているかもしれない。たとえば写真が好きになっているかもしれない。昨日と今日、今日と明日にはたしかな断絶がある。 長らく、自分は音楽をやりたいけれど音楽を知らないまま死んでゆくのだと思い込んでいたし、ひとたび音楽を手にしてピアノを弾き始めたら、今度は、自分には音楽しかないのだという思い込みによって自分の可能性を殺していた。もちろん、音楽そのものとは全く向き合えていなかった。音楽にすがりついていた。 「明日になれば、今の気持ちは過ぎ去ってしまうかもしれない」。そう思うと、不思議と気が楽になった。〈今〉の純粋さが際立つからだろうか。 音楽に対する思いも、以前とは変わった。今は音楽と自分との〈遠さ〉があるけれど、音楽に対する自分の純粋さにおいて、正直であることができるようになった。

  • 『ブルーベルベット』〜甘美な傷〜

    ‪これほどまでに、人間の内なる得体の知れないものに対して恐怖をいだいたことはない。そして、それが怖るべきものであるのは、その恐怖が人間自身、つまり私自身に対する恐怖でもあるからだ。この映画をみるものは、自分自身の内面を凝視しなければならない。そしてことごとく傷めつけられる。そんなことが私たちにとって必要なのだろうか?‬ ‪「いや、私たちは正常だ……私たちは問題ない」‬ ‪このように言い続けなければならない。まるで弁解のように。‬

  • ロラン・バルトとともに(2)

    バタイユのテクストに対して感じていたこと、──それは、テクストが興奮していることである。わたしは、バタイユの思想そのものに対して魅力を感じてはいたが、テクストのテンションについてゆけない感じがあった。バタイユにおいてある内的体験への没入を、自分の肌によって感じとることができなかったのだ。 しかし、わたしはその没入を、バタイユの読解における規則だととらえた。バタイユのテクストの強靭な力に読者も加担しなければならないのだと。わたしは、バタイユに混乱した。いや、混乱しているふりをしていたのだ。バタイユと〈ともに〉混乱することができなかったのである。そこで、わたしの感覚に対する少ない言葉をおぎなうかのようにバルトはいう。 私たちの言語にはまだヒロイズムが多すぎる。最良のテクストにおいてさえ──私はバタイユのテクストのことを考えるのだが──、ある種の表現の異常興奮、つづめていうと、一種油断ならないヒロイズムがある。テクストの楽しみには(テクストの歓びには)、そういうのとは反対に、戦意高揚の突然の消失、作家の蹴爪の束の間の剥落、〈元気〉の(勇気の)中断がある。(『テクストの楽しみ』鈴村和成訳、みすず書房、2017、pp.61-62) これは、わたしにとってのバタイユの新たな側面である。バルトのこの断章によって、バタイユのテクストの魅力は広がりをもったからだ。バルトは、バタイユのなかに否定的なものだけを見出したのではない。それは、テクストを遠くから注意深く吟味し、新たな楽しみ/歓びを見つけ出そうとする努力でもあると思う。テクストの興奮を、読者に対する強制力ととらえていたわたしのうちにまた、バタイユは顔を出した。

  • ロラン・バルトとともに(1)

    石川美子『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』を読んだ。言語に対する鋭敏な感覚ゆえに苦悩した、人間としてのバルトが浮き出てくるような文章だった。ところどころ感動的な引用がなされ、「バルトを読む」という、それこそテクストの快楽へとわれわれをいざなわずにはおかない。 早速、新訳で出た、『テクストの楽しみ』を手にとってみた。 バルトが「身体」という時、それはテクストの快楽と結びついている。何かを喜びとともに語るという快楽は、内発性というよりも、まずはじめに身体性なのではないか。 身体のもっともエロティックな部分とは、衣服が口をあけるところではないだろうか?倒錯においては(これがテクストの楽しみの体勢である)、〈性感帯〉(それにしても、かなり厄介な表現だ)というものはない。いみじくも精神分析が言うように、エロティックなのは間歇性なのだ。二着な衣服(パンタロンとかセーターとか)のあいだで、ふたつの縁(はだけたシャツ、手袋と袖)のあいだで、きらめく肌の間歇性。誘惑するのは、このきらめきそのもの、さらにいうなら、現れること─消え去ることの演出である。(『テクストの楽しみ』鈴村和成訳、みすず書房、2017、pp.19-20) わたしの長所は、いろいろなものに興味を持つことだが、そのことでまとまったものを感受できなくなってもいるので、ひとまずロラン・バルトを読んでみようという心持ちになっている。

  • 『恋人たち』〜夜、究極の恋〜

    恋愛とは、エゴイズムではないだろうか。ふたりの愛のエネルギーが増大すればするほどそれは嫉妬を生み、一方で愛の渦中にあるふたりは、世界からの断絶をますます顕著にするのである。 映画『恋人たち』(Les Amants,1958)における恋と官能の光景は、その究極的な表現であったといえる。究極的な恋とはこんなにも美しいものだったのかと思わせられる。主人公ジャンヌ(ジャンヌ・モロー)の、夫アンリとの生活は愛人ラウルによって否定され、その否定の否定としての統合が、ベルナールとの夜への逃避行であった。その愛の変遷すら美しい。 わたしは、ふだんであれば、恋のエゴイズムを前にして、ふたりの世界から排除されたはずだ。しかし、ジャンヌとベルナールの愛の交流は、わたしを正真正銘の夜へといざなったのである。そこは一点の曇りのない、疎外のない夜であった。『恋人たち』は、みる者を夜へとみちびく──いや、みる者自身が夜となるのだ。究極の恋とは夜であろう。

  • 『永い言い訳』〜人生という他者〜

    逃げることと向き合うことは、人間において、いつも繊細に反転し続ける。ひとはいつも弱く、そして強い。しかしなお弱い。そのような「依然とした弱さ」をつながりの中にえがきだすことで、不思議とその弱さは、「肯定」という力を帯びていった。

  • アンドレ・ブルトン、出会い

    わたしは本を読むことが好きだが、しかしあまり得意ではない。読書とは能動的な行為だからだ。たとえば映画であれば、スクリーンの前に座るだけであとは受動的に物語を摂取すればよいが、読書は、自発的に眼球を動かしながら言葉をつかみとってゆかなければならない。しかしわたしは、能動的に言葉をつかみとってゆくような読書ができなかった。そして、そのような読書ができる人びとを羨んだ。わたしは外の世界からの言葉を待ち続けていたのだ。 アンドレ・ブルトンの詩的な言葉たちとの出会いも、すこぶる受動的になされた。わたしは、この数々の美しさも、またわたしの眼前を通りすぎてゆくのだと思った。しかし、予想に反して、『狂気の愛』のなかの謎に満ちた煌めきは、わたしの前にふいに立ち止まったのである。 この「出会い」は、必然的であるのだろうか。たまたま風がやんだだけではないのか。わたしはそう考えた。そしてもし、ブルトンその人でなくても、出会いはなされたのではないか。そのように疑った。しかし、ブルトンの文章は、何かをつかむことができないということは、決して挫折でありはしないということ、そして、渇きのただなかにとどまることの愉しさを、わたしに教えてくれた。 今でもなおわたしは、自分の自由な状態からしか、あらゆるものと出会うべくさまようことへのこの渇きからしか、何かを期待することはない。これこそがわたしを、その他の自由な存在との、神秘的な交信の状態においてくれるのである。あたかも、われわれ自由な存在がとつじょ結集することを求められているかのように。見張りの歌、期待をまぎらす歌のつぶやき以外のささやきを、わたしの人生が背後に残さなければいいのだが。起こったり、起こらなかったりといったことに関係なく、すばらしいのは、期待そのものなのだ。(『狂気の愛』海老坂武訳、光文社古典新訳文庫、2008、p.62) この発言が感動的であるのは、受動性と能動性とを統合しようとする努力による。出会いを積極的につかみにゆくということは、究極の受動性としてさまようことであり、それがまさに期待することであると。 しかし仮に、この出会いの積極性を認めるとしても、わたしはブルトンの謎めきを真に理解したわけではない。むしろ、シュールレアリスムのオートマティックな文体の魅力とは、その文章が「わかること」ではなく「わからなくなること」であると感じる。しかし、われわれは言語

  • 書くこと、語ること(2)

    「書くこと」や「語ること」とはいったいどのようなことなのだろうか。こうして文章を書いていると、いつも考える。「書くこと」や「語ること」とはつまり、「誰かに対して語りかけること」であろう。何か言葉を発したその瞬間に、それは他者へとひらかれることになるのだ。日記ですら、自分というひとりの他者に向けて書かれるものであるのだから。

  • 『ラ・ラ・ランド』〜夢追い人への華麗なる賛歌〜

    嫉妬は僕の心の根本問題であると思うのだが、よくよく考えてみると、自分は架空の「全能の他者」、「あらゆるものを所有する他者」に嫉妬しているように思えてならない。何ものかを得ている人は、他の何かを犠牲にすることで、それを得ているのかもしれない。 ミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』がとても話題になっているので、映画館に吸い寄せられるように足を運んだ。上の引用は、先日何気なくツイッターに書いたことであるが、この『ラ・ラ・ランド』に、偶然にも同じようなことを感じた。 出典 http://gaga.ne.jp/lalaland/ 夢をつかむこととは、今まで追い求めていたものをつかみとることであると思われていることだろう。それは、運命において、おのれに与えられた恵みのようである。しかし、本当にそうだろうか。この作品では、夢をつかむことの悲哀すらもえがかれていた。そして、夢をつかんだことによる喪失にも光が当てられていた。その点が、作品に深みを与えていたと思う。 夢をつかむこととは、同時に、他の何かを失うことでもあるのではないか。だから、夢をつかむことは、希望であり、喜びである一方で、悲惨でもある。では、人間は夢を追うことに喜びを見出せないのか。それは違う、ということを『ラ・ラ・ランド』は歌い上げる。夢を追いかける人生は、それによって失うものに対する未練や後悔に必ず直面する。そこに悲哀がある。しかし、それでも、歌や音楽があれば……!というひとすじの希望を感じた。 この作品は決して、夢を追いかけることに対抗する現実をえがいているわけではないと思う。あくまで、現実を前にしてもそれを追いかけることであり、夢追い人への華麗なる賛歌である。『ラ・ラ・ランド』はつかのまの夢を見せてくれた。それは幻なのかもしれない。ただ、幻も見つづければ現実を乗り越える夢となるだろう。 (エマ・ストーンはなんと可愛くて素敵だったことだろう)

  • 等々力渓谷

    等々力渓谷に行ってきました。都会のオアシスですね。

  • 夢日記6

    両親に新しい子どもができた、つまり僕に弟ができた夢を見た。父親が、「子どもができたよ。どう?かわいいでしょう」と僕に言う。僕はこみ上げる不快感を必死で抑えながら「うん」と答える。 子どもをまじまじと見てみると、首の付近にエラのような肉の突起が付いていた。父親は僕に、「それは子どもが自分の力で剥ぐものだから、大人が無理やり取ってはいけない」と言った。そのとき、子どもは、その肉の突起を、まるで自分の仮面を取るように、剥いでいる。血は一滴も出なかった。

  • 「おしぼり」と「おてふき」

    カフェでこれが欲しくて、店員さんにお願いしたのだけれど、「おしぼり」と言うべきか「おてふき」と言うべきか悩んだ。なぜなら「おしぼり」というとタオル風のものを連想したため、このサイズのものも「おしぼり」に含まれるのか心配になったからだ。 それから、「おてふき」という単語からトイレを連想してしまったため、「おてふき」と言うのもためらった。トイレを連想しているときは、「おてふき=トイレ用品」という考えがぬけなかった。おてふき→ふき→ふく→トイレ、という連想。結局、「おしぼりは小さなサイズのものも含まれる」ということに期待して「おしぼりをください」と言った。 思い返してみたら、こんなにめんどくさいことを20秒くらいのあいだに考えていた。冷静になれば、「おしぼり」でも「おてふき」でもよかったと気づく。いや、そのときも気づいていたのだが、もしかしたら自分は「おしぼり」に対してとんでもない誤解をしている可能性を想定してしまった。

  • アメリカンコーヒーの注文に際して

    すべてのことがらにおいて、必ずしも「正しさ」があらかじめ存在しているわけではない。カフェのメニューに「アメリカンコーヒー」とある。それを「アメリカンコーヒー」と注文しなければならない道理はない。「アメリカン」と注文してもよい。メニューを指さして「これ」と言ってもよい。このような当然のこと(考えるほど当然かどうかはあやしくなってくるのだが)、つまり、「たったひとつの正しい注文方法がないこと」を認識すること。それは、言葉の曖昧さ、多様さを実感することである。 アメリカンコーヒーそのものを、文字通り「アメリカンコーヒー」という言葉で分断しようとすれば、アメリカンコーヒーを取り巻く言葉の香りは失われてしまうだろう。このような、「言葉の香り」というものが、私たちにさまざまなイメージを想起させる。すなわち、アメリカンコーヒーはポエジーにひらかれているのだ。もしかしたら、「手術台の上でのミシンと雨傘の偶発的な出会い」(ロートレアモン)のように、あらゆるものとアメリカンコーヒーとの偶発的な出会いが約束されているかもしれない。 だから、アメリカンコーヒーを「アメリカンコーヒー」と注文することは正しくない。アメリカンコーヒーを「チーズケーキ」と言って注文できる日も、そう遠くはないのではないか。

  • 未来に向けて

    以前から何回も書いているが、私は、子どもの頃目撃した両親の性行為の光景の衝撃に解釈を与えるために、「他人のセックスは気持ちが悪い」とか「子どもをつくることは悪だ」などと、恣意的な説明に頼っているように思える。つまり、自分が両親の性行為にショックを受けたのは、「他人のセックスが気持ち悪いから」であり、「子どもをつくることは悪だから」だと考えなければならなかった。これは自分なりの「幻想の構築」であったのだろう。 しかしやはり、自分の存在の起源を否定することは、自分を否定することになると思う。自己懲罰的にもなる。「自分は悪によって産まれてきた。だから自分には何事にも「資格」がないのだ」と。ただ、今はここでこのように書くことができるというだけで、現時点で幻想に縛られていることに変わりはない。むしろ、幻想が構築できたということに「うまくやった」と言うこともできるかもしれない。それによってそれが重度のトラウマとなることを回避できたのかもしれない。 大事なのはその先だ。これは本当にトラウマなのか、幻想なのかと考えても、答えは出なかった。たとえ「大丈夫。それは立派なトラウマだよ。よく頑張ったね」と言われたとしても、自己懲罰的な自分が邪魔をするだろうから。 いやむしろ、「外的対象に対してこのように向き合った」というその「向き合いかた」が、すなわち自分というものだった。それは神経症的な向き合いかただったかもしれないが、自分はそのようにしか向き合えなかった。それは自分らしさでもあり、自分の弱さでもあった。そのような「自分」を変えることは、私には難しいことだった。 過去と向き合う自分はきわめて強固であるから、それを根本から変えることはなかなか難しい。弱さや自己否定、自己懲罰も含めて。だから、それを糧にして──いや、糧というと何か「良きもの」のようであるがそうではなくて──それを携えたまま、未来に目を向けてみよう、と少しだけ思い始めた今日この頃である。

  • 映画と映像的記憶

    過去の鮮烈な記憶は、だいたいにおいて映像やイメージであることだろう。「誰それが誰それにかくかくしかじかのことをした」というような言語的な事態に先立って、映像的なイメージは、われわれの記憶を占領している。しかしながら、私たちは言語にとらわれるという運命を担っている。そのような鮮烈なイメージを、イメージそのものから引きはがし、言語化しなければ気がすまないのだ。 われわれの日常においても、つまり現在においても、映像的記憶は、私たちにときおり侵襲してくる。過去のいやな出来事が突然思い出されたりする。このようなとき、私たちはまずどのようにその映像的記憶に対処するだろうか。 まず大事なことは、このような映像的記憶の侵入は、阻止することができないということだ。それを忘れることはできないということだ。映像的記憶はわれわれのうちに土足で侵入してくるのだ。であるから、その映像的記憶を言語的に解釈するということを私たちはしがちである。つまり、「あの出来事はつまりこのようなことだったのだ」という暫定的な説明を、映像に対して付与するのである。 しかし、そのような言語的解釈には終わりがないようにみえる。なぜならば、与えられた説明に対して、映像的記憶は「説明の説明」を際限なく要求し続けるからである。それほどまでに映像やイメージというものは、私たちにとって強烈で理解しがたいものなのだ。 さて、ここで、映画と映像的記憶の関係について考えてみよう。つまり、映画をみるという営みと、過去の映像的記憶とのかかわりである。映画をみることは、過去の映像的記憶を呼びさますことでもあると思う。映画による映像的表現は、私たちの過去の映像的記憶とリンクする。しかしそのさなか、つまり映画という体験のさなかにおいては、映像は言語的な解釈や説明を要求しない。言語において「説明の説明」を無際限に要求したような強迫が、そこでは中断される。 以前の記事(→「エロティックな映画について」)において、「映画をみることはトラウマの治療ではないか」と書いたのは、このような意味においてである。言語化の不能におちいった過去の記憶や体験が、まさに今、映画をみるという営みによって、現在において再体験されるのである。そしてこのことは、映像的記憶に対して言語によってなされうる「説明の説明」など問題にならないほどの、説得的な説明であるのだ。

  • ロマンポルノ・リブート・プロジェクトを振り返って

    ロマンポルノを通して考えさせられたこと。それは、性、セクシュアリティに対して自分はどのように向き合うのか、向き合ってゆけばよいのか、ということである。 おそらく私は今まで、性の問題を重くとらえていたと思う。しかし、ロマンポルノにおける性は、どこか愉しさがあった。特に、最初の三作品ではときどき笑いをさそうシーンがあったことが印象的だ。それは、性を重くとらえすぎていた自分を、多少なりとも解放してくれるような愉しさでもあった。 しかし、性は依然として、私にとって不可解なものであることに変わりはない。『アンチポルノ』に両親のセックスの描写があったが、私にとっての性とはまさにそこ(自身の起源としての両親の性行為)に行きつくのだ。しかしそれは永遠に謎であり、恐怖であり、不安や嫉妬をかきたて続ける。 一方で、『ホワイトリリー』では、レズビアンの性が美しくえがかれていた。それは私にとって魅力的だった。なぜなら、レズビアンは〈不能〉であるからだ。出生、つまり自分の存在の起源へと結びつかないレズビアンの性は、その光景のただなかにあっては、つかの間の幻想を私に与えてくれた。

  • 精神より身体

    精神より身体

  • クロッキー 2016/2/13

    いつかのクロッキー

  • 『この世界の片隅に』〜生きることとは〜

    映画『この世界の片隅に』感想。

  • 夢日記5

    歯が砕ける夢

  • 不確かさを考える

    不確かさを考える

  • 実存的独白

    映画のレビューやエッセイを書いています。

  • エロティックな映画について

    エロティックな映画と性的トラウマ

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痙攣的な、あまりに痙攣的な
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