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2017/01/05

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  • (81)宇多の愛情深さにホロリ…

    凡河内躬恒は、宇多の子(305)だが、冷たくも宇多は認知しなかった。 しかし、(1067)の詞書には、その宇多が内々に認知したことが、読み取れる。 (1067)法皇西河におはしましけるに 猿山かゐにさけふといふ題を 「法皇が西河にいらっしゃる時、猿が山峡に叫ぶという題を(与...

  • (80)源氏物語は藤原氏物語?

    源氏物語の相関図を見ていて、ふと、光源氏が良房に思えてきた。あれほどの好色家の光源氏なのに、正式な子が夕霧しかいないことが不審だった。光源氏は良房ではないか。 良房には、明子しか子はいない。そして、父冬嗣(桐壺院)の妻大庭王の娘(藤壺中宮)に手を出して、良世(冷泉帝)が生ま...

  • (79)西行「願はくば」を掛詞で読むと

    西行は、1118~1190年、定家の親の世代だ。北家魚名を祖とする武人の家。平清盛と同時代の武士だったが、1140年(22歳)出家した。俊成とともに、新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人として生きたとある。何で生活していたのかわからないが、気品ある寂寥感に魅力がある。ど...

  • (78)道長「この世をば…」を掛詞で読むと

    このよをは わかよとそおもふ もちつきの かけたることも なしとおもへは この歌は、道長の歌とされるが、実際は右大将実資が自分の日記(小右記)に書き残した歌で、1018年、11歳の後一条天皇に道長の三女威子(18歳)が中宮になり、一家三后を果たした祝いの宴で詠われた。道長自...

  • (77)「枯野(からの)」という高速船

    古今集の和歌を解読する中で、初めて出くわす単語だった。「枯野」。「からの」と読み記紀に「枯野・からの」の表記がある。 ①日本書紀応神天皇五年冬十月 伊豆国に命じて造らせた。長さ十丈の船ができた。 試しに海に浮かべると軽く浮かんで速く行くことは、走るようであった。 その船を名...

  • (76)和歌は基本的に政治歌を隠す

    古今集からずいぶん下った家康の歌を見てみる。 朝日新聞の文化欄にピーター・j・マクミランさんが紹介している。 富士の山 みねの雪こそ 時しらね 落つる木の葉の 秋は見えけり ① ①富士山の季節に合わない峰の雪だが、落葉に秋はあらわれています この歌は、伊勢物語(9 から衣...

  • (75)忘れられた麦角、現代でも

    最近、「マフィンで食中毒」とテレビであったが、今度は学校給食で小麦に「カビ毒」のニュ―スがあった。マフィンで食中毒は、ちょっと考えられないですね。マフィンで賞味期限が二日とか、ありえない!と思ったのは私だけでろうか。おいしく食べる保障は、二日というのはわかるが、それ以後食べ...

  • (74)「魏志倭人伝」の「以北」は「以比」?

    岩波文庫「魏志倭人伝」を初めから読んで、最後に「隋書」に取り掛かり、ふと、奇妙なことに気がついた。「魏志倭人伝」で意味が取れない「以北」とされる「北」と「隋書」の「多利思比孤」の「比」が同じ形に見える。これは、読者一人ひとりが確認してほしいが、同じ漢字を使っている。そのよう...

  • (73)イザナギは男かー(2)

    古事記の最初の部分のはじめから、ちょっと、思う所を記しておきたい。イザナギが出て来るのは前回(68)で解説した部分が最初ではなく、その前に既に記述されているから、そんなこと言っても前にちゃんと「妹」と書かれていると思った読者がいると思う。 その矛盾を、違う解読をすることで解...

  • (72)陽成の撲殺事件の真相

    883年乳母の子源益が、陽成によって撲殺されたとされる事件。 当時、陽成は、13,4歳で益は、親しい遊び友達だ。元永本(938)詞書にその真相が語られていた。仮名序での二重詠みの如くであるが、すさまじい語句の変換に迫られた。小町の和歌だが、詞書は、小町が書いたわけではない。...

  • (71)行平の怨念

    (884)あかなくに またきも月の かくるるか 山の端にけて 入れずもあらなむ 業平 「まだ満足もしていないのに、早くも月が隠れるのだろうか。山の稜線が逃げて入らないでほしい(惟喬親王もまだここにいてほしい)。」 長い詞書のある業平の歌。 解説は省くが、この歌で、業平は、「...

  • (70)是忠親王は、皇位継承できず。

    (867)むらさきの 一本ゆゑに むさしのの くさはみなから あはれとそみる 「紫草が一本あると言うだけで、武蔵野の草は、全部が上品に見えることよ。」 説明は省くが、もう一つの意味は、 「一品である故に、光孝天皇の長男是忠親王は、いたわしいことよ。彼の母班子女王は(宇多天皇...

  • (69)秀吉も使った掛詞

    千利休の切腹に関して、一次資料を提示、解説してくれた。 中村修也著「千利休 切腹と晩年の真実」朝日新書 2019年 私は、利休の切腹はありえないと思っていたので、同論の本をみつけてうれしかったので、書いてみます。主な理由を三つ挙げます。 ①利休は商人。商人に(特別視したとし...

  • (68)イザナギは男か

    現在の多くの歴史論説は、一次資料を既存の読みで解釈して成立している。一次資料に立ち戻って点検をしてみることが必要であろう。そして、そのようにして古代史をよみがえらせようとした人がいた。 「まぼろしの邪馬台国」の著者、宮崎康平氏。アカデミアの人ではなく、経済人(島原鉄道常務...

  • (67)高子と善祐法師との情事

    高子は宇多期896年、東光寺座主善祐と密通したという疑いをかけられ、皇太后を外される。善祐は、伊豆流罪になった。宇多による高子の粛清だ。 拾遺和歌集巻第十五恋五(925) 善祐法師なかされて侍ける時母のいひ津かはしける なく涙 よはみなう見登 なりなゝん おなしなきさに...

  • (66)紫式部も二重読み

    古今集(909年)に続く、後撰和歌集(935年)、拾遺和歌集(984年)あたりまで、古今調は見られる。古今集の時代に生きた歌人の歌が盛られている。つまり、古今集に語られたように、正史にはない歴史が語られているとみると、この分野の再解読すべき歌の地平線が洋々として広がっている...

  • (65)万葉集(9) 莫囂圓…の試訓

    万葉集(9)は、定訓がない難読の歌とされているが、その前の歌(熟田津に…)は、斉明天皇が中大兄皇子に即位を期待して、彼女の葬儀を託す歌となっているから、それに関連しているとみて、試訓を探ってみた。 次のように、一、二句は五七と定型となっているから、万葉仮名だろう。万葉仮名は...

  • (64)天武は、孝徳の子

    前の記事で、天武の父とされる舒明は、異父ということが詠われていると解説したが、では天武の父は、誰か。 (692)の参考にした万葉集(1011)を解読して、わかったことを記しておきたい。 (1011)我屋戸之 梅咲有跡   告遣者 来云似有   散去十方吉...

  • (63)毒殺の危険は常だった

    古今集の歌の中には、万葉集の歌を本歌とするものがある。万葉集の歌の読み方を決定できる貴重なケースだ。読みだけでなく、その意味の理解の手助けにもなる。 (683)は、万葉集の歌(2798)の本歌取りで、この本歌を理解することで解読ができた。 (2798)伊勢乃白泉郎之 朝魚夕...

  • (62)密殺された健皇子

    元永本では、(649)の次に、(1108)が挿入されている。この歌は、万葉集巻11(2710)にある。内容から、説明は省くが、斉明天皇の作。「武力で重祚した」と詠んでいる。この歌に続いて、采女のかへしとして、(1109)の歌が挙げられ、「鸕野讃良の弟、健皇子は、鎌足の子で、...

  • (61)人麻呂の死

    (623)小野小町 みるめなき わか身をうらと しらねはや かれなて海人へ あしたゆくくる 説明は省くが、この歌意は、 「人麻呂は、天武の子と知られていなかったので、火葬にされなかった。妻は、首をつって自殺した。」 というものであったので、万葉集の彼の辞世の歌をみた。 万葉...

  • (60)新たな系図

    元永本古今集を解読するに、だんだんとその系図が明らかにされてくる。これからも新しい知見により、更新される可能性はあるが、今の時点でまとめる。 桓武ー平城ー嵯峨(母は乙牟漏)ー仁明ー光孝ー宇多ー醍醐 \淳和(母は旅子)ー文徳(母は順子)ー清和・・・陽成(業平と高子と...

  • (59)漢文からの影響

    掛詞の特性は、複数の文節を可能にする漢文の特性に由来する。 例えば、「伝不習乎」(論語)。二通りの解釈ができる。訓下すと、 ①習はざるを伝ふるか。→(自分が)習ってないことを伝えたか? ②伝えて習はざるか。→(先生から)伝えられたので、習わないのか? 構文の原則を守りながら...

  • (58)またまた再考「むすふての…」

    なんとも、何の参考書もなく、勝手な「こじ付け」解説を、再ゝ考してまた別の解読を。 和歌の名手の仕掛けた掛詞は、なんとも私の能力を超えて、底知れない。藤原俊成が激賞したこの言語操作、勿論彼自身も、闇の歴史に光を当てたかったのだ。 (404)しかの山こえに 石ゐの本にて 物云ひ...

  • (57)名前考-3

    名前は、名前でも地名を考えてみよう。地名は、昨今の市町村合併で、失われたり、新しい名前になったりで、その歴史性が断絶するのではないかと思われる例が身近にもある。 地名は、先祖が意味を持って名付けたもので、無形化石と呼ぶことができる。 (41)百済と新羅 でも解説しているが、...

  • (56)名前考-2

    元永本古今集(270)の作者名が「きのともひら」となっている。伊達本では、「きのとものり」と訂正されている。人の名前を間違えることはまずない。明らかに、この名には何か仕掛けがあるとみるのが、自然であろう。 その前に、歌を解読してみよう。 (270)露なから をりてかささむ ...

  • (55)誦文「あめつちほし」の意味

    春 あめつちほしそら 夏 やまかはみねたに 秋 くもきりむろこけ 冬 ひといぬうへすゑ 思 ゆわさるおふせよ 恋 えのえをなれゐて 藤原有忠という人が「あめつち」の48文字をそれぞれ和歌のはじめにおいて、源順(911~983年没)に送ったところ、順が、こんどは和歌のはじめと...

  • (54)万葉仮名は意味を引きずる-(2)

    このブログ(12)で、万葉仮名が音だけのはずが、掛詞で、その意味をも表すことを説明した。 漢字からその意味をたどることは、容易であった。しかし、その反対からさかのぼって漢字にたどり着くことは、至難の業。(or 勝手な解釈?) その一例を挙げたい。 かな序p.49 …いま こ...

  • (53)百済と新羅 -2

    光仁は、百済系の血筋を式家百川らの画策を得て、皇統を新羅系から奪還することができた。しかし、まだ、聖武の血筋を引く者がおり、桓武がその最後の血族を粛清して、一応百済系王朝を完成することができた。最後の犠牲者は、早良親王で、桓武の弟とされるが、(1118)に、井上内親王の子(...

  • (52)平安時代に梅毒はあった

    芥川龍之介の短編に「鼻」という話がある。今昔物語や宇治拾遺物語を出典とする鼻の長い僧の滑稽な物語で、この鼻は、どうして長いのか、現代での診断の解説を読んだことはない。ただ、単に面白い「長い鼻のおはなし」として、設定されたのだろうか。 ショッキングなことであるが、かな序を解読...

  • (51)芭蕉ルネサンス(2)

    前回「芭蕉ルネサンス」での妄想の続きをしてみた。 旅に病で 夢は枯野を かけ巡る 1694年「笈日記」 この句は、辞世の句ともいわれ、芭蕉が死の四日前に詠んだもの。 私は、一句「病で」に引っかかる。「やんで」と読まれるが何故、「病み(自四連用形)」としなかったのだろうか...

  • (50)芭蕉ルネサンス

    芭蕉は、元禄時代、伊賀の人で、「奥の細道」など、俳句を交えた紀行文を書き、それまでとは全く違う俳諧の世界を切り開いたと言われている。 「奥の細道」は、随身を伴って、江戸深川から、5か月の旅日記。 先ず、不思議に思うのは、その費用はどこから? 彼は、何の生産性もない俳句を作る...

  • (49)山上碑の漢文

    高崎市の上野三碑が、近年、世界記憶遺産に指定された。この石碑は、7C後半から8Cにつくられたことが、文面からわかる非常に古い貴重な遺物である。 その内、山上碑は、非常に短い漢文であるので、気づいたことを書いてみたい。 熊倉浩康著「上野三碑を読む」という、私のような初心者にも...

  • (48)皇極天皇50歳の子、真人の父は入鹿!

    かな序p.18に、皇極天皇が入鹿に犯されて(?)生んだ子が、真人であるということは明白であると読める一節がある(このブログを書いた時は、読めていなかった)。皇極50歳、入鹿33歳の子ということになる。ちょっと、信じられない生理現象でもあるので、日本書紀皇極3年(真人の生まれ...

  • (47)掛詞は続くよ、定家まで。

    かな序に書いたように、女文字で書かれた歌には、必ず掛詞があり、政治歌が詠まれているというのが、和歌の常識となる。だから、一字たりとも、いじると意味が取れなくなる。この和歌の常識が保たれるのは、定家の校訂本ができるまでということになる。 定家が生まれるころ、没した小倉百人一首...

  • (46)衣通郎姫の歌

    允恭天皇8年春2月に、衣通郎姫(そとおしのいらつめ)が允恭天皇を忍んで詠んだと、日本書紀にある歌。 和餓勢故餓 勾倍枳豫臂奈利 佐瑳餓泥能 區茂能於虛奈比 虛豫比辭流辭毛 わかせこか くへきよひなり ささかにの くものおこなひ こよひしるしも (我が背子が来べき宵なり、ささ...

  • (45)女装してなどいない「土佐日記」

    「土佐日記」は、「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」ではじまる。 小松英雄氏により、「女文字で」と解説された時、私は、こうした古典が完全には解読理解されていないことを知った。しかし、解説はここまでで、「男も、すなる日記」の「も」が、理解不能であった。日記は...

  • (44)名前考

    昔、人々は、地名、人名に意味をこめてなづけた。言霊信仰は、根強い。 再び、かな序に帰って、解読してみて、実感! 紀友則、貫之は、光孝天皇の子。清和期に起こった応天門の変で、伴氏、紀氏の粛清があり、清和は、光孝に頼み込んで、彼らの娘の救済(?)のため、後宮に入れてもらっている...

  • (43)枕詞「あしひきの」は百済出身の意

    枕詞「あしひきの」は、山、峰に係る。最も多く使われている枕詞であり、この「あし」は、足。名前にも多く現れる。例えば、斉明天皇の当時の諡号は、天豊財重日足姫天皇である。 「足」は、コリアンで「タリ」と発音され、二本脚のことを指している。橋という意味もあり、二股に別れた人の足の...

  • (42)さくやこのはな

    (41)で、百済と新羅との宿命的な争いをみたが、列島への進出と共に起こったことのようだ。もうこの東には、海しかない。しかし、覇権意識の強い彼らは、戦いをやめない。 口承で伝えられていたあの有名な歌は、5C頃王仁が、仁徳天皇即位を祝いで詠った歌というが、これも当時の争いを描き...

  • (41)百済と新羅

    平安時代までの政争は、どうも、新羅系と百済系の争いのようにみえる。 天武天皇は、新羅系。天智天皇は、百済系である。半島の民族の抗争は、複雑なのだが、極々単純化してみれば、その半島の抗争の果てに、敗残の支配層が、家来を引き連れて列島に避難して、この列島で支配の再構築をしようと...

  • (40)あのすばらしいかな序をもう一度。

    1100首を掛詞により、解読してみた。これは、「掛詞」で古今集は、作られているという私の仮説の証明でもある。それが、できたと思ったが、最初に解説したかな序の地の文を、掛詞で解読できていなかったことに気づいた。 余りに有名な書き出しで、その裏に、掛詞があるとは思いもしなかった...

  • (39)維斗のつもりの「伊都国」。

    古今集(1054)は、糸と名ありける男によそへていひける とはじまる。 糸=維斗(ゐと)、北斗七星のことで、天子の暗喩。 そう理解して、はじめて、この歌が、陽成の父としての立場が、「祚・天皇の位」に当たるのだが、業平は、その野望は持っていないと詠っているとわかる。 しかし、...

  • (38)承和の変後の童謡

  • (37)「雑歌」は、雑多な歌ではない。

    古今集は、春の歌からはじまる。万葉集は、「雑歌」からはじまる。 これを「ざっか」と読んではいけない。「くさぐさのうた」だ。古今集には、第17、18に雑部がある。 くさぐさ=日(くさ=天皇)・具者。 つまり、天皇とその取り巻きの人々が詠んだ歌ということだ。 今でも、苗字が「日...

  • (17-2)早良親王は、何故出家したか。

    (17)早良親王は、井上内親王の子? のブログで北畠親房「神皇正統記」に、式家百川が、井上内親王を招き込んで、その息子早良親王を出家させたとあると、私は書いた。 百川がどう説得したのか? 躬恒の(956)の歌にその答えがある。 (956)山法師のもとにつかはしける (凡...

  • (36)人丸は、従六位上。

    人丸は、かな序にある通り歌聖として、あがめられたが、六位と官位は低くその生涯は、多くの憶測に満ちている。伊達本では、定家は、彼を「正三位」としている。 (907)には、「此二歌は 或人云 柿下人丸かとそ云伝たる」の添え書きがある。(906)の歌と共に、作者は人丸というのだ。...

  • (35)升色紙にみる歌の不理解

    (34)で、拾遺和歌集が出された時は、歌の本意が理解されていたことをみたが、11世紀になると、書写からもその意が理解されていないことを説明したい。   写真は、升色紙の有名な古今集(613、作者は、清原深養父)の、伝藤原行成筆といわれるものを、私が臨書したもの。 い...

  • (34)拾遺和歌集にみる掛詞

    この歌集の冒頭に、壬生忠峯の歌がある。彼の歌は、評価高く、藤原公任は、作例の最高位にある歌としている。 (1)春立つと いふ許にや 三吉野の 山もかすみて 今朝は見ゆらん 春立つと=春(東宮、貞明親王)立つ(位に就く)と。 許=ばかり、許し。 三吉野の山=散(故)・吉野の山...

  • (33)脱字とされるが、掛字・万葉仮名から平かなへ-3

    秋萩帖のはじめ、二首の同じようにある脱字について解説したい。 ともに、一行目の一番下の文字が脱字とされる。私が臨書したのは、 下線部で、ともに文頭の掛字とみた。 ①安幾破起乃之多者以 あきはきのしたはい ▢都久以末餘理處悲 「都」の左側部分が「路」...

  • (32)歌聖・人丸の歌(2)「ほのぼのと・・・」

    冒頭の仮名序の解説をした時、人麻呂の(409)のこの歌を読めていませんでした。万葉集の歌は、その訓読から、検討しなくてはいけないのだが、仮名序には、平かなで表記してあるので、この手間が省ける。この表記の通りに詠んでいたということ。万葉集の全歌について、平かな表記をしてくれて...

  • (31)「よき人のよしとよくみて…」

    古今集は、掛詞に満ち満ちている。それは、万葉集から受け継いだものだ。そこには、おいそれと、理解できない掛詞の連続。 万葉集巻第1(27)を解読します。 詞書には、「天皇 吉野の宮に幸す時の御製歌」とあるから、679年天武天皇が作った歌。 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 ...

  • (30)漢字の威力・熟田津に船乗りせむと…

    (12)万葉仮名は、意味を引きずる でも言及したことであるが、漢字を万葉仮名として音として用いても、読者は、意味を忘れることができない。漢字は、意味を決定づける。 再び、万葉集の歌を取り上げて、その漢字の就縛から抜け出した、当時のインテリの歌を解読したい。 万葉集巻第1(8...

  • (29)業平が、文徳の母順子を毒殺

    (616)おきもせす ねもせてよるを あかしては はるのものとて なかめくらしつ おき=起き、息。 ね=寝、音。 よる=夜、寄る。 あかしては=明かしては、明し手(晴らした手段)は。 春のもの=情事のこと、→菱藻(砒霜)。 なかめくらしつ=眺め暮らしつ、中(胸中)・巡らし(...

  • (28)伊勢物語を掛詞で読むと…

    古今集の中に、業平の歌が30首も採られているが、その多くに長い詞書が添えられている。しかも、他の歌と比べられない程長い。同時代に、伊勢物語が知られており、業平は、私家集を残していなかったので、この優れた歌人の歌を引く時、伊勢物語からそのまま取ってきたように思える。 (404...

  • (27)「いろは歌」の意味

    古来、いろは歌は、いろいろな場面で使われてきた。初歩的、基本的な文字のラインナップで1,2,3のような記号のような使い方もあるし、「いろはも知らないで…!」などのいうようにも使う。また、その意味は、諸行無常の世界観を表していると思っていた。 いろはにほへと ちりぬるをわか...

  • (26)陽成天皇は、名歌人❣

    陽成天皇は、業平の子である。さすがに、歌もうまい! 業平の子の証明になるほどうまいと、思ってしまった歌を紹介します。 (1120)おちたきつ かはせになひく うたかたの おもはさらめや こひしきことを 「激しく流れる川瀬に揺れ動く泡沫は、恋慕っていることに思いをはせないので...

  • (25)陽成天皇は、業平の子。

    清和天皇の長男とされる貞明親王は、高子と業平との不倫の子であると暴露している歌がある。貫之が、「かな序」で絶賛した文屋康秀の作、(445)。良房が、源信を毒殺したとも暴露している(249)。 (445)二条后のまたみやすところと申ける時 かめにけつり花をさせるを よませたま...

  • (24)複数文字の脱字-3 (436)の場合

    巻第10 物名(436)には4字の脱字があるとされ、定家は、「あたなる」を補って入れている。 (436)さうひ つらゆき われはけさ うひにそみつる 花の色を ものと 云へかりけり 「私は今朝初めて見たが、世間で珍重しているこの花の色をあ...

  • (23)俊成が激賞した「むすふての…」

    藤原俊成(1114~1204没)が、絶賛したという貫之の歌がある。「…大方すべて詞ごとのつづき、姿、心、限りなく侍る成るべし 歌の本体は ただこの歌なるべし」 果たして、俊成は、この歌をどう解釈していたのだろうか。元永本が書写されたのが、1120年。このころは、歌の本意は、...

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貫之のこゝろ・私の元永本古今和歌集
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