chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
平成うきは拾遺集(しゅういしゅう) https://blog.goo.ne.jp/hasami18

筑後川を見渡す草庵。河畔の木々に野鳥飛び交い、鳴き声に目覚めては流水を眺めて暮らす。日々の想念、里の

平成うきは拾遺集(しゅういしゅう)
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2016/07/23

arrow_drop_down
  • 庭のサンシュ開花

    庭先のサンシュが開花しました。庭のさんしゅうの木/鳴る鈴かけ・・・宮崎県椎葉地方で歌われる「ひえつき節」のあのサンシュです。平家の落人伝説、那須大八郎と鶴富姫の恋物語を思い出しました。中国原産で、「サンシュ」の名は漢名の「山茱茰(サンシュユ)」に由来するのだそうです。日本名「ハルコガネバナ」。この季節に黄金色の花をつけることから与えられた名前です。植物学者の牧野富太郎が漢名に対する呼び名として提唱して定着したようです。日本人としては「ハルコガネバナ」を使いたいですね。漢方薬としても様々な効能が列挙されていました。薬草としても貴重な存在だったようです。庭のサンシュ開花

  • 筑後うきは 苫屋のひな飾り10景

    新型コロナの感染もなく、おぞましい侵略戦争の恐怖と悲惨もない平和な時代以来、ほぼ7年ぶりのご開帳です。ごくありふれた田舎の庶民の家のお披露目。商家のような大広間もなくご覧のように質素な分散陳列です。第1景第2景第3景第4景第5景第6景第7景第8景第9景第10景筑後うきは苫屋のひな飾り10景

  • オリビアを聴きながら

    オリビア・ニュートンジョンが亡くなりました。73歳。早い。現実の後半生は乳がんとの長い闘病でした。「愛は果てしなく」の切れ味のいい歌声、キュートで妖精を思わせる容姿。82歳の老生は自分の若い頃のイメージを重ねています。懐かしさとの惜別。レコード棚をさがしてアルバム「さよならは一度だけ」(1978年発売)を聴いています。英国デビュー後、アメリカに渡って「愛の告白」が全米1位の大ヒットとなりグラミー賞に受けたのは74年でした。人気と成果をひっさげた日本への初ツアーは2年後。東京・武道館、大坂・フェスティバルホール、そして福岡・九電記念体育館でした。1976年12月6日。わたしは最終公演、九電記念体育館にいました。そのころ人気絶頂だった松山千春の公演会場がいずれも超満員だったのに比べて、7割ほどの入りだったこと...オリビアを聴きながら

  • 置かれた場所で咲きなさい

    蓮の花は仏教で極楽の花とされています。六つの集落から成る三春地区のはずれ。ときおり訪れる子どもの釣り客以外に関心が払われることのない溜め池に毎年この季節、こつ然として蓮の花が出現します。麗しい輪廻に気がついて十年以上になりますが、ことしもご覧のような「楽園」を演出してくれました。目測で広さ約1・5平方キロ。手入れの行き届いた寺院や公園の蓮園とちがい、ここを生息地とする雑木、茅(かや)、水草などの中で遠慮しながらの風情がいじらしく、修道女の渡辺和子さんが自著のタイトルとして残した標記のことば、「置かれた場所で咲きなさい」と重ねたくなるのです。おかれた場所=自分の居場所、咲きなさい=幸せになりなさい、というメッセージと解されています。若い農業の働き手が多かった時代には地域の農業用水としてかけがえのない命の水だ...置かれた場所で咲きなさい

  • 「匿顔」・・・造語、新語はめずらしくありませんが。

    トクガンとでも読むのでしょうか、「匿顔」ということばがあることを知りました。コロナ禍の社会の、マスクをつけた顔、顔、顔を象徴して考案されたようです。小学館の国語辞典・大辞泉が新語の月間賞に選んだのだとか。きょうの読売新聞朝刊のコラム編集手帳に教わりました。「匿」は、隠す、かくまう、または隠れるなどを意味する漢字です。よく知る熟語として匿名があります。本名を他人に知られないための別の名前のこと。連想するにマスクをつけた顔は本人の認証をはばかる別の顔ということなのでしょう。時代や世相を反映したことばには違いありませんが、権威ある国語辞典に掲載されるとなると、考えてしまいます。コラムは、大作家の谷崎潤一郎が『文章読本』の中で安易な造語を戒(いまし)めたことを紹介していました。チーズのことを「乾酪」「唾壺(だこ)...「匿顔」・・・造語、新語はめずらしくありませんが。

  • うきは市買い物券 3連続落選

    夫婦で申請応募していた令和4年度プレミアムうきは市買い物券の「落選通知」が数日前にありました。夫婦そろって3年(回)連続のみごとな敗北でした。買い物券は、市内の指定の商業施設を利用すれば、1冊10,000円で実質12,500円の買い物ができるとてもお得な金券で、ひとり5枚(5万円)まで申し込むことができます。夫婦で上限の10冊、10万円を投資して12万5000円分の買い物が出来るはずでした。とんだ、捕らぬタヌキの皮算用を夢見ていたようです。地域買い物券は、過疎化が進む地域の商工業振興策として各地で盛んです。発行形態はそれぞれだろうと推察しますが、住民の税金が投入されることに違いはないと思います。この地では商工会が取り仕切っているようです。地域商店街の支援と市民の福利として公金の助成があるのでしょう。発行枚...うきは市買い物券3連続落選

  • オンブラ・マイ・フ(緑の木陰)

    九州北部、中国、近畿地方・・・昨日(28日)の梅雨明けとともに日本列島はほぼ雨季が明けました。「統計がある1951年以降、最も早い」、「6月中の梅雨明けは初めて」、というコメントもさることながら梅雨の期間がわずか14日~17日間だったという気象庁発表の数字には心底驚きました。熱波が日本に吹き込み、電力危機が伝えられる中で水不足への懸念が一気に広がります。水不足解消を台風雨に神頼みしなければならないとは。気候変動の実感でもあります。中流域の筑後川。北東に面して構築されたコンクリートの台座(テラス)、その上に建つ草庵。避暑地と言えば大げさですが、わが家のオンブラ・マイ・フ(緑の木陰)です。足下を流れる筑後川の河川敷から育ってこの威容。大雨で増水すると河川敷はあふれ、コンクリート側壁はそのまま防波堤の役割をつと...オンブラ・マイ・フ(緑の木陰)

  • ヤマセミのファッション全集

    新年初見参!!わが友チッチ・カワセミ君は寒中、ますます元気です。久しぶりにカメラを構えました。動画がアップできなくて残念!!きょうはファッションで勝負です。ヤマセミのファッション全集

  • イカル参上

    日本列島の東国、北国では大雪が報じられています。ここ九州は大分県に接する福岡県南東部、筑後川中流域の1月14日。快晴のもとの冷気が凛冽な朝、イカルのグループが参上しました。体形に余る大きく頑丈そうな黄色のクチバシでアピールします。その数は2,30羽。3メートルほど離れた室内から窓越しのスナップです。奈良県・斑鳩の里にちなんでこの名前があると伝えられています。法隆寺などの古刹が多いこの地にはその昔、この鳥が多かったようです。野鳥図鑑によりますと、好物は木の実、豆類、虫類。独特のクチバシと強力な頬の筋肉で堅い実も平気なようです。そのとおりに15分余りの逗留ののち、ヒヨドリに追い立てられましたが、木の幹をつつき、木の実の残り物をせっせと食べていました。イカル参上

  • 香取慎吾氏(44)の慶事と発表分の破廉恥さ

    芸能人の事情には疎い者ですが、SMAPというかつて存在した歌のグループは知っています。香取氏がそのメンバーだったことももちろんです。最近は丸刈り頭、引き締まった表情で登場する同氏をテレビでよく見かけます。なんでもロンドン軍縮会議に臨む日本海軍の山本五十六提督を主役として演じるのだそうです。今朝配達されたスポーツ紙に「年末サプライズ」として、同氏の結婚ニュースが大きく報じられていました。〈お相手は交際約25年の2歳年上の「一般」の女性〉とありました。ファンにとってはサプライズであり、筆者とてとても目出度いことだとの思いでした。記事を読み進み、愕然としました。婚姻届けの提出を済ませていることを併せて明らかにした所属事務所の発表文です。「先日、香取慎吾が入籍の届け出をさせていただきましたことをご報告させていただきます...香取慎吾氏(44)の慶事と発表分の破廉恥さ

  • ツバメ、再び家出

    お騒がせのツバメの赤ちゃん、鳴き声にならってピーノスケと名付けます。1回目の行方不明事件で無事に発見、保護したものの、昨日昼過ぎに様子を見に行くと籠はもぬけの空になっていました。前回の事件は不可抗力だったかも知れませんが、今回は本気の家出?巣立つにしては飛翔の能力も未熟。周囲をさがしても見つかりません。現状では自分で餌をとることなどできないだろうし、雨の中で野垂れ死にか、と心配な一夜を過ごして・・・。朝、屋敷内を見回ると庭の薔薇の細い枝にしがみつき、風に揺れている姿を発見しました。きょうだいたちがいる巣から約10メートル。急ぎカメラを構えながら、親が目配りできる範囲内だろうと、安堵。数分後、黄色い口を大きく開けて動きが激しくなりました。餌をくわえた親鳥の気配を感じたのでしょう。親鳥がカメラの視界に入りました。空...ツバメ、再び家出

  • 4畳半に5人の子だくさん

    コンクリート造りの地下室天井にある中古のツバメの巣です。5,6年前のこの季節にツバメが訪れるようになって新築されました。どういうわけか営巣は数年おき、ことしは当たり年でした。親ツバメがせわしく出入りしてしていたかと思ったらいつの間にか子ども5人の大家族になりました。こぼれ落ちるのは時間の問題と思っていたら・・・。今朝、1羽が土間にうずくまっていました。ついにこぼれ落ちたようです。捕まえようとしたら1メートルほどですが羽ばたいて逃げようとします。現状ではまだ、独立・自活は無理のようです。籠に入れて巣の近くに吊り下げました。親たちの目が届くように。親ツバメが来たようです。救助作戦はどうやら成功しました。巣立つのも間近でしょう。4畳半に5人の子だくさん

  • スポーツ報知新聞50,000号記念/長嶋さん「 2020年日本シリーズ勝つ勝~つ!」の檄

    新聞の発行歴史を表すのに「紙齢」という言葉があるそうです。2020年(令和2年)11月18日、報知新聞(スポーツ報知)は当日付の新聞で発刊以来の紙齢が5万号に達したことを報じていました。長嶋巨人軍と王ダイエー・ホークスの世紀の対決が実現したのは西暦2000年。ミレニアムの奇跡と言われた夢舞台から20年、ことしはきしくも原ジャイアンツと工藤ホークスが激突する宿敵対決が21日に始まります。ジャイアンツの機関誌を自任する報知新聞の5万号を寿いで誠にふさわしく、長嶋さんの標題の檄が1面を飾っていました。前島密という名前をご記憶でしょうか。日本の郵便制度を確立した、明治の重要人物のひとりです。報知新聞は前島のアイディアと支援で明治5年に「郵便報知」の題字で発刊されました。飛脚から郵便へ。そしてかわら版に代わる新聞の創刊は...スポーツ報知新聞50,000号記念/長嶋さん「2020年日本シリーズ勝つ勝~つ!」の檄

  • 佐藤慶太郎(1868ー1940)《『西方の風~九州ひと図鑑』》(40)

    富ミテ死スハ恥辱ナリ。切望されて近代日本にはじめて実現した常設美術館。財政難の東京府に代わって個人財産をポンと差し出し、美術愛好の国民に東京府美術館(現・東京都美術館)をプレゼントした筑豊・北九州の炭鉱経営者である。大正7年といえば鈴木三重吉が主宰する児童文芸雑誌『赤い鳥』が発刊され、中山晋平、北原白秋ら民間芸術家による童謡運動が産声を上げた年である。<美術館の如きは一国の国立建造物として欠くべからざるものである。例えば一家に床の間が必要なると同様であって是れ無くては一国の体裁をなさないと言える・・・>―美術館の早期建設を切望する洋画界の重鎮・黒田清輝の訴えが東京の読売新聞に掲載されたのは大正7年12月21日のことである。黒田をはじめ、岡倉天心、横山大観ら美術家、美術愛好家の明治以来の悲願であった。日本社会にも...佐藤慶太郎(1868ー1940)《『西方の風~九州ひと図鑑』》(40)

  • 小村寿太郎(1855ー1911)《『西方の風~九州ひと図鑑』より》(39)

    ポーツマスの日露対決で示したサムライ外交の真髄帝国主義とは19世紀中葉の新語である。「自国の勢力や領土の拡張を目的とする侵略的政策」(日本語大辞典)と定義されている。明治日本がデビューした舞台は欧米の先進諸国が世界を分割支配する植民地帝国主義の最盛期にあった。弱肉強食の渦中にあった国際社会に飛び込んで、小国の課題はとりわけ外交問題に山積していた。関税自主権の回復や治外法権の撤廃など幕末に列強相手に強いられた不平等条約改定の格闘に始まり、国家の命運を賭した日清・日露の戦争を経験して「一等国」にいたる歴史の一時代を外交でけん引したのが小村寿太郎であった。出自である日向国飫肥藩(おびはん)小藩ながら幕末の大儒・安井息軒を輩出してすぐれた藩校があった。小柄で病弱な体質だったが、漢籍諸本によみふける寡黙で気質剛直な少年は...小村寿太郎(1855ー1911)《『西方の風~九州ひと図鑑』より》(39)

  • 渋野日向子さんの21年間は、‶すごい人生〟だったのか

    「すごい人生が変わった瞬間。本当に1週間で芸能人になったような感じ・・・」。全英女子オープン大会にのぞむプロゴルファー渋野さんの現地での公式会見、昨年の優勝を回顧した言葉が19日のスポーツ新聞に出ていました。この発言が自身の正真のことばだったという前提で書きます。世界的に名が知られるようになった人物の、大きなイベントを前にした記者会見でしたのでその日本語が気になりました。「すごい人生が変わった」ということばです。日本語の文法と標準的な用法どおりに解釈すれば意味はこうなります。「わたしのすごい人生が優勝を契機に一変した」。しかし実際は、「わたしの(ごく普通だった)人生が優勝を契機に一変した」とおっしゃりたかったことは明白です。ややこしさの原因は「すごい」という形容詞の誤用にありました。形容詞は名詞を修飾するのはど...渋野日向子さんの21年間は、‶すごい人生〟だったのか

  • 拾遺集 こっちの水はあまいぞ!甲虫類大集合

    ヤマセミの楽園としてご紹介したわが家の‶自然公園〟です。長い梅雨の期間を経て夏場に入って訪問回数が減り、寂しく思っていました。ときおり、他の鳥たちの鳴き声に交じって「チッチー」の美声を聞くこともありますが、繁みの陰で姿が見えないのが残念です。しからば、甘い水ではなく、甘いエサで誘惑してみようとメロンの皮を置いてみました。ときを経ず現れたのはなんと・・・。甲虫類の仲間たちでした。これまでもカブトムシの数種類が現れることがありました。主役の出現を期待したのですが、1時間もすると驚くほどの光景でした。甲虫類大集合です。よほど甘いものが好物と見えます。肝心の主役のお出ましはまだですが、高貴な方は好みも違うのかしら・・・。代わりにと言ったら失礼にあたりますね。モンシロチョウをはじめ、優美な蝶の仲間たちも入れ替わり立ち代わ...拾遺集こっちの水はあまいぞ!甲虫類大集合

  • 拾遺集~ツバメの巣立ち間近

    筑後川に面した拙宅は対岸から眺めると、あたかもコンクリート要塞の上に建っていかの如しです。川が増水すると、川にせり出した形でのり面を覆うコンクリート壁面は増水するとそのまま堤防、その内側が地下室です。90㎡余の広い地下室の一角の巣にツバメの抱卵を確認したのは6月26日のことでした。ツバメの生態はこれが普通なのか3羽の親が交代で餌を運んでⅠか月余りこんなになりました。</span>拾遺集~ツバメの巣立ち間近

  • 拾遺集 ウイルス禍に思う。日本人の品性は本物か

    人間の品性の本質は、自身の危機を実感したときにのみ表れます。新型コロナウイルス禍にある現在の世界はその情況です。感染者に対する誹謗、あまつさえ過酷な状況の中で未知の感染症と日々、戦っている医療従事者に対する差別や中傷がニュース報道に絶えない現実。残念なことに日本人の品性に対するリトマス試験紙の適格な判断と筆者には思えます。新型コロナウイルス感染は本人が悪いのか―このような問いかけに対する意識、国際調査の結果が過日の読売新聞に報道されていました。「感染者悪人」を意識として持っている人が日本人は欧米人に比べて圧倒的に多いという結論でした。日本などよりも一層過酷な状況にある中、欧米でいちはやく医療従事者に心よりの感謝とエールを送ったかの国の人たち行いが報道される一方で、この国では前記したとおりの感染者差別・非難がごく...拾遺集ウイルス禍に思う。日本人の品性は本物か

  • 広瀬淡窓(1782ー1856)《『西方の風~九州ひと図鑑』より》(38)

    学問ヲ授クルハ天命ナリ。九州の地図を開いて日田盆地(大分県)を中心に同心円を描き、この地が筑後川の本・支流を集めて九州の中部、北部を地域を包み込む‶同心軸〟であることを確認する。俯瞰すると瀬戸内海、玄界灘、有明海の水運との連携が可能であることを想像できる。山地に孤立しているように見えながら、街道や舟運が発達した江戸中期以降、交通の要衝となる地勢にあった。九州の幕府直轄地あわせて15万石を管轄して祖税の徴収や訴訟など民治を司る西国郡代として繁栄した。天領・日田。外圧と変革の予兆を背にする俊秀に時勢を超える真理を説いた広瀬淡窓(ひろせたんそう)と私塾・咸宜園(かんぎえん)の奇跡の舞台であった。淡窓は甲斐の武田武士を遠祖とし、代官所や諸藩の経済活動に深くかかわる日田広瀬家の長男に生まれた。幼児期より求馬(もとめ)など...広瀬淡窓(1782ー1856)《『西方の風~九州ひと図鑑』より》(38)

  • 拾遺集 ~ ヒヨドリ 親子の愛情

    鳥籠の中にヒヨドリのヒナがいます。9日の朝、ヨチヨチ歩きもままならい様子で庭木の下で途方に暮れていました。巣立ちにはまだ早い。木の上の巣から誤って落ちたらしい。カエデ、ウメ、マツ、サザンカ・・・周りのめぼしい木に巣を探しましたが見つかりません。野良猫が徘徊します。籠に保護したところです。ヒヨドリ。羽毛の色彩がひどく地味、おまけに大食漢です。小鳥のために設けた餌箱のミカンなども、先客のメジロなどを蹴散らしてあっという間に平らげてしまいます。要するにわが家では歓迎されていません。容姿のアピール係数のランクは幼いヒヨッ子とて同じですが、鳴き声のチィー、チィーは赤ん坊です。かわいい!。気づくと、庭木のあたりが騒々しい。この子の親でしょう、つがいのようです。縁側から外に出して親子の面会、差し入れの便宜を図りました。赤ん坊...拾遺集~ヒヨドリ親子の愛情

  • 若山牧水(1885-1928)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(36)

    「長崎の鐘」をはじめ、数々の名曲を残した作曲家・古関裕而の生涯を描くNHKテレビ朝のドラマ(2020年)が好評です。同じ九州とかかわりの深い「白鳥の歌」は、この才能豊かな作曲家が牧水の3首に旋律をつけて藤山一郎&松田トシにより歌われました。美しき抒情の極みは日本を代表する歌曲です。本記冒頭の「幾山河越えさり行かば・・・」は3節目の歌詞として使われています。我ハ即、詩歌ナリ幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく酒を愛し旅に憑(つ)かれ、一抹のかなしみを裡(うち)に魂は漂泊する。22歳の若山牧水が中国地方山地の峠道で詠んだ。第一歌集『海の声』に収められ、永眠の地・静岡県沼津市に建立された第1号歌碑に刻まれた。「かなし」「さびし」を主調として生涯に詠んだ8700余の歌の一つである。以来、牧水歌碑は全国3...若山牧水(1885-1928)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(36)

  • 野村望東尼(1806-1867)《『西方の風~九州ひと図鑑》』(34)

    一級の女性文人、勤王歌人に非ずー面白キ事モ無キ世ヲ。郷土の歴史上の人物について問われて、野村望東尼(のむらもとに)は福岡市民があげる名前の、おそらくは十指にはいる。しかし、大方の人が想像できる人物像は、「平尾山荘の勤労歌人」という輪郭にとどまる。高杉晋作や平野國臣らとの親交、さらには福岡藩による勤王攘夷派の粛清のあおりで姫島(福岡県糸島市)に流罪になった事情を説明できれば相当の知性であろう。望東尼の遺稿、残された文書をよみとく地道な手法でより維新史観で強調された「勤王歌人」を矯正し、「時世の記録者」「一級の文人」としての実像を彫出する作業が進行中であることを小河扶希子氏の著書『野村望東尼』で知った。福岡藩士・浦野重右衛門の二女に生まれて幼名は本(もと)、あるいは元(もと)といった。後年、得度して「望東(もと)」...野村望東尼(1806-1867)《『西方の風~九州ひと図鑑》』(34)

  • *拾遺集* コロナウイルスは猫同士で感染する。猫から人へも?

    新型コロナウイルスに関連し、昨日の夕刊を広げてとても気になる記事が目に留まりました。コロナウイルスの感染が猫の間で広がる可能性があるという、東京大学医科学研究所などのチームの研究成果の論文です。アメリカの医学誌に掲載されて、研究成果の確かさに疑いの余地はなさそうです。実験は、新型ウイルスを鼻などから感染させた猫と未感染の猫とで3組のペア―を作り、それぞれを同じケージで飼育する方法で行われました。その結果、どうなったか。2日~5日後には3組とも未感染だった猫の鼻からウイルスが検出され、感染が確認されました。そもそも人類のウイルス禍は人が動物を身近に飼うようになって始まったと言われます。そして、人と愛玩動物との「濃厚接触」は核家族化や高齢化が進んでいる現在、日本に限らず世界中で歴史上最も心配される状況にあります。わ...*拾遺集*コロナウイルスは猫同士で感染する。猫から人へも?

  • 拾遺集*スーパー・ボランティアとコロナ

    コロナ禍で国民ひとしく呻吟するなか、尾畠春夫さん(80)の暮らしぶりと前向きな心の持ちようが、きょう5月13日の読売新聞(西部本社版)に紹介されていました。「コロナに思う」というインタビュー記事です。全国の被災地に出向いて復興支援の活動を行い、献身的な働きぶりから「スーパー・ボランティア」と、メディアで評判になったあの方ですが、居ずまいを正してマスメディアの取材に応じることはめったにありません。購読者だけで独占するにはもったいないと思い、ご紹介することにしました。コロナ禍のご自身の活動への影響について述べておられます。長年の願いとして4月にも始めるつもりだった沖縄県の戦没者遺骨収集。今年は断念せざるを得なかったことを第一に挙げ、最近は人の少ない地元の海岸で以前から取り組んでいるペットボトルの収集を続けているそう...拾遺集*スーパー・ボランティアとコロナ

  • 杉田久女(1890-1946)《『西方の風~九州ひとずかん』(山﨑潔著)》より(35

    女流の俳句を切り拓く格調高キ心ノ叫ビ困難と激動を経験した明治、昭和にはさまれて大正時代は自由主義的な風潮の中で新しい文化が花開いた季節であった。大正デモクラシー、大正ロマン・・・鈴木三重吉によって児童文芸誌『赤い鳥』が創刊され、文部省唱歌とは趣を異にした民間芸術家による新しい子供の歌曲「童謡」が誕生した。詩人の北原白秋、西条八十、野口雨情たち、作曲家では山田耕筰、中山晋平、本居長世たちの活躍である。15年の短い期間ながら陽だまりの情調を想像して特別の憧れがある。女流俳句を近代文芸に刻んで先駆となった杉田久女が句作を始めたのこの季節、大正5年(1916)であった。平成28年(2016)はそれからちょうど100年、波乱の生涯を閉じて70年の年だった。杉田久女は「ホトトギス」の高浜虚子を師としてその長寿を願い、菊の花...杉田久女(1890-1946)《『西方の風~九州ひとずかん』(山﨑潔著)》より(35

  • 中村天風(1876-1968)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(34)

    積極思考の勧めイツモ心ニ太陽ヲ。どれほどの人が知っているのか。あるいは知らないのか。「心身統一法」と、創案者の中村天風(なかむらてんぷう)のことである。大正、昭和と政財界はじめかくかいの著名人に信奉する人が少なからず、名前を挙げれば東郷平八郎、原敬、双葉山、松下幸之助・・・などなどである。現代の‶信者〟も絶えないという。宇宙のいとなみに調和することで生命力を養い、心と体の健康を実現する実践の哲学と説明されても凡夫には理解を超える。「ヨガの修業から得た心身鍛錬の体系」と、注釈なしに言ってしまえば、世に氾濫する通俗的な健康法と並べて想像されよう。とりあえず言えることは、日本では明治から大正に移り変わる時代にヒマラヤの第3高峰のカンチェンジュンガの麓の村でインド人の行者のもとで徹底したヨガ修業に心身を置いたこと、3年...中村天風(1876-1968)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(34)

  • 徳冨蘆花(1868-1927)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(33)

    蘆花(あしばな)ノ見所ナキヲ愛ス。「紅涙を絞る」ということばがある。用例は明治期に多い。悲しみのあまり涙が血に染まるという比喩は過激でも、「美しい女性の涙」というもう一つの意味を含め、時代の気分をまとって語感が美しい。小説を書く動機を「読者の涙を誘うこと」と公言したのは『金色夜叉』の尾崎紅葉だが、徳富蘆花は『不如帰(ほととぎす)』で満天下の婦女子の紅涙をしぼらせてベストセラー作家になった。明治30年代のはじめである。蘆花が五つ違いの兄・蘇峰とともにふるさとが近代日本に送り出した偉人であることを肥後人で知らない人はいないと思う。水俣の大庄屋・代官を務めた家系で、父・一敬は横井小楠の高弟。兄弟で学んだ熊本洋学校、同志社英学校(同志社大学の前身)で欧米文化やキリスト教に感化されるのに、小楠に通じる開明思想の下地が少な...徳冨蘆花(1868-1927)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(33)

  • 辰野金吾(1854ー1919)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(32)

    東京駅の設計者建築ハ美術ナリ。赤レンガの巨大なパノラマに白いストライプ。東京駅は近代日本を象徴するモニュメントであり首都の顔である。西洋のモダンとロマン、そして郷愁と懐かしさ。中央塔を中心に全長335メートルの両翼にドームを配した意匠は、翼を広げて皇居を拝する鳳凰である。昭和の戦争の傷跡を応急補修したままの仮装でときを過ごして2年前に復元され、失われた容姿がよみがえった。今年は折りしも壮健100周年になる。全国の都市に記念碑となる建物を残した辰野金吾の晩年、大正年の作である。安政元年。欧米という別世界の存在やその圧力を不安に感じ、確固として自明と思っていた社会のゆらぎが庶民にも自覚されるようになった幕末。佐賀・唐津藩士でも足軽よりも低い家格に生まれている。未知への雄飛を決意したのは藩の英学校に招かれていた高橋是...辰野金吾(1854ー1919)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(32)

  • 種田山頭火(1882ー1940)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より

    鐵鉢(てっぱつ)ノ中ニモ霰(あられ)行乞、漂泊を想念することなしに棚田山頭火を想像することは難しい。法衣をまとって一笠一鉢(いちりゅういっぱつ)。昭和15年に没した俳人が共感をもって振り替えられるようになるのは戦争と敗戦、戦後復興を経て昭和も40年代に入ってからであった。高度成長の歪(ひずみ)に対して感じる漠然とした現代人の違和と表裏し、近代と文明への疑いを携えて規範や秩序を凌駕して生きた俳人の生は新たな生命(いのち)となった。「水の流れるやうな自然さ、風の吹くやうな自由さ」(『行乞記』)。無機の色合いを濃くする人間社会の心の孤影に共振して句の味わいはいよいよ深まる。分け入っても分け入っても青い山行乞とは仏僧にいう托鉢(たくはつ)、つまり物乞いのことである。家が立ち行かなくなって妻子を捨て、出家得度した禅寺。山...種田山頭火(1882ー1940)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より

  • 斎藤茂吉(1882-1953)《『西方の風~九州ひと図鑑(山﨑潔著)》より(30)

    100年前のスペイン風邪の犠牲者は地球上で5000万人におよんだ。疫病の猛威は日本も例外ではなく、歌人の斎藤茂吉は長崎医専教授として赴任した長崎時代に感染して生死の境をさまよったという。歌人で細胞生物学者の永田和弘氏に学んだ(4月25日・読売新聞)。感染前と感染後に詠んだ歌が紹介されていました。前作のゆとりと切迫感の漂う後作が感染症の恐怖を伝えています。寒き雨まれまれに降りはやりかぜおとろえぬ長崎の年暮れむとすはやりかぜ一年(ひととせ)過ぎ来しが吾は臥(こや)りて現ともなし医業トノ兼務長崎ト港ト鐘ト歌ゴコロ。長崎の鐘の永井隆博士が学んだ昭和初期の長崎医科大学(長崎大学医学部の前身)は短歌文芸の活動がことのほか盛んであった。大浦のすらんす寺の頂(むね)高く黄金の(こがね)の十字架ひかりけるかも日本のキリスト教史を...斎藤茂吉(1882-1953)《『西方の風~九州ひと図鑑(山﨑潔著)》より(30)

  • 拾遺集 カワセミ殿下 本日はヒット&ヒット&アウェイ

    朝から雲に覆われた福岡県南東部のこの里。晩春には少々過ぎていると思われる冷気でしたが、わが友、カワセミ殿下はにぎやかにお出ましでした。個体の識別はできませんが、同伴で現れることが多い2羽とは別に、マイペース王子の1羽も時間差でご機嫌伺いに来てくれました。いつものように窓ガラスに向ってヒット&アウエーのお遊び競演でした。本日はその姿を中心に。閑話休題日本の新型コロナウイルスも情況は深刻さを増しています。国民同士のいがみ合いが不安と鬱積の世間を一層うっとうしく、暗くしているように思います。自粛の呼びかけが始まって半月余りだというのに。マスメディアやテレビのコメンテーターはひたすら政権リーダーの上げ足を取り、感情的な批判を繰り返して留飲を下げます。庶民は庶民で感染者を非難してその対象に医療労働者まで巻き込みます。これ...拾遺集カワセミ殿下本日はヒット&ヒット&アウェイ

  • 川上音二郎(1864-1911)《『西方の風~九州ひと図鑑』》より(28)

    近代演劇ノ開拓者(臨終ノ床ニアリ)「イザ、我ガ劇場ノ舞台」ヘマダム貞奴は日本橋の両替商・越後屋の娘として生まれた。生家の没落で神田葭町(よしちょう)の芸妓置屋の養女となった。「貞奴」は、本名の「貞」と芸妓の世界では伝統ある「奴」の名をもらっての襲名である。才色を兼ね備えて芸にすぐれ、伊藤博文ら名だたる政治家や著名人の贔屓(ひいき)を得て日本一の芸妓となった。川上音二郎夫人にして日本初の女優。こんな言葉を残している。「役者になるとわかっていたら川上と結婚はしなかった。本人も政治家として立つ決心で、立派な政治家にしてやりたいと、わたしの方こそ一心でしたよ。代議士選挙で2回も負けて、そのための手段だった芝居が本筋になってしまった」。夫唱婦随で近代演劇のパイオニアとなった実人生の波乱と豊かさとは別に本懐は芝居より政治だ...川上音二郎(1864-1911)《『西方の風~九州ひと図鑑』》より(28)

  • 拾遺集 カワセミ殿下本日のお姿

    雨上がりもさわやかな本日は早朝からのお出ましでした。それも珍しく3羽の名優のそろい踏み。ときにケンカもにぎやかなパフォーマンス。拙宅居間の窓ガラスをお相手に激突ショーの競い合いでした。<img<img拾遺集カワセミ殿下本日のお姿

  • 拾遺集 ヤマセミ自由自在

    わが草庵の居間と川の則面(のり面)の崖にせり出したバルコニーを挟んで川岸から立ち上がった大樹との間の幅4メートルほどの空間が野鳥の遊園地です。ヤマセミの最近の振る舞いがはわがもの顔で、そればまた我が家にとっての癒しの見世物です。遊園地というより体力増強と飛飛翔のトレーニング・センターの趣き。木の枝からの発進、あるいはいったんバルコニーの鉄柵にとまって態勢を整えて居間のガラス窓を相手にぶつかり稽古が始まるのです。最初は透明なガラスを識別できないのではないかと夫婦で話し合っていたのですが、どうやらガラス窓を相手の体当たりに快感を感じているふしがあります。個体の識別はできていませんが、最低3羽が‶メンバー〟。数年前から頻繁に来訪するようになって最初は相当に神経質に見えましたが、最近は相当に大胆になりました。この場所が...拾遺集ヤマセミ自由自在

  • 梅ケ谷藤太郎(1845-1928)《『西方の風~九州ひと図鑑(山﨑潔著)》(28)

    大相撲近代化の立役者〈横綱ハ不敗タルベシ〉朝青龍、白鳳、日馬富士と、長くモンゴル出身力士に席巻されてきた日本の大相撲。「日本出身力士として10年ぶりの優勝」を刻印して大関琴奨菊が大相撲初場所の賜杯を手にした。福岡県柳川市出身の大関としてさらなる頂点の綱取りを目指す大願は同じ福岡県出身横綱の古い記憶をよみがえらせた。15代横綱として明治前期の土俵に9割9分1厘という歴代横綱で最高勝率を残した梅ケ谷藤太郎である。筑前国志波村。筑後川中流域、現在の朝倉市杷木町に生まれた。四股名の「梅ケ谷」は立身を追いかけるようにこの地に根付いた特産富有柿「志波柿」に名を残す旧村の、山里の地名に由来する。生まれた赤ん坊の体重を計量する習慣が幕末の農村にあったのかどうか。現在の度量衡で5,000グラムはあったと伝えられる。這いまわるよう...梅ケ谷藤太郎(1845-1928)《『西方の風~九州ひと図鑑(山﨑潔著)》(28)

  • 上野彦馬(1838-1904)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(27)

    日本写真技術の開拓者〈写真ハ歴史ノ証人ナリ〉右手をふところに海の彼方を見つめる坂本龍馬、愛犬をお伴にして着流し姿の西郷隆盛。高知・桂浜と東京・上野公園に建つ二つの立像は幕末・維新を代表する傑物の面立ち、その容貌の真実を伝えるという意味では大いに違いがある。坂本像が日本初の職業写真家・上野彦馬による写真の再現なのに対して、西郷には確証を伴う写真は一枚も残っていない。西郷の像は実弟の従道(つぐみち)の顔を下地としてがっしりした容姿の父方の従弟・大山巌を参考に合成した肖像画がモデルの苦肉だったからである。西郷は明治天皇に請われても断ったほどのっ写真嫌いだった。刺客対策だったともいわれている。彦馬は銀細工の職人が居住してその名がある長崎の銀屋町に生まれ育った。父・俊之丞は天文学に通じた奉行所の御用時計師でオランダ人相手...上野彦馬(1838-1904)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(27)

  • ヤマセミ 幽玄のバックシャン

    「バックシャン」という怪しげなカタカナ語が現代の若い世代にに通じるかどうか心もとないのですが。後姿の美しい女性のことをかつてこのように表現しました。おおむね旧制高校や帝大の生徒・学生、あるいは若いインテリ層を中心に使われたという印象が、ぎりぎり戦中派で戦後に少年時代を過ごした世代にはあります。国語辞典を開くと、英語のBACKとドイツ語のSCHÖN(美しい)で合成した造語で昭和初期に流行り始めたとありました。多く、「前から見るとさほどでもなかった・・・」という皮肉と失望感を含意していたともありました。エリートたちのじゃれ言葉?いかにもという時代の雰囲気を感じます。正面からジロジロ品定めするのは失礼になりますが、魅惑的な後姿から顔かたちや容貌をあれこれ妄想してもそれだけでは罪にはなりませんものね。というわけで、わた...ヤマセミ幽玄のバックシャン

  • 拾遺集 ヤマセミ道楽

    福岡県の南東部、大分県日田市に接する筑後川流域のこの地。上流と言うには無理がありますから中流域が始まる筑紫平野の東端と説明しておきましょう。九州北西部から九州山地に向かう入り口にあたります。天ケ瀬、杖立、黒川などの著名な温泉、久住、阿蘇の名勝をひかえながらにぎわいには縁遠い老生にとってカワセミのご機嫌うかがいが川辺の暮らしというわけです。日々、応対しきれないくらいの来訪。個体として識別するのは困難ですが、最低3羽はいると推測します。本日はこのショット。つがい?親子?友だち?・・・とりあえず、「チャットの時間」と、しておきます。拾遺集ヤマセミ道楽

  • 犬童球渓(1879-1943)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(26)

    故郷ノ廃家愛郷ハ詩トナリ歌トナリ。strong>関門海峡を前にして生まれて宿命の放浪者を自称した林芙美子の『放浪記』は、唱歌の「旅愁」の歌詞を筆はじめとして、「小学校でこんな歌を習った」と、一家で転々した幼い日を回想して始まる。♬更けゆく秋の夜旅の空のわびしき思ひにひとりなやむ・・・女流作家が貧しかった少女時代の切ない思いを重ねた歌、そして、♬幾年(いくとせ)ふるさと来てみれば咲く花鳴く鳥そよぐ風・・・と、ふるさとを哀唱して郷愁の詩情で対をなす「故郷の廃家」。明治以来、100年にわたって日本人に愛されたうたの詩人こそ犬童球渓(いんどうきゅうけい)である。明治35年(1902)に志を抱いて郷関を出た青年の旅路の孤独が織りなす真情であった。本名・信蔵。球渓はふるさとを貫く球磨川にちなむ筆名である。熊本県藍田村(現・...犬童球渓(1879-1943)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》より(26)

  • 拾遺集 ヤマセミ三昧

    世界はコロナウイルスで沈鬱ですが、自然のめぐりは春たけなわです。春なのにやり場のない不安感に押しつぶされそうな人間たちを知らぬ気に鳥たち春色を堪能してうきうきと気分を高ぶらせます。ヤマセミの活動が盛んです。かまってくれと、ひっきりなしのパフォーマンス。にわかカメラマンも付き合いにあわだたしい。すこしずつご紹介しましょう。居間から窓越しにツー・ショット美しいでしょう、と言いたいところですが。このままこの家のあるじの居間の窓に突進!窓ガラスを相手のぶつかり稽古。スッキリした気分で拾遺集ヤマセミ三昧

  • 岩崎弥太郎(1834-1885)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》(26)

    三菱グループ創始者有事ニ私利ヲ望マズ。赤レンガ造りのレトロなその建物は長崎港に沿って稲佐山の麓に展開する三菱重工業長崎造船所の奥まった空間にある。三菱の発祥と近代日本を牽引(けんいん)した歴史を伝える史料館。入館者を迎える岩崎弥太郎像は港口に浮かんでグループの炭鉱として栄えた高島に建つ巨大像の原型で、3年前にこの場所に納まった。土佐(高知県)の最下層の藩士に生まれながら幕末・維新の息吹と西欧文明をこの街で吸収し、一代にして三菱財閥を築いた男の威風は、明治の起業家の比類なき雄姿と熱情を伝える。長崎が舞台として登場し、この街出身の福山雅治が坂本龍馬を演じたNHK大河ドラマ(2010年)。香川照之の岩崎弥太郎が準主役で配されたこともあり、期待してテレビに向かった市民にとって鳥かごを背負って汚れ役の極まった「香川弥太郎...岩崎弥太郎(1834-1885)《『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著)》(26)

  • 拾遺集「大相撲、天皇賜杯とユダヤ民族の凱旋曲」

    コロナウイルスの脅威を克服して史上初の15日間の無観客場所を全うした大相撲の春場所。「過酷な状況のもとで立派に土俵を務めあげてくれた全力士、そして全協会員を誇りに思う」という協会理事長の感慨と、次の決意のことばに尽きます。「元来、相撲は世の平安を祈願するために行われてきた。健康の象徴とされる力士の身体で四股を踏み、相撲を取る。その所作は1500年前から脈々と受け継がれ、大相撲はこれからもその伝統を受け継いでいく」。神社みたいな神聖な場所に感じた――理事長の言葉以上に私が感銘を受けtたのは千秋楽を終えて力士たちの感想が新聞でさまざま報じられていた中で、静寂極まった会場に一歩足を踏み入れた初日の厳粛な気持ちを表した琴奨菊のこの言葉でした。大相撲は極限まで体を鍛え上げ、丸い土俵の上で技と力を競うだけの単なる〝スポーツ...拾遺集「大相撲、天皇賜杯とユダヤ民族の凱旋曲」

  • 井上伝(1788~1869)《『西方の風ー九州ひと図鑑』(山﨑潔著)より》(24)

    久留米絣の祖藍ト白ノ美ニ魅セラレ。かすりとは、掠(かす)りの義なり。処々掠りたる如(ごと)く模様を織り出せるを以て名つく。絣の由緒を説明するこの文章。明治36年に発行された久留米商業学校同窓会編の『久留米絣』にある。〈掠〉を音読みして、「掠奪」という熟語を持ち出せば不穏当だし、訓読みして「絣(かすり)は‶かすり傷〟のことです」といってももとより説明にならない。この場合は布地の藍色が掠(かす)め取られたように白い文様になっている状態、制作の様子を表現するのに使われた。天明年間(1788)に久留米藩生まれ、江戸時代の末期を明治2年まで生きた井上伝(旧姓・平山)が久留米絣の創始者である。その昔、織物の一反を一日で織ることを「日ばた」といった。藍の産地だった福岡県久留米地方では娘たちは10歳を待たずに織物を習い、織り方...井上伝(1788~1869)《『西方の風ー九州ひと図鑑』(山﨑潔著)より》(24)

  • 稲尾和久(1937-2007)《『西方の風~九州ひと図鑑新装版』より》(23)

    神サマ仏サマ稲尾サマ「投ゲラルレバ満足」。博多湾を遠望して発掘調査が進む大宰府政庁の古代迎賓館。鴻臚館遺跡のこの地にあった平和台球場は野性味あふれるプレーで福博の青少年、野球ファンを熱狂させたプロ野球西鉄ライオンズの本拠地であった。</span>稲尾和久(1937-2007)《『西方の風~九州ひと図鑑新装版』より》(23)

  • 伊東玄朴(1800-1871)《九州ひと物語(22)》

    天然痘ウイルス撃滅スベシ。</『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』より天然痘と、いつから言い慣わすようになったのだろう。ウイルスによる感染症。この病気で死亡したと確認されている最古の例として紀元前1100年代にエジプト王ラムセス五世がある。医学用語でいう痘瘡(とうそう)は最も致死率の高い感染症として20世紀に至るまで恐れられた。佐賀藩・神埼の貧農から将軍主治医に上り詰め、種痘を普及させて天然痘予防に貢献した幕末の医師である。仲間の蘭方医を結集して開設された江戸は神田のお玉ケ池種痘所。将軍、藩主も埒外ではいられなかった不治の病の総合診療所。西洋近代医学への道を切り拓く拠点として創設を主導したのが伊東玄朴(幼名・勘蔵)である。新時代の予兆、西洋文明が往来する長崎街道の胎動に触発された立志の思い・・・農家では求め得な...伊東玄朴(1800-1871)《九州ひと物語(22)》

  • 油屋熊八(1863-1935)《九州ひと物語》(19)

    別府温泉ノ父。使徒ヲ迎エル如クニ。</『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』より世界に開かれて日本を代表する観光地の大分県・別府温泉。湯の街の旅情、紅灯の賑わいを求めて年間800万人を超える人々が訪れる。泉都の繁栄が聖書に教えに導かれたという逆説には説明がいる。この街の発展に貢献して「別府観光の父」と語り継がれる油屋熊八。放浪のアメリカで出会った新約聖書の一節、〈旅人へのもてなしを忘れてはならない。それによってある人たちは気づかないで御使いたちをもてなしたのだから〉(へブル人への手紙13章)が観光哲学の原点になったと伝えられる。四国・宇和島城下の裕福な米問屋に生まれて商売に才覚を発揮しながら明治の変革期に遭遇しにて家業の先行きに見切りをつけた。大阪の株相場に投じたのが波乱の幕開きである。"油屋将軍〟の異名は一夜の...油屋熊八(1863-1935)《九州ひと物語》(19)

  • 拾遺集 ~「・・・していて・・・」のNHKのニュースことば、耐えられません。

    縁側でごろ寝する亭主に妻が言う。「風邪をひいてよ」。このことば、「風邪をひきなさいよ」と亭主に冷ややかに言っているのか、「風邪をひいてしまいますよ」と心配して言っているのか。過日の新聞コラムが、時代とともに変わっていくことばの例証として夏目漱石の小説『門』を引用していました。こうした語法は明治時代の後半に上品な女性たちの間に広まったという。もちろん、「ごろ寝のままでは風邪をひいてしまいますよ」という気遣いが込められたことばです。コラム記者は、「品のある古きよき日本語の一つだろう」と注釈を加えて、主題とする新型ウイルス問題に巧みにつなぐ噺(はなし)の枕としていたのです。ここでは「いてよ」に無理矢理ひっかけ、NHKのニュースことばの画一化がとても気になる者として"日本語論〟の枕として利用させてもらいました。最近のH...拾遺集~「・・・していて・・・」のNHKのニュースことば、耐えられません。

  • 青木 繁(1882-1911)

    天才画家ノ光芒ト悲惨。『西方の風~新装増補版』より太平洋の群青の向こうに伊豆諸島を遠望する。房総半島南端の海辺の村は黒潮と親潮が交わる漁場を恵みとして人々の営みがあった。青木繁は東洋美術学校を卒業した夏、画友の坂本繁二郎、福田たねらとともにこの地・布良(めら)(千葉県館山市)の遊客となった。東京・霊岸島(隅田川河口)と館山をむすぶ船は夕刻に発って翌朝、目的地に着く。漁村の開放感、漁師のエネルギー。奇才の神話的想念は鮫漁(さめりょう)の漁師のダイナミックな裸体の群像となって「海の幸」に凝結し、22歳の情炎はたねとの愛憎の縁を結んで残された7年の葛藤を用意した。青木家は久留米藩(福岡県)で代々茶道の家柄であった。父の廉吾は幕末・維新期に藩論が佐幕と勤王にわかれたとき、父や兄に背いて勤王派についた。一徹で気性が激しか...青木繁(1882-1911)

  • ハンナ・リデル(1855-1932)《九州ひと図鑑》

    「救ライノ母」ト呼バレテ。</『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』より</癩病(らいびょう)とかつて呼ばれた。ハンセン病を患う人たちへの理不尽は共同体や家族からさえも排除される存在として紀元前に成立した旧約聖書にすでにある。古代日本では渡来人の病者に対して、"孤島隔離〟を考慮したことが日本書紀に記されている。有史以来の人類の不条理。1873年(明治6年)にノルウェーの医師ハンセンによって病原菌が発見されてからも国家・世間の不明の故に業病(ごうびょう)として忌み嫌われ、「放浪らい者」という近代の悲惨が続いていた。英国教会の宣教師として日本に派遣され、「救ライの母」と慕われてこの国の土となった女性である。日本のハンセン病の歴史に大きな足跡を残したハンナ・リデル。熊本・第五中学校に教師として赴任して間もない34歳の明...ハンナ・リデル(1855-1932)《九州ひと図鑑》

  • 柳原白蓮(1885-1967)《九州ひと物語》

    筑紫ノ女王ノ数奇。『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』より筑豊は石炭の産出で近代日本のエネルギーを支えた。その炭鉱主の豪壮さを伝える旧伊藤伝右衛門邸(福岡県飯塚市)。100年前に"筑紫の女王〟と呼ばれた柳原白蓮(本名・燁子(あきこ)が妻として大将の10年間を暮らした場所である。ともに再婚の25歳と50歳であった。伯爵の父は大正天皇の母の兄。年齢の違いはともかく、大正天皇の従妹にあたる名家に生まれた閨秀歌人と炭鉱成金の結婚は、自体がセンセーションであった。莫大な支度金は貴族院議員だった兄の選挙資金への思惑があり、名家につながりをもちたい伝右衛門・鉱業界の相互利害だったと言われている。白蓮は伝右衛門と結婚する前の10代までに過酷な運命に翻弄された。旧士族の娘である生母は明治維新の変革によって没落して芸妓となった。白...柳原白蓮(1885-1967)《九州ひと物語》

  • 「ヤバい」の言葉はヤバい。安易に使うまい

    阿川佐和子さんの新聞小説に、現代の東京から1963年にタイムスリップした15歳の少女が発する「ヤバい」に、「下品」「女の子使うべき言葉じゃない」と63年当時の少女にとがめられる場面が描かれていました。1963年と言えば前回の東京オリンピックの前年です。小説を引用して、きょうの新聞の読書欄に《若者の「ヤバい」風潮なじめない》という見出しで、この言葉の多用をたしなめる意見が紹介されていました。福岡市の高齢女性の投稿でした。「言葉の由来も語感も耳障り。驚きの表現なのか困惑を表すのか、喜んだり褒めたりする時に用いるのか、意味もよく分からない」と述べ、テレビ出演の若者たちが「花を眺めても、食べ物を口にしても、忘れものをしても、『ヤバい』の連発」とその風潮を嘆いておられた。全く同感です。手元の国語辞典を開くと、岩波国語辞典...「ヤバい」の言葉はヤバい。安易に使うまい

  • 細川ガラシャ(1563-1600)《九州ひと物語》(17)

    散リヌベキ時ヲ知リテコソ。『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』(山﨑潔著)より明智光秀を主人公にしたNHKの大河ドラマ「麒麟がゆく」が好調のようです。細川ガラシャはその光秀の三女・玉子です。戦国大名細川忠興に嫁いで細川となり、カソリックの洗礼を受けてガラシャ。悲劇の自刃で九州に直接の縁はありませんでしたが、夫・忠興は豊前小倉藩主となって今日の礎となる都市づくりと文化の振興に貢献し、息子忠利は肥後・細川家の基盤をつくりました。</明智光秀の三女・玉子。戦国大名の細川忠興(ただおき)の妻である。キリスト教の洗礼を受けてこのカタカナの名前となった。美貌と知性、生と死にのぞむ凛としたたたずまいが語り伝えられている。戦国女性で異彩である。九州との関係で直接のゆかりはない。悲劇の死の直後、夫が関ケ原合戦の徳川方として戦功を...細川ガラシャ(1563-1600)《九州ひと物語》(17)

  • 北里柴三郎(1852-1931)《九州人の物語》(16)

    疫病ト格闘シタ明治ノ肥後モッコス新型コロナウイルスの感染が中国・武漢で確認されて8日でちょうど2か月になるそうです。中国政府の発表による数字だけで同国の感染者は3万5,000人、死亡者800人に達し、先のサーズの数字を上回りました。真実の実体を知るのが恐ろしいくらいです。当局の発表前に新型ウイルス患者の存在をSNS上で警告し、公安当局に処分された現地の李文亮医師(33)は自らも感染しその死が同日に報道されました。90人の日本をはじめ、世界各国へまん延の勢いは衰えを見せず、大型クルーズ船は世界各地で"漂流〟を余儀なくされています。中国共産党のDNAともいえる宿痾、その呪い。初期防疫の対応から現在に至るまで中国政府の強権隠ぺい体質の恨めしさ、やり場のなさ。北里柴三郎。今から100年以上前、サムライ魂に公衆衛生の大切...北里柴三郎(1852-1931)《九州人の物語》(16)

  • 拾遺集~豆(魔滅)まきに除災招福をこめて

    豆は「魔滅」の音に通じます。節分の豆まきがにぎわうのは人々の無病息災の願いが込められていることによりますが、本来、立春の前日にあたる節分は種まきの到来を告げる農作業上の大切な呼びかけにありました。その年中行事から数日を経て話題にするのでは旧聞に属しますが、お許しください。うんちくは後述するとして、節分についての拾遺集です。福岡・博多の東長寺は空海(弘法大師)ゆかりの名刹です。平安時代のはじめ、唐から帰朝(806年)して最初に創建しました。唐で学んだ密教が広く行き渡ることを念じ、祈願した由緒があります。それほどの歴史と由緒ですからこの寺の節分祭が「博多で最も古い」と言われるのも納得させられますが、なんと豆まきのその舞台に立つことができました。年男でもない老生がその幸運に恵まれたのは熱心な宗徒であるご婦人の計らいで...拾遺集~豆(魔滅)まきに除災招福をこめて

  • 広瀬武夫(1868ー1904) 《九州ひと物語(15)》

    日本ヲ愛ス、ロシアモ愛ス。</『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』(山﨑潔著)より日露戦争に散った帝国海軍軍人である。部下を探し求めて部下を探し求めて砲弾降り注ぐ軍艦の船中へ。武人の高潔さを体現し、軍神とあがめられた。「杉野は何処(いずこ)」の唱歌となって昭和の戦前のこの国に知らない人はいなかった。その名が戦後世代に無縁なのは「戦前」と決別した国民の意思である。「反戦」と「平和」が唱和されて戦後70年である。誤解なきを願いながらそれでも広瀬武夫の人間性を称賛して伝えられる「人品よく、能あり、徳あり、才あり」を支えに稿を進める。強く豊かな近代国家を目指す高揚のの中で国家に尽すことは志ある男子の立身の夢であり、軍人はあこがれの道であった。明治元年の大分県竹田・岡城下(現・大分県竹田市)に生まれた武夫も武家の子として...広瀬武夫(1868ー1904)《九州ひと物語(15)》

  • 永井隆(1908-1951) 《九州人の物語(14)》

    長崎ノ鐘。此ノ涙ヲイカニセム。</『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』(山﨑潔著)より受難の歴史を生きたキリスト教徒の信仰の象徴だった。東洋一の大聖堂として日本カトリック教会の誇りだった。浦上天主堂。原子爆弾によって長崎の街とともに一度、壊滅した。地上26メートルの双塔部に設置されて祈りの鐘を鳴らし続けたアンジェラスの鐘。「長崎の鐘」は、瓦礫の下からよみがえったその鐘の別称である。原爆の悲劇、鐘の奇跡、とりわけ信者が多かった被爆者、市民の祈りを託された詩的抽象である。直径1メートル、高さ85センチ、重さ600キロ(推定)。復活して朝、昼、夜の3回、慰めと励ましの音(ね)を鳴らす。長崎医科大学(現・長崎大学医学部)の医師(放射線科部長)として被爆者の救護にあたった永井隆博士が白血病の病床にあって‶祈りの鐘〟を表題...永井隆(1908-1951)《九州人の物語(14)》

  • ド・ロ神父 (1840-1914) 《九州人の物語(13)》

    キリシタンノ苦難ト再生ヲ共ニ。</遠藤周作は20世紀のキリスト教文学で最も収容な作家である。--カトリックを信奉し、人と信仰をテーマに著作を残したイギリスの作家グレアム・グリーンのことばである。キャロル・リード監督の名作映画「第三の男」の原作者でもある。長崎市西北部の西彼杵半島に位置する外海(そとめ)地区。東シナ海つらなる群青の夕日が美しい台地に遠藤周作文学館が立地するのは代表作『沈黙』の舞台をこの地に借りたゆかりによる。島原の乱のあとの、弾圧が厳しさを増す江戸初期に日本の土を踏んだポルトガル人宣教師の苦悩、悟りをとおして日本人にとってのキリスト教を問うた。マルコ・マリ・ド・ロ。その時代から250年を経たこの地、隠れキリシタンの苦難を刻む‶陸の孤島〟に信仰と自立の未来を開いたフランス人宣教師である。明治の初めか...ド・ロ神父(1840-1914)《九州人の物語(13)》

  • 九州人の物語(12) 鄭成功(ていせいこう)(1624-1662)

    台湾独立ノ英雄、落日二滾(たぎ)ル侍ノ血。『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』(山﨑潔著)より桃も桜もとこしへに/花を見せたる南京の/時代(とき)ぞさかりさかんなる・・・近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」は、中国・明王朝300年の栄華をこのように賛美して幕が開く。その明王朝が北から侵攻する満州族の清に滅ぼされる歴史の怒涛に抗し、王朝への忠義に殉じた実在の英雄がモデルである。主人公の名、和藤内(わとうない)の「和」は日本、「藤」は中国を表し、日中の混血であることを象徴する。国際色豊かな活劇ロマン。大坂・竹本座による初演は、スケールの大きな活劇に世話物的な人情と趣向を凝らした見せ場を織り込み、鎖国の庶民の異国への興味を刺激した。3年越しのロングランを記録したという。鄭成功(ていせいこう)が当時...九州人の物語(12)鄭成功(ていせいこう)(1624-1662)

  • 九州人の物語(11) 楠本イネ(1827-1903)

    医者二成ラズンバ。『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』(山﨑潔著)より楠本イネが東京・築地1丁目に産科医院を開いたのは維新から間もない明治3年であった。福沢諭吉の推薦で宮内省御用掛を拝命し、明治天皇の第一皇子の誕生にも立ち会った。西洋医学に基づく女医第1号の誉れが、15年遅れて開業した荻野吟子の名で伝えられるのは、国の制度が整い、医術開業の門戸が女性にも開かれて、吟子が最初の公的免許取得者になったことによる。産科医・イネの免許皆伝は明治政府の医療制度が整うのに先んじた。出島・オランダ商館の医師シーボルトと日本人女性のタキとの間に生まれた。商家の娘だったタキは、家が没落して丸山の遊女となり、シーボルトのお抱えになっていた。20代半ばのシーボルトトと16歳のタキは客と遊女という関係を超えて深い愛情で結ばれていた。シ...九州人の物語(11)楠本イネ(1827-1903)

  • 九州人の物語(10) フォン・シーボルト

    近代文明ノ偉大ナ教師。『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』(山﨑潔著)よりオランダのライデン市。ローマ時代に起源をもつ古都が東洋のヤポン(日本)を近世ヨーロッパに紹介する情報拠点であったこと、同国最古のライデン大学が欧米で初めての日本語科の創設したことを知る日本人は少ない。長崎・出島のオランダ商館医として滞在すること六年。医師として最新の西洋文明を鎖国の日本に伝えただけでなく、独自の関心で収集した日本情報やコレクションをこの街に集積して博物館を開設し、その成果を『ニッポン』『日本植物誌』『日本動物誌』などの学術書に集成して広く世界に伝えたことの意義を大きい。派遣したオランダ政府にも特別な事情があった。日本との特別な交易環境は百八十年を経過して衰退期に入り、日蘭貿易を建て直すのに改めてこの国を調査し対策を立てる必...九州人の物語(10)フォン・シーボルト

  • 閑話休題 野鳥

    イカルの表敬訪問昨年の暮れから令和2年の新年にかけて数十羽のイカルの集団が”表敬訪問„してくれました。これまでも時折り、数羽単位で姿を見せてくれていましたが、これほどのにぎやかさははじめてでした。居間からの窓越しの撮影です。画面で確認できるのは4羽ほどですが、フレームの外はもっともっとにぎやかです。室内の動きにも敏感で集団をまとめておさめる位置・アングル・チャンスを確保できませんでした。やっとこさの一枚です。閑話休題野鳥

  • 九州人の物語(9) 佐野常民

    博愛ハ文明進歩ノ証シ。</『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』(山﨑潔著)より紛争の渦中にあっても、戦乱の現場でも、赤十字のマークは不可侵のメッセージとして絶対である。大災害の救援に向かう医療救助隊にも存在の崇高さを知る。赤地に白十字のスイス国旗を反転デザインした紋章は赤十字の創設者アンリ・デュナンの母国・スイスに対する敬意である。傷ついた兵士に敵も味方もない-二十万の軍兵が衝突し、数万の死傷者が放置されたイタリア統一戦争の悲惨に遭遇し、救護に献身するとともに惨状を国際社会に訴えたのがきっかけであった。ノーベル平和賞の第一回受賞者である。パリ万国博覧会(1867年)の一隅で、国家間の条約に基づく国際赤十字の活動に感銘した佐野常民は十年後の西南戦争に博愛社を組織し、政府軍、西郷軍の別なく傷病兵を救護した。ジュネー...九州人の物語(9)佐野常民

  • 『西方の風』~九州人の物語(8)

    <>西郷隆盛―仰ギテ天ニ慚(はじ)ズ。</内村鑑三は札幌農学校在学中にキリスト教に帰依し、若くしてアメリカに学んだ明治の知性である。近代日本の夜明け。日本・アジアを軽侮する欧米人に、だからこそ日本人のすぐれた精神性と文化の精髄を伝えたいという切実な思いから『代表的日本人』の筆をとった。強い使命感に加えて英文で書かれた点で新渡戸稲造の『武士道』、岡倉天心の『茶の本』と共通する。内村が”代表的日本人„として二宮尊徳、上杉鷹山ら五人を取り上げて業績と遺徳を紹介する同書で巻頭に配して頌辞を惜しまなかったのが西郷隆盛である。天を敬い、自他を隔てなく愛する天の道理のように人を愛したいー薩摩の人が「せごどん」と敬愛する「敬天愛人」のその人。それぞれの事情を背負った倒幕諸藩を束ねて明治維新を実現させた功労者であることは言うまで...『西方の風』~九州人の物語(8)

  • 『西方の風』 ~ 九州人の物語(7)

    小泉八雲ー日本ノ面影ヲ求メテ。明治時代の日本に暮らし、この国の人たちが見落としがちな古きよき文化や美質を見出して文章に残してくれた作家である。「いつの日か日本に行かれるなら、是非一度は縁日に足を運ばれるとよい」で始まるエッセー「虫の演奏家」は、帰化して小泉八雲となったラフカディオ・ハーンのうるわしい日本発見の一つである。『日本の心』(講談社学術文庫)に収められている。日本人には秋の風情である虫の音。西洋人一般には姿を見せないで好き勝手に発せられる”音„、つまり騒音以外の何物でもないらしい。「この虫たちが西洋文明での孔雀やナイチンゲール、カナリヤに引けを取らない地位が与えられてことを語って聞かせて、(西洋人)わかってもらうのは骨がおれる」と告白し、「西洋ではすぐれた詩人だけが見抜くことが出来るその魅力を、日本人は...『西方の風』~九州人の物語(7)

  • 『西方の風』 ~ 九州人の物語(6)

    トーマス・グラバー東洋ノ国二夢ヲ託シ洋館が港に映える幕末の長崎・大浦海岸。見物人の驚きと歓声の中を二両の客車をひいた“陸蒸気〟が黒煙をはいて走った。近代の年表を開いて、日本の鉄道の始まりを確認できる東京ー新橋間の汽笛一声より7年も早い慶応元年(1865)のことである。上海万博に出品された英国製機関車の輸入品「アイアン・デューク号」、「グラバー園」として長崎の観光名所に名を残す英国人トーマス・グラバーによるデモンストレーション運転が日本国土をはじめて走った蒸気機関車と客車である。連日の人だかりを前に走ること約600メートル。期間は1か月限定で営業運転ではなかったが、日本の鉄道列車運転の事始め、仕掛け人はこの人であった。グレート・ブリテン島(イギリス)の北部、スコッチ・ウイスキーやチェックの紋様で知られるスコットラ...『西方の風』~九州人の物語(6)

  • 『西方の風」~九州人の物語(5) 大浦慶

    明治日本の外交を切り拓いた陸奥宗光は若き日、大浦慶が情を交わした男として『天翔ける女』(白石一郎著)に描かれている。紀州藩の名家の生まれで勝海舟、の海軍操練所を経て坂本龍馬の亀山社中にいた。白皙にして端正、育ちの良さがうかがわれる青年にお慶は一目ぼれして食客としていた。幕末の風雲が急を告げて、「いつ死んでもいいように身辺をきれいにしたい」と縁切りを告げる男に・・・「お国のために働くのにお金は邪魔になりまっせん。もってお帰り」と。膝前に差し出された小判の包み。男は「いただけません」と押し返して矜持とし、女はひとり膳の盃を静かに干す。直木賞作家の筆は盛りの過ぎたことを覚る女の寂寥を包んで美貌の女傑の意気地を立ち昇らせる。幕末の長崎に集う志士たちを陰で支えた女として維新の裏面史異彩を放つ。長崎を彩るのに欠かせない剛毅...『西方の風」~九州人の物語(5)大浦慶

  • 今こそすべての日本国民に問う 2

    この新聞を読んでると日本語をどう思っているのか、と問いたくなる。昨日の紙面。巨人軍の坂本選手の打撃技術を論じる堀内恒夫のコラムがあった。《体の軸が動く打者は打ち取りやすい。ボールに反応して軸が動くことで、次に何を投げていいかのヒントを投手にくれる。坂本はその真反対にいる》。わたしは「真反対」という言葉を知らない。「真逆」という言葉も最近、頻繁に使われるが、5冊ある10年前に発行された国語辞書にはない。わたしたちは「正反対」「対照的」「対極」「あべこべ」などと言っていた。メディアはかってに日本語をつくってはいけない。半歩遅れて歩むくらいが知性というものである・今こそすべての日本国民に問う2

  • 今こそすべての日本国民に問う

    本日のスポーツ新聞に民間テレビ局女性アナウンサーの結婚ニュースが最終面のすべてを割いて報道されていた。この際、記事の扱いの大仰さについては言いますまい。人気テレビ番組のナレーションを借りて、「今こそ全ての日本人に問いたい」のはこの記事のリードのこの文章についてである。《お相手は同学年で医師の一般男性で・・・》。医師の一般男性・・・国民みな平等の日本国民でその属性を言うのに「一般」も「特別」もあるはずはなく、従って「一般男性」も「特別の女性」もあるはずがないからである。おまけにこのニュースを伝えるのに「最近結婚した女性アナウンサー」の一覧表を添え、お相手の男性の紹介して「一般男性」「1歳上の一般男性」「30代の一般男性」「4歳下の一般男性」と「一般男性」のオンパレードである。ほかに「同局局員」「設備会社社長」など...今こそすべての日本国民に問う

  • 新元号 令和 ー 自立した清々しい姿でありたい

    新元号に寄せる紫舟さんの思い新しい元号となる「令和」はおおむね好意的に受け止められているようですが、「自立した清々しい姿」は、女流書家の紫舟さんのことばとして過日の読売新聞に紹介されていました。新しい世代を担う女性らしい新鮮な語感に感銘しました。同じ和をもつ昭和は「同調」が「和」と呼ばれ、平成は「古き良き成長の昭和を回顧して生きた時代」との歴史認識の上に立って、「私たちは再び『和』を元号として手に入れました。この和は、『和して動ぜず』でなければならない」と。多様性と個性、同調と自主性という価値観の共有。この元号に見合う時代の生き方として誠に的確で美しいと思いました。紫舟さんの感性と教養に乾杯。新聞でこそ拾えます。新聞にも乾杯。新元号令和ー自立した清々しい姿でありたい

  • 美しき九州人の物語(番外編)

    『西方の風~九州ひと図鑑新装増補版』が読売新聞に4月13日付」¥文化欄の「新刊近刊」欄(西部本社版)で紹介されました。「九州ゆかりの先人たちの掌編物語。出光佐三、西郷隆盛、若山牧水らのほか、人生の一時期を九州で過ごし地域に足跡を残した人として夏目漱石、柳輪白蓮、シーボルトらも取り上げた。多くの書籍、資料にあたって正確を期し、愛上端プリに人物像を浮かび上がらせている」と過分の評をいただきました。感謝です。美しき九州人の物語(番外編)

  • 美しき九州人の物語~『西方の風」より(4)

    梅屋庄吉ー財ヲモッテ君ヲ支援ス。中国・清王朝を倒した孫文の辛亥革命。梅屋庄吉は若き日に香港で孫文と交わした、「君は兵を挙げたまえ。われは財を挙げて支援す」の盟約を貫いて不屈の革命家を30年間、生涯にわたり支えた。北京オリンピックに続く中国の国家的事業として開催された2010年の上海万国博覧会。日本館が企画した「孫文と梅屋庄吉展」の開会式で梅屋の曽孫にあたる小坂文乃さん(日比谷松本楼常務取締役)はこのように呼びかけた。「志を同じくした日本人と中国人がアジア平和のために共に行動した歴史を中国の方々ににもぜひ知っていただきたい」と。両国の友好が必ずしも安定しない環境で「孫文と梅屋庄吉展」は6日間に2万人を超える見学者を集めて中国人の心にいぶし銀の光をともした。(中略)梅屋と孫文の出会いは革命16年前の1895年(明治...美しき九州人の物語~『西方の風」より(4)

  • 「包丁道」の奉納

    茶道や華道と同じように包丁道という「道」があることを初めて知りました。昨日、二日市八幡宮(筑紫野市)の春祭りを見学し、総勢6人による”秘儀〟の一部始終を見ることがができました。料理することを、すなわち「包丁」であると称し、食の儀礼、礼式の流派の一つとして室町時代に始まったのでそうです。創始者である幕府の奉行衆・大草三郎公次(きんつぐ)に因んで大草流包丁道。足利将軍家における調理は信用のおける譜代の家臣が担当していました。包丁道とは料理に関する作法・格式・調理法などを調理器具の「包丁」に託して象徴的に表現されたものです。権力者を抹殺するのに毒が盛られることが古来、珍しくなかった厳しい現実が背景にありました。料理に手が触れることはご法度。この日は拝殿前に特設舞台が用意され、生のタイのさばきは左手の長い金属製?のハシ...「包丁道」の奉納

  • 美しき九州人の物語~『西方の風』より(3)

    出光佐三<海賊の愛と誠と信念と>出光興産の創業者。反骨の経済人、国際石油資本(石油メジャー)の理不尽に立ち向かった石油・民族資本の雄として記憶に刻まれている。明治18年に生まて石油を商いし、ひたする「坂の上の雲」を見つめて95年の波乱を生きた。昭和56年春の、その死を悼んで読まれた歌がある。国のためひとよつらぬき尽くしたるきみまた去りぬさびしと思ふさびしと思ふー詠み人と、「海賊」と呼ばれたこの人との間に縁はない。昭和天皇である。昭和の戦争、敗戦で廃墟となった。復興に欠かせない石油は欧米・国際カルテルの搾取と支配にあり、市場はそのさじ加減であった。理不尽でも受け入れざるを得ない状況に出光は敢然、抗した。イランが石油の国有化を宣言し、旧宗主国のイギリスと権益をめぐり激しく争っていた。究極の決断がイラン石油の直接買い...美しき九州人の物語~『西方の風』より(3)

  • 美しき覚悟の人生、九州人の物語(1)

    『西方の風~九州ひと図鑑』序文">「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が2018年(平成30年)のユネスコ世界文化遺産に登録されました。対象となった12の関連遺産は教会などの建造物より、潜伏キリシタンが禁教時代の約250年間にひそかに育んだ宗教的な伝統と集落の営みでした。長崎郊外の外海・出津集落、隠れキリシタンの信仰告白の舞台となった大浦天主堂などが含まれます。九州地域の文化遺産が世界に評価されて登録されたのは「明治日本の産業革命遺産」(2015年)、「山・鉾・屋台行事(博多祇園山笠、唐津くんちなど)」(2016年)、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(2017年)に続くものでした。これより前の2011年(平成23年)には筑豊炭田(福岡県)の生活や風俗を伝える「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」が世界...美しき覚悟の人生、九州人の物語(1)

  • 覚悟して美しく生きた九州人の物語

    ">『西方の風~九州ひと図鑑』(山﨑潔著洒落堂出版)発売■頒布価格1500円と送料360円■問い合わせ・連絡先・・・著者山﨑潔〒839-1407福岡県うきは市浮羽町三春649番地(話00-4582-6556)Mailmiha15@ark.ocn.ne.jp古来、日本列島のどこよりも早く新しい文物・思想にふれてきた西国のこの地。その歴史に鮮烈な軌跡を描き、独特の文化と風土を築いて名を残した人々の群像です。ここで言う「九州人」には、出身者や住み着いた人に限らず、人生の一時期を過ごし地域の発展に尽くし、新しい文化・芸術を創造してその気風を醸成するのに足跡を残した人たちも含まれています。全351ページの重厚の大冊に収められた81人の群像。著者は元読売新聞社会部記者。簡潔にして洗練された文章が偉人、英雄、異才たちの人物像...覚悟して美しく生きた九州人の物語

  • ヤマセミ飛翔の優美6景

    わが隣人と勝手に思っているヤマセミ。久しぶりの来訪。飛んでる優姿の撮影はなかなか困難だが、少しは進歩して。>ヤマセミ飛翔の優美6景

  • 続 「一般男性」論

    <才能>、あるいは<才能のある人>を意味する英語のTalentが「タレント」として日本語の中で定着したのはテレビ時代もかなり成熟してからではなかったか。あまり古い話ではないと思う。「主にテレビで活躍する職能変幻の個性」と自分なりの定義である。きょうの宅配スポーツ新聞に「タレントの柳原可奈子(33)が5日、・・・テレビに生出演、4日にフジテレビ社員の1年年上の男性と結婚したことを明かした」とあった。もともとテレビをみることは極めて少ない。従ってこのタレントもじめて耳にする名前だが、それはともかく、まずはおめでたい。お相手はフジテレビ社員ということだから、従来の報道では「一般男性」という表現が通例だった。当ブログを目にしたわけではあるまいが、まともな日本語でよかった。ネットニュースも同じ表現だったのでおそらく原稿の...続「一般男性」論

  • 結婚相手を紹介するのに「一般男性」とは何と失礼な

    「マナカナ」の愛称で親しまれる女優の三倉茉奈さんの結婚ニュースをきょうのスポーツ新聞が報じていました。見出しに「同い年32歳一般男性」とあります。双子の妹の佳奈さんはひと足先に結婚して姉の茉奈さんのことが思い遣られていました。とてもおめでたいニュースですが・・・結婚のお相手を紹介するのに「一般男性」とはなにごとであるか。一般男性でなければ「特別の男性」とでも呼びたいのであろうか。この国で「一般」と対比して「特別」という言葉で表されるお人は皇室の方々を除いてほかにありますまい。記者が言いたいのはわかります。茉奈さんのお相手がテレビ芸能人ではないということを伝えたいのでしょう。とすれば、テレビの画面を稼ぎの場としている人たちは一般の人ではない特別の人と言っているに等しいのです。そんなばかばかしいことを新聞記者が平気...結婚相手を紹介するのに「一般男性」とは何と失礼な

  • 昭和64年1月8日

    内平らかに外成るの願い・・・昭和64年1月8日、30年前のこの日、平成が始まりました。49歳の誕生日の春でした。そしてきょう、80歳の春です。昨年末の新聞記事、思想史家・渡辺京二氏の聞き書きシリーズに吉本隆明との出会いが語られていました。半世紀以上前、60年安保闘争後の時代です。吉本氏は安保闘争における共産党の批判を展開し、新左翼の思想的指導者となった詩人・思想家です。「政治的前衛」に対する批判など難しいことはわかりませんが、渡辺氏がその教えとして語る吉本語録の一つが印象に残りました。<人は育って結婚し子どもを育て死ぬだけでよい、そういう平凡な存在がすべての価値の基準である>何も成すことのなかった人生を振り返る季節に心に響きました。昭和64年1月8日

  • ヤマセミ飛翔5景

    ほぼ1年3か月ぶりの投稿です。1冊、2冊と、本の執筆に没頭していました。この3月、2冊目が刊行の運びです。心も軽く、戻ってきました。新年のご挨拶を兼ねてヤマセミの飛翔をお届けします。いずれも昨年の秋から年末にかけてキャッチしたものです。お相手は警戒心強く、繊細です。苦労しました。室内から窓越しとは思えないでしょう。ヤマセミ飛翔5景

  • 野鳥の名前を教えて?

    ずんぐり、むっくり形の鳥、大きさはヒヨドリほどと申し上げておきます。ベランダに面した書斎の窓を開けると、秋の日の陽だまりの中にいました。警戒心の強い野鳥のことですから、窓を開ける物音で逃げるはずですが。こんな格好で当方を不思議そうに見上げています。カメラを用意するために動いても動じる風もありません。けがをしているのか、体調が悪いのか・・・と思いながら1メートルほどに接近して撮ったのがこれです。もっと接写をと、欲張っていよいよ近づくと飛び上がって庭先の木の木陰に姿を消しました。野鳥の来訪は珍しくありませんが、これは初めての見参です。連れ合いにみせても初めてということでした。野鳥博士のご解説をお待ちしています。野鳥の名前を教えて?

  • 豪雨災害の痛ましい後遺症

    中国大陸の黄河支流ではありません。前夜の雨で黄化した昨日16日の筑後川本流の情景です。九州山地に発して西流し有明海に至る筑後川は、日田盆地(大分県)の渓谷を解放されて福岡県うきは市に達すると筑後平野を形成する中流域に入ります。平野の東端、中流域の始まりの河畔に建つ我が家から眺めた筑紫太郎。対岸は朝倉市杷木地区、右手上流は日田市に接します。九州北部豪雨。あの悲劇から一か月余。緑の里山は穏やかですが、山の裏側には山崩れの土砂と流木に蹂躙された山里の惨状があり、右手上流に接する日田市は一夜の雨で黄河に変身する現実があります。むき出しの土砂に埋もれた現状を訴えます。今でも雨の予報が出るとスマートフォンは緊急速報のアラームが鳴り、避難指示を訴える防災無線のアナウンスが絶えません。カモの群れが遊ぶ前ページの写真と対比してご...豪雨災害の痛ましい後遺症

  • カモの飛翔

    弥生3月になりました。このころの時候を表して古人は「雨水」と名付けています。ひと雨ごと、やわらぐ陽光の下で草木が芽吹き始めることを意味します。筑後川中流域の始まりと言える場所。幅100メートルほどの流れに面して我が草庵があります。年間を通じて野鳥の賑わいを楽しんでいることは以前にも紹介しましたが、きょうはカモの話題です。珍しい光景でした。いつも川面を自在に泳ぎまわり、時折水中にもぐって食を求めるカモたちが、20羽ほど団体で、まさに緑の芽が出始めた岸辺の砂地に上陸して物珍し気に徘徊している姿が見かけられました。初めての経験です。ここに写っているのは7羽ですが、ドジなカメラマンの気配に気づいて逃げる最後尾の、これまたドジたちの様子です。慌てて押した2回目のシャッターに収まったのが下の写真です。種類も含めて門外漢に詳...カモの飛翔

  • 「うむ」と「うまれる」の漢字表記

    本日もスポーツ報知の芸能面記事に関する苦言です。お笑いコンビ「爆笑問題」の田中裕二氏の夫人・山口もえさんが妊娠中で、ことしの夏の早い時期に出産の予定という目出度いニュースです。その喜びを伝えるもえさんのブログを紹介する記事の中にこんな文章がありました。《初夏に誕生する予定のわが子に「新しい命が誕生する日を、家族皆で心待ちにしております。今は、無事に産まれてくれることを第一に考えております・・・》。そもそも「産」という漢字を出生・出産の意味で用いる場合「女性が胎児を胎外へ産み出す」ことにあることは漢和辞典を開くまでもないと思います。赤ちゃん自身が生まれ出てくることを表すこの場合は「無事に生まれてくることを第一に考えております」とすべきでしょう。もえさんのブログをそのまま書き写したということも考えられますが、もしそ...「うむ」と「うまれる」の漢字表記

  • 報知新聞よ

    報知新聞(スポーツ報知)のルーツは、日本の郵便制度を整えたことで知られる前島密によって明治5年に創刊された「郵便報知新聞」です。郵便と新聞。「情報伝達」という意味で同じ価値観の土俵にあって、近代社会における情報伝達手段の必要性にいち早く気づいた異才の、その情熱の発露であったでしょう。そして、「報知」の名称は日刊新聞として明治の創刊以来、同じ題字を継承する唯一の新聞でもあることの誇りの証でもあるはずです。自由民権運動の志士たちが編集に携わり、黎明期の「報知」には若き大隈重信が明治10年の西南の役を「電信」でリポートし、東京市民に西南(九州)の戦況を伝えた逸話も残ります。犬養毅も尾崎行雄も原敬もこの新聞を舞台に活躍しました。大正時代に東京箱根間往復大学駅伝を創設したのも報知新聞・・・「エキデン」と世界で通用するスポ...報知新聞よ

  • 懐かしい木陰~音盤図鑑8

    このシーンに見覚えのある方はニッカ・ウイスキーの愛飲家で音楽を愛する少しハイカラで趣味のいい方ではないかと勝手に想像します。国産ウイスキーが、平成の現在、ちょっとしたブームだそうです。もちろん、和製ウイスキーのパイオニア、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝を主人公にしたNHKの朝のドラマ「マッサン」の波及効果です。今から30年ほど前になりますが、1980年代にウイスキーをさわやか、清澄なイメージで強く印象づけたテレビ・コマーシャルがありました。ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ(なつかしい木陰)」をイメージ・ソングにアメリカの新進ソプラノ、キャスリーン・バトルを起用した「スーパー・ニッカ」のそれです。みどり深い湖畔の風景を背景に純白のドレスをまとった歌姫のリリカルなソプラノは衝撃ということばがふさわしいほど新鮮...懐かしい木陰~音盤図鑑8

  • 火鑚り(ひきり)神事

    三春天満宮は当地、三春地区250世帯の心のよりどころです。12月9日の例大祭を前にした7日、西長瀬地区の祭主宅で「火鑚り神事」が執り行われました。3日間の祭礼の最初の行事。堅い木と木をこすりあわせて火を起こし、神前の燈明、供物の煮炊きに供する斎火(いみび)採る。木と木の摩擦熱で火を手に入れた太古の人々の暮らしの記憶を伝えて面白いと思います。ヒノキの角材をカンナで仕上げた「火鑚り臼」、スリコギの形をした「火鑚り杵」と丈夫な綱の3点が道具一式です。銅の部位に綱を二巻きほどした杵の先端を臼に垂直に強く押し当て数人がかりで両側から交互に引き合って回転摩擦で火を起こす仕掛けです。回転摩擦が適切に与えられれば5分ほどでヒノキの焼ける匂いとともに煙が立ち上り始めますが、それから発火までが正念場です。湿度環境を演出する天候次第...火鑚り(ひきり)神事

  • クリスマスの芸術歌曲とゴスペル~音盤図鑑7

    街はクリスマスモードです。異教徒の祭りのから騒ぎや歳末商戦に取り込まれるほどお人よしではないけれど、この季節になると取り出して聴き来たくなるアルバムです。その一枚、「アヴェ・マリア~レオンタイン・プライスクリスマス名唱集」です。1950年代から70年代を中心に活躍したアメリカの黒人のソプラノとカラヤン指揮ウイーンフィルという極上の組み合わせ、ほんとにほんとに見事です。プライスはカラヤンに見いだされてヨーロッパにデビューし、「カルメン」はじめ、カラヤン・オペラに欠かせないプリマドンナとして多くの音源、映像を残しています。このレコードは1961年の録音、30代半ばのみずみずしい声が聴かれます。選曲がすばらしい。「ジングルベル」などのような子どもじみたクリスマスソングではありません。そういう意味での「清しこの夜」や「...クリスマスの芸術歌曲とゴスペル~音盤図鑑7

  • 小春日和を写す

    旧暦では11月のはじまりです。1日正午。晴天、大気の気温12・5度。風もなく穏やか。青い空と筑後川の青。黄金色を深めている対岸(朝倉市杷木町)のイチョウとのコントラストの美しさにカメラを誘われました。川に面した専用小部屋の窓からの景色もほぼ同じ構図ですが、川面とイチョウと空を同じ構図に収めるために川べりに降りて撮りました。名所でもなんでもない田舎の風景がかえっていとおしさをそそります。霜月に入って正確には小春日和と言えないのかもしれませんが、「小春日和の秀景」と自賛したい一写です。小春日和を写す

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、平成うきは拾遺集(しゅういしゅう)さんをフォローしませんか?

ハンドル名
平成うきは拾遺集(しゅういしゅう)さん
ブログタイトル
平成うきは拾遺集(しゅういしゅう)
フォロー
平成うきは拾遺集(しゅういしゅう)

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用