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長崎めぐみ教会 tearoom 2 https://blog.goo.ne.jp/nagasakimegumi

日本イエス・キリスト教団 長崎めぐみ教会から、楽しいお知らせ、牧師のつぶやき、日記、メッセージなどお

長崎めぐみ教会 tearoom 2
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2015/07/03

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  • 「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)からー12-

    4.真理としてイエスを見る(5)p81このような私たち自身と神とについての真理の啓示に対して、私たちはどのように応答しべきでしょうか。神が私たちに求めておられる応答は、私たちが当然考えるようなものとはずいぶん趣を異にしている。ヨハネによる福音書3章20節には、「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない」としるしてある。このことは、私たちが隠したい罪をもっていると光をきらう、すなわち私たちの姿をむき出しにするいっさいのものを避けるという意味である。続いて次の節には、「しかし、真理を行っている者は光に来る。その人の行いの神にあってんされたということが、明るみにされるためである」とある。私たちは、「悪を行っている者は光を憎む」と書いてあったら当然続きの文は「善...「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜馨訳)からー12-

  • 一人の雨の休日に

    2019年5月13日(月)朝10時、聖会祈り会の為、車で福岡に向かう。佐賀吉野跡から山を越え、山々の新緑に圧倒されつつ福岡へ入る。K牧師の奨励は、復活の朝、女たちが墓に行ってみると、石は墓からころがしてあった、という箇所から、漠としていた信仰の世界が具体的に現されていくようだった。参加者は少ない中にも、お一人一人の牧師先生方の証が、あまりにも信仰が生きているので、思わず心の中で、「ヤッパリ、来てよかった!」と、主を賛美していた。15日(水)聖書研究祈り会インマヌエル教団の藤本満先生のDVDメッセージ、2作目は、スミルナにある教会に向けてのメッセージ。スミルナ教会が受けた苦難から、クリスチャンが受ける苦しみについて、26聖人も例にあげて、語りかけられ、一同恵まれる。祈祷会後、五島から帰ってこられたH姉の歓迎会を兼...一人の雨の休日に

  • 「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-11-

    4.真理としてイエスを見る(3)p55・・・・・・営所の外とは、「イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がない」(エペソ・2・21)外国人の居住区であった。普通これらの外国人は営所の中に住むことを許されなかったのである。営所の外はツアーラト(ハンセン氏病)の人のいる所でもあった。この病の持つ伝染性のために、いっさいの生活の喜びから除外されていたのである。そこはまた、律法違反者および犯罪者を処刑する恐ろしい場所でもあった。モーセの律法によれば、姦淫の者、安息日を破った者、偶像礼拝者、殺人犯、石を投げて殺されることになっており、その処刑の場が営所の外であった。しかし、使徒はここで、おそらく営所の外の最も陰惨と思える面を描写しているのである。そこは、人の罪のために聖所に注ぎかける血を提供した家畜の死体...「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜馨訳)から-11-

  • 「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-10-

    4.真理として神を見る(3)p51・・・真にイエスを見ることは真理を見ることにほかならない。真理としてのイエスをどこで見るかと尋ねられたら、その至高の姿はカルバリの十字架上にあると答えたい。私たちはそこにおいて、罪、人、および人の対決すべき神についての裸の真理を彼のうちに余すことなく見る。十字架は人に対する最も豊富で甘美な神の恵みを現わすと同時に、人間についての真理を最も鮮明に描写している。もし恵みがカルバリより流れて来るとしたら、真理もそこから来るに違いない。なぜなら「めぐみとまことは、イエス・キリストをとおしてきたのである」から(ヨハネ1・17)。ここで以上のことを例証してみよう。患者は医師の異常な関心と最悪を予想させる処置を見て初めて、自分の病気の重さがわかる。まだ検挙されていない法律違反者は、自分と同じ...「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜馨訳)から-10-

  • 「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-9-

    4.真理として神を見る(2)p48悪魔は今もなお私たちの回りに相変わらず偽りのくもの巣を巻き付けている。彼は私たちが善良な人間であり、敬虔なキリスト者であるから、自分自身の生活について気にかけることは少しもないと言っている。また神というおかたは額面どおりにはきよくなく少しぐらいは妥協されるかただと偽り、あるいは神は私たちを愛しもせず、公平に扱ってはおられないと言う。そしてこの言葉を信じてしまうところに、相変わらず私たちの悲劇がある。そのため私たちは物事のありのままを見る視力を失い、自己について全くの錯覚状態に陥っているのである。とは言うものの、この責任が皆悪魔にあると、彼だけをきめつけてはならない。私たちの心の中には彼の忠実な味方がいるからである。ヨハネ第一の手紙1章には、私たち自身についての錯覚状態を築き上げ...「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜馨訳)から-9-

  • 「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-8-

    4.真理としてイエスを見る(1)p46イエス・キリストが私たちの必要を満たすおかたであることを知って、私たちは心からの感謝をささげた。では私たちの最初にして根本的な必要とはなんであろうか。それは真理ーー私たち自身および神についての真理ーーを知ることである。それがわからないうちは、私たちは鎖国の領域に住んでいることになり、恵みの世界については無感覚である。私たち自身と神についての真理がはいって来て、私たちが住んでいた錯覚の建物が破壊されることが、失われた人にとっては救いであり、キリスト者にとっては信仰復興のはじまりである。自分自身についての真理を見て、その挑戦に十分な回答を与えないうちは、イエス・キリストの顔にある神の恵みを見ることができないのである。この「真理」という言葉は重要な言葉である。この章に大きな貢献を...「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜馨訳)から-8-

  • 5月つれづれなるままに

    5月6日(月)今日でゴールデンウイーク終了。しっかり、悔いなく休息をとらなければ・・・と、思いつつも、明日のトワイアルレッスンの調整で明け暮れる。7日(火)朝、長大生のレビさんから、「体調を崩したので、トワイアルレッスンの日程を延ばして欲しい」との連絡が入り、ビッシリだったスケジュールに風穴があき、ホットする。11時住吉のショッピングセンターでミレットさんに会う。南アフリカ共和句の隣国にあるゼルバブルという、人口7億の大国からご夫妻で来られているそうだ。長大院生の好青年のご主人と、お二人に挨拶をする。その後、ミレットさんは、時津イオンまでドライブをし、フードコートでお茶を飲みつつ30分ほど、面談をする。1時過ぎ、ココウオークで、オーケーさんと会う。ニューヨーク大学院を卒業され、長崎で教育支援もされている方だ。ジ...5月つれづれなるままに

  • 「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-7-

    3.いっさいの必要としてイエスを見る(2)p42神がご自分の民の罪以外の必要を満たす場合には、イエスをつかわされなくても事が足りた。事実旧約聖書の場合にはそのようにされたしまた私たちの時代にも引き続いてそのようにすることがおできになった。しかし罪人としての民の必要となると、どうしてもイエスでなければならなかったのである。それ以外に方法はなかった。罪の価を払うために、それ以外のよきものはなかった。そのため神は御子イエスを惜しまれなかったのである。神は私たちを愛するあまり、ご自分の栄光の輝きでありまた本質の形であるイエスを地上に送られた。そしてこのイエスは、自らの血を流すことによって、私たちのために罪からの十分な贖いを成し遂げ、さらに復活された救い主として、絶えず、罪人としての民が必要とするいっさいのものとなってお...「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜馨訳)から-7-

  • 「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-6-

    3いっさいの必要としてイエスを見るP35・・モーセは、燃えるしばのもとで神の御前に頭をたれ、彼をイエスラエルの民に遣わそうとしておられる神にどのような名前をつけたらよろしいのでしようかと尋ねた。それに対して神はこう答えられた。「『わたしは、有る者』。・・・イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました。・・・あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(エホバ―「英訳」)が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々わたしの呼び名である」(出エジプト3・14、15)。この時以来神の名はエホバとなったが、この言葉はヘブル語の「わたしは有る」という語と同じ源から出ており、また同じ意味をも...「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜馨訳)から-6-

  • 「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-5-

    2イエス・キリストの顔の中に神を見る(2)p32ここで私たちは、「イエスを見る」とは実際に言ってどのようなことであるか、自らに問いかけねばならない。おそらく、それがどのようなことではないかを調べることが、私たちの理解の助けとなるであろう。イエスを見るということは、神秘的な方法で彼を見たり、いろいろなビジョンを見ようと努力することではない。ある人がイエスを見ているかと尋ねられた時に、「ええ、いつでも私は心の中で、イエスの肖像画を描こうと努めています」と答えたということである。ある人たちはビジョンにつかれているが、ビジョンは追及されるべきものでも、誇りとされるべきものでもない。パウロは自分が見たことについて非常に控えめである(第二コリント12・1-7)。ビジョンを見たということは、必ずしも他の者よりいっそう主イエス...「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜馨訳)から-5-

  • 「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(小浜 馨訳)から-4-

    2イエス・キリストの顔の中に神を見る(1)p25弟子たちは、神はどうしても測り知ることのできないお方であると悩んでいたが、そのうちのひとりがある日、主イエスに、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうしてくだされば、わたしたちは満足します」と言った。主イエスはこれに答えて、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14・9)とい驚くべき声明をされた。のちになってパウロは、新約聖書の中でコロサイ人に向い、同じことを言っている。「御子は見えない神のかたちであって」(コロサイ1・15)。さらに彼はコリント人に、「神はキリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らして下さった」(第二コリント4・6)と言っている。ここで私たちの理解を最も助けてくれるものは、イエス・キリストの顔の中に神の...「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(小浜馨訳)から-4-

  • 「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(小浜 馨訳)から-2-(続)

    1神を見ることー人生の目的(2)p18・・・私たちが自分かってに定めたゴールは、神が私たちのために意図しておられる偉大なゴールに比べると、いかに未熟なものであるかがわかるだろう。しばしば神への奉仕ないしは活動に専念することは、私たちが真のゴールである神ご自身をとらえるのを積極的に妨げることがある。神と同胞の奉仕のために生涯を打ち込むことは、一見して英雄的な行為のように思える。そのようにすることによって、私たちは神経験よりは神ご自身をより多く目的としているように感ずる。・・しかし・・・神が最大の関心を示しておられるのはご自身に対する私たちのひややかな心であり、高慢で砕かれない私たちの性質である。・・p19自分は神のために働いていると考えるが、私たちの奉仕が神にとってどんなに無価値なものであるかは、それが他の者の行...「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(小浜馨訳)から-2-(続)

  • 「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(小浜 馨訳)から

    P9~1神を見ることー人生の目的私のゴールは神ご自身である。喜びや平安、あるいは祝福でもなく、私の神ご自身である。人生の目的は何か。大部分の人たちはこの質問の解答を得ようと真剣である。私たちの心中の衝動、切望、願いは、私たちをいろいろな方向に押したり引いたりするが、これらのものは私たちに満足を与えないように思われる。私たちはうらやましそうにほかの人をながめ、彼らの生活の方がいっそう充実しているように想像する。・・・しかし、実際にそれらの賞や快楽を自分のものにしたら、自分が以前よりも幸福になっていないことを知るのである。また、年をとればとるほど欲求不満にかられ、「人生の目的は何か、どのようにしてそれを見出すのか。また、どのようにして、自分が見いだしだものが正しいと見定めることができるのか」と、自問自答するようにな...「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(小浜馨訳)から

  • 「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(小浜 馨訳)から

    今は、絶版になっている、ロイ・ヘッション著「神を見る生活」この著書との出会いは、私にとって、2019年ゴールデンウイークの魂の大いなる収穫でした。P2私たちが求めるのはただイエスを見ることだけだそこから力と喜び、勇気がわいてくるイエスは死んでよみがえり今とりなしておられるこの方を見つめれば暗き夜は去りとわの朝がやってくるP3~4『恵み』の定義について私たちが神から受ける祝福とか影響とかではなく、むしろ人に対する神の態度を支配する神の属性であり、したがって、神が無条件に与えられる愛と恩寵として定義することができよう。ローマ人への手紙11章6節には、「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである」と書いてある。恵みの本質をなすものは、それを受ける資格の...「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(小浜馨訳)から

  • 深みへ乗り出せ!

    29日(月)朝から雨!セミナー出席の予定は没になり、体調を崩して、お腹を押さえて、ウンウンとうなりながらゴールデンウイークの月曜が始まる。これもまためぐみかもしれない。30日(火)少し、体調がもどり、今日はお粥で一日を過ごす。体力が乏しいので、天を仰ぐほかなく、それがまた恵みになった。ただ、神を仰ぐ一日。「ハロー先生ドットコム」に登録。3000円の会費も支払った。夕方ひさしぶりのイオンでの買い物。5月1日(水)教会令和元年がスタート。早天の祈りの際、いつもになく深い霊の注ぎを覚えた。誰かが、私のために、長崎めぐみ教会の伝道の業のために祈っていてくださるという思いがしきりにする。祈祷会メンバーは出計らっていて、午前の祈祷会は休会とされたので、私はピンポン(チャイムの音)伝道の為の教会案内作りをした。「新しい人生は...深みへ乗り出せ!

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